計算機科学者・坂間千秋との導入的討論

 以下は、計算機科学者・坂間千秋氏よりいただいたeメールに端を発した往復メールである。
 (以後、不定期更新)

 坂間氏HP: http://www.wakayama-u.ac.jp/~sakama/j-index.html


◆◆◆

2005年2月7日 10:38

三浦俊彦 様
貴著、パラドクス3部作、楽しく読ませて頂いております。
関連書籍と比べて、その考察の深さに感心することもしばしばです。

さて、「心理パラドクス」072問(1)の答えについて、
 4.A, 5.A, 6.B となっていますが、正しくは
 4.B, 5.B, 6.A ではないでしょうか?

理由:
4. 「この本と個々の文」
個々の文は「本」という文の集合の要素である。

5.「あなたと個々の細胞」
個々の細胞は「あなた」という細胞の集合の要素である。

6.「トカゲと爬虫類」
「トカゲ」は個々のトカゲの集合であり、爬虫類の部分集合である。

坂間千秋
 和歌山大学システム工学部
 http://www.wakayama-u.ac.jp/~sakama

◆◆◆

2005年2月7日 18:25

坂間千秋 様
           三浦俊彦

 有意義なご指摘ありがとうございました。
 なるほどといった感じで、とくに6に関しては少し考え込ませていただきました。
 3項目について順に私見を述べさせていただきます。

> 4. 「この本と個々の文」
> 個々の文は「本」という文の集合の要素である。

 ●本の中の文がだらだらと句点ナシで続いて、どこで区切るべきかわからないような場合もありうる。つまり、文という単位が、どこで区切ってもよい部分であって、境界のハッキリした要素にはなっていない場合が想定できる。そうでない普通の本でも、文と文が有機的に結びついて、句点の区切りにとらわれない意味上の単位を形成することが多い。個々の文は、本全体の確定要素と言うより、境界不確定な部分と言うべきでしょう。
 ●章末の文が「章の先頭の文に戻れ」という指示になっていて、同じ文を何度も読ませるループ構造の小説を考えます。同一文を何度も別個の単位として勘定させるので、文は、集合の要素としてではなく、全体の部分として登場していると言うべきでしょう。これは、そうしたループを持たない通常の本と文との関係にも一般化できると思われます。

> 5.「あなたと個々の細胞」
> 個々の細胞は「あなた」という細胞の集合の要素である。

 ●細胞をシリコンで置き換えていっても、その人が別人になるわけではない。脳以外のすべての臓器を、そして皮膚や筋肉や骨も細胞でない人工物に代替しても、そして脳ですら記憶移植したコンピュータに入れ替えても、その人の同一性が失われるとは思えない。個々の細胞は、たまたま当人を形成している、偶然的な材質(部分)であると考えられます。
 ●細胞Aの中の分子bを考えます。bがAから離脱して細胞Cに移ったとしても、依然としてbは、人間全体の構成部分であり続けるでしょう。これは、細胞AやCが人間の要素ではなく、部分である証拠ではなかろうか。
 ●もし「私」が個々の細胞の「集合」だとしたら、「私」は抽象的な実体ということになります。しかし、個々の細胞どうしの因果的相互作用が保たれていないと、「私」は「私」とは言えないでしょう。これは、文どうしが有機的に関連して初めて本となるのに似ています。サッカーチームや国会であれば、メンバーが個々バラバラに一集めにされただけでも概念的に成立しますが、一群の細胞ないし文をドサッと、配列も物理的相互作用もなくそろえたからといって、そこに人間や本が成立しているとは言えません。

> 6.「トカゲと爬虫類」
> 「トカゲ」は個々のトカゲの集合であり、爬虫類の部分集合である。

 ●これはたしかにむずかしいですね。調べてみると、「爬虫類」は俗称で、正確には「爬虫綱 Reptilia」、その中に、ワニ目、ムカシトカゲ目、トカゲ目(トカゲ亜
目、ヘビ亜目)、カメ目などが分類されています。文学部の中に、哲学科、美学科、西洋史学科、英文学科、言語学科、社会学科などが分類されるのと同じようなものか。同じ人間が、哲学科のメンバーでありかつ文学部のメンバーでもある、と考えられるから、哲学科は文学部の要素ではなく、部分集合であると言えますね。偶数-整数の関係と同様です。しかし「爬虫綱」は、個々のトカゲやワニの個体をメンバーとしているのだろうか。そうではなくて、ワニ目やトカゲ目やカメ目を要素とする純粋な分類概念ではないか、と思われるのですが。
 ▲しかしそもそも「トカゲ」がトカゲ目のことだとして、それが個々のトカゲを要素とする集合だと認めるならば、アゴヒゲトカゲとかエリマキトカゲのような細かい種は(個々のトカゲを要素とするのは当然なので)、トカゲの部分集合ということになりますね。同様に考えると、トカゲ目も爬虫綱の部分集合ということになる。
 ■しかし――さらにしかし、です――そもそも個体aについて「aはアゴヒゲトカゲだ」というときと、「aはトカゲだ」というときでは、論理的な文法構造が同じだろうか、という疑問はあります。「……は~~だ」の意味が異なるのではないか。「aは爬虫類だ」という発言が日常めったにされないことからもわかります。「aは爬虫類だ」と言うとしたら、次のことの省略形でしょう。「aはアゴヒゲトカゲの一員であり、アゴヒゲトカゲはトカゲ目の一員であり、トカゲ目は爬虫類の一員である」。
 「aはトカゲだ」がよく言われるのは、正式な種名がわからないので、省略して目の名を言っているに過ぎないとも考えられます。
 (哲学科と文学部の例も、ある学生が属しているというときのメンバーシップの意味が異なる可能性がある。)
 ★これは、私のような分析哲学をやっている者にとっては重要な問題であります。こういう問題は生物学者に問い合わせても必ずしも的確な答えは返ってきませんしね。ご指摘ありがとうございました。

