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(単行本未収録小説)
「まばゆいあなたへ−ある症例−
『イマーゴ』1996年12月号掲載

 初めてお便りいたします。失礼をお許しください。
 これが切手も消印もなく直接あなたの郵便受けに投げ込まれている封書であることに疑惑と不安をお抱きになりますか。でもどうか心配なさらないでください。真剣に悩み考えた結果一刻も早くこの訴えをあなたに聞き届けていただければと焦慮した結果にすぎないのですから。どうかご理解ください。ところでこれを書いている時点では僕はまだあなたのお名前を知りません。(あと二、三時間もすれば知ることになるはずですが。)でありますので以下、ずっと「あなた」で失礼させていただきます。
 僕があなたのお姿を初めて拝見しましたのは西武多摩川線の車内です。かれこれ半年も続いているでしょうか。是政駅に停車中の武蔵境行き始発電車、二両目のいつも同じドア際にあなたは座ってらっしゃいますね。いつもおひとりで。通勤タイムを僅かにそれたあの時刻、顔を覚えるほどよく見かける人間は五人もおりません。毎日必ずお見かけするのはあなた一人だけです。おとなしめのグレー系タイトスカートかワンピース、髪型をときどき変えられるのも楽しみに拝見しておりました。べースとされてるストレートが一番お似合いのように感じておりますけれども。どういうお仕事してらっしゃる方だろうと、日々好奇心と思慕の募るのを押さえきれず悶々としておりました。
 あなたの魅力はなんといっても一種、ナチュラルな美しさです。どれほど厳しい基準で分類しても美人の部類に属されるその容姿にして、いわゆる綺麗椅麗した自意識のくさみがまつわりついていません。自然体が滲み出ているのです。口紅もアイシャドウも白粉も一粒たりと付着してない一目瞭然な素肌の滑らかさ。それもただ物理的に滑らかだと……いや、細々挙げ連ねても僕のこの胸の感動にとても追いつくはずがありません。
 ところで僕が毎日あなたをお見かけしていたということは、あなたの方ももしかして僕をご存じということは? 六十年代的にのどかな郊外の香り残す沿線貫いて、決して満員にならぬあの車内には隠れて覗き見る肩も背中も立っていたためしがないわけですし、視線というのは対称的に到達可能な測地線に違いありませんから。でもあなたはいつも決まってうつむいて文庫本を読みふけっておられ、僕は僕で毎日、アポロキャッブを目深にかぶるなりサングラスずり上げるなり髭を剃るなりジッパーを顎まで引き上げるなり、外見の変化に気を遣うとともに同じ席に続けて座らぬよう気をつけておりますからね、あなたの目からはうまく隠れおおせていたと思ってます。別に隠れる必要なんかとお思いかもしれませんがそこはそれ、論理じゃなくてこういう微妙な心の問題だということで。
 僕は毎日、あなたを見つめつづけておりました。土曜日曜は恋人、そう、一応世間並みの彼女ってやつと街や山や海岸を遊び巡っていても、ちっとも気持ちが高揚しないのです。早く翌週が始まってあなたの姿を見たいと、この気持ちの高まりはほとんど週末の拷問に等しくなっていったのです。僕の心があなたにこうして体ごと近づきだすことは時間の問題だったと言わねぱなりません。
 そこへ、ああ。飽和状態に煮立っていた僕の恋情が一挙にもう一段膨張したのは先々週の月曜日でした! あの日あなたはいつものシートにおられて、そこへお友だちでしょうか赤いブラウスにカーリーヘアの女性が隣りに座ったのでした(なかなかのボディコンとお見受けしましたが朱色の口紅は趣味悪かったですね)。待ち合わせておられたのでしょうあなたは予期していたように彼女と談笑を始め、おひとりの沈黙のお姿しか拝見したことなかった僕はすわ貴重な機会とばかりすぐにあなたがたお二人の正面ドア際席に移動したのでしたよ。用意の黒縁眼鏡をずり下げ気味に掛けてです。
 しかしあなたとお友だちが何を喋っていたのか、あなたの初めて聴く声がどのようであったか、僕は全然覚えていないのです。あなたの声もお話も、一瞬にしてどうでもよくなってしまったのです! ガツーンと、ああ、僕は脳天から尾てい骨へ恍惚の衝撃波を受けました。そうです。全体の相好全然異なる新たな表情がそれはもう、直裁に申し上げましょう、僕が狂おしいほどの歓喜に貫かれたのは、初めてあなたの歯並びの素晴らしさをしっかり目撃したことでした。ああ、この世にこれほど美しい歯並びというものがあったのか、ああ、おれの目は節穴ではなかった、知的に閉じた唇の見えない奥にこういう艶めかしい神秘が用意されていたのだったとは…!
