三浦俊彦による書評

★ ウラジーミル・ナボコフ『ディフェンス』(若島正訳、河出書房新社)

* 出典:『日本ナボコフ協会会報 Krug』Vol.Ⅰ-No.2(2000年4月)掲載


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 白状すると私は、ヨーロッパ文化絶対主義者である。とりわけ16世紀以降の近代ヨーロッパ科学文明というものが人類史に生じたのは、ほとんど奇跡だと思っている。生物進化の系統樹の何千と分かれた末端のうちただ一つホモ・サピエンスだけが「文明」を発達させたのと同様、何百という文明のうちただ一つ、ヨーロッパ文明だけが「科学」を発達させた。芸術や宗教に相当するものは、生物における目や爪と同様、放っておいてもどこにでも独立に自然発生するが、ただ一つ理論科学だけはヨーロッパにしか生じなかった。いま人類史をチャラにして、始めから文明の構築をやり直したとしたら、人類は重力法則や遺伝子の発見には永久に辿り着けないのではなかろうか。テレビもコンピューターも想像すらされなかっただろう。近代ヨーロッパのおかげで私たちは、かくも変化に富んだ刺激的な世界に住むことができている。科学だけではない。西洋クラシック音楽の深遠な魂の震えに触れたとき、他の文化圏の音楽など全部吹っ飛んでしまうと感じるのは私だけだろうか。極端な話、これから異星文明と交流するさいに(現代欧米文明の域に達しえた知的生物がこの大宇宙にあともう一つあるとは信じられないのだが)人類の歴史を伝えるとして、ヨーロッパ史以外の流れは一切無視してかまわないとさえ私は思っている。
 というふうに筋金入りのヨーロッパ崇拝者、文化的非国民の私なのであるが、しかしその私にしても実は、前段落で述べたことを心底信じきるには今いちためらいを覚えざるをえないのである。なぜか? それは、科学とも芸術とも関係ない、いやどちらとも関係するとも言えるある文化――ボードゲームという文化を彼我見比べたときにしみじみと考え込んでしまうからである。
 西洋人というのはなぜあんなもので満足できているんだろう、とつねづね不思議でならなかったのだ。チェスのことである。日本の将棋や碁に比べて、全然つまらないではないか。とくに終盤、閑散たる単純さへ薄れてゆくシラケ度は、最後の一手まで熱渦沸騰しまくる将棋の複雑怪奇とはえらい違いだ。ゲームとしての質の差は歴然だろう。西洋人は娯楽に対する感度が鈍いんだろうか。もしかしてほんとは頭が悪いんじゃないか。
 そんな偏見を根底から覆してくれたのは、レイモンド・スマリヤン『シャーロック・ホームズのチェスミステリー』(野崎昭弘訳、毎日コミュニケーションズ)だった。その本で私は、チェスへの認識を改めた。とくに、チェス・プロブレムの一種として「レトロ解析」というパズルが発達していることを知ったのが大きい。与えられた現在の局面から、過去の着手や局面、駒の経歴などを論証するというレトロ解析に類するものは、将棋では見たことがない。詰め将棋は常に未来へ向かうパズルだからだ。未来と過去がある意味で対称的であるというニュートン力学的時間論は、なまじ複雑な将棋のカオス世界とは相容れないのだろう。この決定論的シンメトリーの美学からこそ、絢爛たる知的パズルの殿堂が展開していたのである。うーむ、やはりヨーロッパは偉かったのか?
 チェス・プロブレム作家でもあったというナボコフの小説『ディフェンス』にも、当然のように、このシンメトリー美学が浸透している。たとえば主人公のルージンは、後に妻となる女にハンカチを拾ってもらったその出会いの日以来、「ぼんやりとほとんど無意識のうちに……彼女が何か落としはしないかといつも注目していた――何かひそかな対称性を見出そうとでもするかのように」。こうした偏執狂的な秩序への帰依は、抽象的なプラトン的実在観と表裏をなす。「通り過ぎていくかと思うと突然前進してきて広場にある馬の石像を取り囲むぼんやりした街灯の列は、木製の駒と黒白の盤みたいに習慣的で不必要な外皮であり、彼はその外的世界をやむをえないがまったく興味のないものとして受け入れていた」。本当に存在するのは構造と秩序だけであり、たまたまどのような具体物がそれを担っているかはどうでもいい。世界は同質の互換可能な単位が寄り合って織り成す純粋形式へと還元される。
