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ラッセル「不可知論者とは何か?」
  レオ・ロステン(編),後藤真(訳)『アメリカの宗教』(時事通信社,1956年10月. 404pp)pp.203-216.
What is an Agnostic?
by Bertrand Russell
Look (maganize), 3 Nov. 1953, p. 96, 98-101.



 レオ・ロステン(編)『アメリカの宗教』(Religions of America, ed. by Leo Rosten)は,アメリカの週刊雑誌「ルック」に(1952年6月から1955年まで)連載された宗教関係記事(いずれも質疑応答の形式のもの)を編集したものです。訳者の後藤真 氏(1909-1989)は,「訳者の序」で立教大学図書館員に謝意を示していることから,当時,立教大学の教員をしておられたと思われます。
 なお,訳書の表題誌裏に, Leo Losten と表記されていますが, Leo Rosten の誤記です。

 以下の図書に再録されています。(57),(70)は,松下彰良(編)『バートランド・ラッセル書誌』に付与された一連番号です。(参考:該当部分
*1 The Religions of America (New York, Simon & Schuster, 1955), pp.149-157.
*2 (57)The Basic Writings of Bertrand Russell.
*3 (70)Bertrand Russell on God and Religion.

 不可知論者とは何か?

バートランド・ラッセル(Bertrand Russell)の似顔絵  不可知論者(松下注:ラッセル自身が,理論上は不可知論者であり,実質的には無神論者である。)は,キリスト教やその他の宗教が関心を持っている神や来世のようなものは知ることが不可能と考える。あるいは,たとえ知ることが不可能でないとしても,少なくとも現時点においては不可能と考える。

(松下注:どういうわけか,『アメリカの宗教』の後藤真(訳)にはこの部分の邦訳がありません。原著(Religions of America, ed. by Leo Rosten, 1955)にないのか,後藤氏が訳出しなかったのか,未確認です。)

What is an agnostic?
An agnostic thinks it impossible to know the truth in matters such as God and the future life with which Christianity and other religions are concerned. Or, if not impossible, at least impossible at the present time.

 不可知論者は無神論者なのか


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 否。無神論者は,キリスト者と同じように,神が存在するか否かを知ることができるとするものである。キリスト者は,神が存在することを知りうると信じ,無神論者は,神が存在しないことを知りうるとする。不可知論者は,肯定するにも否定するにも十分な根拠がないとして,判断を保留する。同時にまた,不可知論者は,神の存在はありえないことではないが,きわめてありそうもないことだと思うこともあるかもしれないし,さらに,これは,現実の問題として考える価値のないほどに,ありそうもないことだとすることもできる(かもしれない)。そうした場合には,無神論者とあまりかけへだたっていないものである。かれの態度は,細心な哲学者が古代ギリシャの神にたいしてもつようなものとなるであろう。ゼウスやポセイドンやへラ,およびその他オリンポスの神々が存在しないことを証明せよと私に求められても,私は,決定的な議論を見出しえないで困惑することと思う。不可知論者は,キリスト教の神を,オリンポスの神々と同じように,ありそうもないことと思うかもしれない。その場合には,かれは現実の問題としては(実質的には),無神論者と同じことである。

Are agnostics atheists?
No. An atheist, like a Christian, holds that we can know whether or not there is a God. The Christian holds that we can know there is a God; the atheist, that we can know there is not. The Agnostic suspends judgment, saying that there are not sufficient grounds either for affirmation or for denial. At the same time, an Agnostic may hold that the existence of God, though not impossible, is very improbable; he may even hold it so improbable that it is not worth considering in practice. In that case, he is not far removed from atheism. His attitude may be that which a careful philosopher would have towards the gods of ancient Greece. If I were asked to prove that Zeus and Poseidon and Hera and the rest of the Olympians do not exist, I should be at a loss to find conclusive arguments. An Agnostic may think the Christian God as improbable as the Olympians; in that case, he is, for practical purposes, at one with the atheists.

 「神のおきて」を否定するとき,行為の指針として,どのような権威を受けいれるのか

 不可知論者は,宗教的な人々が受けいれるような意味では,いかなる「権威」をも受けいれない。人間は,かれ自身の行為の問題は,自分で考えるべきであると信じる。もちろん,不可知論者も,他の人々の叡知によって利益を得ようとする。しかし,かれは,賢明であると考えられる人々をかれ自身で選択しなければならない。また,その人々のいうことであっても,問題なく受けいれるべきだとは考えない。「神の律法」とされているものでも,時とともに変っていることをみる。聖書は,女性が(は)死亡した夫の兄弟と結婚してはならないといい,またある状況においては,結婚しなければならない,といっている。したがって,もし子供がなくて未亡人となり,結婚していない義理の兄弟がいたなら,「神の律法」にしたがわないようにすることを避けるのは,論理的に不可能である。
(松下注:「結婚してはいけない」と同時に「結婚すべきである」といっており,両立しないので「論理的に不可能」となる。)

