三浦俊彦の時空-電子掲示板(過去ログ 2012年分)

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Re: 「実験終了後、あなたが場合Aへと目覚める確率は?」 投稿者:φ 投稿日:2012年12月28日(金)00時59分48秒 返信・引用

> No.3654[元記事へ]

TTTさんへのお返事です。

>
> さて、こちらからも質問しますが
> φさんは、唯一設定で(2013年1月1日・2日に)この実験の被験者となったとして、
> 「今が1月1日である確率は?」「今が場合Bの1月1日である確率は?」と実験中に質問された場合、それぞれ何と答えますか?
> 観測者ごとに考えるだけでは、これらの質問に答えることはできません。
>

 「今が1月1日である確率は?」
 1/2説では、3/4。1/3説では、2/3。
 「今が場合Bの1月1日である確率は?」
 1/2説では、1/4。1/3説では、1/3。

 日付が問われているからには、観測者切片を単位として考えざるをえないのは当然です。むろんそれは、観測者を単位とする考え方(それが出来る場合は優先される)と矛盾するわけではなく、先投げ唯一設定では、場合A月1/2、場合B月1/4,場合B火1/4から出発して、それぞれを観測者切片の確率に従って分割するだけのことでしょう。

>
> 今は実験中覚醒時で
> 実験中は確率1/2で場合Aとして覚醒する、そうでない場合は場合Bとして覚醒する(どちらであるか判別できない)
> また、実験中は月曜日と火曜日にのみ覚醒する(記憶消去があるため、今どちらであるか判別できない)
> ということがわかっている時、確率空間は
> 全事象{A-月,A-火,B-月,B-火}、確率1/4ずつとなります。
> この時
> 「場合A、場合Bともに月曜日と火曜日に覚醒する。今は場合Aの火曜日ではない」という情報(スターダストさんの設定)と
> 「場合Aは月曜日のみ覚醒し、場合Bは月曜日と火曜日に覚醒する」という情報(眠り姫問題の設定、特に唯一設定かつ先投げ設定の場合も)は
> 確率論上は同一の情報とみなされる(確率論上区別できない)ので、これらの情報を得た後における場合Aである事後確率は同じく1/3と計算されます。
>

 {A-月,A-火,B-月,B-火}の実験中覚醒で、「今はA-火ではない」とわかったとき、そこでオリジナルの眠り姫問題すなわち{A-月,B-月,B-火}の実験と同じ論理構造を持つようになったというのですか?
 それは大きな誤りです。

 「今はA-火ではない」とわかった、というわかり方が重要です。
 ここではゲームのルールが保たれていることが前提ですから、その解釈は一義的に決まります。すなわち、プレーヤーにとって「ルールからして私はA-火に目覚めるのだから、今がそれである可能性もあったのに、そうではなかった」というわかり方です。
 その場合、Aである確率は減少し、Aは1/2→1/3と改訂されます。
 ところが、次のようなわかり方もありえます。
 「このゲームのルールは、実は、{A-月,B-月,B-火}だったのだ。A-火に目覚める可能性はゼロだったのだ」という解釈です。ルール説明の訂正ですね。スターダストさんの設定ではこれは自然な読みではないので排除されますが、オリジナル眠り姫問題はこの解釈で考えるべきです。

 tに実際に目覚めるのだが、今はtではないとわかった、というのと、tに目覚めないがゆえに今もtでないとわかった、というのは大違いなのです。
 A-火の目覚めが実在するのかどうかの違いを無視して、「確率論上は同一の情報とみなされる」などと言うのは大誤謬です。1/3説支持者は、そこを混同している疑いが大ですね。

 なお、以前の「独立」の記載は、多数試行の中で各々の玉が一度でも指定されるかどうかの確率に相関関係がないことを述べています。同一主体が経験する目覚めは、自由な組み合わせでは得られないため(観測主体は、瞬間ごとに任意の観測者切片としてそのつど指定され直されはせず、既定の身体と結びついているため)、一度でも経験されるかどうかについて互いに強く相関しています。
 また、「確率が両立する、しない」ですが、あれは書き間違いです。句をコピペしてあとから消そうと思っていたQ( )の消し忘れです。すみません。( )内の命題について、両立する・しないと言っていました。


Re: 不可能性の証明 投稿者:Hatrick 投稿日:2012年12月26日(水)17時52分32秒 返信・引用

> No.3652[元記事へ]

スターダストさんへのお返事です。

スターダスト様へ
詳細なレスを有り難うございます。色々な考察の材料になるのでとても有り難いです。
前回の私の投稿は、話言葉で気軽に論理に関する感想を大雑把に表現した程度のものだったので、スターダスト様の鋭利精密な疑義に対して、表現のテキトーさを反省しました。
今回は、できるだけ、精密に表現してみたいと思います。
ご紹介して戴いたEMAN氏の頁に次のような表現があります。
・・・・・引用開始・・・・・・・
とにかく対称性があればそこに必ず保存量が存在する、という考えは間違いのようだ。 例えば、常に一定方向に同じ大きさの力が掛かって加速しているような質点の運動方程式は、平行移動してみたところで、形が全く変わらない。 この運動方程式には並進対称性があると言えるだろう。 しかしこの質点の運動量は保存などしないで変化し続けるのは明らかではないか。
・・引用終了・・・・・・・

私は、エネルギー保存則において、「時間発展対称性」は必要条件であるが、十分条件ではない、と思索して、前回感想を述べました。すなわち、「時間発展対称性」が十分条件たる原因であって、それによってエネルギー保存則が必然的に導出され成立する、というのではなく、エネルギー保存則が成立するために、欠かせない要件の一つ(に過ぎない)、と理解しているのですが・・・。
違うでしょうか?
ですから、スターダスト様の以下の部分の「導出」の妥当性には疑問を持っています。
但し、「公理は仮定されるもの」という点は、その通りだと思います。
>法則の「時間発展対象性」を、観察される【事実】と【仮定】し、これを公理とすれば、定理としてのエネルギー保存則が導出されることを申し上げました。


次です。
>エントロピーの概念を持ち出しても、先にあげさせていただいたことがらに、異反するものではりません。先にあげさせていただいた事柄は熱力学第一法則としても理解されていることですし、エントロピーの概念を扱うならば、熱力学第二法則を考える必要があります。 このふたつの法則をごっちゃにしてはいけません。


「私は二つをごっちゃにしているのだろうか?」と自問しました。私は両者をまるっきり別異と観ることは困難なのではないか? と思索しています。
エネルギー保存則は、エネルギーの「質の問題」と不可分です。なぜなら、取り出したエネルギーを使用したとしても総量は変わらないわけですが、その系のエントロピーは増大する一方なので、取り出せるエネルギーの「質」という意味では「劣化」するばかりだからです。
エネルギー保存則自体は、孤立系内で「一端増大したエントロピーを小さい状態(良質)」に戻す(縮減する)ことはできない、ことをも意味していると思われます。(縮減するには、そのためのエネルギーをその系の外から持って来る必要があります。)
つまり、孤立系にてエントロピーが増大する一方で、やがて迎えるエントロピー極大のときには、もはやエネルギー変換されない、できない状態となり、その系は「熱的な死」を迎えると予想されます。つまり、このときには、取り出せるエネルギーがないので、エネルギー保存則を言うまでもないし、ただ不変量エネルギーがあるだけ、となるでしょう。
(現在の疑問思案点は、ブラックホールは、エントロピー増大法則に反しないのかどうか? ということです。局所的とかマクロ的とかブラックホールの性質とか、色々考えますが、スターダスト様は、どうお考えですか?)

次の論点です。
>一方、物理学者が立てる公理は、観測される事実に反するならば、直ちに棄却されることでしょう。(・・・)であるならば、Hatrickさんと仏教学者達との争点は、理論の内的な完成度ではなく、外的な実証性に求められることとなりましょう。 物理学でいえば、観察という名の実験ですね、これが、ものをいうわけです。


その通りです。「外的な実証性」の問題として論じています。
北朝鮮の歴史教科書で勉強した北朝鮮の人民は、日本や米国の歴史教科書で勉強した人々とは、見解が全くかみ合わないでしょう。そこで重要なのは、互いに盲信を言い合うことではなく、「事実は何か?」をありのままに観ること、検証することです。

悪しき日本の仏教解説書(仮にFBと表記)をお読みのスターダスト様の認識と、私のインド正統派アドヴァイタ・ヴェーダンタの認識(仮にAVと表記)では、北朝鮮の歴史教科書と米国の歴史教科書ほどの差異があります。
AVの見解は、「God the Creator,God the Creation,and God the Reality are all one.」(by sri chinmoy)となり、神を悟るリアライゼーションによる苦からの解脱を説きます。この立場からは、キリスト教の核たる教説「永遠の生命とは神を知ることである」とも完全に一致します。そしてこの立場からは、釈尊の悟りもこれと異なるわけがない、となります。なぜなら、これしか真理はない、とするからです。
そして、「論理的な否定の不可能性」として、「我々の生命をも神の一部としての既存事実と認識するAV思想に対して、無神論の立場からそんな「神」は存在しないと主張しても、その主張は、妥当正当な、「論理的な否定行為」になりません。なぜなら、「我々の生命をも神の一部とするAV思想」を「それらの生命は神ではない」とは言えても、AV思想における「神そのもの」を「否定の俎上」に載せるべく、正しく具体的に指示した上でそれを否定することは不可能だからです。あなたが否定する「その神って具体的に何?」と追求すると具体的には答えられない曖昧模糊としたものしか、否定できないからです。
にも拘らず、FB(フェイクブッディズム)信徒たちは、「諸法無我」という教義こそが「その神」を否定する論拠だと主張したり、「釈尊の無記」が「その神」を否定する論拠だと主張したり・・と、もう論理的には、支離滅裂で、「判断の暴走」「判断の誤謬」が顕著です。

大乗仏法では、(1)縁起を観る者は (2)「法」を観ることを得て悟ることで(3)苦を滅し度す  とします。
しかし、「諸法無我」は、証明不可能な「公理」としての信仰言明でしかなく、これを単に真だと盲信したとて、「縁起を観る」ことにはならないのはおわかりでしょう?
ですから、そのような「盲信だけ」では、(1)~(3)のどれも充たすことができないのです。実際、「諸法無我」を真だと盲信することで悟った者を私は知りません。
一方、AVにおいては、苦を滅し解脱した(とされる)聖者が近代でも複数います。その思想を検証すれば、(1)と(2)についても、「諸法無我」を背理法として捉えていることで、(?)縁起を観て、結果(2)「法を観て悟る」ことを充足していることがわかります。
天が下のすべての「被造物」には、「神たる制作者のサイン・印」があります。
「その印」こそが、「自によって生起したのではなく、他によってのみ生起するもの」という「空虚なる性質」なのです。
「空虚なる性質の存在のみ」(の集合)では、数学的なイマジネール(虚数的)な「虚」にしかならないのが、おわかりでしょうか?
第一原因(独立変数にしてその変数の具体値を意思決定して投入できる存在)が欠如したままの、「従属変数」的な性質の存在のみでは、「具体値が決定されない」からです。「未然形のまま」「虚のまま」の「単なる観念」に留まります。ゆえに、「これのみの縁起論」では、我々の存在のリアリティー(実在性)に合致せず違背します。(※かくのごとく縁起の本質を理解することこそ、現実のマテリアル世界に対して縁起を観る、そして縁起を悟る、というステップのための肝です)
従って、「他によってのみ発生」の「他」には、「水平的な物質的連鎖」という(マテリアル次元の)依「他」生起性のみならず、「虚なるものに実在性を付与」するところの(マテリアル次元ではない形而上学的な異次元との関係性における)「垂直的で直接的な、それらを支える第一原因にして現原因」たる「(不二絶対界の)実在者が(相対界の顕現においては)(創造神ではなく)様態変化神となるような存在」を「他によってのみ発生」の「他」に含ませるという結論に到るほか、「現実の実在性」に適合する論理になる筋道は、ほかにないはずなのです。
・・・・以上、という論旨です。
そして、これは、アルバート・アインシュタインが普通のユダヤ教やキリスト教の神ではなく、信じるとしたらスピノザ的な理神論だ、としている、まさにその「スピノザの(様態変化する)神」と一致する思想なのです。



Re: 「実験終了後、あなたが場合Aへと目覚める確率は?」 投稿者:TTT 投稿日:2012年12月26日(水)05時40分15秒 返信・引用

> No.3635[元記事へ]

φさんへのお返事です。

> TTTさんはひたすら1/3説の正しさを力説しておられますが、もちろん私は、基本的に、1/3説が正しいということで異論ありません。
> TTTさんのコメントは、私の考えへの批判だとしたら、ポイントを外しているように思われます。
> 私が論じているのは、「唯一設定の場合、先投げ設定では、後投げ設定とは異なり、1/2説が正しい」ということです。
> 理由は、観測選択の単位が違うからです。そこが議論のカナメなのですが。
> TTTさんのコメントには先投げ設定と後投げ設定の区別が欠けているので、私としてはその区別を繰り返すことしかできませんね。

私の主張は「唯一設定、先投げ設定の場合でも、後投げ設定と同じで、実験中覚醒時では、1/3説が正しい」ということであり
ここがφさんの主張との相違であることも、私は理解していますよ。
前回の私のコメントは唯一設定で先投げ設定の場合でも成り立ちますし、唯一設定で先投げ設定の場合についての意見のつもりで書いています。

私の主張に反論するのであれば、ご自分の主張を繰り返し力説するだけでなく、私の意見の間違っている点や矛盾点を指摘されてはいかがですか?

φさんの主張の最大の欠点は、1/2説はベイズ推定(事後確率、条件付き確率の定義)に反しているということです。
「1回だけならベイズ推定(事後確率、条件付き確率の定義)に反しても良い」というようなアドホックな主張は認められないので
「唯一設定で先投げ設定の場合は1/2説が正しい」も認められません。

それと、前回も述べたように、φさんの用いている用語
特に「観測選択の単位」「独立」「(確率同士が)両立する/しない」
の意味が不明なので、(「議論のカナメ」と言うからには)きちんと用語の説明をするなり、確率論・ベイズ確率の用語に換言するなり、訂正するなりして下さい。
用語の説明(眠り姫問題から離れて、一般にどのような定義・意味なのか、確率とどのように関係するのかの説明)は
眠り姫問題の中で、どのように用いられているのか、確率とどのように関係するのかの説明と分けて下さいね。


> したがって、先投げ設定では、実験開始後、覚醒させられたとき、問われている質問
> 「場合Aである確率は?」
> は、正確には、次の質問となります。(プレイヤーの名前をαとします)
> 「あなたが、場合Aにいるαである確率は?」

先投げ設定と後投げ設定のどちらであろうが、実験中覚醒時のプレイヤーαにとって
「今のこの私が、場合Aにいるαである」は
「今のこの私が、場合Aの月曜日に覚醒しているαである」と同値です。同様に
「今のこの私が、場合Bにいるαである」は
「今のこの私が、場合Bの月曜日に覚醒しているαであるか、場合Bの火曜日に覚醒しているαである」と同値です。

「場合Bの月曜日に覚醒しているα」と「場合Bの火曜日に覚醒しているα」は、
同一の個人・同一人物かどうかはともかくとして(「個人」の定義次第でどちらにも成り得ます)、事象的には全くの別物です。



> ところで、質問を次のように言い換えてみましょう。質問内容としてはオリジナルと同じ質問です。
> 「実験終了後、水曜日に、あなたが場合Aのαとして目覚める確率は?」
> 観測者としては(「あなた」の指示対象が人間としての観測者であるとき)、正答は1/2です。答えた観測者の半数が、場合Aのαとして目覚めるからです。
> 観測者切片としては(「あなた」の指示対象が「答え」であるとき)、正答は1/3です。解答切片の1/3が、場合Aのαとして目覚めるからです。
>
> TTTさんは、唯一設定で(2013年1月1日・2日に)この実験の被験者となったとして、
> 「2013年1月3日にあなたが場合AのTTTとして目覚める確率は?」と実験中に質問された場合、「1/3」と答えるのでしょうか?

実験中の覚醒時で、他に何の情報も得てない時に質問されたのならば、当然、何の疑問もなく「1/3」と答えます。
実験中覚醒時における「今の私(の状態)」は
「場合Aの1月1日に覚醒している私」「場合Bの1月1日に覚醒している私」「場合Bの1月2日に覚醒している私」のいずれか(確率は1/3ずつ)であり、
そのうち「場合Aの2013年1月3日に覚醒する」のは(「場合Aの2013年1月3日に覚醒する私」になるのは)1つだけだからです。
ちなみに
実験中の覚醒時で、「今は1月1日」と教えられた時に質問されたのならば、「1/2」と答えます。


> 実験中目覚めたとき(日付がわからないとき)に、「2013年1月3日にあなたがどちらの場合の◎◎として目覚めるか?」
> という質問に対して全員が常に「場合A」と答えた場合の正解率は?
>
> 1/2説と1/3説の違いは、「正解率」を、正解する人数で計算するのか、正解する答えの回数で計算するのかという違いに帰着します。
> 通常は、人数で計算するでしょう。つまり、もともと1/2説の方が常識的なのです。
> 同じ人間が何回同じ答えを発声しようが、ただ一回答えたよりも重みが増すわけではありませんからね。

確かに一般にこのような場合に、『場合Xである確率がp』ならば、
『「あなたはどの場合か」という問いに、全員が常に「場合X」と答えると仮定した場合の、回答(者)の正解率の期待値はp』は成り立ちますが、
「全員が常に同一の答えをする」などという恣意的な仮定をしなくても
つまり「各々が好きなように自由に答える、あるいは適当に答える」と仮定した場合でも、一般に
『「あなたはどの場合か」という問いに、「場合X」と答えた回答(者)の正解率の期待値はp』が成り立ちます。
(自由に答える・適当に答えるということは、「場合X」と答えるか否かは確率的に決まるということだからです)

眠り姫問題の場合、「あなたはどちらの場合か」という問いに対して、『常に(つまり確率1で)「場合A」と答える』という恣意的な仮定ではなく
一般化して『適当に答える』つまり(定数qに対して)『確率qで「場合A」と答える』と仮定した場合を考えると
同じ人間が1回目の回答と2回目の回答で、異なる回答をしてしまう可能性があります。
その場合、その人を単純に「正解人数」あるいは「不正解人数」としてカウントするわけにはいきませんから
「正解率」を「正解人数」で計算することはできません。よって、回答ごとに着目して考えるしかありませんね。


さて、こちらからも質問しますが
φさんは、唯一設定で(2013年1月1日・2日に)この実験の被験者となったとして、
「今が1月1日である確率は?」「今が場合Bの1月1日である確率は?」と実験中に質問された場合、それぞれ何と答えますか?
観測者ごとに考えるだけでは、これらの質問に答えることはできません。



> スターダストさんの設定では、
> A場合・A場合Bともに月曜日と火曜日に目覚めるとのが初期設定で、
> そこから、「今はA・火ではない」と判明した、というのが問2ですね。

> オリジナルの眠り姫問題とは初期設定のルールが違う全く別のゲームですから、
> 「ピーチ姫派の場合ですが、あなたがたは既にオリジナル眠り姫問題の1/3派になりさがっています」
> というのは間違いでしょう。

以前述べた@1と一部同じですが
今は実験中覚醒時で
実験中は確率1/2で場合Aとして覚醒する、そうでない場合は場合Bとして覚醒する(どちらであるか判別できない)
また、実験中は月曜日と火曜日にのみ覚醒する(記憶消去があるため、今どちらであるか判別できない)
ということがわかっている時、確率空間は
全事象{A-月,A-火,B-月,B-火}、確率1/4ずつとなります。
この時
「場合A、場合Bともに月曜日と火曜日に覚醒する。今は場合Aの火曜日ではない」という情報(スターダストさんの設定)と
「場合Aは月曜日のみ覚醒し、場合Bは月曜日と火曜日に覚醒する」という情報(眠り姫問題の設定、特に唯一設定かつ先投げ設定の場合も)は
確率論上は同一の情報とみなされる(確率論上区別できない)ので、これらの情報を得た後における場合Aである事後確率は同じく1/3と計算されます。

物理的、心理的、あるいは他のなんらかの基準では別のゲームに見えても
確率論的には同一のゲームであり、確率の計算・値は同じになります。
確率の問題に、確率論以外の基準を持ち込んできて、確率論に反することまで主張するのは、単なる間違いです。

確率論と、確率論以外の基準との関連を考察するのも意義あることかもしれませんが
1/2説、φさんの主張する分岐の理論が確率論に反する以上、
確率論と分岐との間にはφさんが思っているような関連はなかった、つまり
分岐によって、確率を求めることは一般にはできない(できる場合もあるかもしれないが、少なくとも眠り姫問題ではできない)
ということです。


Re: 「唯一設定の場合、先投げ設定では、後投げ設定とは異なり、1/2説が正しい」 投稿者:スターダスト 投稿日:2012年12月25日(火)11時46分26秒 返信・引用

> No.3651[元記事へ]

φさんへのお返事です。

> スターダストさんへのお返事です。
>
> ブログを拝見いたしました。
>
> 一つ大きな疑問があるのですが、
> スターダストさんの設定では、
> A場合・A場合Bともに月曜日と火曜日に目覚めるとのが初期設定で、
> そこから、「今はA・火ではない」と判明した、というのが問2ですね。
>
> 正解は、「ピーチ姫派」でしょう。
> 「問2の正解は、1/3。」で問題ないはずです。普通にベイズ式で計算すると。
> むろん、「今はA・火ではない」と判明した経緯にもよりますが、「いきなりそのようなデータが与えられた」という場合、場合Aは1/3になりますね。
>
> オリジナルの眠り姫問題とは初期設定のルールが違う全く別のゲームですから、
> 「ピーチ姫派の場合ですが、あなたがたは既にオリジナル眠り姫問題の1/3派になりさがっています」
> というのは間違いでしょう。

貴重なご指摘をありがとうございます。
ゆっくりと考えさせて頂きたく存じます。


Re: 不可能性の証明 投稿者:スターダスト 投稿日:2012年12月25日(火)11時45分1秒 返信・引用

Hatrickさんへのお返事です。

> スターダストさんへのお返事です。
>
> エネルギー保存則に関するアドバイスを有り難うございます。
> 私見としましては、「時間発展対称性」と「エネルギー保存則」は同義・同値ではないと思えます。前者も恒真式、後者も恒真式ということで証明されているように見えますが、両者に決定的な関連性があるのか、疑問を持っています。

疑問をもたれるのは結構なことです。疑問を持つ物理学者も(少ないながら)いらっしゃるはずです。だからこそ物理学は発展するのですから。 ただ、Hatrickさんのお持ちになる疑問と、物理学者が持つ疑問とは、内容が異なってくるのでしょうね、おそらく。

・法則の「時間発展対象性」を、観察される【事実】と【仮定】し、これを公理とすれば、定理としてのエネルギー保存則が導出されることを申し上げました。
・エネルギー保存則を、観察される【事実】と【仮定】し、これを公理とすることで、いわば定理のように、さまざまな物理現象を説明していることも申し上げました。

これ以上でもこれ以下でもありません。ここが肝心なところですが、エネルギー保存則は、物理学者にとって、恒真なるものではありません。 あくまでも観察される事実を説明するのに都合が良い、括弧つきの【事実】です。論理だけで証明されるものではありません。

> エネルギー保存則は、閉鎖系にてこのように観察されるわけですが、同時に、エントロピーの観点からすれば、不可逆的変化として、エントロピー増大(不減)法則が働いていることが観察されます。その関連性に、何か秘密がありそうだと思います。
> エントロピー増大法則に関しても、ビッグバンからエントロピー増大し続けている、という超マクロ的観点からすると、終焉を想定できるのか、しかし、宇宙が加速しているというのですから、もう、何がなんだか、わかりません。
> 永久機関に関しては、不可能と思わない一握りの人は常にいるわけで・・・・。

エントロピーの概念を持ち出しても、先にあげさせていただいたことがらに、異反するものではりません。先にあげさせていただいた事柄は熱力学第一法則としても理解されていることですし、エントロピーの概念を扱うならば、熱力学第二法則を考える必要があります。 このふたつの法則をごっちゃにしてはいけません。

> ただ、仏教に目を転じるならば、「諸法無我(が真である、すなわち現実に合致した説明になっていること)」は、すべての諸法を調査することは不可能なので、証明不可能と言えますから、これは「公理」として立てられたもの、と言えます。
> ということは、この公理は絶対というわけではないわけです。

おっしゃることがよくわかりません。 公理は絶対なのですか? 平行線の公理は、ユークリッド幾何学においては公理でした。 実験で精密に観測された事実を説明する一般相対論の見地では、この宇宙はリーマン幾何学に従っていて、平行線の公理を満たしません。 しかし、数学者にとっては、ユークリッド幾何学も、リーマン幾何学のような非ユークリッド幾何学も、両方とも、採用する公理が異なるだけで、ともに、研究すべきことがらです。公理は絶対ではありません。
また、数学者は、選択公理を採用した集合論も採用しない集合論も研究します。どちらが正しい数学体系なのかという論争はしません。

> つまり、正反対の公理「形而下世界の諸法が無我は真であるがこれだけでは運動ゼロと結論されるためこれだけでは現実には合致しない偽であること」も、公理として立てることは可能だということになります。
> この互いに正反対の公理は、立てるのは可能ですが、それが現実に対して、どちらがよりよく説明しているか? という観点で、妥当性評価で、どちらがより妥当か、評価することは、可能ではないのかなあ、と、思っております。
> 以上です。


仏教者の立てる公理と、Hatrickさんの立てる公理とが異なることはよくわかります。 しかし、公理体系が異なることをもって、どちらが正しいかについて論争することは困難です。 選択公理つきの集合論で数学世界を理解しようと努めている数学者が、選択公理抜きで数学世界を理解しようとしている数学者を非難することはありません。
論理は、公理の正当性を保障しません。

一方、物理学者が立てる公理は、観測される事実に反するならば、直ちに棄却されることでしょう。平行線公理を暗黙に使っているニュートン力学的世界像は、宇宙を精密に理解するためには、使えなくなってしまっていることですし。(かつて真実として捉えられたニュートン力学を絶対的な真実と考えるならば、水星の軌道すら計算できないのですし、身近なところではカーナビも役立たずです。)

Hatrickさんへは、理論の内的な完成度をもって、仏教の教理に対抗しておられるようですが、それだけを武器とするならば、そもそも彼らとは公理系が異なりますので、論争することは難しいのではないでしょうか。ちょうど数学者たちが異なる公理系の数学宇宙を自由自在に行き来して、数学世界を扱っていることを想起せざるを得ません。

であるならば、Hatrickさんと仏教学者達との争点は、理論の内的な完成度ではなく、外的な実証性に求められることとなりましょう。 物理学でいえば、観察という名の実験ですね、これが、ものをいうわけです。 アインシュタインの一般相対論の競争相手が…かつて…確かにありました。 マッハ哲学に準拠した、内的な完成度が非常に高い美しい理論でした。 しかしながら、天文学の発達による観測事実が、この美しい理論を、否定することになりました。 内的完成度は高かったのですが、外的な実証にはパスしなかったのです。
仏教者達が求める外的な実証はなにか。 苦から救われるということがらでしょう。
Hatrickさんが求める外的な実証はなんでしょうか?

同じ実証を持たないのであるならば、もはや、仏教者とのあいだで、真偽を競争するわけにもまいりますまい。仏教者は、苦から救われるという実験を壮大な規模で重ねており、そして、その真偽は、万人を納得させているわけでもないことは、重々承知しておりますが、、、仏教者は、その外的な実証のために全精力を使っていますので、異なる公理系の人々と、論理学をもって討論することに、力をさかない傾向が高いのです。ここのところをよくわかってあげないと、仏教者と対話することは困難です。

そのように私は理解しております。


Re: 「唯一設定の場合、先投げ設定では、後投げ設定とは異なり、1/2説が正しい」 投稿者:φ 投稿日:2012年12月24日(月)07時17分24秒 返信・引用

> No.3646[元記事へ]

スターダストさんへのお返事です。

ブログを拝見いたしました。

一つ大きな疑問があるのですが、
スターダストさんの設定では、
A場合・A場合Bともに月曜日と火曜日に目覚めるとのが初期設定で、
そこから、「今はA・火ではない」と判明した、というのが問2ですね。

正解は、「ピーチ姫派」でしょう。
「問2の正解は、1/3。」で問題ないはずです。普通にベイズ式で計算すると。
むろん、「今はA・火ではない」と判明した経緯にもよりますが、「いきなりそのようなデータが与えられた」という場合、場合Aは1/3になりますね。

オリジナルの眠り姫問題とは初期設定のルールが違う全く別のゲームですから、
「ピーチ姫派の場合ですが、あなたがたは既にオリジナル眠り姫問題の1/3派になりさがっています」
というのは間違いでしょう。


Re: 不可能性の証明 投稿者:Hatrick 投稿日:2012年12月23日(日)21時29分57秒 返信・引用

> No.3648[元記事へ]

スターダストさんへのお返事です。

エネルギー保存則に関するアドバイスを有り難うございます。
私見としましては、「時間発展対称性」と「エネルギー保存則」は同義・同値ではないと思えます。前者も恒真式、後者も恒真式ということで証明されているように見えますが、両者に決定的な関連性があるのか、疑問を持っています。
エネルギー保存則は、閉鎖系にてこのように観察されるわけですが、同時に、エントロピーの観点からすれば、不可逆的変化として、エントロピー増大(不減)法則が働いていることが観察されます。その関連性に、何か秘密がありそうだと思います。
エントロピー増大法則に関しても、ビッグバンからエントロピー増大し続けている、という超マクロ的観点からすると、終焉を想定できるのか、しかし、宇宙が加速しているというのですから、もう、何がなんだか、わかりません。
永久機関に関しては、不可能と思わない一握りの人は常にいるわけで・・・・。

ただ、仏教に目を転じるならば、「諸法無我(が真である、すなわち現実に合致した説明になっていること)」は、すべての諸法を調査することは不可能なので、証明不可能と言えますから、これは「公理」として立てられたもの、と言えます。
ということは、この公理は絶対というわけではないわけです。
つまり、正反対の公理「形而下世界の諸法が無我は真であるがこれだけでは運動ゼロと結論されるためこれだけでは現実には合致しない偽であること」も、公理として立てることは可能だということになります。
この互いに正反対の公理は、立てるのは可能ですが、それが現実に対して、どちらがよりよく説明しているか? という観点で、妥当性評価で、どちらがより妥当か、評価することは、可能ではないのかなあ、と、思っております。
以上です。


http://www.hannya.net/engi02.htm


永久運動・永久機関の開発者の本意の情報を求む 投稿者:アカザワ 投稿日:2012年12月23日(日)17時10分29秒 返信・引用

永久運動・永久機関に興味を持っている者です。
図書館で先般、永久運動回転動力軸装置の使用方法 と言う本を読みましたところ、開発
者の本意を知ることができました。特許公報に記載されていないことが記載されていて満
足です。
 開発者の文献、著者の情報を知っている方は、教えて下さい。


Re: 不可能性の証明 投稿者:スターダスト 投稿日:2012年12月20日(木)15時44分6秒 返信・引用

Hatrickさんへのお返事です。

> 第一種永久機関は発明することが不可能であること。
> この不可能性の証明を 論理学的に論理式で表すことはできるのでしょうか?

「第一種永久機関は発明することが不可能である」は
「エネルギー保存の法則に反した機関は存在しえない」に換言可能です。
すなわち、エネルギー保存則を証明することが、「第一種永久機関は発明することの不可能性」を証明することになります。

ところが、エネルギー保存則は、現代物理学では、実験による観察によって基礎づけられています。証明されるべきものではないので、経験則にもとづく、いわば「公理」です。

一方、どんなことにも理解の方法には別方法があるものでして、「エネルギー保存則」は、時間発展対称性に関連して以下のように理解されています。
※今日にも未来の日にも過去の日にも、すべてにわたって、この宇宙における、物理学の基本法則が不変である。ここから、「エネルギー保存則」が導出される。

●「物理学の基本法則の時間発展対称性」を、論理学的に論理式で表すことはできるのでしょうか?
それができれば良いのですが、無理な注文であることは、わかりますよね? 本当は、この種の経験則は、観察によって基礎づけられるものですので。ひょっとしたら…我々が知らないだけで、超巨視的な時間スケールで見た場合、物理学の基本法則は不変ではないかもしれません。たとえば、昔は重力定数が小さかったなど… この場合、エネルギー保存則は破れます。経験則たる所以です。いいかれば、エネルギー保存則は、真かもしれない、偽かもしれない、今のところの経験・観測によれば、エネルギー保存則が【真】だとしてもさしさわりなく、万物の事象の説明に、破たんがない。【偽】であることが観察でわかったとしたら物理学者は驚くだろうが、それはむしろ喜ばしい大発見です。

もう少し詳しくみたければ、以下のページを窓口にしてもよいですが、(あるいは教科書を紐解いてもよいですが)物理学を学ぶことになるでしょう。

http://homepage2.nifty.com/eman/analytic/noether.html

もしも、ご質問の意味を私が履き違えていたとするならば、もうしわけありません。

不可能性の証明 投稿者:Hatrick 投稿日:2012年12月19日(水)21時58分9秒 返信・引用

第一種永久機関は発明することが不可能であること。
この不可能性の証明を 論理学的に論理式で表すことはできるのでしょうか?

熱力学的には、
全力学的エネルギー = 外力から受けた仕事量
と表せるから、
第一種永久機関とは、両辺が0のケース、すなわち、仕事量0である、
というようなことのようですが・・・。

論理学的に、もっとすっきり、論証することはできますでしょうか?
それとも、物理現象を扱うときの、「論理写像化」で、困難がありますでしょうか?



Re: 「唯一設定の場合、先投げ設定では、後投げ設定とは異なり、1/2説が正しい」 投稿者:スターダスト 投稿日:2012年12月18日(火)12時09分2秒 返信・引用

φさんへのお返事です。

課題を頂戴いたしましたこと、ありがとうございます。
拙速にコメントすることは不可能でございますので、問題提起を抱えたまま、今暫くは悶々と過ごすこととなります。 (これもまた楽しからずや。)

昔、以下のようなブログ記事を書きました。
酔っ払い鉄道という表題です。眠り姫問題の翻案なのですが、微妙に先投げ設定に近い仕掛けをほどこしてあるつもりです。

URLは以下に。

http://d.hatena.ne.jp/hoshikuzu/20080509#p2

なお、上記では、「先投げ設定」という言葉は使っておりませんが、確固たる鉄道ダイヤが、まずは存在しているという前提になっていまして、これが、「先投げ設定」の機能の代替になっているはずと思い込んでいます。

念のためですが、「酔っ払い鉄道」についての図解のURLは以下です。
http://f.hatena.ne.jp/images/fotolife/h/hoshikuzu/20000512/20000512154324.gif

「酔っ払い鉄道」問題は以下のようなものです。
===引用開始
私は酔っ払いである。やっとの思いでX駅にたどりついた。自宅はA駅周辺である。なんとかたどりつきたい。切符を買ってホームに出たら運良くA駅方面への列車が今にも出発しそうだったので駆け込み乗車をした。泥酔状態の私は座席につくなり安心して眠ってしまった。

実はこのホームから出る列車は、A駅が終点の列車とA駅経由B駅終点の列車の二通りがある。酔っ払った私がどちらの列車に乗るかは、確率がフィフティーフィフティーであるとする。泥酔の私でも、終点に行けば、車掌が起こしてくれるので、A駅終点の列車に乗れば私はすぐに帰宅可能であるし、B駅駅終点の列車にのれば、B駅からA駅までタクシー料金を支払うという出費が待っていることになるだろう。

列車の中で眠り込んだ私は、幸いにも列車が鉄橋の上を走る轟音で目覚めることになる。ただし、鉄橋をすぎればまたすぐに眠り込んでしまい、起きている間のことは忘れてしまう。したがって、次の駅がもうすぐだから起きていよう、などということはできない。酔っ払いだからしかたがない。さて、X駅からA駅までに鉄橋がひとつある。A駅からB駅までのあいだに鉄橋がまたひとつある。つまり、A駅が終点の列車では私は鉄橋による目覚めをひとつ経験し、A駅経由B駅終点の列車では、私は鉄橋による目覚めをふたつ経験する。なお、ふたつの鉄橋による目覚めは区別ができないものとする。景色や、車内放送ほか、得られる情報はないものとする。

問2:「(鉄橋の轟音で)さぁあなたは目覚めた。あなたが、A駅終点の列車にのっている確率は?」

かつての私は、上の設問に対し、いとも簡単に、「1/2」、ファイナルアンサー。と答えたのである。

だって、酔っ払いである私が、A駅終点の列車にのる確率は1/2なんだもーん。 いくら途中で鉄橋で目が覚めたって、その事実にはかわらないんだもーん。 それにぃ。1回目で目覚めたことと(もしあればだけれども)2回目で目覚めたことと区別がぜんぜんつかないんだもーん。だとしたら、B駅終点の列車でいつ目覚めてもそれは1回目に目覚めたのとなんら主観的には変わらないんだもーん。いつ目が覚めても実質1回しか目が覚めていないのとおんなじじゃね?だったらA駅行きでもB駅行きでも目覚めたことで得られる情報って同じなんだもーん。

・・・上の設問で1/2じゃね?と思う人は結構多いのではないかと思うんですよね。あれ?少ないですか?がっくり。
===引用終了

上のような酔っ払い状態を人生において、ただ一回だけ経験したとするならば、これは、「唯一設定」のはずですし… あとは、直観と論理とが整合するように、考えまくるのみです。 今しばらく考え込むこととさせてくださいませ。


Re: 仏教論理のウソと判断の誤謬(思考のバグ) 投稿者:スターダスト 投稿日:2012年12月18日(火)11時47分32秒 返信・引用

> No.3643[元記事へ]

Hatrickさんへのお返事です。

細かい議論を丁寧にありがとうございます。
しかしながら、どうも、Hatrickさんと私とでは、議論の前提がズレまくっているようでして、困惑いたしました。 実は、拝読してから暫くあれやこれや考えてみたものの、何かを私から申し上げることに 妥当性を感じませんでした。 残念です。
このまま続けても既に申し上げたことを繰り返すことになりそうですので、このたびは、いったん休ませてくださいませ。 申し訳ございません。


Re: 「唯一設定の場合、先投げ設定では、後投げ設定とは異なり、1/2説が正しい」 投稿者:φ 投稿日:2012年12月16日(日)17時41分17秒 返信・引用

> No.3639[元記事へ]

スターダストさんへのお返事です。

>
> ●「唯一設定の場合、先投げ設定では、後投げ設定とは異なり、1/2説が正しい」
> 私も『多宇宙と輪廻転生 人間原理のパラドクス』の読者ですが、上記の三浦先生による御主張を理解できておりません。
>

 スターダストさんに、TTTさんに対するのと同じ質問を提示しておきます。

 スターダストさんは、唯一設定で(2013年1月1日・2日に)この実験の被験者となったとして、「2013年1月3日にあなたが場合Aのスターダストとして目覚める確率は?」と実験中に(日付は明かされずに)質問された場合、「1/3」と答えるのでしょうか?

 この「唯一設定」実験を同時に百人に行なったとしたらどうでしょう。(「唯一設定」は、自分がいつ開始された実験における誰であるかがわかっている(実験および自分の個別性データに条件付けられている)という設定なので、繰り返しが可能です)
 実験中目覚めたとき(日付がわからないとき)に、「2013年1月3日にあなたがどちらの場合の◎◎として目覚めるか?」という質問に対して全員が常に「場合A」と答えた場合の正解率は?

 1/2説と1/3説の違いは、「正解率」を、正解する人数で計算するのか、正解する答えの回数で計算するのかという違いに帰着します。
 通常は、人数で計算するでしょう。つまり、もともと1/2説の方が常識的なのです。
 同じ人間が何回同じ答えを発声しようが、ただ一回答えたよりも重みが増すわけではありませんからね。

 後投げ設定の場合には、答えた回数で正解率を計算するという理屈に言い分が認められるがゆえに、1/3説の余地があるにすぎません。

 「自分が場合A、Bどちらの世界分岐にいるかが決定しており、実験中に変更や分岐が起きない」とわかっている先投げ設定では、常識通り、1/2説の「観測者切片ではなく観測者を単位とする(回答ではなく回答者を単位とする)確率計算」が【実験中覚醒した観測者切片の意識においても】妥当する、というわけです。


仏教論理のウソと判断の誤謬(思考のバグ) 投稿者:Hatrick 投稿日:2012年12月16日(日)13時08分51秒 返信・引用

> No.3641[元記事へ]

スターダストさんへのお返事です。

>最古層の仏典には、「諸法無我」はございませんで、代わりに「一切法無我」とあります。

「一切」に当たるサンスクリット語は、「サルヴァ(sarva)」です。法はダルマ(存在)です。ゆえに、「一切法」は、「サルヴァ・ダルマ」と梵語では言いますね。
そして、「三法印」における「諸法無我」の「諸法」の「諸」は、やはり「サルヴァ(sarva)」なのです。中国において、「諸々」に「一切」の意味を込めて、短縮表現の漢訳の翻訳語が当てられたのだと思います。
ゆえに、「一切法」であれ「諸法」であれ、梵語は、同じ「サルヴァ・ダルマ」ですから、
とにかく、言明されているものは、「一切の存在」を意味します。


>「諸法」の定義の違いとお見受けいたしました。Hatrick様の定義による「諸法」には、釈尊が、あくまでも「無記」の扱いにした部分、をも含んでいるように思われてなりません。
(・・・)「一切法無我」の「法」とはなんなのか、宮元先生はじめ、Hatrick様が対話したい相手との間にて概念を最初に共有しておくべきことと存じます。


完全合意の共有ができれば、一番良いのですが、ある意味、その必要はない、とも言えます。なぜなら、「無記扱いにされている形而上学的領域」を含むのか、含まないのか、排中律で、「2通りしかない」わけですから、場合分けすれば、済む話だからです。


>最古層の仏法においては、「梵我」は、「一切法」には、含まれているはずがございません。そもそも「梵我」についてアレコレと考えること自体を、釈尊の仏法は無意味ないし、阿羅漢になったり解脱したりすることのためには不要、であるとしています。つまり、「梵我」について、釈尊は語らないのです。

スターダスト様の解釈では、「一切法」には、梵我という「無記扱いにされている形而上学的領域」を含むはずがない、と仰っておられます。
その「除外」の意味について、誤解があるようです。

「十(乃至十四)無記」は、「形而上学的領域については語れない、語りえぬもの」という釈尊の態度の現れであって、釈尊が、これらについて「否定をした」という解釈をするならば、それは、解釈上の大きな誤謬になります。なぜなら、「否定した」のならば、否定することによって「語っていること」になり、無記にならないからです。
釈尊は、それらの事をいくら考えても時間と労力の無駄であるからそんな時間があったら、その分、瞑想修行を優先してそれに打ち込みなさい、そうすれば自然とそれらについて明智を得る、という態度なのです。これが無記の真意です。
ゆえに、釈尊の無記は、「形而上学的領域の梵我の存在の否定」にはなりません。

もっと言うと、「本物の縁起の法」での定理Vとして提出した通り、
ブッダの論理は、「形而上学的領域の梵我の存在の否定」を含まない、のです。

「一切法が無我である」という言明において、
(1)「一切法」の「範囲」として「形而上学的領域の梵我を含む」ならば、
梵我も無我だという言明になります。しかし、これだと、形而上学的領域に言及していることになり、釈尊の無記の態度に反します。ゆえに、この解釈は暴走だと判明します。
ということで、
「一切法」には、「形而下的な領域のもの」しか含まれないのが正解となります。

(2)「一切法」の「範囲」として「形而上学的領域の梵我を含まない」ならば、
その「除外」の意味は、「梵我存在の否定」では有り得ないことになります。存在否定の言明ならば、無記の態度に反するからです。
ゆえに、「その除外」の意味は、「梵我存在を否定も肯定もしない」という意味に留まります。

そういうわけで、「一切法が無我」という言明は、「梵我存在も無我と述べるものではない」且つ「梵我存在を否定も肯定もしない」言明である、ということが判明します。
且つ、「一切法」には、「形而下的な領域のもの」しか含まないのが正解となります。

・・・・・以上により、スターダスト様が仰るような「諸法」の定義の違いのゆえの「対立」ではなかったのです。
仏教を無神論にしたいという邪な煩悩を持つ学者などが、「釈尊の無記」や「釈尊の五蘊無我・諸法無我」を利用(悪用)して、論理を暴走させ(我田引水・牽強付会して)、あたかも「釈尊が梵我存在の否定をしている」かのように、人々に解説して、人々をそのように洗脳して、そのような迷信を流布させているだけ、ということが判明します。

だから、スターダスト様が、
「最古層の仏法においては、「梵我」は、「一切法」には、含まれているはずがございません。」→(ゆえに)→「仏教は梵我存在を否定した教説である」
というような論旨による結論は、「判断の誤謬である」ことが判明します。

「否定神学」という概念があるように、正面切っては、それを指示して語れない「語りえぬ形而上学的領域の梵我存在」については、「これでもない、これでもない」という否定形の形でのみ、語ることが可能です。

上記の考察から「一切法」が「形而下的な領域のもの」に限られる、と判明していますので、「形而下的な領域」に「我」を認めないのが、仏教の教説ということになります。

そして、その場合、「形而上学的領域のアートマン(梵我)」が無くても、形而下的な領域の無我なる存在だけで、果たして、世界は今のように成立するのか?
という問題になります。
私の答えは、それは無理。ゆえに、背理法によって、形而上学的領域の梵我を認めざるを得ない、という論旨になる、というわけです。

アートマン(我)とは、「主体性有る存在」のことです。そして、「主体性有る」と言えるための要件は何? という話になります。
「他のエネルギーに運動を全依存している」ならば、他に従属依存するので、主体性なしとなります。
ゆえに、「真の主体性」のためには、「他によらない」ことが必要になり、云々・・となります。
輪廻する「個体の霊魂」が存在するとしても、これが形而下的なものだとすれば、「個体の霊魂」を無我だとして良いことは、五蘊が無我であるのと同じことですから、霊魂を認めてもそれだけでは、「諸法無我」に反することにはなりません。
ということは、「個体の霊魂体」という言葉を使用して「アートマン」とは別概念として使用すれば混同は起こらないのですが、「アートマン」が多義的で「霊魂」を指すような用法も存在するがゆえに、両者を混同して、「個体の霊魂体」を「輪廻する主体」という言葉で表現して、これを「アートマン」と呼んでしまうこと自体が、間違いであるわけです。
これは、白痴毒に塗れた仏教学者などによる「概念の混同又はすり替えによる誤謬」だと言えます。

以上が、基本論点における「仏教論理のウソ」です。

>仏教研究者とのあいだで、論議が成立するとは思われません。

石飛女史の掲示板の番頭格のzapo氏が、「私は哲学はしません」と宣言したので、呆れてしまいました。テキストの盲信だけがある、というわけです。
そういうような仏教研究者は、「盲信に生き、盲信と共に心中する」しかないでしょう。

しかし、「科学哲学」は、「語りえる領域」にて、今後、益々、その威力を発揮して行くことでしょう。そして、それによって、「語りえぬ領域」の内実も、否定の形で、徐々に明確になって行くことでしょう。



Re: 仏教学者の「論理のウソ」 投稿者:Hatrick 投稿日:2012年12月16日(日)11時28分27秒 返信・引用

> No.3641[元記事へ]

スターダストさんへのお返事です。

>生意気申しました。(・・・)余計ごとでしたがお許しください。

いえいえ、率直なご感想をありがとうございます。大変貴重なご意見として承りました。
スターダスト様の仏教理解は、「日本仏教のテキスト解説の典型」とも言えるものでして、そのまさに「多数派の典型的な誤解」に対応する言説を組み上げておく必要を痛感したので、その点で、とても有り難いと思っています。
私は、「科学哲学の威力」を素晴らしいと思っているので、これによって、「荒唐無稽な迷信」が排除されること、多くの人が「悪しき洗脳」から解けることを祈念しています。

また、「バカ」の文言については、ご指摘の通り、世間は広く、色々な人々がいるので、「敵意ある短絡者が曲解する」可能性が高いことも痛感しましたので、そのようなリスクを可能な限り極小にするために、今後、適切な表現を熟慮して変更することに致します。ご指摘ありがとうございました。
私の真意は、他者をバカにすることではなく、カミュの不条理哲学が好きなこともあり、「Absurd」という言葉がどうしても思い浮かぶことに起因しています。
「馬鹿げた」とか「不条理な」という意味ですが、「ridiculous」とも親近性がある言葉です。つまり、人々が、「自分がAbsurd でridiculousな荒唐無稽な論理を信じて受け入れていること」に気付いてほしい、というところに真意があります。
後日、スターダスト様が書かれた仏教理解についての「Absurd でridiculousな荒唐無稽な論理思考をしているそのバグ」についても投稿してお知らせする予定ですが、それは、議論を戦わせるためでも、バカにするためでもありません。「科学哲学の筋道」として語れる部分を正確に語り、「批判哲学」として、思考判断を反省顧慮する、ということに資するように、という意図があるのみです。

なお、それとは別ですが、「本物の縁起の法」のロジックについては、一度、仏教言説から離れて、科学として考えてみると、オモシロイと思います。
「他のエネルギーによってのみ運動するもの」を想起します。
たとえば、熱したフライパンに豆を置くと飛び跳ねますが、それは豆が運動しているのではなく、他のエネルギーによって運動しているのみです。豆自身が運動している、と思うのは錯誤です。
生物、人間でも、食料をエネルギーに変換して生命運動をしているので、その供給を完全に断つならば、死んでしまいます。つまり、他のエネルギーによって運動している、と言えるでしょう。
このように、宇宙で「有」として「存在するもの」で、「他のエネルギーによってのみ運動するもの」が、多数・・・・いえ、「一切すべて」でしょうか・・・。それとも、自己エネルギーによってのみ運動するものが、ありますでしょうか?
宇宙全体をつぶさに調べることは不可能ですから、その真偽は、判定不能のように思えます。
しかし、仮に、真と仮定することで、思考を先に進めることができます。
つまり、もしも宇宙・世界に、「他のエネルギーによってのみ運動するもの」しかないということが真だと仮定したら、どうか? と。
「他のエネルギーによってのみ運動するもの」の集合は、運動するでしょうか?

正解は、「運動しない、完全停止のまま」のはずです。どこかで論理的思考ミスをしていない限りは。
つまり、「真と仮定したことが正しい」ならば、「世界は完全停止したまま」でなければなりません。
しかし、現実世界の存在物は、激しく運動しています。
ゆえに、背理法が成立し、この世界が「他のエネルギーによってのみ運動するもの」のみで構成されている、という判断は偽である、という判断が正当だということになります。

全く、これは、不思議な話ですが、論理的には、そうなるしかない、ということです。
どこかで、論理ミスがあるようなら、是非、ご指摘下さい。



Re: 無我説と非我説と 投稿者:スターダスト 投稿日:2012年12月15日(土)16時14分55秒 返信・引用

Hatrick様へのお返事です。

> 感想と引用先のリンクありがとうございます。
> 私の主張が「伝わりにくいもの」らしいので、その点は、今後、改善して行く所存です。
> 私が「仏教史上初」と称しているのは、「三法印」の一つ「(全称命題としての)諸法無我が偽であると指摘していること。そして、真の「三法印」とは、「偽なる諸法無我」排して、その替わりに「天上天下梵我独存」を入れたものにすることです。
> 「天上天下梵我独存 & 相対世界の諸法は無我」と言い換えてもオッケーです。
>
> 「本物の縁起の法」の論証では、以上の事を「指し示して」います。「指し示す」とは、ブッダも龍樹もこのようなロジックで「存在の真相」を探究して行ったはずであり、それゆえに、この方法によって「ブッダの瞑想に突入する」からです。だから、「指し示す」形式にこだわっているわけです。
>
> つまり、「私の主張」は、「真の仏教はヴェーダンタ密教そのもの、ヴェーダ思想と同じ」「ブッダはヴェーダの聖者である」「真の仏教はヒンドゥー教に包摂される」というものです。

「諸法」の定義の違いとお見受けいたしました。Hatrick様の定義による「諸法」には、釈尊が、あくまでも「無記」の扱いにした部分、をも含んでいるように思われてなりません。そのあたりで、宮元先生との対話において、出発点が違うゆえの、齟齬が発生しているのではないのでしょうか。
さて、最古層の仏典には、「諸法無我」はございませんで、代わりに「一切法無我」とあります。この「一切」は、確かに全称命題を導いているようにみえますが、全称命題とは、あくまでも【一つの集合を構成する全ての項について、ある性質を肯定する命題】でございまして、この定義の【一つの集合】が、はたしてどのような集合なのかについて、対話者と概念を共有しておかなければならないことでしょう。 実数全体なのか有理数全体なのかでは意味が違ってくるのと同じことでして、「一切法無我」の「法」とはなんなのか、宮元先生はじめ、Hatrick様が対話したい相手との間にて概念を最初に共有しておくべきことと存じます。 最古層の仏法においては、「梵我」は、「一切法」には、含まれているはずがございません。そもそも「梵我」についてアレコレと考えること自体を、釈尊の仏法は無意味ないし、阿羅漢になったり解脱したりすることのためには不要、であるとしています。つまり、「梵我」について、釈尊は語らないのです。このような釈尊の語り口から出てくる「一切法」について、
《「梵我」は無常ではない、》
《【「梵我を含むところの諸法」について、これは無我ではない】》
・・・とHatrick様に説かれても、仏教研究者とのあいだで、論議が成立するとは思われません。

生意気申しました。

> ゆえに、中村元博士がここまで述べていることはないし、その弟子である宮元教授はもっと私の見解から離れています。
> というか、掲示板で宮元教授とは対話したことがありますが、私を敵視しています。(笑)
> つまり、私の説は、彼にとっては、到底受け入れられない説なのですね。
>
> 但し、一言申し上げておくならば、ヒンドゥー世界においては、私の説は、正統派側です。
> 日本の仏教アカデミズムでは、「仏教は反バラモン」となっていますが、真の聖者がヴェーダを否定することはありません。日本の仏教学会は「群盲・烏合」です。
>

輪廻の主体としての我や、解脱する主体としての我について、釈尊はしばしば引き合いに出されております。 そのようなことは、仏教研究者も恐らくは肯定している人が少なくないでしょう。

釈尊の最晩年の言葉「自らを灯明(島)とし、自らを依処として、他人を依処とせず、法を灯明(島)とし、法を依処として、他を依処とすることなかれ」が証明しておりますゆえ。

さて、最後に。
対話者を小馬鹿にしたり、上から目線で論述したりすることにより、相手から敵視されることは、ごくごく当たり前のことです。喧嘩になります。
Hatrick様のページを拝読いたしましたが、例えば、 http://www.hannya.net/engi02.htm において、「バカ」なる単語が4回も出てきております。 これは、Hatrick様にとって大変に損な記述です。 かようなスタイルを貫くことをお勧めできません。マーチン・ガードナーが示した、以下のようなタイプは議論相手にふさわしくないとして忌避されます。余計ごとでしたがお許しください。

===
彼は自分を天才と考える。
彼は自分のなかまたちを、例外なしに無学な愚か者みなす。彼以外の人はすべてピント外れである。自分の敵をまぬけ、不正直、あるいは他のいやしい動機をもっていると非難し、侮辱する。もし敵が彼を無視するなら、それは彼の議論に反論できないからだと思う。
彼は自分が不当に迫害され、差別待遇を受けていると信じる。公認の学会は彼に講演させることを拒む。雑誌は彼の論文を拒否し、彼の本を無視するか、「敵」にわたしてひどい書評を書かせる。ほんとに卑劣なやり方である。こういう反対の原因が、彼の仕事がまちがっていることにあるとは、奇人には全く思い浮かばない。
彼は最も偉大な科学者や最も確立された理論に攻撃を集中する強い衝動をもっている。ニュートンが物理学でずばぬけた名声を保っていたときは、物理学での奇人の仕事は猛烈に反ニュートン的だった。今日ではアインシュタインが権威の最高シンボルとなっているため、奇人の物理理論はニュートンの肩をもってアインシュタインを攻撃するものが多い。
====

仏教ジャーゴンを含む論議は、様相論理等を主体とした哲学系の本掲示板には適しませんので、これ以上、こちらの掲示板で、私が語ることはございません。 お許しを。


Re: 無我説と非我説と 投稿者:Hatrick 投稿日:2012年12月14日(金)21時33分48秒 返信・引用

> No.3638[元記事へ]

スターダストさんへのお返事です。

> 引用部分の論考を含む御説の結論について、「仏教史上・初で、主張します。」とHatrick様はおっしゃいます。 しかし、違和感を感じます。
>
> 既に、中村元先生がおっしゃっていることと、変わらないように、私には思われます。
> 中村先生の大部の著書を読むことは大変でしょうから、以下のページをよまれると、説明の流れだけでも追うことができましょう。
> また、宮本啓一先生の著書、『ブッダ 伝統的釈迦像の虚構と真実 光文社文庫 1998.8』にも、丁寧にわかりやすく、原始仏教における非我説について書かれております。


感想と引用先のリンクありがとうございます。
私の主張が「伝わりにくいもの」らしいので、その点は、今後、改善して行く所存です。
私が「仏教史上初」と称しているのは、「三法印」の一つ「(全称命題としての)諸法無我が偽であると指摘していること。そして、真の「三法印」とは、「偽なる諸法無我」排して、その替わりに「天上天下梵我独存」を入れたものにすることです。
「天上天下梵我独存 & 相対世界の諸法は無我」と言い換えてもオッケーです。

「本物の縁起の法」の論証では、以上の事を「指し示して」います。「指し示す」とは、ブッダも龍樹もこのようなロジックで「存在の真相」を探究して行ったはずであり、それゆえに、この方法によって「ブッダの瞑想に突入する」からです。だから、「指し示す」形式にこだわっているわけです。

つまり、「私の主張」は、「真の仏教はヴェーダンタ密教そのもの、ヴェーダ思想と同じ」「ブッダはヴェーダの聖者である」「真の仏教はヒンドゥー教に包摂される」というものです。
ゆえに、中村元博士がここまで述べていることはないし、その弟子である宮元教授はもっと私の見解から離れています。
というか、掲示板で宮元教授とは対話したことがありますが、私を敵視しています。(笑)
つまり、私の説は、彼にとっては、到底受け入れられない説なのですね。

但し、一言申し上げておくならば、ヒンドゥー世界においては、私の説は、正統派側です。
日本の仏教アカデミズムでは、「仏教は反バラモン」となっていますが、真の聖者がヴェーダを否定することはありません。日本の仏教学会は「群盲・烏合」です。


「唯一設定の場合、先投げ設定では、後投げ設定とは異なり、1/2説が正しい」 投稿者:スターダスト 投稿日:2012年12月14日(金)12時36分29秒 返信・引用

●「唯一設定の場合、先投げ設定では、後投げ設定とは異なり、1/2説が正しい」
私も『多宇宙と輪廻転生 人間原理のパラドクス』の読者ですが、上記の三浦先生による御主張を理解できておりません。
ですので、:TTT様と三浦先生とのあいだの質疑応答を興味深く拝見させていただいております。 期待しております。


無我説と非我説と 投稿者:スターダスト 投稿日:2012年12月14日(金)12時30分24秒 返信・引用

申し訳ありませんが仏教ジャーゴンを使わせていただきます。 そのほうが手っ取り早いものでして。

=== Hatrick様: http://www.hannya.net/engi02.htm より引用開始
ゆえに、「観測可能な事物の集合」であるところの「形而下的な存在」について無我(非我でも良い)とすることは論理的にできけれど、客観的な観測が不可能であるところの「形而上的なアートマン」まで否定することはできない論理になっているのだから。
=== 引用終了
引用部分の論考を含む御説の結論について、「仏教史上・初で、主張します。」とHatrick様はおっしゃいます。 しかし、違和感を感じます。

既に、中村元先生がおっしゃっていることと、変わらないように、私には思われます。
中村先生の大部の著書を読むことは大変でしょうから、以下のページをよまれると、説明の流れだけでも追うことができましょう。

http://blog.goo.ne.jp/leo7deg/e/fa055917819e63ef31f0adfe31adbd3d

また、宮本啓一先生の著書、『ブッダ 伝統的釈迦像の虚構と真実 光文社文庫 1998.8』にも、丁寧にわかりやすく、原始仏教における非我説について書かれております。

お邪魔いたしました。


Re: 私の論旨の再確認をします 投稿者:φ 投稿日:2012年12月14日(金)03時40分32秒 返信・引用

> No.3636[元記事へ]

Hatrickさんへのお返事です。

 どうも申し訳ないことに、私には理解不能のようです。
 そもそも(1)~(3)の真偽を判定する知識がない。単語の意味からしてわからない。
 (4)(5)の意味もわからない。
 という次第です。相済みません。

 そもそも、(5)で「現実にはそぐわない、現実の現象には合致しない」と言われても、具体的には何に合致しないのかがわかりませんし。

 IDであれば、ダーウィニズムは「還元不能に複雑なシステム」の誕生を説明できない、などと言って創造者の実在を擁護するわけですが。

 被説明項が具体的になれば、モチベーションがはっきりするのですけれどね。
 確率的にありそうもない出来事が現に起きている謎をうまく説明できるとか。fine-tuningの謎を多宇宙説が目的論なしで、IDが目的論ありで説明したように。


私の論旨の再確認をします 投稿者:Hatrick 投稿日:2012年12月12日(水)21時21分51秒 返信・引用

三浦先生へ

>(なお、Hatrickさんのモチーフがつかみづらくなってきたので、できれば具体的パズルに即して――できればこの眠り姫の話題で――Hatrickも御趣旨を展開していただければ助かります。観測者問題は御趣旨に無縁ではないでしょうから。)


観測者問題は興味深いですが、ここは一つ、その前に、私の言わんとする趣旨の再確認をさせて下さい。
(1)仏教の「我」(アートマン)の語は、「自己選択的に運動する根源主体」論として提出された概念なので、究極的には、神のアートマン(梵我)の有無論を含むため、神を定義できないと同じ理由で、「アートマン」は「未定義概念」とするしかありません。
(2)しかし、大乗仏教では、「無我」という形で、「アートマンの否定概念」(一種の否定神学の意味合いを含めて)として、「自ではなく他によってのみ発生する存在」を「縁起」という概念で定義付けして、「縁起するものは無我である」ということで「無我=縁起」と定義しています。
(3)ゆえに、仏教の根本真理と言われて来た「諸法無我」は、「諸法」の意味が「サルヴァ(すべての・諸)ダルマ(存在・法)」=「すべての存在」ですので、「すべての存在は、縁起するもの、すなわち自ではなく他によってのみ発生する存在」である、という意味になります。
(4)ここで、この言明「すべての存在は自ではなく他によってのみ発生する存在である」を真である「公理」とするか否か? という問題が発生します。
この公理が、真である場合は、どうなるか?
この公理が、偽である場合には、どうなるか?
このように、公理を展開してみて、その結末を論理的に調べよう、というのが、私の主張の趣旨です。
(5)論理的に展開して検討してみると、この公理は偽である、又は、現実にはそぐわない、現実の現象には合致しない、ということになるだろう、と。
そうであれば、「他によってのみ発生する存在」以外の「未定義概念」の存在(の運動)が(現実世界の運動の背後に)推測される、ということになる、と。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以上のような論理の運びになります。
(4)の部分で、この公理を真として肯定できるのか? という問いに変換しても良いのです。三浦先生はどうお考えになられるのでしょうか?


