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バートランド・ラッセルのポータルサイト


鈴木祥蔵「ラッセルの教育論」
『理想』1970年9月号、pp.34-40 掲載

*鈴木祥蔵氏(1919〜 )は現在関西大学名誉教授。右下の朝日新聞記事(1992.6.25)参照


 一 フロイドの影響とそれからの離脱

「……思想によって世界を得ようと願うものは、現在における支持としては、世界を失うことに甘んじなければならない。大方の人たちは、ものごとをたいして疑うことなく人生を過してゆく。そして流通しているさまざまな信念や慣行を受け容れ、それに反対しないかぎり、世間は自分の味方としてくれるものだ、と感じるのである。世界に関する新しい思想というものは、そのように安楽な現状甘受とは両立しえないものなのだ。新思想はある種の知的超然さ、ある種の孤独なエネルギー、内面的に世界を支配する力と、世間が危険視するものの見方とを必要とする。みずからすすんで孤独となるような態度がなければ、新しい思想は達成することができないのだ。」
 一九一六年に書いた『社会改造の諸原理』(Principles of Social Recostruction)の中で、ラッセルは自分の決意ともいうべきことを以上のように力強く述べている。そして、ラッセルは自分が書いた通りに一生をつらぬき通した。
 ラッセルの世間的な行動は、それ以後まもなく孤独なたたかいとなってゆく。彼自身の離婚とそれにつづく結婚とが、また性に関する俗説への挑戦がその原因の一つであったし、彼の教育説とその実験ともいうべき「ビーコン・ヒル学校(Beacon Hill School)」の経営が原因の一つでもあった。さらにもう一つの原因は、当時圧倒的な勢力であった帝国主義的国家主義に対する彼の徹底的な批判であった。
 ラッセルは、一九二六年に「教育論」(On Education - especially in childhood)を書き、一九二七年に、彼の二番目の妻ドーラと、幼児のための学校を開設した。ラッセルとドーラの間には、この学校に丁度適当した年齢に達した二人の子どもがあった。彼らのためにも、この夫婦は、親として、理想的な教育を与えたいと考え、おそらく伝統的な学校に托したのでは有害な教育をおしつけられることからまぬがれることができないと考えたからであった。そのことは直接の動機だったには違いないのだが、当時のイギリスのみならず、ヨーロッパの国々の学校教育の欠陥を克服する新しい教育思想をこのビーコン・ヒル学校で実験し実証することによって、彼の新しい教育思想を普及させようというのがラッセルの意図でもあった。
 ビーコン・ヒル学校は、やがてジャーナリズムと世論の総攻撃にあい、一九三五年にドーラとの間に離婚の話がもちあがり、ラッセルはその時期からこの学校との関係を断つにいたった。(松下注:ラッセルは1932年春には、Beacon Hill Schoolから手を引いており、パトリシア・スペンスとともにコーンウオールに移り住んでいる。以後離婚手続きが難航し、決着がつくまで、以後3年間を要することとなる。)
 その間、つまり一九二六年から一九三五年までの十年間は、ラッセルが自己の教育思想を公表し、且つその実践に打ち込んだ時期であったということができる。ラッセルの教育に関する主要な第二の著書『教育と社会体制』(Educaiton and the Social Order)(1)は、一九三二年にその初版が出版されている。
 ビーコン・ヒル学校でラッセルが実践しようとしたことは、その当時の妻ドーラが、後に整理して書いた著書(2)の中であきらかにされているが、そこでは次のような目的意識が自覚されていたといえる。(写真:Beacon Hill School にて。長女ケイトはラッセルの膝の上、長男ジョンは最前列に立っている。)
「子どもが成人して入ってゆく社会についての一つの観念を(わたしたちは)もっていた。それはデモクラチックな社会なのであって、高度な競争社会でもある。しかし、社会主義がすすむにしたがって協力ということがますます必要になってくる社会である。(したがって)子どもたちは民主主義者であることを誇りとして社会で生きてゆくように教育されなければならない。子どもは自尊心をもち、独立の精神に富んだ民主主義者として成長することをわたしたちは望んだのである。」
 ラッセルの思想にもその生涯を通鑑すれば相当に変化があることに気づくのであるが、彼のフロイドからの影響による思想もその一つであるといえる。彼の教育思想の展開された時期はまさにフロイドに強く影響された時期であったが、その後ラッセルは自分の見解を相当程度否定するにいたる。
 ラッセルは幼年期における何らかの抑圧がのちのち成人生活をおくる際に病的な結果をもたらすというフロイドの信念に強く印象づけられていたから、子どもたちがやがて危険なコンプレックスをもつことをさけるために、頭の中に浮んだことは何でもやれるようにしようと考えていた。つまり、子どもに最大限自由な行動を許すということをビーコン・ヒル学校の特色にしようとした。
 ドーラは次のようにも書いている。(3)
「われわれの学校委員会は、犯罪とか処罰とかいうことに何らの関心も示さなかった。子どもも、大人も、誰でもが学校の集会で、文句を言うことができるし、問題を提案することが許された。学校に参加することを許可されるやいなや――それは五歳からであるが――子どもたちは自由と自己統御が許されるのである。」