 その刹那稲妻のごとく、僕自身の動力源というか、なぜ今までここまでいろんな恋愛ができていたのかが一挙にわかった気がしたのです。自分の心が初めて見える瞬間というのはぞっとするほどスリリングなものですね。そう。先ほど言いました今つきあってる恋人、実村由佳といいますが彼女のことがどうしておれは好きなんだろうと時々不思議に思っていたのです。そこそこ愛矯あるし話もまあまあ合いはする、でもそれだけだろうか、どうしておれは由佳が好きなんだろうと毎日自問していたもので、そんな一見無意味な自問も、明瞭な答えがあったからこその絶えざる自問だったのです。それがわかったのです。
 いったいこの世に、八重歯ほど蠱惑的なものはありません。由佳のも上の前歯の中央から二番目の一対の歯がぐっと奥に隠れていて、中央の歯とたっぷり重なった左右対称を誇っていて、正面から見たときその両脇の空洞のせいでまた両側の糸切歯の輪郭がくっきりと映え尖り、たまらない造形美を醸し出す八重歯だったのでして、そんな口とキスをしようものならもうたまりません。八重歯でない口とするキスに比べて断然深みがあります。味の濃度が五桁は違います。正面左右の空洞にたまった唾液が前後に動く感触がこちらの舌をくすぐり、舌を伸ぱして歯列の裏側を先端で砥めるとしっかり二本の突起が凸凹と存在感を主張しています。もう、もう、タマラナかったのです!
 思えぱ昔から僕は、つきあう女性ことごとくが、多かれ少なかれ八重歯傾向の女性だったという事実にも一瞬にして初めて思い当たりましたよ。由佳の八重歯はその中でひときわハイレベルでした。あなたのはさらに五桁上をゆく絶対的レベルに達している。これ以上の奥深さはありえない素晴らしさ。それが一目で見て取れたのでした。やっぱりあなたの美貌はナチュラルの美だったのだ。僕の目はあなたの口に釘付けになりました。僕自身の歯列はというとこれが、生まれつきまことに情けないのっぺらぽうの馬蹄形で何の面白みもありません。キスのとき二人ともがしっかり八重歯を備えていれぱどんなにか物凄い合体感、充填感、舌触り、唾液交換、流動感を体験できたことでしょう。だからこそせめて相手には、強力な八重歯を持った女性をとずっとずっと僕の潜在意識が……。
 あなたが由佳のより何ランクも深い段差に基づく一対の洞穴を閃かせながら談笑する顔は、完全に僕の中心にキテしまいました。食い込んでしまいました。痛いほど勃起し、あわてて鞄を膝に置くとドクドク脈動が鞄を叩いていました。全身が宙に浮くようでした。卒倒しそうでした。そういえばよくありましたよ。電車内でキャピキャピキャハハハヤダーウソーホントーと定石通りの姦しさふりまく女子高生四人組のうち三人が、ある駅でジャアネーバイバイーと定石通り降りてゆき一人残った子が一瞬前までは想像できなかつた真顔になって静かな慎ましい孤独に耽りはじめる。そういったパターンを目撃するたびに、その表情と姿勢の急変に接するたびにああ、人間ってやっぱり人間だなあ……わけのわからぬ感慨にジィーンと快く金縛られたことが何度もあったのですがなるほどー、こういうことだったのですね。もう、ほんともう、いつも孤高の美しさを湛えていたあなたが今や無防備なほどの笑顔をまき散らしている賛沢な落差というかこの段差が前歯の段差に見事にすっぽり重なってそれはもう、モウ、もう、耐えられない恍惚でした! いやそんな精神論よりあなたのエナメル質そのものの物理的魅力。なんとあなたは心底笑うと、きっちり上の歯茎が目測2ミリ以上は露出するじゃありませんか、ピンク色の美しい歯茎が! 