「実験終了後、あなたが場合Aへと目覚める確率は?」 投稿者:φ 投稿日:2012年12月10日(月)01時22分15秒 返信・引用

> No.3633[元記事へ]

TTTさんへのお返事です。


(なお、Hatrickさんのモチーフがつかみづらくなってきたので、できれば具体的パズルに即して――できればこの眠り姫の話題で――Hatrickも御趣旨を展開していただければ助かります。観測者問題は御趣旨に無縁ではないでしょうから。)

 TTTさんはひたすら1/3説の正しさを力説しておられますが、もちろん私は、基本的に、1/3説が正しいということで異論ありません。TTTさんのコメントは、私の考えへの批判だとしたら、ポイントを外しているように思われます。
 私が論じているのは、「唯一設定の場合、先投げ設定では、後投げ設定とは異なり、1/2説が正しい」ということです。理由は、観測選択の単位が違うからです。そこが議論のカナメなのですが。
 TTTさんのコメントには先投げ設定と後投げ設定の区別が欠けているので、私としてはその区別を繰り返すことしかできませんね。

 先投げ設定(であるとプレイヤーが知っている場合)では、コインを投げた後、つまり最初の覚醒時において、場合A世界にいるか場合B世界にいるかに関して、プレイヤーの身元は確定しています。つまり、実験全体においてプレイヤーの身元(世界分岐)は確定しています。どちらなのかわからないが、自分はすでに歴史分岐後のいずれかだということは了解しています。
 したがって、先投げ設定では、実験開始後、覚醒させられたとき、問われている質問
 「場合Aである確率は?」
 は、正確には、次の質問となります。(プレイヤーの名前をαとします)
 「あなたが、場合Aにいるαである確率は?」
 場合Aにいるαはこの質問を一度だけ経験し、場合Bにいるαはこの質問を二回経験します。その回数の違いは、自分の身元がすでに選択された確率を変えはしません。場合Bでは記憶喪失が生じるが、実験前に選ばれた自分の身元がどちらであるかの確率そのものに変わりはありません。したがって、正答は実験開始前の主観確率、あるいはコイン投げで表裏の出る客観確率に一致します。
 唯一設定の先投げ設定では、自分が誰であるか(終始一つだけの世界分岐にいること)がわかっている、というのがポイントです。したがって、場合Bのときだけいくつの観測者切片に分断されようが、個々の観測者切片が観測選択の単位となることはなく、観測者まるごとが観測選択の単位となります。

 後投げの場合は、1/3説が正しくなるので、TTTさんに対して私が説明する必要はないでしょう。世界分岐の前後で「場合A、Bにまたがって存在するα」と、「どちらか一方の場合に分岐したα」という、別種の存在へと剥離しているので、「私は場合Aにいる観測者か、場合Bにいる観測者か」ではなく、「私はどの観測者切片か」が観測選択の単位となります。プレイヤーは一貫して同一の分岐に存在し続ける観測者ではありえず、「人間としての観測者」が観測選択の単位となることはないわけです。この場合、TTTさんの言い分が正しくなります。『多宇宙と輪廻転生』でも、私はこれに反したことを述べてはいないはずですよ。

 ところで、質問を次のように言い換えてみましょう。質問内容としてはオリジナルと同じ質問です。
 「実験終了後、水曜日に、あなたが場合Aのαとして目覚める確率は?」
 観測者としては(「あなた」の指示対象が人間としての観測者であるとき)、正答は1/2です。答えた観測者の半数が、場合Aのαとして目覚めるからです。
 観測者切片としては(「あなた」の指示対象が「答え」であるとき)、正答は1/3です。解答切片の1/3が、場合Aのαとして目覚めるからです。

 TTTさんは、唯一設定で(2013年1月1日・2日に)この実験の被験者となったとして、「2013年1月3日にあなたが場合AのTTTとして目覚める確率は?」と実験中に質問された場合、「1/3」と答えるのでしょうか?


無限を扱うも、これなら判定可能では? 投稿者:Hatrick 投稿日:2012年12月 5日(水)23時32分2秒 返信・引用

意識に関するお返事ありがとうございます。
仏教用語には、色々と問題がありますので、それに踏み込むと厄介です。
そうではなく、真のブッディ(理性の)・ヨーガには、仏教の専門用語は不要だと、私は考えています。
職人的な形で、数学的帰納法と対角線論法を使用して、私が言わんとしたかったことを
再度、判定可能な論理的な形式にて、表現してみたいと思います。
・・・・・・・・・・・・・・・
まず、以下のように述語関数を定義する。
Cause(a)  aの発生原因がy個あるうちの1つを出力する
出力表記は  発生原因y個の中の1つが bであるとき
b/a_y  と表記する。なお(a_y)≠ 0 の自然数とする

「存在の発生原因」概念の中に時間的順序は包含されているとする。
発生原因について、時間の経緯の概念を「t1<t2<t3・・・」を附帯表記も可能だが簡略化のために省略。もし付加するならば、発生原因は、時間を逆行させて検索するので、「t1<t2<t3・・・tn」(nの数字が小さいほど現在に近く、数字が大きいほど過去に遡る時刻とする)
たとえば、Cause(b)=a/b_y
このような関係があるとき、a_t2は b_t1よりも時間的に前であり、aはbの発生原因なので、原因関係が逆になるような、bがaの発生原因になることは有り得ない。

ここで、これに関する「次のような全称命題」の真偽を検討する。
「なんであれ、存在するものは、発生原因を有するものである。」
  ∀x( Cause(x))・・・・(x∈U) {U : 存在の諸要素の全体集合}・・・(1)

さて、この全称命題の真偽を検討するために、モデルを単純なものにして、そこから出発する。
仮に、「片方が他方の発生原因の1つになっている関係の存在物を(a,b)2つピックアップして、「特定の部分的限定フィールド内での存在の要素の集合」を「H」とし、
ピックアップした2つの存在物をこの集合Hに投入する。
こうして、出発点としての、発生原因関係がある要素2個(a,b)の集合Hができた。
{a,b}=H
このとき、仮に、次の関係が成立したとする。
Cause(b)=a/b_y
このような関係があるとき、a_t2は b_t1よりも時間的に前であり、aはbの発生原因なので、原因関係が逆になるような、bがaの発生原因になることは有り得ないことになる。

ところで、「(特定)存在物の発生原因」という概念は、「存在物bの発生原因が他の存在物aである」というように、「それ(b)自身以外の他の存在」がそれ(b)の発生原因となる関係を言う。

とすると、
{a,b}=H で、かつ Cause(b)=a/b_y
であるとき、
Cause(a)=x /a_y
となり、xは、集合Hに含まれる要素ではないことになる。
このxにaの発生原因の一つを発見して定項αとして代入したとして、集合Hを、αを含むものに拡大したとしても、
Cause(α)=x /α_y
となって、やはり、αの発生原因の一つを出力するxは、集合Hの要素から漏れてしまう。
このようにして、無限に集合Hを拡大して行き、
{U : 存在の諸要素の全体集合}=H
としたときにも、この集合から漏れてしまう発生原因要素が少なくとも1つはあることになる。

ゆえに、結論。
(1)のような形で、全称命題とすると、U=Hという全体集合が、
「U=Hという全体集合それ自体」が「自身の要素の条件」に合致するもの
と言えるので、その集合の発生原因が、「全体集合」以外の他の存在の集合に依存するしかなくなるため、空集合に依拠するしかなくなる、という結論になり、
(1)の命題を真とすることは成り立たず、偽である、と結論される。


Re: 「常識的な公式」を@1、@2、「途中投げ設定」にあてはめると 投稿者:TTT 投稿日:2012年12月 4日(火)02時45分46秒 返信・引用

φさんへのお返事です。

> 他方、オリジナルの1人設定では、観測選択の単位は観測者切片なのか、観測者なのかについて場合分けが必要です。
> 実験開始前、コインが投げられてしまったのか、これから投げられるのかがハッキリしている場合、実験開始後であっても、
> 「自分の世界(群)がどう分岐したのか、今は確定している」とわかっています。決定しているのは世界の分岐、または分岐の中の自分であり、
> したがって、目覚めたときに選択されているのは世界、または観測者です。よって、場合Aは1/2。

「観測選択の単位」というのがよくわかりませんが、実験中覚醒時の自分の状態は
「今が場合Aで月曜日の覚醒 or 場合Bで月曜日の覚醒 or 場合Bで火曜日の覚醒」であることに変わらないので
全事象はこの3つ{A-月、B-月、B-火}であり、確率はこれらに(つまり観測者切片ごとに)割り振られます。
そうでなければ、今が場合Bで火曜日の覚醒である確率P(B-火)を考えることができません。

また、実験中覚醒時の観測者は、観測者切片の直和で表せてます。つまり実験中覚醒時で、曜日を知らない時
「今の自分が場合Aの観測者である」は「今の覚醒が場合Aで月曜日の観測者断片である」と同値だし
「今の自分が場合Bの観測者である」は「今の覚醒が場合Bで月曜日の観測者断片 or 場合Bで火曜日の観測者断片である」と同値なので
今の自分が場合Aの観測者である確率P(場合A)=P(A-月);今の覚醒が場合Aで月曜日の観測者断片である確率 となり、同様に
今の自分が場合Bの観測者である確率P(場合B)=P(B-月 or B-火)=P(B-月)+P(B-火) となります。
ここまでは1/3説でも1/2説でも同じでしょう。
1/3説と1/2説との相違点は、観測者断片の確率分布の違い、つまりP(A-月):P(B-月):P(B-火)の比の違い(1/3説は1:1:1、1/2説は2:1:1)であり
「1/3説と1/2説のどちらが尤もらしいのか」というのは「どちらの確率分布が尤もらしいのか」と同じです。


> 先投げ設定の場合は、場合Aか場合Bに自分は固定されているので(観測者切片がランダムに選択されるわけではないので)、
> それぞれの観測者にコインの表裏の確率が振り分けられます。
> 後投げ設定だと、そのような振り分けがなされていないため、観測者ではなく観測者切片ごとに等確率を振り分けることになります。

1/3説で
「今の覚醒が{A-月、B-月、B-火}のうちのどれであるのか全くわからないから、(この3つに無差別原理を適用して)どの覚醒である確率も1/3ずつとする」
等という考え方は一般性に欠けるので、あまり良い方法ではないでしょう。
1/3説と1/2説との対立は、オリジナルの眠り姫問題のように「フェアなコイン」を(1度だけ)用いた時だけに起こる問題ではなく、
眠り姫問題で「フェアなコインを1回だけ投げて、表なら場合Aとする」という設定の代わりに
無謀な賭けのように「フェアなコインを10回投げて、すべて表のときだけ場合Aとする」や「フェアなサイコロを投げて、1の目の時だけ場合Aとする」
(既知の)定数p(0≦p≦1)に対して「表がでる確率pのコインを投げて、表なら場合Aとする」
等と変更した場合でも、同様の対立が生じます。
(無謀な賭けはp=1/2^10の場合、フェアなサイコロの設定はp=1/6の場合、オリジナルの設定はp=1/2の場合に相当するので、以下一般のpで考えます)
このように一般化した問題では、
1/2説の考え方では
「P(場合A):P(場合B)=p:(1-p)」と「P(B-月):P(B-火)=1:1」が成立するという考えから
「確率分布<P(A-月),P(B-月),P(B-火)>=」を導くのに対し
1/3説の考え方では
「P(A-月):P(B-月)=p:(1-p)」と「P(B-月):P(B-火)=1:1」が成立するという考えから
「確率分布<P(A-月),P(B-月),P(B-火)>=

」を導きます。

よって「1/3説と1/2説のどちらの確率分布が尤もらしいのか」という問題は
「P(場合A):P(場合B)=p:(1-p) と P(A-月):P(B-月)=p:(1-p) のどちらが尤もらしいか」に帰着できます。


ところで、実験中覚醒時以外の時点、特に眠らせる前の時点(日曜日以前)の観測者は、(実験中覚醒時の)観測者切片の直和で表せません。
眠らせる前の時点(日曜日以前)における、場合Bである確率R(場合B)は「フェアなコインを投げて裏が出る確率」に相当し、
R(場合A)=p、R(場合B)=1-p であるわけですが
「今の自分が場合Bの個人である」は「今が場合Bで月曜日の観測者断片 or 場合Bで火曜日の観測者断片である」と同値ではありませんから
「1-p=R(場合B)=P(B-月)+P(B-火)=P(場合B)」(特に左から2つ目の=)が成立する必要はありません。同様に
「p=R(場合A)=P(A-月)=P(場合A)」(特に左から2つ目の=)も成立する必要はありません。
1/3説で実験中覚醒時と眠らせる前の時点とで、自分が場合Aである確率の値が異なっているのはこの為です。逆に言えば
1/2説は、確率測度RとPを混同して「R(場合A)=P(場合A)=pが成立するはず」等の誤解による誤りだと思われます。



> もともと、いくら記憶喪失があるからといって、3人設定ではなく1人設定の場合は、
> それぞれの目覚めは独立ではないので、1/3説の方が常識に反しているのです。

> ↑これは、玉が一個一個完全に独立だからですね。各目覚めは人間と結びついている以上、独立とは言えません。

ここらで用いられている「独立」の意味が不明です。
確率論的には(つまり、確率論的独立性の意味では)、3人設定でもそれぞれの目覚めは独立ではないし、
袋から玉を1つ取り出す場合に、袋内の個々の玉は互いに独立ではありません。
今は確率の話をしているのですから、確率論的独立性以外の意味で「独立」という言葉を用いるなら
「どのような意味で用いているのか」「それが確率とどう関係するのか」をしっかり説明してください。


@2
> Q(A-日)とQ(B-月)は両立しない反面、Q(A-日)とQ(A-月)は必ずセットになっています。

確率同士が両立する/しないとか、セットになってるというのもよくわかりません。
ここで「A-日」「A-月」「B-月」という表記はそれぞれ
実験中覚醒時で「今の覚醒が、場合Aの日曜日である」「今の覚醒が、場合Aの月曜日である」「今の覚醒が、場合Bの月曜日である」の意味ですから
「A-日とA-月が両立する(今の覚醒が、場合Aの日曜日かつ場合Aの月曜日である)」ということもありません。


> P(A-日)=P(A-月)=1/4
> P(B-日)=P(B-月)=P(B-火)=1/6
>  はその通りですが、「今は、日曜日でない」と教えられた場合は、場合Aと場合Bが完全に共有している部分の一部が消えただけなので、
> 場合Aと場合Bの確率は1/2のままです。

これではベイズ推定(というか、もっと根本的に事後確率、条件付き確率の定義)に反します。
ベイズ推定では、「今は、日曜日でない」すなわち「A-月 or B-月 or B-火」という情報を得た後での、場合Aである事後確率Q(A-月)は、
Q(A-月)=P(A-月|A-月 or B-月 or B-火)=P(A-月)/{P(A-月)+P(B-月)+P(B-火)}
と計算されます。ベイズ推定では
> 各場合の中で確率が再分配される
などという勝手は許されません。

> TTTさんの1/2説の理解は正確でないことがわかります(1/2説が正しいかどうかは別にしても)。

だとしたら、「1/2説はベイズ主義的に(確率論的にも)間違い」などと判断するしかありませんね。



> ●「今は、日曜日でない」(先投げ設定)・・・・・・1/2説が妥当
> ●「今は、月曜日でない」(後投げ設定)・・・・・・1/3説が妥当
> ● 単に目覚めて、情報なし(後投げ設定)・・・・・・1/3説が妥当
>  よって、情報なしの場合は、
>   P(A-日)=P(A-月)=1/5
>   P(B-日)=P(B-月)=P(B-火)=1/5
>  これで何の問題もないと思われますが、いかがでしょうか。
>
>  念のため、事後確率を考えると、
>  「今は、月曜日でない」とわかった場合は、等確率の再配分だから1/3ずつで問題なし。
>  「今は、日曜日でない」とわかった場合は、自分の身元が確定したので(いずれか一方の分岐だけにいる人物と確定したので)
> 観測選択の単位が変わり、単位は「世界」「観測者」となり、場合A、場合Bがコイン表裏の確率に一致する。

これもベイズ確率の理論に反するという点で大問題です。事後確率の計算が正しく行えていません。
φさんの確率論や事後確率に対する理解は正確ではなかったのでしょう。

主観確率の問題で、ベイズ確率の理論よりもφさんのいう分岐の理論や「●常識的な公式●」とやらを優先させるやり方が常識的なんてことはありません。



Re: 意識とは何か 投稿者:φ 投稿日:2012年12月 4日(火)01時15分19秒 返信・引用


> No.3631[元記事へ]

Hatrickさんへのお返事です。

仏教ジャーゴンを使わずに、「我(アートマン)」について、科学的に定義することは可能でしょうか?

 仏教ジャーゴンが科学にそのまま使える、ということから、論証をすべきでしょう。なんといっても、相対的に最も確実な知識を与えてくれるのが科学の伝統であることは誰もが認めねばならないので、仏教だろうがキリスト教だろうが、科学の言語で定義しなおせないならば、さしあたり無用と仮定して脇に置いておかざるをえないでしょう。

>
> 私は、ロボットが「本物の意識」を持つようになるとは、思いません。それは不可能なことだ、と思います。
>

↑これはまさしく論証を必要としますね。
 私はロボットも意識を持ちうると考えていますが。

>
> 三浦先生は、「意識」について、論理的に定義可能だと思いますか?
> ご意見を戴ければ有り難いです。
>

機能的意識は定義可能でしょうね。現象的意識となると、未定義概念として導入するしかないというのが心の哲学の現状ですが、いずれは定義できるようになると思われます。具体的にどのようにして、というのは正直、わかりませんが、すでにお示しした英語論文の中で、一つの有望な方向性を探ったつもりです。



意識とは何か 投稿者:Hatrick 投稿日:2012年12月 3日(月)00時13分5秒 返信・引用

仏教ジャーゴンを使わずに、「我(アートマン)」について、科学的に定義することは可能でしょうか?
これは、かなりの難問です。「神」と「意識」を科学的に定義する必要に迫られるからです。
「意識」と「主体性」が「我」の必要条件と言えますが、「意識」とは何でしょうか?
永井俊哉氏は、「意識とは、他者性を孕んだ、差異化された自己同一性である。」と述べています。
http://www.systemicsarchive.com/ja/a/consciousness.html

私は、ロボットが「本物の意識」を持つようになるとは、思いません。それは不可能なことだ、と思います。
三浦先生は、「意識」について、論理的に定義可能だと思いますか?
ご意見を戴ければ有り難いです。


仏教ジャーゴンの排除化 投稿者:Hatrick 投稿日:2012年12月 2日(日)21時20分48秒 返信・引用

三浦先生へ

貴重なご意見ありがとうございます。
仏教ジャーゴンを排除した平易な言語化・論理化に挑戦してみたいと思います。
そのときは、また見て下さい。
「対話可能なロジック領域」を構築するのは重要だと思います。
それが裏目に出るか、成功するか、やってみたいと思います。


Re: 「対角線論法」と「諸法無我は偽」 投稿者:φ 投稿日:2012年12月 2日(日)16時28分3秒 返信・引用

> No.3628[元記事へ]

Hatrickさんへのお返事です。

何遍か読ませていただきましたが、どうも頭に入ってきません。
 申し訳ありませんが、背理法としてうまくいっているのかについては私には判定不能です。

 判定不能となっている最大の理由は、背理法の仮定から矛盾した結論を導くときに使う補助前提のそれぞれ((1)~(8))が真と言えるのかどうかについて、私には全く知識がなく、しかも補助前提に出てくる単語の意味すらしばしば理解できないということがあります。
 「有我見」「無我」「非我」「三法印」「自性」「縁起」等々と出てくると、はっきり言って門外漢には退室を促されているとしか感じられません。
 というわけで、残念ながら、ノーコメントということでご容赦ください。

 私はインテリジェント・デザインは結構よく読むのですが、キリスト教の人々は、キリスト教独自の専門用語は使わずに、現代哲学や現代科学の言葉に合わせて議論していますね。IDの議論はたいへんわかりやすいです。
 キリスト教にも仏教に劣らず様々な専門用語があるわけなので、もしそんなものをガンガン使われた日には、対話が成り立たないでしょう。
 現代文明の知識の基礎は科学なので、その共通言語で語るという戦略は、宗教が現在の知のフィールドに座を占めようとするにあたって、当然の戦略と言えます。

 仏教思想の側からは、そうした試みがあまり見られないらしいのがちょっと残念です。
 むろん、宗教用語を使わないIDの戦略は、キリスト教外の人々に対して、IDの誤りをハッキリ認識させることになって、結果的には裏目に出ているわけですが(ただし、例外的に、無神論からIDへと改宗した科学者もいるようですが)、
 宗教用語に固執するあまり科学や哲学との対話ができないままの状態で居るよりは、IDの姿勢は潔いと感ずる次第です。


「対角線論法」と「諸法無我は偽」 投稿者:Hatrick 投稿日:2012年11月30日(金)21時29分0秒 返信・引用

「諸法無我は偽」が対角線論法のバリエーションたる背理法であることを
最も単純に表現すると、こんな感じです。
「縁起するもの」を「他によってのみ生起するもの」と定義するとき、

H:ハトリック集合
H={x|xは他に依ってのみ生起するもの}
(結論)ハトリック集合Hは、生起しない。生起できない。これのみでは存在できない。

「論理」に素直になるならば、「不生常在(少なくとも宇宙の年齢以上の常在)のブラフマン(=マハー・アートマン)」を肯定するしかないのではないでしょうか?
三浦先生が無神論的立場で「この結論は受け入れ難いぞなもし」と抵抗しているのだとしたら、それは「抵抗しても無駄だ」と思うのです。なぜなら、これはブッダ(=完全無欠な梵我の化身)が使用した「完璧にエレガントな背理法論法」だと思うからです。

http://www.hannya.net/engi02.htm


諸法無我と背理法(その2) 投稿者:Hatrick 投稿日:2012年11月25日(日)13時32分28秒 返信・引用

三浦先生の疑問点に答える形で、論証や説明を色々補記しました。
背理法が成立するバックグラウンド(1)~(8)
また、「形而上的な存在」「形而下的な存在」と分けて、「図解」もしてみました。
かなり、厳密になって来たのではないかと思います。
http://www.hannya.net/engi02.htm
http://www.hannya.net/engi02.htm


諸法無我と背理法について 投稿者:Hatrick 投稿日:2012年11月23日(金)22時19分23秒 返信・引用

三浦先生へ

お忙しいところ、煩わせてすみません。私としては、仏教論理の長年の誤謬が正されればそれは実に大きなことだと思っていますので、できれば、論理の穴など詰めて行きたいと思っています。ご迷惑でなければ、アドヴァイスなど戴ければ、「監修 三浦俊彦先生」とさせて頂きたいと思っております。
論理の大枠としては、仏法は「アートマンの有無」を問う排中律論理を維持しているので、現在、「諸法無我」は真として、形而上的なアートマンを否定する無神論ブッディズムが主流です。しかし、スートラによれば、
・・・・・・・・・・
「比丘たちよ、色(身体)は無常である。無常であるから苦である。苦であるから無我である。無我であるから、これはわが所有にあらず、我にあらず、また我が本体でもない」(南伝相応部22,45)(『阿含経典』第2巻、P.73、増谷文雄)
・・・・・・・・・・
のように、観測可能な「色法」の無常ゆえの「無我」という論理ですから、形而上的なアートマンの有無については客観的には観測不可能なので、この論理では取り扱えないはずなのです。(その点、既に「判断の暴走」をしていると指摘できます。)
そして、「色法」である「相対世界」が観測上「無我」であるとしたとき、「無我」とは、アートマンが無いこと、アートマンとは、自発的活動性有る存在のことを指しますから、「無我すなわち自発的運動量ゼロ」存在の集合では、フリーズのままとなり、システムとして稼動している現実とは全く符号しません。
「諸法無我」を偽とする、というのは、五位七十五法に我を認めるという逆戻りの意味ではなく、観測上「諸法に我は見い出せない」が、存在論上「我が一切なし」と仮定すると、「現実」とは符号しない、という事実は明白なので、結論として、残余の可能性としての「形而上的なアートマン」があることを(排中律に基づき)背理法として証明している、という論理になっている、という私の主張です。
背理法になっていませんでしょうか?
最初に、「形而下的/形而上的」2者の合計が全フィールドであることを明示しておく必要があるならば、そのように手直しをします。

全力学的エネルギー(E)= 外力から受けた仕事量
「諸法無我」が真の場合には、中国人坊やの「磁石による永久機関完成」っていう笑い話のように、無我の集合の閉じた系は、外力から何の仕事量も受けない、「0」ですから、左右の両辺がゼロになり、エネルギー保存の法則が成立している状態で、フリーズ状態となります。「他に依存して始めて生起と活動がある」という縁起物の性質は、そのようになると思いますが、どうでしょうか?

なお、「自性」は、部派仏教では、「それ自体の性質」という定義なので、七十五法に自性を認める邪見となりましたが、大乗八宗の祖である龍樹の定義では、「縁起するもの」を無自性とするので、自性とは、縁起以外のもの、という「縁起の反対概念」として定義されています。
それが、現在の仏教の主流なので、自性の定義は、それに従い、「縁起の反対概念」として論証を構築しています。
(但し、縁起の反対概念は、「他によらず自ら生起するもの」ということになり、そのように他に依らず、無から有に生起ずくものなどありえないでしょうし、「神」ですらそんな芸当は無理でしょうから、この概念は、極めて瞑想技法的な非科学的な概念だと言えます。)

また、従属変数論の論証の場合には、縁起する周囲の何であれそれを取り上げて、従属変数を含む関数表示に置換して・・というやり方もあると思います。その系を無限に拡大したとしても、独立変数が出てこないことは、対角線論法と同じく、むずかしい論証ではないと思いますが、どうでしょうか。


Re: 「本物の縁起の法」 投稿者:φ 投稿日:2012年11月22日(木)14時14分59秒 返信・引用

> No.3624[元記事へ]

Hatrickさんへのお返事です。

拝見しましたが、面白かったです。
 とはいえ、雰囲気として面白かったという意味で、論理としては正直どうも判断がつきません。背理法と言えるのかどうかももう少し考えないと「?」です。宗教系用語に私が通じていないのがネックですが。
 中沢中氏は私も個人的に知っており、ずいぶんお世話になりましたので、彼が何を語っていたのかは気になるところです。

 アートマン、ブラフマンについては、現在の人間原理的議論がますますその世界観へ収斂しつつあると言えるでしょうね。
 http://green.ap.teacup.com/miurat/html/anthropicprinciple.pdf にて公開している試論でも、「経験的自我」「形而上学的自我」の区別を【論理的に】余儀なくされ、仏教・ヒンズー教【的】認識と現代物理学との同型対応性が「論証」できる時代になってきたかもしれない、と感じています。

 縁起の「関数化」の妥当性については、もう少し読み込んで考えさせていただきましょう。

「本物の縁起の法」 投稿者:Hatrick 投稿日:2012年11月21日(水)23時33分58秒 返信・引用

三浦俊彦先生 こんにちは。
ハトリック(Hatrick)と申します。石飛道子女史の「ブッダ論理学」を終焉させるために、
このたび、「本物の縁起の法」というロジックを公開しました。
背理法であると主張しています。
「縁起」については、暗号的な関数的数値化をして従属変数論に持って行く形を考えました。
ロジック的に、どうかな?
と思いまして、ご批判・ご指摘いただければありがたく思います。
よろしくお願いします。

「本物の縁起の法」
http://www.hannya.net/engi.htm


「常識的な公式」を@1、@2、「途中投げ設定」にあてはめると 投稿者:φ 投稿日:2012年11月20日(火)02時27分12秒 返信・引用

> No.3619[元記事へ]

TTTさんへのお返事です。

さて、それではTTTさんの諸設定へと移りたいと思います。
前回述べた「常識的な公式」に則って考えてみます。

>
> @1
>  あたはは記憶を消されて眠らされ、今、起こされた。
>  今は、場合Aか場合Bである。フェアなコインを投げて、表なら場合A、裏なら場合Bとした。
>  今は、月曜日か火曜日である。
>  場合Aならば、月曜日のみに起こす。場合Bならば、月曜日と火曜日に起こす。
> この場合、1~3行目の情報を得た時点では
> {場合Aで月曜日}、{場合Aで火曜日}、{場合Bで月曜日}、{場合Bで火曜日}
> のそれぞれの(根元)事象の確率が等しく 1/4 ずつで
> 4行目の情報を得ることにより、{場合Aで火曜日}の可能性が消え、他の3つの事象の確率がそれぞれ 1/3 に改定されます。
> つまり、1/3説と同じ値になります。
> 唯一設定だろうが先投げ設定だろうが、同様に情報を与える場合は同じ論により1/3説と同じになる為、1/2説の出番はありません。
> 従来の設定と変わらないはず(情報を小出しにしただけ)だったので、従来の設定でも唯一設定だろうが先投げ設定だろうが、1/3説が正しいと思います。
>

 ↑「常識的な公式」によると、先投げ設定の場合は、場合Aか場合Bに自分は固定されているので(観測者切片がランダムに選択されるわけではないので)、それぞれの観測者にコインの表裏の確率が振り分けられます。
 後投げ設定だと、そのような振り分けがなされていないため、観測者ではなく観測者切片ごとに等確率を振り分けることになります。
 もともと、いくら記憶喪失があるからといって、3人設定ではなく1人設定の場合は、それぞれの目覚めは独立ではないので、1/3説の方が常識に反しているのです。
 たとえば、われわれ1人1人、誕生とともに世界と一緒に自分という人間の身元がすでに選択されている、と考えるのが(正しいかどうかはともかく)素直でしょう。決定論的世界観では、自分の健康状態について情報がないとき、自分は寿命の長い人間である確率の方が高い、というのは非合理的です。確率の論理だけで、「私は平均寿命よりかなり長く生きる」などという推論はできません。(多世界解釈に基づく量子不死のような特殊な思考実験は、後投げ設定的世界観によっています)
 決定論的素朴実在論では、誕生の瞬間に観測者の人生全体が決定されているのであって、瞬間ごとに観測者切片が独立に選択されるわけではありません。1/2説の方が基本的に素直な考え方であるゆえんです。

>
> @2
> 以下のような設定を考えます:
>  日曜日の午前中に被験者を眠らせてコインを投げ、表なら場合A、裏なら場合Bとし
>  場合Aならば月曜日に1回起し、場合Bならば月曜日と火曜日に1回ずつ起こすとする。
> ここまでは従来の設定とほぼ同じですが、さらに
>  場合Aでも場合Bでも日曜日の午後にも1度、被験者を起こして「場合Aである確率は?」と訊き、その後
>  被験者に速やかに薬を飲ませて眠らせ、記憶を消す。
>  被験者が目覚めたとき、日曜日でないならば、1度「場合Aである確率は?」と訊いた後「今は、日曜日でない」と教えられ
>  そのあと再度「場合Aである確率は?」と訊かれる
>  上記のことを被験者は知っている
> とします。
>
> この場合、1度目に「場合Aである確率は?」と訊かれた時点では
> {A-日}、{A-月}、{B-日}、{B-月}、{B-火}
> の5つの可能性(根元事象)のうちのどれかにあたるはずで、1/2説の理論に従うと
> まず、場合Aである確率と場合Bである確率が等しく1/2ずつで、
> さらに、{A-日}と{A-月}の確率がそれぞれ同じ値
> {B-日}と{B-月}と{B-火}の確率がそれぞれ同じ値になる為、結局のところ確率分布は(確率測度をPとする)
> P(A-日)=P(A-月)=1/4
> P(B-日)=P(B-月)=P(B-火)=1/6
> となり、「今は、日曜日でない」と教えられ再度「場合Aである確率は?」と訊かれた時点の確率は改定されて(確率測度をQとする)
> Q(A-月)=3/7
> Q(B-月)=Q(B-火)=2/7
> となります。
>

 ↑これは、違うと思います。
P(A-日)=P(A-月)=1/4
P(B-日)=P(B-月)=P(B-火)=1/6
 はその通りですが、「今は、日曜日でない」と教えられた場合は、場合Aと場合Bが完全に共有している部分の一部が消えただけなので、場合Aと場合Bの確率は1/2のままです。
 つまり、各場合の中で確率が再分配されるだけです。場合間をまたいでの配分はありません。場合Aでは、消えた日曜日1/4が月曜日に加えられ、場合Bでは、消えた日曜日1/6が月・火に平等に分配されます。
 すなわち、
 Q(A-月)=1/2
Q(B-月)=Q(B-火)=1/4
 となるだけのことでしょう。これはもともとの(日曜日における目覚めを考えに入れない)眠り姫問題の1/2説と同じです。つまり、TTTさんの1/2説の理解は正確でないことがわかります(1/2説が正しいかどうかは別にしても)。
 日曜日に何回起こされて、今はそのうちの何回目ではないと教えられようと、1/2説のこの論理に変化ありません。
 しかし、「今は、火曜日ではない」と教えられると話は違ってきます。場合Aと場合Bの非対称な部分(場合Aでのみ目覚めのない部分)についての情報だからです。場合Aと場合Bそれぞれの中で別個に再配分がなされるのではなく、全体を通じた再配分が必要になります。
 すなわち、「今は、火曜日でない」と教えられた場合は、
 Q(A-日)=Q(A-月)=3/10
 Q(B-日)=Q(B-月)=2/10
 となるでしょう。

>
> 赤玉と白玉がいくつかずつ入った袋に青玉をいくつか入れて、袋からランダムに1つ取り出す。
>  取り出した玉が青玉ではない時における、それが赤玉である確率は
>  青玉を入れる前の状態の袋からランダムに1つ取り出した場合で、それが赤玉である確率と等しい。
>  これは、加える青玉の個数や、何回試行するのか等に関係ない。
>

 ↑これは、玉が一個一個完全に独立だからですね。各目覚めは人間と結びついている以上、独立とは言えません。Q(A-日)とQ(B-月)は両立しない反面、Q(A-日)とQ(A-月)は必ずセットになっています。
 そして、いずれにせよ、1/2説でも「火曜でない」という情報以外に何が与えられても、場合Aと場合Bは1/2ずつで、変化ありません。

>
> ところで今の設定は、先投げ設定でしたが
>  日曜日の午前中に被験者を眠らせた後、1回だけ被験者を起こし、眠らせて記憶を消す。
>  その後、日曜日の午後にコインを投げて場合Aか場合Bかを決め、
>  場合Aならば月曜日に1回起し、場合Bならば月曜日と火曜日に1回ずつ起こすとする。
> とすることで、先投げと後投げの混合設定(途中投げ設定か?)を考えることができます。
> 目覚めてから「今は、日曜日でない」という情報を得た後では、先投げ設定
> 目覚めてから「今は、月曜日でない」という情報を得た後では、後投げ設定に相当しますが
> 単に目覚めた時点では、コインは投げられているかどうかわからないという点で、後投げ設定と同じと言えます。
> この場合、「先投げなら1/2説が正しく、後投げなら1/3説が正しい」という立場では、
> うまく確率分布を定めることができないように思いますが、どうでしょうか?
>

 「常識的な公式」を使うと、確率分布はすんなり定めることができると思われます。
●「今は、日曜日でない」(先投げ設定)・・・・・・1/2説が妥当
●「今は、月曜日でない」(後投げ設定)・・・・・・1/3説が妥当
● 単に目覚めて、情報なし(後投げ設定)・・・・・・1/3説が妥当
 よって、情報なしの場合は、
  P(A-日)=P(A-月)=1/5
  P(B-日)=P(B-月)=P(B-火)=1/5
 これで何の問題もないと思われますが、いかがでしょうか。

 念のため、事後確率を考えると、
 「今は、月曜日でない」とわかった場合は、等確率の再配分だから1/3ずつで問題なし。
 「今は、日曜日でない」とわかった場合は、自分の身元が確定したので(いずれか一方の分岐だけにいる人物と確定したので)観測選択の単位が変わり、単位は「世界」「観測者」となり、場合A、場合Bがコイン表裏の確率に一致する。

 以上のことにわれわれが同意できれば、「無謀な賭けパート2(覚醒日後ろver.)」についても、自ずと問題は解決されると思います。
 (準拠集団についてはまた別途詳細な考察が必要でしょうが、まずは私が今回述べた、以上の論点の確認が必要でしょう)


Re: 眠り姫問題 【きわめて異なる設定】の■3人設定 投稿者:φ 投稿日:2012年11月19日(月)06時30分47秒 返信・引用

> No.3621[元記事へ]

TTTさんへのお返事です。

どうもお待たせいたしました。
やっと雑用が終わったので、「眠り姫」に取りかかることにします。

さて、『多宇宙と輪廻転生』での私見は、

「先投げ唯一設定なら1/2説が正しく、後投げ設定または反復設定ならば1/3説が正しい」

でしたが、その考えは今も変わっていません。

したがって、先投げ唯一設定の1人設定では、覚醒時・曜日不明のときの場合Aは1/2。
3人設定で、覚醒時・曜日不明のときの場合Aは1/3なのは当然ですね。
3人設定を出したのは、場合Bのときに二回覚醒するのを別人に置き換えたかったからです。
一回の覚醒を「観測者切片」と呼び、一回または二回覚醒する個人を「観測者」と呼ぶことにしましょう。
3人設定で正解が1/3になるのはなぜかというと、個々の観測者切片が別人なので、観測選択の単位が観測者切片であることがハッキリするからです。覚醒が三つあって、自分がそのどれに当たるかわからないため、目覚めたとき、場合Aである確率は1/3です。実験開始前の日曜日ですら同様で、1/3であるというのは、TTTさんの言うとおりでしょう。「私」は、実験開始前も開始後も、三つのうち一つとしか勘定できないのですから。(コインではなくクジということにしましたし)

他方、オリジナルの1人設定では、観測選択の単位は観測者切片なのか、観測者なのかについて場合分けが必要です。
実験開始前、コインが投げられてしまったのか、これから投げられるのかがハッキリしている場合、実験開始後であっても、「自分の世界(群)がどう分岐したのか、今は確定している」とわかっています。決定しているのは世界の分岐、または分岐の中の自分であり、したがって、目覚めたときに選択されているのは世界、または観測者です。よって、場合Aは1/2。

ところが、コインがすでに投げられたのかどうかわからない場合、自分の居る世界(群)が確定していません。分岐の具合(自分がどう分岐したか)がわからないのです。よって、自分が誰(どの分岐)であるかではなく、分岐前後をまたいで、観測者切片すべてをひっくるめ、今がどの観測者切片なのかという単位で考えることになります。よって、目覚めたときに選択されているのが場合A世界の観測者切片である確率は1/3。

というわけで、かなり常識的な考えでつまらないとも言えますが、
●常識的な公式●「決定(選択)されたのが場合AかBかの世界分岐、または観測者である、と考えるのが妥当な場合は、1/2説が正しい。決定(選択)されたのが世界分岐または観測者である、のではなく、あくまで観測者切片がいま決定(選択)された、と考えるのが妥当な場合は、1/3説が正しい」となります。

 いろいろ設定を変えてどちらの説が正しいか試すことができますが、(TTTさんの出された諸設定についてはこれから改めて考えますが)、すべてにおいて「常識的な公式」が適用されることになるのではないでしょうか。


眠り姫問題 【きわめて異なる設定】の■3人設定 投稿者:TTT 投稿日:2012年11月14日(水)01時49分15秒 返信・引用

φさんへのお返事です。


【きわめて異なる設定】
■1人設定
>  TTTさんの答えは、場合Aは1/3 ですね。
そうなります。
「今は月曜日」という情報を得た時の、場合Aである確率は 1/2 です。


■3人設定
こちらも 1/3 です。
「今は月曜日」という情報を得た時の、場合Aである確率は、同じく 1/2 です。

ただし、眠らせる前の時点(日曜日以前)の、場合Aである確率は
1人設定 では 1/2 であるのに対し
3人設定 では 1/3 であると考えます。


Re: 眠り姫問題に関して 投稿者:φ 投稿日:2012年11月13日(火)10時22分1秒 返信・引用

> No.3619[元記事へ]

TTTさんへのお返事です。

TTTさんへのお返事です。

ご意見ありがとうございます。
 とくに、最後に御提起いただいた準拠集団の問題は考察に値すると思われます。

 あと2・3日、書類作りに追われておりまして、さしあたり簡潔なコメントで失礼します。
 ご呈示いただいた諸設定による相違は後で考えさせていただくとして、
 設定を増やして申し訳ありませんが、
 わかりやすいように、【きわめて異なる設定】を考察するところから、同意点を探らせてください。

 次のような設定です。

■1人設定
 コイン先投げでAかBを決定する、普通の眠り姫問題。あなたが覚醒したとき、曜日を知らされないとき、場合Aである確率は?
 TTTさんの答えは、場合Aは1/3 ですね。

■3人設定
 3人の参加者について、公平なくじ引きをして、{場合Aで月曜日覚醒}、{場合Bで月曜日覚醒}、{場合Bで火曜日覚醒}に1人ずつ割り振られる(当人たちには知らされない)。記憶消去は必要なし。
 その上で、唯一設定で、3人とも実験に使う。(全員、実験中に一度覚醒する。コイン先投げは、各人がくじで三つのどれに当たったかに相当する)
 さて、あなたは3人の参加者の一人である。
 実験中にあなたは目覚めた。曜日を知らされないとき、場合Aである確率は?

 適切な例題かどうかわかりませんが、
 ちょうど
 http://green.ap.teacup.com/miurat/html/anthropicprinciple.pdf
 を最近書きながら考えていた輪廻転生と眠り姫を結びつけたかったので。

 目下の雑用が終わったら、落ち着いて御返事いたします。


眠り姫問題に関して 投稿者:TTT 投稿日:2012年11月11日(日)02時38分48秒 返信・引用

お久しぶりです。掲示板やφさんの本を読み直したりしましたが、以前から変わらずやはり私には
唯一設定か反復設定や、コイン等を先に投げるか後に投げるかによって確率が変わるという話は理解できませんでした。
そこでまずは眠り姫問題に関して、いくつか意見を書かせていただきます。
当然、眠り姫問題の私の立場は1/3説派であって、
1/2説派や「先投げ唯一設定なら1/2説が正しく、そうでないなら1/3説が正しい」派は全く理解・共感できません。

@1
眠り姫問題の設定を
 被験者を眠らせる為に用いる薬が強力で、実験の設定の記憶まで失わさせる為
 被験者を起こす度に、実験の設定(被験者にとっての今の状況)の説明をするとする。
としても、従来の設定の確率と変わらないはずです。
『多宇宙と輪廻転生』の「極端な眠り姫問題」で「実験の設定は覚えている(またはそのつど説明される)」とさらっと書いているように
φさんも、設定を覚えている場合とそのつど説明する場合とで、差異がないと考えているように思います。

さて、そのつど説明する実験の設定(被験者にとっての今の状況)とは、以下のようなものになります:
 あたはは記憶を消されて眠らされ、今、起こされた。
 今は、場合Aか場合Bである。フェアなコインを投げて、表なら場合A、裏なら場合Bとした。
 今は、月曜日か火曜日である。
 場合Aならば、月曜日のみに起こす。場合Bならば、月曜日と火曜日に起こす。

本来はこの情報を教えた後に「今が場合Aである確率」を訊くわけですが
この情報を一度に全部教えるのではなく、1~3行目を教えた後、少し間を開けて4行目を教えたり
その少しの間にも「今が場合Aである確率」を訊いても、従来の設定と問題の構造が変わらないはずです。

この場合、1~3行目の情報を得た時点では
{場合Aで月曜日}、{場合Aで火曜日}、{場合Bで月曜日}、{場合Bで火曜日}
のそれぞれの(根元)事象の確率が等しく 1/4 ずつで
4行目の情報を得ることにより、{場合Aで火曜日}の可能性が消え、他の3つの事象の確率がそれぞれ 1/3 に改定されます。
つまり、1/3説と同じ値になります。
唯一設定だろうが先投げ設定だろうが、同様に情報を与える場合は同じ論により1/3説と同じになる為、1/2説の出番はありません。
従来の設定と変わらないはず(情報を小出しにしただけ)だったので、従来の設定でも唯一設定だろうが先投げ設定だろうが、1/3説が正しいと思います。


@2
以下のような設定を考えます:
 日曜日の午前中に被験者を眠らせてコインを投げ、表なら場合A、裏なら場合Bとし
 場合Aならば月曜日に1回起し、場合Bならば月曜日と火曜日に1回ずつ起こすとする。
ここまでは従来の設定とほぼ同じですが、さらに
 場合Aでも場合Bでも日曜日の午後にも1度、被験者を起こして「場合Aである確率は?」と訊き、その後
 被験者に速やかに薬を飲ませて眠らせ、記憶を消す。
 被験者が目覚めたとき、日曜日でないならば、1度「場合Aである確率は?」と訊いた後「今は、日曜日でない」と教えられ
 そのあと再度「場合Aである確率は?」と訊かれる
 上記のことを被験者は知っている
とします。

この場合、1度目に「場合Aである確率は?」と訊かれた時点では
{A-日}、{A-月}、{B-日}、{B-月}、{B-火}
の5つの可能性(根元事象)のうちのどれかにあたるはずで、1/2説の理論に従うと
まず、場合Aである確率と場合Bである確率が等しく1/2ずつで、
さらに、{A-日}と{A-月}の確率がそれぞれ同じ値
{B-日}と{B-月}と{B-火}の確率がそれぞれ同じ値になる為、結局のところ確率分布は(確率測度をPとする)
P(A-日)=P(A-月)=1/4
P(B-日)=P(B-月)=P(B-火)=1/6
となり、「今は、日曜日でない」と教えられ再度「場合Aである確率は?」と訊かれた時点の確率は改定されて(確率測度をQとする)
Q(A-月)=3/7
Q(B-月)=Q(B-火)=2/7
となります。日曜日の午後に起こす回数を変えた(場合Aではm回、場合Bではn回起こす)設定を考えると、
その回数に応じてQ(A-月)、Q(B-月)、Q(B-火)の値は変わりますが、その値(確率分布)は
一般に従来の設定(n=m=0)での1/2説の<{A-月}、{B-月}、{B-火}>の確率分布< 1/2, 1/4, 1/4 > とは異なります。

しかし、日曜日に起きた記憶はそのつど消され、かつ、日曜日でないなら「今は、日曜日でない」と教えられる
ということを被験者は知っているのだから、「今は、日曜日でない」とわかった後の確率が
「日曜日の状況(何回起こされたのか)」によって変わる、というのは直観的にも正しくないように思えます。
また直観だけでなく、実際に例えば以下のようなことが成り立ちます。
 赤玉と白玉がいくつかずつ入った袋に青玉をいくつか入れて、袋からランダムに1つ取り出す。
 取り出した玉が青玉ではない時における、それが赤玉である確率は
 青玉を入れる前の状態の袋からランダムに1つ取り出した場合で、それが赤玉である確率と等しい。
 これは、加える青玉の個数や、何回試行するのか等に関係ない。

その点、1/3説の理論ではそのような反直観的な事態は生じず
n,mがいずれの場合でも、<Q(A-月)、Q(B-月)、Q(B-火)>のは < 1/3, 1/3, 1/3 > となります。
やはり、1/3説が正しい(唯一設定なら1/2説が正しい、とはならない)と思います。


ところで今の設定は、先投げ設定でしたが
 日曜日の午前中に被験者を眠らせた後、1回だけ被験者を起こし、眠らせて記憶を消す。
 その後、日曜日の午後にコインを投げて場合Aか場合Bかを決め、
 場合Aならば月曜日に1回起し、場合Bならば月曜日と火曜日に1回ずつ起こすとする。
とすることで、先投げと後投げの混合設定(途中投げ設定か?)を考えることができます。
目覚めてから「今は、日曜日でない」という情報を得た後では、先投げ設定
目覚めてから「今は、月曜日でない」という情報を得た後では、後投げ設定に相当しますが
単に目覚めた時点では、コインは投げられているかどうかわからないという点で、後投げ設定と同じと言えます。
この場合、「先投げなら1/2説が正しく、後投げなら1/3説が正しい」という立場では、
うまく確率分布を定めることができないように思いますが、どうでしょうか?


@3
『多宇宙と輪廻転生』の「無謀な賭けパート2」で1/2説の正当化を試みているみたいですが、正当化できていないように思います。
「無謀な賭けパート2(覚醒日後ろver.)」の設定とφさんの解説の要点をまとめると以下のようなことでした。

************

10回連続コインを投げる。
すべて表なら、あなたの勝ちで$1,000貰える。そうでないなら、あなたの負けで$100,000支払う。
勝ちなら、あなたはコインの結果を知ることなく眠らされた後1回だけ起こされて、1時間にこの賭けに乗るか否か尋ねられる。
負けなら、あなたはコインの結果を知ることなく眠らされた後起こされ1時間後にまた眠らされる、ということを1,000,000回繰り返した後
起こされて、1時間にこの賭けに乗るか否か尋ねられる。
(賭けに乗るか否か尋ねられるのは、勝ち負けのどちらの場合でも、最後の覚醒時のみである)
特殊な薬が用いられ、起こされた時にそれが何回目の覚醒であるのか判断できないとする。
以上のことをあなたは知っている。
さて、今あなたは起こされ、1時間後に賭けに乗るか否か尋ねられた。あなたは賭けに乗るべきか?

勝った場合、目覚めた時が最後の覚醒であると判明する確率は1なのに対し
負けた場合、目覚めた時が最後の覚醒であると判明する確率は1/1000001と極小でしかない。
今、賭けに乗るか否か尋ねられた、すなわち最後の覚醒であると判明した。
奇跡的に(確率1/1000001で)最後の覚醒であると判明したと考えるよりも
なるべくして(確率1で)最後の覚醒であると判明したと考える方が尤もらしい。
よって賭けにのるべきである。この判断は直観的にも無理がないだろう。

************

これはよくある検査の確率の話(『論理パラドクス』の「遺伝子検査」と同じ)で
「誤った判断をする確率が低い検査で陽性なら、本当に病気である確率が高い」というのと同様の勘違いと思われます。
本当にその病気なら確率P(E|S)=1 で陽性、その病気でなくても確率P(E|notS)=1/1000001で陽性となる検査があったとして
この検査で陽性になった時に、本当にその病気である確率P(S|E)が高い(なるべくして陽性となったと考える方が尤もらしい)とは限らず
検査が陽性だとわかる前のその病気である確率の値P(S)によっては、P(S|E)は低いこともあります。

上の賭けの場合も同様で、賭けが持ちかけられた時、すなわち今が最後の覚醒であると判明した時の、勝ちの確率P(W|E)は
勝った場合の、今が最後の覚醒であると判明する確率P(E|W)=1 と
負けた場合の、今が最後の覚醒であると判明する確率P(E|notW)=1/1000001
だけでなく、最後の覚醒であると判明する前における勝つ確率P(W)の値にも依存し、P(W)の値は1/2説を採用するのか1/3説を採用するのかに依存しますから
上の説明で1/2説の正しさを主張することはできません。(ちなみに1/3説を採用すれば、P(W|E)=1/2^10 となります。)


また、その後で「最終日(最終覚醒)の観測者断片だけを準拠集団とすべきではないか」という異論に対して、その考えは正しくなく
> 問題設定によって、そうした観測選択効果を消せるからである。
と書いてあり、
> どの日にいようと、あなたは「賭けに参加して」おり、決断を迫られる
というような設定では
> 最終日だと知らされた場合のみが「賭けに参加している」意識として観測選択されることはない
とあり、確かにこの設定では、最終日か否か知らされる前での準拠集団はすべての日(覚醒)の観測者断片で構成されますが、
本来「最終日である」とわかった時にどうなるかを考察するのがこの寓話の目的であり
「最終日である」という情報を得た時点で、準拠集団は最終日の観測者断片だけに制限され改定されるので、
そのような問題設定の変更や、覚醒の度に1時間の猶予を設けることは無意味だと思われます。


Re: (無題) 投稿者:φ 投稿日:2012年 9月18日(火)01時27分6秒 返信・引用

> No.3617[元記事へ]

比較法研究会メンバさんへのお返事です。

http://russell-j.com/ad040615.htm
   ↑これのときは、突然依頼が来たのですが、
2011年のは、上記意見書に付随してアップロードした
http://russell-j.com/ad040722.htm
 を見てということでした。
指紋鑑定の「12点法」は、どうもまずい運用がされているようですね。

 現場のお仕事で何かわかることがありましたら、ご教示お願いしたく思います。
 

(無題) 投稿者:比較法研究会メンバ 投稿日:2012年 9月17日(月)20時41分46秒 返信・引用

 三浦先生。ご連絡ありがとうございます。意見書の項目をざっと拝見しましたが、非常に興味深い内容ですね。高裁判決が論理的でないことを論駁する趣旨の意見書と理解すればよろしいのでしょうか。参考文献のところに2004年にも意見書を引用されており、このころから裁判所に提出する意見書の作成に関与されておられることがわかりました。どのような経緯でこのような仕事に関与されるようになったのか、興味深いところですね。三浦先生の著書をご覧になって依頼があったのでしょうか。


Re: ご無沙汰しております 投稿者:φ 投稿日:2012年 9月17日(月)20時27分45秒 返信・引用

> No.3615[元記事へ]

比較法研究会メンバさんへのお返事です。

 出版おめでとうございます。元比較研メンバーは大学教授になった人が多いわりに、単著出版は意外と居なくて、今のところ我々二人だけですかね。
 さっきお話を伺ったところでは、なかなか専門的な本のようですね。
 最近は、大学内でもいろいろ法律がらみの案件が持ち上がっているようなので、またお話を聞いていただく折りがあればと思っております。

 法律といえば私、何度か裁判には当事者としてあるいは第三者として関わりましたが、
 最近は
「迎賓館ロケット弾事件」と呼ばれる公安事件の意見書を書きました。
 http://russell-j.com/ikensho-b.pdf
 ↑こんな感じです。

 それでは、また。


ご無沙汰しております 投稿者:比較法研究会メンバ 投稿日:2012年 9月16日(日)18時39分49秒 返信・引用

 ご無沙汰しております。弁護士の遠藤元一です。さっそくですが、10月に単独著書を初めて出版することになりました。三浦先生にも一冊贈呈させていただきたいと考えております。送付先と連絡先を教えていただけると幸甚です。


Re: マクタガートのA系列の議論について 投稿者:進M 投稿日:2012年 8月28日(火)21時01分35秒 返信・引用

> No.3613[元記事へ]

φさんへのお返事です。

>  その通りだと思います。
>  時間の非実在性を否定するには、時間の実在性が「循環論である」「アプリオリに想定されているだけである」と指摘するのでは不十分で、積極的にその矛盾を暴き出さねばなりませんからね。マクタガートの論証ではそれが出来ていません。
>
>  普通は、悪循環というより、無限後退に陥る、という形でマクタガートの論証が定式化されますが、たしかに「悪循環」と解釈し直した方が、マクタガートのパラドクスの「非パラドクス性」がはっきりしますね。
>
>  私は、『論理サバイバル』p.28に述べたように、このパラドクスは苦手です。
>  苦手というのは、面白くないということです。
>
>  なぜ面白くないかというと、反論の種類が多すぎて、全くパラドクスらしくないからです。
>
>  今回の進Mさんの指摘も、マクタガートのパラドクスが全然パラドクスではないことの一つの説明になっていると思います。

なるほど、もとより穴の多い「パラドクス」なのですね。確かに他の厳密なパラドクスたちとは感じが違います。
自分の考察も間違っていないようで安心しました。

ご返信頂きありがとうございました。


Re: マクタガートのA系列の議論について 投稿者:φ 投稿日:2012年 8月28日(火)16時05分17秒 返信・引用

> No.3612[元記事へ]

進Mさんへのお返事です。

>
> これをまとめると、
> 「Aだとすると矛盾した議論が出せるけど、もしAであれば回避できる」、
> つまり、
> 「Aが正しいとすると、Aが正しくない限り矛盾を導ける」
> ということになります。これは、
> 「A⇒(⊥∨A)」と言っているだけのことで、悪循環では全くないのではないかと思いました。
>

 その通りだと思います。
 時間の非実在性を否定するには、時間の実在性が「循環論である」「アプリオリに想定されているだけである」と指摘するのでは不十分で、積極的にその矛盾を暴き出さねばなりませんからね。マクタガートの論証ではそれが出来ていません。

 普通は、悪循環というより、無限後退に陥る、という形でマクタガートの論証が定式化されますが、たしかに「悪循環」と解釈し直した方が、マクタガートのパラドクスの「非パラドクス性」がはっきりしますね。

 私は、『論理サバイバル』p.28に述べたように、このパラドクスは苦手です。
 苦手というのは、面白くないということです。

 なぜ面白くないかというと、反論の種類が多すぎて、全くパラドクスらしくないからです。

 今回の進Mさんの指摘も、マクタガートのパラドクスが全然パラドクスではないことの一つの説明になっていると思います。
 

マクタガートのA系列の議論について 投稿者:進M 投稿日:2012年 8月27日(月)16時59分20秒 返信・引用

以前「抜き打ちテストのパラドックス」に関してご教授いただいた進Mです。

マクタガートの時間の非実在性の議論について、「誤りではないか?」という点を見つけたので、少し書かせてください。

まず彼がA系列から矛盾を導いた議論とは、
①A系列が正しいとすると、あらゆる出来事は過去性、現在性、未来性の全てを同時に持つので矛盾。
②上の議論には、「その3つは同時に起こるわけじゃないから別に矛盾ではない」という反論がある。
③しかし②の反論はA系列の正しさをあらかじめ仮定している(これは悪循環である)。
というものであると思います。

これをまとめると、
「Aだとすると矛盾した議論が出せるけど、もしAであれば回避できる」、
つまり、
「Aが正しいとすると、Aが正しくない限り矛盾を導ける」
ということになります。これは、
「A⇒(⊥∨A)」と言っているだけのことで、悪循環では全くないのではないかと思いました。

いかがでしょう。
ご意見を御聞かせいただければ幸いです。


Re: いじめと自殺について(8) 投稿者:φ 投稿日:2012年 8月24日(金)02時50分16秒 返信・引用

> No.3610[元記事へ]

クリスティアンさんへのお返事です。


>
> いじめの対処方法については、発言者から加害者をどう扱うかという視点が出てこなかったのが残念な点でした。
>

 いじめは被害者に原因がある、という暗黙の思いこみゆえでしょうか?

