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訳者(石本新+山元一郎)解説「バートランド・ラッセルの思想と生涯」

* >出典:バートランド・ラッセル(著),石本新・山元一郎(共訳)『外部世界はいかにして知られうるか』(中央公論社版・世界の名著第58巻『ラッセル、ウィトゲンシュタイン、ホワイトヘッド』(1971年9月刊。554pp.)所収
* 原著:Our Knowledge of the External World, 1914.
* 石本新氏略歴


ラッセル家


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 バートランド・アーサー・ウィリアム・ラッセル(Bertrand Arthur William Russell, 1872-1970)の代になるまで、ラッセル家は、その血統に平民の血はまじっていないそうである。ホイッグ系の家系には、彼自身の言を借りると、「貴族的自由主義」の伝統があったが、それは、ときには反逆に近いほど激しいものであった。ピューリタン革命の弾圧者チャールズ2世を暗殺しようとして逆に処刑されたウィリアム・ラッセル卿(William Russell, 1639-1683)は、長らく子孫に語りつがれてきた一門の英雄である。祖父ジョン・ラッセル伯爵は、ヴィクトリア女王の下で外相、内相、陸相、植民地相、枢密院議長などを歴任し、首相の地位に2度ついた政界の大立者である。孫バートランドの意見によれば、祖父は、「君主が自分は人民の使用人だということを、そして、その任に耐えぬことがわかれば罷免されるのだということを了承しているうちは、君主制を我慢しよう」という「理論的共和主義」者であった。
 両親と姉は、バートランドが4歳にもならぬうちに、あいついで死亡している。父アンバーレー子爵は'てんかん'であり、その弟は不治の狂人だったといわれている。「威勢のいい自由思想家」だった父の遺言には、バートランドと兄フランクのために2人の無神論者が後見人に指定してあったが、この遺言は執行されず、孤児たちは祖父の手で養育されることになる。しかし2年後、その祖父もまた他界して、孫たちの教育は祖母(右写真)の手に委ねられることになった。
 おばあさん(松下注:ジョン・ラッセルの後妻)は、その夫よりもはるかに若かった。のみならず、はるかに急進的な人であった。数多くの召使い(使用人)がいたが、家の空気は、貴族的な安逸や退廃とはほど遠く、働き好きのおばあさんは、夕方になるまで、肘掛椅寸でほんのしばらくでも休息をとろうとはしなかった。子どもたちの勉強は、かなり革新的な数人のドイツ人とスイス人の婦人家庭教師の手に委ねられ、バートランドは、英語と同時にドイツ語をおぼえた。
 そこでは、知性の健康や現世の幸福を犠牲にする徳ばかりが賞讃された、と後年の彼は憤慨しているが、青壮年期の奔放な恋愛や結婚は、それに対する反動だという説もある。しかし、ある種の楽天的な合理主義の雰囲気もあったことは、看過できない。きびしいおばあさんは、同時に、ふざけたことや楽しいことの大好きな性分の人であった。ただ、それは、おそらくは彼女1人の個人的性向の問題ではなくて、社会の指導者としての貴族たちのゆるぎない自信に支えられたものであった。
 19世紀後半、大英帝国が絶頂に達したときのこういった自信は、ラッセル家だけのものではなく、ヴィクトリア時代の貴族たちに共通な自信でもあった。その大きな使命感は、当然、使命実現のためのきびしい自己訓練を要求する。ラッセル家の教育のきびしさは、旧家にありがちな形骸だけのものではなくて、人民におもねることなしに人民を指導するには強烈な意志と能力が必要だ、という貴族的自信に満ちたきびしさであった。

少年バートランド

 こうした家風は、幼年の彼(写真は、少年時代のラッセル)には順応しにくいものであった。6年の開きがある兄フランクは、幼いバートランドの遊び友だちになりにくい。彼は、広大な邸宅で1人とり残されていた。腕白な兄フランクは、家出すると脅かして、とうとう寄宿学校に入れてもらったが、弟のことを、自分よりずっとおとなしかったけれども、「鼻もちならぬ気取り屋の少年」だったという。おばあさんに何かいいつけられると、よくしつけられた表情と身振りで足音も立てずに部屋を出ていく青いビロード服の小貴族の内心は、しかし見かけほどによくしつけられていたとはいえない。兄のような行動的反抗こそ見せはしなかったが、それだけに内向的に懐疑したのであろう、早くから教会の正統的な信仰箇条を疑い、そのために罪の意識に苦しめられたという。少年はいよいよ孤独になりながら、すべての権威に対する懐疑と、それを自分の力で解決したいという探求心をはぐくんでいった。地球は丸いと初めて聞かされたとき、彼は、それを信ずることを拒絶し、地面に穴を掘りさげて、ほんとうにオーストラリアに出られるかどうかを検証してみようとした。睡眠中は人はだれも天使に見守られている、それに気づかないのは、目を開いたとたんに天使たちがすがたを消してしまうからだ、という説を聞かされると、わざと固く閉じた目をぱっと見ひらいて、逃げるまのない天使をつかまえてやろうとした。少年はまた、読んではならないといわれた祖父の大きな図書を、次々に読みあさったが、その知的興味をもっとも強くひきつけたのは、数学であった。見かけはいかめしいが中身はあやしげな数々の教説のなかで、数学こそは、ただ1つの普遍的真理であって、どのような権威にも支えられることなしに、それ自身の法則ですべてを証明すると思われた。だから、兄フランクについて初めて幾何学を学んで、あらゆる定理の基礎にある公理は証明されるものではなくて、そのまま受容されるものなのだ、と教えられたときには、ひどく落胆するのだが、同時に、ではなぜそうなのかという探求心をもそそられる。万象を網羅すべき数学の普遍的真理は、倫理学や価値の問題にはあてはまらないということに気づいたときも、ほぼ同様である。
 しかし、そういう少年時代の関心が、そのまま『数学原理』(Principia Mathematica)にまで成長したと考えてならない。そこにたどりつくためには、まず宗教への、続いてドイツ観念論へまわり道が必要であった。最初のそれは、15、16歳ころに始まる。彼はそのころ、日記風の随想を書いているが、神・自由意志・不死・良心・幸福などを主題としている。
「私は、まずこういいたい。私は神を信じている、と。そして、私の信条になんらか名を与えねばならないとすれば、みずから有神論者と名乗るべきであろう、と」
 彼はしかし、その有神論はキリスト教のドグマとして受容されるべきものではなく、科学的に証明されるべきものと考える。
 バートランドが科学的に信じていた永遠なる法則としての神は、世界の過去と未来とをあますところなく計算しつくすラプラスの「計算」に近いものであった。私は、かつて大英博物館で見たウィリアム・ブレーク描くところの神のすがたを思いだす。その神は、世界のあらゆる細部を測量し計算しようとするかのように、巨大なコンパスの両脚を虚空のうちにひろげていた。全能なる数学者としての神への信仰は、当然、数学そのものを指向する。いつの日か、科学が数学的に完成されるならば、人は、神的な数学と科学を通じて、神のように透明な知性をもつにいたるであろう。そのような科学を通じて、人間の将来には限りない進歩が開かれている。じっさい、知性の数学的完成によって進化論的自然主義を克服するということが、哲学者としてのバートランドの最初の努力であった(それに続く第2の努力をあらかじめ先走りして触れておくとすれば、それは、数学と数理論理学によって古典哲学の空虚な形而上学を克服するということであった)
 いつの日か、科学が数学的に完成して現状の混乱が取り除かれるならば、「そこでは機械が(人の代わりに)働いて、公正が分配を統制するような世界となり、あらゆる人が幸福になるであろう」という期待に胸をおどらせながら、1年半ほど速成塾に通ったのち、18歳のパートランド(以下、ラッセルと呼ぶことにする)は、ケンプリッジ大学のトリニティ・カレッジで、生まれて初めての学校生活にはいる。

