三浦俊彦による書評

[柳瀬尚紀『ジェイムズ・ジョイスの謎』(岩波書店)の書評」

* 『すばる』1996年4月号, p.291 所収


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 羽生善治との対談(『対局する言葉』毎日コミュニケーションズ)で柳瀬尚紀はたしか「最善手、正しい翻訳の仕方は一通りしかないはず」という意味のことを語っていた。まさしくその信念が具体的実証の場を得て、ここぞと嬉しげに言葉を撥ね散らしている-そんな印象の本書である。
 ジョイスの『ユリシーズ』第12章の語り手が人間ではなく犬であるということ-73年間誰も気づかなかった真実-を、語り手はジョウのおごりにありつけたのか、語り手は何をするためにパブから出たのか等々周辺の謎解きも巻き込んで、緻密に論証してゆく。その筆致は文学的というよりもゲーム的、いやむしろ数学的である。
 ところで、最善の翻訳がただ一通りであるとはどういうことだろうか。もちろん、言語効果の変換レベルでの妥協や怠惰を許さぬ翻訳家の職人気質の表明と見ることもできるだろう。しかし少なくとも本書の扱う謎のほとんどは、表現効果の層を超えて、「虚構世界で何が起こっているか」という、実在への問いである。諸々の細部が「どっちにも取れる」にしてもあくまで「正解は一つだ」と柳瀬は言い切る。間違った読みはすべて断罪されねばならないのだ。
 虚構世界がこの現実世界と同等のリアリティをもって隅から隅まで確定している、という力強い前提に立脚してこそ、「俺=犬」などという前人未到の発見があったのだと唸らされる。「表層の戯れ」だの「読みの多様性」だのいう文学理論風スローガンは、柳瀬にとっては、ただの怠惰や鈍さの弁明にしか過ぎないようだ。いかなる言語遊戯も単なる表層の問題には尽きず、必ずや虚構内事実にぴったり対応して、その色や形を定めているはずなのだ。
 圧巻は、テクストに何度かみえる 'gob' という間投詞をなぜ「どベッ」と訳さなければならないかの論証である。百二十四頁近辺のこの論証を辿るためだけにでも、文学愛好家は本書を座右に置く価値がある。'gob' がただの間投詞ならぬ犬投詞である旨がとことん証明され、「俺=犬」説の鮮やかな傍証たりおおせているのである。いやはや文学とはつくづく、精一杯真剣にふざけることだ、という認識を新たにさせられるではないか。
 「正解は一つ」などという断言が、今やとてつもなく反動的な、ダサい、恥かしい素朴実在論を響かせるということは柳瀬自身よく承知しているだろう。だがそこを徹底的に突き詰めることこそが最も洗練されており、衝撃的だったのだ。その証拠に、近年、新聞報道までされた文学解釈上の発見は、ただ一つこの柳瀬の仕事くらいではないか。言語と実在との堅い結合を本音で信じ通すことから必然的に帰結した、輝かしい成果である。

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