 被害者をどうにか保護しても、加害者がそのままでは、また別の被害者が仕立てられるだけでしょうに。

 加害者にこそ原因がある、という視点が一般化しないかぎり、いじめは解決しないと思われます。
 教師や学校を責めるのは筋違いですね。
 「現在の教育は・・・社会は・・・」などという抽象論は論外ですし。

 ともかく、犯罪的ないじめに対しては、警察を導入すればすむことで(といっても性犯罪の場合と同様、被害者としては簡単には踏み切れないのかもしれませんが―――)、原理的には解決は簡単なのです。

 難しいのは、「無視」「村八分」のような、警察で解決というわけにいかない「真正のいじめ」ですが、こういうのは確かに被害者に何らかの原因(落ち度でないとしても、何らかの誘発的要因)がないかぎり、発生しないことかもしれませんね。

 対処法として、被害者に焦点を合わせるのは非犯罪的いじめ(真正のいじめ)の場合に限ることとし、
 犯罪的いじめに関する議論は、通常の犯罪と同様、テーマを加害者に絞る、という風潮になるべきだと思います。

 ごく簡単な問題であるはずの犯罪の解決が、「真正のいじめ」との混同によって無益に複雑化している、というのが実情ではないでしょうか。


いじめと自殺について(8) 投稿者:クリスティアン 投稿日:2012年 8月22日(水)02時09分27秒 返信・引用

どんな意見を聞くことができるか興味があったので、いじめ問題のシンポジウムに行ってきました。

緊急の話題だったので、少々準備不足の感があったのは否めませんでした。

いじめ被害者を逃がすためのフリースクールなどの手段を充実させるべきだという意見が出されました。
(私はこれはあくまでも緊急避難だと思いますが。)

一方、教師の権威を高めて、生徒や保護者に優越した地位を与えるという「保守的」な意見も出されました。この意見に対してはやはり保守的な別の発言者から、日教組の左翼教師の権力の強化に通じるから反対であるという意見が出されました。保守派も一枚岩ではないようです。

いじめの対処方法については、発言者から加害者をどう扱うかという視点が出てこなかったのが残念な点でした。

発言者のほぼ一致した観点としては、いじめが行われているクラスにおいては空気がいじめを許容するものになってしまっており、その空気に誰も逆らうことができなくなってしまっているという現象が出来上がっているということでした。


Re: いじめと自殺について(7) 投稿者:φ 投稿日:2012年 8月19日(日)02時21分7秒 返信・引用

> No.3608[元記事へ]

クリスティアンさんへのお返事です。

 それは確かに、警察に届けるべきでしたね!
 犯罪者がお咎めを受けぬまま社会人になるという件数が増えるのは、社会にとっても害悪ですしね・・・・・・

 「いじめ」という言葉がよくないのであって、はっきり「暴行」「傷害」「窃盗」などと呼べば、被害者も加害者もはっと気がつくはずです。

 援助交際の何割かは実質、売春なわけですが、「援助交際」と言われ続けるでしょうし、
 どうも就学年齢層についてはおしなべて婉曲語法が使われやすいようですね・・・・・・。
 (ただし私は暴行と違って売春そのものは(自由意思による成人の売春は)全く悪でないと考えますが)

 事なかれ主義の学校にお灸をすえるためにも、外部の力に頼ることは大いに奨励されねばならないと思われます。
 

いじめと自殺について(7) 投稿者:クリスティアン 投稿日:2012年 8月18日(土)04時11分6秒 返信・引用

私が受けていたのは典型的な犯罪型でした。

殴られる、蹴られる、教科書やノートは破られる、学用品は盗まれる、給食にはゴミを入れて食べられなくされる…

書いていて嫌になってきましたが、皆事実です。

時々、昔のいじめには限度があったなどと昔を懐かしむ意見が出てきますが、私に言わせればそれは昔の加害者が悪い意味で狡猾だったに過ぎません。

数人で一斉に暴行を加えてきて、教師が近づいてくると離れて知らぬふりをする… 私が教師に暴行を受けたことを訴えても、教師は現行犯でなく証拠がないというので相手にしてくれない… 私は絶望するのみでした。

(本当のところは教師も分かっていて、加害者グループと関わるのが面倒なのでそのような態度をとっていたのですが。)

加害者グループが狡猾なのはターゲットをおとなしい、弱い生徒に限っていて、教師や強い生徒には決して向かっていかなかったことです。

また、被害者に与える怪我も基本的に打撲傷で、文字どおりボコボコにしてアザだらけ、コブだらけにはするものの、血を流すような傷を与えたり骨折させたりはせず、学校の保健室で手当てできる程度の怪我に留めて(彼らなりに)学校外部に知られないようにしていたことです。

(今のいじめは被害者が骨折するまでやっているケースもあるようですが。)

当時は警察に届け出る気力もありませんでしたが、今思うと届け出ておくべきだったかなあと思います。


Re: いじめと自殺について(6) 投稿者:φ 投稿日:2012年 8月18日(土)01時36分5秒 返信・引用

> No.3606[元記事へ]

クリスティアンさんへのお返事です。


>
> 今後は警察にも迅速に動いて欲しいです。
>

警察が動いてくれるのは、一対一とか少人数対1で、身体的な暴力を伴う場合ですよね。
 はっきり犯罪ですから。
 金や物をとったり、隠したりするような経済的な問題も同様です。
 この種のは一挙解決が可能です。

 これに対し、クラス全体で無視するとか、避けられるとか、陰口を言うとか、精神的な攻撃の場合は、犯罪を構成しにくいように思います。
 上記犯罪型のいじめも、警察に届けて解決したあとで、今度はこちらの非犯罪型(陰湿型)へ移行するかもしれませんね。(ただし相手が少数なら(クラス全体とかでなければ)ダメージはないでしょうが)

 「いじめ」というと、伝統的には後者の非犯罪型の精神的なものを指していましたが、現在マスコミで言われる「いじめ」は、身体的暴行のことが多いようですね。
 これははっきり犯罪ですから、警察も動きやすいはず。ボイスレコーダーとか動画で記録するなど、証拠も得やすくなっていますし。

 伝統的な、クラス全体での村八分のようなものは、警察は介入できないでしょうねえ・・・・・・。
 友情や恋愛のトラブルに法律が介入できないのと同じように。
 その意味では、こういう「犯罪でないいじめ」の方が根気強い解決が求められ、大変かもしれません。
 冷酷なフラレ方をしたからといって警察に行っても相手にしてもらえないのと同様に、クラス内で無視されても警察は何も出来ませんし、むしろ何かするべきではありませんね。犯罪でない人間関係に国家権力が入ってはまずいです。

 クリスティアンさんの経験したいじめというのは、どっちのタイプだったのでしょうか?
 犯罪型か、非犯罪型か―――


いじめと自殺について(6) 投稿者:クリスティアン 投稿日:2012年 8月16日(木)23時16分26秒 返信・引用

警察に被害届を出すというのは、自殺はもちろん被害者が不登校になるよりもずっと良い解決方法だと思います。

被害者にとっては被害届を出すことについてもある程度のハードルの高さはあるでしょうが、教師や教育委員会がまったくあてにならない状況下では、決して責められるような行動ではありませんね。

ただ一つ気になっているのは、大津市の事件では警察は最初のうちは被害届を受け付けようとせず、マスコミで問題が大きく報道されてからやっと被害届を受け付けたことです。マスコミ報道があってやっと警察が動くのでは、遅すぎると思います。(これはストーカー殺人事件なども同様ですが…)

今後は警察にも迅速に動いて欲しいです。


Re: いじめと自殺について(5) 投稿者:φ 投稿日:2012年 8月16日(木)03時48分17秒 返信・引用

> No.3604[元記事へ]

クリスティアンさんへのお返事です。

 いじめの被害者が、警察に被害届を出したというのが報じられましたね。しかも何例か。
 警察に被害届というのは、良い方法だと思います。

 たしかに、届け出た被害者が回りの生徒から白眼視されるのではないか、という心配もあるかもしれませんが、事態が深刻だと感じれば、やはり警察は活用すべきです。
 そこまでするやつだったかと、少なくともいじめられることは二度とないでしょう。
 被害届が出されてしまう可能性が高いと心得れば、学校側も見て見ぬふりは出来ないはずです。いじめそのものがなくなってゆくでしょう。

 私が知る例では、何年も前のことですが、関西のある大学で――――
 教員からのセクハラ被害を大学に申し立てていた女子学生が、大学がまともに取り合ってくれず加害教員をかばう方針であることに腹を立て、警察に被害届を出して分厚い調書を大学に見せつけた、というのがありました。
 どうなったかというと、即刻、大学は180度方針を変え、くだんの教員はクビになったとのことです。

 警察への届けというのは、効果大のようです。

 ただし、その事件に限って言うと、学生の方がエクセントリックで、教員の方が被害者であるという声も聞きましたが・・・・・・

 ともあれ、学校が動かないのであれば、学校の怠慢を訴えるという形で被害届を出してもよいのではないでしょうか。

 いじめやセクハラでは泣き寝入りが多いわけですが、学校当局にではなく、学校外に訴え出るのが良い方法かと思われます。


いじめと自殺について(5) 投稿者:クリスティアン 投稿日:2012年 8月16日(木)01時05分57秒 返信・引用

教師を始め学校関係者、さらに教育委員会に至るのまで、教育関係者は完全にいじめを隠蔽する傾向にあるのが実態です。
私が受けたいじめを教師にいくら訴え出ても、教師は徹底的な無視でそれに答えてきました。

大津市の事件でも、教師は加害者に「やりすぎんなよ」などというだけで、被害者を救おうとはまったくしてこなかったという酷い事実があります。

教育関係者に骨の髄まで染み付いた隠蔽体質を一掃しない限り、加害者が隠匿され被害者が一人苦しむという問題は解決しないと思います。

「いじめることが恥である」というのが本当に在学中の生徒に理解されるか… 私は懐疑的(というか絶望的)です。
私があまりに酷いいじめを受けたときに、思わず「人をいじめるのがそんなに楽しいか!」と加害者に言ったのですが、返ってきたのは、「ああ、楽しいよ」というセリフでした。この時の加害者の醜く歪んだ嗤い顔を、私は一生忘れられないでしょう。

いじめの加害者が「少ない」のは、自分達のやってきたことがたいして悪いことだという自覚が無く、大人になったらきれいに忘れてしまっているからだと思います。

いじめの被害者が死にでもしない限り(いや、場合によっては死んでさえ)加害者は殆ど(あるいは全く)お咎め無しという現状では、加害者に恥やら罪の意識やらを持たせることは出来ないでしょう。


根源的かつ潜在的な本能の誤った表現形態 投稿者:スターダスト 投稿日:2012年 8月14日(火)16時04分31秒 返信・引用

【根源的かつ潜在的な本能の誤った表現形態】と題名をつけてしまいましたが…

人間ならずとも、生物では、一般に、環境に対して能動的な働きかけを行うことが、個体や種の生存に有利に働きます。
少し特殊化すれば、ある種の生物は、おかれた環境に対して、能動的に認識し、認識した環境に対して、能動的に作用し働きかけることによって、生き延びるチャンスを増やしていると考えられます。少し特殊化しているわけですが…
*** あいまいな表現をすることをお許しいただくこととします。 ***
さらに特殊化すれば…「環境に対する支配」を、本能…生存機構に組み込んでいる生物もいることかと思われます。 人類もまた、そうした生物の代表的な存在です。
ただ、人間の場合には、本能に組み込まれている「環境を支配する」本能は、フリーフォーマットの上で展開されるシカケとなっているようです。 なんでもかまわない、「支配している」気になりさえすれば、大脳の報酬系にドバドバとなにかしらがあふれるようにできてしまっている…

イジメっていうのは、そうした、誤った道筋におちこんでしまっている、人間に組み込まれている本能の発露なのであろうと考えています。 イジメの存在は…しかたのないこと…なのではなくて、イジメの撲滅のためには…本能に組み込まれた「環境への働きかけの欲求」を正しい道筋に流し込んであげることができればよい、と思われてなりません。
この脈絡において、イジメは【根源的かつ潜在的な本能の誤った表現形態】であると考えています。

具体的な対処策は、本当に難しい…一朝一夕には難しいのかもしれませんが、ひとりひとりが、以上のことをまず認識すること、学校や社会において、教育やスキルアップの場面において、「あぁ、このひとの生存本能は間違った経路で働いている」という認識をお互いに共有して持てることが、*最初の*目標なのであろうと考えています。

===
とりあえず、喫緊の課題として、教育委員会の公選制度を復活すべきだとは思いますが。制度をあらためても腐っているままではだめですので…中身は…
===


Re: いじめと自殺について(4) 投稿者:φ 投稿日:2012年 8月14日(火)15時57分56秒 返信・引用

> No.3601[元記事へ]

クリスティアンさんへのお返事です。


>
> どうしたら加害者を表に引っ張りだせるか… ここが問題です。
>

 学校が、いじめの被害者に不登校などの特別扱いを認める段階になっていれば、当然、いじめそのものは発覚しているわけで、いじめの加害者も特定できているはずですよね。

 したがって、いかなる段階においても、特別扱いされるのはいじめの加害者であって、被害者ではない、という対応に学校が徹すれば、いじめは無くなってゆくと思うのですが―――

 ところで疑問に思うのは、著名人がインタビュー記事やエッセイなどでよく「自分はいじめられていた」と回顧しますね。それに対して「自分はいじめをしていた」という回顧はあまり聞かないような気がします。
 加害者も同じ割合で存在すると思うのだが。(被害者になりやすい性格と著名になりやすい性格に正の相関があるのでないかぎり)

 公的存在になると、いじめの加害者であること(加害者であったと知られること)の恥というか不利が大きいということでしょう。
 在学中の無名の生徒の間でも加害者であることが恥辱である、という風土をいかに作ってゆくか、それが学校教育の大きな課題ですね。


いじめと自殺について(4) 投稿者:クリスティアン 投稿日:2012年 8月11日(土)13時58分21秒 返信・引用

> 不登校を勧めるべきは、むしろいじめの加害者に対してではないでしょうか。

これは全くそのとおりだと思います。
私も加害者こそがまず一義的には排除・処罰されるのが筋だと思います。

ただ、報道などで、教師が「いじめがあったとは知らなかった」などと保身に走る行動をとり続けているのを見ている限り、加害者が隠されるのは避けられないように思います。

被害者に不登校などを認めるのは、あくまで緊急避難です。

どうしたら加害者を表に引っ張りだせるか… ここが問題です。


Re: いじめと自殺について(3) 投稿者:φ 投稿日:2012年 8月11日(土)02時16分41秒 返信・引用

> No.3599[元記事へ]

クリスティアンさんへのお返事です。


>
> いじめの被害者に、自殺ではない逃げ道(不登校とか)を保証し、
> それを社会的にも罪悪視しない風潮を作っていくことが求められていると思います。
>

 不登校を勧めるべきは、むしろいじめの加害者に対してではないでしょうか。(橋下徹の言のアレンジじゃありませんが)

 被害者への救護策とか特別措置が論じられれば論じられるほど、「いじめられるのは恥かしいこと」というプレッシャーから、いじめの潜伏が深まってしまうような気も。

 いじめの加害者の方を徹底的に特別視する風潮ができれば、いじめが減る効果が期待できるのでは。

――― 現在は昔に比べて、いざとなればネット社会に逃避するような手(コミュニティの多様化)があるだけ、救われやすい・・・と考えるのは甘いでしょうか。


いじめと自殺について(3) 投稿者:クリスティアン 投稿日:2012年 8月10日(金)11時56分55秒 返信・引用

三浦先生、スターダストさん、ご意見をありがとうございます。

いじめによる自殺が実質的には自らの意思によるものではなく、強制され混乱している中で行われたものであるという指摘は腑に落ちるものがありました。

社会人になってからもいじめがあり、それが自殺につながっているというのももっともです。

私の場合は、子供の時のいじめがあまりに酷かったので、社会人になってからのいじめには免疫が付いていたという感があります。

いじめの被害者に、自殺ではない逃げ道(不登校とか)を保証し、それを社会的にも罪悪視しない風潮を作っていくことが求められていると思います。


Re: いじめと自殺について 投稿者:φ 投稿日:2012年 8月 9日(木)19時44分1秒 返信・引用

> No.3595[元記事へ]

クリスティアンさん(ならびにスターダストさん)へのお返事です。

>
> いじめがどうしようもない「生きジゴク」ならば、被害者には自殺を認めるべきだとお考えになりますか?
>
> 三浦先生のところにいじめで自殺したいという相談がきたら、先生は自殺を認めますか?
>

私が、継続されない方がよいと(『多宇宙と輪廻転生』において、そして今も)考えるのは、本当にどうしようもない絶え間ない身体的苦痛のような望み無き状態のことであって、
 こう言っちゃ何ですが、「いじめごときで」自殺しようという人には
 「ぜったい自殺するな」
 と言いたいですね。

 いじめくらいの状況であれば、冷静に考えればいくらでも解決方法がありそうですから。
 こう言うと、いじめを受ける辛さを過小評価しているようで不愉快に感じる人もいるかもしれませんが、
 重い病気で身動きとれない人とか、戦争や冤罪や災害でひどい目にあった人の平均的状況に比べれば遙かにましであり、身体や移動の自由がそこなわれていないかぎり、創意による脱出の選択肢が広いはずですし。

 スターダストさんが言うように、いじめにおいては、他者に誘導されてしまっている、つまり他者からのコントロールによって状況が実際以上に絶望的であるかのように錯乱させられているということも、本人が「自殺するほどのこっちゃない」と覚醒した方がよい理由です。
 「生きジゴク」は単なる比喩であると。

 たしかに、
 平均より不幸な人がどんどん自殺してゆけば、世の中の幸福の平均値が上がっていき、世の中、功利主義的に見て良くなるような気もしますが―――
 ただしそれは錯覚で、「不幸になる層」が決まっているわけではないんですね。働きアリのうち、一定の率で必ずいる「サボるやつ」を全部除去しても、やがてまた同じ率でサボるやつらが出てくるように、安易な自殺が社会の幸福度上昇に貢献することはないでしょう。

 逆に、安易な自殺が増えると、隣人どうしにおいて互いの生の継続性が信頼できなくなりますから、社会の安定性と効率が下がって、まことに困ったことになります。

 私としては、
 判断力のある人間の自殺は基本的に違法とし、他人を殺した場合と同じように、正当防衛と緊急避難の場合のみ、自殺を無罪とするというのがよいと思ったりします。
 ただし現実には、自殺が犯罪とされたとしても、大半は心神喪失または心神耗弱が認められて無罪でしょうけれどね。

 ともあれ、通常のレベルのいじめを受けて自殺する場合は、正当防衛か緊急避難によって自分を殺した、とはとうてい言えないでしょう。(ある程度、正当防衛OR緊急避難っぽい情状酌量がありうるにせよ)

 いじめを苦にして自殺するよりも、いじめをしている相手を殺したり傷つけたりする方が、正当防衛OR緊急避難を認めやすく、そのぶん違法性が少ない、と認定すべきだと思います。
 むろんそういう認定は難しいでしょうし、危険でしょうけれどね。「あいつが俺をいじめたから」という根拠不十分な理由での殺人や傷害が頻発するよりは、自殺容認の方がおそらくずっとましなわけで。

 ・・・・・・ややいい加減な応答で申し訳ありません。

 しかし
 いじめというのは学校だけの問題ではなく、職場におけるパワハラを苦にした自殺なんてのは何十倍もあるのでしょうね。
 とくに大学などは、教員間においては通常の上司部下の権力関係がないだけにパワハラがわかりにくく、かえって実質的パワハラの温床になっています。
 ひどい実例はいつかどこかに書きますけれどね。


生存に関する自己決定権の保持 投稿者:スターダスト 投稿日:2012年 8月 9日(木)15時51分28秒 返信・引用

以下。老衰や病気など自然の摂理で死んでしまうことは除外して考えますが…

「生存に関する自己決定権の保持」という意味において、私はいつ死んでもよいし、いつ死ぬことを拒否してもよいと考えます。 他者に決めてもらうことではなく、自分で決めるべきことです。あくまでも【自己決定】の権利です。

それゆえ、こういうケースも想定できます。→誰かの命を助けるために、私が、私の命を失うこと…自死…も容認します。 救命ボートに乗る権利を幼い子供や女性に譲るなど。

しかしながら、「いじめられて自殺」はなんともツライ。 その人にとって、自己の生命の保持や放棄を自由意思で決定しているのではなく、他者に誘導されてしまっているからです。いじめによって「生存に関する自己決定権」を侵害されているのですね。 かかる状況下において、自死は、権利の放棄ですから、私は認めたくないですね。 なんともツライ。

===
思わず投稿してしまいました。


いじめと自殺について(2) 投稿者:クリスティアン 投稿日:2012年 8月 7日(火)23時03分43秒 返信・引用

実際には相談しにくるということは、心の底では本当は死にたくなく、止めて欲しいのだ… とも考えられますが、その場合と、本当に追い詰められて自殺以外にはなにも考えていない場合とを区別して対応できるでしょうか?


いじめと自殺について 投稿者:クリスティアン 投稿日:2012年 8月 7日(火)22時49分16秒 返信・引用

最近になって、いじめによる自殺が社会問題化してきていますが、「自殺是認派」の三浦先生はいかがお考えでしょうか?

いじめがどうしようもない「生きジゴク」ならば、被害者には自殺を認めるべきだとお考えになりますか?

私はそれは絶対に間違っていると思うのですが、これは私がいじめられっ子だったことからくる感情論の部分が大きく、論理的な裏付けは今のところできていません。

三浦先生のところにいじめで自殺したいという相談がきたら、先生は自殺を認めますか?


Re: 抜き打ちテストのパラドクスは、自己言及のパラドクスである 投稿者:φ 投稿日:2012年 7月15日(日)14時55分37秒 返信・引用

> No.3593[元記事へ]

試験管さんへのお返事です。


>
> いつ試験をしようがしまいが、
> 実績は残りますから否定しようがありません。
>

 つまりは、「生徒の証明が正しいとすれば」という条件の下では、何でも否定できるし、肯定もできるということですね。実際にやってみて事実として生じるだろう実績ですら否定できるわけです。

 実際には、そんな証明は出来ない(自己確証的にのみ出来る)わけで、つまりは生徒の証明が間違っているということです。
 (教師が提示した公理が矛盾するのは「生徒の証明が正しい」という条件下においてだけです)


Re: 抜き打ちテストのパラドクスは、自己言及のパラドクスである 投稿者:試験管 投稿日:2012年 7月14日(土)11時41分25秒 返信・引用

> No.3592[元記事へ]

φさんへのお返事です。

>  実績は、公理から自動的に否定できます。

いつ試験をしようがしまいが、
実績は残りますから否定しようがありません。


Re: 抜き打ちテストのパラドクスは、自己言及のパラドクスである 投稿者:φ 投稿日:2012年 7月 8日(日)16時54分31秒 返信・引用

> No.3591[元記事へ]

試験管さんへのお返事です。

> φさんへのお返事です。
>
> よく考えてみたら、そもそも
> 「金曜に試験がある」
> という証明が公理①のほかに
> 「月曜から木曜まで試験がない」
> という前提を使っているので、
> 公理②でいうところの「証明できる日」が
> 「公理のみから証明できる日」を指すなら
> 該当しないな。

 弱気がさらに進んでいますね。

>
> 公理②の「証明できる日」を
> 「公理及び、試験が無かった実績から証明できる日」
> とする必要がある。
>

 そんな必要はありません。
 もし必要なら、圧倒的に生徒が不利ですね。「抜き打ち試験のパラドクス」の原バージョン(「知る」バージョン)も、生徒が戦えるようにするには多くの前提を要するつまらない人為的問題だった、ということになってしまいます。
 このパラドクスはもっとシンプルでしょう。

p「月曜から木曜まで試験が無い」
q「月曜から水曜まで試験が無い」
r「月曜から火曜まで試験が無い」
s「月曜に試験が無い」

 「pという仮定のもとでは、 ①②から 金に試験あり∧金に試験なし」
↑これは、 「①②のもとでは、 p⊃(金に試験あり∧金に試験なし)」
と同じこと。
これは、①②のもとでは、pは矛盾 を意味する。
よって、①②だけから、pを否定できる。
 pを除外したので、順々に、同様の手順でq,r,sを否定できる。
結局、①②だけから
月曜から金曜までに試験がある
月曜から金曜までに試験はない
 の両方が導かれる

とまあ、試験管さんは↑こう主張していたはずです。

それすら主張するつもりがないということであれば、なんだかこの問題、えらく教師に有利な設定になってしまいますよ。

ともかく、「月曜から木曜まで試験がない」という前提は気にする必要なし。

>
> つまり、実績のほうは、もともとの公理じゃないから、
> 「そういう実績はありえない」として否定できるが
> 公理に抵触すれば、公理系の矛盾になる。
>

 実績は、公理から自動的に否定できます。

 ともあれ、生徒が証明から「矛盾」を導き出せたとしても、
 それは公理系の矛盾を示したことにはならず、公理系の矛盾か、または証明の不備を示しているにすぎません。
 「示されたのは、証明の不備ではなく公理系の矛盾である」と前提しないと、教師の矛盾は示せません。
 生徒の前提に自己正当化がある(抜き打ち試験パラドクスは自己言及パラドクスである)というのは、そういう意味です。


Re: 抜き打ちテストのパラドクスは、自己言及のパラドクスである 投稿者:試験管 投稿日:2012年 7月 8日(日)09時26分13秒 返信・引用

φさんへのお返事です。

よく考えてみたら、そもそも
「金曜に試験がある」
という証明が公理①のほかに
「月曜から木曜まで試験がない」
という前提を使っているので、
公理②でいうところの「証明できる日」が
「公理のみから証明できる日」を指すなら
該当しないな。

公理②の「証明できる日」を
「公理及び、試験が無かった実績から証明できる日」
とする必要がある。

この場合
 「月曜から木曜まで試験が無い」→「金曜に試験」→「証明できるので試験なし」
→「月曜から水曜まで試験が無い」→「木曜に試験」→「証明できるので試験なし」
→「月曜から火曜まで試験が無い」→「水曜に試験」→「証明できるので試験なし」
→「月曜     に試験が無い」→「火曜に試験」→「証明できるので試験なし」
→                「月曜に試験」→「証明できるので試験なし」
→公理①と矛盾
となる。

つまり、実績のほうは、もともとの公理じゃないから、
「そういう実績はありえない」として否定できるが
公理に抵触すれば、公理系の矛盾になる。


Re: 抜き打ちテストのパラドクスは、自己言及のパラドクスである 投稿者:φ 投稿日:2012年 7月 8日(日)03時22分14秒 返信・引用

> No.3588[元記事へ]

試験管さんへのお返事です。

>
> そもそも、証明の定義で、真偽値について
> 全く述べていないのですよ。
>

 意味論も知識論も考慮せず、構文論の証明だけでよい、ということですか。
 「知る」のバージョンでも教師が矛盾している、という方向で頑張る議論の余地もありうるだろうに、ずいぶん弱気ですね。

 それでもせっかくのご提案ですから、話を面白くするように、ちょっと整理してみました。

 試験管さんの提案する立場(知識、真偽、意味を度外視する立場)では、
 真偽はどうでもよくて(どのような出来事を指示しているかは問わずに)、構文的・形式的に証明さえ出来ればよいのだから、逆向き推論で次のすべてが証明できていると。

 「金曜に試験はある」→「金曜に試験はない」→
 「木曜に試験はある」→「木曜に試験はない」→
 「水曜に試験はある」→「水曜に試験はない」→
 「火曜に試験はある」→「火曜に試験はない」→
 「月曜に試験はある」→「月曜に試験はない」

 ↑この10個の文を生徒はそのつど(当日に)証明できるというわけですね。
しかも、互いに矛盾していないと。

試験管さんの立場では、
生徒によるたとえば次の二つの言語行為

「月曜に試験はある」が証明された
「月曜に試験はない」が証明された

が矛盾していないというわけですね。
私としてはもちろん矛盾していると言いたいが、試験管さんによれば矛盾していないと。
その同じ基準では、教師による二つの言語行為

「テストを月~金の間のいずれかの日に実行する」が宣言された
「当日行なうと証明できる日には実行しない」が宣言された

もまた矛盾しないことは明らかですね。
「証明された」という文演算子も、「宣言された」という文演算子も、整合性の基準については同等でしょうから。

 しかし、これだと話がずいぶん簡単になってしまいますよ。
上の基準では、生徒と教師のいずれも矛盾していないことになります。
(ちなみに、文演算子の作用範囲内が構文的に矛盾しているのは生徒の証明ペアだけで、教師の宣言ペアにはそういう矛盾すら無い、という点では、この段階ですでに教師が構文的にも有利です。が、この論点は措いときましょう)

 そうすると、生徒も教師も、相手の「矛盾」に責を負わせて決着をつけることはできません。構文論だけの立場では、決着がつかないということです。
 決着がつかないということは、教師がいつ試験をするのも自由、ということです。

あえて決着をつけようとすると、話は逆戻りです。別の基準に訴えるしかありません。
それはもちろん意味論でしょう。

教師の二つの宣言内容
 「テストを月~金の間のいずれかの日に実行する」
 「当日行なうと証明できる日には実行しない」

 は、意味論的に両立します。つまり、現実に「テストを月~金の間のいずれかの日に実行し、かつ、当日行なうと証明できる日には実行しない」ことが可能です。

 他方、生徒の二つの証明結果
 「月曜に試験はある」
 「月曜に試験はない」

は、意味論的に両立できません。つまり、現実に「月曜に試験があり、月曜に試験がない」ことは不可能です。

これで、生徒による証明は無効であり(証明は為されておらず)、したがって証明されていない日に教師は試験をやればよい」という結論に落ち着きます。

>
> 私は「知る」という言葉をつかっていませんよ。
> 「証明できる」と云っていますよ。
> 抜き打ちという言葉の語感は忘れましょう。
> ただのタイトルにすぎませんから。
>

 ↑
 「抜き打ち」の語義を考えないのでは、とりあえず興味深い議論はできませんね。
 それでも、以上見たように、構文論的立場でも、意味論的立場でも、いずれにせよ、教師の試験実施には論理的支障なし、という結論に落ち着きます。

付言: ―――― そもそも、意味論(文の真偽、文が指示する命題・出来事)を考えない立場を通すなら、教師が何曜日に試験を実行しようが、生徒は苦情を言えなくなる。自分の証明した文(言語)が教師の試験実施(言語外の事実)とどういう関係にあるのか、言語と現実とのつながりを「知る」ことが何ら論理的意義を持ちえないのだから。
言語と事態との意味論的関係は問えなくなり、事態(教師の行動)は言語(生徒の証明)とは論理的に独立となる。つまり、契約上認められる教師の行動はまったく自由である。


ところで 投稿者:試験管 投稿日:2012年 7月 6日(金)23時29分23秒 返信・引用

もし
①「テストを明日以降のいずれかの日に行う」
②「当日行うと証明できる日には実行しない」
としたら、別に矛盾しない。

証明を見ればわかるが、テスト実施期間の最終日から証明が始まっている。
もし期間が無限であれば、最終日が存在せず、証明が始まりようがない。

抜き打ちにしたいのなら「**までの間に」なんていう必要はないわけだ。
それは教師自身が勝手に思っていればいいことだ。


Re: 抜き打ちテストのパラドクスは、自己言及のパラドクスである 投稿者:試験管 投稿日:2012年 7月 6日(金)23時07分49秒 返信・引用

> No.3587[元記事へ]

φさんへのお返事です。

> > 証明の定義に、
> > 「証明される命題の真偽値が真である」
> > という条件はありません。
> >
> > 公理から推論規則によって導かれる
> > という条件が満たされればよい。
>
>  もちろんそのとおりで、
>  たとえば偽なる前提から偽なる結論を導く証明が
> 正しい証明であることは十分可能ですね。

そういうことではありませんよ。
そもそも、証明の定義で、真偽値について
全く述べていないのですよ。

いっときますが、証明の定義ですよ。
ブール代数の定義じゃありませんからね。

> しかし我々は今、抜き打ちテストの話をしています。

ええ。

>  結論が知識に至るような証明、
> つまり結論として真なる信念を生み出す証明でないと、
> 試験日を「知る」ことはできず、
> 抜き打ちの餌食になってしまいますよ。

私は「知る」という言葉をつかっていませんよ。
「証明できる」と云っていますよ。
抜き打ちという言葉の語感は忘れましょう。
ただのタイトルにすぎませんから。

>  このパラドクスの起源は、第二次大戦中の
>スウェーデンの民間防衛演習アナウンスだとのことですが、
>そこでも文言は「証明できる日には行わない(実施日は証明できない)」ではなく、
>「実施日は前もって知らされない」となっています。

その発言は無意味ですね。
私はスウェーデンの事例について述べているのではありませんから。
ちなみにスウェーデンの事例の場合、別にパラドックスにはなりません。

>  実施停止のためには、ただの形式的証明ではなく、知識が要求されているのです。

私の問題では、求められているのは証明ですがね。

>  論題どおり「抜き打ち試験」の話をしましょう。

私が書いたとおり、「知る」ではなく「証明できる」で考えてくださいよ。

> もともと
> http://8044.teacup.com/miurat/bbs/3565
> で導入された話題でしたが、

そういう経緯は、私の興味とは異なるので考慮いたしません。

> そこで進Mさんが書き始めているように、これからは「知る」でお願いできませんか。

私はMさんではありませんので、拒否します。

> 試験日についての単なる証明ではなく、
> 知識をかいくぐるテストというのが「抜き打ちテスト」の語義なので。

私の問題は「証明できる」とした場合、矛盾する、というものです。

例えば、貴方のいう「知識」が

「事前(例えば前の週の日曜日)に
 月曜日から金曜日のうち、ある特定の一日に行われる
 とわかるような証明」

という意味であるなら、そのような日は存在しないので実行されません。

しかし、そんなことならわざわざ議論するに値しないほど自明です。

>  このパラドクスでは、
> 「証明する」という概念が出てくる場合、それは「知る」ための手段にすぎません。
> 「知る」ことに(「信じる」ことにすら)貢献しないような形骸化した「証明」では、
> 抜き打ち試験が防止できません。

そもそも私は「抜き打ちできるかどうか」については述べていませんよ。
「矛盾している」といっているのです。
「矛盾していてもやる」という強弁はもちろん可能です。
しかし、契約には違反していますから、試験は無効です。
まあ試験しなくても、契約違反だから、無効ですが。

>  信念にも知識にも関係ない形式的証明でよいのだ、というふうに、
>「証明」の意味を矮小化するのは、このパラドクスに関する限り、
>ただの自作自演でしょう。パラドクス本体を無視した「わら人形論法」ですね。

別に矮小化してはいませんよ。矛盾だと指摘したまでのことです。
この問題はそもそも信念にも知識にも関係していませんよ。

>  これまで私が示してきた回答は、
>  「知ることに至らない「証明」は、抜き打ち試験対策とは関係ない。
>   知識が必要なのに、証明で代用したところに、生徒の誤りがあった」
> というものでした。

あなたのいう知識は何ら説明されていないので回答になっていません。
どうも生徒が誤っていると決め付けたいようですが、
それはあなたが教師だから、教師をかばいたいという
感情論ですか?w

>  「生徒の証明は知識を生み出さない」の一言で、
> 教師の①②は無矛盾となり、このパラドクスは解けます。

解けませんよ。

> 「知る」ではなく形式的証明で、十分興味深いパラドクスが構成できるのだ、
>という提示法で「抜き打ち試験のパラドクス」が論じられている原典というか、
>学術的テキストがあれば、お示しいただけると幸いです。

パラドックスは構成できています。
それが興味深いかどうかは人によるでしょう。

これは私が考えたものであって、
他者が同じことを言ってるかどうかは知りません。
興味があるのなら、あなたがお調べになるのがよろしいでしょう。
但し、過去に誰もいっていないから、無意味だ、ということにはなりません。
どんなアイデアも、誰かがいいだす以前には誰もいっていなかったんですからw


Re: 抜き打ちテストのパラドクスは、自己言及のパラドクスである 投稿者:φ 投稿日:2012年 7月 6日(金)15時04分0秒 返信・引用

> No.3586[元記事へ]

試験管さんへのお返事です。


>
> 証明の定義に、
> 「証明される命題の真偽値が真である」
> という条件はありません。
>
> 公理から推論規則によって導かれる
> という条件が満たされればよい。
>

 もちろんそのとおりで、
 たとえば偽なる前提から偽なる結論を導く証明が正しい証明であることは十分可能ですね。
しかし我々は今、抜き打ちテストの話をしています。
 結論が知識に至るような証明、つまり結論として真なる信念を生み出す証明でないと、試験日を「知る」ことはできず、抜き打ちの餌食になってしまいますよ。

 このパラドクスの起源は、第二次大戦中のスウェーデンの民間防衛演習アナウンスだとのことですが、そこでも文言は「証明できる日には行わない(実施日は証明できない)」ではなく、「実施日は前もって知らされない」となっています。
 実施停止のためには、ただの形式的証明ではなく、知識が要求されているのです。

 論題どおり「抜き打ち試験」の話をしましょう。

もともと
http://8044.teacup.com/miurat/bbs/3565
で導入された話題でしたが、
そこで進Mさんが書き始めているように、これからは「知る」でお願いできませんか。
試験日についての単なる証明ではなく、知識をかいくぐるテストというのが「抜き打ちテスト」の語義なので。

 このパラドクスでは、
「証明する」という概念が出てくる場合、それは「知る」ための手段にすぎません。
「知る」ことに(「信じる」ことにすら)貢献しないような形骸化した「証明」では、抜き打ち試験が防止できません。

 信念にも知識にも関係ない形式的証明でよいのだ、というふうに、「証明」の意味を矮小化するのは、このパラドクスに関する限り、ただの自作自演でしょう。パラドクス本体を無視した「わら人形論法」ですね。

 これまで私が示してきた回答は、
 「知ることに至らない「証明」は、抜き打ち試験対策とは関係ない。知識が必要なのに、証明で代用したところに、生徒の誤りがあった」というものでした。
 「生徒の証明は知識を生み出さない」の一言で、教師の①②は無矛盾となり、このパラドクスは解けます。

 「知る」ではなく形式的証明で、十分興味深いパラドクスが構成できるのだ、という提示法で「抜き打ち試験のパラドクス」が論じられている原典というか、学術的テキストがあれば、お示しいただけると幸いです。


Re: 抜き打ちテストのパラドクスは、自己言及のパラドクスである 投稿者:試験管 投稿日:2012年 7月 6日(金)07時23分16秒 返信・引用

> No.3585[元記事へ]

φさんへのお返事です。

>生徒の証明は、正しい証明でなければなりません。

ええ。しかし

>偽なることを「証明」はできません。

> 「◎◎だと証明される」ためには、◎◎が真でなければなりません。

は誤りです。証明の定義に、
「証明される命題の真偽値が真である」
という条件はありません。

公理から推論規則によって導かれる
という条件が満たされればよい。

> > 証明としての体裁が整っていれば、証明だと認めざるを得ませんよ。
> > それ以外の条件は排除されます。
>
>  ↑「証明としての体裁」には、結論が真であることが含まれます。

含まれません。

>あるいは少なくとも、証明者自身が
>「結論は真であると信じられる」
>ということが含まれます。

全く含まれません。

誤った知識を削除されることをお勧めします。

>このパラドクスで言う「証明」は、
>「結論の真偽を問わず、形式だけ証明っぽくなっていればOK」
>というような安易なものではありません。

形式が全てです。
形式を満たしていれば”証明っぽくなっている”のではなく
”証明となっている”のです。

>主観的な証明モドキでよいなら、

形式を満たしていることは客観的に判定できます。
全く主観的でなく、それゆえモドキではありません。

> > 「金曜に試験があると証明された」と
> > 「金曜に試験がないと証明された」は
> > 矛盾していません。
>
>  矛盾しています。

矛盾していません。
「金曜に試験があると証明された」の否定は
「金曜に試験があると証明されない」

「金曜に試験がないと証明された」の否定は
「金曜に試験がないと証明されない」

> 「金曜に試験があると証明された」は、「金曜に試験がある」を含意します。

含意しません。

> 「金曜に試験がないと証明された」は、「金曜に試験がない」を含意します。

含意しません。

誤った知識を削除されることをお勧めします。

>  むろん、教師の①②が矛盾していれば、
>  矛盾からは形式的に何でも証明できるので、
> 結論の真偽を問う必要もなく、
> 生徒の「証明(互いに矛盾した命題の証明の各々)」も
> 正しいと言えますね。

あなたは証明を読んでいませんね。
「○曜日に試験がある」
という定理の証明には
「矛盾から任意の命題が導ける」
という推論規則は用いられていません。

証明を一度でも読んだ上で書き込むことをお勧めします。

>  生徒は、「当日行なうと知ることのできる日」の存在を前提して証明しているために、自己正当化の虚空に落ち込んでいるのです。
>  トッピングで付け加えられた前提を取っ払えば、矛盾は解消され、抜き打ち試験が成立します。

トッピングなどありませんよ。
生徒の証明の前提には①と②しかありません。
したがって矛盾は解消できません。
試験しようがしまいが矛盾するのです。
「試験できない」というのが誤りというのはそういうことです。


Re: 抜き打ちテストのパラドクスは、自己言及のパラドクスである 投稿者:φ 投稿日:2012年 7月 5日(木)03時36分33秒 返信・引用

> No.3584[元記事へ]

試験管さんへのお返事です。

話が逆戻りしましたね。

http://8044.teacup.com/miurat/bbs/3579
ですでに述べたように、生徒の証明は、正しい証明でなければなりません。「◎◎を証明できる」とは、そういうことです。偽なることを「証明」はできません。
抜き打ち試験のパラドクスは、「証明できる」ではなく「知ることができる」「わかってしまう」というのがもとの形ですよね。
「◎◎だと知る」ためには、◎◎が真でなければなりません。

>
> 証明としての体裁が整っていれば、証明だと認めざるを得ませんよ。
> それ以外の条件は排除されます。
>

 ↑「証明としての体裁」には、結論が真であることが含まれます。あるいは少なくとも、証明者自身が「結論は真であると信じられる」ということが含まれます。
 生徒は、月曜に試験があることを証明し、しかもその証明は、試験がないことを含意している。
 これでは証明者本人が結論を信じることはできないし、ましてや結論が真であることはできませんね。

 ともあれ、このパラドクスで言う「証明」は、「結論の真偽を問わず、形式だけ証明っぽくなっていればOK」というような安易なものではありません。主観的な証明モドキでよいなら、いかにも理路整然と生徒が推論する必要はなく、酔っぱらいが勝手に証明と信じ込んだ、という設定で十分です。それではパラドクスになりえず、つまらない話になってしまいます。
このパラドクスの本質を捉えるために、条件①②を書き直すと、こうなるでしょう。

① テストを月~金の間のいずれかの日に行なう
② 当日行なうと知ることのできる日には実行しない

さて、生徒に思考実験をさせてみましょう。
月曜に教師が試験をしなかったとせよ。
すると、生徒は「やっぱりな。できるはずがないんだから」と思うでしょうか。
それとも、「おかしい。なぜ今日行なわれなかったんだ?」と混乱するでしょうか。
いずれにしても、その場合は、「月曜に試験がある」という命題は偽だったとわかります。その命題は知識の対象にはなりえなかったのです。
月曜に、生徒は、「当日行なうと知る」ことはできていなかったのです。
そのような可能性を、生徒は日曜日に予測できるはずです。つまり、「月曜に試験がある」と生徒は信じることができません。
火曜日以降も同じことです。生徒は「今日が試験だ」と知ることができません。
金曜日についても同様です。

>
> 「金曜に試験があると証明された」と
> 「金曜に試験がないと証明された」は
> 矛盾していません。
>

 矛盾しています。
「金曜に試験があると証明された」は、「金曜に試験がある」を含意します。
「金曜に試験がないと証明された」は、「金曜に試験がない」を含意します。
生徒はいったいどちらを信じているんでしょうか、試験があるというのと、ないというのと。
 確固たる信念がなければ、知識も成立しません。
 「この日に試験がある」と生徒が知っているような日は、存在しないのです。

 教師の言う②を述べ直すと、
「「きょう試験が行なわれる」という証明が正しい日(よって結論も正しく、試験が行なわれる日)には、試験は行なわれない」……
これの対偶は、
「試験が行なわれるのは、「きょう試験が行なわれる」という証明が正しくない、つまりそのような正しい証明が存在しない日である」

 教師の②は、矛盾ではなく、「「きょう試験が行なわれる」という証明が正しい日は存在しない」と述べているだけです。

 むろん、教師の①②が矛盾していれば、
 矛盾からは形式的に何でも証明できるので、結論の真偽を問う必要もなく、生徒の「証明(互いに矛盾した命題の証明の各々)」も正しいと言えますね。
 しかし、教師の①②が矛盾するためには、「当日行なうと知ることのできる日」が存在しなければなりません(のみならず、すべての日がそれに該当しなければなりません)。
 生徒は、そのような日の存在を前提して証明しているために、自己正当化の虚空に落ち込んでいるのです。
 トッピングで付け加えられた前提を取っ払えば、矛盾は解消され、抜き打ち試験が成立します。


Re: 抜き打ちテストのパラドクスは、自己言及のパラドクスである 投稿者:試験管 投稿日:2012年 7月 4日(水)21時55分10秒 返信・引用

> No.3583[元記事へ]

φさんへのお返事です。

> > > ★ ①②の少なくともどちらかが偽だと悟った以上、★
> > > ①も②も生徒は信じる根拠がなくなりました。
> > >  つまり、★矛盾が導かれた時点で、★生徒は①も②も信じる根拠を失い、
> > > ①は証明されていないことになり、②の中の「証明」は幻と消えるのです。
>
> ↑ ★ で挟んだ部分の私の書き方が、誤解を招くものだったようですね。

そういうことではないと思います。

> 矛盾しているのは自己正当化にすぎない生徒の証明であって、
> 教師の①②ではありません。
> 現に、教師は、①②の両方を実行できています。
>  ①も②も問題なく成立しています。
>  ②が成立していると言える理由は、
>「試験は、当日実施されると生徒が証明できない日に行なった」
>からです。
>  つまり、「当日行なうと生徒が証明できる日」はないのです。
> 教師はそれを利用して、抜き打ちを実現させました。

それは全くの誤りでしょう。

月曜日の時点では、月曜日に行われると証明しました。
火曜日の時点では、火曜日に行われると証明しました。
水曜日の時点では、水曜日に行われると証明しました。
木曜日の時点では、木曜日に行われると証明しました。
金曜日の時点では、金曜日に行われると証明しました。

もし試験をすれば、「待ってました!」ということになります。
証明しているからです。証明した日にやろうというのだから
「先生は約束を違えましたね」と生徒から詰られるわけです。

>  よって、「矛盾だからどちらかが必ず未遂」という生徒の推論は誤りでした。
>  ①と②は矛盾していないのです。

生徒は「矛盾だからどちらかが必ず未遂」という推論はしていませんよ。
「結局試験をしようがしまいが矛盾する」という推論をしています。

月曜日から金曜日の間のいずれの日に試験しても、
「私はこの日に試験が行われると証明しましたよ」
といい証明を示すことができますから。

もし、試験が行われなければ
「月曜日から金曜日のいずれかの日に
 試験するといいながら試験しませんでしたね」
というだけですよ。

いずれにしても教師の負けですよ。

>  ↓教師の無矛盾な前提から生徒が矛盾を出してしまったというのは、
> こういうことです。↓
>
>  教師①「テストを月~金の間のいずれかの日に行う」
>    ②「当日行うと証明できる日には実行しない」
>   ↑くりかえしますが、この2つの文は無矛盾です。

残念ですが、そうではありません。

>  生徒は、ここから推論します。
>
>  A「木曜まで試験がなければ、金曜日に必ず実施される。①により」
>  B「①により必ず実施されると証明されるから、②により試験はない」
>
>  ↑この2つの文は矛盾しています。

これだけでは矛盾があるとはいえません。

> 木曜の終わりにおいて、金曜日に試験があり、
> 金曜に試験はない、と生徒は結論したからです。

いいえ。

「金曜に試験があると証明された」と
「金曜に試験がないと証明された」は
矛盾していません。

「金曜に試験があると証明された」と「金曜に試験がある」は
両立しないといっただけですから
 「金曜に試験があると証明された」
&「金曜に試験がないと証明された」
&「金曜に試験がない」
であれば問題ありません。

>  実際にはこれを繰り返して月曜に試験があり、
> 試験はない、と最初に結論するわけですが、
> これも当然、矛盾です。

これも
「○曜に試験があると証明された」と
「○曜に試験がないと証明された」は
矛盾していません。(○=月~木)

 「○曜に試験があると証明された」
&「○曜に試験がないと証明された」
&「○曜に試験がない」
であれば問題ありません。

しかし、月~金について上記の式を&でつなぐと矛盾します。
なぜなら「月~金のいずれかに試験をする」といったからです。

>  ともあれ、AとBはともに実現はしませんから、どちらかが誤りです。

「月~金のどの日にも試験がない」と
「月~金のいずれかの日に試験がある」の
どちらかは誤りでしょう。

しかし、どちらが誤りでも、先生が矛盾したという事実は変わりません。

>  どちらが誤りなのかは生徒には判断材料がありません。

判断する必要はありません。
どの日に試験をしようが、矛盾していますし、
試験をしなければしないで、矛盾しています。

>  教師が①を優先するならBは偽、②を優先するならAが偽です。
>  教師は、どちらを優先するとも明言していないので、生徒としてはお手上げです。

別に困りませんよ。

生徒は試験勉強はした上で、試験になれば
「今日試験すると思っていましたよ。」
というだけのこと。

そういえば手品で、相手にトランプの札を一枚選ばせて
自分がさもそれを予見したかのように思わせるために
全ての札に対して、それぞれ対応する紙を異なる場所に
隠しておいて、例えばスペードのエースだったら
相手に、隠した場所を示した上で紙を見つけさせ
「やはり、君はスペードのエースを選んだね」
とかなんとか書いてある文章をよませる、とかいう
のがありました。あれと同じですよw

>というか、教師はどちらを優先するというのでなく、
>両方とも実行する、といっています。両方優先するのです。

残念ながらできていませんよ。
試験をすれば②に反します。
試験をしなければ①に反します。

試験をしたが②に反しない、というのは誤りです。

>  勝手に②の優先度を上位に置いてAを偽と決めつける根拠は皆無です。
>  教師は①②両方とも等しく真だと断定しているのですから。

ええ、「試験はない」と決め付ける根拠はありません。

結論は、「矛盾したから試験はない」ではありませんよ。
まあ、強いて言えば
「矛盾したから、試験をしたところで
 裁判で訴えれば、教師が敗訴し、試験は無効」
といったところでしょうか。

>  こうして、生徒は、教師の無矛盾な①②から、
> 自分の結論AとBの真偽について判断材料を与えられません。

①②は矛盾していますから、A、Bの真偽の判断の必要はありません。

>  生徒は「証明」が出来なかったのです。

生徒は全ての日について証明できています。
教師がこれを否定することはできません。

>  証明できないのに出来ると前提したがゆえに、
> Bのように虚偽を信じてしまったのです。

生徒はそれほど軽率ではないと思いますよ。

矛盾したという証拠さえあれば、
教師が試験を強行しても約束不履行として
告訴すればいいだけですからw

>  「証明できる日」が実在する場合にのみ、教師の①②は矛盾します。
> 条件文としての②の文言からそれは明らかでしょう。

「実在する」とはいかなる意味でしょうか?
証明としての体裁が整っていれば、証明だと認めざるを得ませんよ。
それ以外の条件は排除されます。

>  実際は、「生徒が証明できる日」はないので
>(教師にはそんなことはわかっているので)、
>①②は無矛盾です。

教師が何をわかったのか知りませんが、
わかったと思ってるのは誤解でしょう。

全ての日について証明が存在しています。
それを示すことが可能です。
裁判では有力な証拠になります。
教師が負けることは必定です。

>  こう考えると、
>  「抜き打ち試験のパラドクス」は、
> 自己言及のパラドクス(自己正当化のパラドクス)
> に還元できることがわかります。

自己言及的ではあるでしょうが、
自己正当化はありませんね。

>  生徒の証明が、勝手に「この証明(自分自身)は正しい」
> と決めつけたところに、矛盾が生じたというわけです。

いいえ。そもそも生徒は証明をしただけであって
「自分の証明が正しい」という決め付けはしていません。

>  教師の2つの文には問題ありません。

残念ですが、教師の2つの文は矛盾しています。


抜き打ちテストのパラドクスは、自己言及のパラドクスである 投稿者:φ 投稿日:2012年 7月 2日(月)02時15分34秒 返信・引用

> No.3582[元記事へ]

試験管さんへのお返事です。

>
> >  ①「テストを月~金の間のいずれかの日に行う」
> >  ②「当日行うと証明できる日には実行しない」
> >  のどちらかが必ず未遂となります。
> >  しかしどちらが未遂となるのか。生徒には判断できません。
> >
> > ★ ①②の少なくともどちらかが偽だと悟った以上、★
> > ①も②も生徒は信じる根拠がなくなりました。
> >  つまり、★矛盾が導かれた時点で、★生徒は①も②も信じる根拠を失い、
> > ①は証明されていないことになり、②の中の「証明」は幻と消えるのです。
> >
> >  こうして、①②は整合性が回復されます。
>
> 私が言ったのは、①②が両立できない、というところまでです。
> その後、①②を信じない、つまり前提ではなくなるから
> 整合性が回復されるのであって、それは
> 「①②は整合性が回復されます。」
> ということではありませんよ。
>
>

↑ ★ で挟んだ部分の私の書き方が、誤解を招くものだったようですね。すみません。

 ①②の少なくともどちらかが偽である、互いに矛盾している、というのは、生徒の推論の中でのことであって、現実には①と②は矛盾していません。
 つまり、矛盾していない教師の発言に矛盾を作ってしまった生徒の推論が、間違いだったということです。
 生徒の推論は「一種の背理法」などと書きましたが、正確には前提の誤りを証明する背理法ではなく、証明そのものの不成立が暴露されたという意味でのいわば「自己指示的背理法」なのでした。
 教師の2つの発言から「試験日についての証明」が出来るという生徒の暗黙の前提が間違っていた、と証明されたのです。
 そういう背理法です。
 生徒自身が自分の勝手な思いこみ(正しい証明の実在)を推論の前提の一つとして挿入したことを誤りと自己証明した背理法。
 考えてみれば、証明自身が自分で自分を正しいと言い張っても何の証明にもなっていませんよね。

 というわけで、矛盾しているのは自己正当化にすぎない生徒の証明であって、教師の①②ではありません。
 現に、教師は、①②の両方を実行できています。
 ①も②も問題なく成立しています。
 ②が成立していると言える理由は、「試験は、当日実施されると生徒が証明できない日に行なった」からです。
 つまり、「当日行なうと生徒が証明できる日」はないのです。教師はそれを利用して、抜き打ちを実現させました。
 よって、「矛盾だからどちらかが必ず未遂」という生徒の推論は誤りでした。
 ①と②は矛盾していないのです。

 ↓教師の無矛盾な前提から生徒が矛盾を出してしまったというのは、こういうことです。↓

 教師①「テストを月~金の間のいずれかの日に行う」
   ②「当日行うと証明できる日には実行しない」
  ↑くりかえしますが、この2つの文は無矛盾です。

 生徒は、ここから推論します。

 A「木曜まで試験がなければ、金曜日に必ず実施される。①により」
 B「①により必ず実施されると証明されるから、②により試験はない」

 ↑この2つの文は矛盾しています。木曜の終わりにおいて、金曜日に試験があり、金曜に試験はない、と生徒は結論したからです。
 実際にはこれを繰り返して月曜に試験があり、試験はない、と最初に結論するわけですが、これも当然、矛盾です。
 ともあれ、AとBはともに実現はしませんから、どちらかが誤りです。
 どちらが誤りなのかは生徒には判断材料がありません。
 教師が①を優先するならBは偽、②を優先するならAが偽です。
 教師は、どちらを優先するとも明言していないので、生徒としてはお手上げです。というか、教師はどちらを優先するというのでなく、両方とも実行する、といっています。両方優先するのです。
 勝手に②の優先度を上位に置いてAを偽と決めつける根拠は皆無です。
 教師は①②両方とも等しく真だと断定しているのですから。

 こうして、生徒は、教師の無矛盾な①②から、自分の結論AとBの真偽について判断材料を与えられません。
 生徒は「証明」が出来なかったのです。
 証明できないのに出来ると前提したがゆえに、Bのように虚偽を信じてしまったのです。(②は、証明できる日の存在を仮定しているだけなので真です。Bは、仮定ではなく本気で信じてしまっているため、偽です)

 「証明できる日」が実在する場合にのみ、教師の①②は矛盾します。条件文としての②の文言からそれは明らかでしょう。
 実際は、「生徒が証明できる日」はないので(教師にはそんなことはわかっているので)、①②は無矛盾です。

 こう考えると、
 「抜き打ち試験のパラドクス」は、自己言及のパラドクス(自己正当化のパラドクス)に還元できることがわかります。
 生徒の証明が、勝手に「この証明(自分自身)は正しい」と決めつけたところに、矛盾が生じたというわけです。
 教師の2つの文には問題ありません。
 

Re: 抜き打ちテストのパラドックスについて 投稿者:試験管 投稿日:2012年 7月 1日(日)17時15分18秒 返信・引用

> No.3579[元記事へ]

φさんへのお返事です。

>  ①「テストを月~金の間のいずれかの日に行う」
>  ②「当日行うと証明できる日には実行しない」
>  のどちらかが必ず未遂となります。
>  しかしどちらが未遂となるのか。生徒には判断できません。
>
>  ①②の少なくともどちらかが偽だと悟った以上、
> ①も②も生徒は信じる根拠がなくなりました。
>  つまり、矛盾が導かれた時点で、生徒は①も②も信じる根拠を失い、
> ①は証明されていないことになり、②の中の「証明」は幻と消えるのです。
>
>  こうして、①②は整合性が回復されます。

私が言ったのは、①②が両立できない、というところまでです。
その後、①②を信じない、つまり前提ではなくなるから
整合性が回復されるのであって、それは
「①②は整合性が回復されます。」
ということではありませんよ。

①だけからいつ行うか証明できないからといって
②が成立したことにはなりませんよ。

なぜなら②における証明の、前提条件(公理)には
②自身が含まれていますから。


Re: 質問です 投稿者:φ 投稿日:2012年 6月23日(土)00時52分53秒 返信・引用

> No.3580[元記事へ]

YURIさんへのお返事です。


 分析的・総合的の区別に対するクワインの批判というのは、私もよくわかりません。

 命題(文)のネットワーク全体の整合性と経験への合致を保つうえで、どの文を修正せねばならないかという選択には絶対の基準はないので、場合によっては(プラグマティックに考えて)、分析的命題を表わすとされる文も修正を免れることはできないだろう、というようなことですが、
 修正されうるのは分析的命題ではなく、あくまで「分析的命題を表わすとされる文」が修正されうるだけであって、結局その文は分析的命題を表わしてはいなかったと判明するだけではないか、と私は思います。
 ともあれ、
 現在の『経験主義の2つのドクマ』を読んだときに私自身は納得感は得られなかったし、今も、さほど重視すべき考えだとは思っていないというのが本音です。「5は自然数である」が総合的命題かもしれないと言われても困ってしまいますし。
 実際に、分析的と総合的の区別は今でも至る所でなされているし、それはクワインが生きていた頃でもかわりありません。
 私の学生時代、R.M.ヘアが東大で講演したとき、大森荘蔵が「クワインの批判はどう思うのか」というような質問をして、ヘアは質問の趣旨を理解できない感じで、「分析的命題と総合的命題の区別をしなきゃ話が始まらないでしょ?」みたいな対応だったと記憶しています。
 実際、大森の質問には全く内容がないとそのときも感じた記憶があります。
 クワインの批判をふまえずに「分析的・総合的」の区別を前提していることに「疑問」を形だけ呈したような感じで、わざわざ質問する意味のあるような実質的議論ではありませんでした。

 というわけで、私は『経験主義の2つのドクマ』を参照することはほとんどありません。

 とはいえ、共感できる解釈も可能です。
 『ラッセルのパラドクス』p.199で、私はクワインのこの考えに言及しましたが、
 ラッセルの「経験科学の最も一般的な極限が論理学」といった一元論の一種と捉えれば、
 クワインの『経験主義の2つのドクマ』にもある程度共感できるわけです。
 p.206-7でも、『経験主義の2つのドクマ』をラッセルの論理学観の復興として捉えておきました。

 論理学を単なるトートロジーと見るウィトゲンシュタインや論理実証主義者に対してラッセルは、実質的な存在論としての論理学を保持しようとしていましたからね。
 クワインもその系譜に位置づけることは出来るでしょう。


質問です 投稿者:YURI 投稿日:2012年 6月22日(金)06時09分11秒 返信・引用

はじめまして。ネットサーフィンしていましたら こちらにたどり着きました。
専門家ではないのですが、分析哲学、科学哲学に興味がある者です。

クワインが『経験主義の2つのドクマ』の中で カルナップの考えを批判して
分析的命題と綜合的命題は、明確には区別が出来ず、
常に真と思われる分析的命題も 元となる意味が変化すれば偽になってしまう
というようなことを述べてますよね。
例えば、
「未婚者」という言葉は「一度も結婚した経験が無い人」を指しますよね。
だから、「未婚者は結婚した事が無い」という命題は分析的命題で常に真になるとされていますが、
「未婚者」の意味を「一度も恋愛経験が無い人」と恣意的に変えてしまったら、
分析的命題でも偽になる という風にクワインは言ってるのですか?
正式な言葉の意味(スラングや流行語は除く)とは、未来永劫変化しないもの(というか変化させたらいけない)ではないのですか?

クワインは カルナップよりも新しい時代の人物なので、
カルナップを批判的に継承して超克したように捉えられていますが、
分析的命題と綜合的命題の区別に関しては、カルナップの方がわかりやすくしっくりきます。


Re: 抜き打ちテストのパラドックスについて 投稿者:φ 投稿日:2012年 6月18日(月)01時47分44秒 返信・引用

> No.3578[元記事へ]

試験管さんへのお返事です。

>
> この推論を繰り返せば
> 月~金に実行する場合、
> 月曜日にやるしかないと
> 証明されてしまう。
> したがって月曜日も実行できない。
>
> したがって、月~金のいずれの日にも実行できない。
>


「月曜にやるしかない」と証明できたので、生徒は「試験を今日やるに違いない」と待ちかまえています。
 しかし一方、「証明できたのだから試験は出来ない」とも信じています。
 生徒にはすでに矛盾が感じられています。「試験は今日やらねばならない。だから(証明できたのだから)今日はできない」
 すべての曜日にそれが成り立つので、教師の宣言の2条項は互いに矛盾しており、2条項の実行はできないと生徒にはわかってしまいました。

 2条項を実行できないのだから、
 ①「テストを月~金の間のいずれかの日に行う」
 ②「当日行うと証明できる日には実行しない」
 のどちらかが必ず未遂となります。
 しかしどちらが未遂となるのか。生徒には判断できません。

 ①②の少なくともどちらかが偽だと悟った以上、①も②も生徒は信じる根拠がなくなりました。
 つまり、矛盾が導かれた時点で、生徒は①も②も信じる根拠を失い、①は証明されていないことになり、②の中の「証明」は幻と消えるのです。

 こうして、①②は整合性が回復されます。
 なにしろ①が偽かもしれないのだから(試験がなされないかもしれないのだから)、「当日行うと証明できる日」というものが生徒にとっては存在しません。
 よって(生徒による「証明」の存在という前提(①②が矛盾するための前提)が消滅したために)、教師は月~金のどの日に試験をやることも出来るのです。

 「証明できる」を、形だけの逆向き推論で金~月をつぶしてゆく、というだけの薄い意味にとれば、①と②は両立しないままでしょうね。
 ところが、真正の意味で「証明できる」を理解すれば、ただ形式的な導出をしたというだけではダメでしょう。「妥当な証明ができる」というのでなければなりません。証明の結論が矛盾を生じたところで、一種の背理法だったと理解して、証明の前提(教師の宣言)①②のいずれかを捨て去るところまで証明は進まねばばなりません。

  たとえば、
 月曜日に、生徒は推論により
  ①「テストを月曜日に行う」
  ②「当日行うと証明できる日つまり月曜日には実行しない」
 の両方を導いて、矛盾に気づかなかったとします。
 知らぬが仏で、首尾良く①②の両方を信じ込んだとします。
 そして、月曜日が終わったとき、試験がなかったとしましょう。
 ここで生徒はさすがに気づきます。
 ①は偽だったなあ、と。
 ここで、②で言う「証明」とは何であったか、と生徒は考え直すはずです。
 「月曜日に試験がある、と月曜日に僕は証明できていなかったのだ。なぜなら、『月曜日に試験がある』という結論が偽だったのだから」
 こうして、生徒は自分の「証明」に自信を失います。
 実際、結論がいちど反証されてしまったのだから。
 火曜日には、
 ①「テストを火曜日に行う」
 ②「当日行うと証明できる日つまり火曜日には実行しない」
 の両方を導いてしまった「証明」の妥当性を生徒は疑っています。

 こうして、生徒は①を信じることができなくなり、教師はその疑いに乗じて試験を行うことが出来る、というわけです。

 火曜日に生徒が矛盾に気づかず、①②を頑なに信じ続けていたら?
 それでもかまいません。教師は試験用紙を配布しながら、おまえは②を信じている時点で①を信じられるはずがない、信じていないのに証明できたもないだろう、と指摘すればよいのです(あるいは、①を証明できたからには②を経由して①の否定を信じているはずだ、と指摘すればよいのです)。
 生徒は、自分の「証明」が形ばかりの非妥当な空論であったことを悟り、試験を受けねばならないのです。

 「証明」を「妥当な証明」の意味ではなく、「心理的に証明であるもの」の意味にとれば、①②は矛盾したままかもしれません。
 しかし、
 ①「テストを火曜日に行うと証明できた」
 ②「当日行うと証明できる日つまり火曜日には試験は行われない」
 の両方を信じることがその「心理的証明」のために必要であることを改めて指摘されれば、さすがに「矛盾を許容する証明」なるものを生徒は認めないでしょうから、心理的な意味での証明も崩壊するわけです。


抜き打ちテストのパラドックスについて 投稿者:試験管 投稿日:2012年 6月17日(日)09時18分36秒 返信・引用

ところで、テストの条件が
「テストを月~金の間のいずれかの日に行う」
「行う曜日を事前に知ることはできない」
ではなく
「テストを月~金の間のいずれかの日に行う」
「当日行うと証明できる日には実行しない」
だったら、矛盾するのではないだろうか?