ケンブリッジ時代

 16世紀以来の歴史をもつトリニティ・カレッジ(写真:Trinity College)の名簿には、古くはフランシス・ベーコンやアイザック・ニュートンなどの、近くはバイロンやテニソンなどの名が見られる。19世紀末から半世紀近い間のケンブリッジは、その知的黄金時代にあったが、そのころのトリニティ・カレッジには、哲学者のマクタガート、ムーア、ブロード、ホワイトヘッドなどがおり、やがてはウィトゲンシュタインも加わる。ほかに、天文学者で科学哲学者のエディントン、原子物理学の定礎者トムソン、経済学者のケインズなどもいる。ラッセルは、ケンブリッジの学生として、さらにフェロー(有給研究員)として、バーナード・ショウ、ディッキンソン、ウェルズ、コンラッド、デイヴィス兄弟、サンタヤナ、ウェッブ夫妻、ロレンス、トレヴェリアンの3人兄弟などとも交友した。よき師友に恵まれたケンブリッジでの生活は、ラッセルにとってほとんど新生といってよかった。
「18歳でケンブリッジに入学した私は、いまや、知性が評価され、明晰な思考がよきものとされる世界に自分がおかれていると気づいて、心が酔うほどの歓喜をおぼえた」
 大学でのはじめの3年間は、関心は主として数学に向けられたが、やがてカントやヘーゲルの哲学へと傾いていく。奨学生試験の試験官は、やがて『数学原理』の共著者になるはずのホワイトヘッドである。学生ラッセルは、ひたすら数学にだけ没頭する狭義の専門家ではなくて、人生と社会の問題にも旺盛な関心を示し、そのためか、学校の成績は期待されたほどのものでなかった。3年目の数学優等生第7席という席次は、ショッキングだったらしく、手持ちの数学書を売り払い、2度と数学の本は見ないと誓ったほどであった(松下注:ラッセルは、当時の数学の、テクニック偏重が嫌であった由)。のちにラッセルは、自分の生涯を要約して、頭の一番良いときに数学をやり、少し悪くなると哲学をやり、もっと悪くなって、哲学もできなくなったので、歴史に手をつけた、というような放言をしているが、「心からの喜びをもって」哲学に転じた、とも書いている。ただし、数学を全面的に放棄したわけではなく、その基礎を、当時イギリスで支配的であったドイツ観念論の立場から追求しようとしたのである。

社会問題への関心

 ドイツ観念論の研究は、意外に早くそれからの解放という方向をとるのであるが、その前に、生活上の大きな変動――つまり最初の結婚と、2回にわたるベルリン滞在のことに言及しなければならない。
 そのころ彼は、アメリカからイギリスに移住してきた福音クェーカー教徒の娘アリス・ピアーサル・スミスと熱烈な恋愛に陥る。ラッセル家の人々は、平民でしかもかなり年上の女性との結婚には反対であった。あいかわらず元気なおばあさんは、孫の熱病をさますつもりか、彼をパリのイギリス大使館の名誉アタッシュにしてしまったが、パリの生活も彼をひきとめておく力はなかった。かなり強引な仕方で帰国した彼は、1894年12月、ロンドンでクェーカ流の結婚式をあげる。新郎は22歳、新婦は27歳であった。
 1895年の初め、夫妻はベルリンに行き、その冬をベルリンで過ごしたが、同じ年の暮れには再度その地に滞在することになる。そして、ドイツの社会事情とマルクス主義の研究に従事することになる。数学や哲学の研究から社会問題や政治の研究への転向は、いささか飛躍的にも思われるが、ラッセル家の古い貴族的伝統からすれば、政治や社会問題こそ、その一族たる男子の本業たるべきものであって、数学や哲学のほうが、家業からの逸脱と見なされていたのであろう。周囲の人々は、やがてラッセルも、その祖先のように社会問題や政治の面で世に出るであろうと期待した。だが、彼としては、あの放言のように、数学や哲学をやるほどの頭脳はないと考えて、それゆえ歴史や社会問題の研究に転向したわけでもない。数学や哲学の問題は依然として念頭から消えてはいないのであるが、2回のベルリン滞在中の関心は、主として『資本論』全3巻を読みとおすという「偉業」に向けられ、フェビアン協会のメンバーだった新夫人アリスともども、社会主義者の集会や製本工組合の集まりなどに出席する。このとき以来、数学や哲学の理論的研究と並行して、社会問題や政治の研究と実践が、ラッセルの生涯を貫く2つの大きな関心事となる。社会問題研究者としての当時の彼は、ドイツの将来を決定するものはマルクス主義か、でなければ軍国主義のいずれかだ、と予見していた。ベルリン滞在中に身をもってプロシアの軍国主義や官僚制の横暴を体験した彼は、どちらかといえばマルクス主義のほうに好意的で、少なくともその初期においては、ドイツ帝国主義を防ぐものはマルクス主義以外にはないと考えていた。彼は、『共産党宣言』を、「唯物史観の叙事詩的迫力」に満ちた古今最高の文学的かつ政治的な文献であると評価している。「叙事詩的迫力」とは、「冷酷かつ非感傷的な宿命観、道徳と宗教に対するその蔑視、いっさいの社会関係を非人格的な生産力の盲目的な働きに還元すること」などをさしていう。また、(マルクスの)「剰余価値説」と「資本集中」の理論は、いずれも間違いであるのみならず、互いに両立しえない、ともいう。つまり、資本の集中や独占は、革命によって一挙に打破するよりも、独占化された各部門の国有化によって打開されるべきであり、ブルジョアジーとプロレタリアートの間の階級闘争という理論は、生産技術の専門化や技術者の社会的地位の向上によって両階級間に新たな中産階級が生じつつある目前の事実に合致しない、というのである。さらに、マルクス主義の運動については、マルクスのことばにふりまわされているラディカルな教条主義やセクト的狂信などが、鋭く指摘される。しかし、マルクス主義の実践が「宗教的情熱」に支えられていることは認めたうえで、セクト的不寛容のきびしさを、それが労働者たちの団結と闘争力を高めてきたとして是認する。こういった視点から、ドイツの運動が、宗教的情熱と闘争力を高めながらも、進歩的自由主義者を敵にまわすという大きなマイナスを含むことを指摘する。と同時に、ドイツ・ブルジョアジーが、目前の社会主義運動の激化に目を奪われて、軍国主義や帝国主義の暗影を見失っていることの危険を警告し、完全な民主主義と言論の自由を保証することの緊急性を説く。

へーゲル主義からの訣別

 冬のベルリン滞在の成果は、フェビアン協会や、新設後まもないロンドン経済学校(ロンドン大学の前身)で講演され、1896年(ラッセル24歳)には『ドイツの社会民主主義』(German Social Democracy)として結実する。ベルリン滞在に続く数ヵ月のアメリカ旅行を終えると、彼は、南イングランド・サセックス州の小さな別荘に腰を落ち着け、フェローの資格をとるため、数理哲学研究に取り組む。(写真:Millhanger のコテージの入口に座って読書中のアリス、1897年撮影)
 当時のイギリスの思潮は、たとえばオクスフォード大学の F.H.ブラッドリーの『現象と実在』(1893)にも代表されるように、へーゲル主義の圧倒的影響下にあったが、ケンブリッジにおけるラッセルの指導者マクタガートもまた、形而上学的へーゲル主義者であった。ラッセルのフェロー資格請求論文『幾何学の基礎に関する小論』(An Essay on the Foundations of Geometry, 1897)は、とくに、「カントの超越的感性論に及ぼしている非ユークリッド幾何学の影響」を考慮しながら、「幾何学はどのようにして可能であるか」というカントの設問に答えようとするものである。結論は、幾何学はユークリッド空間についてのみ可能であって、非ユークリッド空間については成立しないという、やがて一般相対性理論によって一掃される結論であった。彼は、それと並行して、『諸科学の論理についての覚え書』などを書いているが、その立場は、カントから漸次へーゲルヘと移行している。しかし、彼の理解したへ一ゲル主義は、弁証法的矛盾の概念よりも有機的な生成・連関・統一を重視するものとしての形而上学的なへ一ゲル主義であった。このようなものとしてのへーゲル主義に、ラッセルの分析的知性は、いつまでも追随していることはできない。「部分から構成された現象」は、したがって、それを支えている物質も、それを支配している数も、幻であるという帰結を、彼は受け入れることができない。しばらくは、統一体としてのへーゲル的実在の代わりにピュタゴラス的・プラトン的なイデア界を考えて、そこにイデアとしての数を安住させようとした時期もあったが、そうした数神秘主義をも、彼の分析的知性はすぐに放棄してしまう。1890年代の終わりごろになると、へーゲルや観念論からの訣別は、かなり明瞭なすがたをとりはじめる。ケンブリッジにおけるへーゲル批判の先頭に立ったのはムーアであったが、ラッセルも彼に歩調を合わせながら、自分の新しい立場を、一元論から多元論へ、「内的関係」から「外的関係」への移行という形で表明している。そのころの彼は、ライプニッツにも関心を寄せている。「関係」の重要性は、ライプニッツに教えられたものであった。とはいえ、ラッセル自身の「外的関係」の理論も、そのころすでに明確に定式化されていたわけではない。内的関係から外的関係への移行は、少なくともその発足点においては、必ずしも厳格な論理数学的問題につきるものではなく、ドイツ観念論の主観主義に対する、世界観的ないし人生観的反発の1つのあらわれでもあった。
時間と空間は私の心のうちにあるだけだ、というような考えかたの息苦しさを、私は嫌悪した。道徳法よりも星空のほうが好きだったから、いちばん好きな星空が主観のつくりごとであるというようなカントの見解は、我慢がならなかった
と彼はいっている。しかし彼は、ロック以来の伝統的な経験論にも同調できない。カントにもロックにも逆らって、「草はほんとうに緑なのだ」という素朴な信念を彼は愛した。そこには、「息苦しい温室から、風に吹きさらされる岬に逃れでたような、大きな解放感」があった。この解放感を論理的に組織することが、今世紀初めのラッセルの努力だったともいえよう。
 