由佳にはないこの特徴がしっかり確認できたのは武蔵境駅であなた方二人がお降りになろうと腰を上げ談笑顔のまま一瞬僕に間近くお向きになったとき! このピンクの土台がまたほんのりクリーム色の八重歯を際立たせ、小鼻に微かに浮き出ている上品な吹出物のピンクと歯茎の桃色が離島と本土のように照り映え合い、リアス式海岸模様の複雑な歯列が高波となって唇の大地を刮ぎ薙ぎ払ったのでした、ナチュラルです! 由佳の八重歯はテーブル隔てて向き合う距離でも奥の歯前面の白がほの見える仕上がりで、今考えると空洞部が僅かに広すぎ、浅すぎました。広すぎても狭すぎても間抜けに傾く微妙な造形だったのです、八重歯という天然芸術は。あなたのときたら完壁なことに歯の重なり率が黄金比三分の二、ごく間近に見ても奥の歯の白は前の歯の陰、灰色藍色の闇に奥ゆかしく沈んでいるというあの構図をくっきり見て取ってしまっては僕はもう、一ミリも立ち上がることができませんでした。動くと爆発して、ズボンにまで染み出してしまう。その日僕は武蔵境で降りることができず、是政まで戻り、それから実に三往復する間同じ席に座ったまま身動きがとれないカチンカチンの法悦状態に沸き固まってしまったのです。腰が抜けたというやつです。出社できたのはやっと午後三時半。就職六年目にして初の遅刻でしたよ。(考えてみりゃあんなバカ会社にどうして皆勤してたんだろうおれは。)
 僕は即日、由佳に電話して別れを告げました。それはそうですよ、僕が由佳を好きだった唯一の理由があの八重歯であったと判明した以上は。僕は以前にもまして熱心に、車内であなたの姿を注視しはじめました。八重歯が命だったのだというたった今気づいた事実にほんとはもう二十年も前から気づいていてずっと理想の口した女性を追い求めていたのだ、やっとやっと巡り会えたのだというような登頂感にすら酔っていたのです。日に夜に僕はあこがれを募らせました。あなたとテーブルを挟んで食事をするところを繰り返し想像しました。あなたはカレーかシチューかポタージュかその線の粘りけをおいしそうに食べています。僕はあなたの歯と舌が胆汁色を優雅にかき回すのを、前歯の深い空洞にそのつど溢れ詰まっては流れ去る香り高い物質群をうっとりと眺めます。僕があなたに、もっともっと実証してほしいと頼みます。あなたはにっこり笑って、フランスパンを二切れちぎって、二つの空洞にぎゅうっと左右同形に詰めてニッコリ見せてくれるのです。白いパンが挟まるとあなたの前歯と糸切り歯のクリーム色素が照り映えて、ああッ、ああッ、もうたまりません! 食事が済んでどこかで僕たちは、濃厚なキスを交わします。あなたの口腔からカレーの濃い臭いが消えないうちに。奥の二本の根もとに密度高く盛り上がったシチューの塊が溶けないうちにです。柔らかいベッドに沈みながら僕の舌はあなたの歯を貧るのです。空洞に詰ったままのパン片をじわじわと舌で押し溶かしつつなんとか奥の歯の前面に舌先をタッチしようと努力しては決して果たせるはずもなく、お互いの瞳を一瞥するため唇を瞬間僅かに離すたびに粘り強い唾液の糸何十本が編みかわりながらまた吸い寄せられ、僕の舌はあなたの二列の歯の間に深く深く潜り込んで溶けてしまうのです。舌の先から僕全体が、ああ、ああ、うわあ……溶けてあなたの口の中に染み込んで消えてしまうのです。
 そしてまだ体があるふりをしてセックスに移行するとしたら、どうかあなたに上になってもらうでしょう。あなたはのけぞる。揺れながらのけぞって、大きく口を開けて優雅にあえぐと、あなたの歯がちょうど僕の目の真上に、下から仰ぎ見られることになる。あなたの歯列の底面図! たまらん! 左右対称の段差はさぞかし幽艶な壮観です! 二列に重なる隙間からあなたのかぐわしい唾液がつつーっと僕の鼻の頭に熱く滴り拡がった瞬間、ああ、僕はあっというまに果てて果てて果て炸けてしまうでしょう!