例えば金曜日には実行できない。
木曜日まで実行しなかったら、
さすがに金曜しかないと証明できるから。

そして木曜日にも実行できない。
水曜日まで実行しなかったら、
金曜日には実行できないのだから、
木曜日にやるしかないと証明できるから

この推論を繰り返せば
月~金に実行する場合、
月曜日にやるしかないと
証明されてしまう。
したがって月曜日も実行できない。

したがって、月~金のいずれの日にも実行できない。


Re: お財布の中身で賭けをする 投稿者:スターダスト 投稿日:2012年 6月13日(水)14時24分45秒 返信・引用

> No.3573[元記事へ]

その後、つらつらと計算しておりまして、以下のことがみつかりました。

E[(y-a)/(y+a)] = 0
E[y/(y+a)] = E[a/(y+a)] = 1/2

∵ y/(y+a) - 1/2 = 1/2 - a/(y+a) = 1/2 * (y-a)/(y+a)
= ± D/(2+2C) (但し、符号は、y-a の符号に同じ)

===
前回までの投稿では、y と a との非対称が目立ちましたが、今回の投稿では、むしろ対称性が浮かんできています。 この理由は、前回まででは、y と a という金額について期待値を考えたのに対して、今回は、金額の比について考えているからなのでしょう。
E[y/(y+a)] = E[a/(y+a)] = 1/2
の評価なのですけれども、(y+a)が、合計の金額であることを考えますと、合計金額のうち、y および a の占める割合の期待値は、共に、 1/2 であるという簡明なものになっています。また、この結果は、r に依存していません。 片方の金額を知ったとき(すなわち固定したとき)に、もう片方との比rもしくは1/rが知られていれば(固定されていれば)良いだけです。

自分が知ったaという金額は全体の半分であると見積もる、もうかたほうの確率変数yもまた、全体の半分であるとみつもることができる。 対称的である。
ところが、前回も計算したように、
E[y/a] = C
であって、非対称のようにみえる。 おもしろいことですが、特に矛盾はないようです。


Re: お財布の中身で賭けをする 投稿者:スターダスト 投稿日:2012年 5月24日(木)16時19分20秒 返信・引用

> No.3575[元記事へ]

というわけでして、
差額版財布ゲームを、普通に考えたときと、逆数について評価して考えたときとで、一見すると、財布の中身の金額の大小関係について矛盾があるように思えてきます。

このゲームで、特に、r = 2 のケースを考え、二封筒問題とくらべると、とても不思議な気持ちがしてまいります。


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Re: お財布の中身で賭けをする 投稿者:スターダスト 投稿日:2012年 5月24日(木)16時12分22秒 返信・引用

ところで、確率変数 z = 1/y の期待値を、a, r であらわすことができます。

1/y の期待値、E[1/y]を求めたいということになります。

C = (r + 1/r)/2 > 0
D = (r - 1/r)/2 > 0

場合分けを行います。
・y>a すなわち、 y=ra のとき(ケース1)
明らかに、
a/y = C - D
1/y = C/a - D/a

・y 同様に明らかなように
a/y = C + D
1/y = C/a + D/a

ケース1とケース2とが仮定により等確率で起こるので、
E[1/y] = C/a
すなわち、
E[1/y] = (1/a)(r + 1/r)/2 > 1/a ....(α)

===
上記の最後の式α により
E[1/y] > 1/a
であることがわかりました。

相手の財布の金額の逆数の期待値が、自分の財布の金額の逆数よりも大きいです。
このことだけをぼんやりと考えますと、

相手の財布よりも自分の財布の中身の金額が大きいということになります。
これは不可思議な結果ですね。


Re: お財布の中身で賭けをする 投稿者:スターダスト 投稿日:2012年 5月24日(木)15時59分0秒 返信・引用

差額版財布ゲームの問1について考えを述べたいと思います。

y は確率変数であり、y の期待値、E[y]を求めたいということになります。
a>0 および r>1 については、既知の定数です。 E[y]を、a, r で表すことが目標です。

ここで、いったん、次のような定数 C, D を導入します。

C = (r + 1/r)/2 > 0
D = (r - 1/r)/2 > 0

場合分けを行います。

・y>a すなわち、 y=ra のとき(ケース1)
明らかに、
y/a = C + D
y = aC + aD

・y
同様に明らかなように
y/a = C - D
y = aC - aD

ケース1とケース2とが仮定により等確率で起こるので、
E[y] = aC
すなわち、
E[y] = a(r + 1/r)/2

以上で、問1で求めることが要求される y の期待値を表すことができました。

※なお、相加平均>相乗平均であるので、
E[y] = a(r + 1/r)/2 > a・r・(1/r) = a
となり、E[y] > a である。


お財布の中身で賭けをする 投稿者:スターダスト 投稿日:2012年 5月24日(木)15時31分50秒 返信・引用

こんにちは。
有名な【財布ゲーム】というのがあります。
2人の同じ程度に裕福な人が、財布の中身を比べるゲームをした。このゲームのルールは、以下の通りである。財布の中身が少ない方が、多い方の中身を全額もらう。中身が同額の場合は、なにも起きない。一人の男は「私の財布の中身をA円としよう。私が負けた時には、A円を失う。私が勝つ確率を0.5とすると、私が勝った時にはA円よりも多くの金額をもらい、合計は2A円よりも大きくなる。ということは、このゲームは私にとって得だ。」相手もまったく同じように考えた。しかし、実際には2人の条件はまったく同じであり対称であるため、ゲームは公平である。2人の考え方は、どこがおかしかったか?
===

さて、ここで、上を変形して、以下の『差額版財布ゲーム』を考えます。以下に。
===
2人の同じ程度に裕福な人が、財布の中身を比べるゲームをした。このゲームのルールは、以下の通りである。
財布の中身が少ない方が勝ちとなり、多い方の中身【との差額】を賞金としてもらう。中身が同額の場合は、なにも起きない。【自分の財布の中身の金額 a はあらかじめ知っている。】
さて、自分の勝つ確率を1/2としよう。相手の財布の中身の金額を y とする。 r>1 なる定数があり、
y = ra
もしくは
ry = a
のどちらかが成立しているものとしよう。(※確率は半々である)
つまり、ゲームの裁定者が、「やぁ君たちの財布の金額の比は、rだったよ。
r は、大きなほうの金額/小さなほうの金額
だけどね。」と二人に教えたのである。

問1:
y の期待値 E[y] を、a, r で表せ。

問2:
このゲームで得られる賞金の期待値を a, r で表せ。
===

この差額版財布ゲームについて、次の投稿にて、自分の考えを述べたいと思います。


Re: 抜き打ちテストのパラドックス 投稿者:φ 投稿日:2012年 5月18日(金)23時39分3秒 返信・引用

> No.3571[元記事へ]

進Mさんへのお返事です。

教師が間違っている場合が起こるとしたら、
A「生徒が合理的に予測・確信できた日に試験をやってしまった」
B「生徒が予測・確信できた日があるなしにかかわらず、試験をやらずにしまった」
の二通りですよね。
 これを、教師の宣言
①「必ず試験がなされる条件」
          月∨火    ~月⊃火
②「試験がなされるなら抜き打ちで条件」
         月⊃~K月  火⊃~K火  ~(月∧K月) ~(火∧K火)
 に照らしてみると、
Aは、②の否定であり、
Bは、①の否定です。

・もし生徒が、教師は抜き打ち試験はできない(自分の宣言に違反する)と推論したならば、AかBのいずれかが起こると予測していることになります。
しかし、AとBのいずれが起こるかまでは特定できません。
(換言すると、①か②のいずれかが偽だと推論するが、どちらが偽なのかは特定できないという状態です。)
よって、「生徒はAを知っている」「生徒はBを知っている」のいずれもが偽です。
すると、生徒は、必ず試験がなされるとは信じることができず、教師がいつ試験をやっても(たとえ最終日であっても)②が真となり、生徒にとって抜き打ち試験が成立するわけです。

・他方、生徒が、教師は抜き打ち試験はできると推論したならば、AかBのいずれも起こらないと予測していることになります。
(換言すると、①か②のいずれもが真だと信じている状態です。)
ところがこれは、最終日には矛盾を起こします。①により教師は必ず当日に試験をするはずで、それが予測されているので抜き打ちではないにもかかわらず、②により試験実施が生徒自身の予測を裏切らねばならないからです。

よって、抜き打ち試験はできるという推論は崩壊し、前項の「できない」という推論へと帰着します。
 その結果、生徒は抜き打ち試験を被ってしまいます。
 (正確には、前項の「できないと推論する」は、より弱い「できると推論できない」で十分でしょう)

 ↑これが当面の「解決」ですが、
 これで本当に解決になっているかどうかは断定できません。

 また何かアイディアが浮かんだらどうぞお知らせください。


Re: 抜き打ちテストのパラドックス 投稿者:進M 投稿日:2012年 5月18日(金)02時39分49秒 返信・引用

> No.3570[元記事へ]

φさんへのお返事です。

ご指摘から、私の論証のどこが間違っていたのかを認識することができました。
つまり、「①が成り立っていること」と「①を信じていること」とを取り違えて、①と③が両立しないと勘違いしてしまったわけですね。

そしてよく考えると、教師の宣言、つまり抜き打ちテスト自体が不可能なはずはなかったですね……
初歩的な間違いで申し訳ない限りです。

先生の①②③の分け方のように、様相論理的な条件も考慮しないと、まず矛盾が起きてこないのですね。先生の考えを参考にさせて頂き、私もまた色々と考えてみたいと思います。

非常に勉強になりました。ご教授いただき、どうもありがとうございました。



Re: 抜き打ちテストのパラドックス 投稿者:φ 投稿日:2012年 5月18日(金)01時24分55秒 返信・引用

> No.3569[元記事へ]

進Mさんへのお返事です。

 ②と③は、私の②つまり「抜き打ち条件」を分解したものでしたか。

 ただ、わざわざ分解する必要があるのでしょうか。いっしょにした方が簡単かと思いますが・・・・・・。
というより、ばらして各々を独立させてはまずいと思うのですが。
 その理由は――

>
> ①~P⊃Qと、③~(~P |- Q)は両立しません。
> 実際、~P⊃Qと~Pからは、モダスポネンスでQが導かれるからです。
>

↑ここに、進Mさんの勘違いがあるように思われるのです。

 ②が~( |-月)、~( |-火)で③が ~(~月 |- 火)ということは、
 進Mさんの①②③のうち、①だけが教師の述べたことで、②③は教師が述べたことではありませんね。
 なぜなら、教師は、「君たちはどの日にも「今日が試験だ」とはわからないはずだ」とは述べていないからです。あるいは、「これこれの日は、君たちが試験だとは予想しない日だ」とも述べていません。単に、「そういう日があるだろう」と述べているだけです。
 よって、②が真で③が偽、というのは、「教師が間違っている」ことの証明にはならないでしょう。
 教師は、~( |-月)または~( |-火)または ~(~月 |- 火)(より正確には、~( |-月)または~(~月 |- 火))と述べただけで、③は選言肢の一つにすぎません。
 連言肢ならともかく、選言肢をばらして各々独立した前提とするのは、論証の構成としてまずいのではないでしょうか。

 しかも、③ ~(~月 |- 火)が偽となるのは、生徒が①を確信している場合だけでしょう。
~月 |- 火が実際成り立つためには( |- は生徒の論証を表わすので)、生徒が、①~月⊃火 が真だと知っていなければなりません。
 ところが、①「必ず試験を行う」という条件は、教師の宣言であって、それと抜き打ち条件とをかりに真だと仮定したときに何が導かれるか、生徒は考えているわけです。
 つまり、①は生徒にとってあくまで仮定であって、知識内容ではありません。
  したがって、~月 |- 火 と生徒が信じているわけではありません。むしろ生徒にとっては ~(~月 |- 火) の状態です。

 論証のためにかりに①を仮定することと、自分の未完成の論証の事実に関わる~(~月 |- 火) とは、生徒の中で両立しているのです。

 教師の述べた二つの条件(試験を実行する、実行する場合は抜き打ちである)は、ともに真でありえます。
 しかし生徒は、二条件がともに真ではありえない、と推論します。①②③のいずれかは誤りであると。その時点で、生徒が①に確信を持っていないことがわかります。つまり、生徒の中では~月 |- 火ではないのです。
 よって、~月⊃火という仮定は、生徒の確信を否定した~(~月 |- 火)と両立します。

・①が偽であるのは、もちろん、試験が行われなかった場合です。
生徒は、一つの可能性として「試験はできないはずだ」というふうに、①を疑うのです。
・抜き打ち条件が偽であるのは、生徒が合理的に確信していた日に試験が為された場合です。しかしこれは不可能です。生徒は①を疑いの目で見ざるをえないため、試験が為されない可能性があると思っているからです(試験が為されなければ、抜き打ち条件(前回の私の②)は空虚な意味で真)。

 結局、生徒が二条件の少なくとも一方が偽だと疑っている限り、生徒の中で~P |- Qは成立していません。

 では、生徒が二条件の両方が正しいと信じるとしたらどうでしょう。
 その場合、前回の私の①②から矛盾が生じてはなりませんから(正しいと信じられなくなるので)、生徒は③(前回の私の③)を信じることができません。つまり、「教師は必ず試験を行う」と自分が知っている、とは生徒は思っていないのです。つまり①が真だと生徒は確信できないということです。

 こうして、唯一、整合的な解釈は、教師は抜き打ち試験を行うことができる、という解釈になります。
月曜でも火曜でも、試験をやりさえすれば、①に確信の持てなかった生徒にとって、不意打ちの抜き打ちテストになるのではないでしょうか。

 いかがでしょう?


Re: 抜き打ちテストのパラドックス 投稿者:進M 投稿日:2012年 5月17日(木)02時18分47秒 返信・引用

> No.3568[元記事へ]

φさんへのお返事です。

お返事ありがとうございます。
拝読させていただきました。

>  よくわからないのは、①と③が矛盾しているという点です。
>  ①と③に矛盾はありません。
>  ①からは、PでなければQ、が出てくるが、③の否定するPでないときQが証明できる、は含意されていないからです。

私が③で表したかった命題は「PでないときQが証明できない」ではなく、
「『Pでない』という仮定からはQが証明できない」、つまり「~(~P |- Q)」ということです(ここで、A |- Bは「仮定AからBが証明可能」の意)。
前者は、“¬P implys that Q cannot be proved”で、
後者は、“¬P does not prove Q”なので、異なりますよね。

そして、①~P⊃Qと、③~(~P |- Q)は両立しません。
実際、~P⊃Qと~Pからは、モダスポネンスでQが導かれるからです。



次に、パラドクスの提示(というより教師が宣言した命題の提示)についてです。

教師の命題を、
Ⅰ「月曜か火曜日のいずれかの日にテストを行う」
Ⅱ「どちらの日に行うかを事前に知ることはできない」
とおきます。

命題Ⅰが、① 月∨火、 ~月⊃火
に対応しているというのは問題ないですよね。

命題Ⅱですが、これは実質的に二つの命題に分解可能です。即ち、
Ⅱ’「日曜日の時点で、残りのいつの日にテストが行われるかを知ることができない」
Ⅱ”「月曜日の(テストが行われなかった)時点で、残りのいつの日にテストが行われるかを知ることができない」の二つです。
つまり、「事前に」という言葉を、日曜日の時点と月曜日の(テストがないとわかった)時点の二つに分けて考えたわけです。

そしてⅡ’は、
② ~( |-月)、 ~( |-火)
に対応していて、Ⅱ”は、
③ ~(~月 |- 火)
に対応しています。

生徒は、このうちの①③が矛盾していることを上記のように推論するので、①か③のどちらかが間違っていることを知ります。
そして実際に、①②と~③が成り立っているテストが実施されるわけです。
(~①と②③が成り立っているテストも矛盾なく考えることができるのですが、本題と無関係なので割愛します)

いかがでしょうか。


Re: 抜き打ちテストのパラドックス 投稿者:φ 投稿日:2012年 5月16日(水)22時20分40秒 返信・引用

> No.3565[元記事へ]

進Mさんへのお返事です。

 興味深い分析をありがとうございます。

 よくわからないのは、①と③が矛盾しているという点です。
 ①と③に矛盾はありません。
 ①からは、PでなければQ、が出てくるが、③の否定するPでないときQが証明できる、は含意されていないからです。
 そもそも③を「¬Pから、Qは証明できない」としたのでは、問題の条件に反するのではないでしょうか。
 つまり、「¬Pから、Qは証明できない」は矛盾を発生させません。これは解決として提示されるべきものであって、パラドクスの提示としては、「¬Pから、Qが証明できる」でなければならないでしょう(実際、生徒はそのつもりで推論しているので)。

 そこで改めて、次のように記号化させてください。

  月曜に試験がなされる・・・・月
  火曜に試験がなされる・・・・火
  「証明できる」または「知っている」という演算子・・・・K

 すると、進Mさんの①②③に対応して、次のような記号化ができるでしょう。

 ①「必ず試験がなされる条件」
          月∨火    ~月⊃火

 ②「試験がなされるなら抜き打ちで条件」
         月⊃~K月  火⊃~K火  ~(月∧K月) ~(火∧K火)

 ③「必ず試験がなされると生徒にわかっている条件」
         K(月∨火) K(~月⊃火)  K~月⊃K火  ~月⊃K火


 この三つから、矛盾が生じます。
①③より、~月⊃火∧K火   ~(火∧K火)⊃月 ・・・・・・④

②④より、 月

この証明により、 K月
   ゆえに、月∧K月
これは②に矛盾

よって、②を否定するか、①または③を否定するか、いずれかが必須である。

 「試験はできないはず」と生徒が結論する可能性がある(それがこのパラドクスの通例の流れ)であるため、③が最も脆弱である。

 よって、①「必ず試験を行う」は真だが、そのことを生徒は知っていない。③が偽なのである。

 このことは次のようにしても確認されます。
 教師が断定したのは①②だけであり、③は生徒の勝手な思いこみである。
 よって生徒は、①②だけから論証をするべきである。

①②の両方が真だと生徒が告げられ、そう思っているとき、生徒の考えの中では、
~月⊃火 かつ 火⊃~K火 ゆえに、~月⊃~K火
つまり、月曜に試験がなかった時点で、火曜に試験があることを確信できないことを生徒自身が知っている。
ゆえに、矛盾は生じない。
月曜にも火曜にも試験は行うことができ、③が偽であることから、月⊃~K月 火⊃~K火 ゆえに、抜き打ち試験は成立する。

 以上のように、
 結果としては進Mさんの言うとおりになりますが、
 進Mさんの③「¬Pから、Qは証明できない」は、証明すべき事柄であり、前提してはならないのです。
 前提されるべきは、生徒の推論とされる「¬Pから、Qは証明できる(よって抜き打ちにならなくなる)」のはずです。そしてそれが偽だったわけですね。

 進Mさんの言とは反対に、
 間違っているのは教師ではなく、生徒なのでした。

 進Mさんの①②③は矛盾を構成しておらず、パラドクスの提示になっていなかったというのが私の分析です。
 まず矛盾をはっきり提示してから、それを解消する(前提のどれかを否定するか、推論を批判することによって)というのが「パラドクスの解決」ではないでしょうか。


はじめまして 投稿者:ジェイコブ 投稿日:2012年 5月15日(火)10時48分12秒 返信・引用

はじめまして、工藤と申します。これ
http://d.hatena.ne.jp/jacob1976/20111207/1323255564 は永井均氏の哲学に対する最もシンプルでラディカルな批判を試みたものですが、三浦先生のご見解を拝聴したく存じます。


Re: 一部訂正 投稿者:Υ田 投稿日:2012年 5月14日(月)21時05分10秒 返信・引用

> No.3564[元記事へ]

赤黒カード問題に御集まりの皆様

「賢明な」「実践的な」戦略とは、どんな戦略のことであるのか、興味が沸いて来ました。
極めて低い確率で起きる出来事は、たとえ起きたときの利益や損失が大きくても、起きないものと見なす という戦略は、確かに、実生活でよく用いられる戦略です。
しかし、突き詰めて考えると、疑問が2つ出てきます。
 Q1)生起確率がいくら以下なら、起きないと見なして良いのか?
 Q2)なぜ無視するのが実践的で賢明であると、我々の直感は判断するのか?

まずQ2)を片付けます。

すぐに思いつく原因は、
 A2ー1)生起確率が低い事象は、無数に考えられる。(街路樹の上に豹がいるかもしれない。ひょっとしたら熊がいるかもしれない。あるいは毒蜘蛛が・・・)それらを一々計算に入れていたら、計算に要する栄養コストのせいで必ず損になる。だから無視する。
というものです。

このほかに、
 A2ー2)あまりに大きい利益や損失に対しては人間の感度が飽和してしまうので、「僅かな確率×膨大な得失」という積は、常に過小評価されてしまい、無視されがちになる。
という原因もあるでしょう。
期待値計算が、確率ファクターのせいで無視される時の主原因がA2ー1)で、得失ファクターのせいで無視される時の主原因がA2ー2)です。(見落としがあったら、どうかご指摘ください)

A2ー2)は実践的ではありますが、あまり賢明とは呼びにくいように思います。賢明な無視とは、A2ー1)に基づく無視のことでしょう。

無視の原因がA2ー1)である場合に限定して、Q1)を考えてみます。

どこまで低い確率は0と見なしてよいか?

0と見なしてよい理由が計算に要する栄養コストの節約なので、次のような答えが成り立つでしょう。

A1ー1)低確率事象の種類があまりに多くなりすぎて、一々考えていたら腹が減る(何らかの資源の浪費になる)ならば、そこで打ち切って良い。

上のA1ー1)は、多くの条件下で賢明であると思いますが、低確率事象の種類が多くなりすぎる時にのみ正しいのであって、トランプを使ったゲームのように事象の種類が限定されているときには当てはまらないと思うのですが・・・


私は何か見落としてるでしょうか?


Re: 抜き打ちテストのパラドックス 投稿者:進M 投稿日:2012年 5月13日(日)15時57分22秒 返信・引用

> No.3563[元記事へ]

φさんへのお返事です。

ご返事頂きありがとうございます。

まず、パラドックスの内容の確認ですが、
「テストを月~金の間のいずれかの日に行う」と「行う曜日を事前に知ることはできない」の両命題が真であると仮定すると、矛盾が生じるので、そのようなテストを行うことができないことが推論できる。しかし、(たとえば月曜日に)実際抜き打ちテストが行われてしまった。これはおかしい。
という内容であっているでしょうか。

結論から言うと、「そのようなテストは行うことができない」という推論が大雑把であったために生じた擬似パラドックスなのではないか、ということです。



簡単のために、一番目の命題を「テストを月曜か火曜のいずれかの日に行う」に変更したヴァージョンを検証しましょう(元のヴァージョンでも以下と同じ論証が成り立ちます)。

Pを「テストは月曜」、Qを「テストは火曜」という命題とすると、パラドックスの命題は、次の3つに分解できます。

① P xor Q   (一番目の命題に対応)
② P,Qは証明できない。 (月曜より前の状況における、二番目の命題に対応)
③ ¬Pから、Qは証明できない。 (月曜を終えた時点の状況における二番目の命題に対応)

この3つの命題のうち、矛盾しあってるのは①と③のみで、②には何の問題もありません。
パラドックスの記述では、③だけじゃなく、②も同時に否定しているため、月曜日に抜き打ちテストが行われたことに吃驚するわけです。

しかし③だけを否定するなら、パラドキシカルなことは何も起きません。月曜にテストが行われても、それは②の通りであるし、テストが火曜でそれが月曜の時点で推測できたとしても、それは¬③の通りだからです。

元々の記述と比較してみます。
元々のパラドックスの記述では、「①∧(②∧③)という(二つの)命題和から矛盾が出たから、どちらかが間違ってるはず、しかし両方を満たすテストが行われてしまった、これはおかしい」という話で、
上の分析は「①∧②∧③という命題和から矛盾が出たから、どれかが間違ってるはず、そして実際に①∧②∧¬③を満たすテストが行われた」という、ただ単に教師が間違っていただけの話になります。こちらの場合には何もパラドックスは起きていないはずです。

長々と失礼いたしました。
何か不明な点やおかしな点があればお教えください。
よろしくお願いいたします。


Re: 一部訂正 投稿者:φ 投稿日:2012年 5月13日(日)15時21分43秒 返信・引用

> No.3559[元記事へ]

kotovazさんへのお返事です。

P(~∃x(P(R(x+1)|Bx)≧26/51))がそんなに高いのでは、

私のhttp://8044.teacup.com/miurat/bbs/post/index/comm_id/3556/はどうもダメそうですね。
しかも、第一関門として「赤・常時先行はせず」があって、それがクリアされたところで次の決断、という順序なら、第一関門を抜ける確率を1と仮定してしまう戦術が賢明となりえますが、このゲームの場合は二つの関門が融合していますからね。

 私の理屈が成立するのはたとえば、根本的に異なる次のようなゲームの場合でしょうか。

 まず、100%または96%いずれかの確率で当たりが出る予選に参加し、予選で当たりが出たときにのみ最終ラウンドに進むことができる。最終ラウンドでは、予選で96%バージョンを選んだ者のみが勝率26/51以上2/3以下(勝率の実現確率は勝率と負の相関あり)の某戦略をとることができ、100%バージョンを選んだ者は勝率1/2の戦略しか許されない。

 ↑こういうゲームなら、賢明なのは予選で96%バージョンを選ぶことだと思われますが・・・・。


Re: 抜き打ちテストのパラドックス 投稿者:φ 投稿日:2012年 5月13日(日)14時52分52秒 返信・引用

> No.3562[元記事へ]

進Mさんへのお返事です。

誰もが納得の行く解答は得られていないでしょうね。

「申し分ないであろう解答(他のパラドックスに帰着するのではなく、パラドックス自体が消滅する回答)」とはどのようなものでしょうか?
抜き打ちテストのパラドックス 投稿者:進M 投稿日:2012年 5月12日(土)18時50分49秒 返信・引用

初めまして、こんにちは。

突然ですが、抜き打ちテストのパラドックス(Unexpected hanging paradox)って、誰もが納得の行くような申し分のない解答が得られているのでしょうか?

先ほど、恐らく申し分ないであろう解答(他のパラドックスに帰着するのではなく、パラドックス自体が消滅する回答)を得ることができたのですが……


Re:情報を与えられても勝率が上がらないゲーム 投稿者:BTX 投稿日:2012年 5月10日(木)01時55分40秒 返信・引用

とりあえず、勝率が変わらないことを数学的帰納法で証明してみました。
http://www.ukaibutton.com/miurat/shoritsu_agaranai_proof.html
こんなに凝らずにも当たり前と言われればその通りですが…。

収穫としては、 [1] の式展開の中で
r/(r+b)*(r-1)/(r-1+b) + b/(r+b)*r/(r+b-1) - r/(r+b)
が 0 になるところに着目できるところでしょうか。

「景気が悪くなる前に、景気の良いときに降りる方がいい」という直感に反し、
スルーすることによる将来の景気の悪化による勝率ダウンは、
その悪化自体の生起確率にぴったり相殺され、
ストップしたときと変わらないということでしょうか。
なぜそうなるのか、哲学的な答えは分かりませんが…。

p.s.
この帰納法、初期条件の方で少しでも差が出れば、
その後(ゲーム的には、前、ですが)バタバタと最適戦略が決まっていきますね。
非常に不安定な点で平衡状態を保っている気がします。


Re: 一部訂正 投稿者:Υ田 投稿日:2012年 5月 7日(月)20時23分22秒 返信・引用

> No.3559[元記事へ]

kotovazさんへのお返事です。

> 8%弱程度あると思われます。
私も計算してみました。約7.4%ですね。
一般解を求める際には、「カタラン数」をググってみると、比較的楽にできるかと思います。

次の発言で定性的な話をします。


一部訂正 投稿者:kotovaz 投稿日:2012年 5月 7日(月)15時35分41秒 返信・引用

>最初に赤が出た場合に、最後まで一度も、引いた黒の枚数が赤を上回らない、つまり残りの中の赤が常に少数側のままで終わる確率は、
8%弱程度あると思われます。


残りの中の赤の数が常に、黒を上回る事無く終わる確率は
 でした。
(同数になる場合は、戦略2は発動されないので、確率に含みます。)


Re: Re:情報を与えられても勝率が上がらないゲーム 投稿者:kotovaz 投稿日:2012年 5月 7日(月)14時01分53秒 返信・引用

最新の部分だけ読んでの投稿で失礼します。


エクセルでシミュレーションしてみると

最初に赤が出た場合に、最後まで一度も、引いた黒の枚数が赤を上回らない、つまり残りの中の赤が常に少数側のままで終わる確率は、
8%弱程度あると思われます。
なにも引かない状態から見ても、4%弱あることになります。


1、この数値が正しい場合は、
  ごく稀にしか起こらない つまり戦略2が有利に終わる確率 ≒1 というφさんの判断には、自分の感覚としては、賛成できない気がします。
  引かれた黒が多くなる瞬間があれば、僅かに勝つ確率を高めるが
  それが起こらないまま負ける確率が、4%ある。 この場合、他の戦略と変わらない範囲と言えるのではないでしょうか・・。

2、ただし、自分がこの話題での設定を誤解していたり、シミュレーションによる数値が間違っている場合は意味がないので、それについてもでチェックしていただけるとありがたいです。


Re: Re:情報を与えられても勝率が上がらないゲーム 投稿者:スターダスト 投稿日:2012年 5月 7日(月)13時23分54秒 返信・引用

> No.3556[元記事へ]

φさんへのお返事です。


>  ■1枚目が黒だった場合(確率1/2)
> ・・・・・・戦略2を採った人は、確率26/51以上で勝ち。
>
>  ■1枚目が赤だった場合(確率1/2)
> ・・・・・・戦略2を採った人は、確率26/51以上で勝ち。

前者は自明ですが、後者は、私見では【ダウト】と思われてなりません。
最後の1枚になるまで26/51の状況が訪れずにストップがかけられないケースを除外して計算しているのではないでしょうか。こうした状況が発生すれば、好むと好まぬとに関わらず強制的に自動的にストップをかけたことにするのが、このゲームの大事なルールです。その場合、皺寄せが来て、不利になるでしょう。以上は定性的なお話をしていますし、本来は定量的にきっちり計算をすべきことでしょう。
52枚もカードがあると定量的な計算をφさんのお考えに沿う形でキッチリ展開することは非常に難しいですね。 カードが12枚ぐらいならば、必死に計算すれば出てくるかもしれませんが。


Υ田さんへのお返事です。

『ゼロからの論証』のあとがきで、
「哲学の才能は客観的に測ることができ、それは哲学的直観である(プロの哲学者には確率音痴が多すぎる)」
と豪語した私ですが、
この問題に関しては私の直観が揺れまくりで、恥じ入る次第です。
まとまった時間をとって考える暇がなかったのですが、今のところの私の考えを述べておきましょう。

プレーヤーCを設定していただいたために話がわかりやすくなりましたね。
ありがとうございます。
プレイヤーDとして、常に最初のカードを取る人を出すとさらにわかりやすくなる気もしました。DはCのように、ゲーム進行につれて条件付き確率に左右されることなく、必ず勝率1/2であることが自明なので。

 さて、
理屈でも、BTXさんのシミュレーションでも、勝率がいかなる場合にも(ゲーム開始段階では)どの戦略を採ろうが勝率1/2になることは十分納得できます。
そのことは私も異論ありません。
ただ、計算上同等だからといって、賢明さにおいて同等だとは限らないと思われるのです。

 私がhttp://8044.teacup.com/miurat/bbs/3550で述べたのは、
 確率「ほぼ1」で起こり、そのときの勝率が1/2より大きくなるような、実践的な選択が常にあるのではないか、ということでした。

 この種のゲームをパズルにする場合は、唯一設定で決断を迫る設定とするのが当然ですから、ただ一度だけこのゲームをするとき、どういう戦略を採るのが賢明か、ということになります。
 ただ一度だけの試行では、「ほぼ」確率1で起こることは確率1で起こるものと仮定して臨むのが賢明でしょう。(サンクトペテルブルクで、百回続けて表ということはない、と決めてかかってゲームに臨まねばならないのと同じように。)

すると、計算値と実践的な値がズレることがありえます。

 http://8044.teacup.com/miurat/bbs/3550で述べたように
 P(∃x(P(R(x+1)|Bx)≫1/2))≒1  が真であるならば、そのようなx(ゲームごとに異なるxでしょうが)に巡り会うまで待つのが賢明な選択であろう、というわけです。

たとえば、次の二つの戦略を考えます。
(≫1/2はあきらめて、現実的な戦略でいきます)

 戦略1 n枚目にストップをかける、とあらかじめ決めておく。極端な場合は、n=0、つまり常に最初の一枚に賭けるとか、n=51、つまり常に最後の一枚に賭けるとか。ここでは、単純化のため、n=0を採用する。

 戦略2 (P(R(x+1)|Bx)≧26/51 になったらストップをかける。つまり、一枚でも多く黒が先行したらその時点でストップをかける。

 唯一設定の場合、戦略2をとれば、まず間違いなく、戦略の実行ができる、つまりストップをかけることができます。
 そこで、二つの場合に分けて考えましょう。

 ■1枚目が黒だった場合(確率1/2)
・・・・・・戦略1を採った人は、負け。
・・・・・・戦略2を採った人は、確率26/51以上で勝ち。

 ■1枚目が赤だった場合(確率1/2)
・・・・・・戦略1を採った人は、勝ち。
・・・・・・戦略2を採った人は、確率26/51以上で勝ち。

 二つの場合を合わせると、戦略1の人は勝率1/2で、戦略2の人は勝率26/51以上で、戦略2の方が優れていることがわかります。

 むろん、反復設定で行なうと、ごくまれに、~∃x(P(R(x+1)|Bx)≧26/51)ということが起こります。
 つまり、常に赤が先行して、黒の方が多く出ている瞬間が一度もないという場合です。
そのときは、戦略2では最後のカードに至るまでストップをかけることができず、最後のカードつまり黒を引くことになってしまいます。

 しかし、唯一設定ではそのようなことは起こらない、と信頼できます。確率1で負けとなる上記の場合は除外して考えてかまいません。

 したがって、その部分が確率0と見なせることにより、期待値は、26/51以上という分だけ得をする、というわけです。(微々たる得ではありますが。あまり得を大きくすると負ける確率が無視できなくなるので、贅沢は言ってられません)

前述のように、理屈はサンクトペテルブルクと同じで、「実践では、ごく低い確率でしか起こらないことは無視して考えよ。そうすると、実践的な期待値計算は、理論値よりも高くなるのだ」ということです。

 計算的、理論的には確かにどこでストップをかけても相対的に損得なしだが、そして実際、多数回の反復設定でゲームすれば戦略1も戦略2も勝率は同じだが、唯一設定の場合は、戦略2の方が実践的に有利である、というわけです。
 反復設定では、計算上、1億円払っても必ず得であるはずのサンクトペテルブルクで、唯一設定ではまず間違いなく大損であるのと同じ理屈です。

・・・・・・この論法、どこか間違っていますかね?

 このゲームも、「単純計算によりすべての戦略で勝率は同じ」と割り切るのではなく、挽回の効かない唯一設定のとき、実践的に少しでも有利な戦略を採るべし、的なパズルとして考えるべきだと思うのですが。


Re: 情報を与えられても勝率が上がらないゲーム 投稿者:Υ田 投稿日:2012年 4月24日(火)21時40分4秒 返信・引用

> No.3554[元記事へ]

BTXさんへのお返事です。

> Υ田さんへのお返事です。
>
> >ストップがかかった時点での山の頂が赤である確率は、同じ時点で山の底が赤である確率に等しい
>
> これはスターダストさんが出された命題ですね。
> http://8044.teacup.com/miurat/bbs/3547

リンク先を読み直しました。ここですね。
> さて、「ストップをかけて選んだ、裏に伏せてあるカードの一番【上】のカード」が赤色である確率と、「ストップをかけたときに、裏に伏せてあるカードの一番【下】のカード」が赤色である確率は全く同じです。自明なことですが気がつきにくい、ここがキーポイントです。すると先のゲームは以下のものと同じです。
>
> 全てのカードが裏にして伏せてある、その状態からゲームはスタートし、あらかじめ考えておいた戦術にのっとりながらも、親が順にめくっていく一連のカードの赤黒をカウントし、適切なタイミングでストップをかける。ストップした時に、伏せて積まれているカードの一番下のカードの色が赤だったらいいなぁ…どういうタイミングでストップをかけたらよいだろう…
>

同じ命題ですね。一度読んだはずなのに失念しておりました。BTXさんの福引きのアナロジーがわかりやすかったので、参照させていただきました。


Re:情報を与えられても勝率が上がらないゲーム 投稿者:BTX 投稿日:2012年 4月23日(月)23時18分26秒 返信・引用

Υ田さんへのお返事です。

>ストップがかかった時点での山の頂が赤である確率は、同じ時点で山の底が赤である確率に等しい

これはスターダストさんが出された命題ですね。
http://8044.teacup.com/miurat/bbs/3547
福引きのアナロジーは私が出しましたが。

>スターダストさん
>プログラムソースを拝見しました。
>シャッフルには、Fisher-Yatesというアルゴリズムを使っているのでしょうか。
>○ http://la.ma.la/blog/diary_200608300350.htm
そうみたいです。
残りものから一様分布で1枚取り出す、を52回繰り返す混ぜ方です。


Re: Re:情報を与えられても勝率が上がらないゲーム 投稿者:Υ田 投稿日:2012年 4月22日(日)19時45分19秒 返信・引用

スターダストさんへのお返事です。

面白い問題ですね。

> ストップをどういうタイミングでかけようとも、積まれているカードの一番下のカードの色が赤である確率は、ゲームスタート時点での1/2のまま、不変であろう、ストップに関わるいかなる戦術をもってしても…というのが、このゲームの種明かしのようです。

カードがめくられるたびに、プレーヤーにとっての「一番下のカードの色が赤である確率」は変動します。すでにr枚の赤とb枚の黒が出た状況では、一番下のカードの色が赤である確率は、1/2ではなく、 (26-r)/(52-r-b)になります。

このパズルに証明を与えるには、次のようにすればよいと思います。

プレーヤーA:何らかの戦術に従ってストップをかける人
プレーヤーB:最後までストップをかけない人
プレーヤーC:プレーヤーAがストップをかけた時点で、「一番下のカードを採用する」と宣言する人

上記の3人に、全く同じカードの並びの山を与えます。

プレーヤーAがいかなる戦術に則ってストップをかけても、BTXさんの福引きの順番の論理を用いて、Aさんの勝率とCさんの勝率が等しいと言えます。(福引きの順番の論理:ストップがかかった時点での山の頂が赤である確率は、同じ時点で山の底が赤である確率に等しい)
また、Bさんの勝敗とCさんの勝敗は常に一致するので、BさんとCさんも勝率が一致します。
もちろん、Bさんの勝率は1/2です。

以上から、いかなる戦術も1/2の勝率になると言えます。

カードの山だと思うと直感に反しますが、福引きの順番だと思うと、下のようなあまり不思議でない問題に置き換わります。

「52人が1枚ずつ福引き券を持って並んでいる。景品は52個用意されていて、特賞26個と残念賞26個である。あなたは列の最後にいる。もし『自分より前の人が獲得した商品をリアルタイムで把握して、列の先頭にいつでも割り込む権利』が手に入ったら、有利になるか?」


Re: Re:情報を与えられても勝率が上がらないゲーム 投稿者:スターダスト 投稿日:2012年 4月22日(日)14時17分1秒 返信・引用

> No.3551[元記事へ]

BTXさんへのお返事です。

> 試しに実装してみました。
> http://www.ukaibutton.com/miurat/shoritsu_agaranai.html

プログラムソースを拝見しました。シャッフルには、Fisher-Yatesというアルゴリズムを使っているのでしょうか。
http://la.ma.la/blog/diary_200608300350.htm

ならば、偏りのない切り混ぜ方ですね。


Re: Re:情報を与えられても勝率が上がらないゲーム 投稿者:BTX 投稿日:2012年 4月21日(土)22時20分12秒 返信・引用

> No.3550[元記事へ]

φさんへのお返事です。

試しに実装してみました。
http://www.ukaibutton.com/miurat/shoritsu_agaranai.html


Re: Re:情報を与えられても勝率が上がらないゲーム 投稿者:φ 投稿日:2012年 4月18日(水)00時57分2秒 返信・引用

> No.3549[元記事へ]

BTXさんとスターダストさんへのお返事です。


……そうですね、
量子効果と観測選択効果を組み合わせても、オリジナル版と論理が異なるということはないかもしれませんね……

どうもこの問題については、初めて聞いたせいもあって、私の勘がちょっとズレっぱなしのようです。
今ではむしろ、
最初に私が述べてスターダストさんに反駁された見解(http://8044.teacup.com/miurat/bbs/3546で述べたこと)が、やっぱり正しいような気がしてきました。

つまり、改めて見直すと、以下のスターダストさんのコメントは不正確であることがわかるからです。

>
> ストップをどういうタイミングでかけようとも、積まれているカードの一番下のカードの色が赤である確率は、
> ゲームスタート時点での1/2のまま、不変であろう、
> ストップに関わるいかなる戦術をもってしても…というのが、このゲームの種明かしのようです。
>

↑スターダストさんのこのコメントは、文字通りにとると正しくありません。
一番下のカードが赤である確率が1/2のまま不変ということは不可能だからです。一枚めくるたびに確率は変化していきます。
 一番下のカードが赤である確率は、たしかにスタート時点においては1/2であるし、スタート時点では、「その後いつストップをかけてもその次が赤である確率は1/2」と計算できますね。あくまでスタート時点の計算においては。
だから、スタート時の視点では、今後いつストップをかけても勝率は同じ、と判断されます。
 しかし、このことは、ゲームスタート後にもずっと次が赤である確率が1/2であることを意味しません。たとえば、最初のカードが黒だったとします。すると、次のカード(一番上のカード)が赤である確率は(一番下が赤である確率と同じですが)、26/51となるでしょう。スタート時よりやや有利です。
むろん、赤が出てしまって、次のカードが赤である確率が25/51になることもありえたわけです。
 つまり、スタート時点(まだ1枚目をめくらない時点)では、1枚目をめくった時点で次が赤である確率の期待値は、(26/51)/2+(25/51)/2=1/2です。しかしこれは、あくまでスタート時における判断であって、1枚目をめくった時点では、26/51か25/51のいずれかとなり、決して1/2ではありません。(スタート時よりも得か損かどちらか一方のみです)

むろん一枚めくったあとのその時点では、
1枚目が黒であった場合は、その時点で、そのあといつストップをかけてもその次が赤である確率は26/51で、同じです。だから、「ストップかけるなら今だ」という動機がありません。
1枚目が赤であった場合は、その時点で、そのあといつストップをかけてもその次が赤である確率は25/51で、同じです。やはり、「ストップかけるなら今だ」という動機はありません。
しかしもちろん、次に二枚目をめくった時点では、再び確率は変化しています。そしてそのつど、「今後いつストップをかけても同じだから、とりわけ今ストップをかける動機はない」という状態が続きます。
 一枚めくるたびに、次が赤である確率は変化していき、「ああ、さっきとは確率が変わった(有利になったor不利になった)。しかし、今から後、いつストップをかければ有利であるかという違いはない。みな同じ確率だ」という判断が真です。
以上のことが、「いつストップをかけても同じ」の正体ですね。
何枚めくっても、その時点で、次が赤である確率は1/2、という意味ではありません。

換言すると、こういうことでしょう。
Rxを「x枚目が赤である」Bxを「x枚目が黒である」を意味するとして、

∀x∀y∀z(x<y∧x<z⊃P(Ry|Rx)=P(Rz|Rx))
∀x∀y∀z(x<y∧x<z⊃P(Ry|Bx)=P(Rz|Bx))

 ↑この二つの式は真です。
 時点を固定すれば、その後のいつストップをかけても、赤である確率の期待値は同じです(とくに「今」ストップをかけねばならない理由はありません)。
ところが、「……赤である確率は、ゲームスタート時点での1/2のまま、不変」と言うと、次のことを意味してしまいます。

∀x∀y∀z∀u(x<y∧z<u⊃P(Ry|Rx)=P(Ru|Rz))
∀x∀y∀z∀u(x<y∧z<u⊃P(Ry|Bx)=P(Ru|Bz))
 ひいては
∀x∀y∀z∀u(x<y∧z<u⊃P(Ry|Rx)=P(Ru|Rz)=P(Ry|Bx)=P(Ru|Bz)=1/2)

 ↑この三つの式は明白に偽です。時点が異なれば、次が赤である確率は変わっているのですから。
ましてやずっと1/2などありえません。たとえば最後の二枚を残した時点では、次が赤である確率は、1か1/2か0であって、【スタート時点で計算した、最後から2番目のカードが赤である確率の期待値】はたしかに1/2であったものの、最後から3番目をめくった時点になってみると、次が赤である確率は1かもしれないし、0かもしれないからです。

 この問題は、あくまで「スタート時の視点」に限定したうえで確率の期待値はどの時点でも同じ、と言っているにすぎないように思われます。
 トリッキーな答え方(視点の固定)によって強引にパラドクスを作り出しているような。
 実際は、ゲーム進行とともに視点が移り変わり、確率は上下するので、私がはじめに述べたとおり、有利になったところで(残りのカードのうちで赤の比率が高くなったところで)ストップをかけるのが得策であると考えられます(前述のように、もっと後でなくそのときにストップをかけるべき合理的理由はないが、「スタート時よりはかなり得である」という根拠によって、ストップに踏み切るものと ★最初に★ 戦術的に決めておくのです)。
そういうテンプレートではじめから臨むのが得策ということです。

 今後いつストップをかけても勝率の期待値は同じであるとはいえ、「今より後のいついつ」により有利になる根拠はないので、「ちょうど今」ストップをかけることは合理的と言えます。しかも実践的とも言えます。
 なぜなら、
 スタート時点において

 P(∃x(P(R(x+1)|Bx)≫1/2))≒1

 であろうからです。
(Bxが出てくるのは、合理的にストップをかけるのは黒が出たあとに限定されるだろうからです)

 換言すると、

 P(∃x(P(R(x+1)|Bx)>a))≒1  が真であるような、

そういう、1/2よりもかなり大きい数値aを念頭に置いて、それを実現するような枚数n(「黒が赤よりn枚多く出たとき、ストップをかける」という指令のきっかけであるn)をあらかじめ決めておけばよい。

 それが、http://www.ukaibutton.com/miurat/shoritsu_agaranai.htmlで述べた趣旨でした。


Re: Re:情報を与えられても勝率が上がらないゲーム 投稿者:BTX 投稿日:2012年 4月12日(木)23時36分47秒 返信・引用

> No.3548[元記事へ]

φさんへのお返事です。

こんにちは。
「情報を与えられても勝率が上がらないゲーム」関連です。

カードがすでにN枚開かれてしまったとき、
「子の判断」や「子の行動」が目的とするのは、
「残りの(52-N)枚の中から如何にして残りの赤のカードを選び出せるか?」
もっというと、
「残りの(52-N)枚の中にはX枚の赤カードがあることは判ってるんだけど、
 今一番上にあるカードは果たして赤色なのだろうか?」
というのを見極めることでしかないです。

そのミニゲームは単なる福引と同じで、
前の人が当たろうがハズレが連続しようが、
「自分とその後ろに並んでいる人たちとの間」で順番の取り合いをするのと同じく
不毛な気がしますが。
(後ろの人と交代するのでなく、当たりが出払ったので
有料の福引自体を辞退する、とかであれば意味がありますが)

観測効果を使ってもそれは同じかと思います。


Re: Re:情報を与えられても勝率が上がらないゲーム 投稿者:φ 投稿日:2012年 4月11日(水)14時33分20秒 返信・引用

> No.3547[元記事へ]

スターダストさんへのお返事です。

なるほど、言われてみればその通りですね。
おもしろい問題です!

 始めから、「赤」と決められているところがポイントですね。
 これが、「赤か黒かいずれかを宣言して、次のカードと一致したら勝ち」というふうに、色を選べるというならば、どちらかが26枚出てしまうまで待てばよいわけで、問題になりませんしね。

 問題を次のように変えたら、私の前回のコメント

> ===
> スターダストさんの「情報を与えられても勝率が上がらないゲーム」ですが、
>  「黒の方が3枚多く出たらストップをかける」のような戦略を用いることは可能ですよね。
>  「黒の方がn枚多く出たらストップをかける」という命題で、ほぼ確率1で生ずるようなn、しかもそれが赤の勝率を有意に高めるようなnであればよいわけで。
>  いかなるnが最も有利か、計算できるのではないでしょうか?
> ===
>

 が妥当するのではないでしょうか。
 こういう設定です。

 トランプカード一組のあらゆる順序に等確率を割り当てる量子銃の装置によって、密閉された箱の中で、カードの並びが決定される。密閉されているため、外にいるプレイヤーの環境には、カード並びの違いによる因果的影響は漏れ出ていない。
 (つまり「シュレーディンガーの猫」設定)

 ここで、十秒に一枚ずつ、装置が自動的に並びの上から順に色を検知し、赤だったか黒だったかだけがプレイヤーに告げ知らされる。プレイヤーは、それをモニターしながら、どこか適当なところでストップをかけ、次のカードが赤だったら勝ち。

 ↑この設定であれば、箱の中のカードの並びがどうであるかが、現実に、十秒ごとに変化してゆくことになります。
 つまり、可能性のある並びが重ね合わせになっており、それぞれの確定した並びが実現している宇宙のすべてに「私」が存在しているため、十秒後の「私」がその中のどの部分集合へと収縮してゆくかが未決定です。

 よって、黒が赤よりも多く出ているときを捉えてストップをかければ、赤が黒より多く出ているときにストップをかけた場合に比べ、次のカードが赤である確率が高くなります。(当然、一番下のカードが赤である確率も高くなります)

 ある瞬間に、せっかく黒が赤よりたとえば10枚も多く出ているのに、チャンスをみすみす見過ごして、赤の数が挽回してしまうまで待つというのは愚策ということになります。

 と、思うのですがどうでしょうか?

 オリジナルの設定で、いつストップをかけても次が赤である確率が変わらないのは、カードの並びが外の環境に因果的影響を与えてしまっており、プレイヤーの知覚内容に違いをもたらしているからでしょう。つまり、わからないながらも、「私」の住む世界の実在的あり方が決定されてしまっているからです。
 カードの一番下が赤であるか黒であるかのいずれとも両立するような知覚世界のあり方が「今」実現している確率は、トランプが(裏向きであれ)露出している状況においては、物理学的に言ってきわめて小さいでしょうから。

 つまり、
 「カードをテーブルに伏せて置く」という何気ない記述が重要だったわけですね。
 前述の密閉箱の設定とか、
 「プレイヤーから隔離された遠方の室内にトランプが置かれ、赤か黒かだけが順次無機的な電子メールで伝えられる」という設定だと、「次が赤(一番下は赤)」の確率は刻々と変わってゆく可能性があるでしょう。


Re:情報を与えられても勝率が上がらないゲーム 投稿者:スターダスト 投稿日:2012年 4月 9日(月)17時22分9秒 返信・引用

φさんは次のようにおっしゃいました。
===
スターダストさんの「情報を与えられても勝率が上がらないゲーム」ですが、
 「黒の方が3枚多く出たらストップをかける」のような戦略を用いることは可能ですよね。
 「黒の方がn枚多く出たらストップをかける」という命題で、ほぼ確率1で生ずるようなn、しかもそれが赤の勝率を有意に高めるようなnであればよいわけで。
 いかなるnが最も有利か、計算できるのではないでしょうか?
===

はい、私も最初にそのように考えました。(枚数が3枚かどうかはわかりませんが、適切なnがあるのではと。)そして、それは間違っていたのです。驚きました。

全てのカードが裏にして伏せてある、その状態からゲームはスタートし、あらかじめ考えておいた戦術にのっとりながらも、親が順にめくっていく一連のカードの赤黒をカウントし、適切なタイミングでストップをかける。この時に選ばれた裏に伏せてあるカードの一番上のカードを開いた時のカードの色が問題なのですよね。この色が赤である確率が高いほうが良い…そんな戦術を探したい…
さて、「ストップをかけて選んだ、裏に伏せてあるカードの一番【上】のカード」が赤色である確率と、「ストップをかけたときに、裏に伏せてあるカードの一番【下】のカード」が赤色である確率は全く同じです。自明なことですが気がつきにくい、ここがキーポイントです。すると先のゲームは以下のものと同じです。

全てのカードが裏にして伏せてある、その状態からゲームはスタートし、あらかじめ考えておいた戦術にのっとりながらも、親が順にめくっていく一連のカードの赤黒をカウントし、適切なタイミングでストップをかける。ストップした時に、伏せて積まれているカードの一番下のカードの色が赤だったらいいなぁ…どういうタイミングでストップをかけたらよいだろう…
ストップをどういうタイミングでかけようとも、積まれているカードの一番下のカードの色が赤である確率は、ゲームスタート時点での1/2のまま、不変であろう、ストップに関わるいかなる戦術をもってしても…というのが、このゲームの種明かしのようです。

===

さて、別の人間が、ふいに訪問して、ゲームの途中の様子を見たときには、(黒がやたらと表になっている局面を見たならば)「ははぁ、こいつはストップで選んだカードに赤が出やすくなっているな」と気がつくこともあるでしょう。
これは正しいです。 局面を切断していますから。 数ある可能世界の中から特定の世界を選んだ、その際の、赤が出る確率が1/2を超えることは、確かにあります。
しかし、最初に提示したゲームでは、特定の可能世界を選ぶわけにはまいりません。「黒の方がn枚多く出たらストップをかける」という戦術には、もしそういう局面が実現しなかった際の、不利なケースが発生する蓋然性を落としているということになります。 黒の逆で「赤の方がn枚多く出る」ケースが対になって存在しえるはずですが、そうした可能世界を考慮に入れずに、有利不利を論じることは片手落ちなのでしょう。恐らく。

上でわかるように「情報を与えられても勝率が上がらないゲーム」は、同時分布で考えること【のみ】を強制しています。周辺分布で考えてもしょうがないゲームなのですね。 一方において、二封筒問題は、周辺分布【のみ】を考えることを誘導しています。
私にはそのように思えます。


Re: 条件付分布,ツーペアの問題点 投稿者:φ 投稿日:2012年 4月 8日(日)01時18分22秒 返信・引用

> No.3545[元記事へ]

おかめ石さんへのお返事です。


>
> さて、「金額確認後は 25% の増加」と考えるプレイヤーに対して、
> 胴元が「確認金額の 5%分の手数料を支払えば交換させてあげますよ」と言って交換させたとしたら、
> 胴元は多数回試行の総体として 20%分の損と成るのかそれとも 5%分の得と成るのか、
> シミュレーションの結果は果たしてどう成るでしょうか。
>

 胴元が5%得しますよね。

 ある特定の金額がプレイヤーの手元にきたときだけ交換させるならば、その金額について胴元が20%の損となります。

 唯一試行の開封バージョンで、交換によりプレイヤーが25%得という理屈は、唯一設定であるため、「特定の金額」に固定されたものと見なすことができるからですね。

 ところで、
 スターダストさんの「情報を与えられても勝率が上がらないゲーム」ですが、
 「黒の方が3枚多く出たらストップをかける」のような戦略を用いることは可能ですよね。

 「黒の方がn枚多く出たらストップをかける」という命題で、ほぼ確率1で生ずるようなn、しかもそれが赤の勝率を有意に高めるようなnであればよいわけで。

 いかなるnが最も有利か、計算できるのではないでしょうか?


条件付分布,ツーペアの問題点 投稿者:おかめ石 投稿日:2012年 4月 4日(水)23時37分44秒 返信・引用

同時分布、つまり(ペア選定とペア内選択の二つの)結合確率ではないかと当初は考えてましたけど、
年末頃から、その中でも無条件分布ではなく、
標本空間が「ワンペア内」に変化している「条件付き分布」のもとでの二択が相応しいと考えています。

※※※※※
例えば({1, 2}ペア提示下で)確認金額が 2 だったとき、封筒交換して 1 と 4 の現れる(主観的)確率は等しく 1/2 だとして、交換による増減額の期待値を
 (1-2)* 1/2 +(4-2)* 1/2=1/2
と計算して、1/2:2=25%の増加とする考え方の問題点を。

確認金額の 2 から交換して 1 と 4 の現れるそれぞれの場合の確率が等しい、つまり
 p(2→1)=p(2→4)
が成り立つと仮定すると、そもそもペア内の(「初め多額」と「初め少額」の)「選択」可能性は半々なので
 p(1→2)=p(2→1)
であり、かつ、(この{1, 2}ペア内での)確認金額が 1 の場合の
 p(1→2)=p(1→1/2)
も言えるはずである。

確認金額を 1/2 や 4 など次々に替えて同様にして確かめていくと、すべての正の有理数でドミノ倒し的に等確率でなければならなく成り、アルキメデスの公理に反してしまう。
以上、最初の仮定に無理のあった事が(背理法により)示された。

※※※※※
それでは 1 と 4 の現れる確率を等しくないとすれば、そういう矛盾は起こさないのでは、という解決の道は如何がか。

しかし乍らそもそも、基準と成る数 2/1 が選定された条件下で 2/1 *1 が選択される条件付き確率つまり p(2/1 *1 | 2/1) と p(1/1 *2 | 1/1) の大小比較をすること自体に問題がある、と言える。

なぜなら、基準数 2/1 が選定されたとき、即ちその確率 p(2/1)=1 なら p(1/1)=0。よって、条件付き確率 p(1/1 *2 | 1/1)=0。
逆に p(1/1)=1 なら p(2/1)=0。よって、p(2/1 *1 | 2/1)=0。
だから、互いに比較対象たり得ない。

※※※※※
「交換」の得失を知るのに必要なのは、(交換後に減少するコースに乗っかっている)「初め多額」なのか(増加するコースの)「初め少額」なのかを知る事であって、一方の確認金額だけ分かっても不十分、つまりそれと基準数を組合せなければ意味をなさないのである。
結局、多額の方か少額の方かが不明な段階に在る者にとっては、期待値計算で両方の場合を想定して合算する必要が有ると。

※※※※※
余談ですけど、確率論はギャンブルに起源があって、多数回試行というのもプレイヤーには実際には金銭的に実行不可能なので、期待値・平均値というのは元々は胴元が賭け金を決めるときの参考にするものだった、という説もあるようです。
封筒交換問題でも、プレイヤーが胴元に隠して金額確認したら、胴元視点でも、確認後の期待値計算は、封筒「選択」直前の期待値計算と同じ事なんですね。

さて、「金額確認後は 25% の増加」と考えるプレイヤーに対して、胴元が「確認金額の 5%分の手数料を支払えば交換させてあげますよ」と言って交換させたとしたら、
胴元は多数回試行の総体として 20%分の損と成るのかそれとも 5%分の得と成るのか、シミュレーションの結果は果たしてどう成るでしょうか。


情報を与えられても勝率が上がらないゲーム 投稿者:スターダスト 投稿日:2012年 4月 2日(月)13時48分23秒 返信・引用

「情報を与えられても勝率が上がらないゲーム」というのをみつけました。

親はジョーカーを除くトランプ52枚をよくシャッフルしておき、重ねて、テーブルに伏せておきます。
親は、上から順に1枚づつカードを表にしていきます。
(注意:何枚かめくれば、マークの色の赤と黒の枚数に差が出てくることがよくあることでしょう。)
子は、親が表にした一連のカードをよく観察しておきます。そして、子が選ぶ任意のタイミングでストップをかけることができます。ストップがかかった時に、裏になって重なっているカードの一番上のカードを、子が選んだことになります。但し、最後の一枚までストップがかからなければ、子が選んだカードは最後の一枚とします。子が選んだカードをめくって、マークの色が赤なら、子の勝ち、黒なら、親の勝ちとします。
ここで、問いかけです。 子にとって、勝つための最適な戦略(ストップをかけるタイミングを選ぶ方法)とはいかなるものでしょうか?
そして、答えです。 最適戦略はありません。 いかなる戦術を取ろうとも子が勝つ確率は1/2です。

「情報を与えられても勝率が上がらないゲーム」。おもしろいですね。


Re: 周辺分布 投稿者:スターダスト 投稿日:2012年 4月 2日(月)13時36分4秒 返信・引用

> No.3542[元記事へ]

φさんへのお返事です。

>  それで、どちらの方がこの問題に適しているのでしょうか。
>

おかめ石さんのお考えでは、どうなのでしょう…


Re: 周辺分布 投稿者:φ 投稿日:2012年 4月 2日(月)00時56分44秒 返信・引用

> No.3541[元記事へ]

スターダストさんへのお返事です。

>
> φさんは周辺分布について語っていらしゃるし、
> おかめ石さんは、同時分布について語っていらっしゃる、
> そのように思われます。
>

 それで、どちらの方がこの問題に適しているのでしょうか。

 2封筒パラドクスの骨子をもう一度ここに記しましょう。

 一方が他方の倍額である不可識別の封筒から一つをとる。
 封筒の中身の額をa、2aで表わすと、自分が取った額と取らなかった額の順序付きペア表現は、
 未開封である限り

 (a、2a) または (2a、a)  それぞれ確率1/2。
 交換による期待値変化はナシ。
 さて、
 開封したところ、2万円だった。
 ここで、そのまま2万円を上の第一項に代入すると、むこうの値は依然として二通りで

 (2万、4万) または (2万、1万)  それぞれ確率1/2 は変わらず。
 よって、交換した方が期待値が上がる。

 とまあ、こういうふうですが‥‥‥。

 「2万円」と判明したからとて、確率1/2が変化せねばならない理由は皆無です。


周辺分布 投稿者:スターダスト 投稿日:2012年 3月29日(木)12時48分59秒 返信・引用

φさんは周辺分布について語っていらしゃるし、おかめ石さんは、同時分布について語っていらっしゃる、そのように思われます。


Re: ツーペアの想定は可能なのか 投稿者:おかめ石 投稿日:2012年 3月26日(月)23時10分13秒 返信・引用

http://8044.teacup.com/miurat/bbs/3539 (3月24日(土)19時18分)
φさんへのお返事です。

>  おかめ石さんが言っているのは多数試行(反復設定)についてですね。
>
>  反復設定は、そのつど異なるペアが選ばれるので、総合すると交換による損得ナシとなり、その中の任意の一回についても、損得ナシ、という判断が妥当でしょう。

『パラドクシカ』52頁、下から3行目にも「初期金額がそのつど違う」とありますけど、これらが「確認金額が3万円、5万円、7万円、等々」の様な事を意味するなら、
私の想定している多数回試行は、そういう「異なるペア」に跨るものではなくて、

提示された「或る特定の金額ペア(例えば{1/1 *1, 1/1 *2}ペア)」◆内◆での「選択」
即ち「初めに多額の方(1/1 *2)を選ぶか、初めに少額の方(1/1 *1)を選ぶか」という二者択一と成る多数回試行です。

従って、「交換による増減額の期待値」と言うのも、「その一つのペアで」という◆条件が付いている◆交換での事です。
一つのペア内という条件付きでの交換なのに、その期待値計算で確率変数を二つのペアから取ってくる事への不審です。

確かに、例えば2が確認された場合、{1/1 *1, 1/1 *2}ペアの「1/1 *2」と{2/1 *1, 2/1 *2}ペアの「2/1 *1」という2つの場合があり得ますけど、
それぞれの◆ペア毎に◆どう成っているか考えるべきではないか、そしてどちらの場合であっても、
「初め多額か少額かは半々、しかも開封後も依然として、そのどちらであるかは不明であり、期待値計算で交換による増加分と減少分が相殺される」
と言えるのではないか、というのが私の考えている道筋です。
それでは。


Re: ツーペアの想定は可能なのか 投稿者:φ 投稿日:2012年 3月24日(土)19時18分1秒 返信・引用

> No.3538[元記事へ]

おかめ石さんへのお返事です。

 おかめ石さんが言っているのは多数試行(反復設定)についてですね。

 反復設定は、そのつど異なるペアが選ばれるので、総合すると交換による損得ナシとなり、その中の任意の一回についても、損得ナシ、という判断が妥当でしょう。
 以前述べたように、反復設定は、未開封設定と同じです。未開封設定は、ただ一回しかやらないとしても、どの金額のペアなのかについて無数の可能性がありますから、反復設定と同じことになり、交換はこちら少額の場合得、こちら多額の場合損となって、交換による損得ナシ(期待値変化ナシ)となります。

 ところが、開封設定かつ唯一設定が、2封筒問題の核心となるのです。

 ある人が、生涯に一度だけこの2封筒交換ゲームをすることを許されているとして、さて交換による期待値変化は? というのが問題です。

 未開封設定、または反復設定の場合は、ペアは無数の可能性があるので、そのつどただ一つのペアに限定して判断しても、総合して「損得ナシのゲームの中のランダムな一例」として理解することができ、期待値変化ゼロと判定できます。
 が、唯一設定の開封バージョンでは、手元の封筒内金額だけがA円と限定されて非対称性が生じましたから、ツーペアの可能性が同等に生じていることは紛れもない事実です。

 その一回だけで期待値を計算せねばなりませんから、ツーペアのうちいずれかだけをひいきすることはできません。交換による期待値変化が生じてしまいます。

 多数設定で実際に、開封してA円が出たときだけを選んで(母集団αとします)期待値を計算すると、交換によって変化が生じるでしょう。
 この唯一の試行が、開封によって母集団αの一例であることが判明したので、ペアの可能性は二つであり、交換により期待値変化が生ずるわけです。

 唯一設定の未開封バージョンでは交換が得にならないのに、開封したとたんに得になるのはなぜか、というこのパラドクス(明らかにパラドクスです! 開封できることは始めからわかっていたのですから)を解くには、「開封してA円が出たとき、多数試行(唯一設定ですから、あくまで仮想的な多数試行)の中の母集団αのランダムな一例として理解してはならないのはなぜか」を説明する必要があります。
 母集団αの一例であることは否定できませんから、加えてランダムな一例だとすると交換による期待値変化は必然です。
 が、ランダムでない一例だとすれば問題は解決しうるわけです。
 しかし、ランダムでないのはどのような理由でか?