記述の理論

 その1つの段階が、1905年に雑誌『マインド(Mind)』に発表された「指示について」というエッセーである。それは、のちに『数学原理』でさらに厳密に展開されるのであるが、いまでは一般に「記述の理論」と呼ばれる。問題の芽は、すでにマイノンクによって提出されていた。たとえば、「黄金の山は、存在しない」とか、「丸い四角は、存在しない」という正しい命題において、「黄金の山」や「丸い四角」について何ごとかを――つまり「存在しない」とうこと――を語りうるためには、それらは、なんらかの意味で存在しうるものでなくてはならない。それならば、「黄金の山」や「丸い四角」のような自己矛盾的存在とは、どのような「存在」なのであろうか?
 多くの哲学者は、そのために、特別な観念的存在者を想定せざるをえなかった。1903年の『数学原理』(The Principles of Mathematics)では、ラッセルも、そうした考えかたからまだ解放されていないが、それに続く「指示について」では、それを克服するための明確な方法を提案している。
 いま、「漱石は、『三四郎』の著者である」という命題を考えてみよう。これはけっして同語反復ではない。固有名詞としての「漱石」という主語は、ある人間を意味する「単純なシンボル」であるが、「『三四郎』の著者」という述語は、いくつかのシンボルから合成された「記述」である。「単純なシンボル」である「漱石」と記述である「『三四郎』の著者」との結合を真ならしめる条件は、
 (1)xは『三四郎』を書いた人物であり、
 (2)もしxと或るyが『三四郎』を書いたとすれば、xとyとは同一人であること、
 (3)そして、xとは「漱石」である、という条件を満足するxが少なくとも一つ存在する、
 ということである。このように記述を定義すると、「黄金の山」といった存在者を仮定する必要がないことは明らかである。
 

パラドクスの問題

 分析の糸口は与えられたが、論理学の体系化にとってはまだ未解決のいくつかの難問が残されていた。その1つに、「集合論のパラドクス」がある。その解決を1つの目標としたのが、アリストテレス以来の論理学史上の大きな境界標ともいうべき『数学原理』(Principia Mathematica)である。全3巻のこの巨大な著書は、1910年から1913年にかけて刊行されたが、それ以前に10年にもわたるホワイトヘッドとの共同研究があった。草稿はすべて両人の間で回覧・検討され、両人の合意のないものは一行もない、とラッセルは書いている。はじめは、第4巻でさらに幾何学が取り扱われるはずであったが、この計画は実現しなかった。(松下注:幾何学についてはラッセルとホワイトヘッドの考え方が一致しなかったため)
 アリストテレスやユークリッド以来の論理学と数学の分離は、両者にとって、いや哲学にとって、大きな不幸をもたらした。大まかにいえば、それを架橋することこそ『数学原理』の課題だったともいえよう。ホワイトヘッドは、すでにその著『普遍代数論』で、そのような意図を見せている。歴史的にいうならば、ライプニッツが手をつけたことであり、ラッセルの『ライプニッツ哲学の批判的解説』(A Critical Exposition of the Philosophy of Leibniz; with an appendix of leading passages、1900)がその動機の一つを準備したのであろうが、彼に直接の衝撃を与えたのは、1900年のパリ国際哲学会におけるペアノの数理論理学に関する講演であり、また、その後に知ったフレーゲの著書であった。『数学原理』の課題は広範な領域に及ぶが、そのうち彼がもっとも重視したのは、「パラドクス」の問題である。ラッセルにとって、それは、論理学や数学の特殊問題の一つにすぎぬものとは思えなかった。現象世界は矛盾を含むがゆえに実在ではないとするへーゲル主義的観念論を克服するには、まずその「矛盾」の克服が果たされねばならなかったそのための模索は、すでに『数学原理』(The Principles of Mathematics, 1903)でも試みられたが、なお満足できるものではない。彼が、このとても解明できそうにない矛盾のことをフレーゲに通告して、相談したとき、フレーゲもまた、見通しの暗さに落胆して、その生涯の目標とした算術の論理学からの演繹を断念し、むかし「不可通約量」という難問に遭遇したピュタゴラス派の人々のように、幾何学のうちに逃避しようとさえした。他方、かねがね数理論理学の非生産性を攻撃していたポアンカレは、「もはやそれは、非生産的なものではない。ちゃんと矛盾を生むのだから」と大喜びで叫ぶのだった。こうした状況のなかで、ラッセルは、
「パラドクスは、ほとんど私への個人的挑戦であるかのように感じた。そして、必要とあれば、それに取り組むために自分の生涯の残りすべてを費やしてもいいと考えた。」
 では、それほどに彼を脅かした「パラドクス」とは、どのようなものであったか。たとえば、集合の集合についてのパラドクス、最大の順序数についてのブラリ・フォルティのパラドクス(ラムジーによれば、以上が本来の論理的パラドクスである)、それにエピメニデスの嘘つきのパラドクス、一定数のシラブルでは記述不能な最小の数に関するパラドクス、ベリーのパラドクス(ラムジーによれば、以上は意味論的ないし認識論的パラドクスである)などがそれだ、と彼はいう。
 今日、「ラッセルのパラドクス」と呼ばれているものを考えてみよう。すべての集合は、それ自体をみずからの要素として含むか含まないかのいずれかである。いま、みずからの要素ではない集合の集合をQとする。Qも集合である以上、みずからをその要素として含むか含まないかのいずれかであるが、まず、Qがみずからの要素であるとすれば、Qはみずからの前提された特性(すなわち、みずからの要素ではないという特性)をもたねばならないから、当然、みずからの要素ではないことになる。次に、Qがみずからの要素でないとすれば、Qはみずからの要素ではないと前提された特性をもつから、当然、それみずからの要素とならねばならない。いずれの前提をとっても、それとは逆の帰結が導きだされるという矛盾は避けられない。問題をもう少し具体的にとらえるには、エピメニデス以来の嘘つきのパラドクスの例を見るのがいいであろう。「私は、嘘つきである」という言明がもし真であるとするならば、この言明は嘘である。すなわち、私は嘘つきではないとすれば、その言明が嘘つきでない私の言明である以上、私はほんとうに嘘つきであることになるが、そうなると、ほんとうに嘘つきである私の「私は、嘘つきである」という言明は、ふたたび嘘になる。このようにして、私のいうとおりだとすれば、私のいうとおりではないし、私のいうとおりではないとすれば、私のいうとおりであり、私のいうとおりだとすれば、私のいうとおりではない……、という矛盾の悪循環は、どこまで行っても終結しない
 このような二律背反に直面してラッセルが提唱したのが、有名な階型理論である。階型理論とは、大ざっぱにいうと、存在者を、その間にある種の階層を設けて区別しようという考えである。たとえば、「このりんご」という個別者は、「赤い」という普遍者とは本質的に異なるのであると見なされ、主語-述語形式の文章においては、前者の名前は主語としてのみ、後者のそれは述語としてのみあらわれなければならない、とされる。したがって、「赤は、このりんごである」といった文章は、真でも偽でもなく、無意味であるということになる。しかしながら、階型理論がもっと本質的にあらわれるのは集合論においてである。たとえば、ある集合を定義しようとするならば、その定義にさいして、これから定義されるべき集合が用いられてはならないことは当然であろう。しかし、その集合のメンバーは、その定義に使用してもさしつかえないであろう。このように考えると、定義される集合がそのメンバーより階型が一つ上であると考えることは、けっして不自然なことではない。たとえば、ラッセルのパラドクスの出発点となった、ある集合がそれ自身のメンバーである、という命題は、はじめから無意味である、ということになる。このような発想法から、いわゆる分岐階型理論が生まれ、『数学原理』に組みこまれたのであるが、それだけでは古典数学を展開することができないので、他にいくつかの公理が導入され、第2版(1927年刊)では、単純階型理論と呼ばれる、階型理論の精神がいくぶん失われてしまったような理論が展開されるにいたったことは、よく知られていることである。
 ではあるが、階型理論は現在では、数理論理学の各分野で盛んに応用され、ある意味で常識とさえなっている観がある。ということは、この理論をいまから60年以上前に、かなり明確な形で提唱したラッセルの偉大さを物語るものであろう。ウィトゲンシュタインによれば、言語に階型などありえないのであるが、階型をあえて認めることによって、論理学が、また哲学が、大きく前進したことは、否定できない事実である
 なお、『数学原理』で取り扱われている問題はじつに多面的であるが、とくに数学の視点から見るならば、「関係」概念の分析がとりわけ重要であって、伝統的な「内的関係」概念の克服を通じて対応・系列などの「外的関係」概念が追求されており、そしてこのことが、ピュタゴラスやプラトン以来の「数」概念につきまとう神秘主義や直観主義を抑制した効果は大きい。だが、ラッセルは、世の学者たちが『数学原理』の哲学的側面としての「パラドクス」にばかり注目して、その数学的側面のほうは軽視していることに不満をもらしている。
 

