年譜II(1901〜1913)
ライン
1901(29歳)
・春、矛盾(パラドクス)の一つを発見
・1901年の初めにはボーア人の味方となる。(帝国主義者→平和主義者に転換。)
・1901年2月26日の夜、ホワイトヘッド夫人(Evelyn Whitehead)が心臓発作で苦しむのを目撃して、突如として人間一人一人の魂の孤独がラッセルをとらえる。
・秋、突如として,もはやアリスを愛していないことに気付く。その事実をアリスにかくしておけず告白。
・秋より2学期に渡って、Cambridge 大学で記号論理学の講義

1902(30歳)
・5月23日、Principles of Mathematics 完成。
1903(31歳)
・1903年と1904年は、ラッセルにとって、「知的行き詰まり」の時代。
・12月、Independent Review 誌に 'A free man's worship' 発表
・The Principles of Mathematics 出版

1904(32歳)
・知的行き詰まり。冬はロンドンで過ごして仕事せず。

1905(33歳)
・春、The theory of description 発見
・Mind 誌に 'On denoting' 発表

1906(34歳)
・The theory of types 発見

1907(35歳)
・Wimbledon 選挙区より(婦人参政権、自由貿易論を主張して)全国婦人参政権協会連合会の推薦を受け、下院議員補欠選挙に自由党から立候補 → 落選(対立候補は保守党の大物 H. Chaplin)
・1907〜1910年の間:年に約8ケ月間、日に10〜12時間、Principia Mathematicaの執筆に費やす。

1910年(38歳)
・10月、トリニテイ・コレッジで論理学・数理哲学を教え始める(5年契約)。年棒210ポンド。
・Principia Mathematica、v.1 出版。プリンキピア・マテマテイカ全3巻の草稿は一応完成(「分枝階型理論」を提唱。)

1911年(39歳)
・3月19日、ソルボンヌ大学への講演旅行の途中、ロンドンの Philip Morrell 邸で一泊。Ottoline Morrell(=1873.6.16〜1938.4 : P. Morrell の妻で Portland 公爵の腹違いの妹)と恋に陥る。最初の情交。
・Fernhurst で週末を過ごしている時、アリスにオットラインとのことを打ち明ける。39歳になるまで、ラッセルは妻以外の女性と「完全な関係」(complete relation)をもたず、又、その年になるまで9年間、アリスとさえ性的関係をもたなかった。) そこから、自転車にのってアリスのもとを去り、Trinity College のラッセルの研究室に引っ越す。以来1950年まで、アリスと二度とあうことはなかった。
・10月18日、ウイットゲンシュタインと初めて会う。
・President of the Aristotelian Society(=英国哲学会会長:1911〜1913)となる。> ・この頃、ラッセルは歯槽膿漏を患っていた。

1912年(40歳)[大正1年]
・ウィトゲンシュタイン、ラッセルのもとに留学

・Principia Mathematica,v.2; 及び The Problems of Philosophy 出版

1913(41歳)
・ラッセル、価値情緒説に転換(G. Santayana の影響)
・Principia Mathematica,v.3 出版
・岡田哲蔵:ラッセル著「自由人の崇拝」の紹介(=日本で最初のラッセル文献?)

★1914年(第一次世界大戦勃発)

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