 当時のイギリスの学校、とくにパブリック・スクールの雰囲気は――これは今日もあまり改められてはいないのだが――ヴィクトリア王朝以来の繁栄とその国威の宣揚に重大な寄与をしてきたという伝統と自負とが、徹底しているといったものであった。経済的な立場での自由主義は、まさに植民地獲得戦争を合理化するが、自由な人間の教育という思想とはなかなか結びつき難い雰囲気の中で、ラッセルの自由主義的・個人主義的教育はまさに当時としては異質なものにうけとられるような状況にあった。ラッセル以外にそのような試みが皆無だったわけではない。たとえば、ジョフレイ・パイク(Geoffrey Pyke)とスーザン・イサアクス(Susan Isaacs)がマルティング・ハウス学校で行った実験もほぼ同時期に行われたものであったし、同程度に自由な試みでもあった。だのに、当時の世論がやかましくラッセルたちのビーコン・ヒル学校を非難したのは、ラッセルの性に関する意見と、性教育に関する自由主義的な教育とを結びつけて、如何にもフリー・セックスを学校で唱導しているようにうけとったからであった。
 ビーコン・ヒル学校では、男女生徒が全裸で体操をやるような試みを行った。そしてしばしばそれが誇張されて報道された。
ラッセルとドーラの真意は、むしろ、「性に関する疑問」に関しては、もっとフランクに立ち向うべきであるというところにあった。この点に関しても、ドーラはあとでつぎのように述べている。
「性に関する疑問についての新しい率直さが特別のはげしさで非難された。しかし、性教育に対するわたしたちの態度は、その当時にそれが巻きおこした敵意をもって迎えられるようなことは今日ではもはやなくなった。われわれは性に関するすべての疑問に答えたし、どうして子どもが生れるかということも説明してやった。しかし、性教育を特別に講義したことはなかった。この学校の子どもたちは、殆んどが青年期に達するまでに学校を去った。わたしたちは、戸外のダンスと体操では特に、彼らがもしそう希望するならば、夏の期間は着物をすべてぬぐことを許した。」(4)
 ラッセルの当時の教育思想を裏づけていた「抑圧からの解放」という立場は、ヨーロッパの、とくにイギリスの国教会派の性に関する厳格主義への反発があり、それをフロイドの理論と結びつけて合理化しただけではなしに、戦争に対する反対、つまり彼の平和主義の立場をマルクス主義流に階級関係に解消してしまうことを否定するために、大衆の心の奥底にある好戦的傾向は、幼年時代の大人からの子どもの抑圧と年長の子が年少の子を抑圧することに原因をもとめ、このような「抑圧の解放」によって戦争の心理的原因を除去するのが教育の一つの重要な任務であるという考えに基づいていた。この考えは、すでに『社会改造の諸原理』(1916)にも『工業社会の前途』(1923)にも述べられているし、『教育論−ことに幼児期の』(1926)ではそのことが強調され、『教育と社会体制』(1932)では特にその主張が前面におしだされている。
 ビーコン・ヒル学校への非難に答えるかのごとくに、ラッセルは一九三二年に『教育と社会体制』を書いてその中に「性」に関する一章を設けている。その結びの言葉はきわめて強烈でさえある。
「すべて青年たちを扱う場合、青年たちが性というものを、何かもともとけがらわしいもので、こそこそするもののような感じをうけないように留意することが大切である。性は興味のある問題である。そして性について語りあい、性について考えるのは、人間にとって自然なことである。現在、この青年たちにとっては全く自然な欲求を教育者たちの方で何かよこしまなものとして扱っているのである。その結果、青年たちが自然に持つはずである以上に興味をこの問題に抱くことになり、禁断の木の実のよろこびのままに、絶えずそれを話題にしている。かれらの会話は、この結果、どうしても、無知であり馬鹿げている。なぜならかれらは自分の想像にたより、生半可な知識にたよるほかないからである。……
 あるときは心明るく陽気になり、またあるときは悲劇の陰翳りをも秘めることのある自然のよろこびとしての性の全概念は、喜びと結びついたものはすべて邪悪であり、くすんだそして習慣的なものだけが貞淑なものと考えている街学的な道徳家たちの視野の外におかれている。詩も喜ぴも美も、このような醜悪な倫理学によって生活の外に追放されている。この化石のような冷酷なものが人間関係のなかに導き込まれている。このような見地から、お上品ぶりと、心の貧しさと、想像力の死とがやってくるのだ。自由な見地にもまたそれなりの危険はあるに違いない。しかし、それは生の危険ではあっても死の危険ではないのである。
 ラッセルは、自らが性について極めて自由な態度をとった。この点でもキリスト教的な倫理に挑戦しているとうけとった道学者たちからの非難は彼に集中せざるを得なかった。
 第二の婦人ドーラとの離婚後、彼は仕事の方で彼の助手の役目をしていたパトリシア・ヘレン・スベンスと一年後の一九三六年に結婚した。彼女は親しい人びとから"ピーター"という呼び名で呼ばれていたが、このピーターという名がしばしばラッセルの本の中にあらわれてくる。ラッセルは、子どものためにだけは結婚を制度として承認する必要を認めたといっていいであろう。ピーターとの結婚後、彼は、ビーコン・ヒルの学校の彼とドーラとの実験を失敗であったと反省している。そしてその間に、フロイドの幼年期における性的抑圧が、成人後のその人の精神病の原因であると考える必要はない、フロイドの主張は誇張された学説であると言いだす。と同時にビーコン・ヒル学校の自由は、知的教育の面で間違っていた、「抑圧ぬきの自由」の強調が知的訓練の否定につらなるときには学校は失敗することにならざるを得ないと言っている。(5)