伝統的哲学批判としての関係の分析

ラッセルの Our Knowledge of the External World の表紙画像  記述の理論に発して『数学原理』で明確なすがたをとりはじめた分析的方法は、その後のラッセル哲学のもっとも強力な武器として、さまざまな領域に適用される。その最初の収穫が、すなわち『外部世界はいかにして知られうるか』(Our Knowledge of the External World as a Field for a Scientific Method in Philosophy)なのである。1914年の3月から4月にかけて彼は、ボストンの「ローウェル講演」に招かれて、数回の講義をしている。すでに同年の初め、その予習のつもりで、ケンブリッジでもほぼ同じ講義をしている。本書は、それらの講義の集成であって、同年6月に出版された。その中心課題は、『数学原理』における論理学の有効性をまず物理学の認識について検証することだったともいえよう。ただ、そこには、哲学一般についての彼の基本的態度が前提されているので、まずそのことに言及しておきたい。
 彼は、当時の哲学者たちの主要なタイプを、古典伝統的進化論的「論理的原子論」的の3つに大別する。第1のタイプは、プラトン以来の伝統を背景とするカントやへーゲルの体系をさす。ラッセルによれば、その体系は、感覚的現象をこえた絶対的実在を基盤とする形而上学であって、実在は超感性的な精神、あるいは理性によってのみ把握されるという、観念論的認識論であり、部分は全体との有機的連関を離れては存在しえないという有機的・全体論的な世界観をともなう「古典伝統的」という場合、とくに彼の念頭にあったものは、イギリス的に変貌したドイツ観念論、すなわちブラッドリーの哲学であった。当時の学界に大きな影響を与えたブラッドリーによれば、人が日常経験する世界はすべて現象であって、実在ではない、といわれる。すなわち、日常の世界は、事物やその性質が、なんらかのしかたで関係しあっている世界であるが、およそ関係とは、実在の名に値しない自己矛盾を含むものである。なぜなら、関係が成立するためには、互いに関係しあう項(関係項)がなくてはならないが、いま2つの関係項の間に一定の関係が存在するとすれば、それは、その関係を関係項に関係させる高次の関係を要求し、当然にさらに高次の関係を要求して、とどまるところがないであろうから。すなわち、関係は、ある関係項の間に存在することによって、悪無限の高次の関係のうちにみずからを喪失していかざるをえない自己矛盾を含むのだ。かくして、実在するものは、そうした関係をこえた絶対者のみ、ということになる。なんらかの「関係」概念を想定することなしには現象の解明は不可能であるけれども、そこで想定されている「関係」は、関係項の本質や性質のうちに、いわばア・プリオリに含まれた「内的関係」である。しかし「内的関係」は、関係項に依存するものとして、それみずから客観的に実在するものとはいえない。これに対する「外的関係」というラッセルの発想は、「関係」を関係項から解放して、「関係」そのものを形式的に実在するものとして取り扱おうとするものであった。そして『外部世界はいかにして知られうるか』は、いくつかの視点から、「関係」概念にさまざまな分析を加える。
 

進化論的哲学と論理的原子論

 克服されるべき第2のタイプ――進化論的哲学についても、基本的な態度はほぼ同様である。進化論的タイプとは、スペンサー、ジェイムズ、ベルクソン、ニーチェなどをさす。前世紀後半から今世紀初めの2,30年にまたがるこれらの傾向は、一般の哲学史では、ほかにディルタイなども含めて、「生の哲学」と呼ばれることが多い。それは、ア・プリオリに演繹された形而上学的体系主義や観念論的世界観に対して、自然的生の豊かな多面性や創造性を強調する点で、古典的タイプの伝統哲学への反発という性格をもつものであった。その限りにおいてラッセルも、その大きな時代的意義をけっして低く評価しているわけではないけれども、しかし彼の分析的傾向は、そこにひそむ有機的全体論や神秘主義を痛烈に批判してやまない。
 本書でとくに槍玉にあげられているのは、べルクソンである。ベルクソンは、ア・プリオリな、しかも機械的な知性に対して、生と直観の復権を強調するのであるが、ラッセルは、そこにある機械論と目的論との、さらに知性と本能ないし直観との、二元論的判別を認めない。彼の意見では、目的論は逆立ちした機械論だというのである。なるほど、本能や直観が信念を生みだすことは看過できない。しかし、ひとたび直観された信念は、理性的に論証されるべきものである。そして、直観の役割を軽視してはならないが、哲学の任務は、信念を分析して論理的に組みなおすことにあり、そうすることによって、「生命」という概念にまつわっている目的や価値の雰囲気を一掃して、生物学を物理学的に、哲学を論理学的に中性化することにあるのだ。
 そのような使命をもつ第3の立場を、彼は、「論理的原子論的タイプ」と名づける。論理的原子論という着想は、本書の「まえがき」にも語られているように、彼の学生ウィトゲンシュタインとの対話に負うところがきわめて大きい。論理的原子論は、近代科学の理想的モデルであった物理学的原子論と無縁の発想ではない。錯綜した自然現象を、もうこれ以上は分析できぬ「原子」にまで還元するという思想が、哲学や論理学の分野にも拡張されたわけであるが、そこにいたる過程には、論理学の記号化や関係概念の分析が必要であった。それで、ラッセルは、「関係」という概念を、関係項から解放して、その外で、外延的に形式化したのであった。
 ところで哲学や論理学の諸命題は、さまざまな命題から合成されていて、これを分析していくと、もはやこれ以上は分析できない要素命題にまで行きつく。これを彼は、「原子的命題」と名づけ、いくつかの原子的命題の結合態を「分子的命題」と名づける。分子的命題の真偽は、それぞれのしかたで原子的命題の真偽に依存する。たいへん複雑な分子的命題も原子的命題に還元されるし、逆にまた原子的命題から構成される。
 『外部世界はいかにして知られうるか』(Our Knowledge of the External World, 1914)におけるラッセルは、論理的に正しい命題はすべて枚挙できる、と考えた。それゆえ、少なくともその形式のゆえに成り立つ法則はすべて純粋に形式的に演繹されうる。しかし、命題の究極的構成要素としての原子的命題の真偽――つまり原子的命題とそれが叙述している「原子的事実」との対応ないし不対応は、経験的に知覚するよりほかない。論理的原子論の方法は、分子的命題についてはア・プリオリであるが、原子的命題についてはア・ポステリオリである、といえる。いわゆる論理実証主義の論理主義的で実証主義的性格が、すでにここで明らかにされている。
 

