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石本新「ラッセル、ウィトゲンシュタイン、ホワイトヘッド」訳者解説

* 出典:「ラッセル、ウィトゲンシュタイン、ホワイトヘッド」(中央公論社,1971年9月,554pp.)
* 原著:Our Knowledge of the External World, 1914.
* 石本新(1917~2005):略歴
* 山元一郎(1910-1972):京大哲学科卒。京大図書館嘱託を経て、1950より立命館大学教授

訳者解説「(3人の科学哲学者)はじめに」

 バートランド・ラッセルが、その1世紀に及ぶ生涯を終えて昨年(1970年)2月2日の夜(=英国時間)、北ウェールズのプラスペンリン丘にある山荘で他界したことは、われわれの記憶にまだなまなましく残っている。百人委員会の委員長として、またパグウォッシュ会議の提唱者として、平和運動の先頭に立って戦うラッセルのすがたは、いまさらいうまでもなく、知らない人はいないはずである。
 しかしながら、ラッセルが80の坂をこしてからも、いな、百歳に近い年齢に達しても、倦むことなく続けたあまりにもはなばなしい社会的活動に眩惑されて、ラッセルが、ホワイトヘッドあるいはウィトゲンシュタインと、ときには力を合わせ、ときには反発しながらも、築きあげていった新しい哲学のことを忘れてはならないであろう。そして、この哲学を紹介するのがこの巻(中央公論社版・世界の名著第58巻)の目的なのである。
 では、これら3人の哲学者に共通する哲学はいかなる哲学であろうか? ここに紹介されているそれぞれの著述が、あまりにも多様であるために、3人に共通な立場を見いだすことは、一見むずかしいように思われる。とくに、ウィトゲンシュタインとホワイトヘッドという、いってみれば分析と総合という両極端をとってみると、このことはいっそう強く感じられる。

 論理分析の確立

 しかしながら、これら3人の思想家論には、やはり共通の問題意識がある、といわなければならない。というよりも、共通の出発点が見いだされるのである。どういう出発点であるかというと、いうまでもなく、それは論理分析という方法である。ラッセルの解説においても詳しく述べることであるが、ホワイトヘッドが、またラッセルが、哲学の仕事を始めた19世紀末は、近代論理学の黎明期にもあたっている。そして、フレーゲ、ペアノなどの業績も一応出そろい、近代論理学の形は一通りできあがっていたのであるが、これをさらに推し進めて、全3巻の膨大な『数学原理』(Principia Mathematica, 3 vols, 1910-1913)に集大成したのは、ホワイトヘッドとラッセルの大きな功績である。近代論理学史上における『数学原理』の位置については、別の機会に譲りたいが、この書物を著わすことによって、ホワイトヘッドとラッセルが第一級の論理学者に成長していったという事実は、忘れることはできない。そして、このときに身につけた論理分析の技術が、ここに訳出した『外部世界はいかにして知られうるか』(Our Knowledge of the External World, 1914)と『観念の冒険』の、哲学的というよりは技術的な出発点となったといったら、過言であろうか。ウィトゲンシュタインは、近代論理学の発展にみずから技術的に寄与するということはしなかったが、ホワイトヘッドとラッセル、あるいはフレーゲの残した遺産の徹底的な再検討を企てたという意味で、やはり論理分析から出発しているのである。この点に関しては、ラッセルの『外部世界はいかにして知られうるか』がもっとも明瞭で、この書物が近代論理学によって獲得された論理分析という手法の哲学への応用にほかならないということは、一読してみれば直ちにわかることであろう。ウィトゲンシュタインの『論理哲学論』も同じことで、細部を別にすれば、この書物が、近代論理学、とくにフレーゲとラッセルの論理学の背景なしには理解できない、ということは明らかである。
 では、近代論理学を手段とする論理分析とは、もっと具体的にいうとどういうことなのであろうか? ウィトゲンシュタインの解説でも述べることであるが、それは煎じつめれば、理性批判ということに帰着するであろう。といっても、カントのように直接理性を批判するのではなく、論理、つまり言語を媒介とする理性批判、すなわち言語批判なのである。ウィトゲンシュタインがいかにその言語批判を展開し、ホワイトヘッドとラッセルが言語批判を媒介としてどのように存在そのものに肉迫したかということは、それぞれの解説と本文に譲ることとして、論理分析の成果ではなく、方法としての論理分析がその後の哲学に及ぼした影響に簡単に触れて、この総合的解説を終えたい。

 論理実証主義とポーランド学派

 いうまでもなく、論理分析という手法の継承者は、1920年代の終わりごろから1930年代の初めにウィーンを中心としてはなばなしく活躍したシュリック、カルナップ、ライヘンバッハ、ノィラートなどを中心とする論理実証主義者のグループと、ルカシェーヴィッチとレスニェウスキーを指導者とするポーランド学派であった。前者は実証主義を旗じるしとし、後者はどちらかといえば地味な論理学研究が中心であったが、いずれの集団も論理分析を手段とし、『数学原理』が共通のバイブルであったという点では、同じであった。そして、カルナップが実証主義者で、ルカシェーヴィッチが実在論者であるという違いがあったにもかかわらず、相互に理解しあうことが可能であるという、哲学の世界では珍しい現象が見られたのである。第2次世界大戦を契機として、論理実証主義者もポーランド学派も、学派としては解体するが、これらのグループの主張ではなく、論理分析という手法は、後期ウィトゲンシュタインの影響の下に、イギリスを中心として成立した狭い意味における分析哲学と、かっての論理実証主義者なども加わって成立したいわゆる「科学哲学」とに引きつがれている。そしてこの手法を用いる哲学は、現在では、哲学界における主流の1つとなっているのである。さて、科学批判、言語分析等々、ひろい意味における現代の分析哲学の目ざすところは、まことに多彩ではあるが、煎じつめれば、言語批判であり、言語を媒介としての理性批判ということになろう。という意味で、現代の分析哲学は、あらわにそうと語られることはまずないにしても、1つの思想にまで結実する資格をもっているといってよい。この思想は、あるいは一種のニヒリズムであるかもしれないが、結果よりも論理分析という手法により関心をもつ多くの分析哲学者や科学哲学者は、概して、思想についての発言を好まないのである。しかし、私たちは、論理分析というまったく同じ方法から出発して、ホワイトヘッドとラッセルが、科学的楽観主義ともいうべき、こういう思想とはまさに正反対の結論に到達したことも、忘れてはならない。
 そして、ここに訳出された3つの書物は、この思想運動の発端をなす、いわば記念碑なのである。(→「訳者解説:(3人の科学哲学者)ラッセルの生涯と思想」に続く)