Since you deny `God's Law', what authority do you accept as a guide to conduct?
An Agnostic does not accept any `authority' in the sense in which religious people do. He holds that a man should think out questions of conduct for himself. Of course, he will seek to profit by the wisdom of others, but he will have to select for himself the people he is to consider wise, and he will not regard even what they say as unquestionable. He will observe that what passes as `God's law' varies from time to time. The Bible says both that a woman must not marry her deceased husband's brother, and that, in certain circumstances, she must do so. If you have the misfortune to be a childless widow with an unmarried brother-in-law, it is logically impossible for you to avoid disobeying `God's law'.

 なにが善であり,なにが悪であることを,どうして知るか;不可知論者は罪をどのように考えるか

 不可知論者は,キリスト者のある人々のように,なにが善か,なにが悪かということにかんしては,確かではない。かれは,かつての大部分のキリスト教徒が考えたように,神学の難解な諸点で政府に同意しないものは,惨めな死を受けるべきであるとは信じない。(松下注:キリスト教が国家宗教であった時のことか?!)不可知論者は,迫害に反対し,道徳的非難にたいしても,どちらかといえば細心である。
 「罪」ということにかんしても,不可知論者は,これは,あまり有用な観念であるとは思わない。もちろん,ある種の行為は望ましいし,ある種の行為は望ましくないことを認める。しかし,望ましくない行為を罰することは,(望ましくない行為の)防止または改善のためだけになされるべきであって,悪者が苦しむべきだということそれ自体が善いことだと考えて,罰せられるようなことがあってはならないと考える。人間に地獄を信じさせたのは,このような 復讐的な刑罰を信じることによるのである。これは,「罪」の観念によって与えられる害である。

How do you know what is good and what is evil? What does an agnostic consider a sin?
The Agnostic is not quite so certain as some Christians are as to what is good and what is evil. He does not hold, as most Christians in the past held, that people who disagree with the government on abstruse points of theology ought to suffer a painful death. He is against persecution, and rather chary of moral condemnation. As for 'sin', he thinks it not a useful notion. He admits, of course, that some kinds of conduct are desirable and some undesirable, but he holds that the punishment of undesirable kinds is only to be commended when it is deterrent or reformatory, not when it is inflicted because it is thought a good thing on its own account that the wicked should suffer. It was this belief in vindictive punishment that made men accept Hell. This is part of the harm done by the notion of `sin'.

 不可知論者は,なんでも好むままのことをおこなうのか

 ある意味では,否である。しかしまた,ある意味では,だれでも好むままのことをおこなっているのである。たとえば,かりに,だれかを殺したいと思うほど憎むとする。そのとき,なぜ殺さないのか。それにたいして,「それは,殺人が罪であることを,宗教が教えているからだ」と答えるであろう。しかし,統計的な事実としては,不可知論者は,他の人々より殺人を犯しやすいというわけではない。事実むしろ,ずっと犯しやすくないのである。かれらもまた,他の人々のもっていると同じような,殺人を止める動機をもっている。これらの動機のうちの,最も強力なものは,刑罰への恐怖である。ゴールドラッシュ(黄金狂時代)のときのような無法状態では,普通の環境では遵法的な人々でも,みなが犯罪を犯すであろう。そこには法的な刑罰はなにもない。そこには,発見されることを怖れる不安があり,また,憎まれないようにするために,いつも,もっとも近親なものにたいしても,仮面をかぶっていなければならないという淋しさがある。さらにまた,いわゆる「良心」というものがある。殺人を考えるなら,犠牲者の最後の瞬間のおそろしい記憶とか,生命を奪われた屍体の記憶などにおびえなければならない。これらはみな,確かに,遵法的な共同体のなかに生活することによるのであるが,そのような共同体をつくりだし,また保っていくためには,(宗教的な理由以外にも)たくさんの世俗的な理由が存在するのである。
 私は,ある意味では,だれでも自分の好むままをおこなうのである,といった。愚者でない限り,あらゆる本能に耽ってしまうものはない。しかし,一つの欲望を阻止するものは,つねに他の欲望である。人間の反社会的な欲求は,神を喜ばせようとする欲求によって抑制されるであろう。しかしまたそれらは,友人を喜ばせようとする欲求によって,あるいは,社会の尊敬を得たいとか,自分自身を厭悪しないで考えたいという欲求によって抑制されるかもしれない。しかし,もしかれがそのような欲求をもたないとしたら,単に抽象的な道徳観念だけでは,かれを正しく保つことはできない。