『外部世界・・・』の主題とその時代背景

 人が直接に外界に触れる感覚データ(センス・データ)は、古典伝統的哲学では、現象であって、実在ではない。加えて近代科学は、それが人間的に、さらに人それぞれの状況に応じて変容されるものであって、客観的なものではないことを、とくに生物学・生理学・心理学の立場から明らかにしている。とはいえ、なんらかの意味で信ずるにたる感覚データなしには、外界の認識としての物理学は成立しない。なるほど、「原子」や「電磁場」という物理学の基礎概念は、直接的な感覚データである必要はない。けれども、感覚データからなんらかのしかたで推論されうるものでなくてはならない。この困難に対して、ラッセルは、批判や反省によって疑わしくなる「やわらかいデータ」と、それに耐えて存立する「かたいデータとを考える。両者の区別は絶対的なものではないけれども、主観的な変容・構成・類推をできるかぎり除去した感覚の直接的自明性や、論理学に含まれる「かたいデータ」を、全面的に拒否することは、むしろ病理的懐疑主義であるといわねばならない。物理学の認識は、直接的に感覚される「かたいデータ」から、直接的には感覚できない物理的な概念対象を推論することであり、そして、そのような概念対象を感覚の「かたいデータ」で検証することである。さて、本書が取り扱っている問題は、平明な文体にもかかわらず、論理学・数学・物理学のかなり高度の専門領域をカバーしているが、これら諸学の当時の状況に即して、取り扱われている諸問題とその解決を順を追って解説していくことは、ここでは断念しなくてはならない。ただ、論理分析の方法がとくに物理学について適用されたのは、相対性理論などに刺激された今世紀初めの物理学の危機的状況の反映であったという点は、留意しておきたい。しかし、哲学の中心課題は、価値・実存・人格などだ、と考える人のうちには、本書が要求している哲学の論理的厳密性とは、これら人生のなまなましい問題を抽象してしまう大きな犠牲の上に成立する不毛の厳密性ではないか、という不満をもつ人もいよう。そういう人は、本来期待すべきではないものをほしがるせっかちはやめて、そうした問題に取り組んだラッセルの数多くの著作を、むしろ彼の生活を、探求すべきであろう。そこには、たとえば恋愛、結婚、性、教育、宗教、道徳、革命、戦争、平和、核兵器などの問題が、他の哲学者には類を見ぬほどのなまなましさで探求され、いや生活されているのである。
 

1917年のラッセル

バートランド・ラッセルの The Autobiography of Bertrand Russell v.2 の邦訳書表紙画像  第一次世界大戦は、ラッセルの生活と思想にとって試練であった。『外部世界はいかにして知られうるか』が美しい論理的世界像を構想しえたそのときに、社会・歴史的外界は、けっして美しくはないすがたをあらわしたのである。数学・論理学のパラドクスを解決しえたと自負する彼に、世界は、戦争というパラドクスをつきつけたのである。彼は、論理や数学の世界と現実の社会とはまったく没交渉なのだというような、哲学者にありがちな逃避的二元論で、現実を逃避しようとはしなかった。
 最初の反応は、とうてい論理的とも理論的ともいえぬ情緒的な混迷と絶望であった。1914年の7月には、まだ希望がもてた。ケンブリッジの同僚たちから参戦反対の署名を集めて、新聞に発表したりしている。しかし、イギリスが宣戦布告した8月4日のショックは、痛烈であった。その日の夕暮れ、彼は、トラファルガー広場の群集のなかにいた。多くの善良な平和主義者と同じく「戦争は、専制的でマキアヴェリ的な政府によって、いやがる民衆におしつけられたもの」と思いこんでいた彼の聞いたものは、強制どころか、すすんで戦争に激情を燃えあがらせる群集の熱狂的な歓呼の声であった。彼もまた、イギリス貴族としての愛国心にとらわれたことを隠してはいないが、「文明を愛する者」としては「野蛮への逆行」を歓呼する気にはなれなかった。ウォータールーの駅から続々と若い兵士がその墓場に歓送されていく情景を見るたびに、ロンドンが実在の場所ではないかのような奇怪な幻を見た。彼の呼びかけに応じて反戦声明に署名した同志たちも、そのほとんどが、そのころまでには、いやすでに宣戦の当日に、熱烈な戦争推進論者になっていた
 こうした悲しむべき混迷から立ちなおった彼は、ひたむきに反戦運動に突き進んでいくのである。ケンブリッジの、開戦までの期限つき平和論者の多くは、彼を裏切ったが、年来の友ケインズなどのように、いくらかの批判的姿勢を保ちつづけた人もいたし、良心的徴兵拒否者の集団(たとえば「プルームズベりー・グループ」と呼ばれたサークル)もあったとはいえ、その運動も、ラッセルの目には微温的なものと見えた。良心的徴兵拒否者の多くは、どこまでも合法的なしかたで、徴兵免除の特典づきの内地勤務の仕事をさがした。ケインズも、戦場に行く必要のない大蔵省のポストにつき、時の首相アスキスにその才幹を認められるのであるが、これは、ラッセルには我慢のならぬごまかしとしか思われなかった
 ラッセルは、当時の平和主義者たちの逃避所であったオットリン・モレル(オットライン・モレル)夫人主催のサロンの主要人物として、さまざまな幅をもつ反戦運動を調停する役割をも引き受けていたが、彼自身は、かなり急進的な「徴兵反対同盟(N.-C.F))」の委員として、サロン的平和主義の枠外に出て、講演・著述・寄稿などの「積極的反戦プロパガンダ」を続ける。しかし、そのもちまえの直線的な、いくぶんシニカルな言動は、民衆の愛国心を激怒させたばかりか、古くからの友人や先生たちを次々に彼から去らせていく。
 そこには、なんらかの形の戦争批判はすべて利敵行為だと見なすような興奮があった。ある教会で講演したときなどは、暴徒に襲われ、泥酔した2人の女性が、古釘つきの板で打ちかかってきたこともある。同志たちは立ち会っていた警官に、彼はすぐれた哲学者なのだと説明して救助を求めたが、効果はなかった。彼は伯爵の弟ですよと説明すると、警官はようやくラッセルを救助した。
 こうした敵意は、興奮した民衆の側にあったばかりではない。陸軍省は正式に彼の海岸地帯での講演を禁じたが、それは、ドイツのUボートに信号が送られるかもしれないと懸念したからである。ロイド・ジョージは、議会の演説で、ラッセルの言動が戦争遂行に「重大な妨害」となっていると証言した。
 責任は、ラッセルの挑発的言動にもあったようである。第2次世界大戦に対する彼の態度は、ヒトラーに征服されるくらいなら戦争のほうがまだましだ、というのであったが、第1次世界大戦のときには、戦争するくらいならカイゼルに征服されるほうがまだましだ、という態度であり、少なくともそうとられてもしかたがないようなシニカルな激語が、彼の口から出た。
 

