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谷川徹三「自由人バートランド・ラッセル」

* 出典:『心』(平凡社)1972年5月号,pp.2-3.
* (故)谷川徹三(たにかわ・てつぞう、1895年5月26日-1989年9月27日):哲学者、法政大学総長を務める。日本バートランド・ラッセル協会2代目会長



 今年(1972年)はバートランド・ラッセルの生誕百年の年に当るので、その生まれた日、五月十八日に東京で記念の講演会を開き、ついで大阪、京都、広島、福山でもそれを開くことになっている。
 ラッセルは哲学者として偉大な仕事をしたが、第一次大戦以来、反戦平和の闘士として大きな足跡を遺している。もっとも第一次大戦にはその反戦運動によって牢獄につながれたのに、第二次大戦にはナチの脅威に対する顧慮から参戦を支持している。そういうところにいわゆるパンフィスト(松下注:パ「シ」フィストの誤植か? 即ち、「絶対」平和主義者)とはちがった自由な姿勢を見せているが、しかし第二次犬戦以後に、核戦争による全面的破壊の可能性を警告し続け、九十を過ぎて平和行進の先頭に立ったり、座り込みをやったりしている。
 ラッセルには一九〇三年に発表した(松下注:執筆は1902年)有名な「自由人の信仰」(A Free Man's Worship)という一文がある
 科学の教える世界は、無目的な、無意味な、盲目の世界である。そこではあらゆるものが流転を重ねている。しかし自然はその流転の中で、奇妙な一人の子供を生む。その子供は、自然の力に服従はするけれど、自分を生んだ盲目の母のいとなみを認識し、批判する能力をもつにいたる。そして「時」と「運命」と『死」という、人間にとって不可避のものを考えることによって、その'共通の運命というきずな'で同胞と堅く結びつけられていることの自覚から、人間愛の感情を生む。これは無私の愛で、この愛によって人間は自由になる。それが「自由人の信仰」である。
 この純粋な人間愛は、その完全な形では現実の人間社会には見出されない。しかしこれは人間の最高の徳であり、人間と社会とのあらゆる問題に対する視点の中心に掘えられねばならぬ。
 そこから彼はキリスト教をも共産主義をも見ている。「なぜ私はキリスト教徒でないか」の中で、彼はその理由を、自分の哲学にも基づけているが、キリスト教が愛の宗教であることを説きながら、教会という組織された集団では、憎しみを教え、宗教裁判や魔女狩りのような数々の残酷な行いをしたことを弾劾している。しかしそれだげでなく、イエス自身の言行の中にも、ガダラの豚の話や、イエスの飢えた時、果をつけていなかったイチジクを呪った話などを挙げて、彼が聡明さの点でも徳の点でも、仏陀やソクラテスに及ばないことを言っている。
 共産主義の実状については、革命直後一九二〇年イギリス労働党の一行に加わってソ連を訪れ、レーニンとも会談したり、ペトログラードやモスクワだけでなく地方をも廻って書いた報告「ボルシェヴィズムの実際と理論」の中で、その幻滅を語っている。彼の結論は、ボルシェヴィズムの「失敗」の究竟因が、一つにはその憎しみの教義にあり、二つには、強制力によって完全に人間性を変革しうるという信仰にあるというところに見出せよう。憎しみは旧体制破壊には有効であるけれど、権力奪取による権力集中は、官僚主義と非民主化をもたらし、それが大衆疎外となって、建設の事業を妨げるというのである。
 一九二〇年のソ連をもってその後のソ連を律することはできないにしても、その時の印象はよほど強烈だったらしく、晩年の著作でおる「自叙伝」の中にも、その一九二二年(松下注:1920年の誤記)の「ボルシェヴィズムの実際と理論」の中では触れなかった「全く恐ろしい、傑然とした思い」について、具体的に語っている。
 戦後のアメリカに対する、殊にベトナム戦争におげるアメリカのやり口に対する、彼の仮借ない攻撃も、これと同じ精神から出たもので、そのいずれにも、自由人ラッセルの面目が躍如としている。短い期間、ほぼ一年間ではあったが、熱烈な友情を結んだD.H.口ロレンスに対する態度の変化も基づくところはここにある。二人は当時のイギリスにおける叛逆的構神として結ばれた。ラッセルはその「自叙伝」の中で「彼の感情のエネルギーと激烈さが私は好きだった」。と言っている。しかし「ローレンスは世の中をより良くしたいなどとは全然思っていないのであって、ただ単に、世の中がどんなに悪いかを自慰的にぶちまげるだけに過ぎないということが、段々とわたくしにわかってきた。」
 ここにも、自由人としての無私の愛への信仰がある。