Does an agnostic do whatever he pleases?
In one sense, no; in another sense, everyone does whatever he pleases. Suppose, for example, you hate someone so much that you would like to murder him. Why do you not do so? You may reply: "Because religion tells me that murder is a sin." But as a statistical fact, agnostics are not more prone to murder than other people, in fact, rather less so. They have the same motives for abstaining from murder as other people have. Far and away the most powerful of these motives is the fear of punishment. In lawless conditions, such as a gold rush, all sorts of people will commit crimes, although in ordinary circumstances they would have been law-abiding. There is not only actual legal punishment; there is the discomfort of dreading discovery, and the loneliness of knowing that, to avoid being hated, you must wear a mask with even your closest intimates. And there is also what may be called "conscience": If you ever contemplated a murder, you would dread the horrible memory of your victim's last moments or lifeless corpse. All this, it is true, depends upon your living in a law-abiding community, but there are abundant secular reasons for creating and preserving such a community.

I said that there is another sense in which every man does as he pleases. No one but a fool indulges every impulse, but what holds a desire in check is always some other desire. A man's anti-social wishes may be restrained by a wish to please God, but they may also be restrained by a wish to please his friends, or to win the respect of his community, or to be able to contemplate himself without disgust. But if he has no such wishes, the mere abstract concepts of morality will not keep him straight.

 不可知論者は聖書をどのように考えるか

 不可知論者は,聖書を,進歩的な牧師が考えると同じように考えている。聖書は神の霊感によるものであるとは考えない。その初期の歴史は伝説であり,けっしてホーマーの場合以上に正確な真実ではない。その道徳的教訓は,ときとしては善であり,ときとしては,きわめてよくない。たとえば,サムエルは,戦争のとき,サウルに,敵の男,女,子供ばかりでなく,羊や家畜まで全部殺すことを命じた。サウルは,しかし,羊や家畜を殺さなかった。そしてこのことのため,かれは罰せられるべきであると教えられている。私はまた,自分を嘲笑した子供たちをのろったエリシャを崇拝することはできないし,また,(聖書のいっているように)慈悲ぶかい神が,子供を殺すために,二匹の牝熊をおくったと信じることもできない。

How does an agnostic regard the Bible?
An agnostic regards the Bible exactly as enlightened clerics regard it. He does not think that it is divinely inspired; he thinks its early history legendary, and no more exactly true than that in Homer; he thinks its moral teaching sometimes good, but sometimes very bad. For example: Samuel ordered Saul, in a war, to kill not only every man, woman, and child of the enemy, but also all the sheep and cattle. Saul, however, let the sheep and the cattle live, and for this we are told to condemn him. I have never been able to admire Elisha for cursing the children who laughed at him, or to believe (what the Bible asserts) that a benevolent Deity would send two she-bears to kill the children.

 不可知論者はイエスや処女降誕や三位一体をどのように考えるか


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 不可知論者は,神を信じないのであるから,イエスであったと考えることはできない。不可知論者のうちの大部分のものは,福音書に語られているイエスの生涯とその道徳的教訓に感服しているが,しかし,かならずしも,他のある者の生活や教え以上に感服しているとは限らない。あるものは,イエスを仏陀と同等のところにおき,あるものは,ソクラテス,あるものは,アブラハム・リンカーンと同等にみている。かれらはまた,いかなる権威をも絶対的なものとして受けいれないのであるから,イエスのいったことも,絶対的なものとは考えない。
 かれらは,処女降誕ということは,異教の神話からとられたものと考える。異教の神話のなかでは,そのようなことはけっして稀ではない(ゾロアスターは処女から生れたといわれているし,バビロニアの女神,イシュタルは,聖なる処女とよばれている)。処女降誕三位一体も,神への信仰なくしては不可能なものであるから,不可知論者はそのいずれをも信じることはできない。
(右上イラスト出典:B. Russell's The Good Citizen's Alphabet, 1953)

How does an agnostic regard Jesus, the Virgin Birth, and the Holy Trinity?
Since an agnostic does not believe in God, he cannot think that Jesus was God. Most agnostics admire the life and moral teachings of Jesus as told in the Gospels, but not necessarily more than those of certain other men. Some would place him on a level with Buddha, some with Socrates and some with Abraham Lincoln. Nor do they think that what He said is not open to question, since they do not accept any authority as absolute.
They regard the Virgin Birth as a doctrine taken over from pagan mythology, where such births were not uncommon. (Zoroaster was said to have been born of a virgin; Ishtar, the Babylonian goddess, is called the Holy Virgin.) They cannot give credence to it, or to the doctrine of the Trinity, since neither is possible without belief in God.