入獄

「反戦運動の黒幕は誰だ」のイラスト画像  1910年以来、講師を勤めていたトリニテイ・カレッジの同志たちは、彼と食卓をともにすることを避けるようになった。彼に好意的な若いフェローたちは、次々に戦場に去ってしまい、残った人々の目は、彼に冷たかった。(松下注:第2次世界大戦は、7月28日に勃発したが、当時、英国には徴兵制度はなかった。藤田嗣雄『欧米の軍制に関する研究』(昭和12年度東大法学部学位論文:有斐閣出版サービス、1991年刊)によれば、「1915年に至り National Registration Act を制定し、軍隊に属せざる15歳以上40歳迄の男子の軍事登録簿を作成し、次いで之により志願徴募を勧誘したり。此等の方法に依りてもなほ兵員の徴募に困難を感じたりしを以て、1916年に至り強制徴兵法 Military Service Act の制定を為したり。即ち、Great Britain に在住するイギリス(British)男子にして18歳以上50歳以下の者並びに56歳迄の医師は強制徴収を受くることと為れり。King's Regulations for the Army and the Army Reserve, 1928, sec. 1)」とある。戦場に行かなかったラッセルを非難する人もいるが、第2次大戦勃発時はラッセルは42歳であるため、徴兵対象となっていないことに注意。)
 1916年、ある良心的徴兵拒否者が陸軍にとられ、ついで命令不服従のかどで重労働2年の判決を受けた事件をきっかけとして、事態は急速に悪化する。ラッセルが委員であった徴兵反対同盟の発行した抗議のパンフレットを配布した6人の会員が検束されたとき、ラッセルは、わざわざ『タイムズ』紙に投稿して、パンフレットの筆者は自分だと名乗りでた。告発されたラッセルは、同年6月、ロンドンの市長公邸で罰金100ポンドの判決を受け、その講演集はもとより、裁判の記録も公表を禁じられた。
 有罪の判決よりもさらに深い傷を与えられたのは、続いてトリニティ・カレッジの講師の地位を満場一致で免職されたことである。イギリスに絶望した彼は、アメリカに移住しようとしたが、外務省は旅券の交付を拒否した。1918年1月3日、同盟の機関紙『トリビューナル』(Tribunal)に、彼は次のような趣旨の巻頭論文を書いている。
「直ちに平和が訪れなければ、全ヨーロッパには飢餓があるであろう。……人々は、かろうじて生きるにたるだけの食料を奪いあうために、互いに戦うようになっているであろう。そのころにイングランドとフランスを占領するであろうアメリカ派遣軍が、ドイツ軍を相手にしてどれほどの力をもつかは問わないとしても、(わが国の)ストライキ参加者を威圧することはできるであろうことは疑いない。なにしろ、その本国でアメリカ軍がやりなれている仕事だから……」
ラッセルが編集長を務めたこともある Tribunal 紙の画像

 当局に対する侮辱的な挑戦の結果、当然、執筆者は告発された。裁判官サー・ジョン・ディッキンソンの論告は、激烈なものだったらしい。被告ラッセルの印象では、
「裁判官は、信じられぬほど荒れ狂っていた。あんなに激烈な憎悪は、お目にかかったこともない。できることなら私を縛り首にし、水漬けにし、八つ裂きにしたがっていた」
 背後には、世論の怒りもあったであろう。判決は6ヵ月の第2部禁固。ラッセルは上告したが、第2部禁固から、より寛大な第1部禁固に移されただけである。同年5月、彼はブリクストン監獄(右写真)に送られ、「囚人2917号、姓名B.ラッセル」となる。兄フランクは、有力者を動かして、弟の監獄生活を快適にするための最大の努力をはらったようであるが、その独房は、とくに絨毯が敷きつめられた広い特別室であって、週2シリング6ペンスの室料を要した。午後8時が一般囚人の消燈時間であったが、ラッセルにはとくに2時間の延長が認められた。毎日、4時間の著作、4時間の哲学の研究、同じく4時間の一般的読書という入所生活で、彼は、『数理哲学序説』(An Introduction to Mathematical Philosophy, 1919)やデューイ『実験論理学論集』の書評などを執筆している。そしてその間、ヴォルテールやチェーホフ、フランス革命史、アマゾンやチベットの旅行記、スリラーまで読破している。毎週3人だけの同時面会が許されたので、彼は、気の合いそうな3人の組合せを楽しんだ。
 監獄生活の思い出は、機知とユーモアに満ちている。初めて特別室の室代を請求されたとき、彼は典獄のヘインズ大尉のところに出かけ、滞納したらどうなりますか?、と大まじめで聞いた。この典獄は、気の毒にも、囚人の執筆している『数理哲学序説』には危険思想が含まれているかどうかを検閲しなくてはならなかったが、囚人は大尉に同情して、この書にはなんらの危険思想もなしという保証を与えて、苦しい読書を免除してやった。
 

心理分析的関心

 終戦間近の1918年9月、彼は4,5ケ月で出獄した。運動にいくつかの挫折はあったが、その挫折を通じて自分の確信をとり もどしていたようである。それならば、彼の確信を支えていた理論的な背景は何であったか。戦時中の実践や思索の所産である『杜会改造の諸原理』(Principles of Social Reconstruction, 1916)が示しているように、ある点ではフロイト主義に近い精神分析の理論であったようである。『数学原理』や『外部世界はいかにして知られうるか』では大きな威力を示した論理分析の方法が、そのまま社会の問題に有効であるはずはないが、分析的という点だけでは同じ方向にある精神分析の理論となったのである。
の画像  開戦のはじめのころ、彼をもっとも傷つけた、'善良な市民たち'が戦争という集団殺戮を拒否するどころか歓呼なぞして迎えたという事実の、その謎を解くために、彼は、バーナード・ハートというフロイト主義者の『狂気の心理学』という本を読んで、自分の考えかたがフロイトとは別に、フロイト主義に近づいていたことに気づいたという。彼は、たとえば、ある問題を熟考したのち未解決のままに放置しておくと、いつのまにかそれが解決されているという体験を通じて、意識を支える無意識の働きの重要性に気づいていた。このことを展開して、平時の不自然な教育や社会的抑圧こそ、無意識のうちに民衆を戦争に駆り立てる衝動になるのだ、と考える。その人間性にかねて危害を加えられていた民衆は、やがては戦争や革命の人間性否定のなかに、代償的な、むしろ復讐的な喜びを、無意識のうちに追求するようになる、というのである。
 そこには、戦後の彼の旺盛な社会活動の基調がありありと示されている。彼の社会問題の分析は、もちろん論理数学的分析ではないが、なまの政治的・経済的分析でもない。むしろ、政治や経済問題をも心理的に分析しようとするのである。おのずからその注意は、教育・道徳・宗教などによる、性、恋愛、結婚などの醜悪な歪曲に向けられる。尊厳な仮面の下にひそむ偽善と奇形を摘発する鋭い筆致は、あらゆる抑圧からの解放を説くにとどまらず、もちまえのひたむきさでみずからそれを実践し、生活したのであるが、当然に世論の反撃は避けられない。反戦運動のために世の同情を失った彼は、やがて公序良俗の破壊者として糾弾されるようになる
 