 ああ、こんな大法悦がこの世にあっていいものだろうか。さらにもしも、もしももしももしもです。僕自身をあなたのその歯で、ああ、アホを承知で書かずにはいられません、僕自身をあなたのその歯で……がぶっモグモグずずーっなんて撫でしごいてもらったりした日には、そしたら、そうしたらっ! 直後だというのにモ一度アッというまに果てるでしょう。ああ、でも。あなたの口もと思い描くだけで蕩ける恍惚に苛まれうるこの僕の方は、あなたに何を与えることができるというのか? 芸のない有り体の歯列しか持ち合わせないこの僕が。いや、だからこそ僕は誠心誠意あなたに尽くすことになるでしょう。埋め合わせることでしょう、信じてください。何でもするでしょう、お返しするべく努力と創意を窮めるでしょう! 僕は自慢じゃありませんが、そりゃ今でこそなんですが中学高校じゃ六年間通じて女子の間に結構派手なファンクラブが存続したほどの奴なんです。帽子を取りマスク外し眼鏡を取ってあなたの前に自己紹介しに現われたとしても、一目あなたに不快感を催させることは決してないはずです。でもいくら自負してみても最小公倍数の常識通りにいかないのが恋愛ですから。女にも男にもモテモテだったこの爽やか若大将がそもそもこういう手紙をふつふついじいじと、ほくほくくどくどと、おずおずむらむらと、ああ、ひしひしがつがつ、おどおどずかずか、わくわくせかせか、ああ、ああ、うきうきうずうず、ねちねちおめおめと書き連ねざるをえないこと自体、恋愛の不思議さを、いや僕のあなたへの思いの底深さを示しているではありませんか。
 僕の思いの密度を示す事実を一個だけ、アホを承知で具体的に書かせてください。この齢になって僕は、なんといいますかムケてなかったんです。赤んぼみたいにピンクに湿った粘膜が皮をかぶって。それがあなたの奇跡の八重歯を目にして以来、日に何十回鮮明な映像甦るたびに粘膜引き裂けるほどに堅くなり、ついに縮小時すら松茸の傘全体露出のままへと大脱皮を遂げたのでした、全体積も二割増。三十路を目前に大革命です。だからそう、触れもせずに僕をこうしてムイてくれたあなたの口でいつかジカにと空想するくらい……正直に書いてみるくらい許されてよかったじゃありませんか、そうでしょう?
 こうして僕は小学校卒業以来初めて、恋人不在の二週間を過ごしているのです。由佳からの未練がましい電話は即ことごとく切り、あなただけを見つめ、考えています。毎日注意深く目を凝らしているとてきめんに、あなたの唇の内のまぶしい絶景を視界に捉え直すことに何度か成功しました。僕はもう、いつどうやって自然な形であなたに接近しようかと、タイミングを量るばかりになっていました。そして、そして、そしてそして! 唐突にドン底に! 僕はドン底に叩き込まれたのでした! そう! 先週の火曜日です。いよいよ話しかけるぞ、いじいじくすぶってるのはおれらしくないぞまずは挨拶からだぞと、イツモコノ電車デスネ、イツモコノ電車デスネと科白を口の中で反芻しながらあなたの正面に腰掛けていたのです。あなたがいつものように本を開いた瞬間です。頁に期待するかのように微笑み気味にちらっとあなたの唇が割れて内部が垣間見える瞬間を僕の目はまたしっかりと捉えたのでしたがその瞬間! 足もとが崩れ落ちる打撃に僕は全身を揺すぷられたのでした。なんと、なんと、なんとそんな理不尽な!
 あなたの絶妙の歯列を覆って、銀色のまばゆい金属群が光っていたではありませんか!
 邪まな輝き!