 そのような世界観を実感として抱いた人間にとっては、自らの個性というものも絶えず風前の灯のように揺らいでいるだろう。そんなルージンを最後まで受け入れつづけるのは、「外国語の辞書で単語を引いてみたら予想通りの意味だったような満足感を味わっ」ては日常の一々に努めて納得してゆく妻である。共感も好奇心も危惧感も、すべて予定調和に則っている。それでもやはり、いったんチェスを捨てたルージンのまわりにチェスの誘惑がちらつくたびに妻は怯えざるをえない。その彼女の動揺が、結末をうすうす悟っているようでありながら、懸案の手番がいつ回ってくるか、それともルージンが「謎の対戦相手の狙い」に陥ちてしまうのか、いつ陥ちるかいつ陥ちるかと読者の意識を複雑に共振させ、一寸先は闇のサスペンス小説、ほとんど恐怖小説的な磁場を形成していく。
 決定論的抽象世界の無形無色の駒であればこそ、主観的には不確定の波間に足掻かねばならないという逆説が仄見える。ルージン夫人最大の危機の一瞬であった映画館でのチェス場面で、ルージンは「あんな駒の配置って絶対にありえないよ」と笑う。ここがチェス特有の洞察だ。将棋だったら、各々の駒としてルール上許されている位置の集合であれば、どんな全体的配置だろうが生じうるだろう。いってみれば個人は全体を無条件で信頼しうる。チェスはそうはいかない。一つ一つの駒には可能な位置の合計が、不可能な全体を構成してしまうことがありうる。個々の集積が全体を決定しはしないのだ。
 だからこそルージンは、運命の先を読もうとしながらも、一つにはどうせ逃れられないという決定論的諦めに打ちひしがれ、もう一つには、自分を取り巻く全体が実は「ありえない配置」ではなかろうかという疑念におそらく囚われていた。チェスの場合は、自分や周囲の人々という部分部分を見ていたのでは、全体の本性がわからない。だからルージンは、人生はしょせんチェスだという無力感と同時に、人生は正規のチェスではないかもしれないという不条理感に苛まれることになる。この二律背反的懊悩は、実際『ディフェンス』はチェスではなく小説なのだから、しかし一方でルージンらは作者ナボコフの意思のままにあやつられる駒でもあるのだから、まさに正しい懊悩だということになる。若島正が訳者解説で述べる「人生がチェスのように見えてくるというルージンの認識に対して、その逆で人生がチェスのように割り切れるものではないという厄介な要素」とは、若島が言うような「駒たちはつまるところさまざまな矛盾を抱え悩みを持った人間たちなのである」という事情よりもっと根深く、チェスというゲームの非線形の全体論的特性そのものに由来すると思えてならないのである。
 といったようなチェス論理の枠内での大まかな解釈は別として、この小説の仕掛けやディテールの数々を、正直言って私はほとんど解読できた気がしなかった。難しい小説だったという感想は否めない。とりわけ、重要であるに違いない冒頭と結末、すなわち姓で呼ばれること、名と父姓で呼ばれることがそれぞれロシア人にとってどういう情緒や感触を醸し出すものなのか、といったことを味わう素養も私にはなかった。ただきわめて暗示的だと思ったことが一つある。チェスプレイヤーであるルージンがしばしば音楽家に擬せられていることだ。前述したように、西洋文明の優位を圧倒的に印象づけるのが、科学と並んで音楽なのだとすれば、ルージンはまさに西洋文明の権化ということになろう。ただし作者も主人公も、西洋文明代表というにはやや辺境に逸れたロシアの出身だ。このことが、チェス論理や科学的決定論で割り切れない、えもいわれぬ陰翳をこの小説に与えているように思われる。

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