 不可知論者はキリスト者でありうるか

 「キリスト者」という言葉は,時代によって種々異った意味をもっていた。キリストの時代以来,各世紀を通じて,だいたいこれは,神と不滅性を信じ,またキリストを神とする者を意味してきた。しかし,ユニタリアンは,キリストの神性を信じないが,みずからをキリスト者とよんでいる。またこんにちでは,多くの人が神という言葉を,かつてこれが意味したような正確な意味でなしに用いている。'神を信じる'という多くの人が,もはや人格的な神,あるいは神格の三位一体を信じているのではなく,ただ進化のうちに内在している漠然とした傾向,あるいは力,または目的を信じているのである。ある者は,さらに進んで,「キリスト教」は,一つの倫理の組織を意味すると思っている。そして,歴史にたいする無知から,これがキリスト教徒のみの特色であると思っているのである。
 最近の書物で,私が,世界の必要としているものは「愛,キリスト教的愛,あるいは同情」であるといったとき,多くの人々は,これは私の見解のある変化を示すものであると考えた。しかし,事実は,私はいつでも同じことがいえたのである。(松下注:最近の書物とは, New Hopes for a Changing World, 1951 のこと)もし,「キリスト者」という語で,隣人を愛し,苦しみにたいして大きな同情をもち,こんにち世界を歪めている無慈悲と憎悪から解放された世界を熱望しているものを意味するなら,たしかに私をキリスト者と呼ぶことは正しいといえる。そして,こうした意味では,(キリスト教の)正統派のものよりも不可知論者のなかに,より多くの「キリスト者」がいることと思う。しかし,私としては,そのような定義を受けいれることはできない。これにたいする他の反対意見はともかくとしても,このような定義は,近代のキリスト者のあるものが,自己の宗教の特質であると'僭称'しているような徳を,歴史が示すかぎりでは,すくなくともキリスト者と同じくらいに,実践してきたユダヤ教徒,仏教徒,マホメット教徒およぴその他の非キリスト教徒にたいして,失礼であるように思われる。
 私はまた,初代においてみずから「キリスト者」と称した者,またこんにち称しているものの大多数は,神と不滅性への信仰が,キリスト者にとって本質的なものであると考えていると思う。このようなことから,私は自分をキリスト者とはいわないし,また,不可知論者は,キリスト者ではありえないという。しかし,もし「キリスト教」という語が,単に一種の道徳性を意味するものして一般に用いられるようになるなら,そのときは,不可知論者がキリスト者となることも,たしかに可能となるであろう。

Can an agnostic be a Christian?
The word "Christian" has had various different meanings at different times. Throughout most of the centuries since the time of Christ, it has meant a person who believed God and immortality and held that Christ was God. But Unitarians call themselves Christians, although they do not believe in the divinity of Christ, and many people nowadays use the word "God" in a much less precise sense than that which it used to bear. Many people who say they believe in God no longer mean a person, or a trinity of persons, but only a vague tendency or power or purpose immanent in evolution. Others, going still further, mean by "Christianity" merely a system of ethics which, since they are ignorant of history, they imagine to be characteristic of Christians only.
When, in a recent book, I said that what the world needs is "love, Christian love, or compassion," many people thought this showed some changes in my views, although in fact, I might have said the same thing at any time. If you mean by a "Christian" a man who loves his neighbor, who has wide sympathy with suffering, and who ardently desires a world freed from the cruelties and abominations which at present disfigure it, then, certainly, you will be justified in calling me a Christian. And, in this sense, I think you will find more "Christians" among agnostics than among the orthodox. But, for my part, I cannot accept such a definition. Apart from other objections to it, it seems rude to Jews, Buddhists, Mohammedans, and other non-Christians, who, so far as history shows, have been at least as apt as Christians to practice the virtues which some modern Christians arrogantly claim as distinctive of their own religion.
I think also that all who called themselves Christians in an earlier time, and a great majority of those who do so at the present day, would consider that belief in God and immortality is essential to a Christian. On these grounds, I should not call myself a Christian, and I should say that an agnostic cannot be a Christian. But, if the word "Christianity" comes to be generally used to mean merely a kind of morality, then it will certainly be possible for an agnostic to be a Christian.