 そのあたりの推論の輪郭は『論理パラドクシカ』p.53に仄めかしておきましたが(つまり、A円という開封結果は、母集団αの中のランダムな一例ではなく、あくまで全体の可能性の中のランダムな一例にすぎないということ)、
 フロリダ問題におけるその説明に比べて、2封筒問題の場合は筋道だった説明が厄介だというのが私の印象です。


ツーペアの想定は可能なのか 投稿者:おかめ石 投稿日:2012年 3月22日(木)22時48分5秒 返信・引用

http://8044.teacup.com/miurat/bbs/3537 (3月20日(火)01時21分)
φさんへのお返事です。

>  開封バージョンでは、手元の封筒内金額とむこうの金額内金額とのペアは(a,2a)または(a,a/2)ですから、交換による変化の期待値は事前確率に左右されます。

開封バージョンについて、私の立論の要点は2つあります。

第一、「1つの金額ペア内での交換」という大枠は外せないので、「交換による増減額の期待値」の計算で、別々のペアからとった額を確率変数として合算するのは無理筋ではないか。

従って、「(a,2a)または(a,a/2)」即ち2つのペア「{a*1, a*2}と{a/2 *1, a/2 *2}」による解決という路線を封じて、あくまで確認金額をもaまたは2aで表す「(a,2a)または(2a,a)」即ち1つのペア「{a*1, a*2}」内で解こうとしています。

第二、(或る特定のペアが提示されているという条件下での)「二者択一で封筒選択をしてから金額確認」という、「選択込みの開封」だから、(そのペアでの交換の)多数回試行での増減額の平均値を求めるのに「初め多額・初め少額」の両方での確率変数を合算する必要がある。

具体的に、数列1/1, 2/1, 1/2, …の初項1/1が選定され、それから金額ペア{1*1, 1*2}即ち{1, 2}を生成して1000人の被験者にそれを提示した例を考えると、

┬【1】→(2)…初め少額
└(2)→【1】

┬(1)→【2】
└【2】→(1)…初め多額

 矢印の所で「開封、期待値計算、交換」を行います。
 ()内の数字は期待値計算の時点での未知数、【】内は既知数を表すものとします。

「初めに1を選択したグループ」と「初めに2を選択したグループ」の人数が理論的には半々に成ります。

そして「他方は二倍か半分」と考えて、1選択グループでは、他方の封筒の中身が2と1/2に直観的には感じられ、
2選択グループでは、4と1に感じられるでしょう。
しかし実際の結果は、全員{1, 2}という枠内での交換に過ぎない訳です。

結局、確認した【1】(或いは【2】)という数値だけでは、それが(a,2a)の少額の方aなのか(2a,a)の多額の方2aなのかを判断する材料には成らないので、
増減額の期待値計算でも重要な新情報とは成らず、{1/1 *1, 1/1 *2}ペアが提示されていた場合、1と2の両方が選択され得るので、
プレイヤーとしては{1/1 *1, 1/1 *2}と{2/1 *1, 2/1 *2}と{1/2 *1, 1/2 *2}の全てでそれぞれ「交換の増減額の期待値」が±0である点を(未開封バージョンで全ペア確認済みですけど)再確認する事に成る、と。

最後に、用語の補足説明…金額ペア生成の基準と成る有理数を一つ「選定」し、それから生成される金額ペアをプレイヤーへ「提示」するのは胴元の行為であり、二者択一の封筒「選択」はプレイヤーの行為を指すものとします。


Re: 級数計算不要 投稿者:φ 投稿日:2012年 3月20日(火)01時21分47秒 返信・引用

> No.3534[元記事へ]

おかめ石さんへのお返事です。

 級数計算不要、はまったく正しいわけですが、私なりに述べ直してみましょう。

 まず、未開封バージョンでは、級数計算不要というのは自明でした。
 手元の封筒内金額とむこうの金額内金額とのペアは(x,2x)または(2x,x)ですから、交換による変化の期待値はゼロです。手元の金額が固定されていませんから、二者択一として(x,x/2)と(x,2x)を想定するのは初歩的なミスです。その想定はすでにペアが選ばれたという歴史を無視しています。可能世界群の近い分岐で考えねばならず、その場合のペアは(x,2x)と(2x,x)であることに気がつけば、未開封バージョンに無限級数の出番などありません。
 問題は、開封バージョンですね。
 開封バージョンでは、手元の封筒内金額とむこうの金額内金額とのペアは(a,2a)または(a,a/2)ですから、交換による変化の期待値は事前確率に左右されます。
 だから、
 おかめ石さんの↓は修正が必要でしょう。

>
>ここで、「開封して2が現れたなら、金額ペア{1, 1*2}と{2, 2*2}の選定前の確率分布が例えば3:2とすると、
>交換により1か4になる確率も3:2」と考えていくのは、
>「(サイコロの例に見た様に)或る特定のペアが一つ選定されている」
>という条件を見落して、選定前の段階に後戻りしてしまった迷路だと思います。
>

 ↑事前確率をチャラにすることはできないでしょう。
 一般に、{x/n,x}の選ばれる確率がfn(x)だとすると、事前確率の比は
P({a/n,a})/P({a,na})=fn(a)/fn(na)
 さて、
 封筒を開封して見いだした金額が実際にaだったとして、その観測データをaと書くことにし、ペア表記でそれが胴元に選ばれているという仮説を表わすとします。aに条件付けられた事後確率の比は、

P({a/n,a}|a)/P({a,na}|a)
=P(a|{a/n,a})/P(a|{a,na})*(fn(a)/fn(na))
=(1/2)/(1/2)*(fn(a)/fn(na))=fn(a)/fn(na)

 よって、「開封して2が現れたなら、金額ペア{1, 1*2}と{2, 2*2}の選定前の確率分布が例えば3:2とすると、交換により1か4になる確率も3:2」は迷路に入ってはおらず、正しい、ということがわかります。

 むろん、手元の金額がaと判明すれば、fn(a)とfn(na)以外のあらゆる事前確率を無視してよいというかぎりでは、おかめ石さんの言うとおりですね。
 {a/n,a}と{a,na}以外の事前確率はもはや無関係になります。無限級数なんぞの出番はありません。
 開封バージョンでの期待値を求めるときに、情報が一切ない状態を表わすのに、すべての可能な値に対する事前確率の一様分布を想定する必要はないからです。
 すなわち、
∀x∀y(fn(x)=fn(y))は必要ありません。
 あるいは
∀x(P{x/n,x}=P{x,nx})は必要ありません。

 無情報であることを確保するのに必要なのは、
∀x(Sx⊃P{x/n,x}=P{x,nx})
 ということだけです。(ただし、Sxは金額xが封筒内に見いだされる、の意)。
 Sはもっと意味を広げることもできるので、次のように表わした方がよいかもしれません。
 適当な内包的演算子Iについて、
∀xI(P{x/n,x}=P{x,nx}) ということだけが必要である、と。

 Iの一例を挙げると、「胴元が選ぶ可能性のある金額ペアは、どれも等確率で選ばれる」という前提をプレイヤーは持てば十分である、ということ。
 これは、「胴元はすべての金額ペアについて等確率で選ぶ」という前提をプレイヤーが抱いていることを含意しないので、無限個の確率変数にわたる一様分布という無理は生じません。


論点先取はΦの方 投稿者:モンテカルロ 投稿日:2012年 3月17日(土)16時19分23秒 返信・引用

> No.3530[元記事へ]

φさんへのお返事です。

>> 例えば「無限回表が出続けるときは賞金z円」
>>(ただし、任意のn:自然数に対してz≠2^n)とし
>> P君のゲームでは、これからコイン投げで金額を決め、
>> その金額を賞金として与える("後決め設定")とし、
>> Q君のゲームはP君に賞金を支払った直後に始め、
>> (その金額を知らない)Q君にP君の得た額と同額を与える
>>("先決め設定")という場合を考えるとわかりやすいでしょう。
>> "先決め設定"であるQ君は「無限回表が出続けられた可能性はない」
>> 即ち「z円得ることはない」とするならば、
>>P君も「z円得ることはない」となります。
>> 何故なら、いくらP君の余命が無限大でも、
>> P君の年齢が∞歳になることはなく、
>> P君の年齢は常に(いくらでも大きくなり得るが)有限値であり、
>> その有限時間内にコインを無限回投げる事はできないので
>> P君がz円貰える事はあり得ないからです
>> (P君の年齢が∞歳になる事や有限時間内に
>> 無限回コインを投げる事を許容するならば、
>> Q君がz円貰え得ることになり仮定と矛盾します)。

>  ↑Q君のゲームの存在について論点先取がありますね。
>  P君のゲームはあらゆる可能世界で開始可能ですが、
> Q君のゲームは条件付きでしか開始できません。
>  P君がz円得ている世界では、Q君のゲームは開始できないのです。
>  つまり、Q君のゲームがなされる世界では、Q君はz円を得ることはありません。
>  だからといって、P君がz円得ることはない、ということにはなりません。
>  Q君のゲームが存在しない世界において、P君はゲームでz円得ているからです。
>  P君とQ君とでは(後決め設定と先決め設定とでは)、
> 同じ確率分布が与えられながら、可能性に相違があるのです。
>  説明はこれだけで十分でしょう。

十分間違っている。
論点先取したのはφ、あなた。

φは「無限回表が出続けるときは賞金無限大」といった。
「無限回表が出続けるときがある」と考えてる点で論点先取。

そもそも「無限回やりきる」と考えるのが誤り。
素人は必ずその誤りを犯す。だから間違う。

>  すでに以前に申しあげたとおり、この掲示板で
> すでに何度も言及されている思考実験ですから。

何度やっても間違った思考は無意味。


誤「級数計算不要」 正「級数計算不能」 投稿者:モンテカルロ 投稿日:2012年 3月17日(土)16時08分9秒 返信・引用

> No.3534[元記事へ]

おかめ石さんへのお返事です。

> 級数計算は不要だったと思い至りました。

> ・・・封筒◆交換◆問題では、そもそも数列の総和計算は不必要であった。
> 直接、◆小切手の金額そのもの◆の期待値を求める、という道は回避するから。

正しい文章は以下の通り

「級数計算は不能だった」
「封筒交換計算では、そもそも数列の総和計算は★不可能★であった。」
「小切手の金額そのものの期待値は★発散★するから。」

> 前置きは以上で終わり。

前置きが誤っているので、本論は読む必要がなくなった。


級数計算不要 投稿者:おかめ石 投稿日:2012年 3月16日(金)23時27分3秒 返信・引用

その後、少し伸展があり、級数計算は不要だったと思い至りました。年度を越さない内に、とりあえず雑記風に、基本事項も併せて記しておきます。

金額を「正の整数」に限ると、開封して奇数なら必ず交換すべきだから不可。しかし「正の実数」にまで対象を広げるのも不可、√2などは金額にのせられないから。両者の中間の「正の有理数」(可算無限個)とするのが最適でしょう。

無限個の事象が等確率(pとする)で起こる事は、「アルキメデスの公理」により不可能。
np>1となる様な自然数nが必ず存在して、全確率1を超えてしまうので。

「ボルツァーノの級数」(1-1+1-1+1-1+…)の様に加減算が交互に続く数列の総和計算では、カッコの付け替えは行えない。(岩波新書の遠山啓著『数学入門 下』など参照)

けれども封筒◆交換◆問題では、そもそも数列の総和計算は不必要であった。直接、◆小切手の金額そのもの◆の期待値を求める、という道は回避するから。

前置きは以上で終わり。

先ず、カントールの対角線論法により自然数と1対1対応させた「正の有理数」の数列を考える。
a_1, a_2, a_3, …, a_n, a_(n+1), …
即ち、
1/1, 2/1, 1/2, …

次に、各項の数値を基準金額として、それとその2倍数から金額ペアを生成し、各ペア毎の《交換による増減額》の期待値の数列を作る。
{(2-1)* 1/2 + (1-2)* 1/2}, {(4-2)* 1/2 + (2-4)* 1/2}, {(1- 1/2)* 1/2 + (1/2 -1)* 1/2}, …, {(2a_n - a_n)* 1/2 + (a_n - 2a_n)* 1/2}, {(2a_(n+1) - a_(n+1))* 1/2 + (a_(n+1) - 2a_(n+1))* 1/2}, …

(離散型)確率変数を◆交換による増減額◆(ここが肝腎!)と決めるので、各ペアごとに交換による増加と減少の両方の場合が起こり得て、その確率は1/2ずつ。

確率1/2という情報だけが必要であり、基準金額を選定する時の確率分布は不要。
例えば「正六面体のサイコロ投げ」とは、{1,2,3,4,5,6}, {2,3,4,5,6,7}, {3,4,5,6,7,8}, …の無数の種類のサイコロから{1,2,3,4,5,6}の1種類を選定して投げるものと考えることが出来る。そして標本空間が無限大から6個に変化して居る。
同様に封筒交換問題でも、条件付き確率として解釈できる。(両者の違いは、選定されたサイコロ或いは基準金額がプレイヤーにも明らかか否かという点。不明なので全ペアについて交換の結果を調べる事に成る)
つまり、「全ての正の有理数」から、各ペアでの「初め多額の方」と「初め少額の方」の二択へと標本空間が変化した。

標本空間の変化について
例えば、下記のマークが書いてあるカード10枚から1枚引く時の確率は
 ◎◎◎◎…確率 4/10
 ●●●…3/10
 ■■…2/10
 ◆…1/10
「マークは丸い」という情報が分かった時の条件付き確率は、標本空間が10枚から7枚に変化して、
 ◎◎◎◎…(4/10)/(4/10 + 3/10)=4/7
 ●●●…(3/10)/(4/10 + 3/10)=3/7
に変わった。

「増減額の期待値の数列」の初項と第n項と第n+1項の計算から、数学的帰納法により、可能な全ての金額ペアで「《交換による増減額》の期待値はゼロ」が成り立つ。

以上で開封前の《交換による増減額》については終了。以下、開封後について。

ここで、「開封して2が現れたなら、金額ペア{1, 1*2}と{2, 2*2}の選定前の確率分布が例えば3:2とすると、交換により1か4になる確率も3:2」と考えていくのは、
「(サイコロの例に見た様に)或る特定のペアが一つ選定されている」という条件を見落して、選定前の段階に後戻りしてしまった迷路だと思います。

標本空間が「初め多額の方」と「初め少額の方」の二択に変化しているという、この条件下で、多人数に或る特定の金額ペアを提示するという多数回試行を実施すると、
「初め多額の方」と「初め少額の方」という2事象がほぼ等しい頻度で起こるであろう。

結局、見た額がペアの中で多い方か否か不明なので、その額は役立つ情報には成らず、開封前の枠組みから変化は起こって居ない。この辺りは昨年、述べた通り。

最後に、初項の{1, 1*2}ペアが選定されて1000人のプレイヤーに提示される、という多数回試行の思考実験をお奨めして、終ります。


Re: 一発宝くじの応用 投稿者:スターダスト 投稿日:2012年 3月11日(日)16時10分11秒 返信・引用

φさんへのお返事です。

> スターダストさんへのお返事です。
>
> >
> > あまたある?無情報分布から、個々の問題について、それぞれ、どの分布をあてはめるのが良いかについては、決められた方式があるわけでもなさそうですし。
> >
>
> もしや、問題を直感的に理解したときの「常識的な」事後確率が得られるような事前確率分布を「自然な「情報のない分布」」と見なす、というしきたりがあるなんてことが?
>  それで悪いというわけでもないでしょうが、やはり論点先取的なのはまずいと思われるので、事後確率の評価とは独立に、自然な事前確率分布を判定する基準がほしいものですね。これこれの種類の設定ではかくかくの種類の確率分布が自然である、というように。

いえ、論点を先取りしようと私が企図しているわけでもございません。 たまたま、一発宝くじ風味での無情報分布においては、興味深い結果になると申し上げているだけでして…
では、こうした問題を含む広範な問題において、問題のパターン別に、基準となるような事前確率分布の選定規則があるかといえば…調べる限り、かつ、素人の私の理解するところでは…みあたらないのでした。

そもそも、確率論の公理には、事前確率分布としてふさわしいものを選ぶ基準など、存在していません。 私たちは、必要に応じて、確率論の公理に従って数学者によって展開されている確率論の定理(公式を含む)などを安心して使えるわけですが、その一方、そうした定理だけでは、実際の問題を特にあたっては、【なんらかの約束事】【なにをもって同様に確からしいと考えるのか】を別途、問題に応じて、自明なものとして、前提にしていると、思われます。 もとい、そのように私には思えてなりません。

φさんが、半無限区間において、事前分布には一様分布がふさわしいと前提をおいていますし、一方、識者の中には、そのような、無限に発散する分布は、確率論の公理では処理できないと主張したくなる人々が確かにいる、そうした意味合いに、私にはボンヤリとではありますが、首肯できる側面もあるのです。

余談ですが、半無限区間での一様分布による発散を抑えるために、私は、有限区間での一様分布をモデルにしたらどうだろうか、それならば安心して処理できる、といった風味の試みによる投稿をこちらの掲示板でたびたび行ってきました。やはり発散は怖いからです。それにあきたらず、今度は、1/x 風味の分布を有限区間ないし無限区間で取り扱うとどうなるのだろうとも考えあぐねてきました。余談終わりです。

二封筒問題をとくにあたっての前提として、封筒の中にある二枚の小切手の額面の総合計の金額は、どのように作られているのか、その分布はどんなものなのか、発散せずに確率論で扱える分布なのか、そうでなくとも大丈夫なのか、等々が、暗黙のうちに、自明であると、そうした認識が、出題者と回答者のあいだに、共有されている必要があるのではないでしょうか。

端的に言ってしまえば、巷にあふれている二封筒問題は、解くための条件が不備であるので、どんな答えでも出せてしまうような気がします。

===
>  その設定がもし「自然」であれば(問題文に明示されなくてもその設定として理解するのが自然であるという合理的理由が示せれば)、一様分布でなく1/x 分布をとるべきということになりそうですが。

なにをもって「自然」というのか、プロのベイジアンさん達にお伺いをたてたいものです。切実です。

===
>
> >
> > 最初に封筒をあけたときの額面が5セントから10セントの間にはいる確率と、
> > 5ドルから10ドルまでの間にはいる確率が等しい、こうした尺度不変性が内在しているのではないのかなと、
> > 前々から追いかけています。つまり小さい額面のほうが出やすい。
>
>  ↑
>  あらゆる通貨の可能性を考えると、小さな金額の存在が濃密になるということでしょうか? ちょっとよくわかりませんが……。


強引にそのように考えることもありえるのかと、想像しているのですが、今は確信が持てません。


Re: 一発宝くじの応用 投稿者:φ 投稿日:2012年 3月11日(日)15時08分7秒 返信・引用

> No.3531[元記事へ]

スターダストさんへのお返事です。

>
> あまたある?無情報分布から、個々の問題について、それぞれ、どの分布をあてはめるのが良いかについては、決められた方式があるわけでもなさそうですし。
>

もしや、問題を直感的に理解したときの「常識的な」事後確率が得られるような事前確率分布を「自然な「情報のない分布」」と見なす、というしきたりがあるなんてことが?
 それで悪いというわけでもないでしょうが、やはり論点先取的なのはまずいと思われるので、事後確率の評価とは独立に、自然な事前確率分布を判定する基準がほしいものですね。これこれの種類の設定ではかくかくの種類の確率分布が自然である、というように。

 前回述べた終末論法の場合は、「自分が誰として生まれてくるか」に何の事前情報もないので、背番号に関して一様分布が自然であることは間違いありません。
 ただし、個々人が終末論法を考えることができるほど文化が熟成していなければならないので、その熟成以降の背番号を持って「私」は生まれる、というバイアス(観測選択効果)があることは考慮に入れなければならないでしょう。

 2封筒問題も、時間とともにだんだん数字(金額)が上がっていくことがわかっているが、自分がどの時刻にゲームに参加したかはわからない、という設定にすると、終末論法にやや似た論理が当てはまるようになります。
 完全に一致させるには、「時間とともに封筒内金額の候補となる諸可能性の上限が時間とともに一様に上がってゆく」とするべきでしょうね。(本当に完全に一致させるには細部の調節がさらに必要になるでしょうが)
 その設定がもし「自然」であれば(問題文に明示されなくてもその設定として理解するのが自然であるという合理的理由が示せれば)、一様分布でなく1/x 分布をとるべきということになりそうですが。

>
> 最初に封筒をあけたときの額面が5セントから10セントの間にはいる確率と、
> 5ドルから10ドルまでの間にはいる確率が等しい、こうした尺度不変性が内在しているのではないのかなと、
> 前々から追いかけています。つまり小さい額面のほうが出やすい。

 ↑
 あらゆる通貨の可能性を考えると、小さな金額の存在が濃密になるということでしょうか? ちょっとよくわかりませんが……。


Re: 一発宝くじの応用 投稿者:スターダスト 投稿日:2012年 3月 5日(月)12時58分49秒 返信・引用

> No.3528[元記事へ]

φさんへのお返事です。

>  自然な「情報のない分布」が(9)式で与えられる、というのは正直、理解できません。
>  なぜそれが自然なのか。全く何の条件も付いていないのであれば、やはり一様分布が自然ではないでしょうか。

私にもよくわかりません。 ただ、ひとついえそうなのは、一様分布も、例の1/x 分布も、ともに無情報分布の例だとされているようです。ベイズ推定の世界では…
あまたある?無情報分布から、個々の問題について、それぞれ、どの分布をあてはめるのが良いかについては、決められた方式があるわけでもなさそうですし。

尺度不変性を重んじれば、1/x の分布を使うのでしょうし、平行移動不変性を重んじるのであれば、一様分布を使う、このようなイメージではないのかと、あちこちみてまわって感じているところです。

===

基数と序数のたとえについては、今回は応答できません。 少し考えたく存じます。

===

二封筒問題についてあれこれ考えていますと、次のことが常にひっかかってくるのです。

小切手の通貨単位は何?

かつて私がたびたび引き合いに出した帝国版封筒問題などでも、通貨単位を浮上させると変な気分になってくるという点を重んじていたからです。

通貨単位を変えても、問題の本質に差が出ない、このことがとても面白く感じるのです。 私が勘違いしているのでなければ(汗)… 尺度不変性を二封筒問題は抱えている、そのような気分です。

5セントと10セントの封筒の組。 5ドルと10ドルの封筒の組を考えても。

思考に大幅な飛躍を許すわけにはいかないのですが…

最初に封筒をあけたときの額面が5セントから10セントの間にはいる確率と、5ドルから10ドルまでの間にはいる確率が等しい、こうした尺度不変性が内在しているのではないのかなと、前々から追いかけています。つまり小さい額面のほうが出やすい。


Re: 質問が混んで申し訳ありませんが 投稿者:φ 投稿日:2012年 3月 4日(日)13時22分4秒 返信・引用

> No.3529[元記事へ]

TTTさんへのお返事です。

 ほとんどのお答えはすでに済んでいるので、次の点にだけお答えしておきましょう↓。

>
> 例えば「無限回表が出続けるときは賞金z円」(ただし、任意のn:自然数に対してz≠2^n)とし
> P君のゲームでは、これからコイン投げで金額を決め、その金額を賞金として与える("後決め設定")とし、Q君のゲームは
> P君に賞金を支払った直後に始め、(その金額を知らない)Q君にP君の得た額と同額の与える("先決め設定")
> という場合を考えるとわかりやすいでしょう。
> "先決め設定"であるQ君は「無限回表が出続けられた可能性はない」即ち「z円得ることはない」とするならば、
> P君も「z円得ることはない」となります。何故なら、いくらP君の余命が無限大でも、P君の年齢が∞歳になることはなく、
> P君の年齢は常に(いくらでも大きくなり得るが)有限値であり、その有限時間内にコインを無限回投げる事はできないので
> P君がz円貰える事はあり得ないからです
> (P君の年齢が∞歳になる事や有限時間内に無限回コインを投げる事を許容するならば、Q君がz円貰え得ることになり仮定と矛盾します)。
>

 ↑Q君のゲームの存在について論点先取がありますね。
 P君のゲームはあらゆる可能世界で開始可能ですが、Q君のゲームは条件付きでしか開始できません。
 P君がz円得ている世界では、Q君のゲームは開始できないのです。
 つまり、Q君のゲームがなされる世界では、Q君はz円を得ることはありません。
 だからといって、P君がz円得ることはない、ということにはなりません。
 Q君のゲームが存在しない世界において、P君はゲームでz円得ているからです。
 P君とQ君とでは(後決め設定と先決め設定とでは)、同じ確率分布が与えられながら、可能性に相違があるのです。
 説明はこれだけで十分でしょう。

 その「可能性の相違」が、ある設定のもとでは、P君、Q君それぞれの正しい確率的判断の相違(主観的経験の正しい予測としての相違)として反映される実例については、もう少し考えてみてください。
 すでに以前に申しあげたとおり、この掲示板ですでに何度も言及されている思考実験ですから。


Re: 質問が混んで申し訳ありませんが 投稿者:TTT 投稿日:2012年 3月 2日(金)03時20分20秒 返信・引用

φさんへのお返事です。

他人に対しては
> 公刊された書物について「論理的に間違っている」と公言するのは、もっと慎重に考えてからでないと
等というわりには、その公刊された書物の記述の正しさの根拠は

> 少なくとも明白な誤りがあるとは思っていません。

だけなんですか・・・。それでは当てずっぽう・思い付きを述べているだけと同じです。


φさんは、批判が的外れな事や矛盾がない事を根拠に、自説の正しさが保証されると思い込んでいるようですが
(仮に批判が本当に的外れであったとして)反例や矛盾が(まだ)見つかっていない事から(また、もし証明されたとしてもその事から)
その説を正しいと推論するのは論理的に誤りです。
しかも、何度も指摘しているにも関わらず未だに、"損得"や"合理的判断","正しい確率判断"といった語を
十分に定義しないまま用いています。論理的に定義されていない事に関して、論理的に論ずることはできません。

φさんの主張は非論理的であり、私には全く理解できません。

φさんの理論の仮定(定義)や論理(推論)の説明が不十分で不明であるという私の主張に対しては、
> そんなことも察していただけないようでは、正直、コミュニケーションが取りづらいですね。
等と言っていたのに、推察した結果がφさんの意図通りでないと今度は「ねつ造だ」とあげつらうのですね。
"ねつ造"(φさんの意図通りに推察されないこと)をされたくないのなら、
書き手は読み手が推察しなくてすむように書くべき(論理的に書く場合の基本)で、
"ねつ造"に関してはそれを無視したφさんにも責任があります。

私からすればφさんの主張こそ、「自説は正しい(はずだ)」という先入観に引きずられた放言にしか見えず、全く信用できません。
φさんは「間違いがあるなら指摘しろ」等と相手にばかり示させるという態度ですが、
まずは主張したφさん自身が自説の正しさを示す責任があります。正しい根拠がないならば、それはただの放言です。
放言に対して、反論者が一々正誤を確認し示す責任は、本来ありません。


> 限られたページの中で最終段階まで説明が終わっていないからといって、「間違い」とされるいわれはありません。

本の説明"だけ"を批判しているのではなく、本やこの掲示板におけるφさんの主張の論理的な正しさが
本でも掲示板でも十分に示されていない(間違っているものもある)ことを批判しています。

説明が短いことを批判するどころか、むしろ
「期待値は、たった一度その賭けをした場合に確実に得られる金額を求めたものではない」という記述や
(「正確には~」という記述は正確には正しくないが)「何度も繰り返しその賭けをしたときの平均値が期待値である」という趣旨の文章だけで
説明としては十分であり簡潔だと思っていますよ。しかし
『無限回やれば、「永久に表が出つづける場合」が必ず一度は含まれる』や
『「永久に表が出つづける場合」が必ず一度は含まれるから、(中略)全体の平均賞金は無限円になる』
という説明(や掲示板における可能性だの"可能世界"を用いた理論など)は、正に蛇足であり間違いであって、
φさんが「正しい(間違いでない)」と主張するならば、
φさんがその根拠を(本で説明しきれなかったのならばこの掲示板で)説明すべきだと言っているのです。


>『論理パラドクス』各問が意図しているのは、あらゆる場合に整合的に対応しようという数学的説明ではもちろんありません。

私は「あらゆる条件でも対応できる説明をしろ」と言っているわけではありませんし、その問題独自の条件を用いても構いません。
一般的な(アドホックでない)論理に従い説明すべきだと言っています。

『「永久に表が出つづける場合」が必ず一度は含まれる』を性質A
『全体の平均賞金は無限円になる』または『期待値が存在しない(無限大になる)』を性質Bとでも表せば
φさんの主張(予想)
> このゲームを無限回やれば、「永久に表が出つづける場合」が必ず一度は含まれるから、
> 他の場合と合わせた全体の平均賞金は無限円になる

「このゲームを無限回やれば、性質Aを満たすから、性質Bを満たす」と書き換えられます。

しかし、(このような場合に性質Aが満たされるとすると)「性質Aを満たすが、性質Bはみたさないゲーム」という反例が存在するのだから
「性質Bを満たす理由・説明として、性質Aを根拠にするのは誤り」と私は指摘しています。
これに対してφさんは「このゲームでないゲーム(性質Bを満たさないゲーム)を持ってきても、何の批判にもなってない」
などと言っていますが、これこそ的外れで意味不明でしょう。
反例がある以上φさんの主張は理由として誤りであり、
「このゲームに限定すれば、性質Aを根拠にしても誤りでない」等とするのはアドホックです。


> 確率分布も期待値も同じ二つの場合で、確率に基づく合理的判断が異なる場合がある、と私は言っています。

>「正しい確率判断のためには確率分布・期待値だけでなく様相命題が必要」という趣旨が導けず、迷惑だということです。

"確率に基づく合理的判断"や"正しい確率判断"とは何なのか、定義・説明もなしに
「確率分布が同じでも異なる」だの「様相命題が必要」だのと言われても、それこそφさんがそう思いたいだけでしょう。

しかも「同じ確率(確率分布)でも、可能性の有無によって異なる得る判断」などというものは、
もはや「確率に基づく判断」とは言えません。そのような判断を考えたいならば、
"可能性に基づく判断"等とでも呼び、確率(の判断)とは明確に区別すべきです。

"可能世界"等といった(確率論外の)概念を根拠に期待値の計算の正誤を判定することなどからも言えることですが
φさんの方が、確率とそれ以外の概念(可能性や"可能世界")を混同しています(混同したがっている?)。


> 期待値は、あらゆる確率変数の値の平均値であり、「あらゆる値」を確実に出現させるためには無限回の試行が必要ですから。

なぜ『「あらゆる値」を確実に出現させる』必要があるのか不明(説明不足,説明になってない)。また前回指摘した通り
「あらゆる値」を確実に出現させるには無限回の試行でも十分ではありません。

>> > たしかにこのゲームを無限回やれば、「永久に表が出つづける場合」が必ず一度は含まれる
>>
>> は言えません。
>>
>
> 言えます。
> 換言すれば、サンクトペテルブルクのゲームが一度だけ行なわれる無限個の可能世界の中には、
> 永久に表が出続ける可能世界は必ず存在します。
> コイン投げの各回は独立なので、「いつか必ず裏が出なければならない」という保証などないからです。

"可能世界"とやらが存在することは、「無限回試行すれば確実に出現する」根拠にはなりません("可能世界"と可能性・確実性を混同しています)。
ゲームの試行も各回独立なので、各値に対して「いつか必ずその値が出現しなければならない」などという保証はなく、
「同じ値ばかり出現する場合もあり得る」のだから、「無限回試行すれば確実に出現する」は間違いです。


> 推測統計学では、未来の事柄については確率0~1、過去の事柄については確率0か1のみを認めるという立場もあるそうですから、
> そういう場合は、先決めと後決めでは確率分布そのものがはっきり違うものとして提示されざるをえないでしょう。

そのような立場(確率論を放棄した立場)にどんな有用性があるのかは知りませんが、仮にそのような立場をとるとしたら
先決めの賞金の確率分布は「賞金の値が(未知数)aである確率1、a以外である確率0」(上限=下限=a)という分布であって、
φさんが想定しているような分布:(未知の)上限があって、それ以下の値ではそれぞれ確率が割り振られている
等とはなりませんね。

> 特定の先投げ設定ゲームをA、特定の後投げ設定ゲームをBとして、
> 確定記述「Aの賞金金額×2」の指示対象である数は、Aでは確率ゼロを割り振られるが、Bでは有限の確率を割り振られる。
> よって、AとBとでは確率分布は異なる。

などという考えもそうですが
確率論、特に確率変数を上手く扱えない(扱う技能がない)から、それらのような(確率論の一部または全てを放棄した)立場をとるのでしょう。


>「無限回表が出続けるときは賞金0円」としてみましょう。
> その設定をBとし、もとの設定(無限回表が出続けるときは賞金無限大)を設定Aとします。

> 設定Aと設定Bでは、合理的判断(はっきり「正しい確率判断」と言ってもよい)に決定的な違いが生ずる、
> というのが、私の相変わらずの主張です。

"先決め設定"で「無限回表が出続けられた可能性はない」とするならば、
"後決め設定"では、無限回表が出続けられた時の賞金がいくらであっても、
貰える賞金金額の確率分布と"可能性の分布"は同一であり、上の設定Aと設定Bで、
(確率や可能性で決まるらしい)"合理的判断"に違いが生じるのは不合理です。

例えば「無限回表が出続けるときは賞金z円」(ただし、任意のn:自然数に対してz≠2^n)とし
P君のゲームでは、これからコイン投げで金額を決め、その金額を賞金として与える("後決め設定")とし、Q君のゲームは
P君に賞金を支払った直後に始め、(その金額を知らない)Q君にP君の得た額と同額の与える("先決め設定")
という場合を考えるとわかりやすいでしょう。
"先決め設定"であるQ君は「無限回表が出続けられた可能性はない」即ち「z円得ることはない」とするならば、
P君も「z円得ることはない」となります。何故なら、いくらP君の余命が無限大でも、P君の年齢が∞歳になることはなく、
P君の年齢は常に(いくらでも大きくなり得るが)有限値であり、その有限時間内にコインを無限回投げる事はできないので
P君がz円貰える事はあり得ないからです
(P君の年齢が∞歳になる事や有限時間内に無限回コインを投げる事を許容するならば、Q君がz円貰え得ることになり仮定と矛盾します)。

φさんの考える可能性や可能世界の理論は、確率論に反し(確率を内包・拡張したものではなく)
論理的にもかなり杜撰です。また、φさんはそのような理論と確率論を区別できていません。


ともかく、裏が出るまでコインを投げ続ける場合に、コインを投げ始める前か投げ終えた後かで確率分布(確率・期待値)が異なる
というような以前のφさんの主張は、撤回するということでいいんですよね?

コインの場合が納得できたなら、同様に
6-6が出るまで2つのサイコロを投げ続ける場合、サイコロを投げ終えた後か否かが異なる
だけでは確率分布が異なることはない、という事にも納得しなければなりません。
すなわち、『論理サバイバル』の「射撃室のパラドクス」において
[1]と[2]で確率が異なる理由を、サイコロが投げ終わっているか否か(実験が"オープン"か"クローズド"か)だけで説明するのは間違いであり
[1]と[2]で確率が本当に異なるならば、その原因は他にある(別の条件であるか、または、サイコロを投げ終えたか否かだけでは不十分)
ということです。


Re: 一発宝くじの応用 投稿者:φ 投稿日:2012年 2月26日(日)16時42分9秒 返信・引用

> No.3527[元記事へ]

スターダストさんへのお返事です。

 年度末の雑事が続いて御返事が遅れました。
 ここに出入りされていた方々にはあまり興味がないかもしれませんが、一月末に出版した拙著『教授とミミズのエコ生活』モードからようやくアタマの切り替えができかかったところです。
 次のノルマは当面、分析的なものばかりなので。

 さて、
 自然な「情報のない分布」が(9)式で与えられる、というのは正直、理解できません。
 なぜそれが自然なのか。全く何の条件も付いていないのであれば、やはり一様分布が自然ではないでしょうか。

 ただし、確率変数が、単なる基数ではなく、序数で与えられているならば、値と確率が比例したり反比例したりという理屈が合理的になることがあるでしょうね。

 たとえば、終末論法がそれです。
 わかりやすく単純化して、対立仮説が次の二つだけだとしましょう。

 仮説A 人類文明は累計一千億人で終了する
 仮説B 人類文明は累計一千億×一千億人で終了する

 この両者の事前確率については、全く情報はありません。核戦争、環境破壊、食糧危機などの重大性と確率をいくら考えても、経験的仮説としての蓋然性P(A)とP(B)とでは甲乙つけがたいでしょう。
 ところが、単に数字だけからみると、仮説Bの方が仮説Aの一千億倍高い事前確率を持つ、と言えそうです。なぜなら、終末論法を考える任意の人が、全人類の中での自分の誕生番号を認識して、それをデータとして仮説A,仮説Bの事後確率を計算するわけですが、データ獲得前に、データがそれぞれの仮説を反証してしまう可能性は、仮説Aに対しての方が、仮説Bに対してよりも一千億倍も高いからです。
 たとえば私が自分の誕生番号を七百億番目と観測すれば、仮説Aとも仮説Bとも両立しますが、七千億番目と認識すれば、仮説Aは反証され、仮説Bが確証されます。
 この事前確率の関係を
 Pa(A)/Pa(B)=P(A)/(P(B)*一千億)
  と書くことができます。
 (Paは、まだ自分の誕生順番を認識する前に数字だけからアプリオリに計算した事前確率、の意とします)
 それぞれのデータの得られる確率が一様分布だと仮定すると、仮説「人類文明は累計Y人で終了する」の事前確率は、Yの値に比例することになるでしょう。

 終末論法は、自分が多数派である確率に従って、人類が早く滅亡する方へバイアスをかける形で事後確率を計算する論法でしたが、事前確率は人類の滅亡が遅い方へバイアスがかかっているため、自分の誕生順番であるデータEを得て行なう仮説検定の結果は、

 Pa(A|E)/Pa(B|E)=一千億*Pa(A)/Pa(B)=P(A)/P(B)

 これはまことに常識的な結果です。
 ジョン・レスリーの『世界の終焉』(青土社)など、終末論法による確率改訂を熱心に支持する論者は、Pa(A)とPa(B)の非対称性を考慮に入れ損ねています。

 ……以上は、『多宇宙と輪廻転生』(青土社)で述べた事柄の要約でした。

 2封筒問題は、封筒内にいくら入っているかというペア指定の仮説が序数でなく基数で与えられるため、以上のような事前確率のバイアスは想定しづらいように思います。

 2封筒問題に同様の構造を持たせるには、
 それぞれの封筒内の金額は、ピンポイントで金額を指定しているのではなく、「その金額以上のある金額を指定した」あるいは「その金額以下のある金額を指定した」という記述だという設定にすればよいでしょう。

 そういう設定であれば、封筒内に見出す数字の事前確率が、数字の大小と比例したり反比例したりするように設定できると思われます。
 ただしその場合、期待値計算を複雑にしないためには、封筒内の数字が賞金に相当するのであり、あらかじめ指定された数は賞金に対応するのではない、とすべきでしょう。
 つまり、一様分布で特定の数を指定してから、また一様分布で封筒内に書く金額(賞金)を決める、というやり方をすべきでしょう。

 スターダストさんの「一発宝くじ」はこの理念を実現しようとした設定でしょうか。
 しかし「一発宝くじ」は、確率変数が序数の設定になっていないので、恣意的な設定のように見えてしまいます。
そして、上記のような序数の記載という設定にしたとしても、それが「自然な設定」と言えるかどうか、ちょっとわかりません。指定した金額「以上」の任意の数を賞金とするのか、「以下」の任意の数を賞金とするのか、どちらが自然とも言えませんし。

 終末論法の場合は、誕生順序は逆転できないので、
Pa(X番目)/Pa(Y番目)=P(X番目)/(P(Y番目)*Y/X)
はごく自然なのですが。


Re: 一発宝くじの応用 投稿者:スターダスト 投稿日:2012年 2月17日(金)11時58分3秒 返信・引用

> No.3526[元記事へ]

φさんへのお返事です。

> スターダストさんへのお返事です。
>
>  胴元がきわめて窮乏している、あるいは極端に金をケチるタイプの人間であることがわかっている場合は、金額と確率が反比例するようなそのモデルが妥当するでしょうね。


一発宝くじにおいて「極端に金をケチ」っているかどうかについては、φさんと私とで評価が異なるようですね。 私見では、一発宝くじの胴元は、定数Cをあらかじめうまく定めておき、C/x なる確率密度を与えられたxをもって、宝くじの当選金額としているわけです。 つまり、その期待値は、(Cをどのように決めたかに応じますが)定数となります。これをこの投稿ではGとでもしておきます。 たとえば、Gが1万円だとしましょう。

注:そうなるように、Cを計算することができますが、ここでは省略します。(期待値が発散しないように、宝くじの当選金額の上限・下限があることが一発宝くじの定義でした。上限・下限の値を胴元のみが知っておりゲストはその具体的な値を知らないとしたほうが紛れがないようですが…Gは、上限・下限・Cを考慮に入れた、対数表記を含むものとなるようです。)

さて、当選金額の期待値が1万円の宝くじを一発勝負で胴元が提供しているわけですが、この意味で、胴元がケチかどうかは判断つきかねます。
この一発宝くじでも100万円は当選可能なわけですし、一億円でも当選可能でしょう。ゲストは上限値を知らないだけですので、判断できないかもしれませんが、胴元は、上限金額を、自分の資産状況をかんがみて100億円ぐらいにしているかもしれません。 上限が100億円とされているのであれば、一発宝くじでは、80億円当選することもあるわけです。期待値が1万円でも、当選金額は充分に高くなりえるわけです。 これは、通常の、われわれがテレビCMでみかける宝くじの様相をモデル化したものですので、感覚はつかめることかと存じます。さて、こういう設定のときに、胴元は極端にケチだとはいいきれないことかと思われます。 以上が、「極端にケチ」かどうかについての、私見です。


>  ただし、むこうの封筒の金額の方が少額である確率が多額である確率のZ倍であるのは、こちらの封筒を開封して金額が確定したときに限られるでしょう。
>  未開封の場合には、そうした非対称性はありません。
>  となると、今度は、未開封の場合も開封の場合も、交換により期待値変化なし、ということになりますね。

そうなるように工夫したかったのですが、成功していますでしょうか。


>
>  これはまさしく常識的な結果ですが、「人間の欲や戦術」を考慮に入れて初めて常識的な結果が得られる、というのも妙な話ではあります。

「人間の欲や戦術」といいましょうか、むしろ、ホスト=胴元の資産状況による設定といいましょうか…うまく表現いたしかねます。 ただ、一発宝くじ設定が非常識かというとそうでもなくて、1枚しか発行しない宝くじの期待値が発散しないですむようにした、そして、高額の当選金額は、それなりに低い確率で当たるようにしたい、つまるところ、期待値は定数として考えることができるもっとも簡単な確率密度を考えると、C/x が妥当、といったところでしょうか。
「100円の当選が1枚出る宝くじと、1万円の当選が1/100枚でる宝くじ」は【期待値計算では同じ価値をもつ】といった原理の表明でしかないわけですから、あまり非常識なお話でもないことかと考えられます。


===

>
>  ところで、
>  「スターダスト氏の方法では」すなわち
> http://8044.teacup.com/miurat/bbs/3509の1~7では、
> 上限を設けて一様分布で選ぶ場合の論理構造が、一般的にとらえられていますよね?
>  たとえば、2Mを上限として一様分布で金額を選び、次にその倍額ではなく半額を生成する、という方法でも、ロジックは全く同じですよね?
>
>  とりあえず確認でした。

はい。ロジックはまったく同じです。

同様に、一発宝くじ設定の二封筒問題において、最初に一発宝くじで金額を設定したのに、2倍の金額をもう一枚の小切手に設定するのと、1/2倍の金額を設定するのと、同じ効果になると考えております。

===

神が、C/x なる確率密度で ひとつの財布にx円を入れた。 もうひとつの財布にZ倍の金額を入れた。 どちらか一方を【私が】選ばされ、財布の中身をあけ、金額を確認し、「さて、もうひとつの財布と交換したいか。かたほうの財布にはもうひとつの財布のZ倍はいっているのだ。逆に言えば、1/Z倍しかはいっていないことになる。さぁどうしたい?」と神から尋ねられる。

===

さて、私の一発宝くじ設定による二封筒問題では、当選金額の上限・下限を設定しました。当面、論議が複雑になること・・・期待値が発散することを避けたかったからです。とりあえず安心して計算したかっただけですが。

より一般的に、上限はなし、下限をゼロとする一発宝くじ風の設定でも、論議が可能であるとされているようです。すなわち積分不能な分布(improper distribution)をも考慮にいれるということです。その妥当性については私の考察のおよぶところではありませんけれども、以下のことがわかっているようです。

アバウトな言い方を先にさせていただきます。 ひとつの封筒の金額を確認したときに、もうひとつの封筒と交換してもしなくても、同じ期待値であるということの必要充分条件は、額面の小さいほうの封筒の小切手の金額θの事前分布について、その確率密度をp(θ)とすると、

p(θ) ∝ 1/θ

であることである。 アバウトにいえば、つまり、θの期待値( θ×p(θ)を積分したもの )が定数であることとなります。

これ以外の事前分布では、交換にともなう期待値の変化がある、そのようなことになります。


さて、詳細は後に記す論文のリンクをごらんいただきたいのですが、その論文の中に、以下のようにあります。 無情報分布についてのリマークなのですが、考えてみたいところです。

「一般にパラメータが正(θ > 0) という条件を満たすときには,自然な「情報のない分布」は,(8)式(スターダスト注:(8)式は一様分布を意味する)ではなく(9)式(スターダスト注:一発宝くじ風)で与えられるからである.この分布はJeffreys (1967) の,いわゆる不変な事前分布でもある.」

●美添論文
http://www.yoshizoe-stat.jp/stat/sinf9307.pdf


===

一様分布を採用せずに、不変な事前分布を採用すれば、二封筒問題にパラドキシカルな側面が出てこないというところが、面白いところですね。


Re: 一発宝くじの応用 投稿者:φ 投稿日:2012年 2月15日(水)02時10分14秒 返信・引用

> No.3525[元記事へ]

スターダストさんへのお返事です。

 胴元がきわめて窮乏している、あるいは極端に金をケチるタイプの人間であることがわかっている場合は、金額と確率が反比例するようなそのモデルが妥当するでしょうね。

 ただし、むこうの封筒の金額の方が少額である確率が多額である確率のZ倍であるのは、こちらの封筒を開封して金額が確定したときに限られるでしょう。
 未開封の場合には、そうした非対称性はありません。

 となると、今度は、未開封の場合も開封の場合も、交換により期待値変化なし、ということになりますね。

 これはまさしく常識的な結果ですが、「人間の欲や戦術」を考慮に入れて初めて常識的な結果が得られる、というのも妙な話ではあります。

 ところで、
 「スターダスト氏の方法では」すなわち
http://8044.teacup.com/miurat/bbs/3509の1~7では、
上限を設けて一様分布で選ぶ場合の論理構造が、一般的にとらえられていますよね?
 たとえば、2Mを上限として一様分布で金額を選び、次にその倍額ではなく半額を生成する、という方法でも、ロジックは全く同じですよね?

 とりあえず確認でした。
 

Re: 一発宝くじの応用 投稿者:スターダスト 投稿日:2012年 2月13日(月)12時33分35秒 返信・引用

> No.3524[元記事へ]

意図がつたわるかどうか心配ですが、
一発宝くじのような事前分布を持つ場合の唯一設定における 交換価値の評価と、それ以外の事前分布をもつ場合の唯一設定における交換価値の評価について、考えたかったのです。

ホストによる小切手やネクタイの額面に一様 分布を仮定するならば、交換したほうがよい事になりそうな気がいたします。


一発宝くじの応用 投稿者:スターダスト 投稿日:2012年 2月13日(月)12時28分55秒 返信・引用

一発宝くじというのは私の造語です。
通常の宝くじとの違いは以下のようにまとめらます。

1)通常複数枚発行される宝くじだが、一発宝くじでは1枚だけしか発行されない。
2)通常宝くじでは胴元にはいる粗利があり、そこから純利を胴元は得る。 一発宝くじでは、胴元は粗利を得ることは一切ない。
3) 通常の宝くじでは、獲得賞金の金額が大きいほど当選枚数は少なくなる。一発宝くじでも似たような仕掛けを用いる。 すなわち、あらかじめ決められた定数Cを根拠に、当選金額xが得られる確率は、C/x とする。
4) 計算が発散することを恐れるので、あらかじめ決められた正の定数 M_min およびに、M_max にたいして、 0 < M_min < x < M_maxとする。 Cは、M_min および、M_max から適宜胴元が計算するであろう。
5)一発宝くじの購入金額は0円とする。

上から、得られる結果として、この一発宝くじによって胴元が損をする額面の期待値は、あらゆるケースを仮定して一定の値であることが予想される。 これを、Gとする。 すなわち、この一発宝くじの購入者が得られる金額の期待値は、一定である。

※400円の賞金を得られる確率は、200円を得る確率の1/2である、10000円の賞金を得る確率は、100円を得る確率の1/100である、そのような仕掛けを考えております。

===

さて、一発宝くじでは、C/100 の確率で100円を得ることと、C/10000 の確率で1万円を得ることとどちらが得なのであるかと考える人も出てくるかもしれません。
通常の宝くじでは、宝くじ購入者は、誰も冷徹な期待値計算をしません。宝くじ購入金額が100円であったとして、300円あたろうが、100円ドブに捨てようが、それらの事象はほとんど考慮にいれられず、乗っていた飛行機が墜落するよりも小さい確率で一等3億円があたることに期待し、胸を膨らますわけです。 冷徹な期待値計算を行えば損をすることは明らかなのですけれども。 これは人間の心理の問題です。 当選金額が決定した際に、それが3億円であったときの【効用】が大きいために、100円の損のときの悲しみや、300円あたったときの喜びはとるにたらないのでした。 経済学などでは、この【効用】が意識されているため、効用関数を用いることになるわけですが、当面、一発宝くじにおいては、【効用】を意識せずに、冷徹な期待値計算の結果のみで判断することとしたいのです。

C/100 の確率で、100円があたることと、C/10000 で10000円があたることとは、同じ価値を有すると、効用については、これを意識しない、このように。

===

さて、二封筒問題への一発宝くじの応用を考えます。
通常の二封筒問題では、ホストが用意する小切手の額面の決定方法に、いろいろな考え方があることはご存知の通りです。一様性を仮定したりとか。
今回は、ホストが用意する二枚の小切手のうち額面が小さいほうの小切手の金額は、ホストが、すでに購入し、当選し、賞金を取得し終わった一発宝くじの、賞金に等しいものとします。 また、額面の大きなほうの小切手の額面を、Ζ倍としましょう。(通常の封筒問題では、Z=2であったり、Z=10であったりします)この仕組みをゲストは知っているものとします。

さて、ゲストであるあなたは、ふたつの封筒のうちひとつを開封し、小切手の額面を知りました。その値は6千円でした。
ホストはあなたに次のように告げます。
「実は、Z=2だったのだよ」

封筒を交換して得られる金額の期待値を、今みている6千円との大小関係はいかなるものなのでしょうか?

考えられるケースを重みつきで以下に記します。重みが大きい場合には複数行で書くこととなるでしょう。

開封済み  未開封
『6千円』 【3千円】
『6千円』 【3千円】
【6千円】 『12千円』

【】つきのほうは、ホストが一発宝くじで当たった金額を意味します。『』は、その金額の2倍です。
一発宝くじの性質により、【3千円】があらわれる重みは、【6千円】があらわれる重みの2倍であることでしょう。なので、【3千円】が出てくる組み合わせの行は2行としました。

このとき、あなたが、封筒を交換してえられる金額の期待値は、6千円です。すなわち、交換しなくとも交換しても、得られる金額の期待値に差が出ません。

===

さて、上でホストが、ゲストであるあなたに、次のように言ったものとしましょう。
『実は、Z=3 なのだよ』

すると、考えられるケースを重みつきで表現すると次のようになることでしょう。
開封済み  未開封
『6千円』 【2千円】
『6千円』 【2千円】
『6千円』 【2千円】
【6千円】 『18千円』

一発宝くじの性質により、【2千円】があらわれる重みは、【6千円】があらわれる重みの3倍であることでしょう。なので、【2千円】が出てくる組み合わせの行は3行としました。

未開封のほうの額面の期待値は、6千円で、開封済みの額面とかわりはありません。

===

Z=? の値にかかわりなく、交換してもしなくても、ゲストが得る期待値に変化が出ません。 これが、一発宝くじのおもしろいところです。

===

さて、上のことを、いわゆる、財布の交換や、ネクタイの問題に応用するとどうなるのでしょうか? 2つのネクタイの値の比をZとしたときに、、、

一発宝くじを使ったときには、交換・非交換による期待値計算に差が出ませんが、それ以外の設定では、差が出て当然という気がいたします。

面白いことです。



Re: トリック 投稿者:スターダスト 投稿日:2012年 2月13日(月)11時32分39秒 返信・引用

> No.3520[元記事へ]

φさんへのお返事です。

> スターダストさんへのお返事です。
>
> >
> >x が小さいほうである確率は、すでにφさんがご指摘の通り 2/3 です。
> >
>
> という事実はないと思いますが……。
>  私は、以前の系2について、b = 2a であるケースすなわち(x, 2x )である確率が2/3である、とは言いましたが……。
>
> a ≦ M という制限がなければ、当然、手元の金額が小さい方である確率は1/2です。

はい、私もそのように思います。考え直しました。
さきの投稿で、1/2だとして、系1から系3まで計算しなおしても、結果として得られる印象が異なりますので、封筒問題に取り組んでいるかたがたには、「どうして?」と聞いてみたくなります。



Re: トリック 投稿者:スターダスト 投稿日:2012年 2月13日(月)11時26分37秒 返信・引用

右のインド人さんへのお返事です。

おお!何か誤解が発生しているのかもしれません。
『さて、上は、冗談で書いています。でも、どこが本当でどこが嘘かを調べないといけないようです。』と私は書いております。


> スターダストさんへのお返事です。
>
> > 系1|x < y ( 2x = y )のとき|(x, 2x )|確率 2/3
> > 系2|x > y ( x = 2y )のとき|(x, x/2)|確率 1/3
> >
> > 系3| 平均   |( 4( x + y )/9, 5( x + y )/9 )|
> >
>
> > 系3| 平均   |(x, 3x/2 )|
> > となります。交換すると、手元の金額が3/2になりそうな気がします。
> >
> > 系3| 平均   |( y, y )|
> > となります。交換してもしなくても、同じ金額であるような気がします。
> >
>
> 系3がすべて同じ結果だとしたら、4( x + y )/9=x=y、5( x + y )/9 =3x/2=yが成立しないといけないのですが、計算するとx=y=0になります。x=y/2とx=2yを変な混ぜ方してるだけじゃないですか?

3通りの式変形を行っただけなので、「3通りの【系3】のどれもが正しいに違いない」
ところが、【平均操作によって】得られる印象は3通りでもってバラバラである、というのが私のトリックであり、そしてこれは冗談で書いているのです。
従いまして、右のインド人さんがおっしゃるところの「系3がすべて同じ結果だとしたら、(x=y=0になります)(矛盾が生じる)」ことは当然です。

さきの私の書き込みの真意は、「式変形を行っただけな」のに、結果として得られる印象が違う根源的な原因は何なのかについて問うものでした。

===

二封筒問題において、θ, 2θ の小切手が封筒の中にそれぞれ用意されており、選択をせまる、さて、その際に得られる褒章として、オリジナルの問題においては、最初に選択した封筒の中の小切手の金額の確率変数をx, もう片方の未開封の封筒の中の小切手の額面の確率変数をy とした際に、開封した以上、x には、a という観測された定数を割り振ることになります。a は確率変数ではありません。ここに二封筒問題の面白さがあるわけです。

さて、オリジナルの二封筒問題を改造しましょう。
最初に開封した封筒から出てきた小切手の額面 a をあなたが知ったとき、確率変数y との大小関係を問うのがオリジナルの問題でした。 改造の要点は、このa を、そのまま取得金額としての固定値にしないこととします。 たとえば・・・二つの封筒の小切手の額面のうち、封筒を交換するかしないかを決定した後に、最後に選んだ封筒の中の小切手の額面が、小さいほうの額面であるほうを選んだあなたには、賭けに負けたペナルティーとして、その小切手を没収するというルールを付加することとしましょう。以下の表で、→はペナルティーを意味しています。

ケース | 交換しない際の取得金額 | 交換した際の取得金額
( a < y )| a → 0        | 2a
( a > y )| a           | a/2 → 0

交換しない際の取得金額の期待値は、a/2
交換した際の取得金額の期待値は、 a

ちょっとみ、明らかに交換したほうが、取得金額の期待値が大きいように思えます。素人的な印象としては、交換すれば2倍になるやんけ!ということです。

そして、あなたが開封して観測した小切手の額面である a をもとに、交換しない際の取得金額の期待値を計算しなくてはいけません。

オリジナルの二封筒問題においては、計算をせずに、a を固定した値としてみていましたが、少々問題のパターンを変形すれば、a は取得金額の期待値の計算をするための基礎として使われるにとどまることがわかります。

こうしてみると、未開封のx のままで計算しているのか、開封して値を知った a をみての計算をしているのか、その結果の解釈はどうすればよいのか、じっくり考えてみたくなります。考えた結果をオリジナルの二封筒問題の解釈に反映してみたくもなります。


Re: トリック 投稿者:右のインド人 投稿日:2012年 2月10日(金)08時03分12秒 返信・引用

> No.3519[元記事へ]

スターダストさんへのお返事です。

> 系1|x < y ( 2x = y )のとき|(x, 2x )|確率 2/3
> 系2|x > y ( x = 2y )のとき|(x, x/2)|確率 1/3
>
> 系3| 平均   |( 4( x + y )/9, 5( x + y )/9 )|
>

> 系3| 平均   |(x, 3x/2 )|
> となります。交換すると、手元の金額が3/2になりそうな気がします。
>
> 系3| 平均   |( y, y )|
> となります。交換してもしなくても、同じ金額であるような気がします。
>

系3がすべて同じ結果だとしたら、4( x + y )/9=x=y、5( x + y )/9 =3x/2=yが成立しないといけないのですが、計算するとx=y=0になります。x=y/2とx=2yを変な混ぜ方してるだけじゃないですか?



そもそも期待値っていわずに、平均って言っているあたり、すでにご自分でもどこがおかしいか自覚してそうなんですが。


Re: トリック 投稿者:φ 投稿日:2012年 2月 5日(日)02時25分47秒 返信・引用

> No.3519[元記事へ]

スターダストさんへのお返事です。

ちょっと混乱しました。
今回は、Mは出てこないのですね。つまり、

今回の系1、系2は、http://8044.teacup.com/miurat/bbs/3509
・系1: M < a
・系2: a ≦ M
 とは違うのですね?

 しかしそうすると、

>
>x が小さいほうである確率は、すでにφさんがご指摘の通り 2/3 です。
>

という事実はないと思いますが……。
 私は、以前の系2について、b = 2a であるケースすなわち(x, 2x )である確率が2/3である、とは言いましたが……。

a ≦ M という制限がなければ、当然、手元の金額が小さい方である確率は1/2です。


トリック 投稿者:スターダスト 投稿日:2012年 2月 3日(金)13時56分16秒 返信・引用

封筒問題についてのトリックを思いつきました。

まず、未開封とします。

自分に与えられた封筒の金額をx, 残りをy とし、
これらを並べて、( x, y ) と書きます。
封筒を交換して得られる金額が、y ということですので、
( x, y )は、(交換しないままの金額, 交換したときの金額)という略記です。

x が小さいほうである確率は、すでにφさんがご指摘の通り 2/3 です。

系1|x < y ( 2x = y )のとき|(x, 2x )|確率 2/3
系2|x > y ( x = 2y )のとき|(x, x/2)|確率 1/3

上の表の、(x, 2x) や、(x/2, x)を、書き改めて、(x+y)についての表記に置換しましょう。

系1では、2x = y ですので、
x = 3x/3 = ( x + y )/3
2x = 2( x + y )/3

系2では、x = 2y ですので、
x = 3x/3 = ( 2y + 2x )/3 = 2( x + y )/3
x/2 = ( x + y )/3

上の式変形を行うと、

系1|x < y ( 2x = y )のとき|( ( x + y )/3, 2( x + y )/3 )|確率 2/3
系2|x > y ( x = 2y )のとき|( 2( x + y )/3, ( x + y )/3 )|確率 1/3

平均を考えると、
系3| 平均   |( 4( x + y )/9, 5( x + y )/9 )|

となります。交換すると、手元の金額が5/4になりそうな気がします。

===

ところが、
系1|x < y ( 2x = y )のとき|(x, 2x )|確率 2/3
系2|x > y ( x = 2y )のとき|(x, x/2)|確率 1/3

のまま、平均をとると、

系3| 平均   |(x, 3x/2 )|
となります。交換すると、手元の金額が3/2になりそうな気がします。

===

さらに、(x+y) や、x ではなく、y についての表記に置き換えると

系1|x < y ( 2x = y )のとき|( y/2, y )|確率 2/3
系2|x > y ( x = 2y )のとき|( 2y, y )|確率 1/3

とし、平均をとると、

系3| 平均   |( y, y )|
となります。交換してもしなくても、同じ金額であるような気がします。

※ (y/2)*(2/3) + 2y*(1/3) = y


■どれが、真相を表しているのでしょう?

===

また、上は、未開封を前提にしていましたが、唯一設定開封済みの場合には、


系1|a < y ( 2a = y )のとき|(a, 2a )|確率 2/3
系2|a > y ( a = 2y )のとき|(a, a/2)|確率 1/3

のまま、平均をとると、

系3| 平均   |(a, 3a/2 )|

となりそうです。交換すると【1.5倍に増えそう】です。

1.25倍になるのだとばかり思っていましたが、どこか変でしょうか?

