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映画評

★「天然調教の美学」
  ビターズ・エンド『月光の囁き』(パンフレット、1999年10月刊)所収


 私は四文字熟語が好きだ。「健康食品」とか「環境音楽」とか「自然淘汰」とか「輪廻転生」とか。日常生活から芸術、哲学の分野にわたって、四文字熟語にカブレながら過ごしてきた。
 今回『月光の囁き』を見て、うずうずとなにか、明らかに四文字熟語的こだわり心をくすぐられながら、既成のいかなる四文字熟語でも飽き足らない衝動が込み上げてくる感じがした。
 出来事が「鍵の挿入」から始まっているのがまず象徴的である。鍵の挿入それ自体は、中にひそむブルマーを取り出すための手段に過ぎない。鍵は規格化され鋳造された単なる符号であり、挿入はただの過程としての透明な行為でしかない。これは拓也が紗月と付き合い始めてから、ベッドの上で挿入を途中で止めたことと響きあっている。世の中の約束事、男と女の愛はこうあるべしという規格から全く外れた「自然」へと、「両片思い」の原初状態へと北原紗月の愛を引き戻そうとしている日高拓也。規格外の天然愛が花開くには、このような始まり方しかなかったかのようだ。
 フェティシズムの極限形態として昨今ベールを脱ぎつつある「スカトロジー」の世界では、作為的な浣腸排泄よりも自然排泄のほうがはるかに尊重されているというのが業界周知の事実。最近とうとうテレビや週刊誌ですっぱ抜かれて公に認知されてしまった「トイレ盗撮」も、自然体から無心に搾り出される極太便を追求したい切なる欲望に発する企てだ。日高拓也が録音した北原紗月の放尿音も、頼みに頼んで拝み倒して得た演出音ではなく、紗月の知らぬところで採集した自然音だからこそ、拓也の興奮を誘うのだろう。拓也が夜な夜な顔をうずめた紗月のブルマーや靴下も、ブルセラショップで売り買いされる値札つきの代物とは桁違いの天然オーラを放っていたはずだ。
 しかしみつかってしまった。「変態」と罵られ逃げられてしまった。愛が変態にいともたやすく敗れた。自然フェティシズムの道は閉ざされた。拓也のとった苦肉の策は何であったか? そう、驚くべき「天然調教」だったのである! 天然調教。何たる四文字熟語か。拓也と紗月の潤んだ瞳を屋内屋外さまざまな背景のもとで見せられるにつれ、このような怪しげな新語がむくむくと私の脳裏に湧き拡がってきたのである。
 苦肉の策とはいっても、考え抜いたあげくの挽回策などではない。一切の作為を排除して、自然な衝動に身を任せただけ。失意のストーキングが紗月にばれたのも、拓也を偶然見かけた姉が彼を雨宿りさせたからに過ぎない。拓也には下心も策略もいっさいない。犬の忠実さがあるだけだ。この「自然さ」であればこそ、紗月の中の女王様的資質をこれまたごく自然に引き出すことができたのだ。
 通俗SMの展開とは裏腹に、紗月は拓也からいじめてくれと懇願されたわけでもなければ教え導かれたわけでもない。たたずむ拓也の姿が放つ「気」が、自ずと紗月を目覚めさせてゆく。気の波が合うことによって気合が気合を呼び覚まし、紗月の内部に気が膨張し、怒りと蔑みと苛立ちと愉悦がごちゃまぜに混乱を生み、腹の中で練り回され、気張りに気張った苦悶のあげく紗月はみごと「SM愛」を自然排泄で産み落としたのである。拓也の願望が自然成就した。天然調教の完成。いちど「変態」に呑み潰された「愛」が、「変態」を内部から食い尽くし、青虫が蝶に変態するようにして自然蘇生を遂げたのである。
 天然調教……。この四文字は、不思議な四角関係の気合放射の焦点で実を結んだ稀有なSM美学である。拓也と紗月の自然に歪んだ自我を外側から包む、植松とマルケンの規格化された純愛環境。四つの瞳のうち二つを包帯と眼帯で覆ってあとの二眼を静かに潤ませるラストシーンは、四角関係の薄もやにひときわ輝いた二人の愛を示している。