三浦俊彦による書評

酒見賢一『語り手の事情』

*『週刊読書人』1998年5月8日号所収


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 吉田戦車の漫画『伝染るんです。』に登場するかわうそ君は、初期の頃、ことあるごとに自分がかわうそであることを主張していた。雨の中の職務質問には「かわうそだから、雨に濡れても平気です」と答え、フィッシュバーガーを買ってはわざわざ店に戻っていって「魚をたのんだのは、ぼくがかわうそだからです」と付け加える。『語り手の事情』の「私」も同じだ。性的妄想を抱えて屋敷を訪れる男たちを癒すのが「私」という女性(?)の役割だが、自分が「語り手」であることをたえず明言せずにはおれない。童貞喪失の定型ロマンに囚われた少年に言い寄られて「私はただの語り手に過ぎぬ身です」とはねつけ、女性化願望を抱く紳士の妄想中の子宮像の誤りを指摘して驚かれ、あなたの心が「見えているのではありません。語っているのです」と注釈し、男のSM妄想が「危険な魂胆であったら、私も語り手として事情を考えることになります」と警戒し、淫夢に悶えては「語り手は他人の奇妙な体験談を語りますが、自分で自分の体験談を語るようなことには興味がないはずなのです」と自己批判する。
 このくどいほどの自己主張は、あのかわうそ君のような、丸ごと物語世界中の心理学的自己確認ではないらしい。小説内人格が自ら外化し対象化した、メタフィクショナルな文芸学的戦略の声であるようだ。
 しかし興味深いのは、この声が、創作コンベンションと作中事件とを連動させ融合させてゆく経過である。切り裂き魔に少女が襲われている現場に遭遇したさい「声を上げて逃げたいところではありますが、腹立たしいことに語り手の事情が立ちふさがっておりまして、この場で他人となることを許してくれないのです」「だんだん闇に目が慣れてくるのは、見えるように語るのが語り手のすべきことだからです」。語り手はこれこれの文芸学的役割を担わねばならぬ、という外的事情と、作中事件に対し登場人物が果たすべき内的役割とが、微妙にせめぎ合い、相互干渉し、バランスを保っては崩れかかる。この作中・作外の均衡こそが、「私」が執拗にこだわる「語り手の事情」なのである。
 他の作中人物たちは、「私」が「語り手の事情」を振り回して行動を自制するためにしばしば迷惑を被る。これが度重なってくると、「私」なる人物はあのかわうそ君と同類の、ピュアな偏執狂として作中に収束して見えてもくる。つまり、ここには「私」自身の自我妄想・虚構妄想・禁欲妄想があるのみで、なんらメタフィクショナルな構造転換は生じていないのではないか。この疑いは、最後に「私」が「語り手」から「主人公」に変貌したとされるくだりで濃厚になる。もはや「語り手の事情に束縛されなくていいのですから」と「私」が宣言するとき何が起こったかといえば、いままで抑圧していた性欲を解放してセックスに没入するということでしかない。「語り」批判としての文体カタストロフィが待ち受けてくれてはいないのである。
 性が過度にタブーとされたヴィクトリア朝に舞台を設定した本書であってみれば、性的妄想と世紀末文学のパロディ構造など、読み解くべき要素はまだまだ豊富に潜んでいるに違いない。しかしタイトルに誘われるままメタフィクションとしてまず相対してみるのが本書への妥当な姿勢だろう。この観点から見た場合、自己批判的射程の限界が気になってしまったことは事実なのである。
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