 なんということだ! 歯列矯正。そうか、世の中にはそんな忌まわしい商売もあったものだとガツーン、背骨を砕かれて、あなたの顔に再び視線を注ぐ筋力は僕の体から蒸発していました。ああ、わかってない、あなたはわかってらっしゃらない、ご自分の価値がわかってらっしゃらなああい! 寒気とのぼせと目眩と吐き気が込み上げ、関節痛が粟立ち、頭痛と動悸と胸やけと屁意と息切れにがんじがらめとなり、とても終点までもたず、ふるえる両足辛うじて踏みしめて多摩墓地前駅で下車したのです。そうです。よろけてあなたの裾に鞄を引っかけそうになった男、覚えてますかあれが僕です。それから会社にはゆかずに、どうせ一生懸命働いたって先が見えてるんですからあんな会社、ああ学生時代はよかったなあ、モテたしなあ、霞が降りたような住宅地から商店街、国道から川縁に沿って石を蹴り続け、歩道橋を昇りかけて引き返し、立小便をし、小学生とおぱさんの自転車どうしのニァミスを目撃し、反り橋を渡り草むらでカマキリの共食いを見つめ造成地の資材置場を八周してから裏道で会った三毛猫を五分ほどたっぷり撫でたあと尻尾を踏んでじっくり踏みにじり、柿の実を二個拾い耳の遠い婆さんが店番している化粧品店で手鏡を買い駐輪場からはみ出してた自転車を三台将棋倒しにし歩行者信号の点滅を四サイクルうち眺め唾を吐き、どうしてこうなっちまったのかなあ、コンビニのゴミ箱に裾を引っかけ猫の悲鳴を思い出して二度ほくそ笑み、鼻の頭にでかいホクロのある女子高生と目が合い、焼き鳥、三本買って食い串を塀の上に置きっぱなされた空罐に刺し自動販売機のポタンを空押しし電線を見上げ靴下を引っ張り上げ、日が暮れるまで虚空をさまよい歩き回ったのです。
 大ショックでした。僕は考えに沈みました。危機感でいっぱいでした。一生に一度きり出会えるか出会えないかの、理想の造形美が失われようとしている! あの醜い銀光りのワイヤと四角いブラケット群。ああ、ああ、ああ、僕は会社を、友人なんて一人もいないくだらない会社を休んで一週間ずっと自室にこもって考え込みました。じっとしているうちにも忌まわしいワイヤのバネがキリキリと、あなたの貴重な八重歯の隙間を押広げ、目に見えない速度ながら着実に一ミクロンずつ押し出つつあるのだと、一秒一秒がじわじわ浸食の目盛りを刻んでいるのだと、僕は寝ても醒めてもパンパンに火照った頭抱えて部屋中歩き回っては布団にもぐっておりました。きっと夜中に徘徊して人家に放火する御仁というのはこういう熱きタイミングにはまりこんだ人なのでしょう、気持ちがよおくわかりましたよ。ああ、考えてるうちにも、時間が刻々経っていくだけでああ失われていく、失われてく失われてく! 僕はもう、僕はもう。水も食物も喉を通らず歯ぎしりとともに両手の指がどんどん内側に曲がってゆきました。
 そしてふと思い出したのは、この春に結婚した妹が高校生の頃歯列矯正をやってたことでした。そのころからダイエット狂だった妹の歯列ってのはてんで深みも美しさもないただのでたらめな乱杭歯で歯茎にしても品悪く真っ赤だったりしたので別段もったいないとは思っていませんが。矯正ってのは確かふつう、再配置の隙間を得るため糸切り歯の一つ奥の小臼歯を抜いてから始めるものだと。器具を装着して二週間かそれ以上経ってから抜歯したように記憶しています、妹の例では。たしか先週月曜日にはあなたの歯に器具は付いてなかったのだから、まだ一週間しか経ってない、まだ小臼歯を抜いてはいないのでは。抜いてしまったら終わりだ、移動開始だ、抜かないうちに、さあ間に合うかも! 僕は暗闇に光が差してきたようで居ても立ってもいられず、きょう西武線から中央線、高円寺駅からずっとあなたの後をですね、オリオンビルのURオフィスですか、あなたが入っていかれるのを確認してから向かいのこの喫茶店「アカペラ」二階でビルの出口を見つめながらこれを書いている次第です。URオフィス――企画・翻訳事務とプレートに書いてありましたがどういうお仕事なのでしょう。
 そういや先週も中吊りに『女性自身』の記事見出しが出てましたっけ、「まだ間に合う! 大人の女の歯列矯正思いきり笑える! 心も!」とか。ああいう画一的コピーは、ナチュラルな歯並びの数だけそれに惹かれる美意識があるという現実に全く盲目になっている。人が各々の美を愛でる権利を否定する洗脳テロだ。とりわけあなたのような左右対称の八重歯は客観的に見ても歯並びが「いい」と評するべきなのだ。歯の幅と顎の大きさの微妙な釣り合いが生み出す稀なる陰弱の造形美。ホントもったいない話です。だけどああいう扇情記事に日に夜にさらされてりゃ普通の健康な感受性持つ若い女性がふっとぐらついてしまうのも当然といえぱ当然で、矯正医の戸口を叩いたからといってあなたへの評価が些かも下落するものではありません。まだ間に合うのです。無難無個性の標準規格へ改造後のあなたなんかを無難に愛する誰かより、あなたの生まれもった個性美に耽溺している僕のような男に愛された方が、あなた自身にとってよっぽどあなたらしい愛と幸福を掴めると思いませんか? ね? ね? ね? ね!