 HPを拝見しましたが、ご専門には「人工知能」もおありだとのこと、興味深く思いました。
 拙著『心理パラドクス』の章タイトルに「人工知能」という語を安易に使っているところなど、まことにお恥ずかしいですが、また何かお気づきの点ありましたらお便りいただけると嬉しく思います。
 爬虫類に関しては、少し考えてみようと思います。[トカゲ-爬虫類]関係が[偶数-整数]関係とは違うことは確かだと思われますが、「人間」「本」などと並んで日常言語の「爬虫類」が曖昧であることを差し引いても、考える価値はあると思っています。
 素人ながら考えるに、人工知能に概念を持たせる場合、爬虫類とトカゲを階層的に(ラッセル的に別タイプに、集合-要素関係で)区分させるのと、平面的に同階層で(同タイプの全体-部分関係で)重ねさせるのとでは、AIの持つ概念枠組みというか世界観がだいぶ異なってきそうですね。

 とりいそぎで乱雑でしたが、ご容赦ください。
 それでは。

◆◆◆

2005年2月8日 14:17

早速のお返事ありがとうございました。
以下、三浦様のご意見に対するコメントです。

>
>  ●本の中の文がだらだらと句点ナシで続いて、どこで区切るべきかわからな
> いような場合もありうる。つまり、文という単位が、どこで区切ってもよい部
> 分であって、境界のハッキリした要素にはなっていない場合が想定できる。そ
> うでない普通の本でも、文と文が有機的に結びついて、句点の区切りにとらわ
> れない意味上の単位を形成することが多い。個々の文は、本全体の確定要素と
> 言うより、境界不確定な部分と言うべきでしょう。


文と文が有機的に結び付いて意味上の単位を形成する場合、
それは例えば「章」という部分を構成します。
しかし、もし個々の文が部分である、すなわち、「文 ⊂ 本」
という関係が成り立つとすると、「文」はそれ自体、集合となりますが、
この場合、集合「文」の構成要素は何でしょうか?

集合「文」=「文に含まれる文字の集合」ではないですね?
なぜならば、集合に含まれる要素は順序や出現頻度に無関係ですが、
ある文中の文字をシャッフルするともはや意味のある文ではなくなります。

では、集合「文」の構成要素が「文」自体であるとするとどうなるか?
区別するために集合としての「文」を S とし、S の構成要素としての文を s と
すると、
s ∈ S が成り立ち、
S ⊂ Book が成り立つので、これらから s ∈ Book が成り立つ。
即ち、文 s は本 Book の要素である、といえます。

しかしながら、本は個々の文の集合であるというのも問題があります。
即ち、上述したように集合はその要素の順序に無関係ですが、
本に含まれる文の順序をランダムに入れ換えると、
全体のストーリー性が失われるからです。

>
>  ●もし「私」が個々の細胞の「集合」だとしたら、「私」は抽象的な実体と
> いうことになります。しかし、個々の細胞どうしの因果的相互作用が保たれて
> いないと、「私」は「私」とは言えないでしょう。これは、文どうしが有機的
> に関連して初めて本となるのに似ています。サッカーチームや国会であれば、
> メンバーが個々バラバラに一集めにされただけでも概念的に成立しますが、一
> 群の細胞ないし文をドサッと、配列も物理的相互作用もなくそろえたからと
> いって、そこに人間や本が成立しているとは言えません。


上述の同じ問題は細胞を「部分」としても生じると思われます。即ち、
数学的には集合 A は A の部分集合 A1,...,Ak により直和分割することが可能で、
A=A1 U ... U Ak という関係が成り立ちます。
ここで、A:「私」、A1,...,Ak:細胞(群)と考えると、Ak ⊂ A という包含関係は
成り立ちますが、このような A の分割には「因果的相互作用」というものは
含まれていません。即ち、細胞を「部分」として捉えたとしても、
それらの「部分」を集合的にマージして「全体」を構成した結果は
「人間」にはならないということがいえると思います。

結論としては、「本と個々の文」「人間と個々の細胞」のような場合は、
「全体」が「要素」や「部分」の単なる寄せ集め以上であると考えられ、
数学的概念である「集合」の包含関係やメンバーシップ関係で捉えることに
無理があるため例題として適切でない、というのが私の見解です。

>
>  ■しかし――さらにしかし、です――そもそも個体aについて「aはアゴヒゲト
> カゲだ」というときと、「aはトカゲだ」というときでは、論理的な文法構造
> が同じだろうか、という疑問はあります。「……は~~だ」の意味が異なるので
> はないか。「aは爬虫類だ」という発言が日常めったにされないことからもわ
> かります。「aは爬虫類だ」と言うとしたら、次のことの省略形でしょう。
> 「aはアゴヒゲトカゲの一員であり、アゴヒゲトカゲはトカゲ目の一員であ
> り、トカゲ目は爬虫類の一員である」。
>  「aはトカゲだ」がよく言われるのは、正式な種名がわからないので、省略
> して目の名を言っているに過ぎないとも考えられます。
>  (哲学科と文学部の例も、ある学生が属しているというときのメンバーシッ
> プの意味が異なる可能性がある。)


私は「a はアゴヒゲトカゲだ」「a はトカゲだ」の論理的文法構造は同じと考え
ます。
集合の記法で書くと、前者は「a∈アゴヒゲトカゲ」、後者は「a∈トカゲ」となり、
両者の論理的構造は同じ。ここで、「アゴヒゲトカゲ」「トカゲ」はそれぞれの
個体全体からなる集合で、「アゴヒゲトカゲ ⊂ トカゲ」の包含関係があります。

「a は爬虫類だ」という場合は「aはアゴヒゲトカゲの一員であり、...」の
省略形ではなく、発話状況で「爬虫類」というクラスが意味をなすからだと思い
ます。
例えば、a というアゴヒゲトカゲが恒温動物か変温動物かを議論しているとすると、
a は爬虫類だから変温動物である、というでしょう。もし、a はトカゲか
ヤモリかを議論していれば、「a はトカゲ目なのでトカゲだ」というでしょう。
したがって、「 a はトカゲだ」というのは、その発話状況に依存するものであり、
正式種名がわからないからという単純な理由ではないと思われます。