 不可知論者は人間が魂をもっていることを否定するか

 この問は,「魂」という言葉に定義があたえられないかぎり,正確な意味をもたない。だいたいその意味するところは,人の生涯をつうじて,また,不滅性を信じる者にとっては,未来のすべてをもつうじて,つねに存在する非物質的ななにものかを指しているように思われる。もしそうであるとすれば,不可知論者は,人間が魂をもっていると信じない。しかし,ここですぐにつけくわえなければならないことは,それはけっして不可知論者が唯物主義者であることを意味しないということである。(私をも含めて)多くの不可知論者は,身体にたいしても,魂にたいすると同じように疑いをもっているのである。しかし,これはむずかしい形而上学に入らなければならない長い論議となる問題である。精神と物質とは,いずれも現実に存在するものではなく,論議上の便利な象徴にすぎない,というべきであろう。

Does an agnostic deny that man has a soul?
This question has no precise meaning unless we are given a definition of the word "soul." I suppose what is meant is, roughly, something nonmaterial which persists throughout a person's life and even, for those who believe in immortality, throughout all future time. If this is what is meant, an agnostic is not likely to believe that man has a soul. But I must hasten to add that this does not mean that an agnostic must be a materialist. Many agnostics (including myself) are quite as doubtful of the body as they are of the soul, but this is a long story taking one into difficult metaphysics. Mind and matter alike, I should say, are only convenient symbols in discourse, not actually existing things.

 不可知論者は死後のこと,天国とか地獄を信じるか

 人間が死後も生きるか否かの問題は,どちらにたいする証拠が可能であるかという問題である。心霊研究および霊交術は,多くの人々に,そのような証拠を与えるものと考えられている。不可知論者は,それ自体としては,どちらかの証拠があると考えられない限り,死後の生命についていかなる見解をもとらない。私自身としては,われわれが死後も生命があると信じる十分な理由があるとは考えない。しかし,適切な証拠があらわれるなら,信じるにやぶさかではない。天国と地獄は,別の問題である。地獄にたいする信仰は,罪にたいする復讐的な刑罰が,それがもっている改善的あるいは防止的な効果とは無関係に,それ自体がよいことだとする信念と結びついている。不可知論者は,おそらくだれもこれを信じない。天国については,交霊によって,いつかその存在の証拠が与えられるかもしれないということは考えられる。しかし大部分の不可知論者は,そのような証拠があるとは考えない。したがって,天国を信じない。

Does an agnostic believe in a hereafter, in Heaven or Hell?
The question whether people survive death is one as to which evidence is possible. Psychical research and spiritualism are thought by many to supply such evidence. An agnostic, as such, does not take a view about survival unless he thinks that there is evidence one way or the other. For my part, I do not think there is any good reason to believe that we survive death, but I am open to conviction if adequate evidence should appear.
Heaven and hell are a different matter. Belief in hell is bound up with the belief that the vindictive punishment of sin is a good thing, quite independently of any reformative or deterrent effect that it may have. Hardly an agnostic believes this. As for heaven, there might conceivably someday be evidence of its existence through spiritualism, but most agnostics do not think that there is such evidence, and therefore do not believe in heaven.

 あなたは神を否定して神の裁きのくることを怖れないか

  全然怖れてはいない。私はまた,ゼウス,ジュピターまたオディンあるいはブラーマを否定するが,このことは私にすこしも不安をおこさない。私の観るところでは,人類の非常に大きな部分が,神を信じていないが,その結果,あきらかな刑罰を受けてはいない。またもし神が存在するとしても,神の存在を疑うものがいるからといって,傷つけられるような心もとない虚栄心をもっているようなことは,ありえないと考える。

Are you never afraid of God's judgment in denying Him?
Most certainly not. I also deny Zeus and Jupiter and Odin and Brahma, but this causes me no qualms. I observe that a very large portion of the human race does not believe in God and suffers no visible punishment in consequence. And if there were a God, I think it very unlikely that He would have such an uneasy vanity as to be offended by those who doubt His existence.

 不可知論者は自然における美とか調和をどのように説明するか

  いったいそのような「美」や「調和」がどこに見出されるのか,私にはわからない。獣の世界ではどこでも,かれらはたがいに無情に餌食にしあっている,かれらの大部分は,他の獣に残酷に殺されるか,または徐々に飢えて死んでゆくのである。私の場合でいえば,条虫(注:サナダ虫)のなかに,偉大な美や調和を見ることができない。条虫は人間よりも動物のなかに多いのであるから,これが人間の罪への罰として送られたなどとはいえない。おそらく質問を発したものは,星空の美というようなものを考えているのであろう。しかし,星も時々爆発して,その近隣にあるものをすべて,茫莫たる霧に化してしまうことを記憶すべきである。実は,いかなる場合でも,主観的なものであり,これを観るものの眼のなかにのみ存在するものである。

How do agnostics explain the beauty and harmony of nature?
I do not understand where this "beauty" and "harmony" are supposed to be found. Throughout the animal kingdom, animals ruthlessly prey upon each other. Most of them are either cruelly killed by other animals or slowly die of hunger. For my part, I am unable to see any great beauty or harmony in the tapeworm. Let it not be said that this creature is sent as a punishment for our sins, for it is more prevalent among animals than among humans. I suppose the questioner is thinking of such things as the beauty of the starry heavens. But one should remember that stars every now and again explode and reduce everything in their neighborhood to a vague mist. Beauty, in any case, is subjective and exists only in the eye of the beholder.