===
さて、上は、冗談で書いています。でも、どこが本当でどこが嘘かを調べないといけないようです。


Re: 右のインド人氏へ 1 投稿者:右のインド人 投稿日:2012年 2月 1日(水)16時22分30秒 返信・引用

> No.3516[元記事へ]

スターダストさんへのお返事です。

> わかりました。お返事に時間がかかりまして申し訳ないです。通貨γで書かれた小切手の額面が最大Mだったときに、通貨円で書かれた同等の価値を持つ小切手の額面が最大1である、としても問題の構造に変化はありませんね。確かに。 通貨単位を変更することで、額面が小さいほうの小切手の予算上限を1にできる、よくわかりました。 右のインド人さまは、二枚の小切手の額面の総額を1に標準化しているのかもしれませんが、本質はかわらないですね。

そうですね。標準化、正規化、コトバはなんでもいいのでしょうが、なるべく変数を減らしたい願望がありますので、そうしただけです。まぁ俺のしたことは結果を見て、変数を減らしているので、後出しじゃんけん的な卑怯さはあったと思います。そこでご迷惑をおかけしました。いや、本当に。

ただ、開封バージョンにおいては、予算の上限は確認した封筒の金額に依存してもいいのかなと思います。つまり、下でスターダストさんがaと名づけられたものを使うとf(a)
aもまた(0,B)からランダムにチョイスされたものとして、bを計算しましょう。
計算するためにはBの場合わけを行う必要があります。
(3/2)a (3/2)a 3a
よって、b=(1/2)a*p+(1-p)/2*(1/2)a+(1-p)/2*2a=(5/4)(1-p)*a

おぉ、みんな大好き5/4が出てきました。
ただ、pというのも天下り的過ぎるので、もっとわかりやすい変数に置き換えます。

ここで、3より大きな数tを持ってきて、B=taとしますと、pを排除できます。その結果は、b=(5/4)*(2t/2t-3)*aです。
ただし、tが3/2と3の間に落ちるときは、b=(1/2)*aです。
このとき、tはプレイヤーが勝手に推測した(確率論以外のことから推測した)胴元の予算です。

何がやりたかったかといいますと、上限を無限大に飛ばさないようなうまいやり方はないものかというスターダストさんのお題に答えたかっただけです。しかし、場合わけが残ってしまうのが残念ですねー。これを期待値計算に取り込もうとするとやはり無限大が首をもたげますので。

何が気に入らないって、場合わけもそうですが、答えとしてスッキリしてませんよね。
やり方が間違ってるのいか、下手なのかわかりませんが、センスのある方に採点していただきたいですわ。


> Mの存在がない、小切手の金額に上限を設定しない、ということですと、全定義域で可積な確率密度関数を、封筒問題への直観にみあう形で作成することは難しい、事実上不可能、ということは、今までも繰り返し発言してきたことですので、これ以上は申し上げますまい。
ここへの返答して、上の答えを作ってみました。議論のたたき台になればいいのですが。

> > お恥ずかしいのですが、確率論の高等教育はまったく受けてません。
> > ルベーグ積分だってまともに勉強したことがないし、物理学なんて古典力学・解析力学しか・・・。
>
> そんなことを恥じる必要はありません。 今から勉強すればいいだけです。 もしくは、詳しい方からのアドバイスを学べばよいだけです。
> 解析力学まで学んでいれば、それに付け加えて論理的に説明する能力さえあれば、上記の勉強は実行可能であると思われます。具体的な物理系でハミルトニアンやラグランジアンの設定・理解・計算ができるのであれば、かなりのものだと思います。 だいたい、多くの物理屋さんにとっても、確率論に必要なルベーグ積分なんてほとんど頭になくて、事実上、リーマン積分のイメージくらいしかもっていないと思いますよ。物理屋さんに失礼かもしれませんが。

基本、俺の勉強方法はたとえるなら筋トレなので、他人に説明とかできませんよ。あれを中学性に説明は・・・とてもとても。
まぁ幸い、時間には余裕があるので勉強はやってみようかなと思います。金銭につながらない勉強がしてみたいので。


Re: 試論:有界タイプの二封筒問題 投稿者:スターダスト 投稿日:2012年 1月31日(火)12時57分48秒 返信・引用

> No.3514[元記事へ]

φさんへのお返事です。

> モンテカルロさんへのお返事です。
>
> > スターダスト氏の方法では、封筒を開けたときの金額aの確率が
> > aがM以下の場合と、aがMより大きい場合で異なることになる。
> > 前者の確率は後者の2倍だろう。つまり、
> >
> > 2/3*(2a*1/2+a/2*1/2)+1/3*(a/2)=5a/6+a/6=a
> >
>
>  ↑
>  この計算の意味がどうも分かりませんね。
>

これは、モンテカルロさんが、【わざと】 私の誤謬をそのまま引き継いで書いていあるのであって、「スターダスト氏の方法では」と但し書きをしているのです。

ただ、モンテカルロさんは、【わざと】Mを発散させた場合の挙動を示していて、5/4*a という値を示しています。こちらについては、私は、何も書きませんでしたが、先日の投稿時に頭の中にはありました。

私としても有界と非有界との対比としては、考えておくべきことだったのですが、そもそも勘違いをしておりましたので、これ以上は何もできません。


Re: 右のインド人氏へ 1 投稿者:スターダスト 投稿日:2012年 1月31日(火)12時49分11秒 返信・引用

> No.3511[元記事へ]

右のインド人さんへのお返事です。

> 知ってる知ってないではなく、プレイヤーが勝手に想定できるできないで話を進めていました。
> プレイヤーは胴元の予算を知るすべはないのですから、勝手に想定して計算するしかないということです。
> 勝手に想定できる以上、それを1にしても一般性を有するか否かという問題を考えていました。
> 問題で比しか与えられていないのだから、一番大きいであろう数を1にしても構わないので(つまり、フリーフケールなので?)、予算を1にしたまでです。
> 俺的には、最も大きい数を1とおいているのだから、それより大きい数は議論の対象外なのです。


わかりました。お返事に時間がかかりまして申し訳ないです。通貨γで書かれた小切手の額面が最大Mだったときに、通貨円で書かれた同等の価値を持つ小切手の額面が最大1である、としても問題の構造に変化はありませんね。確かに。 通貨単位を変更することで、額面が小さいほうの小切手の予算上限を1にできる、よくわかりました。 右のインド人さまは、二枚の小切手の額面の総額を1に標準化しているのかもしれませんが、本質はかわらないですね。

===

>しかし、開封バージョンでは、そのM=1の議論に対応できていないといことをお話したかったのでした。
> 開封バージョンでM=1仮定を採用することと、開封バージョンでM=1仮定を採用すること。
> これらは結論に大きな違いを生む。
> よって、未開封バージョンと開封バージョンでは、問題の構造が異なる。


開封バージョンと未開封バージョンとでは、問題の構造がかわることは、この掲示板では大きく認められているところであると思います。ご指摘に不審な点はありません。


> > > > > とはいえ、封筒をあらためてしまえば、実測値x1をもとにして標本が{2*x1,x1/2}と変化するので、そもそもMを考える必要がなくなります。

なんとなくおっしゃりたいことはわかります。2*x1,x1/2が、等確率で発生するかどうかは、また後ほど。スケールフリーであるという視点では、Mの存在価値はないようにみえますし、しかし、M(同じことですが上限が1と…)が存在した時には、そのへんの教科書にのっているような普通の確率計算に乗っかってくるのですね。これが大きいのです。
Mの存在がない、小切手の金額に上限を設定しない、ということですと、全定義域で可積な確率密度関数を、封筒問題への直観にみあう形で作成することは難しい、事実上不可能、ということは、今までも繰り返し発言してきたことですので、これ以上は申し上げますまい。

> > > > > 無理をなくそうとすると、「未開封バージョンと開封バージョンは実は似ても似つかない問題だった」とかになるのかな。ぶっちゃけ、俺はこっちのほうが自然と思います。


>
> お恥ずかしいのですが、確率論の高等教育はまったく受けてません。
> ルベーグ積分だってまともに勉強したことがないし、物理学なんて古典力学・解析力学しか・・・。

そんなことを恥じる必要はありません。 今から勉強すればいいだけです。 もしくは、詳しい方からのアドバイスを学べばよいだけです。
解析力学まで学んでいれば、それに付け加えて論理的に説明する能力さえあれば、上記の勉強は実行可能であると思われます。具体的な物理系でハミルトニアンやラグランジアンの設定・理解・計算ができるのであれば、かなりのものだと思います。 だいたい、多くの物理屋さんにとっても、確率論に必要なルベーグ積分なんてほとんど頭になくて、事実上、リーマン積分のイメージくらいしかもっていないと思いますよ。物理屋さんに失礼かもしれませんが。

> 誰か経済学者がそこそこ数式を使った本を書いてくれることを祈るだけです。できれば、俺が生きてる間に。

なぜ経済学だけにしぼるのかと、思いますが、個人個人の思いですから、反対はしません


試論:有界タイプの二封筒問題 投稿者:スターダスト 投稿日:2012年 1月30日(月)13時26分25秒 返信・引用

φ様、モンテカルロ様。
おかげをもちまして、私の誤謬を認識できました。ありがとうございます。

以下、後で見直す時のための自分のためのメモです。すみません。
memo:
(1/6)*2 + (1/2)*(3/2) + (1/3)*(1/2) = 5/4
1/6の確率で2倍になり、1/2の確率で1.5倍になり、1/3の確率で0.5倍になる云々。


Re: 試論:有界タイプの二封筒問題 投稿者:φ 投稿日:2012年 1月29日(日)21時47分36秒 返信・引用

> No.3512[元記事へ]

モンテカルロさんへのお返事です。

> スターダスト氏の方法では、封筒を開けたときの金額aの確率が
> aがM以下の場合と、aがMより大きい場合で異なることになる。
> 前者の確率は後者の2倍だろう。つまり、
>
> 2/3*(2a*1/2+a/2*1/2)+1/3*(a/2)=5a/6+a/6=a
>

 ↑
 この計算の意味がどうも分かりませんね。

 開封して目にした金額がM(未知)以下の確率は、M以上の確率の2倍というのは変です。3倍のはずです。

 それから、M以下に落ちるaについて、b=2aの場合とb=a/2の場合が半々としているようですが、明らかに前者が後者の2倍あります。

 よって、正しい計算は次のようになるでしょう。

 3/4*(2a*2/3+a/2*1/3)+1/4*(a/2)=5a/4

 http://8044.teacup.com/miurat/bbs/3510とは場合分けの仕方が異なりますが、結果は同じです。

 Mで表わすならともかく、aで表わしている限り、有界であっても唯一設定の期待値は5a/4にならざるを得ないでしょう。


Re: 右のインド人氏へ 1 投稿者:モンテカルロ 投稿日:2012年 1月28日(土)23時23分32秒 返信・引用

> No.3511[元記事へ]

右のインド人さんへのお返事です。

> 俺的には、・・・

こんな日本語は存在しない。

正しい日本語は「俺としては」

> 俺の意見が支離滅裂だから

論理がないなら、まず論理を考えろ。

>文書作成スキルがひどいので・・・

スキル以前に、そもそも論理がないから文章が書けないのだ。

頭が悪いというのは、論理がないということだ。

人間なら、まず論理を考えろ。

猿ではないというのなら。


Re: 試論:有界タイプの二封筒問題 投稿者:モンテカルロ 投稿日:2012年 1月28日(土)23時11分54秒 返信・引用

> No.3509[元記事へ]

スターダスト氏の方法では、封筒を開けたときの金額aの確率が
aがM以下の場合と、aがMより大きい場合で異なることになる。
前者の確率は後者の2倍だろう。つまり、

2/3*(2a*1/2+a/2*1/2)+1/3*(a/2)=5a/6+a/6=a

で、Mが無限大の場合、aがMより大きい場合はないから

1*(2a/2+a/(2*2))+0*(a/2)=5a/4+0=5a/4


Re: 右のインド人氏へ 1 投稿者:右のインド人 投稿日:2012年 1月28日(土)03時14分57秒 返信・引用

> No.3508[元記事へ]

スターダストさんへのお返事です。

>> M=1 であることをプレイヤーが知っているとするなばら、仰るとおりです。 そして、そのことは、確かすでに私も申し上げたはずですので、M=1がプレイヤーにとって既知でという条件のもと、同意させていただきます。
> しかし、M=1 という具体的な値をプレイヤーが知らない、プレイヤーが知っているのは、Mの存在だけである、ホストはM=1であることを知っている、こうした状況では、M=1仮定は当然のことながら、使えます。 これは1に限らず、Mの具体的な値をプレイヤーが知らなければ良いですね。

知ってる知ってないではなく、プレイヤーが勝手に想定できるできないで話を進めていました。
プレイヤーは胴元の予算を知るすべはないのですから、勝手に想定して計算するしかないということです。

> なぜ、右のインド人様が、Mの具体的な値をプレイヤーが知っているという設定を付加したいのか、理解できません。Mについて既知の設定でのみ、「M=1仮定は使えない」というご発想になられるのでしょう?私はなにか誤解していますか?
勝手に想定できる以上、それを1にしても一般性を有するか否かという問題を考えていました。
問題で比しか与えられていないのだから、一番大きいであろう数を1にしても構わないので(つまり、フリーフケールなので?)、予算を1にしたまでです。しかし、開封バージョンでは、そのM=1の議論に対応できていないといことをお話したかったのでした。

> このあたり、理解できません。
> プレイヤーがMの具体的な値を知らない設定であって、かつ、Mについて、自由にいろいろな値を想定すること、これがなぜいけないのか・・・理解しかねます。 「M=1仮定が使えない」と右のインド人さんはおっしゃいました。右のインド人さまのお言葉をそのまま借りれば、その理由は「封筒をあらためて、xが1/2の値と判明したとき、プレイヤーは交換しないという選択をするという意味で」「使えない」とおっしゃいます。別にいいじゃありませんか。 未知のMについてさまざまなバリエーションで想定し、それらをタイプ別に場合わけして、それぞれの場合で、交換したほうが得か否かを考えてみる、これらの思考は特に禁じられているわけでもないでしょう?

俺的には、最も大きい数を1とおいているのだから、それより大きい数は議論の対象外なのです。

> > > > とはいえ、封筒をあらためてしまえば、実測値x1をもとにして標本が{2*x1,x1/2}と変化するので、そもそもMを考える必要がなくなります。
>
> なぜでしょうか? さきに右のインド人さんは、特定のMの値について引き合いに出し、「開封バージョンでM=1仮定は使えません。まぁ当然ですよね。」「これはかなり不自然というか、題意に外れてると思いましたので」とおっしゃっている。
> A:特定のMについて「不自然・題意にそぐわない」、そのほかでは「題意にそぐう場合もある」
> B:特定のMについて「不自然・題意にそぐわない」、そのほかでも「不自然・題意にそぐわない」
> 右のインド人さんは、AとBとのどちらのご意見なのでしょう?
> Bを御主張なさっているのだとしても、私が理解不足なのかどうか…その理由を明示されていらっしゃらないので、しょうしょう首をかしげます。 また、Aを御主張なさっているのであれば、Mの値によって取り扱いが異なる現象が発生しているのであって、であるならば、Mのそれぞれのケースについて分析がなされるべきであり、「そもそもMを考える必要がなくなります。」という発想は出てこないはずです。
> 議論の進め方として…不思議です。
以上の記述でわかっていただけたと思いますが、わかっていただけないのでしたら再度書きます。
いえ、俺の意見が支離滅裂だから変わらないのも当然かもという恐怖はもちろんありますが。


> > 俺としては、「開封バージョンってMを仮定しての一様分布って不自然」という発想です。
>
> その不自然さを、ご説明なさっていないと思われますが、いかがでしょうか?
>
>
> > だから、事前分布を考えていないのです
>
> Mを導入しようがしまいが、事前分布を考えない確率になんの意味がありましょうや!
> …そのまえに、おっしゃるところの「だから、事前分布を」の「だから」という接続が、私にはわかりませんでした。
>
> > それだから、「未開封バージョンと開封バージョンは実は似ても似つかない問題だった」という発想に流されているのです。
>
> ここでも「それだから」の接続の意味がわかりません。

開封バージョンでM=1仮定を採用することと、開封バージョンでM=1仮定を採用すること。
これらは結論に大きな違いを生む。
よって、未開封バージョンと開封バージョンでは、問題の構造が異なる。

これでご理解いただけるんだろうか・・・。

> > > > 無理をなくそうとすると、「未開封バージョンと開封バージョンは実は似ても似つかない問題だった」とかになるのかな。ぶっちゃけ、俺はこっちのほうが自然と思います。
>
>
> そうですか。その感覚は尊重しますし、無闇に否定もいたしません。 しかし、せっかく御登校なさっているのですから、私にとっても、そして、この掲示板の読者にとっても、わかりやすいように「何がどう自然なのか」、できましたらご解説いただけると、本当にありがたいです。

こちらも文書作成スキルがひどいのでご苦労おかけします。
謙遜の意味はまったくありません、事実ですから。

> 以下、蛇足返しです。
> 量子測定の精密な実験では、粒子の存在についての「負の確率」という概念でもないと、どうにも理解しがたい現象があらわれているらしいです。かつて『日経サイエンス』で記事になっていました。これなどは、確率論の公理に適合しませんので、物理学者はなんらかの別な理解の手段をこうじなければいけません。こういうのは本当にスリリングで面白いですよね。
> ただ、唯一設定・反復設定の議論によって新しい確率論の公理が誕生することは、まずは、ないことでしょう。
> 一方、超限解析(ノンスタンダードアナリシス)による確率論の発展や、実数のかわりに量子実数(小澤正直先生)をもちいた確率解析などが発展したら面白いかもと、素人なりに楽しみにしています。
> ファインマンの経路積分(これも確率がらみ)は、まだ、数学的に定式化がすんでいませんですしね。

お恥ずかしいのですが、確率論の高等教育はまったく受けてません。
ルベーグ積分だってまともに勉強したことがないし、物理学なんて古典力学・解析力学しか・・・。
誰か経済学者がそこそこ数式を使った本を書いてくれることを祈るだけです。できれば、俺が生きてる間に。


Re: 試論:有界タイプの二封筒問題 投稿者:φ 投稿日:2012年 1月26日(木)21時16分35秒 返信・引用

スターダストさんへのお返事です。


 唯一設定と反復設定の区別についてですね。

 それはもう、真正の区別であると私は考えています。

 さて、
 系1の b = a/2 のケース、系2の b = a/2 のケース、系2の b = 2a のケースがそれぞれ確率1/3ということですが、それは違うのではないでしょうか?

 系1はすべて、取らなかった方の封筒をもし取っていれば、系2の b = 2a のケースになったわけですが、系2の b = 2a のケースというのはそれだけではありません。系2の b = a/2 のケースにおいて、取らなかった方の封筒をもし取っていれば出現したケースのすべてをも含んでいます。

 つまり、系2の b = 2a のケースは、系1の b = a/2 のケース、系2の b = a/2 のケースの両方を合わせた頻度と同頻度であるわけです。それぞれの確率は、1/2, 1/4, 1/4となります。

 よって、計算はこうなるべきでしょう。

 1/4*a/2+1/4*a/2+1/2*2a=5a/4

 これは、Mだけでなくaも定数ですから、唯一設定での計算ですね。
 期待値計算のシミュレーションは同一のaについてなされますから、計算通り、期待値は5a/4となります。

 反復設定では、Mは定数であっても、aはそのつど異なります。したがって、交換で得をする場合と損をする場合とでは、それぞれ初期金額のバイアスのために、期待値はプラスマイナスゼロとなります。つまり、最初に手元に来た金額が「得」であった場合に「損」をし、「損」であった場合に「得」をします。得失が相殺して、期待値はプラスマイナスゼロとなります。
 反復設定の場合、あたかもaが定数であるかのように「期待値5a/4」という答えを出すのは、表記に惑わされた誤謬です。試行ごとにaが異なるので、5a/4は無意味な表記です。

 aが本当に定数である唯一設定の場合は「期待値5a/4」が実質を持つわけですが。
 

試論:有界タイプの二封筒問題 投稿者:スターダスト 投稿日:2012年 1月25日(水)16時49分4秒 返信・引用

有界タイプの二封筒問題を理解したいと思います。
ここでは、有界タイプを、以下のようにとらえます。

1:ふたつの封筒を作成するホストには、予算上の上限を設ける。この金額をBとする。 また、M = B/3 とする。ゲストは、BやMの存在は知っているものの、その具体的な値を知らないものとする。

2:ふたつの封筒の中の小切手の金額のうち、額面の小さいほうをθ、大きいほうをτとし、0 < θ + τ ≦ B 、 2θ = τ、とする。 θ、τともに実数と考えておく。

3:ホストは、θを、次のように生成する。 すなわち、(0, M] に一様分布する確率変数からサンプルをひとつ取り、これをθとする。

4:τは、θによって、作成される。

5: θ、τの金額をそれぞれ小切手に書き、区別のつかない封筒に封入する。

6:ゲストは、ふたつの封筒のうちひとつを任意にランダムにとり、開封し、その金額の具体的な値を知る。 この金額を a と名付ける。

7: もうかたほうの未開封の封筒の中身の小切手の金額の期待値を、b と名づける。 b と、a との大小関係を論じる。

===
以上で、私が考えるところの有界タイプの二封筒問題について書きました。
===

さて、結論から申し上げますと、 a = b が言えると思われるのです。

※説明するために図解を作成しましたので、以下のURLを、ご参照ください。
http://html.slidesharecdn.com/futo1-120125004634-phpapp01/output001.png

図では、a と M との関連において、ふたつの場合分けを図示しています。

・系1: M < a
・系2: a ≦ M

ゲストは、M について具体的な値を知らないことに留意します。ゲストにとって、a の値を知った段階で、自分が、系1の場合のaを取得したのか、あるいは、系2の場合のaを取得したのかについて、特定できません。したがいまして、両方の可能性について、考え合わせなければいけません。

系1では、2M < 2a となってしまいますが、2a の金額が書かれた小切手は、そもそも生成されていませんので、b = a/2 と考えることとなります。

系2では、b = a/2, b = 2a の両方の可能性があります。

ここで、系1の b = a/2 のケースと、系2の b = a/2 のケース、系2の b = 2a のケースは、同じ重みをもっています。

なんとなれば、系2において、(a, a/2) と、(a, 2a) との小切手の組み合わせは、同頻度に発生しているのであって、さらに、系1の (a, a/2)と、系2の(a, a/2)との小切手の組み合わせもまた、同頻度に発生しているからです。

よって、b の期待値を計算するならば、
1/3 * ( a/2 + a/2 + 2a ) = 1/3 * 3a = a
となります。
以上で、a = b が言えたこととなります。

===

系1の (a, a/2)と、系2の(a, a/2)とが同頻度で発生しているという言明が自明ではないかもしれません。
a/2 という数値が、(0 , M/2] におちるか、 (M/2, M] におちるかについては、小切手作成時に一様分布を仮定していましたので、確率が等しいと考えられます。

===

ここまでのまとめ。
予算があるが、ゲストにはその値が知らされない設定の二封筒問題を考えますと、開封した封筒の金額a と、未開封の封筒の金額の期待値b とは等しいと考えられます。

===

上の結論は、φさんがおっしゃるところの、唯一設定でも反復設定でも、結論が同じになることと思われます。 すなわち、有界型の二封筒問題では、唯一設定と反復設定との区別が出てきていません。

予算が有界ではないホスト(つまり全能の神のような人を超えたホスト)であると、上のような結論は出せません。 系Ⅰと系Ⅱの区別が失われ、系1の (a, 2a)の小切手の組み合わせを意識しなければならないからです。予算が有界出ない場合に、どのように確率密度や累積分布を作れば良いのか適切な方法がみつかりませんので、これ以上、踏み込んだことはわかりません。


Re: 右のインド人氏へ 1 投稿者:スターダスト 投稿日:2012年 1月23日(月)12時53分2秒 返信・引用

> No.3507[元記事へ]

右のインド人さんへのお返事です。

いろいろとコメントをありがとうございます。
気になった部分だけ応答させてください。
>
> ここらへんは単に計算方法の違いというだけと思います。

了解しました。
> > > 開封バージョンでM=1仮定は使えません。まぁ当然ですよね。
> 使えないというのは、封筒をあらためて、xが1/2の値と判明したとき、プレイヤーは交換しないという選択をするという意味でした。

M=1 であることをプレイヤーが知っているとするなばら、仰るとおりです。 そして、そのことは、確かすでに私も申し上げたはずですので、M=1がプレイヤーにとって既知でという条件のもと、同意させていただきます。
しかし、M=1 という具体的な値をプレイヤーが知らない、プレイヤーが知っているのは、Mの存在だけである、ホストはM=1であることを知っている、こうした状況では、M=1仮定は当然のことながら、使えます。 これは1に限らず、Mの具体的な値をプレイヤーが知らなければ良いですね。


これはかなり不自然というか、題意に外れてると思いましたので、「M=1仮定は使えない」と言ったのでした。

なぜ、右のインド人様が、Mの具体的な値をプレイヤーが知っているという設定を付加したいのか、理解できません。Mについて既知の設定でのみ、「M=1仮定は使えない」というご発想になられるのでしょう?私はなにか誤解していますか?


> 先の対比で言えば、開封バージョンではプレイヤーはMの値を自由に設定できない、ということです。

このあたり、理解できません。
プレイヤーがMの具体的な値を知らない設定であって、かつ、Mについて、自由にいろいろな値を想定すること、これがなぜいけないのか・・・理解しかねます。 「M=1仮定が使えない」と右のインド人さんはおっしゃいました。右のインド人さまのお言葉をそのまま借りれば、その理由は「封筒をあらためて、xが1/2の値と判明したとき、プレイヤーは交換しないという選択をするという意味で」「使えない」とおっしゃいます。別にいいじゃありませんか。 未知のMについてさまざまなバリエーションで想定し、それらをタイプ別に場合わけして、それぞれの場合で、交換したほうが得か否かを考えてみる、これらの思考は特に禁じられているわけでもないでしょう?

> > > とはいえ、封筒をあらためてしまえば、実測値x1をもとにして標本が{2*x1,x1/2}と変化するので、そもそもMを考える必要がなくなります。

なぜでしょうか? さきに右のインド人さんは、特定のMの値について引き合いに出し、「開封バージョンでM=1仮定は使えません。まぁ当然ですよね。」「これはかなり不自然というか、題意に外れてると思いましたので」とおっしゃっている。
A:特定のMについて「不自然・題意にそぐわない」、そのほかでは「題意にそぐう場合もある」
B:特定のMについて「不自然・題意にそぐわない」、そのほかでも「不自然・題意にそぐわない」
右のインド人さんは、AとBとのどちらのご意見なのでしょう?
Bを御主張なさっているのだとしても、私が理解不足なのかどうか…その理由を明示されていらっしゃらないので、しょうしょう首をかしげます。 また、Aを御主張なさっているのであれば、Mの値によって取り扱いが異なる現象が発生しているのであって、であるならば、Mのそれぞれのケースについて分析がなされるべきであり、「そもそもMを考える必要がなくなります。」という発想は出てこないはずです。
議論の進め方として…不思議です。
>
> 俺としては、「開封バージョンってMを仮定しての一様分布って不自然」という発想です。

その不自然さを、ご説明なさっていないと思われますが、いかがでしょうか?


> だから、事前分布を考えていないのです

Mを導入しようがしまいが、事前分布を考えない確率になんの意味がありましょうや!
…そのまえに、おっしゃるところの「だから、事前分布を」の「だから」という接続が、私にはわかりませんでした。

> それだから、「未開封バージョンと開封バージョンは実は似ても似つかない問題だった」という発想に流されているのです。

ここでも「それだから」の接続の意味がわかりません。


> > > 無理をなくそうとすると、「未開封バージョンと開封バージョンは実は似ても似つかない問題だった」とかになるのかな。ぶっちゃけ、俺はこっちのほうが自然と思います。


そうですか。その感覚は尊重しますし、無闇に否定もいたしません。 しかし、せっかく御登校なさっているのですから、私にとっても、そして、この掲示板の読者にとっても、わかりやすいように「何がどう自然なのか」、できましたらご解説いただけると、本当にありがたいです。

>
> <蛇足>
> 今の俺の興味は、唯一設定と反復設定は確率論の内部でできる議論か、外部での議論なのかということです。希望としては、「唯一設定・反復設定は確率論の外部での議論で、この議論によって確率の新しい解釈が生まれる」ですか。
> 確率の新しい解釈の場に立ち会えるとか、マジ面白いじゃないですか。

以下、蛇足返しです。
量子測定の精密な実験では、粒子の存在についての「負の確率」という概念でもないと、どうにも理解しがたい現象があらわれているらしいです。かつて『日経サイエンス』で記事になっていました。これなどは、確率論の公理に適合しませんので、物理学者はなんらかの別な理解の手段をこうじなければいけません。こういうのは本当にスリリングで面白いですよね。
ただ、唯一設定・反復設定の議論によって新しい確率論の公理が誕生することは、まずは、ないことでしょう。
一方、超限解析(ノンスタンダードアナリシス)による確率論の発展や、実数のかわりに量子実数(小澤正直先生)をもちいた確率解析などが発展したら面白いかもと、素人なりに楽しみにしています。
ファインマンの経路積分(これも確率がらみ)は、まだ、数学的に定式化がすんでいませんですしね。


Re: 右のインド人氏へ 1 投稿者:右のインド人 投稿日:2012年 1月22日(日)16時14分33秒 返信・引用

> No.3505[元記事へ]

スターダストさんへのお返事です。

> M=1 をプレイヤーが知っていてよいのか知らないこととするのか、右のインド人さまの意図をはかりかねますが、従前からの流れに添いまして、プレイヤーが知らないものとしましょう。

未開封バージョンにおいて、一様分布を仮定すると、プレイヤーはMの値を自由に取っていいということを言いたかった。期待値計算はプレイヤーがすることですからね。
要するに、


> それとは別に。ええと…ひょっとしたら私が過去に書き間違っていたのかどうか確認すべきなのでしょうけれども… 私の場合、ふたつある封筒の小切手のうち金額の小さいほうの額面θが、0 ≦ θ < M なる区間の一様分布からえられるサンプルであると考えていましたので、仮にM=1と具体的な値を定めたとして、下記のことは言えません。
> x と y とは 区間(0,1)に落ちるものとする
> 金額の大きいほうτは、 0 ≦ τ < 2M に落ちますので。

ここらへんは単に計算方法の違いというだけと思います。
俺はx,yに同じ制約を課して、1/2以上以下で場合わけをしました。
スターダストさんの解法も理解はしているはずですが、どうも自分の最初に思いついた設定じゃないと計算する気にならんので。ややこしくて、すみません。


> > 開封バージョンでM=1仮定は使えません。まぁ当然ですよね。
>
> 何か誤解があるのでは? あらかじめMが定められ、【たとえていえばホストの懐具合によりゲームに先立って予算が決まっていたのであるから】、そのホストがたまたま、M=1 にしようと思い立っただけのこと。 ゲームは開始できますし、開封もなされましょう。

使えないというのは、封筒をあらためて、xが1/2の値と判明したとき、プレイヤーは交換しないという選択をするという意味でした。これはかなり不自然というか、題意に外れてると思いましたので、「M=1仮定は使えない」と言ったのでした。
先の対比で言えば、開封バージョンではプレイヤーはMの値を自由に設定できない、ということです。
>
> > とはいえ、封筒をあらためてしまえば、実測値x1をもとにして標本が{2*x1,x1/2}と変化するので、そもそもMを考える必要がなくなります。
>
> 私見ですが、ここに最大の誤謬があるはず、と狙いをつけるべきことかと思われてなりません。Mが存在しているときと、Mが存在しないときでは、実測値x1 をもとにして、もうかたほうの封筒の金額を推計するときの様子は異なってもよい筈です。 もしも同じであると結論をもっていきたいのであれば、その根拠を示すべきです。 (但し、私はまだ、肯定にも否定にも成功していません)
> > いずれにせよ、Mの仮定、あるいは一様分布の仮定に何かしらの無理はありそうです。
>
> あらかじめ定められるMの存在を否定する限り、開封後得られるサンプルが、一様分布からとられたものであるという主張はきわめて難しい、(無限区間での一様分では確率密度の全区間での積分が発散する)、この意味では、無理があると思います。 逆に、題意から見て不自然であるかもしれないけれども、別の分布の確率密度関数を定義すれば、Mの存在をあてにしなくとも、確率計算は遂行できます。
> 私が主張したいのは、一様分布を採用するのであるならば、無限区間での積分は実行不可能であるということがらです。

勝手な推測ですが、「十分に大きなM」とかいうヤツを仮定すればいいのかもしれません。でも、それもなんだかシックリこないので。つまり、不自然な仮定としか思えないので。一様分布以外でナチュラルな分布ってないんですかね。

俺としては、「開封バージョンってMを仮定しての一様分布って不自然」という発想です。だから、事前分布を考えていないのです。それだから、「未開封バージョンと開封バージョンは実は似ても似つかない問題だった」という発想に流されているのです。


> > 無理をなくそうとすると、「未開封バージョンと開封バージョンは実は似ても似つかない問題だった」とかになるのかな。ぶっちゃけ、俺はこっちのほうが自然と思います。
>
> 後で立論方法がまとまったときには、次のようなことがいえるといいなぁと思いまして、日々考えています。
>
> あらかじめ定められたMの存在を仮定し、そのMの存在ついてプレイヤーが知っており、かつ、Mの具体的な値を知らないという設定を、封筒問題に付加するものとします。小切手の金額の作成には一様分布を仮定します。このとき、次のことがいえることでしょう。すなわち。
>
> 1:封筒を交換するべきか、はたまた、交換せざるべきかについて、開封しても新たな情報を得られない。( 開封バージョンと未開封バージョンとでは、封筒選択の結論が同一である。)
>
> 2:封筒を交換してもしなくても、得られる報償は同じである。
>
> 3:唯一設定でも反復設定でも結論はまったく変わらない
>
> > 「未開封バージョンと開封バージョンは実は似ても似つかない問題だった」とすると、今度は反復設定唯一設定との兼ね合いがどうなるのかしらん。今はこういう話題がホットのはずですが。
>
> 上の私の3つが示せればと念願しています。

俺の直感とはかなり異なりますね。

<蛇足>
今の俺の興味は、唯一設定と反復設定は確率論の内部でできる議論か、外部での議論なのかということです。希望としては、「唯一設定・反復設定は確率論の外部での議論で、この議論によって確率の新しい解釈が生まれる」ですか。
確率の新しい解釈の場に立ち会えるとか、マジ面白いじゃないですか。


Re: 質問が混んで申し訳ありませんが 投稿者:スターダスト 投稿日:2012年 1月22日(日)15時17分17秒 返信・引用

φさんへのお返事です。

どうも、次の記事にあるφさんによる御回答を誤解して、『観測選択効果の有無と、唯一設定・反復設定の区別とを連動させている』状況にあったものと思います。

http://8044.teacup.com/miurat/bbs/1969

ご教示をありがとうございました。

余談ながら、封筒問題における「唯一試行ルールでの期待値計算のシミュレーションとしての無限反復」をコンピュータ上で実施するのに適切なアルゴリズムはなんだろうか…という問いに頭をかかえております。「なんで頭を抱えなくてはいけないのだ、自明だろう?」と思われてもいたしかたありませんが。

>  「確率ゼロのところが可能か不可能かの違いによって、確率的な予測が異なるべきである場合」とはどういうものであるかは、もう少し後で述べようと思います(これは、唯一設定でも反復設定でもともに成り立ちます)

確率密度関数f(x)が連続である点xにおいては、確率ゼロのところは無視してかまわないですよね。xにおいて不連続である場合、そこに単位インパルス関数といいますかディラックの超関数の、その定数倍が確率密度関数として存在していてもいいわけで、そのときには、確率ゼロでも考慮すべきなのかもしれません。 すみません、いいかげんなこと申し上げていますが。ただ、封筒問題では、ディラックの超関数の顔が出ることはないでしょう。

以上です。

> スターダストさんへのお返事です。
>
> >
> > φさんwrote:>確率ゼロのところが可能か不可能かの違いによって確率分布および期待値に違いは生じないにもかかわらず、確率ゼロの事象が可能とされるか不可能とされるかによって合理的判断(確率的な予測など)が異なるべきだ、と言ったのです。
> >
> > これは、唯一設定を考えているからでしょうか?
> > 唯一設定を受け入れない者にとって、
> > 「確率ゼロのところが可能か不可能かの違いによって確率分布および期待値に違いは生じない」
> > ならば、
> > 「合理的判断(確率的な予測など)」は同一でしょうから。
> >
>
>
>  「唯一設定を受け入れない」などという立場が成り立ちうるんでしょうか?
>  唯一設定と反復設定の区別がわからないという人は、唯一試行ルールでの期待値計算のシミュレーションとしての無限反復と、反復ルールの中でなされる反復(シミュレーションではなくゲームそのものの実践)とを混同しているのでしょう。
>
>
> >
> > TTTさんや、モンテカルロさんは、そもそも、唯一設定と反復設定との区別をすることは不合理だ。とお考えのようですし。水掛け論にみえる原因のひとつは、ここにあるのではないでしょうか?
> >
>
>  本当に唯一設定と反復設定の区別がつかない人がいるとしたら、そういう人とはもはや話が通じませんね。
>  2封筒問題の場合、スターダストさんの出した思考実験が唯一設定と反復設定の区別を明快に示していますよね。
>
>  太郎、二郎、三郎……百太郎……万太郎は、それぞれ、唯一設定のゲームに参加しています。
>  Q太郎は、反復設定のゲームに参加しています。
>  したがって、誰一人として、同一のゲームを争ってはいません。みなが、別々のゲームをやっているのです。
>  すべてのゲームで交換したとき、太郎、二郎、三郎……百太郎……万太郎の得る金額合計と、Q太郎の得る金額合計とは等しいわけですが、太郎、二郎、三郎……百太郎……万太郎のやったゲームそれぞれにおいて得た金額は、もともとの金額から主観的に1.25倍になっています。唯一設定のゲームですから。(各人の獲得金額の平均が非交換の場合に比べ1.25倍になったという意味ではない。初期金額さまざまのゲームの金額変動を平均しても無意味なので)
>  他方、Q太郎のやったゲームにおいては、もともとの金額と同じです。反復設定のゲームですから。
>
>  この非対称性は、各人の参加しているゲームが互いに別々のゲームであるため、矛盾ではありません。
>  上記のことが成り立つには、「太郎から万太郎までが得た金額の合計は、Q太郎が得た金額の合計にくらべ、1.25倍だけ有利」である必要はなく、太郎から万太郎までの各人が、それぞれ、交換によって非交換より得をしていればよいだけのことです。
>
>  反復設定は、一回ごとにさまざまな金額が手元に来ますから、開封バージョンと未開封バージョンが同じことになり、交換によって損得なしです。
>  唯一設定は、一回しか手元に来ませんから、期待値のシミュレーションは常に同じ金額が手元に来た試行を反復することで行なわねばなりません(情報が一つ増えているので)。すると、『論理パラドクシカ』p.48の設定Sと主観確率的には同じことになり、交換によって1.25倍得をします。
>
>  ↑『論理パラドクシカ』p.53末尾で留保をつけておいたように、これは「交換が得」という期待値計算を正当化できる一つの解釈にすぎません(正当化できないという解釈も念頭に置かねばなりません)。しかし、パラドクスの解決には、正当化するための常識的な解釈がありうるというデモンストレーションで十分だと思われます。
>  すなわち、
>  開封バージョンと未開封バージョンの区別ができないのが反復設定であり、開封バージョンと未開封バージョンが論理的に異なるのが唯一設定である、と言ってもよいでしょう。
>
> したがって、
>
> >
> > 1)太郎から万太郎までには、観測選択効果が働いてない
> > 2)上記の一万人ゲームでは唯一設定が働かない
> > 3)前に述べたような【お得解釈】が、実は成立していない
> > 4)上のゲームを実際に行えば、確かに、Q太郎の得る金額合計は、一万人プレイヤーのそれよりも過少である
> >
>
>  どれも正解ではなく、
>  5)全員が互いに異なるゲームをやっているから、いっしょくたに考えて計算上の辻褄を合わせようとするのは筋違い
>
>  が正解となるのではないでしょうか。
>
>  それから、観測選択効果についてですが、
>  スターダストさんの「観測選択効果」の用法がいまいち不明です。
>  観測選択効果とは、観測者の意識の存在そのものが環境にバイアスをかけ、主観確率を客観確率から乖離させる効果のことですね。(単なる「選択効果」との混同が巷に見られますが、区別しなければなりません。「選択効果」は、意識に限らず、観測方法や観測機器の性能等による観測対象の偏りのことを言います)
>  これまでに話題に上ったパラドクスのうち、
>  観測選択効果がかかわっているのは、眠り姫問題、射撃室パラドクス、森の射手です。
>  2封筒問題とサンクトペテルブルクは、観測選択効果はかかわってきません。
>  ただし、かかわってくるバージョンは想定できますが。たとえばサンクトペテルブルクでは、賞金先決め設定では、観測選択効果が無視できません。ゲームが成立している(賞金が決まっている)という「観測者視点(プレイヤー視点)」のもとでは、永遠にコイン表という場合が不可能として排除されます。これは、賞金後決め設定にはなかった観測選択効果です。(賞金後決め設定では、ゲーム成立という観測者視点のもとでも、永遠にコイン表という場合が可能なままです)
>  (観測者の意識の存在が、確率ゼロの場合を除外するだけなので、微妙な観測選択効果ですけれどね。それでも、論理的には大違いです。)
>
>  スターダストさんは、観測選択効果の有無と、唯一設定・反復設定の区別とを連動させているようですね。直接の連動関係はないように思うのですが。
>
>
>  ……なお、
>  「確率ゼロのところが可能か不可能かの違いによって、確率的な予測が異なるべきである場合」とはどういうものであるかは、もう少し後で述べようと思います(これは、唯一設定でも反復設定でもともに成り立ちます)


Re: 右のインド人氏へ 1 投稿者:スターダスト 投稿日:2012年 1月22日(日)14時47分41秒 返信・引用

> No.3504[元記事へ]

右のインド人さんへのお返事です。

> スターダストさんへのお返事です。
>
> > x/y と y/x の期待値に差が出ないことも着目です。
> > Mについて無情報であれば、ですけれども。
>
> 「これで終わりよ」と言われてしまいましたが、最後っ屁をさせてください。
>
> 未開封バージョンにおいて、M=1とおいても
> E(x/y)=E(y/x)=1.25
> E(x)=E(y)
> は成立しました。
> このとき、xとyは区間(0,1)に落ちるものとします。

M=1 をプレイヤーが知っていてよいのか知らないこととするのか、右のインド人さまの意図をはかりかねますが、従前からの流れに添いまして、プレイヤーが知らないものとしましょう。
私は、あらかじめ定められたMの存在を仮定して結論を提示しておりまして、Mについては任意の実数値を取れるものと考えております。その特別の場合であるM=1においても同様であること、私にとっては既知です。「M=1とおいても成立しました」と右のインド人さまが、ご投稿においてリマーク(留意を促す)ことをなさることの理由がよくつかめませんでした。 もうしわけありません。 いったいいかならる最後っ屁(苦笑)なのか…感じ取れませんでした。 申し訳ありません。

それとは別に。ええと…ひょっとしたら私が過去に書き間違っていたのかどうか確認すべきなのでしょうけれども… 私の場合、ふたつある封筒の小切手のうち金額の小さいほうの額面θが、0 ≦ θ < M なる区間の一様分布からえられるサンプルであると考えていましたので、仮にM=1と具体的な値を定めたとして、下記のことは言えません。
x と y とは 区間(0,1)に落ちるものとする
金額の大きいほうτは、 0 ≦ τ < 2M に落ちますので。

すでにこの手議論は既出と思いますが念のためにいいますと、この仮定は妥当です。単位を変えちゃえばいいので。円をドルにしたり、ゴールドを何トンとしたりすればいい、という発想です。

問題の構造がスケールフリーなのですよね。同意です。

> 開封バージョンでM=1仮定は使えません。まぁ当然ですよね。

何か誤解があるのでは? あらかじめMが定められ、【たとえていえばホストの懐具合によりゲームに先立って予算が決まっていたのであるから】、そのホストがたまたま、M=1 にしようと思い立っただけのこと。 ゲームは開始できますし、開封もなされましょう。


> とはいえ、封筒をあらためてしまえば、実測値x1をもとにして標本が{2*x1,x1/2}と変化するので、そもそもMを考える必要がなくなります。

私見ですが、ここに最大の誤謬があるはず、と狙いをつけるべきことかと思われてなりません。Mが存在しているときと、Mが存在しないときでは、実測値x1 をもとにして、もうかたほうの封筒の金額を推計するときの様子は異なってもよい筈です。 もしも同じであると結論をもっていきたいのであれば、その根拠を示すべきです。 (但し、私はまだ、肯定にも否定にも成功していません)

> いずれにせよ、Mの仮定、あるいは一様分布の仮定に何かしらの無理はありそうです。

あらかじめ定められるMの存在を否定する限り、開封後得られるサンプルが、一様分布からとられたものであるという主張はきわめて難しい、(無限区間での一様分では確率密度の全区間での積分が発散する)、この意味では、無理があると思います。 逆に、題意から見て不自然であるかもしれないけれども、別の分布の確率密度関数を定義すれば、Mの存在をあてにしなくとも、確率計算は遂行できます。
私が主張したいのは、一様分布を採用するのであるならば、無限区間での積分は実行不可能であるということがらです。

※上の私の論議は不正確ですのでより詳しく申し添えます。
確率密度関数をf(・)としたときに、∫f(x)dx=1 ∫xf(x)dx がともに有限値をもたなくてはいけません。但し、積分区間は全空間とします。確率密度の積分が1になっても、xf(x)の積分が発散することはありえますので、そうしますと、封筒の金額の期待値が発散してしまいます。

> 無理をなくそうとすると、「未開封バージョンと開封バージョンは実は似ても似つかない問題だった」とかになるのかな。ぶっちゃけ、俺はこっちのほうが自然と思います。

後で立論方法がまとまったときには、次のようなことがいえるといいなぁと思いまして、日々考えています。

あらかじめ定められたMの存在を仮定し、そのMの存在ついてプレイヤーが知っており、かつ、Mの具体的な値を知らないという設定を、封筒問題に付加するものとします。小切手の金額の作成には一様分布を仮定します。このとき、次のことがいえることでしょう。すなわち。

1:封筒を交換するべきか、はたまた、交換せざるべきかについて、開封しても新たな情報を得られない。( 開封バージョンと未開封バージョンとでは、封筒選択の結論が同一である。)

2:封筒を交換してもしなくても、得られる報償は同じである。

3:唯一設定でも反復設定でも結論はまったく変わらない

> 「未開封バージョンと開封バージョンは実は似ても似つかない問題だった」とすると、今度は反復設定唯一設定との兼ね合いがどうなるのかしらん。今はこういう話題がホットのはずですが。

上の私の3つが示せればと念願しています。 


Re: 右のインド人氏へ 1 投稿者:右のインド人 投稿日:2012年 1月22日(日)12時33分51秒 返信・引用

> No.3499[元記事へ]

スターダストさんへのお返事です。

> x/y と y/x の期待値に差が出ないことも着目です。
> Mについて無情報であれば、ですけれども。

「これで終わりよ」と言われてしまいましたが、最後っ屁をさせてください。

未開封バージョンにおいて、M=1とおいても
E(x/y)=E(y/x)=1.25
E(x)=E(y)
は成立しました。
このとき、xとyは区間(0,1)に落ちるものとします。すでにこの手議論は既出と思いますが念のためにいいますと、この仮定は妥当です。単位を変えちゃえばいいので。円をドルにしたり、ゴールドを何トンとしたりすればいい、という発想です。

開封バージョンでM=1仮定は使えません。まぁ当然ですよね。
とはいえ、封筒をあらためてしまえば、実測値x1をもとにして標本が{2*x1,x1/2}と変化するので、そもそもMを考える必要がなくなります。

いずれにせよ、Mの仮定、あるいは一様分布の仮定に何かしらの無理はありそうです。

無理をなくそうとすると、「未開封バージョンと開封バージョンは実は似ても似つかない問題だった」とかになるのかな。ぶっちゃけ、俺はこっちのほうが自然と思います。
「未開封バージョンと開封バージョンは実は似ても似つかない問題だった」とすると、今度は反復設定唯一設定との兼ね合いがどうなるのかしらん。今はこういう話題がホットのはずですが。


お礼 投稿者:スターダスト 投稿日:2012年 1月19日(木)10時49分32秒 返信・引用

φさん、モンテカルロさん、応答をありがとうございます。

ちょっとビックリしたこともあって、考え直している最中です。



Re: 質問が混んで申し訳ありませんが 投稿者:モンテカルロ 投稿日:2012年 1月18日(水)07時15分4秒 返信・引用

> No.3500[元記事へ]

φさんへのお返事です。

>  2封筒問題の場合、スターダストさんの出した思考実験が
> 唯一設定と反復設定の区別を明快に示していますよね。

検証しよう。

>  太郎、二郎、三郎……百太郎……万太郎は、
> それぞれ、唯一設定のゲームに参加しています。
>  Q太郎は、反復設定のゲームに参加しています。
>  したがって、誰一人として、同一のゲームを争ってはいません。
> みなが、別々のゲームをやっているのです。

まず、上記の文章の意味は全く明快でない。

>  すべてのゲームで交換したとき、
> 太郎、二郎、三郎……百太郎……万太郎の得る金額合計と、
> Q太郎の得る金額合計とは等しいわけですが、

そうとは断言できない。

> 太郎、二郎、三郎……百太郎……万太郎のやったゲーム
> それぞれにおいて得た金額は、もともとの金額から
> 主観的に1.25倍になっています。

「もともとの金額」は「交換前の金額」と思われる。

「主観的に」の意味は不明。
そもそもこの言葉は必要ない。
金額を固定した場合、という意味なら
事後確率の計算からこの結論が得られる。

>唯一設定のゲームですから。

この時点で「唯一設定」の意味はいまだ明快でない。

>(各人の獲得金額の平均が非交換の場合に比べ1.25倍になったという意味ではない。
> 初期金額さまざまのゲームの金額変動を平均しても無意味なので)

どうやらφは「金額固定の場合」を「唯一設定」といってるらしい。
(ただし、その場合、「唯一設定」という名前の付け方は不適切である)

>  他方、Q太郎のやったゲームにおいては、もともとの金額と同じです。
> 反復設定のゲームですから。

この時点で「反復設定」の意味はいまだ明快でない。

>  この非対称性は、各人の参加しているゲームが互いに別々のゲームであるため、
> 矛盾ではありません。

上記の文章は、単なる言い訳でしかない。

>  上記のことが成り立つには、
>「太郎から万太郎までが得た金額の合計は、
> Q太郎が得た金額の合計にくらべ、1.25倍だけ有利」
> である必要はなく、太郎から万太郎までの各人が、
> それぞれ、交換によって非交換より得をしていればよい
> だけのことです。

ここでいう「上記のことがら」とは

「太郎、二郎、三郎……百太郎……万太郎のやったゲーム
 それぞれにおいて得た金額は、もともとの金額に対して
 1.25倍になっています。」

と思われる。(主観的という無意味な言葉は削除した。)

>  反復設定は、一回ごとにさまざまな金額が手元に来ますから、
> 開封バージョンと未開封バージョンが同じことになり、
> 交換によって損得なしです。

この結論は誤っている。

>  唯一設定は、一回しか手元に来ませんから、
> 期待値のシミュレーションは常に同じ金額が
> 手元に来た試行を反復することで行なわねばなりません

ここではじめて「唯一設定」が明らかになった。
要するに金額決定後の場合を指している。

> (情報が一つ増えているので)。
> すると、『論理パラドクシカ』p.48の設定Sと
> 主観確率的には同じことになり、
> 交換によって1.25倍得をします。

「主観確率」(正しくは「事後確率」)の計算から
1.25倍になることは正しい。

問題は上記の結論がいかなるxについても成り立つということから
「金額の如何にかかわらず交換すれば1.25倍得をする」
といえるか、ということ。

実はそれはいえない。しかしφのように「損得なし」とも言えない。

>  ↑『論理パラドクシカ』p.53末尾で留保をつけておいたように、
> これは「交換が得」という期待値計算を正当化できる一つの解釈にすぎません
>(正当化できないという解釈も念頭に置かねばなりません)。

まず、私もTTT氏も
「金額の如何にかかわらず交換すれば1.25倍得をする」
とは云っていない。

> しかし、パラドクスの解決には、正当化するための常識的な解釈がありうる
> というデモンストレーションで十分だと思われます。
>  すなわち、
> 開封バージョンと未開封バージョンの区別ができないのが反復設定であり、
> 開封バージョンと未開封バージョンが論理的に異なるのが唯一設定である、
> と言ってもよいでしょう。

残念ながら、場合わけをしただけでは
「反復設定では損得ナシ」
という結論は導けない。

実際には
「反復設定においては期待値が有限にならないので比較できない」
が正しい。

つまり、
1.「金額の如何にかかわらず交換すれば1.25倍得をする」という
  主張を否定するには、金額を固定しない場合(φのいう「反復設定」)
  での期待値が無限大になることをいえばいい。
2.両者とも期待値が無限大になるからといって、
  「損得なし」とするφの主張は正当化できない。

φの「対称だから損得なし」の主張については、
あくまでプロパガンダとしか考えない。
つまりこれを認めない立場は許容される。


Re: φさんへ:唯一設定およびに観測選択効果は働いているのか 投稿者:モンテカルロ 投稿日:2012年 1月18日(水)06時52分22秒 返信・引用

スターダストさんへのお返事です。

> ■質問:唯一設定の封筒問題における観測選択効果
>
> さて、私からの質問なのですが、端的に、以下のようになります。
> 観測選択効果は本当に働いているのでしょうか?
>
> といいますのは、次のような仮想例を考えてみたことから
> 考えがまとまらなくなってきたのです。
>
> 今、太郎、二郎、三郎…百太郎…万太郎 の一万人のプレイヤーを集め、
> ひとりの胴元が、それぞれのプレイヤーに対し、封筒問題そのままの
> ゲームを行うものとします。
> プレイヤーは互いにその存在を知らされませんし、それぞれのプレイヤーは、
>「私にとってこのゲームは一生に一度の機会のやりなおしが効かないゲームである」
> と覚悟を決めているものとします。
> すなわち太郎から万太郎までの個々人にとって、
> この封筒問題は唯一設定であると考えます。
>
> ※封筒は一万組用意しますが、それぞれの中身の金額はバラバラです。
> 特に傾向はないものとしますし、その情報はプレイヤーにも知らされません。
>
> さて、胴元は、もうひとりのダミープレイヤーであるQ太郎をゲームに参加させます。
> Q太郎の役割は、太郎から万太郎までのすべてのプレイヤーと対戦することです。
> ただしQ太郎はダミープレイヤーですので、Q太郎の意思決定はゲームに反映できません。
>(コントラクトブリッジでの4人のうちひとりのダミープレイヤーみたいなものです。)

> 唯一設定での封筒問題についての戦略により、太郎は、最初に選んだ封筒の中身の
> 金額を確認し、もうかたほうの封筒と交換することを選ぶことが合理的なのでしょう、
> Q太郎は、太郎が交換して得た封筒でないほうの封筒、すなわち、太郎が最初に
> 開封した封筒を得ることとします。
>
> さて、以上のゲームを行った時に、どういう結果が得られるのであろうか
> と考えてみたのです。
> 太郎から万太郎までは、唯一設定での封筒問題について、交換したほうが得である、
> なぜならば、「私には観測選択効果が働くからだ」とφさん流に考えています。
> 太郎から万太郎までが得た金額の合計は、Q太郎が得た金額の合計にくらべ、
> 1.25倍だけ有利なのでしょうか?これは本当なのでしょうか・・・
>
> ・・・私にはとても信じられないことです。以下のどれか、あるいは複合的現象、
> もしくは別の事態が発生しているのかもしれないと思い悩んでいます。
>
> 1)太郎から万太郎までには、観測選択効果が働いてない
> 2)上記の一万人ゲームでは唯一設定が働かない
> 3)前に述べたような【お得解釈】が、実は成立していない
> 4)上のゲームを実際に行えば、確かに、Q太郎の得る金額合計は、一万人プレイヤーのそれよりも過少である

太郎から万太郎までが得た金額の合計をA
Q太郎が得た金額の合計をQ
とする

Q>AかQ=AかQ なぜなら、AとQの期待値が無限だから。

P.S.

> 観測選択効果がはいってくる場合には、
> 唯一設定と反復設定との違いによって、
> 封筒問題への対応が異なるはず…なのですが、
> どうも私には、唯一設定および観測選択効果についての
> クオリアが脳内に生成されないのです。

クオリアという言葉に対する上記の用法は間違っている。
「どうも私には、唯一設定および観測選択効果による
 違いが生じないと思われるのです」
といえばいい。


Re: 質問が混んで申し訳ありませんが 投稿者:φ 投稿日:2012年 1月17日(火)03時59分43秒 返信・引用

> No.3498[元記事へ]

スターダストさんへのお返事です。

>
> φさんwrote:>確率ゼロのところが可能か不可能かの違いによって確率分布および期待値に違いは生じないにもかかわらず、確率ゼロの事象が可能とされるか不可能とされるかによって合理的判断(確率的な予測など)が異なるべきだ、と言ったのです。
>
> これは、唯一設定を考えているからでしょうか?
> 唯一設定を受け入れない者にとって、
> 「確率ゼロのところが可能か不可能かの違いによって確率分布および期待値に違いは生じない」
> ならば、
> 「合理的判断(確率的な予測など)」は同一でしょうから。
>


 「唯一設定を受け入れない」などという立場が成り立ちうるんでしょうか?
 唯一設定と反復設定の区別がわからないという人は、唯一試行ルールでの期待値計算のシミュレーションとしての無限反復と、反復ルールの中でなされる反復(シミュレーションではなくゲームそのものの実践)とを混同しているのでしょう。


>
> TTTさんや、モンテカルロさんは、そもそも、唯一設定と反復設定との区別をすることは不合理だ。とお考えのようですし。水掛け論にみえる原因のひとつは、ここにあるのではないでしょうか?
>

 本当に唯一設定と反復設定の区別がつかない人がいるとしたら、そういう人とはもはや話が通じませんね。
 2封筒問題の場合、スターダストさんの出した思考実験が唯一設定と反復設定の区別を明快に示していますよね。

 太郎、二郎、三郎……百太郎……万太郎は、それぞれ、唯一設定のゲームに参加しています。
 Q太郎は、反復設定のゲームに参加しています。
 したがって、誰一人として、同一のゲームを争ってはいません。みなが、別々のゲームをやっているのです。
 すべてのゲームで交換したとき、太郎、二郎、三郎……百太郎……万太郎の得る金額合計と、Q太郎の得る金額合計とは等しいわけですが、太郎、二郎、三郎……百太郎……万太郎のやったゲームそれぞれにおいて得た金額は、もともとの金額から主観的に1.25倍になっています。唯一設定のゲームですから。(各人の獲得金額の平均が非交換の場合に比べ1.25倍になったという意味ではない。初期金額さまざまのゲームの金額変動を平均しても無意味なので)
 他方、Q太郎のやったゲームにおいては、もともとの金額と同じです。反復設定のゲームですから。

 この非対称性は、各人の参加しているゲームが互いに別々のゲームであるため、矛盾ではありません。
 上記のことが成り立つには、「太郎から万太郎までが得た金額の合計は、Q太郎が得た金額の合計にくらべ、1.25倍だけ有利」である必要はなく、太郎から万太郎までの各人が、それぞれ、交換によって非交換より得をしていればよいだけのことです。

 反復設定は、一回ごとにさまざまな金額が手元に来ますから、開封バージョンと未開封バージョンが同じことになり、交換によって損得なしです。
 唯一設定は、一回しか手元に来ませんから、期待値のシミュレーションは常に同じ金額が手元に来た試行を反復することで行なわねばなりません(情報が一つ増えているので)。すると、『論理パラドクシカ』p.48の設定Sと主観確率的には同じことになり、交換によって1.25倍得をします。

 ↑『論理パラドクシカ』p.53末尾で留保をつけておいたように、これは「交換が得」という期待値計算を正当化できる一つの解釈にすぎません(正当化できないという解釈も念頭に置かねばなりません)。しかし、パラドクスの解決には、正当化するための常識的な解釈がありうるというデモンストレーションで十分だと思われます。
 すなわち、
 開封バージョンと未開封バージョンの区別ができないのが反復設定であり、開封バージョンと未開封バージョンが論理的に異なるのが唯一設定である、と言ってもよいでしょう。

したがって、

>
> 1)太郎から万太郎までには、観測選択効果が働いてない
> 2)上記の一万人ゲームでは唯一設定が働かない
> 3)前に述べたような【お得解釈】が、実は成立していない
> 4)上のゲームを実際に行えば、確かに、Q太郎の得る金額合計は、一万人プレイヤーのそれよりも過少である
>

 どれも正解ではなく、
 5)全員が互いに異なるゲームをやっているから、いっしょくたに考えて計算上の辻褄を合わせようとするのは筋違い

 が正解となるのではないでしょうか。

 それから、観測選択効果についてですが、
 スターダストさんの「観測選択効果」の用法がいまいち不明です。
 観測選択効果とは、観測者の意識の存在そのものが環境にバイアスをかけ、主観確率を客観確率から乖離させる効果のことですね。(単なる「選択効果」との混同が巷に見られますが、区別しなければなりません。「選択効果」は、意識に限らず、観測方法や観測機器の性能等による観測対象の偏りのことを言います)
 これまでに話題に上ったパラドクスのうち、
 観測選択効果がかかわっているのは、眠り姫問題、射撃室パラドクス、森の射手です。
 2封筒問題とサンクトペテルブルクは、観測選択効果はかかわってきません。
 ただし、かかわってくるバージョンは想定できますが。たとえばサンクトペテルブルクでは、賞金先決め設定では、観測選択効果が無視できません。ゲームが成立している(賞金が決まっている)という「観測者視点(プレイヤー視点)」のもとでは、永遠にコイン表という場合が不可能として排除されます。これは、賞金後決め設定にはなかった観測選択効果です。(賞金後決め設定では、ゲーム成立という観測者視点のもとでも、永遠にコイン表という場合が可能なままです)
 (観測者の意識の存在が、確率ゼロの場合を除外するだけなので、微妙な観測選択効果ですけれどね。それでも、論理的には大違いです。)

 スターダストさんは、観測選択効果の有無と、唯一設定・反復設定の区別とを連動させているようですね。直接の連動関係はないように思うのですが。


 ……なお、
 「確率ゼロのところが可能か不可能かの違いによって、確率的な予測が異なるべきである場合」とはどういうものであるかは、もう少し後で述べようと思います(これは、唯一設定でも反復設定でもともに成り立ちます)


Re: 右のインド人氏へ 1 投稿者:スターダスト 投稿日:2012年 1月16日(月)11時58分7秒 返信・引用

右のインド人さんへのお返事です。

> スターダストさんへのお返事です。

> 開封前に確率変数の比の期待値を計算しても、1.25になるんですね。
> ここにMが現れないということは、さしあたってMの存在を仮定することは議論の混乱にはならないのですね。
>
> この結果を受ければ、比の期待値は大した意味がないという結論になりますよね。

私見では、そのように考えております。x/y と y/x の期待値に差が出ないことも着目です。
Mについて無情報であれば、ですけれども。

モンテカルロさんと右のインド人さんの応答に対する私からの横レスによる分岐した流れは、ここで終わりということでよろしいでしょうか、そのように考えております。


Re: 質問が混んで申し訳ありませんが 投稿者:スターダスト 投稿日:2012年 1月16日(月)11時47分47秒 返信・引用

> No.3486[元記事へ]

φさんへのお返事です。

φさんwrote:>確率ゼロのところが可能か不可能かの違いによって確率分布および期待値に違いは生じないにもかかわらず、確率ゼロの事象が可能とされるか不可能とされるかによって合理的判断(確率的な予測など)が異なるべきだ、と言ったのです。

これは、唯一設定を考えているからでしょうか?
唯一設定を受け入れない者にとって、
「確率ゼロのところが可能か不可能かの違いによって確率分布および期待値に違いは生じない」
ならば、
「合理的判断(確率的な予測など)」は同一でしょうから。

少なくともφさんがおっしゃるところの反復設定では、数学が要請するところの一般的な理解を適用可能な確率論を採用するのであって、確率ゼロの事象が発生しようがしまいが、合理的判断に差異は出ません…と申しますか、ほとんど公理に近いことがらでしょうから…φさんもここはお認めになっていらっしゃるというのが私の従来からの印象です。
問題は、唯一設定での考え方なのだと、私は受け止めておりますが、いかがでしょう?

TTTさんや、モンテカルロさんは、そもそも、唯一設定と反復設定との区別をすることは不合理だ。とお考えのようですし。水掛け論にみえる原因のひとつは、ここにあるのではないでしょうか?


φさんへ:唯一設定およびに観測選択効果は働いているのか(その2) 投稿者:スターダスト 投稿日:2012年 1月16日(月)11時35分23秒 返信・引用

■φさんへ:唯一設定およびに観測選択効果は働いているのか(その2)

以前にφさんからお聞かせ頂きましたことをもとに、「森の射手問題」について再び考えたいと思います。 封筒問題の理解のために…

■■森の射手問題
神が森を創り、そこに人間を創造した。あなたは今、森で目覚め、神に創られた人間であることがわかっている。さらに、神の声によって次のことが教えられた。

1)「私は、二つの森のうちどちらか一方を作ろうと思った。どちらの森にも天使が一人住んでおり、人間を見つけると、ただ1人を、ただ1回だけ、弓矢で射る。さて、一つの森は、その天使のほかに、5人の人間を含んでいる。もう一つの森は、天使のほかに、500人の人間を含んでいる。人間たちは互いに出会うことはない。この二つの森の構想を抱いて私はサイコロを振り、どちらを創るかを決めた。そうして一方だけを創り、その結果、おまえとこの森は誕生したのだ」

 神の声が消えてからしばらくして、木々のむこうから矢が飛んできて、あなたの肩に突き刺さった。ここで神の声がした。

 「天使の矢に射られたな……。さて推測せよ、私はどちらの森を創ったのだと思うか? 5人を含む森か、500人を含む森か」


2)あなたが目覚めた状況は 1)と同じだが、神の声は次のように言った。

 「私は、二つの森を作った。どちらの森にも天使が一人住んでおり、人間を見つけると、ただ1人を、ただ1回だけ、弓矢で射る。さて、一つの森は、その天使のほかに、5人の人間だけを含んでいる。もう一つの森は、天使のほかに、500人の人間を含んでいる。人間たちは互いに出会うことはない。この二つの森を創り、この森はそのうちの一つなのだ」

 神の声が消えてからしばらくして、木々のむこうから矢が飛んできて、あなたの肩に突き刺さった。ここで神の声がした。

 「天使の矢に射られたな……。さて推測せよ、おまえのいるこの森はどちらの森か?

 5人を含む森か、500人を含む森か」

===

■■森の射手問題において選択観測効果は何時発生したのか

森の射手問題において選択観測効果は
≪森の射手の「矢に当たったとき」ではなく、「森で目覚めたとき」≫
に既に発生していること、
そして、事後確率への変動発生のタイミングは
≪(眠り姫問題において「今は月曜日である」と告げられること)が矢に射られることに相当≫
というのが、以前、φさんからご教示頂いたことがらです。


■■上記を踏まえての質問なのですが封筒問題では…

観測選択効果の発生タイミングと、およびに、事後確率への変動タイミングが、いつ、発生しているのでしょうか

よしんば、最初に選んだ封筒を開封した際に、事後確率への変動があったにせよ(現時点では私には納得できかねますが、それはおいておいて)
そもそも、観測選択効果が働くような、そのような構造を、封筒問題が内在しているのでしょうか?