日常的な例でいうと、我々はクマゼミはゼミの一種であることは知っていますが、
7月始めにクマゼミの声を聞いて「あそこで鳴いているのはセミだ」などといい
ます。
これは、鳴いているセミが何ゼミか知らないから省略して「セミ」と言っている
のではなく、この発話状況においてセミの種類は重要ではなく、
セミという昆虫が鳴き始めたことが重要であるからだと思われます。

>  素人ながら考えるに、人工知能に概念を持たせる場合、爬虫類とトカゲを階
> 層的に(ラッセル的に別タイプに、集合-要素関係で)区分させるのと、平面
> 的に同階層で(同タイプの全体-部分関係で)重ねさせるのとでは、AIの持
> つ概念枠組みというか世界観がだいぶ異なってきそうですね。


AI では集合-要素間の関係と全体-部分の関係の区別は必ずしも厳密になされて
いません。
例えば、意味ネットワークにおいて爬虫類とトカゲを集合-要素間の関係で表現
すると

爬虫類(トカゲ)

のように表現することがありますし、全体-部分関係で

IS-A(トカゲ、爬虫類)

のように表現することもあります。このような曖昧性を意味ネットワークの
問題点だと批判する研究者もいます。AI における概念階層に関する議論に
興味がございましたら、AI の分野では古典的に有名な以下文献をご参照下さい。

R.Brachman. What is-a is and isn't: an analysis of taxonomic links in
semantic networks, IEEE Computer vol.16(10), pp.30-36, 1983.

W.A.Woods. What is in a link: Foundations for semantic networks.
In D.G.Bobrow and A.M.Collins (eds.), Representation and Understandings:
Studies in Cognitive Science, pp.35-82, Academic Press, NY, 1975.

坂間千秋(和歌山大学)

◆◆◆

2005年2月10日 2:15

坂間千秋 様
                    三浦俊彦

 メールありがとうございました。

 今回のご指摘もごもっともです。

 が、「数学的概念を具体物に適用するのは間違い」というご指摘を文字通り受け止めると、リンゴの個数を数えるのに足し算が使えないことにもなりかねません。まあそれについては後述として、まずは、
 文-本と細胞-人間の場合はほぼ類比的に考えられるので細胞の場合に限定してお答えすると――

> 上述の同じ問題は細胞を「部分」としても生じると思われます。即ち、
> 数学的には集合 A は A の部分集合 A1,...,Ak により直和分割することが可能で、
>
> A=A1 U ... U Ak という関係が成り立ちます。
> ここで、A:「私」、A1,...,Ak:細胞(群)と考えると、Ak ( A という包含関係は
> 成り立ちますが、このような A の分割には「因果的相互作用」というものは
> 含まれていません。即ち、細胞を「部分」として捉えたとしても、
> それらの「部分」を集合的にマージして「全体」を構成した結果は
> 「人間」にはならないということがいえると思います。

 全体と部分の関係という場合、全体を連続した総体と考えて、その中の任意の部分を単位として括っても、全体としての存在位相は不変と言えます。たとえば、因果関係も込みで、隣り合った細胞二つずつを単位とするか、十個ずつを単位とするか、あるいは半分ずつを単位とするか、はたまた臓器ごとに何兆もの細胞ごとに単位とするか、分け方は任意です。どう分けても、全体は、依然として同じ人間と言えるでしょう。人間が細胞の「集合」であったとしたら、細胞一個以外の単位、たとえば臓器などのパーツごとに分けて考えた場合は、最早同じ意味で人間とは考えられないはずですが、そうはなりません。これはやはり、細胞が人間の要素ではなく、部分であることの証しではないでしょうか。部分だからこそ、因果関係込みでどこで区切っても(どこからどこまでを細胞の境界と考えても)自由というわけです。

> 結論としては、「本と個々の文」「人間と個々の細胞」のような場合は、
> 「全体」が「要素」や「部分」の単なる寄せ集め以上であると考えられ、
> 数学的概念である「集合」の包含関係やメンバーシップ関係で捉えることに
> 無理があるため例題として適切でない、というのが私の見解です。

問題文の中で、私は次のような但し書きを付けました。
 「具体的対象の場合は、比喩的に⊂や∈で表わせるだけのことも多い。たとえばAとしては、素材と作物、部品と製品の関係などがあり、Bとしては、惑星と太陽系、国民と国の関係などがある。」

 数学的対象の場合は、⊂か∈かの識別はとくに問題にならないでしょうから、問題化するとしたら、日常の具体的対象に適用した場合です。そのとき、ある程度ルーズに⊂や∈を用いざるをえませんが、日常の具体的対象を抽象化して考えることができるので、(ちょうど2個のリンゴと2個のリンゴの目に見えない破片や蒸気は無視し本体だけ抽象して2+2=4の例題に使うように)比喩的な⊂や∈が全く無意味、とは言いきれません。厳密な用法以外は一切ナンセンスなので使用禁止、という「完璧主義」は、許せる比喩と許せない拡大解釈の区別をなくしてしまい、却って、ポストモダン風の全く無意味な科学概念流用を甘やかすことにもなりかねません。しかも、完璧主義は、法則や概念の近似的な適用で進歩してきた科学的方法に反しているのではないか。
 というわけで、数学的概念を具体的事物に応用する例題は、具体的場面の抽象化、という論理思考トレーニングとしては、許容されるばかりか、必須ですらあるというのが私の見解です。
 いずれにしてもこの問題では、⊂か∈かは本題のマクラとして使っていて、問072は②③だけで成立するのですけれどね。

 なお、トカゲについては、ご指摘はごもっともであり、ただ全面賛成かというと頷けないところもあり、これは「爬虫類」の語源を調べざるをえないのかもしれません。つまり、種や目などの分類を束ねるファイルとして爬虫綱が設けられ、そこから爬虫類と言われ始めたのなら、トカゲ∈爬虫類です。整数が偶数と奇数に便宜的に分けられるように、爬虫類が認識されたあとでトカゲなどの下位区分がされたのなら、トカゲ⊂爬虫類でしょう。概念の歴史的由来は論理と関係ないという見方もありえますが、さしあたりそのへんが手掛かりになりそうな予感が。