 不可知論者は奇跡とか,その他の神の全能の啓示を,どのように説明するか

 不可知論者は,自然法に反するできごと,という意味での「奇跡」にたいするいかなる証拠も存在するとは思わない。われわれは,信仰による治癒がおこることを知っている。そしてこれはけっして奇跡的なものではない。ルルドでは,ある種の病気は治癒し,あるものはなおらない。ルルドで癒されるような病気は,おそらく,患者に信ぜられている医者なら,だれによってでも治癒されるものであろう。その他の奇跡の記録,たとえば,ヨシュアが太陽に止まることを命じたものなどは,不可知論者は,これを伝説としてしりぞけ,宗教はいずれも,そのような伝説をたくさんもっていることを指摘する。ホーマーのギリシャの神々についても,聖書のキリスト教の神についても同じように,多くの奇跡的な証拠があるのである。

How do agnostics explain miracles and other revelations of God's omnipotence?
Agnostics do not think that there is any evidence of "miracles" in the sense of happenings contrary to natural law. We know that faith healing occurs and is in no sense miraculous. At Lourdes, certain diseases can be cured and others cannot. Those that can be cured at Lourdes can probably be cured by any doctor in whom the patient has faith. As for the records of other miracles, such as Joshua commanding the sun to stand still, the agnostic dismisses them as legends and points to the fact that all religions are plentifully supplied with such legends. There is just as much miraculous evidence for the Greek gods in Homer as for the Christian God in the Bible.

 宗教が反対するような,卑しい,また残虐な感情が存在したのであるが,もし宗教的な原理を放棄した場合,人類は存在できたであろうか

 卑しい,また残虐な感情の存在は,否定できない。しかし,私は,宗教がそれらに反対したという証拠を,歴史のうちに見出すことができない。むしろ反対に,宗教はそれらを聖別し,人々が良心の呵責なしにそれらに耽ることができるようにしたのである。残酷な迫害は,他の所よりもキリスト教国のなかで,より一般的におこなわれた。迫害を正当化すると思われるものは,教理的な信仰である。仁慈と寛容は,教理的な信仰が衰える割合に応じて,ひろまっている。こんにち,新しい教理的な信仰,すなわち共産主義がおこった。これにたいして,不可知論者は,他の教理の組織にたいすると同様に反対している。こんにちの共産主義の迫害的な性格は,昔のキリスト教の迫害的性格と,まさに同じである。キリスト教が,あまり迫害的でなくなったのは,主として教理学者を,より教理的でなくした,自由思想家の働きによるものである。もしかれらが,こんにちでもかつてのように,教義的であったら,かれらは依然として,異端者を焚殺することを正しいと思うであろう。現代のキリスト者が,本質的にキリスト教のものであると考えている寛容の精神は,じつは,疑いを許し,絶対的確実性を疑う気持のうちだしたものである。偏らない態度で過去の歴史をみるものは,だれしも,宗教が苦しみを防止した以上に,これをつくりだしてきたという結論に到達させられるであろう。

There have been base and cruel passions, which religion opposes. If you abandon religious principles, could mankind exist?
The existence of base and cruel passions is undeniable, but I find no evidence in history that religion has opposed these passions. On the contrary, it has sanctified them, and enabled people to indulge them without remorse. Cruel persecutions have been commoner in Christendom than anywhere else. What appears to justify persecution is dogmatic belief. Kindliness and tolerance only prevail in proportion as dogmatic belief decays. In our day, a new dogmatic religion, namely, communism, has arisen. To this, as to other systems of dogma, the agnostic is opposed. The persecuting character of present day communism is exactly like the persecuting character of Christianity in earlier centuries. In so far as Christianity has become less persecuting, this is mainly due to the work of freethinkers who have made dogmatists rather less dogmatic. If they were as dogmatic now as in former times, they would still think it right to burn heretics at the stake. The spirit of tolerance which some modern Christians regard as essentially Christian is, in fact, a product of the temper which allows doubt and is suspicious of absolute certainties. I think that anybody who surveys past history in an impartial manner will be driven to the conclusion that religion has caused more suffering than it has prevented.