 だからお願いです。あなたのこの上なく美しい精妙な歯に接着された憎むべき金属を、一刻も早く、外してくださいませんか。どうかお願いです。心からお願いなんです。あなた一人で外せというのは無茶でしょうから矯正医に治療撤回を願い出てください、どうかお願いです。治療費半額前払いでしたって? だったら僕が全額弁償しようじゃありませんか。一千万くらいは貯金ありますんで。本当のほんとーにお願い。その見事な歯列を保存してください、僕のために。美を持てる者は美を保つ義務があります。あなたの歯は文化財なのです。ブラジル政府にアマゾン開発を思いとどまってもらうため、先進各国は無償の経済援助を行なうべきなのだ。熱帯雨林を保存していただくべきなのだ。僕はあなたのその口とディープなキスをしたい。したいのです。
 本当はお声を掛けてじかにこのことをお願いするべきなのでしょうがあなたのまばゆい八重歯の魅惑と呪うべき矯正装置との重なった光景を目にしながらでは緊張と焦燥で何も言えないてしょうからこんな方法を採らせていただきました。僕はあなたとお付き合いしたい。いや、結婚したい。あなたがもし独身ならば。これからあなたのお住まいまで赴いて確認させていただくわけですが僕はあなたと結婚したい。僕の写真を同封させていただきました。将来性確実な好青年であることがおわかりでしょう。僕は真剣です。念のため会社のアスリート大会での僕のスプリントを仲間が写したビデオも別便で投げ込んでおきました。前半には九年前の大学祭のストリートパフォーマンスも映ってます。壇の上で踊っている青い柔道着が僕です。どこからどう見ても曇りないナイスガイであることを確認してください。ね。ね。お願いします。一生のお願いです。あなたのその歯が無傷で残ってくれる限り、僕の気持ちが変わることは絶対にありえません。
 あす、いや、準備が必要でしょうから金曜日といたします、イエス、ノーのお返事だけでもお願いします。イエスのときは段通りの化粧気なしのナチュラルな出立ちでいらしてくださ、始発電車の例のあの席に。ノーの時は、ノーの時は……このまま歯列を改造なさり続けようっていうんですから……僕の見込んだナチュラルなあなたとは似ても似つかぬ女性になってしまってくれなくては僕のこの思いは諦めきれません。思いっきり人工的になってきてくれなくては困ります。だからノーの場合はそのしるしとして朱色の口紅をしてきてくれませんか。朱色、僕の嫌いな軽薄な色、朱色ですよ、ピンクでも赤でも紫もない鮮やかな朱色で。それからもちろん服もいつものコソバーティブじゃなくて赤系統で上下決めていただかないと。眉はトリミングして黛を引き、アイシャドウは紫色で、付け睫してビューラーでしっかり起こして、パウダーはきちんと厚みが見えるようにしてください。イヤリングかピアスを耳〜肩の空間七割以上届かせることを忘れずに、髪は黒以外に染めてソバージュでお願いします。当然、種類は問いませんが香水がしっかり匂っててくれなくては困ります。今挙げたうち一つでも僕が見落としてしまうような出立ちだったらあなたの答えはイエスですから。ノーの場合は一目瞭然、アーティフィシャルでキメてきてください。その場合に限り僕も、あなたの歯列改造を潔く認める気になりましょう。いや金曜日一日だけじゃない、これからずっとその線でケバケバになっていてくれなくて承服しかねます。ちょっとでもナチュラルなあなただったらイエスということになりますので。こんなにも悩んでる僕なんですから断わられるためにはこのくらい要求する権利はあるでしょう。
 ああ、でもノーだったらどうしよう。どうなっちゃうんだろう、ここまでお願いしてノーだったりしたら。あなたの愛しい歯を覆う唇の鮮烈な容赦ない朱色が僕の両眼を貫いたりした日には。僕は何をしでかしてしまうだろう。どうかイエスでありますように。そうでないと・・・。
 僕は絶対に真剣です。百%切羽詰まった誠実なお願いをしているのです。
  敬 具
  十月二十一日 T.M.
   まばゆいあなたへ