年譜III(1922〜1944)
ライン
1922(50歳)
・春、コーンウオールに別荘 'Carn Voel' を購入
・保守党の牙城であるチェルシー選挙区から、労働党の候補として下院議員選挙に立候補し、落選(ロンドンのフラット:シドニー街13番地)

1923(51歳)
・再び、チェルシー選挙区から下院議員選挙に立候補して落選 → 職業的政治家になる道を断念
・12月29日,長女 Katharine Jane Russell(愛称 Kate)生まれる。

1924(52歳)
・アメリカに講演旅行(3度目の訪米)
・1月、英国で初めて労働党内閣(=J. R. MacDonald 首相)成立

1925(53歳)
・Principia Mathematica,2nd ed.,v.1出版
 (第2版では、論理的パラドックスと意味論的パラドックスとを区別:単純階型理論)
1926(54歳)
・On Education 出版。ベストセラーになってようやく経済的に落着く。

1927(55歳)
・9月より、ドーラとともに Chichester と Petersfield の間、South Downs にある兄の家 Telegraph House(200エーカの私有地付) を借りて Beacon Hill School(寄宿制の実験学校)を始める。
・アメリカへ講演旅行(4度目の訪米)
 資金稼ぎのために本を執筆しなければならず、学校の運営に全力をささげることができなかった。

1929(57歳)
・Marriage and Morals 出版
・世界大恐慌(10月24日、ニュ−ヨーク株式市場大暴落)

1930(58歳)
・Cambridge 大学以来の生涯の友、Charles Percy Sanger 死亡
・The Conquest of Happiness 出版

1931(59歳)
・兄 John Francis Stanley Russell(1865.8.12〜1931.3.3)、借金を残して死亡:ラッセル、第3代伯爵となる。以後、兄の先妻に年400ポンドの扶助料を兄のかわりに支払うこととなる。
・アメリカのハースト系の新聞・雑誌に、毎週エッセイを寄稿し始める(以後4年間)
・1921年までの『自叙伝』の大要を口述。
・ゲーデル(K. Godel: 1906-1978)、「不完全性定理」発表
・タルスキー(Alfred Tarski: 1902-1983)、「形式言語における真理概念」(ポーランド語で)発表

1932(60歳)
・春、Beacon Hill School より手を引く。テレグラフ・ハウスを去り、パトリシア・スペンスとコーンウオールに移り住む。(離婚手続きが難航し、決着がつくまで、以後3年間を要することとなる。)
・(兄の2度目の妻に年400ポンドの別居手当を支払うだけでなく、さらに)ドーラに別居手当を支払う義務を負うこととなる。

1933(61歳)
・パトリシア・スペンスの協力を得て、Freedom and Organization の執筆に着手
・1月30日,ヒトラー、ドイツの首相に就任

1935(63歳)
・法的に、ドーラとの離婚成立。裁判所が John と Kate の後見人となる、との採決がくだされた。
・哲学上の名声を再び得ようと決意

1936(64歳)
・1月、Patricia Spence と結婚(3度目)

1937(65歳)
・次男 Conrad Sebastian Robert Russell、生まれる。
・11月、再び、英国哲学会会長(1937〜38)となる。

1938(66歳)
・Ottoline 死亡(ラッセルはオットラインに、1911年〜1938年の間に約2,000通の手紙を書いたといわれる)。
・秋、妻子とともに渡米(6年間の米国生活始まる。7度目の訪米)
・3月、ナチス・ドイツ、オーストリアを併合

1939年(67歳)
・9月1日、第二次世界大戦勃発

1940(68歳)
・2月ごろ、ニューヨーク市立大学客員教授として紹聘を受ける(後で取消される:いわゆるバートランド・ラッセル事件
・An Inquiry into Meaning and Truth 出版

1941(69歳)
・1月より、バーンズ財団で西洋哲学史の講義を開始。(5年契約であったが、実際は1942年の末でうち切られる。)

1944(72歳)
・6月(=ノルマンディ上陸作戦の直前)、英国に戻る。 Trinity Collegeから5年契約の講師として紹聘される。傍ら、英国政府に協力して各地で講演を行う。

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