 不可知論者にとって生命の意義はなにか

 これにたいしては,いま一つの質問を発することによって答えたいように思う。すなわち「生命の意義」ということの意味はなにか,ということである。ここで意図されていることは,なにか一般的な目的というようなものであると思う。私は一般的な生命というものは,別になんの目的をもっていないと思う。生命はただ起るのである。しかし個々の人間は,目的をもっている。そして,不可知論のなかには,そうした目的を放棄させるようなものはなにもない。もちろんかれらも,その目標としている結果を達成しうると確言はできない。しかし,勝利が確実でないかぎり戦いを拒むような兵士を,よいとは思わないであろう。自分の目的を助長するために,宗教を必要とするような人は,臆病な人間である。私は,そのような人を,敗北もまたありえないことではないことを認めつつもやってみる人と,同じように評価することはでJきない。

What is the meaning of life to the agnostic?
I feel inclined to answer by another question: What is the meaning of `the meaning of life'? I suppose what is intended is some general purpose. I do not think that life in general has any purpose. It just happened. But individual human beings have purposes, and there is nothing in agnosticism to cause them to abandon these purposes. They cannot, of course, be certain of achieving the results at which they aim; but you would think ill of a soldier who refused to fight unless victory was certain. The person who needs religion to bolster up his own purposes is a timorous person, and I cannot think as well of him as of the man who takes his chances, while admitting that defeat is not impossible.

 宗教の否定は結婚や貞節の否定を意味するのではないか

 ここでもまた,いま一つの質問を発することによって,答えなければならない。この質問を発する人は,結婚や貞節は,この世の幸福に貢献すると信じているのか,それとも,それらは,この世では不幸を起すものではあるが,天国にいたる方法として,主唱されていると考えているのか,どちらかということである。後者の見解をとる人は,たしかに不可知論者は,かれらのいわゆる美徳の頽廃をもたらすと考えるであろう。しかしその人は,かれのいわゆる美徳が,地上における人間の幸福に奉仕するものでないことを認めなければならない。これに反して,もしかれが前者の見解,すなわち,結婚や貞節を支持する現世的な議論があることを認めるなら,そうした議論は,不可知論者にも訴えるものであることを知るべきである。不可知論者は,それ自体として,性道徳にかんして特定の見解をもっていない。しかし,かれらの大部分は,性的欲望に耽溺することに反対する正当な論点のあることを認めるはずである。しかしかれらは,そうした論点を,この世のことから引きだしてくるのであって,神の命令と思われるものから引きだすのではない。

Does not the denial of religion mean the denial of marriage and chastity?
Here again, one must reply by another question: Does the man who asks this question believe that marriage and chastity contribute to earthly happiness here below, or does he think that, while they cause misery here below, they are to be advocated as means of getting to heaven? The man who takes the latter view will no doubt expect agnosticism to lead to a decay of what he calls virtue, but he will have to admit that what he calls virtue is not what ministers to the happiness of the human race while on earth. If, on the other hand, he takes the former view, namely, that there are terrestrial arguments in favor of marriage and chastity, he must also hold that these arguments are such as should appeal to the agnostic. Agnostics, as such, have no distinctive views about sexual morality. But most of them would admit that there are valid arguments against the unbridled indulgence of sexual desires. They would derive these arguments, however, from terrestrial sources and not from supposed divine commands.

 理性のみを信じることは危険な信条ではないか。理性は,霊的,道徳的法則なくしては,不完全,不十分ではないか

 分別のある人なら,たとえ不可知論者であっても,「理性のみを信じる」 ということはない。理性は,観察されたり,推則されたりする事実にかんするものである。未来の生命があるか否か,とか,神が存在するか否かという問題は事実の問題である。したがって不可知論者は,そうした問題は,「明日月蝕があるか否か」という問題と同じ方法で検討さるべきものであると考える。
しかし,事実にかんする事柄は,われわれがいかなる目的を追求すべきであるかということを語らないのであるから,それだけでは,行為を決定するには十分でない。目的の分野(領域)においては,理性以外のなにかが必要である。不可知論者は,この目的を,かれ自身の心のなかに見出すのであって,外からの命令のうちに見出すのではない。
実例をとってみよう。かりに,ニュー・ヨークからシカゴに汽車で旅行するとする。その場合,汽車が何時に出るかを知るためには理性を用いるのである。もし,時間表を不必要とするような,洞察とか直感の働きがあると考える者がいたら,それはばかげた考えといえよう。しかしまた,時間表は,シカゴに旅行することが賢明であるかどうかを教えてはくれない。それが賢明であると決定するためには,たしかに,それ以上の事実にかんすることを考慮に入れなければならない。しかし,これらいっさいの事実にかんすることがらの背後に,かれが追求するにたるものと考える目的があるのである,そしてそれは,不可知論者にとっても,他の人にとってもひとしく,けっして理性に反するものとは限らないが,理性ではない分野に属するものである。ここで私のいう分野とは,情緒,感情そして欲望の分野(領域)である。