(その2)

 二 知性とその敵とのたたかい

 ラッセルの論説に接してわれわれがおそらく共通に感じとりうるものは、その大胆率直な言い方の中に一皮も二皮もむけた知性のかがやきとでもいうべきものが何時もキラキラと光っていることである。ラッセルはすべてことの本質は何か、そのことで最も大切なものは何かということを問い正す。そしてそのことがらに関してどうでもいいこと、そのことがらの真の値打をそこなっているものは何かを探し出してこれを徹底的に排除し否定することをすすめる。それはまさに数学的正確さとでもいうべき態度で一貫して追求される。あいまいな態度を許さぬその一徹さが因襲的な伝統的な考えをもっている人びとに反感をもたれ、誤解され、おくれた世論をかきたてて攻撃される原因ともなっている。しかし彼は孤立をけっして恐れずに自己の把握した本質を持続して追求しつづけける。
 教育に関する見解もその点では一貫している。ラッセルはその著『教育と社会体制』の第一章において「個人と市民」という問題をとりあげ、教育の目的はすばらしい人間としての個人をこそねらわねばならないことを強調している。そのときの個人とは、新しい発見のできる知性をもち、全宇宙をうつし出しうるような深い人間的な感情をもち、意志を働かして変化の原因とし自己をおしだせる力をもった人のことである。このような人間は保守的な教育によって市民として協力することだけを教えられるような「とりまかれた」人とは全く違う。「自己自身にたよる」ものであることによってはじめてすばらしい個人といえるのである。
「政府が考える"市民"とは、国の現状を尊敬し、その維持に身を捧げるものである。おかしな話だが、すべての政府は、他のすべての型のものは排除してこのような種類の人だけを育てようとしているくせに、政府の持出す過去の英雄たちはみな全く現在育てまいと思っているような型の人物だったのである。アメリカ人たちは、ジョージ・ワシントンやジェファースンを尊敬しているのに、ワシントンやジェファースンと同じ政治的意見をもつ人たちを投獄している。英国人はボアディシアを尊敬しているのに、現在インドにかの女が現れればたちまち、ローマ人がやったと同じように彼女を取扱うにちがいない。すべてのヨーロッパ人はキリストを尊敬している。彼がいま生きていたら必ずスコットランド・ヤード(ロンドン警視庁)に嫌凝をかけられて引かれてゆくだろうし、キリストは武器を持つことに反対であるという理由で、アメリカの市民たることを拒まれるであろう。このことはいろいろの点で、理想としての市民が適当なものでないことを説明している。」(6)
 理想的な市民とは創造性の欠如を意味するという点で、科学の教育と矛盾してくる。なぜならば、「科学する心は、懐疑的なものでも、ドグマティックなものでもなく」、また、「最後的な断定をしないということが、科学的精神のエッセンス」だからである。科学者が真理を発見するのは、市民であればそう信ずる方が賢明だと社会が考えたことに従うからではなく、全く個性的に発見したことに従ってそうするものだからである。そういう意味でラッセルはプラグマチズムの真理観を非難するのである。感情の面でもこの理論はつらぬかれる。「国歌の演奏のような、おなじみの状況のなかにおいて、新しい感情の息吹きを感じ取ることは殆んど不可能である。」
 ラッセルは勿論人間の真理発見の能力を理性によると考えている。「絶望落胆のための、いかなる合理的根拠もあり得ない。」というラッセルの言葉には、人類のもつ理性に対するあくなき希望と信頼がこめられている。現状がいかに困難に見えようとも、「人類のための幸福への手段は存在する、そしてただ一つ必要なことは、人類がその手段を使用する決意をすることなのである。」 これがラッセルの『教育と社会体制』の最終章の最後の結びの言葉である。人類のもつ理性を正しく使用することをラッセルは知性と呼び、この知性を育てることをラッセルは真の教育と考えていたのである。したがってこの知性をにぶらせ、この知性をくもらせ、この知性をあやまらせようとする一切のこころみを非教育、反教育としてはげしく攻繋したのである。
 「しつけ」(discipline)も、貴族主義者も、俗悪な民主主義者も、官僚主義者も、知性を抑圧する限りにおいては教育の敵であるし、教育における集団も常に個人の知性をねむらせる危険をもっているという意味で警戒すべき対象であった。国家、愛国心は知性の最高の敵でさえある。