> これは、鳴いているセミが何ゼミか知らないから省略して「セミ」と言っている
> のではなく、この発話状況においてセミの種類は重要ではなく、
> セミという昆虫が鳴き始めたことが重要であるからだと思われます。

 たしかに、「セミ」や「トカゲ」に比べ細かい種名の認知は歴史的にも後でしょうから、個体a∈クマゼミ⊂セミでしょう。ただしセミ科∈半翅目∈昆虫綱となるような気がします。(むろんここでも分類の歴史的経緯と論理は一致するとは限りませんが)

 お気づきの点ありましたら、どうぞまたいつでもご教示お願いします。


◆◆◆


2005年2月10日 16:31

三浦俊彦 様

お返事ありがとうございました。

一点、誤解があるようですが、

> 「数学的概念を具体物に適用するのは間違い」というご指摘を文字通り受け止
> めると、リンゴの個数を数えるのに足し算が使えないことにもなりかねません。


私は「数学的概念を...間違い」とは申しておりません。
実際、高度な抽象数学は別として、古代の算術や幾何は
日常生活の具体的場面での必要から生まれ発展してきたものです。

> 数学的概念を具体的事物に応用する例題は、具体的場面の抽象化、という論理
> 思考トレーニングとしては、許容されるばかりか、必須ですらあるというのが
> 私の見解です。

というご意見には私も賛成であり、このようなトレーニングをすることなく、
数学を抽象的学問として教育した結果、今日の数学嫌いの子供の増加が問題化
しております(そこで「直観でわかる数学」といった本がベストセラーになる!)
さて、教育論はさておき、先のメールにて私が問題としたのは、

(1) 世の中には「全体と部分」あるいは「全体と要素」という切り分けが
可能なものとそうでないものがありそうである。
(2) 可能な場合は、それらは離散量として集合として抽象化される。
可能でないものは、集合による抽象化は不適切である。

ということです。以下、例題を考えてみます。

4個のりんごが入った袋が1つあり、2個を別の袋に入れて分けた後、
また元の袋に戻したとします。このとき、2個を取り分ける前と取り分けて戻した
後では袋の状態に変化がない、と大方の人が考えると思われます。

一方、1個の花瓶があり、それを金鎚で割った後、割れ目を合わせて元の形を
復元したとします。このとき、金鎚で割る前と割った後で花瓶の状態に変化がない、
と考える人はりんごの場合と比べると少ないのではないでしょうか?

細胞と人間の例で

> どう分けても、全体は、依然として同じ人間と言えるでしょう。


というご見解だと、花瓶も全体としては同じものということになるのでしょうか?

私にはこれらがどうも違うような気がしておりまして、りんごの場合は
個々のりんごが全体(4個のりんご)と切りわけが可能なので、離散量として
集合により抽象化可能である(従って小学生の教科書の例などにも出てくる)。
しかるに、花瓶や人間は不可分の連続体としての意味があり、パーツにわけて
しまうと(たとえそれらを再結合したとしても)全体の機能が失われてしまうの
ではないか? 従って、集合における全体と部分という離散的関係による抽象化に
そぐわないのではないか? と思うわけです。

この辺りを書いていて、貴著「論パラ」の人間 FAX を思い出しました。
どうやら私は FAX 拒否派のようです(笑)

坂間千秋(和歌山大学)


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2005年2月13日 3:10

坂間千秋 様
          三浦俊彦


 お返事ありがとうございました。
 ただ、「金鎚で割ってから復元する」などの思考実験が、問題とは外れているようなので、私見を述べさせていただきます。

> (1) 世の中には「全体と部分」あるいは「全体と要素」という切り分けが
> 可能なものとそうでないものがありそうである。
> (2) 可能な場合は、それらは離散量として集合として抽象化される。
> 可能でないものは、集合による抽象化は不適切である。
>

 「全体と要素」という見方ができないものは多数ありそうですが、「全体と部分」という見方は、どんなものについてもできると思います(できないものがあるでしょうか?)。分割不能の素粒子でないかぎり。そもそも数学の部分集合という概念が、日常物の「全体と部分」の関係を採り入れたものなのですから。本義は日常言語の「全体と部分」関係の方でしょう。

>
> 一方、1個の花瓶があり、それを金鎚で割った後、割れ目を合わせて元の形を
> 復元したとします。このとき、金鎚で割る前と割った後で花瓶の状態に変化がない、
>
> と考える人はりんごの場合と比べると少ないのではないでしょうか?

 実際に割ってしまう必要はないのです。
 花瓶の上半分と下半分に頭の中で分けて、「この花瓶は上半分と下半分を部分とする全体である」と考えることができます。4分割してもいいし、一億分割してもいい。分け方さえ定義できれば、それらの部分を合わせた全体として、「同じ花瓶」が構成できるでしょう。それこそ、花瓶がたとえば「分子を要素とする集合」ではなく「分子を部分とする全体」であるゆえんです。分子が花瓶の要素だとしたら、分子ひとつずつ以外の分け方で考えたときは「同じ花瓶」が構成できなくなります。(物理的に分けるのではなく、概念的な分割と再構成であることに注意)
 細胞と人間の場合も同じです。
 念のため逆の例を出すと、国民と国家の関係が∈関係であることは、国民の二人ずつをペアにした単位の集まりを考えた場合、もはや国家が再構成できなくなるからです。国家の単位は(法律にしても経済にしても)あくまで一人の人間であり、二人組でも十人組でも各細胞でもありません。そこが分子と花瓶の関係と異なっています。
 ★このように、全体と部分の関係と考えるべき場合と、全体と要素の関係と考えるべき場合とは、たいていの場合、ハッキリ区別できます。そうである以上、「全体と部分」あるいは「全体と要素」というメタファーは(とくに前者は日常のすべてのモノに当てはまるという意味で)、十分に可能であり、有意義だと言えるでしょう。★

> しかるに、花瓶や人間は不可分の連続体としての意味があり、パーツにわけて
> しまうと(たとえそれらを再結合したとしても)全体の機能が失われてしまうの
> ではないか? 従って、集合における全体と部分という離散的関係による抽象化に
> そぐわないのではないか? と思うわけです。

