三浦俊彦による書評

★金井美恵子『彼女(たち)について私の知っている二、三の事柄』

* 出典:『文藝』秋季号(2000年7月)掲載


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 この小説のタイトルが、ゴダールの映画のタイトルをもじったものだというほどのことも本文で言われるまで知らず読みすすめていた私のような読者は、端ばしに仄めく外部との豊穣な関わりを、執筆舞台ともに十年前だった『小春日和』の続編という事実以外は気にせず、もっぱら内在するディテールのみ辿る楽しみ方を終始決め込まざるをえなかったようだ。そして実際、一八七頁にこけしが話題にのぼれば、前に出てきたよな、どこだっけと頁繰り戻し、長い夜話が一九三頁突然翌昼へスイッチするとともに台所のデジャ・ヴュが被さる一見無雑作なこういう転換っていいなぁとか、世知長けた将来の「美人若おかみ」由美子って、え、「脚が太いしO脚気味だ」ったの、と一九八頁で教えられれば俄然愛しく親しく思えてしまったり、そういうのだけでも十分酔えた気になれるこの小説だ。
 というのは何よりも、これがユートピア小説だからである。十年一日のヒロインたちがおびただしい間接話法の中で繰り広げる大質量の噂話、脱線、腰折り、連想、回顧、自説開陳、相槌、揚げ足取り、憶測、グチ、邪推、人物評価の数々が、「言葉」のニュアンスとコノテーションを過剰に尊重しているのだ。「働かざる者は食うべからず」「十年一昔」といった格言や成句に全員が律儀にこだわるし、桃子はおばさんや弟や自分自身の科白に母親そっくりのアクセントや口癖を嗅ぎとっては怯み苛立ちまくる。公の言葉も私的呟きも、語という語が彼女らにとってことごとく珠玉であり寸鉄であるかのようである。
 家族友人から聖パウロ、レーニン、マリリン・モンローに至るまで有名無名の言の葉どもにかくも敏感にのけぞりつづける有閑レディ集うアパート一室は、それこそ「おばさん」の視点からすれば、しかも小説家のプライベート空間から出入自在の近所にそれが存在しているとあっては、理想の読者にたえず囲まれているような、とてつもなく居心地よい桃源郷に違いない。「誹謗と批評の区別もつかない」鈍感な新聞記者により原稿をボツにされもする散文的俗世を補って余りある、デリケートなバランスの上に奇跡的に点った知的時空なのだ。平凡なようで決して容易に実現するはずのないこのトポスが、十年間さほど変わることなく、それどころか「十年なんて、あっという間に過ぎてしまうものだ」「つい、昨日のようにも思えるけどなあ」といった調子で続いているというのだから、これがユートピアでなくて何だろう。
 もしかしてまさか、金井美恵子の身辺には、現実にこのような会話が溢れているのだろうか。複数の女性に交じって話す機会の比較的多い私だが、芸術に風俗に歴史にゴシップに、ハイブリッドな断片が高低滑空するこのテのノリにはついぞ立ち会ったことがない。それもそのはずか、小説終盤、桃子と花子の会話も文学青年小林をはさんだとたんいつもの闊達が偵察的な固さへくぐもっているのが見て取れる。そうか……、これが理想化されたユートピア小説なのか端的な写実小説なのかは、女の会話に参加するんじゃなく盗み聴くしかないわけか。男-女という定型区分を嘲る洗練度を天然ボケのオーラよろしく発し続けるヒロインたちだが、十年前の花子の「オレ」がここでは「おれ」に進化したことでもあるし、あえてこの本素材に「男どうしにゃこういう会話絶対できないよなあ……」的仮想嫉妬にしばし浸ることも許されるだろう。

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