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鎌田浩毅「知的生産のための術語集・第4回:数学と2つの幸福論(ラッセルとアラン)」

* 出典:『パブリッシャーズ・レビュー』第2号(2012年1月15日付)
* 鎌田浩毅(かまた・ひろき,1955~ ):京都大学大学院人間・環境学研究科教授。火山学(地球科学)専攻。



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 理科系の基礎科学分野は大きく5つに分類される。数学,物理学,化学,生物学,地球科学の5分野だが,この中では数学が他の4つと際だって抽象的である。たとえば,紙と鉛筆とアタマさえあればできる学問は,数学だけなのである。何千億円という実験装置を駆使するビッグサイエンスの現代にあっても,こうした数学の特異性は微塵も揺らいでいない。
 さて,アタマさえあれば可能な数学は,人間の「幸福」にも役に立つのである。若いころ数学に没頭していた二人の哲学者が,後年になって『幸福論』を著した。フランスのアランとイギリスのバートランド・ラッセルである。今回は数学と幸福の関係について考えてみたい。

 アラン(1868-1951)は本名をエミール=オーギュスト・シャルティエと言い,ペンネームのアラン(Alain)で数多くの著作を残した。彼はプロポ(propos, 通例,「語録」と訳される)というスタイルで,日常生活で考えたことを30年以上にわたり地方紙に書き綴った。
 アランは過去の哲学者の言説をあれこれと論じるのではなく,今ここに生きている人生で「哲学する」ことを目指した。しかも,毎日文章を書くことによって彼は哲学することを実践したのだ。文字どおり,書きたい日も書きたくない日も,たゆまずに書き続けたのである(岩波文庫版『アラン幸福論』解説,p.323ページ)。

 ラッセル(1872-19780)はイギリス生まれの数学者,論理学者,哲学者で,20世紀を代表する知性の一人としてきわめて浩瀚(こうかん)な業績を残した。ケンブリッジ大学時代に数学と論理学を研究し,ホワイトヘッドと共著で『数学原理』を刊行し,数学基礎論を打ち立てた。
 ラッセルは哲学者ウィトゲンシュタインの才能にも着目し,『論理哲学論考』の刊行を支援したと言われる。のちに社会問題に関わる著作を出し,『幸福論』(岩波文庫)や『西洋哲学史』(みすず書房)を出版した。こうした業績に対して1950年にノーベル文学賞が贈られている。

 さて,60代を前にしたアランは,1925年にガリマール社から,初版の『幸福論』を刊行した。高等中学校で哲学の教師をしていた頃である。また,58歳のラッセルは1930年に『幸福論』を刊行した。
 二つの幸福論はいずれも,人間の感情よりも理性を重視する「主知主義」の思想に貫かれている。アランの人生に対する記述は,ラッセルと酷似する。いわば「理系的」でドライな人生論が展開されているのである。

 晩年のラッセルは,核兵器廃絶の平和運動を指揮して逮捕されるなど,波瀾万丈の人生を送った。同様にアランも,地方紙でドレフェス事件に対する論陣を張り,志願兵として第一次世界大戦に従軍するという「行動の人」であった。二人は自らの信ずる「主知主義」に基づいて一生を送ったのである。

 他にもアランとラッセルには共通点がある。若きラッセルが数学に天才的才能を発揮したことは有名だが,高等中学校時代のアランもきわめて数学のできる生徒だった。特別給費生となっていた彼は,幾何学に熱中し,数学者になろうとエコール・ポリテクニク(理工科学校)の受験勉強を始めた。この学校はフランスが国家の威信をかけて天才教育を行う超エリート大学,グランゼコールの一つである。
 ところが父の知人が,人文系のグランゼコールであるエコール・ノルマル(高等師範学校)の受験を強く薦めて,「君なら勉強しなくても合格できる」と言った。この忠告に従ったアランは,首尾良く高等師範学校に入学し,24歳で哲学教授の資格を取得した。
 哲学に出会う前のアランが数学好きの生徒だったことが,私には興味深く思われる。数学とは,論理のみで構築される理系学問の粋である。アランは読書家の獣医だった父から知的な影響を受けたのだが,ラッセルの生い立ちと重なるのだ。おそらく人生の早い時期に,感情とは無縁の数学の美しい世界を知ったことが,後年「主知主義」に傾く原因となったのではないか,と私は推察する。
 彼らにとって,若い時分に没頭した数学は「子供の遊び」と同じ構造を持っていた。アランは『幸福論』にこう叙述する。「子供はいっさいを挙げて遊びにうちこむ。自分のためにひとが遊んでくれることなど待っていない」(串田孫一・中村雄二郎訳,白水Uブックス,p.284[92章])。私はこうした見方にとても共感を覚える。

 紙と鉛筆さえあればこと足りる数学は,その世界を理解できる人にとっては純粋に「遊び」なのである。私自身,暇さえあれば高等数学の本を読んでいる父のうしろ姿を見てきたので,よく分かる。数学が「遊び」になることは,私には新鮮な驚きだった。こうした無心の「遊び」が,幸福には欠かせない要素であることを,アランとラッセルの『幸福論』は教えてくれるのである。