「もしも諸君が、自分は恐怖で辟易するようないまわしい犯罪を誰かにやらせたいと思うなら、まず凶悪犯人の一味に忠誠を誓わせ、それからかれらにかれの犯す罪は、忠誠精神の実例のように思い込ませればよい。愛国心とはこのようなからくりの最も完全な例なのである。」
 ラッセルは一人の人間を殺したものは犯罪者としてとりしまりの対象になりながら、外国の兵士を幾人も殺したものが英雄と呼ばれるといういわれはあり得ないではないかという。愛国心が人類の理性にとって邪魔になるのは一たす一は二だというほどに簡単明瞭なことに過ぎないというのである。
愛国教育に対する疑問はいろいろである。われわれがすでに考察したように、国家主義の害毒がさけられなければ、文明は永続しないという問題もある。人殺しも一しょに教えるようなところで、教養人の立居振舞の理想を教えることなどほとんど不可能であろうという疑義もある。国家主義教育の本質的な部分である憎しみの教育それ自体が悪いものであるという疑問もある。しかしとにかく就中、国家主義教育の、どうしても偽りのことを教えるという、純粋に知的な面での疑義は無視することができないのである。」
 ここでもラッセルの論理はつらぬかれる。「子どもたちは自分の国が最良のものだと教えられる。しかしこの命題はある一国を除いてはすべて虚偽である。(7) このような虚偽を真面目に教えられる愛国心の教育は虚偽以外の何ものでもない。
 ラッセルは共産主義とくにスターリン主義にも徹底的に反対した。
「もし共産主義が世界を支配したら、おそらくそれはやれるであろうが、共産主義は現存の主要な害悪を大部分解決してしまうに違いない。以上のような理由から、種々の制限は附するにしても、共産主義は支持をうけるに値する。」(8)と、ラッセルは『教育と社会体制』の第十三章の結論を下している。しかし、スターリン主義には徹底的な批判をくだした。彼があれほどに親しくしていたバーナード・ショーと衝突したのも、ショーがスターリンを心から支持し、その暗黒面を考えることさえ拒否したからであった。ラッセルは口を極めてバーナード・ショーをののしりさえした。
(松下注:このあたりの記述は誤解を与えやすい。言葉は時代によって意味が変わってくるので注意が必要である。ここでいっている「共産主義」は、現在における「社会主義」のことであり、ラッセルは、1920年に出版した The Practice and Theory of Bolshevismでロシア共産主義を手厳しく批判している。そして、1949年に出された第2版の序文では、次のように書いている。... on the other hand, I have found it necessary, in order to conform to modern usage, to alter the word 'Communism' to 'Socialism' in many palces. In 1920, there was not yet the sharp distinction between the two words that now exists, and wrong impression would be made but for this change. ...)
 ラッセルの一生は彼が身につけた知性をコトバとしてあらわし、これを実践に結びつけてたたかって見せてくれた人類の代表の生涯であった。ラッセルの教育思想は、永く人類の記憶にとどまるであろう。


1 Bertrand Russell, Education and the Social Order, 1932. 鈴木祥蔵訳『教育と社会体制』(明治図書出版)
2 Dora Russell, What Beacon Hill Stood For(Peace News, 1945, p.5.)
3 Dora Russell, op. cit., p.32.
4 Dora Russell, op. cit., p.40.
5 Herbert Gottschalk, Bertrand Russell eine Biographie, 1962.
6 鈴木訳『教育と社会体制』p.12
7 同前掲書、第四章「教育における愛国心:
8 同前掲書、p.160.