Is not faith in reason alone a dangerous creed? Is not reason imperfect and inadequate without spiritual and moral law?
No sensible man, however agnostic, has "faith in reason alone." Reason is concerned with matters of fact, some observed, some inferred. The question whether there is a future life and the question whether there is a God concern matters of fact, and the agnostic will hold that they should be investigated in the same way as the question, "Will there be an eclipse of the moon tomorrow?" But matters of fact alone are not sufficient to determine action, since they do not tell us what ends we ought to pursue. In the realm of ends, we need something other than reason. The agnostic will find his ends in his own heart and not in an external command. Let us take an illustration: Suppose you wish to travel by train from New York to Chicago; you will use reason to discover when the trains run, and a person who thought that there was some faculty of insight or intuition enabling him to dispense with the timetable would be thought rather silly. But no timetable will tell him that it is wise, he will have to take account of further matters of fact; but behind all the matters of fact, there will be the ends that he thinks fitting to pursue, and these, for an agnostic as for other men, belong to a realm which is not that of reason, though it should be in no degree contrary to it. The realm I mean is that of emotion and feeling and desire.

 あなたは,いっさいの宗教が,迷信,あるいは教理の一つの形であると考えるか;現存の宗教のうち,どれを一番尊敬するか。その理由は?

 多くの人々を支配した大きな組織をもつ宗教はみな,その程度は異なれ,教理をもっている。しかし,「宗教」という語はその意味がきわめて不明確な言葉である。たとえば,儒教は,教理をもっていないが,宗教と呼んでよいものであろう。また,ある種の自由主義的なキリスト教にあっては,教理の要素は,最小限度に減少している。
 史上の種々の大宗教の中では,私は仏教,特にその初期の形を好んでいる。それは,強制的な要素がもっともすくないからである。

Do you regard all religions as forms of superstition or dogma? Which of the existing religions do you most respect, and why?
All the great organized religions that have dominated large populations have involved a greater or less amount of dogma, but "religion" is a word of which the meaning is not very definite. Confucianism, for instance, might be called a religion, although it involves no dogma. And in some forms of liberal Christianity, the element of dogma is reduced to a minimum.
Of the great religions of history, I prefer Buddhism, especially in its earliest forms, because it has had the smallest element of persecution.

 共産主義は,不可知論者と同様に宗教に反対している。不可知論者は共産主義者か?

 共産主義は,宗教に反対しない。これは,マホメット教がすると同じように,キリスト教という宗教に反対するだけである。共産主義,すくなくともソヴュト政府および共産党に主唱されている形のものは,特殊な害毒をもち,迫害的な,新しい教理の組織である。純粋の不可知論者は,したがって,当然これに反対するはずである。

Communism like agnosticism opposes religion, are agnostics Communists?
Communism does not oppose religion. It merely opposes the Christian religion, just as Mohammedanism does. Communism, at least in the form advocated by the Soviet Government and the Communist Party, is a new system of dogma of a peculiarly virulent and persecuting sort. Every genuine Agnostic must therefore be opposed to it.

 不可知論者は科学と宗教が調和することは不可能であると考えるか

 これにたいする答は,「宗教」の意味によってきまる。もし宗教が,単に倫理組織(松下注:「倫理体系」と訳すべき)を意味するなら,科学と調和されうる。もしそれが絶対的に真理であると考えられる教理の組織(松下注:「教義体系」とでも訳すべき)を意味するなら,それは,事実にかんすることがらを証拠なしに受けいれることを拒み,また,完全な確実性は,ほとんど得られないとする科学の精神と両立しないものである。

Do agnostics think that science and religion are impossible to reconcile?
The answer turns upon what is meant by `religion'. If it means merely a system of ethics, it can be reconciled with science. If it means a system of dogma, regarded as unquestionably true, it is incompatible with the scientific spirit, which refuses to accept matters of fact without evidence, and also holds that complete certainty is hardly ever impossible.

 どのような証拠が,神の存在することを,あなたに信じさせることができるか

 もし私が,天からの声が,いまから二十四時間以内に起るできごと,−−きわめて起りそうもないことをも含めて−−を予言するのを聞き,それらがその通りに起ったなら,すくなくとも,なにか超自然的な知性の存在することを,おそらく確信するであろう。そのほかにも私を信じさせるような証拠を想像することはできるが,私の知る限りでは,そのような証拠は存在しない。

What kind of evidence could convince you that God exists?
I think that if I heard a voice from the sky predicting all that was going to happen to me during the next twenty-four hours, including events that would have seemed highly improbable, and if all these events then produced to happen, I might perhaps be convinced at least of the existence of some superhuman intelligence. I can imagine other evidence of the same sort which might convince me, but so far as I know, no such evidence exists.
(掲載日:2013.07.05/更新日: )