 離散的かどうか、というのは、問題にとって本質的とは思われません。私は数学は素人ですが、連続的な系列の部分系列というものの定義にも、特有の困難はないのでは。
 ましてや物理的に離散的かどうか、ということは、なおさら「全体と要素」「全体と部分」という概念の日常的適用にとって無関係であるといえます。

 なお、全体Aを物理的に個々のiに分解したとして、各iを再び残らず寄せ集めたとしましょう。そこで同じ全体Aが回復できていると必ず認定できる場合は、各i∈Aでしょう(その場合はそもそも寄せ集める必要すらなく、遠く散らばったままでも各iが失われないかぎりAは存続し続ける)
 他方、全体Aを物理的に個々のiに分解し、各iを再び寄せ集めたとき全体Aが回復できているとは限らない場合は、各i⊂Aと考えるべきだと私は思います。花瓶の「上半分」「下半分」、人間の「手」「脚」「眼」など、部分が部位としての意味も持たされている場合は(日常のモノはほとんどそうですが)、その意味込みで各iが同定されるので、各iはもとどおりの場所に正確に置かれねばならないからです(そうでないと、全体がもとと同じ部分を持ったことにならなくなる)。
 花瓶を構成する分子の場合は部位としての意味を持たされていないわけですが、前述のように、分子を単位として分けることが必然化されないという別の理由で、花瓶に対して∈でなく⊂関係に立っていると言えるでしょう。


◆◆◆


2005年2月14日 16:37

三浦俊彦 様

部分と全体について、

>  ★このように、全体と部分の関係と考えるべき場合と、全体と要素の関係と
> 考えるべき場合とは、たいていの場合、ハッキリ区別できます。そうである以
> 上、「全体と部分」あるいは「全体と要素」というメタファーは(とくに前者
> は日常のすべてのモノに当てはまるという意味で)、十分に可能であり、有意
> 義だと言えるでしょう。★


に関しては同意できますが、

> なお、全体Aを物理的に個々のiに分解したとして、各iを再び残らず寄せ集
> めたとしましょう。そこで同じ全体Aが回復できていると必ず認定できる場合
> は、各i∈Aでしょう(その場合はそもそも寄せ集める必要すらなく、遠く散
> らばったままでも各iが失われないかぎりAは存続し続ける)
>  他方、全体Aを物理的に個々のiに分解し、各iを再び寄せ集めたとき全体
> Aが回復できているとは限らない場合は、各i⊂Aと考えるべきだと私は思い
> ます。


に関しては異議ありです。その理由は、数学的には
(∈ と⊂ の違いなのでここは数学的に考えます)
全体集合 A が部分集合 i, j, k に直和分割された場合、
i⊂A, j⊂A, k⊂A かつ i ∪ j ∪ k = A が成り立つため、
全体集合を部分集合に分解し、各部分集合を再び寄せ集めたときは
全体集合は必ず回復されます。従って、 ∈ と⊂ を分解→寄せ集めによって
原状回復できるか否かによって区別することは不可です。

そこで、先のメールで申し上げた

> (1) 世の中には「全体と部分」あるいは「全体と要素」という切り分けが
> 可能なものとそうでないものがありそうである。
> (2) 可能な場合は、それらは離散量として集合として抽象化される。
> 可能でないものは、集合による抽象化は不適切である。

ですが、(2) の可能な場合というのは、集合の概念を使って
i∈A, j⊂A のように抽象化することが出来るが、そうでない場合は、
たとえ「全体-部分」というメタファーが適用できたとしても
手⊂人間 のような数学的集合関係は成り立たない。このような集合関係を
適用した場合、人間は各パーツ(部分)の集合体として定義され、
人間をパーツに分解して再び寄せ集めた場合、元の人間が回復されることが
(上記議論により)保証されなければならない。これは、部分を単純に集めても
全体にならないと考える生物や社会の有機体説とも相容れないものです。

坂間千秋(和歌山大学)


◆◆◆


2005年2月18日 2:53

坂間千秋 様
          三浦俊彦

 ご意見ありがとうございました。
 さて今回は、2章立てで御返事します。
 前半では、、⊂関係と人間などの全体部分関係とをアンフェアな語法で対照させることを批判し、
 後半では前回同様、「物理的な破壊-再集結」というイメージが場違いであることを再び述べることにします。

> 全体集合 A が部分集合 i, j, k に直和分割された場合、
> i⊂A, j⊂A, k⊂A かつ i ∪ j ∪ k = A が成り立つため、
> 全体集合を部分集合に分解し、各部分集合を再び寄せ集めたときは
> 全体集合は必ず回復されます。従って、 ∈ と⊂ を分解→寄せ集めによって
> 原状回復できるか否かによって区別することは不可です。

 前回最後の方で私は、「各iはもとどおりの場所に正確に置かれねばならない」と書きました。
 「正確に(厳格に)置く」か「ルーズに置く」かによって、全体が回復できるか否かが決まるのは、当然のことです。★この事情は、数学的集合も例外ではありません。★
 坂間さんの用語法には、ダブルスタンダードがあるようです。花瓶や人間に関しては「(パーツを)再び寄せ集める」という語をルーズに使っている反面、集合については「(部分を)再び寄せ集める」という語を厳格に使っている、という不統一です。
 「再び寄せ集める」という語を同じ意味で使えば、日常の事物に⊂を適用することに問題はなくなるでしょう。つまり、部分の寄せ集めかたによってはもとどおりの回復ができないという点では、数学的対象も同じなのです!
 たとえば、i⊂A, j⊂A, k⊂A……なるi, j, k……は、ふたたび集めさえすればAが回復されるとは限りません。たとえば、i, j, k……を、要素として集めてしまうと、もとのAとは全く違った全体が作り出されてしまいます。
 つまり、i, j, k……をただ「寄せ集めた」だけでは、
  i ∪ j ∪ k = A  ではなく、
 {i , j , k,……} = B
 が「回復」されてしまう怖れがあるのです。BがAとは別物であることは、言うまでもないでしょう。
 つまり、i, j, k……を、「正しい仕方で」寄せ集めねばなりません。坂間さんの用語法では、部分集合と全体集合についてはその「正しい寄せ集め方」が意味されていますね。