ソ連・中国紀行からアメリカ滞在ヘ

 1919年末、トリニティ・カレッジは、ふたたび彼を教壇に迎えようとした。そのころには相続遺産をあらまし使い果たしてはいたが、拘束のない自由な著作活動を求めて、大学への復帰を断わる。そして1920年5月、イギリス労働党の代表団に加わってソヴィエトを訪問する。戦時中には、「世界は呪われている。レーニンとトロツキーだけが明るいスポットだ」と書いていた彼は、しかし現地で革命の暗さにいたく失望する。そこにみなぎる「野蛮な創造力」はけっして見落としていないが、それが野蛮なものであることは容赦しない。そこに彼は、憎悪と権力闘争と圧制を見た。そのようなものの上にまともな平和と解放が実現するとは思われなかったのである。訪ソのルポルタージュで、ボルシェヴィズムのピューリタン的道徳性とともにピューリタン的抑圧を指摘したとき、すでに反戦運動によって多くの友人を失っていた彼は、戦後の左翼的知識人からはブルジョアジーの走狗扱いにされ、保守的な良識派からは「臆病なボルシェヴィキの豚」と呼ばれる
 1920年から1921年にかけて、彼は北京大学に招かれた。ヨーロッパの知的伝統とはかなり異質的な中国のそれを、彼は高く評価する。そして、その豊かな人間知がヨーロッパの科学と相互補足的に結びついて、中国が近代化されたときの新しい文明のありかたに大きな期待を寄せると同時に、それを妨げているイギリスや日本の帝国主義をきびしく批判する。帰途、日本にも立ち寄ったが、日本の印象は、中国ほど高いものではなかった。カメラマンのフラッシュに怒って、ステッキをふりあげてこれを撃退したりしている。帰国すると、すでに中国に同行していたドーラ・ブラックと2度目の結婚をした。翌1922年と1923年、彼は、再度にわたって国会下院の議員選挙に労働党から出馬したが、いずれも落選する(松下注:すでに1907年にも自由党から立侯補し、落選している)政界への進出を諦めた彼は、新夫人とともに教育運動に専念し、1927年には、ビーコン・ヒル・スクール(Beacon Hill School)という実験学校を設立する。これは、社会を平和にするためには成人を歪める幼児期の抑圧を除去しなければならないという戦時中からの主張の実践であったが、抑圧を除かれた子どもたちは、いささか痛烈すぎる反応を示した。もともと問題児の多かった学校は、ひどい混乱に陥り、子どもたちに放火される始末であった。経営の困難を打開するために、彼はすさまじい文筆活動を続けるが、やがて家庭のトラブルも加わり、1935年には妻ドーラが夫を姦通のかどで告発するにいたった。告発者のほうにもスキャンダルはあったようである。裁判になると、結婚後生まれた4人の子のうち2人まではラッセルの子ではないという事実まで暴露される(松下注:Kate=Katherine と John のみがラッセルとの間の子ども)。結婚と恋愛についても完全な自由を求める思想の持ち主であり、実践者である彼に対する世の非難は高まり、この点でも彼は孤立する。
 3度目の夫人パトリシアとともに、ドーラとの間の2人の子(John と Kate)を連れて、1936年にはアメリカに新しい生活を求めた。1938年以後しばらくは、シカゴ大学とカリフォルニア大学で静かな研究生活を続けるが、1940年、ニューヨークの市立大学が彼を招聘したとき、英国国教会の監督マンニングは、この任命に異議を唱え、ブルックリン在住の歯科医の妻を正式の原告として訴訟が起こされた。原告の弁護士によれぱ、ラッセルの著述は、「みだらで、猥褻で、淫蕩で、荒淫で、性病的で、色気違い的で、催淫的で、無神論的で、不敬で、偏狭で、虚妄であって、道徳性なきもの」であり、彼が哲学と自称する教説はすべて、「安もので、けばけばしく、つぎはぎだらけの迷信」にほかならず、「狡猾な小細工やトリック」で、「大衆を誤らせる」詭弁だ……という。(松下注:写真は、New York Times 紙掲載の風刺画: a chair of indecency 猥褻な椅子 or 猥褻講座?)世論をもっとも刺激した姦通については、その事実をはっきりと認めたうえで、しかしそうすること以外に(英国においては)法的に離婚することができなかった。「咎められるべきは、私よりも、かの国の法律である」と逆襲するラッセルは、一般の市民には理解しがたいメフィストフェレスに見えたのであろう。加えて、ラッセルの側には、教授就任のための制度上の条件が欠如していた。ハーヴァード大学とその名誉教授ホワイトヘッド、さらにデューイやアインシュタインその他には彼を擁護する動きもあったが、敗訴は決定的であった。
 ふつうならば平和な年金生活を続けているはずの70歳に近い老人ラッセルは、まだ教育中の子どもをかかえたまま異国で失職する。彼は、それまでの著書から予想される印税を前払いしてもらい、風恋わりなパトロンのバーンズ財団の援助で哲学史の講義をする(これがのちに『西洋哲学史』として発表されたが、ラッセルという思想家のきわめて個性的で自由な解釈を示す著作としては興味ぶかい)。財団との契約は、早くも1943年には解約される。ラッセルは不当解雇の訴訟を起こしたが、裁判は長びいた。このたびは、最後には勝訴したものの、アメリカでの生活と研究に明るい展望はなかった。苦境に立つラッセルに、救いはふたたびトリニティ・カレッジからきた。かなりの反対はあったが(反対者の1人はウィトゲンシュタインだったという)、母校は1944年にふたたび彼にフェローの資格を与えたのである。こうして彼は、6年ぶりでイギリスに帰る。
 

第二次世界大戦とその後

Bertrand Russell's America v.1(1896-1945)の表紙画像  6年間のアメリカ滞在期間は、世界がふたたび第2次世界大戦に狂乱していた時期である。(第2次世界大戦前夜の)危機迫るころに書かれた『平和への道』(Which Way to Peace?, 1936)において、彼は、依然として熱烈な平和主義者である。航空機を利用する化学兵器や細菌戦術は、これまでの戦争からでは想像もできぬ大規模な混乱と破壊と死をもたらすであろう。不幸にして生き残った者にも、もっとも恐るべき精神の死は避けられまい。仮にイギリスが勝利を占めることがあるとしても、そこにあらわれるものは、ドイツのヒトラーに代わるイギリスのヒトラーであろう。イギリス人は、ナチスと戦うことによって、結局は自分自身もナチス化するであろう。もしナチスがイギリスに侵入してきたら、抵抗なしに入国させて、観光客を迎えるように歓待してやろう。そうすれば、いつかはドイツ人の気持も変わるであろう…。(松下注:ナチ・ドイツがオーストリアを併合したのは、1938年3月のこと。ラッセルの Which Way to Peace? はその2年前に出版されたものであることの注意。)これだけ見ると、宗教的無抵抗主義に近い平和主義の主張のようであった。そうした彼が、しかし、開戦(=1939年9月1日)と同時に、もしも私が兵役年齢だったら、直ちに武器をとるであろう、といいだす――かつて第1次世界大戦のとき、開戦と同時に彼を裏切ったケンブリッジの反戦の同志たちのように。
 2つの戦争に対する彼の態度の大きな相違は、しばしば世の疑惑を招いた。それに対して彼は答える。
「世界でもっとも重んずべきは平和だと考えているという意味では、私は依然として平和主義者である。けれども、ヒトラーが栄えているかぎり、世界に平和が可能であるとは考えられないのだ」
 平和主義を貫くためにも、ヒトラーを打倒する戦争が必要なのである。第1次世界大戦のときには、平和を守るためにはカイゼルとの戦いは必要ではなかった。そのときには、何よりもまず、戦争をこそ、ドイツの脅威以上に恐れるべきであった。第1次世界大戦に対する彼の憎悪は、第2次世界大戦にいたるヨーロッパの不幸のすべてを、その(=第1次世界大戦の)必然的な帰結と見なすほどに根ぶかい。しかしヒトラーの脅威は、どのような戦争にもまして恐るべき人間性の抹殺である。1914年には平和を守るために戦うべきではなかったが、1939年には平和を守るために戦争以上の惨害であるナチズムと戦わねばならなかったのである。明らかに、その平和主義は、クエーカー教徒のような主義としての、むしろ信仰としての絶対的反戦主義ではない。平和のために戦うべからざる戦争と、戦うべき戦争との区別は、確かに内外の諸情勢についての、彼なりの綿密な政治状況判断に裏づけられていたのであろう。
 第2次世界大戦後の旺盛な評論活動も、このような視点から一応の説明はつくであろう。戦争末期の原子爆弾は、スターリン体制下のソヴィエトの状況を考慮するかぎりは、やむをえぬものと考えられた。(松下注:この記述は誤解を与える。ソ連が核兵器を保有するようになる前に、アメリカの核の力で戦争のない世界政府実現を「示唆」したことはあるが、日本に対する原爆投下を「やむをえないもの」と発言したことはない。それどころか、日本の敗戦はあきらかであったのに投下したのは、対ソ連に対するアメリカの示威行動であり、恥ずべき行為であると非難している。)ソヴィエトの横車をおさえて世界政府を樹立するまでは、西欧は、そして西欧だけは、原爆を保有すべきであって、ソヴィエトはそれを所有すべきではない、という。彼は、労働党政府の委嘱で世界の各地に次々に講演旅行に出かけたが、彼のこうした論旨は、米ソの冷戦におびえた聴衆に大きな感銘を与えるとともに、戦後の進歩的知識人からは、時局への便乗や迎合だという非難を浴びた。
 1950年には、イギリス最高の栄誉である「オーダー・オブ・メリット」勲章と、ノーベル文学賞が与えられる。1952年、すでにパトリシアと別れていた彼は、アメリカの作家エディスと4回目の結婚をする。1953年には、初めての短篇小説集『郊外の悪魔』(Satan in the Suburbs)を、1954年には、風刺小説『著名人の悪夢』(Nightmares of Eminent Persons)を発表する。80歳の老人とは思えぬ意欲である。1954年3月のビキニ環礁の水爆実験は、彼に第1次世界大戦にも比すべき大きなショックを与えた。彼は、原爆のときから水爆の可能性を予見していたそうであるが、実験成功のショックは、それまでの西欧中心的平和思想をゆるがすほどのものであった。水爆による戦争は、もはや、スターリンやヒトラーにくらべればまだしも耐えやすいというような比較を許さない。最終最悪のものだ。これを防ぐことが、地上のいかなる政治的・思想的対立をもこえた人類共通の至上の課題である。彼は、その廃棄を米・英・仏に、さらにソヴィエトや中国にアピールし、実験の翌1955年には、世界の代表的科学者を集めたパグウォッシュ会議を提唱、開催する。1961年には、みずから結成した「百人委員会(Committee of 100)」の委員長として国防省玄関前に坐りこんで逮捕され(3月)、さらにトラファルガー広場で「市民不服従運動」の大集会を指導し(10月)、イギリス全土の核兵器基地にデモをかける(12月)。(松下注:写真は、1962年2月、トラファルガー広場にて)1962年には、ケネディとフルシチョフに長文の電報を送って、キューバ危機の回避に努力し、1965年には、ヴェトナム危機についていくたびかのアメリカ非難の声明を発し、1967年には、サルトルなどと協力、戦犯裁判(いわゆるラッセル法廷)をパリに開催してアメリカの有罪を宣告する。
 

