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ラッセル氏、神戸着

* 出典:『東京朝日新聞』1921年(大正10年)7月18日付第3面
* 『大阪朝日新聞』同日記事

(1)「ラッセル氏、神戸着」

 ラッセル氏は、十七日午前十一時三十分、営口丸にて神戸港第二埠頭に着、賀川豊彦氏以下労働者代表者の出迎えを受け、神戸のクロニクル主筆ヤング氏宅に入れり(神戸電話)

(2)「労働者隊の歓迎に感激のラッセル博士-美しいブラック嬢の姿も見えて元気な上陸

 バートランド・ラッセル氏を乗せた営口丸は、十七日午前十一時三十分、神戸港第二埠頭に沿って徐航して居る。此日恰も大倉山公園にて催された労働者の運動会にて勢揃いせる各労働組合会代表者約百余名、数十旒の旗を押し立て労働歌を唄いつつ波止場に来て整列出迎えた。ラ氏は白の背広にヘルメット(帽)をかぶり、籐椅子に凭(よ)って居たが、労働者の出迎えと見て、抑え切れぬ喜びを見せ起って欄干に凭(よ)った百余名の労働者は一斉に旗を振り万歳を唱えた。やがて船は横着けされた。先ずラ氏に握手せるは賀川氏(右写真「ラッセルと賀川豊彦: From R. Clark's The Life of B. Russell, 1975)で両氏の間に慇懃な挨拶が交換された。次に記者が握手して、歓迎の挨拶を述べ、「ご病気は如何です」と聞くと、「もう大分良いが未だ疲れて居ます、有り難う」と答える。記者は殊更対話を避け、門司からラ氏に随行の改造社の橋口氏に船中での模様を聞くと、支那で三箇月も殆ど病床に暮らしたラ氏も日本の風景に接してから不思議なほど元気となり、昨夜瀬戸内海を航行して居た間は夜の一時頃までデッキに月光を浴びつつ、ブラック女史と歓談して居たと。其のブラック女史は薄鼠色の洋装涼しげに、賀川氏と握手して居る。エレン・パワレス女史(松下注:Eileen Power アイリン・パワー)も同じく随行して居る。舷梯(げんてい)を下るラ氏は、左足が悪いと見えてステッキを力に痛々しげな歩きぶりである。自動車に両女史及び神戸クロニクル主筆ヤング氏と同乗したが、労働者隊が二列縦隊に整列して居る前に来ると、早々(?)自動車を止め扉を開き足台に降り立って帽子を取り挨拶をした。今日一日は塩屋(しおや)のヤング氏宅に静養する筈。ラ氏の日本滞在日程は確定しないが多分十八日は賀川氏を茸(?)合の貧民窟に訪うた後同日出発。大阪、京都、名古屋、日光に遊び、来月初旬横浜出発、米国に向かう筈である。(松下注:結局、名古屋には行かなかったハズ)(神戸電話)

(3)「東京に迎え講演会-更に社会問題の批判を乞う

 来朝のラッセル氏は、東京へも迎えて講演会を開く予定である。雑誌改造社の山本社長は其の肝煎の為神戸に出張してラッセル氏と交渉中であるが、更にラ氏の上京を機会に市内における細民部落及び木賃宿を案内し、労働団体の実況、労使争議の実状から、各学校の視察を依頼し、社会問題から教育問題に渡る実際的批判公開の機をも作る予定であるという。(神戸電話)