 ところが一方、瓶や人間については、「正しいとは限らないルーズなパーツの集め方」が意味されている。手足や首をバラバラにしたあと、死んだパーツをただ並べてもダメです。「正しい仕方で」寄せ集めたときに限って、もとの人間が回復されるはずです。前回のメールにも書きましたが、各パーツがその同一性を失わないほどの機能を維持しつつ、寄せ集められた場合です。手や足は、切断後にもとどおりの機能をもって接着することが可能ですし、首の場合も、原理的に可能です。医学がそこまでまだ進歩していないだけで、実際に首がとれたあと、機能を失わずに接着できれば、もとの人間が回復したと言えるはずでしょう。(いずれにしても医学テクノロジーの現状は論理とは関係ありません)

整理すると、
 ■部分集合の正しい寄せ集め方
    i⊂A, j⊂A, k⊂A……なるi, j, k……は、ふたたび集めて同じ全体集合をなすためには、{i , j , k,……}ではなく、i ∪ j ∪ k ……という集め方をしなければならない。
 ■人間のパーツの正しい寄せ集め方
    手、足、首、胸、腹……をふたたび集めて同じ全体人間をなすためには、死んだパーツをただ並べるだけではなく、元通りの機能を果たす生きた手、足、首、胸、腹……を集めて動く人間を再現しなければならない。

 こうして、「正しい集め方」を要求する点では、数学的⊂も、人間の部分全体関係も、同様である。「集める」という語を、ルーズに使うのか、厳格に使うのか、統一しなければならないのです。

> たとえ「全体-部分」というメタファーが適用できたとしても
> 手⊂人間 のような数学的集合関係は成り立たない。このような集合関係を
> 適用した場合、人間は各パーツ(部分)の集合体として定義され、
> 人間をパーツに分解して再び寄せ集めた場合、元の人間が回復されることが
> (上記議論により)保証されなければならない。これは、部分を単純に集めても
> 全体にならないと考える生物や社会の有機体説とも相容れないものです。

 有機体説は問題にかかわりがありません。前回、分子や細胞で述べたことを、時空間の切片に置き換えて述べ直しましょう。人間や社会の全履歴を、時空間的な境界線内のいくつかのパーツに(数学的対象について行うのと同様、概念的に)分け、そして再び(概念的に)連続的に捉えおなせば、問題なく、もとの人間や社会が回復できています。
 ⊂の場合と何ら違いはありません。
 日常の事物の「部分-全体」関係も抽象の産物であることを見失うと、物理的に破壊してその残骸を寄せ集めるといったイメージに囚われてしまいます。そのイメージは私の本意ではありません。もともとの問いが論理の問いだったので、日常の事物についても、物理的な破壊-再集結ではなく、概念的な切り分けについて考えていただきたかったわけです。
(ただし、物理的な破壊-再集結をあくまで考えたければ、ルーズな再集結ではなく「正確な再集結」をイメージしなければならない、というのが今回の前半で述べたことでした。)


◆◆◆


2005年2月24日 17:31

三浦俊彦 様

2月は大学行事が目白押しで、お返事が遅れました。

> 人間や社会の全履歴を、時空間的な境界線内のいくつかのパーツに(数学的対
> 象について行うのと同様、概念的に)分け、そして再び(概念的に)連続的に
> 捉えおなせば、問題なく、もとの人間や社会が回復できています。


人間を時空間的な境界線によって概念的に分けるという場合、
この時空間的な境界線とは果たしてどのように決められるものでしょうか?

もしこのような境界線がうまく設定されたとして、この境界線によって
人間 A を概念的に分け、再び元通りの機能を持つ人間 A' を再構成したとしましょう。
このとき、分割前の時間 t における細胞状態と比較して、再構成後の時間 t+Δt の
細胞は時間的に老化しているので、A と A' は時間的に同一の生物的状態にはない。
従って、生物的に元の人間が回復できているとはいえないのではないでしょうか?

あるいは、あくまで概念的にΔt→0 の極限状態での話としましょう。
しかし、この場合はもはや同時刻における分割-合成というプロセス自体が
無意味になるのではないでしょうか?

>
>  「再び寄せ集める」という語を同じ意味で使えば、日常の事物に⊂を適用す
> ることに問題はなくなるでしょう。つまり、部分の寄せ集めかたによってはも
> とどおりの回復ができないという点では、数学的対象も同じなのです!
>  
>  こうして、「正しい集め方」を要求する点では、数学的⊂も、人間の部分全
> 体関係も、同様である。「集める」という語を、ルーズに使うのか、厳格に使
> うのか、統一しなければならないのです。

「正しい集め方」をした場合に、部分と全体の間に関係 ⊂ が成り立つかといえば、
数学においてさえこれはいえません。
例えば、線分 AB 上に点 C をとり、AB を線分 AC と CB に分割したとする。
この場合、連続体としての線分 AB をその部分に分割することは可能であるが、
AC ⊂ AB という書き方はしません。これは線分という概念が連続量であり、
集合で扱う離散量とは異なるからです。
 
この意味で私が以前申し上げた、

>(1) 世の中には「全体と部分」あるいは「全体と要素」という切り分けが
>可能なものとそうでないものがありそうである。
>(2) 可能な場合は、それらは離散量として集合として抽象化される。
>可能でないものは、集合による抽象化は不適切である。
>
は正確ではなく、(2)は「可能な場合、離散量として抽象化できる場合は
集合関係によって記述することが出来、そうでない場合は集合関係では記述できない」
とすべきでした。従って、

> 「全体と要素」という見方ができないものは多数ありそうですが、「全体と部
> 分」という見方は、どんなものについてもできると思います

という主張が仮に正しいとしても、「部分⊂全体」という記述は(上の直線の例で
見たように)常にできるとは限らないことは確かです。私が最初に質問したのも、
集合的関係としての∈や⊂が本や人間に対して適用されていることからの疑問でした。

坂間千秋(和歌山大学)