「森の射手問題」をふまえて、封筒問題の理解していきたいのですが、手がかりがみつかりません。 ご教示頂ければと存じます。


φさんへ:唯一設定およびに観測選択効果は働いているのか 投稿者:スターダスト 投稿日:2012年 1月16日(月)11時13分20秒 返信・引用

観測選択効果がはいってくる場合には、唯一設定と反復設定との違いによって、封筒問題への対応が異なるはず、というφさんのお考えを、理解したいと思いまして、φさんにお訊ねいたします。この質問は、結局のところ、封筒問題に観測選択効果が働いているかどうかの質問にもなっています。

■おさらい:唯一設定と反復設定、観測選択効果について
===引用開始===
まずは、唯一設定と反復設定とで合理的な確率判断が異なる、ということが納得できるかどうかですね。
 普通は、確率は唯一設定でも反復設定でも正解は同じになるはずですが、観測選択効果が入ってくる場合には異なるので難しいのです。

( http://8044.teacup.com/miurat/bbs/1822 より)
===引用終了===

上記引用は、眠り姫問題についてのφさんの解説からです。 おそらく、封筒問題についても同じことであることかと存じます。
確率変数x, y について次のように約束させてください。 x は、プレイヤーが最初に選択した封筒の中の小切手の額面で実数値をとり、 y は選択しなかったほうの額面とします。それぞれの期待値をEx, Ey と略記します。 なお、ここでは確率密度関数や累積分布関数が確率論で扱える形で定義できるかどうかは、一旦、これを棚上げしておき、形式的な考えも認めることといたします。

反復設定における封筒問題へのφさんのお考えは、Ex = Ey を根拠に、封筒の交換による損得はない、とする、と私は受け止めております。

一方、唯一設定における封筒問題へのφさんのお考えなのですけれども、
開封して具体的に金額の値を知ることとなった、x に対して、 まだ未開封の、もう一方の y を推測する際に、
y = 2x
y = x/2
が等確率で発生するので、
Ey を計算して、【既知のxで表現】すると、
Ey = 1.25x
であり、
ここから、封筒を交換したほうが良いという結論がえられる、
xについて開封して具体的に金額の値を知ることとなったことから、唯一設定において考慮にいれなければいけない観測選択効果が入ってきている、
【後で引用しますので、この解釈を、お得解釈と呼びます。】


これが、唯一設定における解釈である、と、私は受け止めております。

以上の私の受け止め方に、誤りがあってはいけないのですが、私とφさんとの間のやりとりを復習したところ、大きな流れでは、ほぼ妥当なのではあるまいかと考えております。ここまでがおさらいでした。


■質問:唯一設定の封筒問題における観測選択効果

さて、私からの質問なのですが、端的に、以下のようになります。
観測選択効果は本当に働いているのでしょうか?

といいますのは、次のような仮想例を考えてみたことから考えがまとまらなくなってきたのです。

今、太郎、二郎、三郎…百太郎…万太郎 の一万人のプレイヤーを集め、ひとりの胴元が、それぞれのプレイヤーに対し、封筒問題そのままのゲームを行うものとします。 プレイヤーは互いにその存在を知らされませんし、それぞれのプレイヤーは、「私にとってこのゲームは一生に一度の機会のやりなおしが効かないゲームである」と覚悟を決めているものとします。すなわち太郎から万太郎までの個々人にとって、この封筒問題は唯一設定であると考えます。

※封筒は一万組用意しますが、それぞれの中身の金額はバラバラです。特に傾向はないものとしますし、その情報はプレイヤーにも知らされません。

さて、胴元は、もうひとりのダミープレイヤーであるQ太郎をゲームに参加させます。Q太郎の役割は、太郎から万太郎までのすべてのプレイヤーと対戦することです。ただしQ太郎はダミープレイヤーですので、Q太郎の意思決定はゲームに反映できません。(コントラクトブリッジでの4人のうちひとりのダミープレイヤーみたいなものです。) 唯一設定での封筒問題についての戦略により、太郎は、最初に選んだ封筒の中身の金額を確認し、もうかたほうの封筒と交換することを選ぶことが合理的なのでしょう、Q太郎は、太郎が交換して得た封筒でないほうの封筒、すなわち、太郎が最初に開封した封筒を得ることとします。

さて、以上のゲームを行った時に、どういう結果が得られるのであろうかと考えてみたのです。
太郎から万太郎までは、唯一設定での封筒問題について、交換したほうが得である、なぜならば、「私には観測選択効果が働くからだ」とφさん流に考えています。
太郎から万太郎までが得た金額の合計は、Q太郎が得た金額の合計にくらべ、1.25倍だけ有利なのでしょうか?これは本当なのでしょうか・・・

・・・私にはとても信じられないことです。以下のどれか、あるいは複合的現象、もしくは別の事態が発生しているのかもしれないと思い悩んでいます。

1)太郎から万太郎までには、観測選択効果が働いてない
2)上記の一万人ゲームでは唯一設定が働かない
3)前に述べたような【お得解釈】が、実は成立していない
4)上のゲームを実際に行えば、確かに、Q太郎の得る金額合計は、一万人プレイヤーのそれよりも過少である


観測選択効果がはいってくる場合には、唯一設定と反復設定との違いによって、封筒問題への対応が異なるはず…なのですが、どうも私には、唯一設定および観測選択効果についてのクオリアが脳内に生成されないのです。

φさんのお考えをお聞かせください。

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Re: 質問が混んで申し訳ありませんが 投稿者:φ 投稿日:2012年 1月16日(月)00時47分52秒 返信・引用

> No.3487[元記事へ]

TTTさんへのお返事です。

>
> φさんは『論理パラドクス』の記述、特に
>
> > 何度も繰り返しその賭けをしたときに(正確には無限回行ったとき)その値に一致する、
> > という理論値(平均値)が期待値なのである。
>
> > たしかにこのゲームを無限回やれば、「永久に表が出つづける場合」が必ず一度は含まれるから、
> > 他の場合と合わせた全体の平均賞金は無限円になるだろう
>
> の部分に関して、この記述は正しく、なおかつ十分に説明・証明されているという認識なんですか?


 正しさを確信するという非哲学的な真似はできませんが、少なくとも明白な誤りがあるとは思っていません。

 期待値は、あらゆる確率変数の値の平均値であり、「あらゆる値」を確実に出現させるためには無限回の試行が必要ですから。
 念のため言っておきますが、『論理パラドクス』問35の趣旨は、有限の期待値における常識をサンクトペテルブルクのような異常な場合に適用しようとして、「一億円払っても得」という非常識に直面して挫折しそうになる人に対し、
 「いや、挫折するには及ばない。一度だけの試行では確実に損するだろうけど、期待値の理屈を律儀に適用して平均値をもらえれば、一億円払っても確実に得するよ」
 と説明しているわけです。
 つまり「計算上と実際との食い違いは期待値の定義の不合理によるものじゃないよ。異常な場合も含めた統一的理解の可能性は保たれているよ」という説明です。パラドクス解決の第1段階としてはそれで十分でしょう。
 第1段階の解決で満足できない人に対しては、第2段階以降を別途提示すればよいのであり(2封筒や嘘つきパラドクスなどいくつかの問題をパラドクス本続編で再説したように)、限られたページの中で最終段階まで説明が終わっていないからといって、「間違い」とされるいわれはありません。

 『論理パラドクス』各問が意図しているのは、あらゆる場合に整合的に対応しようという数学的説明ではもちろんありません。パラドクスというものはそれぞれ限定された視野から論理的挑戦をしてくるので、解決の試みは焦点を絞らねばなりません。問35も、サンクトペテルブルクの異常性を常識へと還元するという限られた目的を果たしているわけです。

 いずれにせよ、問35であれどこであれ「論理的な間違い」があるというのなら、そろそろ端的に指摘してくださいな。
 いかんせん、
http://8044.teacup.com/miurat/bbs/3448で『論理パラドクス』にない文章を二つもねつ造したり(「このゲームを無限回やれば、賞金が無限大になる場合が必ず1度は起きるから」「コインを投げ続けて、n回目にはじめて裏が出たならば賞金として2^(n-1)円もらえる」)
http://8044.teacup.com/miurat/bbs/3482におけるように明白な間違いに基づいていたりと、
どうもTTTさんの発言は「φ の誤りを指摘したい」というバイアスに引きずられた放言にしかなっておらず、ほとんど信用できないのですよ……。

 『論理パラドクス』等の誤りを指摘しようとされるTTTさんの熱意はまことに有難いのですが、
今の語られようでは、残念ながら有難迷惑と言わざるをえませんかね……。


Re: 右のインド人氏へ 1 投稿者:モンテカルロ 投稿日:2012年 1月14日(土)21時55分59秒 返信・引用

> No.3493[元記事へ]

右のインド人さんへのお返事です。

> 無理して確率論を持ち込む必要はないと主張しているのです。

君はちょっと頑張って勉強しなさい。
いくらなんでも何も知らなすぎ。


Re: 右のインド人氏へ 1 投稿者:右のインド人 投稿日:2012年 1月14日(土)16時52分17秒 返信・引用

> No.3492[元記事へ]

スターダストさんへのお返事です。

> > 推測できないMなら、それを仮定するのは反対。
> とおっしゃるので、無情報分布を拒否したことになります。

なんら情報が与えられていなければ、一様分布を使うのは常套手段と思います。
ここに見解の相違はありませんでした。

> > 数学的便宜上の仮定なら、それにも反対です。
>
> 数学的便宜上の仮定? 便宜上って?少々言葉に詰まりますが。
> 再言いたしますけれども、
> 確率密度関数や累積分布関数をきちんと定義できるようにする、【ひとつのアイデア】として
> Mを導入したのです。ただたんに反対されても論議は進みません。
>
> Mの導入に反対であるのであれば、
> 【右のインド人さんのアイデア】として、確率論で扱えるような
> 確率密度関数や累積分布関数を、封筒問題に導入して頂ければ、答えが計算できる、
> 面白いケーススタディとなります。是非お願いしたいところです。

無理して確率論を持ち込む必要はないと主張しているのです。

> > 「なぜMを仮定しするとへんてこりんなこと(矛盾とはあえて言わない)になるか」を考えるのは発展があると思いますが。
>
> へんてこりんなのでしょうか?よくわかりません。
> くだんのMを導入することで確率計算がきちんとできるようになる。
> そして、以下のことが言えます。
>
> 確率変数x, y, u, v を以下のようにとります。
> 最初にあける封筒の金額をx, 残りの封筒の金額をy とします。
> また、u=y/x , v=x/y とします。
> x, y, u, v の期待値を Ex Ey Eu Ev
> とします。
> すると、
> Ex = Ey
> Eu = 1.25
> Ev = 1.25

開封前に確率変数の比の期待値を計算しても、1.25になるんですね。
ここにMが現れないということは、さしあたってMの存在を仮定することは議論の混乱にはならないのですね。

てっきり期待値の比が1.25になるとおっしゃっているのかと思ってました。
つまり、E(x)/E(y)=E(y)/E(x)=1.25となるのかと。
俺は(実は何の計算もせずに)E(x)=E(y)と思っていたので、かなり奇妙なことと思ってました。そして、「こんなの、どうせ、Mを、勝手に、設定、したからだろ・・・」と脱力していました。

この結果を受ければ、比の期待値は大した意味がないという結論になりますよね。
「一般的に確率変数の比をどういう風に解釈するのか、何かしら意味のあるインデックスなのか」という問いも出てきます。特に意味もないインデックスなら、その期待値をとる必要性はないということになりますから。


Re: 右のインド人氏へ 1 投稿者:スターダスト 投稿日:2012年 1月14日(土)15時28分20秒 返信・引用

> No.3488[元記事へ]

右のインド人さんへのお返事です。

> スターダストさんへのお返事です。
>
> > 例えば、ひとつの極論ですが、Mについて、既知であり、1万円としましょう。 胴元の予算は3万円です。 封筒をひとつあけた段階で、金額をみて、それが9000円だったとしましょう。 もうひとつの封筒の金額を Y とすると、Y/9000 という確率変数の期待値は 1.5 です。 オリジナルの問題では、この期待値は1.25だったので、問題の意味が変わってきてしまっていることが数字の上からわかります。
> > 以上で見たように胴元の予算を推測できたとするならば、オリジナルの問題から大きく、ずれてしまいます。 Mについて推測できてしまうことにより、一様分布を使ったのに、事前分布が 無情報分布ではなくなってしまう、こんなことが発生してしまうのです。問題に色がついてしまう、そうするとツマラナイのですね。たぶん。
>
> 推測できないMなら、それを仮定するのは反対。

どうも私の意図が伝わっていないようですね。もうしわけない気持ちになります。
かつて、右のインド人さんが、以下のようにおっしゃっいました。

> しかし、その予算制約としたのなら、プレイヤーは胴元の予算を推量すべきです。勝手にMとおいて、何かわかった気になるのは愚かですよね。でも、どうやって推量するのかが問題になります。

これを受けて、私は
「胴元の予算を推測できたとするならば、オリジナルの問題からは逸脱する」
と申し上げたのです。さらに言うと、オリジナルの問題の意味から逸脱しないためには
無情報分布を導入する必要がある、そのように主張し、さらに、右のインド人さんが採用されるであろう、
一様分布を使う、そのような、ひとつの例として、
===Mの存在のみを既知としプレイヤーはその具体的な値を知らない===
というモデルを示しました。

> 推測できないMなら、それを仮定するのは反対。
とおっしゃるので、無情報分布を拒否したことになります。

===

> 数学的便宜上の仮定なら、それにも反対です。

数学的便宜上の仮定? 便宜上って?少々言葉に詰まりますが。
再言いたしますけれども、
確率密度関数や累積分布関数をきちんと定義できるようにする、【ひとつのアイデア】として
Mを導入したのです。ただたんに反対されても論議は進みません。

Mの導入に反対であるのであれば、
【右のインド人さんのアイデア】として、確率論で扱えるような
確率密度関数や累積分布関数を、封筒問題に導入して頂ければ、答えが計算できる、
面白いケーススタディとなります。是非お願いしたいところです。

> 「なぜMを仮定しするとへんてこりんなこと(矛盾とはあえて言わない)になるか」を考えるのは発展があると思いますが。

へんてこりんなのでしょうか?よくわかりません。
くだんのMを導入することで確率計算がきちんとできるようになる。
そして、以下のことが言えます。

確率変数x, y, u, v を以下のようにとります。
最初にあける封筒の金額をx, 残りの封筒の金額を確y とします。
また、u=y/x , v=x/y とします。
x, y, u, v の期待値を Ex Ey Eu Ev
とします。
すると、
Ex = Ey
Eu = 1.25
Ev = 1.25

これをMの存在を仮定したからへんてこりんになったとおっしゃるのでしょうか…
私の意見では、これはオリジナルの封筒問題の構造をそのまま具現化しているように思われますけれども。


> > プレイヤーにとってMの存在を前提にし、その具体的な数値を知らない状態、これならば、数学のお話になる、私はそのように申し上げているつもりです。
> > なにか他に、問題の意味をあまり壊さずに、確率論にのっかるうまい手があるといいなぁと思っております。うまい手を作ってください。
>
> この手のパラドクスがどうやって公式的に解決されるかは予想できません。
> きっと数学の高等教育を受けた人間がやるのだろうという予想くらいしか。
>
> しかし、それが確率論による解決になるとは限りません。
> ゲーム理論的アプローチかもしれないし、統計的アプローチかもしれない。
> いえ、確率を使わないわけにはいかないでしょうけど、それが主となるかどうかは別の話ということです。

うまい手がみつかるといいのですが。
いずれにせよ、確率論を含む数学的な計算が絶対に出てくるはずです。


Re: 右のインド人氏へ 1 投稿者:モンテカルロ 投稿日:2012年 1月14日(土)15時21分20秒 返信・引用

> No.3488[元記事へ]

右のインド人さんへのお返事です。

> この手のパラドクスがどうやって公式的に解決されるかは予想できません。
> きっと数学の高等教育を受けた人間がやるのだろうという予想くらいしか。

大学の数学科出たら、そんな似非数学問題になんか手出さないよ。
だって誰も評価しないもの。

定理の前提条件を満たさないのに、
定理を利用して結論を導くのが無意味
というだけのこと。

期待値がダメなら、効用で・・・
というのは他の学問で必要だからそうするのであって、
数学とは無関係。(効用に関する数学的取扱以前)

> しかし、それが確率論による解決になるとは限りません。
> ゲーム理論的アプローチかもしれないし、統計的アプローチかもしれない。
> いえ、確率を使わないわけにはいかないでしょうけど、
> それが主となるかどうかは別の話ということです。

「ガリレオのパラドックス」って知ってるかい?

「ほとんどの自然数は平方数ではないにもかかわらず、
 自然数 n を平方数 n^2に対応させると、
 自然数全体と平方数全体とは1対1対応する。」

2封筒問題も、結局は、無限同士で比をとることの
無意味さを示しているだけのこと。

数学がガリレオのパラドックスに対して
自然数全体より平方数全体が小さくなる
量なんてものを設定しなかったように、
2封筒問題に対して期待値に変わる別の量
を設定してまで損得を論じたりする方向には
いかない。そんな関心ははなからないからだ。


Re: 右のインド人氏へ 1 投稿者:モンテカルロ 投稿日:2012年 1月14日(土)15時08分42秒 返信・引用

> No.3484[元記事へ]

右のインド人さんへのお返事です。

> ・・・いっそのこと「開封する前にゴチャゴチャ考えるな!」としたくなるんですよ。
> 開封してしまえば、高校レベルのお話まで落ちますからね。楽なもんです。

「高校レベルのお話まで落ち」るには、
当然確率分布を考える必要がありますよ。

> 「じゃあ効用関数に準凹だけ仮定したらどうなるんだろう」と思いましたが、
> そんな学部卒論級のことをやる気力はありませんでした
>(いや、面白そうだからやるけど)。

経済学部?

「効用」について聞きかじりの知識をひけらかす前に
事後確率の計算公式見たほうがいいよ。

君、全然わかってないから。


Re: 右のインド人氏へ 1 投稿者:モンテカルロ 投稿日:2012年 1月14日(土)14時38分1秒 返信・引用

右のインド人さんへのお返事です。

> 結局何なんですか、交換による利益の率って。

自分の封筒の金額をaとした場合の
交換後の期待値をbとする。
b/aが、交換による利益率である。

> 事前確率も無しに事後確率を計算する方法は、
>不勉強なので存じ上げません。

「事前確率」=確率分布に基づく事後確率の計算法により
b/aがaの金額によらずに一定になるような確率の分布は
存在する。

このことは計算方法を知っていれば認めざるを得ない。
認められない=計算方法を知らない、もしくは、否定する
ということだが、知らないのか?知っていて否定するのか?

> 開封前に確率分布を設定することが無意味と思うのですが。

パラドックスを認めたくない、というだけでのことで、
確率分布を設定しない、と拒否することは認められない。

> 期待値が収束しない、ですか。
> ご自分が勝手に設定した確率分布を用いてるからじゃないんですか?

いかなる確率分布も設定可能である。

そして、確率分布によっては、"パラドックス"が起きる。

そして、パラドックスが起きるのは、期待値が発散するときである。

私が言っているのはこのことだけである。

君はただ、パラドックスが起きる確率分布を設定するな、と駄々をこねてるだけ。

それは学問としては無意味である。

> あと、人間の判断のモデルというのは、人間がする意志決定のモデルということです。
> そこで、期待値は議論のたたき台としては役に立ちますが、
> それ以後はあまり役に立たないということを主張したかったのでした。

要するに、損得は期待値だけでは決まらない、といいたいわけか。

で、期待値に変わる効用を持ち出せば、決まる、といいたいわけか。

> せいぜい俺が賛成できるのは一様分布なのですよ。
> 「胴元の予算をMとして、それを1:2に分けるとしたら」
>というのであれば、まぁ受け入れられます。

1行目と2行目以降がつながらない。

君がいう一様分布とはMの分布かね?

いっとくが、パラドックスが起きるのは
まさにMが0から∞の間における一様分布
であるときに起きるのだがねw

> 誰にだって予算制約があるのですから、そういう仮定はむしろ設けるべきです。

「一様分布」というだけでは、上限が必ず設定されるとはいえない。

> しかし、予算制約を考えようが考えまいが、結論が同じなのだから、
>ことさらにそれを強調する必要性もありますまい。

残念ながら、結論は同じ、とはいえない。
上限が存在しない場合には、期待値が発散するからだ。

> たとえば、3m≦Mを満たすmを考えて、m円を封筒Aに、2m円を封筒Bに入れて……となりますから、予算制約にたいした意味はありません。むしろ、何の根拠もなく胴元の予算を推量するほうがどうかしてる。そりゃ、予算制約はありますし、それを記号で表記することもできます。だからといって、簡単にそうしてしまうのは、記号を弄んでいるだけで、何の問題解決にもならないと思います。

「記号を弄んでいる」と思うのは、君が意味を理解できないからだ。
他人は自分よりも賢い、という可能性は絶対ないと思ってるのかね?

> つまり、開封前に何かしら推測すること自体がおかしい。そう言っているんです。

推測する必要はない。

期待値が∞になるような確率分布が実現できる限り、パラドックスは起きる。

> 事後確率なんていうベイジアン的な発想は2封筒問題じゃ必要ないと思っていたのですが、

君が知らないからといって、必要ない、とはいえない。

むしろ、封筒を開けた後の確率を考えるのだから、当然事後確率は必要だ。

> そこまで事後確率事後確率と言われると、実は俺も無意識のうちに
> ベイジアン的な発想をしてるのかもしれないと思うようになってきました。

君は、全然出来ていない。ただ確率計算を拒絶してるだけ。
君は何の計算もしていない。数学を全否定している。

意識して確率分布を設定し、意識して事後確率を計算するのだよ。
意識して公式を見て理解するのだよ。

> > なぜ、おかしいといわれているかは理解しているかね?
> うん。俺も変だと思いますし。
> ぶっちゃけ俺は、モンティ・ホール問題だって心情的には納得できないけど、
> 理屈は理解してるってだけですよ。

それはウソだな。君は全然理屈を理解できていない。
なぜなら、君の主張は理屈を完全否定しているからだ。

> > どの封筒を見たかで、何千回何万回やった場合の
> > 損益が変わるというのがオカシイという主張は
> > 理解できているかね?
> どういうことですか?
> 封筒のペアを固定して、封筒を選んで開けて交換してを繰り返すということですか?

なぜ固定するのかね?
固定する必要などないのだよ。

延々とやりつづけた各試行を、自分の金額別に分類すれば
それぞれの分類では、理屈上はみな得をすることになるわけだ。

しかし、これを例えば、相手の金額別で分類しなおせば
それぞれの分類では、理屈上はみな損をすることになるわけだ。

そしてなぜそんなことが起きるかといえば、
足し合わせた全体では、自分の得た金額も、得なかったほうの金額も
無限大になるので、そもそも得とか損とか比較しようがないからなのだ。

> 封筒の金額のペアをで固定して、どっちかを選んで開けて必ず交換すれば、
> 利得は(5/4)*xに近づいていくと思うですが……。

それは、金額xを決めた場合であって、そこから
金額に関わらず、交換すれば得をする、という結論
が自動的に導けるわけではない、ということだ。

> 俺は確率分布が変化すると主張してません。
> 封筒をあらためないことには確率のお話さえできないと言っているんです。

封筒をあらためたところで、確率分布を考えないのなら
確率の話はしようがない。どうやってするのかね?

> 期待効用を用いれば、パラドクスは解決すると言っているわけではありませんよ。
> 効用関数がU(x)=xなら、期待値最大化とまったく同じことになりますから、
> 期待効用を用いれば、常にパラドクスが発生しなくなるなんて、とても言えません。
> 俺が言いたいのは、「効用関数の形状によっては、交換しないのもアリになるよ」ということでした。
> たとえば、・・・

もしかして、知ったかぶりの知識をひけららして
「フフン、俺って賢いだろ?」
っていいたかったのかな?

ああ、賢い賢い。君の賢さはよーくわかったからね。
もういいだろ?オレオレ君。
そんな自明な話、ここでわざわざ聞くほどヒマじゃないんだよ。


Re: 右のインド人氏へ 1 投稿者:右のインド人 投稿日:2012年 1月14日(土)14時32分33秒 返信・引用

> No.3485[元記事へ]

スターダストさんへのお返事です。

> 例えば、ひとつの極論ですが、Mについて、既知であり、1万円としましょう。 胴元の予算は3万円です。 封筒をひとつあけた段階で、金額をみて、それが9000円だったとしましょう。 もうひとつの封筒の金額を Y とすると、Y/9000 という確率変数の期待値は 1.5 です。 オリジナルの問題では、この期待値は1.25だったので、問題の意味が変わってきてしまっていることが数字の上からわかります。
> 以上で見たように胴元の予算を推測できたとするならば、オリジナルの問題から大きく、ずれてしまいます。 Mについて推測できてしまうことにより、一様分布を使ったのに、事前分布が 無情報分布ではなくなってしまう、こんなことが発生してしまうのです。問題に色がついてしまう、そうするとツマラナイのですね。たぶん。

推測できないMなら、それを仮定するのは反対。
数学的便宜上の仮定なら、それにも反対です。

いやいや、便宜上の仮定でパラドクスが解決するのなら、それでいいんですけど、解決しないのであれば「何なんだよ、その仮定・・・。必要なのか?捨ててしまえばいいんじゃないか?」と突っ込まざるを得ません。
つまり、Mを仮定すれば変なこと(矛盾とはあえて言わない)が起こる以上、Mを仮定する議論は無意味と思います。
「なぜMを仮定しするとへんてこりんなこと(矛盾とはあえて言わない)になるか」を考えるのは発展があると思いますが。

> プレイヤーにとってMの存在を前提にし、その具体的な数値を知らない状態、これならば、数学のお話になる、私はそのように申し上げているつもりです。
> なにか他に、問題の意味をあまり壊さずに、確率論にのっかるうまい手があるといいなぁと思っております。うまい手を作ってください。

この手のパラドクスがどうやって公式的に解決されるかは予想できません。
きっと数学の高等教育を受けた人間がやるのだろうという予想くらいしか。

しかし、それが確率論による解決になるとは限りません。
ゲーム理論的アプローチかもしれないし、統計的アプローチかもしれない。
いえ、確率を使わないわけにはいかないでしょうけど、それが主となるかどうかは別の話ということです。

> 準凸でなくて? へぇー…単純にビックリしただけです。

「準凹 効用」でググれば、その詳細があると思います。


Re: 質問が混んで申し訳ありませんが 投稿者:TTT 投稿日:2012年 1月14日(土)03時34分22秒 返信・引用

> No.3486[元記事へ]

φさんへのお返事です。

色々とツッコミどころ満載ですが、その前に以下を確認します。
φさんは『論理パラドクス』の記述、特に

> 何度も繰り返しその賭けをしたときに(正確には無限回行ったとき)その値に一致する、
> という理論値(平均値)が期待値なのである。

> たしかにこのゲームを無限回やれば、「永久に表が出つづける場合」が必ず一度は含まれるから、
> 他の場合と合わせた全体の平均賞金は無限円になるだろう

の部分に関して、この記述は正しく、なおかつ十分に説明・証明されているという認識なんですか?


Re: 質問が混んで申し訳ありませんが 投稿者:φ 投稿日:2012年 1月13日(金)13時40分4秒 返信・引用

> No.3482[元記事へ]

TTTさんへのお返事です。

>
>> (確率が0である所を除き)という但し書きが必要である理由を教えてください。
>
>括弧の但し書きは、厳密に考察する際に必要かもしれないと思い、
>また、もし付ける必要がないとしても、付けても問題ない
>(確率論の定義・計算は、確率が0を除いた所だけ考えれば十分である)ので付けました。
>

 期待値を確率分布で定義するときに「(確率が0である所を除き)」という但し書きをつけると、確率ゼロ以外のところに限れば確率分布は同じでも確率ゼロのところを含めると確率分布が異なってくる場合がある(期待値が一義的に定義できなくなる)、という可能性をわざわざ容認することになります。その可能性がないのであれば、但し書きによって文意を故意に曖昧にするのはおかしい。但し書きというものは、情報量を増やすためにつけるものであり、わざわざ情報量を減らすために文字数を増やすのは誤解のもとです。

 確率分布も期待値も同じ二つの場合で、確率に基づく合理的判断が異なる場合がある、と私は言っています。
 たとえば、確率ゼロのところが可能か不可能かの違いによって確率分布および期待値に違いは生じないにもかかわらず、確率ゼロの事象が可能とされるか不可能とされるかによって合理的判断(確率的な予測など)が異なるべきだ、と言ったのです。
 なので、確率ゼロ以外のところを含めようが含めまいが他の部分の確率がすべて等しければ確率分布・期待値は同じである、ということをわざわざ否定する可能性を仄めかされると、「正しい確率判断のためには確率分布・期待値だけでなく様相命題が必要」という趣旨が導けず、迷惑だということです。

>
> 仮に(賞金後決めでは)コインを無限回投げる事ができ、「永久に表が出つづける場合」が事象として起こり得るとしても
>
> > たしかにこのゲームを無限回やれば、「永久に表が出つづける場合」が必ず一度は含まれる
>
> は言えません。
>

 言えます。
 換言すれば、サンクトペテルブルクのゲームが一度だけ行なわれる無限個の可能世界の中には、永久に表が出続ける可能世界は必ず存在します。
 コイン投げの各回は独立なので、「いつか必ず裏が出なければならない」という保証などないからです。
 こんなことは、確率の初歩だと思いますが?
「確率ゼロ」と「不可能」を混同されては困りますね。

>
> 「永久に表が出つづける場合」は、「コインを無限回投げて裏が出る場合が一度も起きない」と換言でき
> 「必ず一度は含まれる」は、「一度も起きないことはあり得ない」と換言できるので
> 『「永久に表が出つづける場合」が(事象として)あり得て、かつ
>  "このゲーム"を無限回やれば、「永久に表が出つづける場合」が必ず一度は含まれる』
> は
> 『コインを無限回投げても「裏が出る場合」(確率1/2の事象)が一度も起きないことはあり得るのに
>  "このゲーム"を無限回行って「永久に表が出つづける場合」(確率0の事象)が一度も起きないことはあり得ない』
> ということになり、明らかに不当です。
>

とてつもない混乱です。
無限回試行の単位を取り違えてます。

『コインを無限回投げても「裏が出る場合」(確率1/2の事象)が一度も起きない』というとき、その中の一回一回のコイン投げは試行ではありません。コイン投げで表が出続けている間のセットが一試行であり、投げの一回一回は試行の構成部分です。
 「「確率1/2の事象」が一度も起きない」場合こそが「永久に表が出つづける場合」であり、それが無限回試行の中の一試行です。
 「「確率1/2の事象」が一度も起きない」場合がありうる=「永久に表が出つづける場合」が起きないことはありえない ですから、全く矛盾はありません。

 もしも、試行を一回一回のコイン投げとして考えるなら、
A「「裏が出る場合」(確率1/2の事象)が一度も起きない場合」というのはありえません。
 言葉の上では、先ほどのB「「裏が出る場合」(確率1/2の事象)が一度も起きないことはあり得る」と矛盾するように見えますが、もちろん矛盾ではありません。
 Aは、全試行が表ばかりから成る、という意味であり、Bは、全回表ばかりの試行が一回はある、という意味だからです。Aは全称命題で、Bはそれを弱めた存在命題です。

 「「裏が出る場合」(確率1/2の事象)が一度も起きない場合」という句で何を指しているのか、あやふやであっては困りますね。
こんなことを今さら確認する必要などなかったはずですが?

 公刊された書物について「論理的に間違っている」と公言するのは、もっと慎重に考えてからでないと、無責任の誹りはまぬかれないでしょう。(TTTさんは掲示板という場を軽く見ているようなので、何を言っても無駄かもしれませんが)

 ともあれ、
 トムソンのランプを不可能とした場合、
 賞金先決め設定では「永久に表が出つづける場合」は不可能だが、
 賞金後決め設定では「永久に表が出つづける場合」は可能です。

 換言すると、
 賞金をすでに決めて(封筒に入れるなりなんなり具体的に提示されている)世界からは、「永久に表が出つづける可能世界」はアクセス不可能であり、賞金をこれから決める世界からは、「永久に表が出つづける可能世界」はアクセス可能ということです。
 これは確率分布にも期待値にも違いをもたらしはしないにせよ、確率に基づいて何が起こりそうであるかという判断をするときに、その真理条件の違いをもたらすというのが私の言っていることです。つまり、合理的な確率判断に様相は不可欠であると。正しい確率判断にとって必要な情報は、確率分布に加えて様相命題が必要であると。

 なお、数を記述で指示するのは確率分布や期待値を得る際には使えない、とのことですが、推測統計学では、未来の事柄については確率0~1、過去の事柄については確率0か1のみを認めるという立場もあるそうですから、そういう場合は、先決めと後決めでは確率分布そのものがはっきり違うものとして提示されざるをえないでしょう。
 過去の全事象に確率0か1のみを割り当てるためには、確率変数の値を数字ではなく記述で指示する必要があるからです。つまり、前回私が行なった区別(先投げと後投げでは確率分布が同じとする見方と違うとする見方の両方が成り立つ)はあながち間違いではない、と主張することもできます。まあ、ここは語意の規約の問題なので、別にこだわりませんが。


Re: 右のインド人氏へ 1 投稿者:スターダスト 投稿日:2012年 1月12日(木)13時09分28秒 返信・引用

右のインド人さんへのお返事です。

> スターダストさんへのお返事です。
> (snip)
> まぁ俺が賛成できるとしたら、一様分布なんですけどね。
> でもそうすると、スターダストさんがおっしゃるようにMを仮定しないといけない。
> じゃあ「Mって何?」って思うんです。だから何かしらの意味を与えるべきと思います。たとえば予算制約という風な。

ここまで同意です。

> しかし、その予算制約としたのなら、プレイヤーは胴元の予算を推量すべきです。勝手にMとおいて、何かわかった気になるのは愚かですよね。でも、どうやって推量するのかが問題になります。

胴元の予算を推測できるのであれば、それは、無情報分布ではありません。 予算を推測できる分布を仮定した段階で、オリジナルの封筒問題のパラドキシカルな意味合いから大幅に逸脱してしまいます。

例えば、ひとつの極論ですが、Mについて、既知であり、1万円としましょう。 胴元の予算は3万円です。 封筒をひとつあけた段階で、金額をみて、それが9000円だったとしましょう。 もうひとつの封筒の金額を Y とすると、Y/9000 という確率変数の期待値は 1.5 です。 オリジナルの問題では、この期待値は1.25だったので、問題の意味が変わってきてしまっていることが数字の上からわかります。

例えば、胴元は貧乏なサラリーマンで、予算は、おおよそ数万円(アバウトだけれども10万円以下)だとしましょう。 きっちりとしたMはわかりません。 しかし、最初の封筒をあけた段階で金額が6000円なら、「お?これは…もうひとつの封筒はこれの1.5倍を期待できるな、そりゃぁこの推定、はずれるかもだけど、その公算は少ないだろう」となりますし、最初の封筒をあけた段階で金額が60000となっていたら、「うむ、大体の勘だけれど、この金額は予算からみて、金額の大きいほうの小切手相当だな、もうひとつの小切手は、30000ぐらいだと考えるのがだいたい良さそうだ」となってしまいます。

以上で見たように胴元の予算を推測できたとするならば、オリジナルの問題から大きく、ずれてしまいます。 Mについて推測できてしまうことにより、一様分布を使ったのに、事前分布が 無情報分布ではなくなってしまう、こんなことが発生してしまうのです。問題に色がついてしまう、そうするとツマラナイのですね。たぶん。

一方、あらかじめ定められたMの存在のみをプレイヤーが認知し、その具体的な数値について何も与えられていなければ、一様分布を使って確率密度を定義する、これならば無情報分布の基礎としては、十分でしょう。

> 明らかにまともな推量はできませんよね。少なくとも数学のお話じゃなくなる。
> だったら、いっそのこと「開封する前にゴチャゴチャ考えるな!」としたくなるんですよ。

プレイヤーにとってMの存在を前提にし、その具体的な数値を知らない状態、これならば、数学のお話になる、私はそのように申し上げているつもりです。
なにか他に、問題の意味をあまり壊さずに、確率論にのっかるうまい手があるといいなぁと思っております。うまい手を作ってください。

>
> 開封してしまえば、高校レベルのお話まで落ちますからね。楽なもんです。
>
> > > 期待効用を用いれば、パラドクスは解決すると言っているわけではありませんよ。
> > > 効用関数がU(x)=xなら、期待値最大化とまったく同じことになりますから、
> > > 期待効用を用いれば、常にパラドクスが発生しなくなるなんて、とても言えません。
> > > 俺が言いたいのは、「効用関数の形状によっては、交換しないのもアリになるよ」ということでした。
> > > たとえば、U(・)=ln(・)なら、
> > > EU(あらためた封筒)=1*U(x)=ln(x)
> > > EU(逆の封筒)=(1/2)*U(x/2)+(1/2)*U(2x)=ln(x)
> > > で、無差別になりますから、交換しないのもアリですね。
> >
> > この論は、美添論文に詳しいので、以前、こちらの掲示板でも一瞬話題にしたことがあります。
> > 「封筒を交換したとき,もとの状態から効用が変化しないための必要十分条件は,効用u(x) がlog x の1次関数である場合に限られるのである」
> > 「log x という効用関数を利用すれば問題が解決するという議論は,きわめて特殊な効用関数を前提としたときにのみ成立するものであり,普遍的なものとはいえない.」
> > という内容を含む論文です。

> 「じゃあ効用関数に準凹だけ仮定したらどうなるんだろう」と思いましたが、そんな学部卒論級のことをやる気力はありませんでした(いや、面白そうだからやるけど)。
> u(x) = xというのもきわめて特殊ですから、それなら準凹ってほうがいいとは思います。
> でも、準凹も面倒だから、「効用なんて考えるんじゃねぇよ!」としたほうがいいのかな。まぁ何せよ、おもしろい結果が出てきたらいいのですが。

準凸でなくて? へぇー…単純にビックリしただけです。


> > こちらの掲示板では、もっとも簡単な、効用 u(x) = x というモデルを暗黙に使って論議が進んでいますことを、右のインド人さんにお知らせしておきます。封筒問題は金額ベースの話ですので、不自然な効用をアテニしていないのですね、おそらく。
> 俺もちょっと下で「プレイヤーは期待値の最大化をする」という前提でカキコしてるので、ご安心ください。でも、期待利得って書いてあるから、どっちとも取れますね。まぁでも普通に読めば、期待値の最大化ってことはわかっていただけることと思います。

了解いたしました。


Re: 右のインド人氏へ 1 投稿者:右のインド人 投稿日:2012年 1月11日(水)17時05分41秒 返信・引用

> No.3483[元記事へ]

スターダストさんへのお返事です。

> M を定めないと、確率密度関数や累積分布関数が定義できない状況だからです。
> BTXさんが引用してきた「確率分布説?」では、その論の流れをみれば、小さいほうの金額についての確率密度が一様分布に従うこと、このことが暗黙の前提になっていることがわかります。 あらかじめM を定めない限り、どのように(一様な)確率密度を作成しようとも、全空間で積分すると有限値になりません。しかしながら、確率密度の全空間にわたる積分の結果の値は、1になるようにしたいのです。それが、確率密度関数の定義だからです。
> 私は、一様分布をしているという暗黙の前提を生かしつつ、確率について考えるため、M の存在を要請しました。それが先の投稿における私の立場です。
> Mの存在に「俺は反対です」とおっしゃる右のインド人さんに、代替案があれば、よろしいのですが。私には思いつきません。

まぁ俺が賛成できるとしたら、一様分布なんですけどね。
でもそうすると、スターダストさんがおっしゃるようにMを仮定しないといけない。
じゃあ「Mって何?」って思うんです。だから何かしらの意味を与えるべきと思います。たとえば予算制約という風な。
しかし、その予算制約としたのなら、プレイヤーは胴元の予算を推量すべきです。勝手にMとおいて、何かわかった気になるのは愚かですよね。でも、どうやって推量するのかが問題になります。

明らかにまともな推量はできませんよね。少なくとも数学のお話じゃなくなる。
だったら、いっそのこと「開封する前にゴチャゴチャ考えるな!」としたくなるんですよ。

開封してしまえば、高校レベルのお話まで落ちますからね。楽なもんです。

> > 期待効用を用いれば、パラドクスは解決すると言っているわけではありませんよ。
> > 効用関数がU(x)=xなら、期待値最大化とまったく同じことになりますから、
> > 期待効用を用いれば、常にパラドクスが発生しなくなるなんて、とても言えません。
> > 俺が言いたいのは、「効用関数の形状によっては、交換しないのもアリになるよ」ということでした。
> > たとえば、U(・)=ln(・)なら、
> > EU(あらためた封筒)=1*U(x)=ln(x)
> > EU(逆の封筒)=(1/2)*U(x/2)+(1/2)*U(2x)=ln(x)
> > で、無差別になりますから、交換しないのもアリですね。
>
> この論は、美添論文に詳しいので、以前、こちらの掲示板でも一瞬話題にしたことがあります。
> 「封筒を交換したとき,もとの状態から効用が変化しないための必要十分条件は,効用u(x) がlog x の1次関数である場合に限られるのである」
> 「log x という効用関数を利用すれば問題が解決するという議論は,きわめて特殊な効用関数を前提としたときにのみ成立するものであり,普遍的なものとはいえない.」
> という内容を含む論文です。
「じゃあ効用関数に準凹だけ仮定したらどうなるんだろう」と思いましたが、そんな学部卒論級のことをやる気力はありませんでした(いや、面白そうだからやるけど)。
u(x) = xというのもきわめて特殊ですから、それなら準凹ってほうがいいとは思います。
でも、準凹も面倒だから、「効用なんて考えるんじゃねぇよ!」としたほうがいいのかな。まぁ何せよ、おもしろい結果が出てきたらいいのですが。

> こちらの掲示板では、もっとも簡単な、効用 u(x) = x というモデルを暗黙に使って論議が進んでいますことを、右のインド人さんにお知らせしておきます。封筒問題は金額ベースの話ですので、不自然な効用をアテニしていないのですね、おそらく。
俺もちょっと下で「プレイヤーは期待値の最大化をする」という前提でカキコしてるので、ご安心ください。でも、期待利得って書いてあるから、どっちとも取れますね。まぁでも普通に読めば、期待値の最大化ってことはわかっていただけることと思います。


Re: 右のインド人氏へ 1 投稿者:スターダスト 投稿日:2012年 1月11日(水)14時02分9秒 返信・引用

右のインド人さんへのお返事です。

> スターダストさんが直下でやっておられるような、最大Mをあらかじめ定めることも俺は反対です。
> (いえ、スターダストさんが最大値Mを定めたのは、BTXさんに反論するためのものなのかなと思いますが、実際のところどうなんだろう)
>

M を定めないと、確率密度関数や累積分布関数が定義できない状況だからです。
BTXさんが引用してきた「確率分布説?」では、その論の流れをみれば、小さいほうの金額についての確率密度が一様分布に従うこと、このことが暗黙の前提になっていることがわかります。 あらかじめM を定めない限り、どのように(一様な)確率密度を作成しようとも、全空間で積分すると有限値になりません。しかしながら、確率密度の全空間にわたる積分の結果の値は、1になるようにしたいのです。それが、確率密度関数の定義だからです。
私は、一様分布をしているという暗黙の前提を生かしつつ、確率について考えるため、M の存在を要請しました。それが先の投稿における私の立場です。
Mの存在に「俺は反対です」とおっしゃる右のインド人さんに、代替案があれば、よろしいのですが。私には思いつきません。

Mをあらかじめ定めないのであれば、設定として、別途、有用な、「無情報分布」を定める必要があります。そもそも、無情報分布の有力な選択肢として、一様分布がよく使われるのですが、右のインド人さんが、Mの存在を前提にしたくないというお考えなのですから、一様分布は使えないことになります。
0 < x の定義域で積分すると1になる、そのような自然な関数があって、それが無情報分布に従う確率密度関数として使えそうである、しかも、封筒問題の解釈にとって直感的かつ自然である、そのような例を、経済学方面や統計学方面からひっぱってくることもアリだとは思います。しかしですね…

※一様分布は、平行移動不変性から来ているらしいので…
試みに、無情報分布の候補として「尺度不変性(スケールフリー)」を要請するとどうなるか調べましたが、Mを用意しない限り、積分結果は無限大に発散してしまうようです、

>
> > どんな効用をもってきても、
> > 効用が収束しないような分布をもってくれば
> > やはり封筒のパラドックスは生じる。
> 期待効用を用いれば、パラドクスは解決すると言っているわけではありませんよ。
> 効用関数がU(x)=xなら、期待値最大化とまったく同じことになりますから、
> 期待効用を用いれば、常にパラドクスが発生しなくなるなんて、とても言えません。
> 俺が言いたいのは、「効用関数の形状によっては、交換しないのもアリになるよ」ということでした。
> たとえば、U(・)=ln(・)なら、
> EU(あらためた封筒)=1*U(x)=ln(x)
> EU(逆の封筒)=(1/2)*U(x/2)+(1/2)*U(2x)=ln(x)
> で、無差別になりますから、交換しないのもアリですね。

この論は、美添論文に詳しいので、以前、こちらの掲示板でも一瞬話題にしたことがあります。
「封筒を交換したとき,もとの状態から効用が変化しないための必要十分条件は,効用u(x) がlog x の1次関数である場合に限られるのである」
「log x という効用関数を利用すれば問題が解決するという議論は,きわめて特殊な効用関数を前提としたときにのみ成立するものであり,普遍的なものとはいえない.」
という内容を含む論文です。

こちらの掲示板では、もっとも簡単な、効用 u(x) = x というモデルを暗黙に使って論議が進んでいますことを、右のインド人さんにお知らせしておきます。封筒問題は金額ベースの話ですので、不自然な効用をアテニしていないのですね、おそらく。


Re: 質問が混んで申し訳ありませんが 投稿者:TTT 投稿日:2012年 1月11日(水)03時34分30秒 返信・引用

> No.3464[元記事へ]

φ さんへのお返事です。

> (確率が0である所を除き)という但し書きが必要である理由を教えてください。

括弧の但し書きは、厳密に考察する際に必要かもしれないと思い、
また、もし付ける必要がないとしても、付けても問題ない
(確率論の定義・計算は、確率が0を除いた所だけ考えれば十分である)ので付けました。


> ②「確率変数の値」は、数でありさえすればよく、数字以外の名前で指示してもよい、ということであれば、
> 「賞金先決めと賞金後決めでは、確率分布は違う」というのが以前からの私の考えです。

φさんが前から行っている②は駄目です(以前からそう言っています)。

簡単な例では
(主観,客観問わず)どの目が出る確率も1/6であるサイコロを1回投げた時の
出目(に対応する確率変数X)の確率分布と期待値は
「『X=1である確率1/6,・・・,X=6である確率1/6』だから、期待値は 1*(1/6)+ … +6*(1/6) = 3.5」
とするのが正しく、
「出た目を(未知だが確定している。その確定した数を未知数として)aとおけば、『X=aである確率1』だから期待値 a*1 = a」

「出た目が奇数が偶数か未知だが確定している。出た目を2で割った余り(確定した数)を(未知数)bとおけば
『X=2-bである確率1/3, X=4-bである確率1/3, X=6-bである確率1/3』だから期待値は (2-b)*(1/3)+(4-b)*(1/3)+(6-b)*(1/3) = 4-b」
等とするのは誤りです。
上で"期待値"として出てきた3つの値 3.5, a, 4-b は、確率論的にはそれぞれ E[X], E[X|X=a], E[X|X%2=b] と書き明確に区別され
本当に「出目の(Xの)期待値」と呼べるのは E[X] だけです(確率分布に関しても同様です)。(%は余りを返す2項演算とします)

ペテルブルクの場合も同様で、賞金金額(に対応する確率変数)をXとするならば
賞金金額をこれから決まる場合も既に決まった場合も『X=2^(n-1)である確率1/2^n』が正しい確率分布です
(「金額が有限値に決まった」というのは確率1の事象(情報)であり、一般に確率1の情報を加味した事後確率は
 加味する前の確率と同じ値となることからも、賞金確定後の確率分布は確定前の確率分布と等しいことが確かめられます)。


> 特定の先投げ設定ゲームをA、特定の後投げ設定ゲームをBとして、
> ②が許されれば確率分布が異なるというのは、たとえばこういうことです。
> (Aではすでに賞金が決まっているものとします)
> 確定記述「Aの賞金金額×2」の指示対象である数は、Aでは確率ゼロを割り振られるが、Bでは有限の確率を割り振られる。

ゲームAの賞金金額(に対応する確率変数)をX,ゲームBの賞金金額(に対応する確率変数)をYとし、確率測度をPとすると
「Aの賞金金額が、Aの賞金金額×2である確率は0である」というのは「P(X=2X)=0」
「Bの賞金金額が、Aの賞金金額×2である確率は0より大」というのは「P(Y=2X)>0」
という当然の(主観確率,客観確率関係なく成立する)事を言っているだけでしょう。同様に以下も成立します;
「P(X=X/2)=0」即ち「Aの賞金金額が、Aの賞金金額÷2である確率は0である」
(Aの賞金金額は1つの値(0でない)に決まる(決まっている)のだから、Aの賞金金額がその確定した値の半分であることはない)
「P(Y=2Y)=0」 即ち「Bの賞金金額が、Bの賞金金額×2である確率は0である」
(確率1で0<(Bの賞金金額)<∞となるように決まるのだから、Bの賞金金額がその決まる値の2倍である確率は0)

> それは客観的にそう言えるだけであって、主観的にはその数が何なのかはわかりません。

主観と客観(あるいは主観確率と客観確率)を変に中途半端に混同しているから混乱しているだけです。



> 逆に言えば、そんな的外れなことでしか「批判」できないということは、
> まあ、
>『論理パラドクス』の記述にいかに間違いが無いかを保証してくれていることになり、心強い限りですけれどね。

仮に批判が的外れだとしても、反証されないからといって正しいと証明されたことにはなりません(何の保証にもなってません)。
そんなにも自説が正しいと言い張るのであれば、証明を明記して下さい。
証明されていない事を信じるのは勝手ですが、それを強弁するのは幼稚なオカルト信仰と同じです。
しかも、φさんは期待値に関して非常に簡単な(高校生にも確かめられるような)誤りを正しいだろうと予想していたという前科
があるわけですから、φさんの確率・期待値に関する予想なんて信頼性の欠片もありません。


> 『論理パラドクス』の記述では、モンティホールの場合と、サンクトペテルブルクの場合では、事情が異なります。
> モンティホールの場合、ドアの当たりの確率については無設定です。暫定的に(主観確率的に)1/3であるだけです。
> サンクトペテルブルクの場合、コインの表の出る確率については「仕掛けのないコイン」と明記してありますから、
> 傾向性解釈のもとで(客観確率的に)1/2です。

モンティホール問題は始めのドアの当たりの確率に関して無設定である必要はなく
「始めのドアの当たりの確率に偏りがない」と明示されるとしても、確率の値に関して何ら影響しません。
そのように主観確率か客観確率か(あるいは、確率分布が無知か既知か)を対比させる事こそ全くの見当外れです。

>「任意のゲームでなぜ期待値が無限大になるか」という一般論など語っていない。
> サンクトペテルブルクの設定でなぜ期待値が無限大になるかを語っている。

サンクトペテルブルクの設定で賞金の期待値が存在しない事は、計算から直接確かめられる事実です。
期待値が存在しないとわかった上でその理由を説明するのなら
「一般に○○の条件を満たせば期待値が存在しない」「ペテルブルクの設定は○○の条件を満たす」
を言う(示す)等すべきでしょう。

>「このゲームを無限回やれば……」というのが『論理パラドクス』の記述です。
>「このゲーム」ではないゲームへと設定を変更すれば「永久に表が出つづける場合」が必ず一度は含まれても
> 全体の平均賞金は無限円にならない」というのは当然で、何の批判にもなっていません。

任意の命題Qに対して「Qならば、"このゲーム"で賞金の期待値は存在しない」は真ですから
単に文を書き並べただけでは説明したことになりません。
「永久に表が出つづける場合が必ず一度は含まれる」は一般に「期待値が存在しない」の必要条件でも十分条件でもないので
「永久に表が出つづける場合が必ず一度は含まれるから」は何の説明にもなっていません。


>「1/20の確率で表が出るコイン」「表が出た回数がnだったら、2の(n/2)乗円の賞金」
> というのは客観確率または確率変数のあからさまな変更であり、もはや「このゲーム」ではありません。
> (「このゲーム」は、少なくとも、期待値無限大でなければなりません)。

そのような論法は強弁家たちの常套手段ですね。
例えば『論理パラドクス』のモンティホール問題で仮説Pの正しさを同様の論法で主張すると以下のようになります;
 『論理パラドクス』のモンティホールの設定は、ドアの当たりの確率については無設定(無知)だった。
 無設定(無知)だった確率分布を、特定の確率分布に設定する(確率分布が既知となる)ようにするのはあからさまな変更であり
 確率分布が無設定(無知)でなくなってしまった変形問題は、もはやモンティホール問題ではない。
 モンティホール問題ではやはり仮説Pは正しい。

無(無知)設定か、事前確率分布が一様分布である(と知っている)設定だけをモンティホール問題とする、あるいは
仮説Pの前提条件に「確率分布は無(無知)設定か一様分布であると知っている設定である」という条件を加える(条件を制限する)
等とした所でモンティホール問題の仮説Pで、情報を得る(ハズレのドアが開けられる)前後で
各確率の値が変わるor変わらない理由を正しく説明したことになりません。



賞金先決め(既にコインを投げ終えた)か後決め(これからコインを投げ始める)かで
「永久に表が出つづける場合」があり得るか否かで分かれる、という理屈は私にはどうも理解できませんね。
どちらの設定でもそのような場合あり得ないとするか、どちらの設定でもあり得るとするのが自然だと思います。
ただし、確率論的に確率や期待値を論じるだけならば「永久に表が出つづける」などという事象は除外して
離散型確率分布を考えれば十分です。

> ギャンブラーが永久に生きることは物理的に可能だが、トムソンのランプは実現不可能

賞金の決め方としてコイン投げにこだわるならば
(数学の極限の定義、即ち"無限回"の定義からも)「有限時間内でコインが無限回投げられることはない」は自然だと思いますが
そう考えるならば、後決め設定でも「永久に表が出つづける」と言えるような事は起こりません。
いくらギャンブラーが永久に生きようがコインを投げた時間は有限のはずで、有限時間内に投げる回数が有限ならば
「任意の(有限な)回数に対して、全て回で表であり得る」と言えるだけですから、
「永久に表が出つづける場合がある」とは言えません(「永久に表が出つづける場合」は事象ではないとも換言できます)。


仮に(賞金後決めでは)コインを無限回投げる事ができ、「永久に表が出つづける場合」が事象として起こり得るとしても

> たしかにこのゲームを無限回やれば、「永久に表が出つづける場合」が必ず一度は含まれる

は言えません。
「永久に表が出つづける場合」は、「コインを無限回投げて裏が出る場合が一度も起きない」と換言でき
「必ず一度は含まれる」は、「一度も起きないことはあり得ない」と換言できるので
『「永久に表が出つづける場合」が(事象として)あり得て、かつ
 "このゲーム"を無限回やれば、「永久に表が出つづける場合」が必ず一度は含まれる』

『コインを無限回投げても「裏が出る場合」(確率1/2の事象)が一度も起きないことはあり得るのに
 "このゲーム"を無限回行って「永久に表が出つづける場合」(確率0の事象)が一度も起きないことはあり得ない』
ということになり、明らかに不当です。

また前回も指摘したように、期待値が存在して有限(かつ、より強い条件が成立)でないと「大数の法則」が適用できず
「複数回行った時の平均値」が期待値に収束するとは限りませんから
> 何度も繰り返しその賭けをしたときに(正確には無限回行ったとき)その値に一致する、
> という理論値(平均値)が期待値なのである
は言えません。


『論理パラドクス』の記述は(単に正しさが証明されていないだけでなく)論理的に間違いであり、
万が一正しいと証明されたとしても、説明としてはアドホックで無価値です。


Re: 右のインド人氏へ 2 投稿者:右のインド人 投稿日:2012年 1月10日(火)19時40分30秒 返信・引用

> No.3474[元記事へ]

モンテカルロさんへのお返事です。

> >必要ならば、前提と結論に至る過程を書きましょう。
>
> 当然必要だろうw

これを受けましてひとつ。

・胴元とプレイヤー。プレイヤーは何人でもいいけど、とりあえず一人。
・プレイヤーは期待利得を最大にする選択肢を選ぶ
・ゲームは、2つ封筒を用意して、その中にお金が入っている。その金額の比は1:2。
・プレイヤーはまず封筒をひとつ選んで、その中身をあらためる。それから、交換するか否かを決めることができる。

いま、プレイヤーは封筒を選び、その中の金額を確認した。それを金額をx円(x>0)とする。(xは確率変数ではない。所与のデータである)

これにより、もう片方の未開封の封筒の中身がx/2円、または2*x円であることがわかる。

さしあたって、Pr(Y=x/2)=p、Pr(Y=2*x)=1-pとする。(Yは未開封封筒の確率変数。)

すると、期待値Ex(Y)=px/2+(1-p)*2*x=(2-3*p/2)*x
p=1/2とすると、Ex(Y)=(5/4)*x

ちなみにEx(X)=1*x=x(Xはあたらめた封筒の確率変数。まぁ確率変数といっても……)

選択肢は{交換する、交換しない}で、交換したときの期待利得は(5/4)*xで、交換しないときの期待利得はx。

(5/4)*x>xだから、プレイヤーは{交換する}を選択する。



簡単なことを難しく書くと、なんか間抜けだな。

間抜けで思い出したんだけど、BTXさんの「確率分布説」の

> S-e < x < S+e

がSexに見えて仕方がない。


Re: 右のインド人氏へ 1 投稿者:右のインド人 投稿日:2012年 1月10日(火)18時25分56秒 返信・引用

> No.3473[元記事へ]

モンテカルロさんへのお返事です。


> 一度でも考えたかね?
わりと真剣に考えたのですが、さっぱりです(本当です)。
結局何なんですか、交換による利益の率って。


> 事後確率の計算の方法は全く知らないらしいな。
> だったら、調べろ。話はそれからだ。
事前確率も無しに事後確率を計算する方法は、不勉強なので存じ上げません。


> いっておくが、確率分布はいかようにも設定できる。
> そして、「パラドックス」がおきる分布は実際に存在する。
開封前に確率分布を設定することが無意味と思うのですが。
スターダストさんが直下でやっておられるような、最大Mをあらかじめ定めることも俺は反対です。
(いえ、スターダストさんが最大値Mを定めたのは、BTXさんに反論するためのものなのかなと思いますが、実際のところどうなんだろう)


> 封筒問題では、期待値が収束しない。
> しかし、そこから
> 「人間の判断のモデルとしては不正確」
> という結論は導けない。
>
> そもそも判断のモデルの意味が不明。
> また、何が正解か不明なのに、正確も不正確もない。

期待値が収束しない、ですか。
ご自分が勝手に設定した確率分布を用いてるからじゃないんですか?