◆◆◆


2005年3月2日 3:41

坂間千秋 様
               三浦俊彦

 また遅れ気味で申し訳ありません。

 さて、「部分と全体」ですが――

>
> 人間を時空間的な境界線によって概念的に分けるという場合、
> この時空間的な境界線とは果たしてどのように決められるものでしょうか?
>
> もしこのような境界線がうまく設定されたとして、この境界線によって
> 人間 A を概念的に分け、再び元通りの機能を持つ人間 A' を再構成したとしま
> しょう。
> このとき、分割前の時間 t における細胞状態と比較して、再構成後の時間 t+Δt
> の
> 細胞は時間的に老化しているので、A と A' は時間的に同一の生物的状態にはない。
>
>
> 従って、生物的に元の人間が回復できているとはいえないのではないでしょうか?
>
> あるいは、あくまで概念的にΔt→0 の極限状態での話としましょう。
> しかし、この場合はもはや同時刻における分割-合成というプロセス自体が
> 無意味になるのではないでしょうか?
>

 概念的分割の場合、時間の経過は入ってきませんから、上のイメージは物理的な分割・再構成のことですね。
 (哲学では、time-slice という語を使いますが、これは人や物の経歴を短時間区分に分割した各々の切片です。各切片は特定の時間間隔内に固定されているので、時間経過により変化するということはありません。概念的分割ですから、もちろん再合成すれば寸分違わぬ全体が再生されます)

 物理的分割を考えた場合は、時間の経過が考慮されねばなりませんが、各切片がΔt だけ老化したからといって、全体が「同じ人間」でなくなることはないでしょう。「Δt だけ老化した同じ人間」であるはずです。
 時間の経過は、各切片が死んで同一性を失いでもしないかぎり、同じ全体が復元されることに疑問の余地はないと思われます。(つまり部分と全体との等速の老化は、部分全体関係の正否にとってまったく非本質的な事柄です)

> 「正しい集め方」をした場合に、部分と全体の間に関係 ⊂ が成り立つかといえば、
> 数学においてさえこれはいえません。
> 例えば、線分 AB 上に点 C をとり、AB を線分 AC と CB に分割したとする。
> この場合、連続体としての線分 AB をその部分に分割することは可能であるが、
> AC ⊂ AB という書き方はしません。これは線分という概念が連続量であり、
> 集合で扱う離散量とは異なるからです。


 要素が離散的か連続かということが⊂関係の認定にそれほど重要であるというのは私にはよくわからないのですが。
 私には本質的でないことのように思われます。
 たとえば、 実数の集合⊂複素数の集合 ですよね。
 あるいは、 100以下の実数の集合⊂500以下の実数の集合 ですよね。
 線分AC ⊂ 線分AB  という書き方は、慣例的にはしないかもしれませんが、論理的には AC上の点の集合⊂AB上の点の集合 は当然成り立ちますよね。
 線分なのでAC、ABそれぞれを要素間に順序の付いた集合と考えたとしても、順序は順序無しの集合によって定義できるので(たとえぱ(1、2)は{1、{1、2}}として定義できる)、やはり 線分AC ⊂ 線分AB という関係が成り立つのではないでしょうか。慣習的にそう書かないだけで。
 これは意見というよりも、質問です。

 それでは、よろしくお願いいたします。


◆◆◆


2005年3月5日 16:39

三浦俊彦 様

人間を概念的に分割して再合成すれば寸分違わぬ全体が再生されるか、
という問題に関しては人によって意見の分かれるところだと思います。
これまでの議論で、三浦さんは肯定派、私は懐疑派ということで
検証の方法がない以上、コンセンサスを得るのは難しいと思われるので
この問題に関する議論は取り敢えず、これまでと致しましょう。


> 線分AC ⊂ 線分AB  という書き方は、慣例的にはしないかもしれませんが、論
> 理的には AC上の点の集合⊂AB上の点の集合 は当然成り立ちますよね。
>  線分なのでAC、ABそれぞれを要素間に順序の付いた集合と考えたとしても、
> 順序は順序無しの集合によって定義できるので(たとえぱ(1、2)は{1、
> {1、2}}として定義できる)、やはり 線分AC ⊂ 線分AB という関係が成
> り立つのではないでしょうか。慣習的にそう書かないだけで。
>  これは意見というよりも、質問です。


線分 AB を座標軸上にとり、点 A を (0,0)、点 B を (1,0),
点 C を (0.5,0) としましょう。この場合、線分 AC 上の点は
集合 { (x,0) | 0≦x≦0.5 } で表され、線分 AB 上の点の集合
{ (x,0) | 0≦x≦1 } の部分集合である、といえそうです。

さて、ここで線分 AB を線分 AC に含まれる点の集合と
線分 CB に含まれる点の集合に直和分割することを考えてみます。
以下、前者を集合 AC, 後者を集合 CB と呼ぶことにしましょう。
この場合、点 C はどちらの集合に含まれることになるでしょうか?
直和分割なので、どちらか片方にのみ含まれることになります。
点 C が集合 AC に含まれる場合、点 C は集合 CB の要素ではなくなりますが、
このとき集合 CB の最小値は何になるかが問題です。
直感的には lim_{x→0.5}(x,0) になりそうですが、数学的には
これは (0.5,0) と等しくなってしまいます。
点 C が集合 CB に含まれるとした場合は、今度は集合 AC の最大値が何か
という問題になります。

この辺りが連続量を集合として表すことの困難さだと思うのですが。

おことわり:上記はあくまでも計算機科学者としての私見であり、
数学者による公式見解ではありません。実際、「連続量は集合表現できない」
という事実が数学書に書かれているのを見たわけではありませんが、
集合は「離散数学」の一分野であることは事実です。

坂間千秋(和歌山大学)


◆◆◆


2005年3月7日 15:05

坂間千秋 様
               三浦俊彦


 お答えありがとうございます。
 連続体のようなものも扱う分野が「離散数学」というのは面白いですね。

 ただ、今回は意味はよくわかるのですが、趣旨がよくわかりませんでした。

 連続体の直和分割に何か問題があるかどうか、ということは、⊂関係の成立とは無縁の事柄だと思われます。
 つまり、これまでのハナシの流れとは、別の事柄のような。
 集合A、B、C……が互いに素であろうがなかろうが、そのすべてが、和集合の部分集合であることに変わりないでしょうから。

 ただ、直和分割のとき集合の要素の最大値や最小値がどうなるか、というのは、むしろ、数学的対象の場合に問題を引き起こすのかもしれないとは思わされました。(直和分割でなくても、単に「100未満の実数の集合」などの全体についても普通に生ずるわけですが)
 人間や花瓶のような物理的対象は、量子力学が正しければ離散的な時空単位の集まりでしょうから、連続性にまつわる問題はむしろ生じないと言えるでしょう。

 よって、坂間さんが言われるように、「連続量を集合として表すことの困難さ」がかりにあるとしても、それは数学的集合についてのみ生ずるのであり、構造が離散的であろう物理的対象については生じないと言えそうです。
 すると、日常のものよりも数学的対象に関してこそ、⊂の意味は不確定で曖昧である、という逆説的なことになるのでしょうか。
 ⊂はもともと、日常的な部分-全体関係のメタファーから生まれた概念であることを考えると、日常の部分-全体関係よりも問題が多い、というのは不思議ではありませんが。
 ただ、これは、もともとの坂間さんの疑義とは正反対の結論に至っているような気がした次第です。

 さて、この議論はこれからもどこまで続いてもよいのですが、
 日常物の分割についてなどは一段落したこともあり、
 一連のやりとりを私のHPに再録させていたければ、と思うのですが、いかがでしょうか。
 以下のページに
 http://russell-j.com/miurat1/
 心理学者、論理学者との討論をアップロードまたはリンク付けしてありますが、坂間さんとのメールのやりとりもそれに並べてアクセス可能にさせていただきたいのですが。(坂間さんのサイトへのリンク付けをもお許しいただければと思いますが)

 おかげさまで、合成の誤謬・分割の誤謬の問072については少なからぬ読者が疑問を抱いているかもしれぬと思い至ったため、HP閲覧者の便宜のためにも意味あることと思うのです。
 いかがでしょうか。


◆◆◆


2005年3月8日 15:24

三浦俊彦 様

>  連続体の直和分割に何か問題があるかどうか、ということは、⊂関係の成立
> とは無縁の事柄だと思われます。
>  つまり、これまでのハナシの流れとは、別の事柄のような。
>  集合A、B、C……が互いに素であろうがなかろうが、そのすべてが、和集合
> の部分集合であることに変わりないでしょうから。


集合 A と集合 B の間に A ⊂ B の関係が成り立つならば、
集合 B は集合 A と 集合 (B-A) に直和分割可能(ここで、- は集合差演算)。
従って、B が A と (B-A) に直和分割不可能ならば A ⊂ B の関係が
成り立たない(対偶)ということになります。
先の線分の例にあてはめると線分 AB が AC と CB に直和分割できなければ、
AC ⊂ AB の関係が成り立たないといえるわけです。

>  ただ、直和分割のとき集合の要素の最大値や最小値がどうなるか、というの
> は、むしろ、数学的対象の場合に問題を引き起こすのかもしれないとは思わさ
> れました。(直和分割でなくても、単に「100未満の実数の集合」などの全
> 体についても普通に生ずるわけですが)


負の整数の集合、正の整数の集合のように無限集合では必ずしも最小値、
最大値は存在しないので、先の議論で点C がどちらに含まれても数学的には
問題ないかもしれません。

>  ただ、これは、もともとの坂間さんの疑義とは正反対の結論に至っているよ
> うな気がした次第です。


これまでの議論を整理すると以下のようになると思います。

- 数学で扱う対象は離散的構造を持つものと連続的構造を持つものがあり、
集合は通常前者を抽象化する手段として用いられるという私の意見。一方、
連続的構造を持つ線分を離散的な点の集合と考えた場合、全体と部分の間に
集合の包含関係が成り立つといえるのではないかという三浦氏の意見。

- 日常における物理的対象は離散的で人間も分割-再構成が可能であるという
三浦氏の意見。一方、人間は連続的構造を持ち分割-再構成は不可能と思われる
という私の意見。

ということで、数学で連続的構造を持つ対象における全体-部分の関係が
集合の包含関係によって表現可能かという問題は今回の議論では open ですが、
数学的な解はあるはず。一方、日常物における全体-部分の関係については、
人間の分割再構成のように現時点で検証不可能、といったところでしょうか。

>
>  以下のページに
>  http://russell-j.com/miurat1/
>  心理学者、論理学者との討論をアップロードまたはリンク付けしてあります
> が、坂間さんとのメールのやりとりもそれに並べてアクセス可能にさせていた
> だきたいのですが。(坂間さんのサイトへのリンク付けをもお許しいただけれ
> ばと思いますが)


興味深い HP を拝見いたしました。
今回の議論に関しては適宜編集して upload して頂いても結構です。
私の HP へのリンク付けも問題ありません。なお、三浦さんの HP は各界の方が
アクセスされているようなので、上記の「一般に連続的構造を持つ数学的対象に
おける全体-部分の関係が集合の包含関係で表現可能か?」という問題に関して
数学者からの見解が聞ければ教えて頂けるとありがたいです。

坂間千秋(和歌山大学)


◆◆◆


2005年3月11日 5:00

坂間千秋 様

                  三浦俊彦

 「直和分割」の関連性は了解いたしました。

 さて、これまでのメールをすべて
http://russell-j.com/miurat1/sakama-c.htm
 に掲載しました。(今後も不定期更新としてあります)

 不十分なところが諸々あるにしても、修正するとキリがないのですべて原文のままです。
 それでもお気づきのところがあればお知らせいただければ。

 坂間さんの肩書きは、メール文中の語を使って「計算機科学者」としてありますが、なにか他がよければお知らせください。

 ……………………………………………………
 なお、蒸し返しになって申し訳ありませんが、
 概念的分割と物理的分割については、

 『心理パラドクス』問011 日蝕のパラドクス
 『論理パラドクス』問050 影のパラドクス、問051 1001匹の猫のパラドクス

 などを御参照いただければ幸いです。

◆◆◆