あと、人間の判断のモデルというのは、人間がする意志決定のモデルということです。
そこで、期待値は議論のたたき台としては役に立ちますが、それ以後はあまり役に立たないということを主張したかったのでした。


> > 選ぶ前には確率分布はわかりませんよね。
> > 選んだ後にわかるというのであれば。その理屈を知りたいのです。
>
> 「わかる」という言葉を用いた瞬間、君は間違ったわけだ。
>
> 確率分布とは設定だよ。設定。
> 結果から推測するものではない。
せいぜい俺が賛成できるのは一様分布なのですよ。
「胴元の予算をMとして、それを1:2に分けるとしたら」というのであれば、まぁ受け入れられます。
誰にだって予算制約があるのですから、そういう仮定はむしろ設けるべきです。
しかし、予算制約を考えようが考えまいが、結論が同じなのだから、ことさらにそれを強調する必要性もありますまい。たとえば、3m≦Mを満たすmを考えて、m円を封筒Aに、2m円を封筒Bに入れて……となりますから、予算制約にたいした意味はありません。むしろ、何の根拠もなく胴元の予算を推量するほうがどうかしてる。そりゃ、予算制約はありますし、それを記号で表記することもできます。だからといって、簡単にそうしてしまうのは、記号を弄んでいるだけで、何の問題解決にもならないと思います。

つまり、開封前に何かしら推測すること自体がおかしい。そう言っているんです。

> 事後確率を知らないのかい?
>
> 情報を得れば、確率分布の中からありえない変数を削除できる。
> そのようにしてもとめられたものが事後確率の分布。
事後確率なんていうベイジアン的な発想は2封筒問題じゃ必要ないと思っていたのですが、
そこまで事後確率事後確率と言われると、実は俺も無意識のうちにベイジアン的な発想をしてるのかもしれないと思うようになってきました。

> >必要ならば、前提と結論に至る過程を書きましょう。
>
> 当然必要だろうw
やっぱりですか。じゃあ書きます。


> なぜ、おかしいといわれているかは理解しているかね?
うん。俺も変だと思いますし。
ぶっちゃけ俺は、モンティ・ホール問題だって心情的には納得できないけど、理屈は理解してるってだけですよ。

> どの封筒を見たかで、何千回何万回やった場合の
> 損益が変わるというのがオカシイという主張は
> 理解できているかね?
どういうことですか?
封筒のペアを固定して、封筒を選んで開けて交換してを繰り返すということですか?
封筒の金額のペアをで固定して、どっちかを選んで開けて必ず交換すれば、利得は(5/4)*xに近づいていくと思うですが……。


> つまり開けるという行為で、確率分布が変わるという証明がない。実際、変わらない。
> 事後確率の分布というのは、単に開封の結果ありえない変数をオミットしただけ。
> 開封によってオミットされる変数は毎回変わる。
> そして、オミットなしの確率分布は変化しない。
俺は確率分布が変化すると主張してません。
封筒をあらためないことには確率のお話さえできないと言っているんです。


> どんな効用をもってきても、
> 効用が収束しないような分布をもってくれば
> やはり封筒のパラドックスは生じる。
期待効用を用いれば、パラドクスは解決すると言っているわけではありませんよ。
効用関数がU(x)=xなら、期待値最大化とまったく同じことになりますから、
期待効用を用いれば、常にパラドクスが発生しなくなるなんて、とても言えません。
俺が言いたいのは、「効用関数の形状によっては、交換しないのもアリになるよ」ということでした。
たとえば、U(・)=ln(・)なら、
EU(あらためた封筒)=1*U(x)=ln(x)
EU(逆の封筒)=(1/2)*U(x/2)+(1/2)*U(2x)=ln(x)
で、無差別になりますから、交換しないのもアリですね。
ちなみにU(x)=x^aタイプだったら、交換したほうがいいということになります。
期待値25%の差を感じますね。


Re: 確率0の所を除く 投稿者:スターダスト 投稿日:2012年 1月10日(火)12時41分44秒 返信・引用

> No.3475[元記事へ]

モンテカルロさんへのお返事です。

> スターダストさんへのお返事です。
> ・・・くどいよ。

あ、本当だ!
切り取りペーストをしたつもりが、単にコピペになっていました。 ご指摘ありがとうございました。


Re: 確率分布説 投稿者:スターダスト 投稿日:2012年 1月10日(火)11時59分45秒 返信・引用

BTXさんへのお返事です。

ベンフォードの法則の適用を一瞬考えてしまいましたが、別物のようですね。

BTXさんwrote:
> φさんへのお返事です。
>
> 2封筒問題です。こちらは、もうちょっと需要がありそうな議論ということで。
> fried_turnip 氏の確率分布説は下記のような推論だと思います。
>
> [1] 胴元は小さい方の金額を先にランダムな方法で D (decided の D)と決め、
> その後で他方を D を 2 倍して 2D と決めた。
> [2] 貴方は封筒をチラッと見て、S (SeenのS) に近い数字が書いてあると思ったが、
> 一瞬しか見れなかったので金額の下の桁が正確に読みとれず、その金額が
> S-e < x < S+e
> なる x であるところまで分かった。
>
> 一旦この条件を付加した状態で Q1→A1 と推論を進め、Q2 によって[2]の条件を外します。
> ([1] は残ったままですが)
>
> ---
> Q1. 貴方の見た封筒が金額の小さい方である確率は?
> A1. 小さい方である場合、x=D より、S-e < D < S+e である。
> つまり、胴元が D を決定する際に、D が 2e の幅に入る必要がある(*1)。
>
> 一方、大きい方である場合、x=2D より、S-e < 2D < S+e である。
> つまり、S/2-e/2 < D < S/2+e/2 である。
> つまり、胴元が D を決定する際に、D が e の幅に入る必要がある(*2)。
>
> (*1)と(*2) では、(*1) の方が2倍起こりやすい。
> よって小さい方である確率は 2/3 である。
>
> Q2. e→0 とするとどうなるか?
> A2. (*1)と(*2)より lim[e→0]{2e/e} = 2 倍起こりやすい。
> 小さい方である確率はやはり 2/3 である。
> ---



● 以下の部分は奇妙です。
===
> (*1)と(*2) では、(*1) の方が2倍起こりやすい。
> よって小さい方である確率は 2/3 である。
===

実際、

> [1] 胴元は小さい方の金額を先にランダムな方法で D (decided の D)と決め、
> その後で他方を D を 2 倍して 2D と決めた。

を、言い換えてみる試みをしましょう。
確率を論議しているので、取扱やすいように、確率密度関数や累積分布関数が定義できるように心がけます。それには、あらかじめ 実数 M ( 0 < M )を定めまして、
0 < θ ≦ M
となる範囲での一様分布をしている θ から、ランダムに D を選ぶことにしましょう。

すると、
0 < D ≦ M
0 < 2D ≦ 2M
が言えるわけです。 D は 額面の小さな方の金額であり、2D は、大きな方の金額ですね。

さらに、こうしで出来た D, 2D から、ランダムに1個取り出し(確率1/2で選ぶ)、それを x としましょう。
念のために書き出しますと、
0 < x ≦ 2M
となっています。

さて、x が、D である確率は 2/3 だというのが、
===
> (*1)と(*2) では、(*1) の方が2倍起こりやすい。
> よって小さい方である確率は 2/3 である。
===
でのfried_turnip 氏の確率分布説でのご主張なのでしょう。
このご主張には異議を唱えたく存じます。理由を以下に書き出します。

まず、Mの実際の値について、胴元のみならず、プレイヤーである「貴方」も知っている条件で考えてみます。
その場合には、開封をして x の実際の値を知っている「貴方」は、次のように場合分けを行うことが適切です。

◎ 0 < x ≦ M
◎ M < x ≦ 2M

前者の場合、
「x が、D である確率は 2/3 だ」という主張には賛成できます。(計算省略)

後者の場合、「x が、D である確率は 2/3 だ」は偽であって、真実は以下のとおりです。
「x が、D である確率は 0 だ」

第一の小結論。
Mの実際の値について知っているプレイヤーおよび、胴元にとって、fried_turnip 氏の確率分布説は、偽です。

===

次に、Mの実際の値について知らないプレイヤーにとっては、どうなのでしょうか。
開封して x の実際の値を知った後であっても、 M について具体的に知らないのですから、プレイヤーは、新たな情報を得たことにはなりません。事後確率の分布を求めることは出来ないと考えられます。
(場合分けをできない)
この時、 「x が、D である確率は 1/2 だ」が成立しています。

Mの実際の値について知らないプレイヤーであっても、M の存在のみを仮定することは妥当でしょう。
その場合、無理に場合分けをするのであれば、Mの実際の値について知っているプレイヤーと同様に、未知なるMで分界点を作って場合分け行うことができます。その場合分けを利用して賭けに勝つ確率をあげることは出来ませんけれども、場合分け「◎ M < x ≦ 2M」のケースを無視することは許されないことでしょう。

なお、
◎ 0 < x ≦ M が発生する確率は 3/4
◎ M < x ≦ 2M が発生する確率は 1/4
となっています。 (計算省略)


第二の小結論。
Mの実際の値について知らないプレイヤーにとって、fried_turnip 氏の確率分布説は、偽です。

===

疑問点のまとめ。

> (*1)と(*2) では、(*1) の方が2倍起こりやすい。
> よって小さい方である確率は 2/3 である。

上の言明は、
◎ M < x ≦ 2M
のケースを無視していると思われます。

===

上のように M を導入したケースでは、開封していない x と、もう片方の封筒の金額 y については、
y/x の期待値も、 x/y の期待値も、 ともに、1.25 です。
( 確率密度関数が問題なく定義できますので、積分計算すればよいだけです。)



確率分布説 投稿者:BTX 投稿日:2012年 1月10日(火)02時16分31秒 返信・引用

> No.2960[元記事へ]

φさんへのお返事です。

2封筒問題です。こちらは、もうちょっと需要がありそうな議論ということで。
fried_turnip 氏の確率分布説は下記のような推論だと思います。

[1] 胴元は小さい方の金額を先にランダムな方法で D (decided の D)と決め、
その後で他方を D を 2 倍して 2D と決めた。
[2] 貴方は封筒をチラッと見て、S (SeenのS) に近い数字が書いてあると思ったが、
一瞬しか見れなかったので金額の下の桁が正確に読みとれず、その金額が
S-e < x < S+e
なる x であるところまで分かった。

一旦この条件を付加した状態で Q1→A1 と推論を進め、Q2 によって[2]の条件を外します。
([1] は残ったままですが)

---
Q1. 貴方の見た封筒が金額の小さい方である確率は?
A1. 小さい方である場合、x=D より、S-e < D < S+e である。
つまり、胴元が D を決定する際に、D が 2e の幅に入る必要がある(*1)。

一方、大きい方である場合、x=2D より、S-e < 2D < S+e である。
つまり、S/2-e/2 < D < S/2+e/2 である。
つまり、胴元が D を決定する際に、D が e の幅に入る必要がある(*2)。

(*1)と(*2) では、(*1) の方が2倍起こりやすい。
よって小さい方である確率は 2/3 である。

Q2. e→0 とするとどうなるか?
A2. (*1)と(*2)より lim[e→0]{2e/e} = 2 倍起こりやすい。
小さい方である確率はやはり 2/3 である。
---

確率分布-誤差のゼロ極限説、とでも言いましょうか。
同氏は「濃度」という言葉で粗い議論になっちゃってますが。
数学者が好きそうな説で、納得感はあると思います。

> fried_turnip氏の説明では、初期金額a円限定のゲームであっても、交換は得ではないことになってしまいます。
> しかし、初期金額a円のゲームに限れば、p.48の設定Sと同じであり、交換は得になります。fried_turnip氏の説明にはこれを否定する含意あり、間違っているのです。(「a円限定ゲームは設定Sと同じ」というのをfried_turnip氏は否定するかもしれませんが、論理的根拠は不明です)
同氏が実際どういうかは分かりませんが、
上記の推論でいくと「初期金額a円のゲームも交換は得でない、設定Sとは異なる」となりそうです。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1441439719


右のインド人のどこがどうナイーブか 投稿者:モンテカルロ 投稿日:2012年 1月 9日(月)15時27分14秒 返信・引用

ズバリ「無限」を「有限」と同様に考えてる点。

実は二封筒問題では「無限ホテルのパラドックス」と同様のことが起きてるわけだ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/ヒルベルトの無限ホテルのパラドックス


Re: 確率0の所を除く 投稿者:モンテカルロ 投稿日:2012年 1月 9日(月)15時21分42秒 返信・引用

> No.3471[元記事へ]

スターダストさんへのお返事です。

> φさんへ。 横レスになりますが。

さらに横レスになるが

> 確率0とは何か…

例えば、自然数全体の中からある数を選んだとき
それが素数である確率は0。

なぜなら1~nまでの自然数の中での素数の率は
nが大きくなればなるほど、小さくなるから。

> ※確率論では「確率 = 0 」は「その事象が起こらない」ことを意味していません。

その通り。

> ※確率論では「確率 = 0 」は「その事象が起こらない」ことを意味していません。

・・・くどいよ。


右のインド人氏へ 2 投稿者:モンテカルロ 投稿日:2012年 1月 9日(月)15時18分2秒 返信・引用

> No.3470[元記事へ]

右のインド人さんへのお返事です。

> 選ぶ前には確率分布はわかりませんよね。
> 選んだ後にわかるというのであれば。その理屈を知りたいのです。

「わかる」という言葉を用いた瞬間、君は間違ったわけだ。

確率分布とは設定だよ。設定。
結果から推測するものではない。

> 選ぶ前からすでに確率分布がわかるというのであれば、
>「選んだ後から考える」というのも変な話です。

事後確率を知らないのかい?

情報を得れば、確率分布の中からありえない変数を削除できる。
そのようにしてもとめられたものが事後確率の分布。

それだけの話。

> あえて「選んだ後」というからには、何か選ぶビフォーアフターで
> 何かが変わると推測するのは自然と思います。
> いや、俺が変なところにこだわっているだけなら話は別なんですが。

考え方の変化は上記に述べた。

いかに君が考えるのが嫌いでも、私の述べた文章の意味は分かるだろう。

> > 私は「自分の金額が決定した場合」といっている。
> >
> > しかし、実際の利益は、そのような限定を必要としない。
>
> こんなこと書かれると、やっぱりモンテカルロさんは
>「二つの封筒をあけてから、高いほう選べばいいじゃん」
>と主張しているような気もします。

君の頭蓋骨の中にあるのは豆腐かい?

> でも、それなら確率は関係ないんで、違うんだろうな。

尋ねるまでもない。

> 俺の主張は、相も変わらず
> 「未開封バージョンは、どちらの封筒を選ぼうが自由。
> 開封バージョンは、あらためた封筒じゃない封筒を選ぶべき」
> という素朴なものです。

相手の封筒を開けた場合はどうかね?自分の封筒を選ぶべき?

>必要ならば、前提と結論に至る過程を書きましょう。

当然必要だろうw

> たとえ「どっち開けても逆なほう選べって言ううのおかしくね?(ここが2封筒問題のキモと思います)」といわれても、

なぜ、おかしいといわれているかは理解しているかね?

どの封筒を見たかで、何千回何万回やった場合の
損益が変わるというのがオカシイという主張は
理解できているかね?

> 「開けるって行為が重要なんだよ」と返します。

その言葉では何の意味もない。

つまり開けるという行為で、確率分布が変わるという証明がない。実際、変わらない。
事後確率の分布というのは、単に開封の結果ありえない変数をオミットしただけ。
開封によってオミットされる変数は毎回変わる。
そして、オミットなしの確率分布は変化しない。

> まぁ期待値じゃなくて、期待効用なら話は違うのですが、

どんな効用をもってきても、
効用が収束しないような分布をもってくれば
やはり封筒のパラドックスは生じる。

> 期待値最大化を前提とすると、上記のような結論になります。

君が人のいったことに追従するだけの
考えることがとことん嫌いなロボット
だということはよくわかった。

人生、楽しいかい?

> もっといえば、俺は
>「合理性とは目的関数の最適化である」
>というステートメントの信者であるということです。

というより、君は結局誰かの信者にしかなりえないということだな。
今まで、一度でも自分の頭で考えたことはないようだ。

> 目的関数を適切な選び方とか最適化の具体的な方法論とかは、
>知ったこっちゃありません。そのつど考えればいいことと思います。

「成功した人の後ろについていけばいい」
という処世術の持ち主らしいが、
成功が単なる幸運による場合、
結局、ロクでもない目にあうぜ。


右のインド人氏へ 1 投稿者:モンテカルロ 投稿日:2012年 1月 9日(月)14時56分43秒 返信・引用

> No.3470[元記事へ]

右のインド人さんへのお返事です。

> > 「自分の金額が決定した場合」の交換による利益の率は決まる。
> > それだけのこと。
>
> この辺の文章の意味はやっぱり不明。
> 率というからには、分母と分子が必要だけど、それがわかりにくい。

一度でも考えたかね?

> まさか二つの封筒を開けてから、高いほうを選ぶとかいう主張でもなさそうだし。

事後確率の計算の方法は全く知らないらしいな。
だったら、調べろ。話はそれからだ。

> 1つも封筒を開けていない状態で、確率分布が出てくる主張も理解不能。

確率分布は、封筒をあけようがあけまいが設定される。

君は、確率分布を、封筒を開けた結果としてのみ理解しようとしているな。

そいつぁ、間違っているぞ。

> 上にでてきた確率分布と確率変数を勝手に仮定するなんて、
> もはや電波がゆんゆんしてると言わざるを得ない。

いっておくが、確率分布はいかようにも設定できる。
そして、「パラドックス」がおきる分布は実際に存在する。

> ひょっとしてアレですか。

いきなり指示代名詞を用いるのは認知症の可能性大。

> 「モンテカルロさんの主張はこうですよね」と確認すると、
> 必ず「違う。お前あほ」と返されるパターンですかね。

どうも、君は自分の発言すら忘れるようだが、
君が、偉そうに発言したのは以下の文句

http://8044.teacup.com/miurat/bbs/3440
「封筒問題は単に「期待値は人間の判断のモデルとしては不正確」というお話であって」

封筒問題では、期待値が収束しない。
しかし、そこから
「人間の判断のモデルとしては不正確」
という結論は導けない。

そもそも判断のモデルの意味が不明。
また、何が正解か不明なのに、正確も不正確もない。

> ネットじゃそういう輩がウジャウジャいるので驚きはしませんが。

ネットだけでなく実生活でも君のように
知ったかぶりで軽率な発言をする人は沢山いる。
そして誤りを指摘しても大抵理解できず
訳のわからんことをいって開き直る。

おそらく自分は神だと思ってるんだろう。
神はなろうとおもってなるもんじゃないんだが。


Re: サンクトペテルブルク 投稿者:モンテカルロ 投稿日:2012年 1月 9日(月)14時41分20秒 返信・引用

> No.3470[元記事へ]

右のインド人さんへのお返事です。

> > 例えば
> > 1の確率を1/4 2の確率を1/8 4の確率を1/16 ・・・
> > 3の確率を1/8 6の確率を1/16 12の確率を1/32 ・・・
> > 5の確率を1/16 10の確率を1/32 20の確率を1/64 ・・・
> > ・・・
> > とすれば、いいだけのこと。
>
> おぉ、確かに。しかもちゃんと期待値がプラス無限大に飛ぶ。すげぇ。

こんなのは朝飯前だ。


確率0の所を除く 投稿者:スターダスト 投稿日:2012年 1月 9日(月)14時40分14秒 返信・引用

φさんへ。 横レスになりますが。

■「期待値は(確率0の所を除いた)確率分布のみによって定義される」
■「確率分布が(確率が0である所を除き)同じである」

確率0とは何か…

0 < x < 1 で定義された y = f(x) という関数があり、
x が 有理数の時には y = 1
x が 無理数の時には y = -1
であるとします。

定義域から任意の x を選んだときに
y = f(x) が 1 である確率は 0 ですし
y = f(x) が -1 である確率は 1 です。

※確率論では「確率 = 0 」は「その事象が起こらない」ことを意味していません。

上記の関数 f の替わりに 以下の g を用意します。

0 < x < 1 で定義された z = g(x) という関数があり、
z = g(x) = -1 とします。
すなわち、同じことですが
x が 有理数の時には z = -1
x が 無理数の時には z = -1
であるとします。

このとき、定義域から任意の x を選んだときに
z = g(x) が 1 である確率は 0 ですし
z = g(x) が -1 である確率は 1 です。

上の f と g の関数は、xが有理数のときに挙動が異なりますけれども、
こと確率を求める際には、その部分は無視してよい結果になっています。

これが、TTTさんのおっしゃるところの「確率0の所を除く」というところのイメージにかなり近いのです。 実際には、測度=0 のところは無視しますよ、という感じになります。
f , g において、x が有理数である測度は 0 なのでした。

===

応用。

無限に広がる二次元平面上の原点にレーザービーム発射装置があったとします。レーザービームは幅が0の光線を発射できます(直線ということ)。光線はこの平面上を進みます。また、光線は減衰しないこととします。
二次元平面上に、1メートル間隔で縦横に幅0の杭が立っているとしましょう。 ビームの向きをランダムにむけたときに、杭にあたって遮られる確率はいくらでしょう?

ちょっと考えると、杭に向けて発射される光線は遮られるはずです。
ところが、ランダムに光線を向けたときに、杭にあたる確率は0なのです。
(直線が有理点を通過するかどうかなので、測度=0)

※確率論では「確率 = 0 」は「その事象が起こらない」ことを意味していません。



Re: サンクトペテルブルク 投稿者:右のインド人 投稿日:2012年 1月 9日(月)12時12分54秒 返信・引用

> No.3462[元記事へ]

モンテカルロさんへのお返事です。

> 例えば
> 1の確率を1/4 2の確率を1/8 4の確率を1/16 ・・・
> 3の確率を1/8 6の確率を1/16 12の確率を1/32 ・・・
> 5の確率を1/16 10の確率を1/32 20の確率を1/64 ・・・
> ・・・
> とすれば、いいだけのこと。

おぉ、確かに。しかもちゃんと期待値がプラス無限大に飛ぶ。すげぇ。

> 私の主張から、そういう意味でないことは自明。
>
> 「自分の金額が決定した場合」の交換による利益の率は決まる。
> それだけのこと。

この辺の文章の意味はやっぱり不明。
率というからには、分母と分子が必要だけど、それがわかりにくい。
まさか二つの封筒を開けてから、高いほうを選ぶとかいう主張でもなさそうだし。
1つも封筒を開けていない状態で、確率分布が出てくる主張も理解不能。
上にでてきた確率分布と確率変数を勝手に仮定するなんて、もはや電波がゆんゆんしてると言わざるを得ない。

ひょっとしてアレですか。
「モンテカルロさんの主張はこうですよね」と確認すると、
必ず「違う。お前あほ」と返されるパターンですかね。
ネットじゃそういう輩がウジャウジャいるので驚きはしませんが。

> > > 「選んだ後から考える」というあなたの条件にもたどり着かない。
> > 選んだあとに変わる、その理屈を(できれば)数式でご教授賜りたいのですが。
>
> 数式以前の問題。
> 貴方が「選んだ後から考える」という
> 前提を誤解したまま改めないならば
> 正解にたどり着けない。
>
> 私は「選んだあとに変わる」とはいっていない。
> そもそも変わるとは何がどう変わるのか不明。

選ぶ前には確率分布はわかりませんよね。
選んだ後にわかるというのであれば。その理屈を知りたいのです。

選ぶ前からすでに確率分布がわかるというのであれば、「選んだ後から考える」というのも変な話です。あえて「選んだ後」というからには、何か選ぶビフォーアフターで何かが変わると推測するのは自然と思います。
いや、俺が変なところにこだわっているだけなら話は別なんですが。

> 私は「自分の金額が決定した場合」といっている。
>
> しかし、実際の利益は、そのような限定を必要としない。

こんなこと書かれると、やっぱりモンテカルロさんは「二つの封筒をあけてから、高いほう選べばいいじゃん」と主張しているような気もします。
でも、それなら確率は関係ないんで、違うんだろうな。

俺の主張は、相も変わらず
「未開封バージョンは、どちらの封筒を選ぼうが自由。開封バージョンは、あらためた封筒じゃない封筒を選ぶべき」
という素朴なものです。必要ならば、前提と結論に至る過程を書きましょう。

たとえ「どっち開けても逆なほう選べって言ううのおかしくね?(ここが2封筒問題のキモと思います)」といわれても、
「開けるって行為が重要なんだよ」と返します。
まぁ期待値じゃなくて、期待効用なら話は違うのですが、期待値最大化を前提とすると、上記のような結論になります。

もっといえば、俺は「合理性とは目的関数の最適化である」というステートメントの信者であるということです。
目的関数を適切な選び方とか最適化の具体的な方法論とかは、知ったこっちゃありません。そのつど考えればいいことと思います。


Re: 「確率が0である所を除き」の意味 投稿者:モンテカルロ 投稿日:2012年 1月 9日(月)10時31分40秒 返信・引用

> No.3468[元記事へ]

φ さんへのお返事です。

> まるっきり的外れなので、書き込むなら
> テキストを参照したうえでやってくれませんか?

まるっきり的外れなので、書き込むなら
期待値の定義を明記した上で、
自分の主張する前提によって、
期待値の値が発散することを、
証明していただけませんか?

>  さて、
>  離散型確率分布における期待値の定義は、
>「確率0の所を除いた」確率分布でなされる、
> というTTT氏の言葉に対し、
> なぜ除く必要があるのかと問うたのです。

TTT氏の言葉の些細な点をあげつらうことで
自らを正当化したいようですが、TTT氏の主張は
正しくは
「2つの確率分布の不一致が確率0の箇所の場合、同じとみなす」
かと思われます。

つまりφ氏のいう「些細な違い」は、数学的には無意味ということです。

>  定義域のすべての値に確率が割り当てられているはずだから、
> 確率ゼロを割り当てられた値を入れようが除こうが、他の値に影響はなく、
> 確率分布から一意的に期待値が求められると思われるからです。

そこまでわかっているなら、ご自分の主張が間違ってることもわかるはずですが?


Re: 「確率が0である所を除き」の意味 投稿者:φ 投稿日:2012年 1月 8日(日)17時34分25秒 返信・引用

> No.3467[元記事へ]

モンテカルロさんへのお返事です。

まるっきり的外れなので、書き込むならテキストを参照したうえでやってくれませんか?

『論理パラドクス』では、
p.77
「任意のゲームでなぜ期待値が無限大になるか」という一般論など語っていない。サンクトペテルブルクの設定でなぜ期待値が無限大になるかを語っている。一般論である仮説Pとは性質が違う。
p.89
問2では、仮説Pを反駁するために、事前確率の設定(当たりの入れ方)そのものの知識を変更しているのであり、そこから問1とは異なる事後確率を計算しようというのである。

 さて、
 離散型確率分布における期待値の定義は、「確率0の所を除いた」確率分布でなされる、 というTTT氏の言葉に対し、なぜ除く必要があるのかと問うたのです。
 定義域のすべての値に確率が割り当てられているはずだから、確率ゼロを割り当てられた値を入れようが除こうが、他の値に影響はなく、確率分布から一意的に期待値が求められると思われるからです。


「確率が0である所を除き」の意味 投稿者:モンテカルロ 投稿日:2012年 1月 8日(日)16時18分54秒 返信・引用

> No.3464[元記事へ]

φ さんへのお返事です。

>  「期待値は(確率0の所を除いた)確率分布のみによって定義されるので」
>  「確率分布が(確率が0である所を除き)同じである」
>  という書き方をしていますが、
>  (確率が0である所を除き)という但し書きが必要である理由を教えてください。

期待値が、積分によって定義されており、
二つの関数が、定義域中の測度0の箇所で
その値が異なっていても、積分の値が同じ
になるから。

こんなことは大学で数学を学んだものなら皆知ってるが、
高校で数学を終わった人はまず知らない。


主観確率は不必要 投稿者:モンテカルロ 投稿日:2012年 1月 8日(日)16時06分48秒 返信・引用

> No.3464[元記事へ]

φ さんへのお返事です。

>  モンティホールの場合、ドアの当たりの確率については無設定です。暫定的に(主観確率的に)1/3であるだけです。
(中略)
>  よって、前者(モンティホール)については、「確率について新たな情報が判明した」という情報が加われば、主観確率は変更されます。これを無視して一般化しているから、仮説Pは間違いなのです。

「主観確率の変更」が誤解。

実際には、事後確率の計算を行っているだけ。
φは事後確率の計算方法を理解できず、
「主観確率の変更」という言葉で誤魔化しただけ。

だから二封筒問題が理解できずに誤解したわけだ。


φの的外れな弁明 投稿者:モンテカルロ 投稿日:2012年 1月 8日(日)15時52分43秒 返信・引用

> No.3464[元記事へ]

φ さんへのお返事です。

>  どうも、率直に言ってくだらない「批判」が続いていますね。
>
>  期待値が有限である設定では、サンクトペテルブルクパラドクスになりませんよ。

どうも率直にいってくだらない「弁明」ですね。

なぜ、期待値が無限になるかについてのφの説明に対して
その説明の条件を満たしているにも関わらず期待値が有限
となるのは、φが間違っているからでしょう。

これを的外れというのはφが全く数学に疎く、
計算一つできないからだといわざるを得ません。

数学ができないなら、確率なんかわかるわけありませんよ。
確率は数学ですから。


質問が混んで申し訳ありませんが 投稿者:φ 投稿日:2012年 1月 8日(日)12時46分47秒 返信・引用

 どうも、率直に言ってくだらない「批判」が続いていますね。

 期待値が有限である設定では、サンクトペテルブルクパラドクスになりませんよ。

 期待値無限大のサンクトペテルブルクパラドクスについての『論理パラドクス』の説明に対して、サンクトペテルブルクパラドクスでない設定を持ってきて「これに当てはまらないから『論理パラドクス』は間違ってる」とは、なんとも間違った「批判」ですね。

 逆に言えば、そんな的外れなことでしか「批判」できないということは、
 まあ、
 『論理パラドクス』の記述にいかに間違いが無いかを保証してくれていることになり、心強い限りですけれどね。

  (ちなみに、過去ログを見ていただけるとわかりますが、この掲示板では何度か、パラドクスシリーズの記述について誤りを指摘されました。正しいと思った指摘については、私はそのつど誤りを認めています。しかし今回のはどうも、拙著に書かれていない文言を捏造するか、的外れであるかいずれかで、「御指摘ありがとうございます」とお礼を申し上げるべきレベルではないようです……)

 もう少し述べましょう。

>
> 『論理パラドクス』の記述がなんであれ、期待値が無限大になる理由を
> 「このゲームを無限回やれば、賞金が無限大になる場合が必ず1度は起きるから」
> とすることは正しくないことが証明されました(反例を挙げました)。
>

 私が言っていないことを引用符で括って反例をお示しいただいても何の参考にもなりません。

>
> コインの確率を変更しただけでφさんの説明
> > このゲームを無限回やれば、「永久に表が出つづける場合」が必ず一度は含まれるから、
> > 他の場合と合わせた全体の平均賞金は無限円になるだろう
> は、全くの出鱈目であることが確かめられましたから、潔くその説明は棄却しなければなりません
> (間違った説明にいつまでも固執しているようでは、仮説Pに執着して強弁している人と同じレベルです)。
>

 『論理パラドクス』の記述では、モンティホールの場合と、サンクトペテルブルクの場合では、事情が異なります。
 モンティホールの場合、ドアの当たりの確率については無設定です。暫定的に(主観確率的に)1/3であるだけです。
 サンクトペテルブルクの場合、コインの表の出る確率については「仕掛けのないコイン」と明記してありますから、傾向性解釈のもとで(客観確率的に)1/2です。
 (同様に、賞金の設定についても明示してあります)

 よって、前者については、「確率について新たな情報が判明した」という情報が加われば、主観確率は変更されます。これを無視して一般化しているから、仮説Pは間違いなのです。
 他方、後者については、「1/20の確率で表が出るコイン」「表が出た回数がnだったら、2の(n/2)乗円の賞金」というのは客観確率または確率変数のあからさまな変更であり、もはや「このゲーム」ではありません。(「このゲーム」は、少なくとも、期待値無限大でなければなりません)。

 ちなみに、「永久に表が出つづけたときの賞金金額がいくらに設定されても、『論理パラドクス』の趣旨には影響ありません」と私が言ったのは、『論理パラドクス』では明示していない「永久に表が出つづけたときの賞金金額」の変更については自由ということで、書いてある部分についての変更は「このゲーム性」を失わせます。

 「このゲームを無限回やれば……」というのが『論理パラドクス』の記述です。
 「このゲーム」ではないゲームへと設定を変更すれば「永久に表が出つづける場合」が必ず一度は含まれても全体の平均賞金は無限円にならない」というのは当然で、何の批判にもなっていません。
 いずれにせよ、期待値が有限であるような新しい設定を持ち出せば、古い記述が誤りになるのは当たり前です。
 まことに的外れの「批判」でした。
 今後は、そのレベルの「批判」にはお答えは省略させていただきますのでご了承ください。

>
> "トムソンのランプのような物理的不可能設定"に触れずに
> > 賞金金額をこれから決める場合と既に決まったが無知である場合とでは、確率分布は同じなのでしょうが
> と認めたわけですから、"トムソンのランプのような設定"を不可能と考えるか否かに依らず(「未知ながら確実に上限が存在した」に関係なく)
> 確率分布が(確率が0である所を除き)同じである、と現段階では認めた
> (φさんのその"当初の考え"は単に誤りであった)ということですね?
>
> ↑この部分が正しく理解できているか否かが、2封筒問題や「射撃室のパラドクス」の話にも影響し得る重要な箇所ですので、確認させて下さい。
>

 御指摘の部分は、いくつかの書き込みにまたがっているので追跡が面倒ですが、たしかに私がおかしな書き方をしていますね。
 つまり、「賞金先決めと賞金後決めでは、確率分布が同じなのか違うのか」あやふやな書き方になっています。「違う」と言っているところもあれば、「同じ」と認めているところもあります。たしかに誤解を与えています。申し訳ありません。

 単純化のために、トムソンのランプは不可能としておきましょう(先決め設定では、コイン投げが有限回で終わっているものとします)。
 で、端的に言うと、次のようなことです。
確率分布とは、確率変数の値に確率を割り振ったものでしょう。
 そして、確率変数の値は、数でなければならないでしょう。
 しかし、「数の指示の仕方」については決まりがあるのかどうか。
 (↑↓これ、数学の専門家にはご教示願いたいところです)

 ①「確率変数の値」は、必ず数字で指示しなければならない、ということであれば、「賞金先決めと賞金後決めでは、確率分布は同じ」というのが以前からの私の考えです。
 ②「確率変数の値」は、数でありさえすればよく、数字以外の名前で指示してもよい、ということであれば、「賞金先決めと賞金後決めでは、確率分布は違う」というのが以前からの私の考えです。

 前回は、②に従って、
 「賞金先決めでは未知ながら確実に上限が存在した」から「賞金先決めと賞金後決めでは異なる確率分布を想定しました」と書いたのです。

 http://8044.teacup.com/miurat/bbs/3437で「賞金金額をこれから決める場合と既に決まったが無知である場合とでは、確率分布は同じなのでしょうが」と書いたのは、①に従っています。

 特定の先投げ設定ゲームをA、特定の後投げ設定ゲームをBとして、
 ②が許されれば確率分布が異なるというのは、たとえばこういうことです。
 (Aではすでに賞金が決まっているものとします)
  確定記述「Aの賞金金額×2」の指示対象である数は、Aでは確率ゼロを割り振られるが、Bでは有限の確率を割り振られる。よって、AとBとでは確率分布は異なる。

 確定記述「Aの賞金金額×2」は確かに一意的に数を指示しているため、確率変数の値としてふさわしいはずだが、それは客観的にそう言えるだけであって、主観的にはその数が何なのかはわかりません。
 よって、①と②をこう言い換えてもよいでしょう。

 主観確率的には、賞金先決めと賞金後決めでは、確率分布が同じ。
 客観確率的には、賞金先決めと賞金後決めでは、確率分布が違う。

 具体的な数字以外で確率変数の値を指示することは認められない、というのであれば、賞金先決めと賞金後決めで確率分布が同じです。
 確率変数の値としては客観的に特定の数を指示できていさえすればよく、必ずしも数字が用いられている必要はない、というのであれば、賞金先決めと賞金後決めで確率分布が違います。

 哲学的には、数を指示するという点では数字も確定記述も同等であり、どちらが「確率分布」の特定にとって適切かは決められません。数字による指示は、他の指示の仕方に比べ、計算に便利というだけであって、客観的には数の指示において特権的ではありません。
 数学的にはどうなのか? 計算に使えるのは確定記述ではなく数字だから、数字だけが許される、ということでしょうか。
  もしそうであれば、「確率分布」という語の定義からして、前回書いた
 「賞金先決めでは未知ながら確実に上限が存在したので、賞金先決めと賞金後決めでは異なる確率分布を想定しました」
 というのは撤回します。

 確率変数を数字以外で指示することも許されるなら、撤回しません。

 ところで、質問が続いて恐縮ですが、
 TTTさんの書き方でわからないことがあります。
 何日かにわたってしばしば、
 「期待値は(確率0の所を除いた)確率分布のみによって定義されるので」
 「確率分布が(確率が0である所を除き)同じである」
 という書き方をしていますが、
 (確率が0である所を除き)という但し書きが必要である理由を教えてください。
 たとえば、二つの確率分布において、違いは、確率ゼロが割り振られている事象が可能であるか不可能であるかの違いだけである場合、その二つの確率分布は、確率ゼロの所も含めて(「除いて」ではなく)同じなのではありませんか?
 

Re: ペテルブルクのゲームに関して 投稿者:モンテカルロ 投稿日:2012年 1月 7日(土)17時46分44秒 返信・引用

> No.3460[元記事へ]

φ さんへのお返事です。

(期待値が無限大になる理由は)
>  「このゲームを無限回やれば、「永久に表が出つづける場合」が必ず一度は含まれるから」(p.77.)です。

正しくない。

なぜなら、賞金の金額設定を変えれば期待値が有限になるから。

「表が出た回数がnだったら、あなたは2のn乗円の賞金をもらえることになっている」(p.76.)
の代わりに
「表が出た回数がnだったら、あなたは2の(n/2)乗円の賞金をもらえることになっている」
としたら、期待値は有限になる。

>  永久に表が出つづけたときの賞金金額がいくらに設定されても、『論理パラドクス』の趣旨には影響ありません。

しかし、「永久に表が出つづける場合」が必ず一度は含まれる、という条件を変えないまま
賞金の金額設定を変えた場合、成り立たなくなる。

つまり、あなたの主張は間違っている。

>  掲示板とはいえ、学問のルールを守ってください。
>  原文の文言を参照せずに論ずるなどというのは、文科系の世界では落第ですけれどね。

計算一つせずに主張するのは、数学の世界では落第である。

>  しょせん掲示板だから、いい加減でいいだろう、ってことでしょうか。
>  失礼ながら、学問をナメているようですね……。
>  まあ、「議論」ではなく「雑談」だというのであればお相手続けられますが。

だれもあなたと「議論」をしていない。
あなたに数学を指導している。

あなたが、そのことを理解できていないだけ。


Re: サンクトペテルブルク 投稿者:モンテカルロ 投稿日:2012年 1月 7日(土)17時32分45秒 返信・引用

> No.3458[元記事へ]

右のインド人さんへのお返事です。

> > 加えても結果は変わらないから
> > もっとも簡単な場合でやってみた。
> > それだけのこと。
> なるほど。ではその具体例をご教授賜りたいのですが。
> すべての自然数(偶数に限るべきなのでしょうが)が出てくるような、
> そんな確率分布を。

例えば
1の確率を1/4 2の確率を1/8 4の確率を1/16 ・・・
3の確率を1/8 6の確率を1/16 12の確率を1/32 ・・・
5の確率を1/16 10の確率を1/32 20の確率を1/64 ・・・
・・・
とすれば、いいだけのこと。

> > xに封筒の金額の期待値を入れるとしよう。
> >
> > 期待値が∞なら (5/4)*∞も∞だから、
> > そもそも、x<(5/4)*x、とはいえない。
> >
> > ∞=∞ともいえないが
> > (そもそも∞は数じゃないから)
>
> 期待値を代入する意味は?
> ってか、「交換による利益の率は、金額によらず一定である」というのが
> 期待値の比が一定という意味なのであれば、

私の主張から、そういう意味でないことは自明。

「自分の金額が決定した場合」の交換による利益の率は決まる。
それだけのこと。

> > >  1円の確率が1/2
> > >  2円の確率が1/4
> > >  ・・・
> > >  2^nの確率が1/2^(n+1)
> というゲームはその条件を満たしていません。
> 互いに無限大に発散しているのだから、
> その比も定義されないのですから。

したがって、この反論は意味を失った。

> > 「選んだ後から考える」というあなたの条件にもたどり着かない。
> 選んだあとに変わる、その理屈を(できれば)数式でご教授賜りたいのですが。

数式以前の問題。
貴方が「選んだ後から考える」という
前提を誤解したまま改めないならば
正解にたどり着けない。

私は「選んだあとに変わる」とはいっていない。
そもそも変わるとは何がどう変わるのか不明。

> > 「得をする」という言い方で発作がおきるのであれば、
> >
> > 「あたらめた封筒の金額を所与の変数(確率変数じゃない)をxとするとき
> >  もう片方の封筒の金額の期待値は(5/4)*xとなる」
> >
> > とでも言い換えればいい。私がいうのはその意味でしかない。
>
> なるほど、しかし、
> > >  1円の確率が1/2
> > >  2円の確率が1/4
> > >  ・・・
> > >  2^nの確率が1/2^(n+1)
> と仮定している以上、モンテカルロさんの考えで、
>果たしてもう片方の金額が(5/4)*xになるのでしょうか。

私は「自分の金額が決定した場合」といっている。

しかし、実際の利益は、そのような限定を必要としない。

> 難しいことは要求していないので、もう一度ご指導のほどをお願いいたします。

問題を難しくしているのは、あなた自身の人格である。
あなたはあなた自身の人格にお願いしたほうがいい。
「どうか、私自身の誤りを認めて、以前の主張を撤回させてください」と


Re: ペテルブルクのゲームに関して 投稿者:TTT 投稿日:2012年 1月 6日(金)02時40分48秒 返信・引用

> No.3460[元記事へ]

φ さんへのお返事です。

>> ともあれ、期待値が無限大になる理由を
>> 「このゲームを無限回やれば、賞金が無限大になる場合が必ず1度は起きるから」
>> とすることは正しくないことが証明されました(反例を挙げました)。
>>
>
> 重ねて言いますが、でたらめな引用モドキはやめてほしいのですよ。
> 『論理パラドクス』に書かれているのは、「このゲームを無限回やれば、賞金が無限大になる場合が必ず1度は起きるから」ではありません。
> 「このゲームを無限回やれば、「永久に表が出つづける場合」が必ず一度は含まれるから」(p.77.)です。

今回は引用モドキはしてませんよ。

『論理パラドクス』の記述がなんであれ、期待値が無限大になる理由を
「このゲームを無限回やれば、賞金が無限大になる場合が必ず1度は起きるから」
とすることは正しくないことが証明されました(反例を挙げました)。

こう書けば満足ですか?
私の主張を引用して批判するときは、主張の文章を切り貼りして勝手に趣旨を変えるというような事はしないで欲しいですね。


> 永久に表が出つづけたときの賞金金額がいくらに設定されても、『論理パラドクス』の趣旨には影響ありません。

『論理パラドクス』の記述は
> たしかにこのゲームを無限回やれば、「永久に表が出つづける場合」が必ず一度は含まれるから、
> 他の場合と合わせた全体の平均賞金は無限円になるだろう
ですが、これも同様に正しくありません。実際
「裏が出るまでコインを投げ続けて、n回表が出たなら2^(n-1)円貰える」という『論理パラドクス』のサンクトペテルブルクと同様のゲームを
1/20の確率で表が出るコインで行うと、(永久に表が出つづけたときの賞金金額がいくらに設定されても)
> このゲームを無限回やれば、「永久に表が出つづける場合」が必ず一度は含まれるから、
> 他の場合と合わせた全体の平均賞金は無限円になるだろう
は誤りです。期待値は有限であり、さらに大数の法則(特に強法則)が適用できるので、賞金の平均は期待値(有限値)に概収束します(既に書きました)。
「永久に表が出つづける場合が必ず1度は起きる」というのは、なんの根拠にもなっていません。

モンティホールの問題で、間違った理由の説明(『論理パラドクス』の仮説P)を強弁する人を他の掲示板や個人ブログで見かけたことがますが、
その説明(『論理パラドクス』の仮説P)が正しくないことは、問題の設定を一般化(少し変更)した変形問題を考えることで確かめられます。
今回の場合も同様で、コインの確率を変更しただけでφさんの説明
> このゲームを無限回やれば、「永久に表が出つづける場合」が必ず一度は含まれるから、
> 他の場合と合わせた全体の平均賞金は無限円になるだろう
は、全くの出鱈目であることが確かめられましたから、潔くその説明は棄却しなければなりません
(間違った説明にいつまでも固執しているようでは、仮説Pに執着して強弁している人と同じレベルです)。


> 有限時間内に無限回コインが投げられると仮定したのはTTTさんですので。
いいえ。φさんの主張(恣意的な先決めの定義)から、
有限時間内に無限回コインが投げられるというようなことがないと仮定しなければ(恣意的な定義をしないなら)、
「賞金先決めの場合に無限回コインが投げられ得ることはない」とは言えない
と導いただけです。

> 当然、その仮定と、サンクトペテルブルクのルールとからは、「賞金無限大」が出てきますよ。
ならば、『論理パラドクス』のペテルブルクのルールで、賞金を先決めする設定は
確率論的にナンセンスな設定である、という結論が得られます。


> 合理的判断については、前回私は、「正しい確率判断」とも言い換えましたよ。
> 設定Aと設定Bでは、「起こりうることの確率について、正しい判断が食い違う」という意味です。明瞭でしょう。

その文を見ても全く明瞭ではありません。"正しい判断"の定義が不明瞭です。
確率論に"確率判断"や"正しい判断"といった語は通常定義されず、用いられることはありません。
私は超能力者ではないのでφさんのそれらの文から、φさんが勝手に正しいと思い込んでいる判断ことを"正しい判断"と呼んでいるだけなのか、
定義があるのか、定義があるのならばそれは具体的にどんな定義か(恣意的でないか、well-definedか等)判りません。

同一の語句を曖昧な意味や複数の意味で用いることで読み手を(さらには書き手自身も)混乱させたり騙したりする詭弁・誤謬は
よくあることですから、不明瞭な語句の定義を確認する作業は議論において重要です。


確率論で表現できる情報は確率空間が全てです
(確率が0である事象や、"非実数"の事象も表現できますが、"分岐の遠近"や"様相論理"は表現されません)から
> 様相の判断ができないと、正しい確率判断ができません。
だとするならば

「確率空間だけわかっても、正しい"確率判断"ができない(確率空間が同じでも、"確率判断"が同じとは限らない)」

と言えますね。


> 当初は、私はトムソンのランプのような物理的不可能設定は考えていなかったため
(中略)
> 賞金先決めと賞金後決めでは異なる確率分布を想定しました。
> とくに、賞金先決めでは賞金が具体的にすでに用意されていなければなりませんでしたから、未知ながら確実に上限が存在したのです。

とありますが、"トムソンのランプのような物理的不可能設定"に触れずに
> 賞金金額をこれから決める場合と既に決まったが無知である場合とでは、確率分布は同じなのでしょうが
と認めたわけですから、"トムソンのランプのような設定"を不可能と考えるか否かに依らず(「未知ながら確実に上限が存在した」に関係なく)
確率分布が(確率が0である所を除き)同じである、と現段階では認めた
(φさんのその"当初の考え"は単に誤りであった)ということですね?

↑この部分が正しく理解できているか否かが、2封筒問題や「射撃室のパラドクス」の話にも影響し得る重要な箇所ですので、確認させて下さい。


> 確率分布が等しいのに事象の確率が異なるとは?
> 具体例はおわかりですか?

確率分布が等しいならば、確率論の定義から事象の確率は同じですから、そのようなことはありません。
φさんの"確率分布"や"事象","確率"といった語の使い方が間違いなのでしょう。
「(φさんの理論で言うところの)"アクセス可能な可能世界"や"分岐の近さが同じ可能世界群"毎で考えた場合に、事象の確率が異なる」
というような意味のことを言いたいのであれば、
(「"分岐の近さ"等の概念がちゃんと定式化できる」とするならば)私が前回書いたように
「確率分布は同一であるが"分岐の近さ"が異なる(または不明瞭な)設定など無数に作り出せる」から言えます。



私はφさんの主張の数学的な誤りを指摘しているだけです。
もしφさんの"合理的判断"が確率論に全く関係なく定義されている(φさんの主張の"確率"等の語は現代数学の術語とは一切関係ない)
ということを認める(しっかりと明記する)ならば、私はφさんの主張を一切批判しません。

また、定義・意味が不明瞭であったり、恣意的な定義であるなら"合理的判断"に関する議論など興味がありません
("合理的判断"が判らないので、判らないものに対して批判などできません)。


φさんは数学、特に確率論を勉強したことがあるようには思えないのですが
数学をろくに勉強したこともないなら、数学の術語をテキトーに用いたり、数学的に出鱈目なことを書いたりしないで欲しいですね
(テキトーなことを書いてお金が貰えるなんて、羨ましい限りではありますが)。
数学を勉強したことのない読者(やφさん自身)は騙せても、数学をある程度学んだ人には誤魔化せません。

『論理パラドクス』のペテルブルクの節に
> 何度も繰り返しその賭けをしたときに(正確には無限回行ったとき)その値に一致する、
> という理論値(平均値)が期待値なのである
という記述があり、これは確率論の大数の法則の主張と似ていますが、
大数の法則は「期待値が存在(有限)」等の条件を満たさなければ、適用できません
(大数の法則が適用できない場合、期待値を"無限回行った時の平均値"と意味付けすることは正しいとは言えません)。
期待値が存在して有限であっても、大数の法則が適用できない場合というのも存在しますが
そのような具体例は挙げられますか?


Re: ペテルブルクのゲームに関して 投稿者:φ 投稿日:2012年 1月 5日(木)13時24分24秒 返信・引用

> No.3459[元記事へ]

TTTさんへのお返事です。

>
> φさんは「賞金が無限大であることが(確率は0だが)あり得る」と考え、また『論理パラドクス』では
> 期待値が無限大である根拠を「このゲームを無限回やれば、賞金が無限大になる場合が必ず1度は起きるから」
> と説明していますが、これは間違いです。
>
> ともあれ、期待値が無限大になる理由を
> 「このゲームを無限回やれば、賞金が無限大になる場合が必ず1度は起きるから」
> とすることは正しくないことが証明されました(反例を挙げました)。
>

 重ねて言いますが、でたらめな引用モドキはやめてほしいのですよ。
 『論理パラドクス』に書かれているのは、「このゲームを無限回やれば、賞金が無限大になる場合が必ず1度は起きるから」ではありません。
 「このゲームを無限回やれば、「永久に表が出つづける場合」が必ず一度は含まれるから」(p.77.)です。

 永久に表が出つづけたときの賞金金額がいくらに設定されても、『論理パラドクス』の趣旨には影響ありません。
 批判するときには、正確に引用してくれと申し上げたはずです。
 そうでなければ、本から引用した振りをするのはやめていただきたいですね。
 掲示板とはいえ、学問のルールを守ってください。

 原文の文言を参照せずに論ずるなどというのは、文科系の世界では落第ですけれどね。
 ヒュー・エヴェレットの原文を読みもせずに多世界解釈を「議論」しようとする人がちょっと前までこの掲示板にいましたが、TTTさんもどうやら同様のレベルですかね。
 しょせん掲示板だから、いい加減でいいだろう、ってことでしょうか。
 失礼ながら、学問をナメているようですね……。
 まあ、「議論」ではなく「雑談」だというのであればお相手続けられますが。

>
> 値が非実数になり得るような確率変数・確率分布(確率空間)は存在しません(そのようなものは確率変数・確率分布とは呼べません)。
>

 有限時間内に無限回コインが投げられると仮定したのはTTTさんですので。
 当然、その仮定と、サンクトペテルブルクのルールとからは、「賞金無限大」が出てきますよ。
 それがいやなら、TTTさんが御自分の仮定を引っ込めればよいだけです。
 上記のように、私は「賞金無限大の場合がある」とは言っていないのですから。「永久に表が出続けることがありうる」と言っているだけで。

>
> φさんは未だに、(φさんが勝手に合理的だと思っている)"合理的判断"と、確率・期待値のみに依る判断(数式や論理式)
> とを混同しているようですね。(何度も言っていますが)φさんの用いる"合理的"や"損得"の定義・意味が不明瞭であるので
> 「合理的判断に違いが生ずる」が間違いかどうかなど論じようがありません。
>

 合理的判断については、前回私は、「正しい確率判断」とも言い換えましたよ。
 設定Aと設定Bでは、「起こりうることの確率について、正しい判断が食い違う」という意味です。明瞭でしょう。

>
> 私の主張は「確率・期待値は様相論理や可能世界とは全く関係なく定義され決まる」であって
> φさんの"合理的判断"が"論理構造(とφさんが呼ぶモノ)"に依存するならば、
> "合理的判断"から期待値(存在性や大小等)を求めたり、逆に期待値から"合理的判断"を求めることもできない
> ということです。
>

 間違ってますよ。
 確率の定義に様相が出てこなくても、その論理は様相と密接に関係しています。
 様相の判断ができないと、正しい確率判断ができません。
 設定Aと設定Bとでは、真なる様相命題が異なるために、「ある確率で起こる事柄に違いが生ずる」のです。
 設定Aと設定Bとでは、確率分布および期待値はまったく同じでも、可能世界のメンバーが異なるために、事象の確率が異なるのです。
 確率分布が等しいのに事象の確率が異なるとは?
 具体例はおわかりですか?

 様相を無視していたのではおわかりにならないかもしれませんが……。

>
> まずは、φさんが「"論理構造"が異なるが確率分布は(確率0の所を除き)同じ」と認めたサンクトペテルブルクに関して
> 「確率分布が同じならば期待値(存在性や値)が同じ」も認めて納得した、と確認できるまでは
> 他の問題に関する質問・意見に応える気はありません(それこそ健全に先へと進めませんから)。
>

 これについては二つ言うべきことがあります。
 当初は、私はトムソンのランプのような物理的不可能設定は考えていなかったため(ギャンブラーが永久に生きることは物理的に可能だが、トムソンのランプは実現不可能)、賞金先決めと賞金後決めでは異なる確率分布を想定しました。とくに、賞金先決めでは賞金が具体的にすでに用意されていなければなりませんでしたから、未知ながら確実に上限が存在したのです。
 ですから、
 「確率分布が同じなら期待値は同じ」というのは、私は始めから認めているわけです。
 単に、先決めと後決めでは確率分布が違うと想定していただけです。

 第二に、「確率分布が同じなら期待値は同じ」というのはその通りですが、「確率分布が同じでも、起こりそうなことは異なる」場合があるということです。とくに、「特定の確率で起こることが何であるか」について食い違う場合があります。

 そういう場合がどういうものであるか、おわかりでしょうか?
 この掲示板でも最近、それの話題が出てきましたよ。

 これは射撃室のパラドクスに関係しますから、
 ともあれ、TTTさんの言う、射撃室のパラドクスの
 「[1]と[2]の考察では実は異なる確率分布を仮定している」
 を説明してください。

しかし『論理サバイバル』が手もとにないんじゃ、また時間がかかりそうですかね……?

 また不正確な書き込みをされるくらいなら、時間がかかってもかまいませんけれど。


Re: ペテルブルクのゲームに関して 投稿者:TTT 投稿日:2012年 1月 5日(木)02時12分16秒 返信・引用

> No.3455[元記事へ]

φ さんへのお返事です。

> 私が76頁に書いたルール説明は、
> 「表が出た回数がnだったら、あなたは2のn乗円の賞金をもらえることになっている」
> のはずです。
> 批判するときには趣旨を勝手に変えずに、私の原文を正しく引用するようにお願いします。

これは失礼しました。
「コインを投げ続けて、n回目にはじめて表が出たならば賞金として2^(n-1)円もらえる」
がwikipediaの設定で、それと混同していたようです。
ただ手元に本がないので、できる限り正確に書くつもりですが、今後も原文をそのまま引用することはできません。

ともあれ、期待値が無限大になる理由を
「このゲームを無限回やれば、賞金が無限大になる場合が必ず1度は起きるから」
とすることは正しくないことが証明されました(反例を挙げました)。


> TTTさんがこだわるのであれば

逆ですよ。
私は「期待値(の存在性や値)は、賞金が先決めか後決めか、賞金が無限大(になる確率は0だが)なり得るか否かに関係ない」と思っています。
しかしφさんが「賞金が先決めか後決めか」「賞金が無限大に(なる確率は0だが)なり得るか否か」にこだわっているので、それらの反例として
「コインが投げ終わっているいても(先決めでも)、(後決めと同様に)表が無限回出続けることもあり得る」
「賞金が無限大になり得ない場合でも、賞金の期待値が無限大になることもある」
「賞金がいくらでも大きくなり得るが、期待値が有限であることもある」
等を挙げたんです。


> なお、「コインを投げ終えていて、無限回表が出ている」ような場合というのは、「トムソンのランプ」のような状況以外では不可能ですね
> もし、「トムソンのランプ」的可能性にどうしてもこだわるのなら、賞金先決め設定の条件として次のように付け加えればよいだけです。

裏を返せば、そのような条件を加えなければ
「コインを投げ終えていて、無限回表が出ている」(またはこれに相当する)場合は不可能、とは言えませんね。実際
「コインを1回投げる時間が一定でない」とする、連続型確率分布を利用して「1/(2^n)の確率で賞金(2^n)円」という確率分布を構成する
等すれば有限時間内にコインが無限回投げる(またはこれに相当する)事は可能と言えます。
「コインを投げ続ける前か後か」と「コインが無限回投げられ得るか否か」とは
(恣意的に"先決め"の定義を変えない(つまりφさんの挙げた条件を加えない)限りは)対応しません。


> そのときは当然、賞金は無限大ですね。
> そのとき賞金ゼロなどという恣意的な設定は認められません

数学的に考えるならば、「賞金が"非実数"円である」
という設定を考えるのはナンセンスです。
値が非実数になり得るような確率変数・確率分布(確率空間)は存在しません(そのようなものは確率変数・確率分布とは呼べません)。
いくら非恣意的な設定にしたいといっても"有界でない(とり得る値の個数が無限個の)一様分布"や"値が非実数になり得る確率分布"のような
確率論的に不可能な条件を仮定することはできません。
よって、値が無限大になることはない確率分布や、とり得る値の個数が無限個ならば偏りのある確率分布を仮定しなければいけません
(そのような仮定は恣意的だから認められないというのであれば、「恣意的でない仮定はできない」と言って解決とするしかありません)。


> 設定Aと設定Bでは、合理的判断(はっきり「正しい確率判断」と言ってもよい)に決定的な違いが生ずる、
> というのが、私の相変わらずの主張です。
> それが間違っている、とTTTさんは思うわけですね?

φさんは未だに、(φさんが勝手に合理的だと思っている)"合理的判断"と、確率・期待値のみに依る判断(数式や論理式)
とを混同しているようですね。(何度も言っていますが)φさんの用いる"合理的"や"損得"の定義・意味が不明瞭であるので
「合理的判断に違いが生ずる」が間違いかどうかなど論じようがありません。

私の主張は「確率・期待値は様相論理や可能世界とは全く関係なく定義され決まる」であって
φさんの"合理的判断"が"論理構造(とφさんが呼ぶモノ)"に依存するならば、
"合理的判断"から期待値(存在性や大小等)を求めたり、逆に期待値から"合理的判断"を求めることもできない
ということです。

確率(確率分布)は(φさんのいう)"可能世界がアクセス可能か否か"や"分岐の近さ"といった概念が反映されない
(φさんからすれば、それらが抜け落ちてた)情報であって、
確率分布は同一であるが"分岐の近さ"が異なる(または不明瞭な)設定など無数に作り出せることなどからも
確率・期待値のみから導き出される数式や論理式と、それ以外の(可能世界などを考慮した)判断が同一でないことは自明のはずです。


なお、サンクトペテルブルクに関しては
> 賞金金額をこれから決める場合と既に決まったが無知である場合とでは、確率分布は同じなのでしょうが、
> 決定的な違いがあり、それが合理的判断に影響しています。
と、φさんも「確率分布が(確率0の所を除き)同じでも、"合理的判断"が異なる」と認めましたね。

離散型確率分布における期待値は(確率0の所を除いた)確率分布のみによって定義されるので(そのような定義なので)
「期待値が同じ(この場合は両方とも存在しない)だが、"合理的判断"が異なる」を認め
「金額が後決めの場合は期待値は発散で先決めの場合は期待値は収束する」(というような以前のφさんの主張)は誤りであったと認めた
ということですよね?


> TTTさんの前々からの癖としてこちらの問いは無視するつもりのようですが、
私から見れば、そのような傾向はφさんにも充分あると思います。

> 決定的な違いの明確な実例を出すことはできますから、出しましょう。
> ただしその前に、
> http://8044.teacup.com/miurat/bbs/3437での私の問いに答えてもらわないと先へ進めません。

"決定的な違い"があるか否かは"合理的判断"の定義・意味によっていか様にも決まります。
"合理的判断"の定義・意味が不明瞭であったり、恣意的な定義をするならば、実例を出すことは全くの無駄であり、
"先"とやらへ進む必要もありません。

確率・期待値のみに依る判断(数式や論理式)と"合理的判断"とを混同しているであろうφさんに対して、
一度に色々なことを説明すればより混乱する(そして誤魔化す)であろうと思い、
「射撃室のパラドクス」の質問やその他の反論は保留しています。

まずは、φさんが「"論理構造"が異なるが確率分布は(確率0の所を除き)同じ」と認めたサンクトペテルブルクに関して
「確率分布が同じならば期待値(存在性や値)が同じ」も認めて納得した、と確認できるまでは
他の問題に関する質問・意見に応える気はありません(それこそ健全に先へと進めませんから)。


Re: サンクトペテルブルク 投稿者:右のインド人 投稿日:2012年 1月 3日(火)21時13分24秒 返信・引用

> No.3457[元記事へ]

モンテカルロさんへのお返事です。

> 加えても結果は変わらないから
> もっとも簡単な場合でやってみた。
> それだけのこと。
なるほど。ではその具体例をご教授賜りたいのですが。
すべての自然数(偶数に限るべきなのでしょうが)が出てくるような、そんな確率分布を。


> xに封筒の金額の期待値を入れるとしよう。
>
> 期待値が∞なら (5/4)*∞も∞だから、
> そもそも、x<(5/4)*x、とはいえない。
>
> ∞=∞ともいえないが
> (そもそも∞は数じゃないから)

期待値を代入する意味は?
ってか、「交換による利益の率は、金額によらず一定である」というのが
期待値の比が一定という意味なのであれば、
> >  1円の確率が1/2
> >  2円の確率が1/4
> >  ・・・
> >  2^nの確率が1/2^(n+1)
というゲームはその条件を満たしていません。互いに無限大に発散しているのだから、
その比も定義されないのですから。


> 「選んだ後から考える」というあなたの条件にもたどり着かない。
選んだあとに変わる、その理屈を(できれば)数式でご教授賜りたいのですが。


> 「得をする」という言い方で発作がおきるのであれば、
>
> 「あたらめた封筒の金額を所与の変数(確率変数じゃない)をxとするとき
>  もう片方の封筒の金額の期待値は(5/4)*xとなる」
>
> とでも言い換えればいい。私がいうのはその意味でしかない。

なるほど、しかし、
> >  1円の確率が1/2
> >  2円の確率が1/4
> >  ・・・
> >  2^nの確率が1/2^(n+1)
と仮定している以上、モンテカルロさんの考えで、果たしてもう片方の金額が(5/4)*xになるのでしょうか。

難しいことは要求していないので、もう一度ご指導のほどをお願いいたします。


Re: サンクトペテルブルク 投稿者:モンテカルロ 投稿日:2012年 1月 3日(火)10時02分41秒 返信・引用

> No.3456[元記事へ]

右のインド人さんへのお返事です。

> > 自分の封筒の中の金額について
> >  1円の確率が1/2
> >  2円の確率が1/4
> >  ・・・
> >  2^nの確率が1/2^(n+1)
> >  となっている場合には、その期待値は
> >   1*1/2+2*1/4+4*1/8+・・・
> >  =1/2+1/2+1/2+・・・
> >  =∞
> >  となる。
> いやさ、計算は正しい。
> だけど、なんで封筒に6円や10円が入ってる可能性と
> いきなり排除するのかが僕には理解できない。

加えても結果は変わらないから
もっとも簡単な場合でやってみた。
それだけのこと。
理解を拒否するのは随意。
しかし、その結果は、あなたが
「ワカランチン」といわれるだけ。

> 自分で勝手に確率分布を想定して考えるのは頭の体操にしかならないよ。

残念ながら、体操しない言い訳にはならない。

> > 「封筒を開けたときの額が有限だから期待値も有限だ」
> 俺は
>「あたらめた封筒の金額を所与の変数(確率変数じゃない)をxとすると、
> もう片方の封筒の金額の期待値は(5/4)*xである」
>と言っただけ。その指摘は当たらない。

xに封筒の金額の期待値を入れるとしよう。

期待値が∞なら (5/4)*∞も∞だから、
そもそも、x<(5/4)*x、とはいえない。

∞=∞ともいえないが
(そもそも∞は数じゃないから)

> > 「自分の封筒の金額が明らかになった後の
> >  事後確率による計算で、交換によって得をする。」
> > 「交換による利益の率は、金額によらず一定である。」
> > という条件と矛盾しない確率分布は限定されます。
>
> この条件がなぜ設けられるのかがサッパリわからん。
> 2封筒問題ってこんなのでしたよね。
> 「2つのお金が入った封筒があります。金額の比は1:2です。ひとつ封筒を選んでください。
> 選びましたか。(中身を見てください)交換してもいいのですが、交換しますかしませんか?」
> この問題を眺めても、その条件にはたどり着かんのですが。

「選んだ後から考える」というあなたの条件にもたどり着かない。

あなたは日本語の文章が読めていない。

> そもそも「交換によって得をする」って仮定するのはおかしくないか?

「得をする」という言い方で発作がおきるのであれば、

「あたらめた封筒の金額を所与の変数(確率変数じゃない)をxとするとき
 もう片方の封筒の金額の期待値は(5/4)*xとなる」

とでも言い換えればいい。私がいうのはその意味でしかない。

これであなたの反論の余地はなくなった。


Re: サンクトペテルブルク 投稿者:右のインド人 投稿日:2012年 1月 2日(月)13時30分23秒 返信・引用

> No.3452[元記事へ]

モンテカルロさんへのお返事です。

まず最初に名前の間違いがありました。失礼しました。

さて本題。

> しかし
> 「自分の封筒の金額が明らかになった後の
>  事後確率による計算で、交換によって得をする。」
> 「交換による利益の率は、金額によらず一定である。」
> という条件と矛盾しない確率分布は限定されます。

この条件がなぜ設けられるのかがサッパリわからん。
2封筒問題ってこんなのでしたよね。
「2つのお金が入った封筒があります。金額の比は1:2です。ひとつ封筒を選んでください。
選びましたか。(中身を見てください)交換してもいいのですが、交換しますかしませんか?」
この問題を眺めても、その条件にはたどり着かんのですが。

そもそも「交換によって得をする」って仮定するのはおかしくないか?



> 「封筒を開けたときの額が有限だから期待値も有限だ」
俺は「あたらめた封筒の金額を所与の変数(確率変数じゃない)をxとすると、もう片方の封筒の金額の期待値は(5/4)*xである」と言っただけ。その指摘は当たらない。

> 自分の封筒の中の金額について
>  1円の確率が1/2
>  2円の確率が1/4
>  ・・・
>  2^nの確率が1/2^(n+1)
>  となっている場合には、その期待値は
>   1*1/2+2*1/4+4*1/8+・・・
>  =1/2+1/2+1/2+・・・
>  =∞
>  となる。
いやさ、計算は正しい。
だけど、なんで封筒に6円や10円が入ってる可能性といきなり排除するのかが僕には理解できない。
自分で勝手に確率分布を想定して考えるのは頭の体操にしかならないよ。