半生の哲学的課題

 このたぐいまれな長寿者の哲学的半生の哲学的課題後半生は、『数学原理』や『外部世界はいかにして知られうるか』以後、50余年のひろがりをもつ。その大まかな傾向を要約するならば、論理数学的分析から認識論的分析への展開であるといえよう。その成果を代表するものとして、『外部世界はいかにして知られうるか』と同様な分析的方法で「中性一元論」ともいわれる立場に近づいた『心の分析』(The Analysis of Mind, 1921)、言語(「対象言語」と「論理言語」)・意味・真理などを取り扱った『意味と真実性の探求』(An Inquiry into Meaning and Truth, 1940)、その哲学の体系的総合ともいうべき『人間の知識-その範囲と限界-(Human Knowledge, its scope and limits-, 1948)などがある。この書物で取り上げられた問題は、きわめて多面的であるが、そのうちとくに重要なものは、ラッセル自身の分類にしたがえば、(1)人間の精神と行動、(2)経験的な認識とア・プリオリな認識、(3)意味と言語、(4)「非論証的推論」をも含む分析的方法の展開、に大別できよう
 まず、人間の精神と行動の問題については、その基本的主張は、人間の精神や行動は、生物の精神や行動との連関において自然主義的に解明されるべきであって、逆に生物や自然を人間的に解釈すべきではない、ということである。これらの分野で彼は、ソーンダイクやケーラーの心理学と、行動主義やその基礎にある条件反射学の影響を受けたが、とくに、そのうちで心理学が、人間を自然主義的に解明すると称しながら、じつは自然を人間主義的に解釈していることを非難する。これに対してラッセルは、人間を生物の立場から追求すると同時に、生物や自然は結局は物理学のことばで語られるべきものと考える。人間に固有のものといわれた価値についても、基本的には変わらない。カントのように、われらの頭上に輝く星空を、われらの内なる道徳法を通して眺める代わりに、道徳法もまた星空を支配する物理学のことばで解明されるべきものと、彼は考える。現状はともあれ、そうなることの可能性を期待し、模索する。
 世界は、人間の外に実在するのであり、それゆえ、世界を人間的経験の相においてのみとらえようとする経験論を、彼は、そのまま是認することができない。大まかにいえば、論理学や数学に専念した前期に対比すると、後期の彼は、自然・人間・言語などの経験的諸問題への関心を深めたともいえよう。しかし経験への接近は、古典的な経験論の方法でなされたわけではない。経験から、直接的には経験できぬものを推論し、直接的には経験できぬものを、経験によって検証するというしかたで、経験に近づくのである。このような意味で、素朴な経験論者ではない。経験的検証をも拒否する素朴な先験論者でもない。
 「経験的」と「先験的(ア・プリオリ)」ということは、古典的伝統哲学の主要問題であるとともに、新しい論理実証主義の中心問題でもあった。この由緒ぶかい問題についてのラッセルの解決は、おそらく2つの方向をもっている。第1は、実在論(とくに「新実在論」とも呼ばれる)的解決であって、経験をこえた実在の立場から主観主義的経験論を克服するとともに、経験をこえた実在はどこまでも経験的データの分析から推定されるべきであるというしかたで、伝統的先験論をも克服しようとする。第2の方向は、「経験的なるもの」と「先験的なるもの」とを「対象言語」と「論理言語」という言語の視点で意味論的に解決しようとする。
 1944年にアメリカから帰国したラッセルのケンブリッジでの講義は、「非論証的推論」と題された。それまでの哲学者や論理学者は、非論証的推論をとくに帰納的推論と同一視する傾向が強かったが、ラッセルは、常識的で日常的な推論としての帰納法の有効性は認めながらも、単純枚挙にもとづく帰納法は科学の基礎的な方法ではありえないという。帰納法が経験的事実に立脚して経験的事実を一般化するにとどまるかぎり――つまり経験的事実の枠内にとどまるかぎり、帰納法にのみ依存する科学の成果は貧しい。非論証的推論の積極的意義は、経験的な帰納法そのものではなくて、それに与えられる「蓋然性」(probability)の程度であり、それを保証する根拠、むしろ要請である。
 そのようなものとしての(1)準永続性の要請、(2)因果の線の分離可能性の要請、(3)空間と時間の連続性の要請、(4)構造の要請、(5)アナロジーの要請、をあげている。
5つの要請を個別的に検討することは省略するが、それらは、従来の自然哲学で前提されてきた自然の連続性(自然は飛躍しない)・因果性・恒存などの形而上学的原理を分析的に定式化したものである。たとえば、第2の要請は、「もろもろの事象の系列をつくり、その系列中の1つまたは2つのメンバー(事象)から、他のすべてのメンバー(事象)について何ごとかを推論できるようにすることは、しばしば可能である」ということであるが、知覚にもとづく部分的知識から蓋然的推論によって知識を拡張することは、このような要請なしには可能でない。人は自分の意識から他人の意識を類推するが、(5)のアナロジーの要請(この場合は、自分の意識と他人のそれとのアナロジーの要請)なしには、直接的には経験できぬ他人の精神が存在するという信念(むしろ「動物的期待」)を理由づけることは不可能であろう。彼のいう「知識」は、(a)自分自身についての知識、(b)他人(その証言をも含む)についての知識、(c)物理的世界についての知識、という3段階を含む。科学を(c)だけに限定するなら、5つの要請はさらに単純化できるであろう。しかし、自分についての直知的ではあるが非論証的な、さらに他人やその証言についての類推による推論をも含ませるならば、いままでの哲学が形而上学的に前提してきたさまざまな要請を整理して、論理的に分析し、定式化することが必要である。『人間の知識』で示された5つの要請は、その試論的な試みである。

「ラッセル哲学の要約

 以上は、後半生のラッセルの主要な問題意識を素描したにすぎないが、さらに立ち入って問題の解決を求めるには、ラッセルの著作の論説を、そして「論理実証主義」を経て「分析哲学」にいたる現代哲学の形成史を、みずから検討していただくよりほかない。「人間の精神と行動」「経験的と先験的」「対象言語と論理言語」「非論証的推論」などの後期の問題を通覧し、さらに前期の「内的関係と外的関係」「記述の理論」「集合論のパラドクスと階型理論」などを回顧するならば、ラッセル哲学の展開をたどることは、論理実証主義と分析哲学の形成史をたどることにほかならないと知るであろう。さらにまた、2つの世界大戦を含む時代の激動にまともに取り組んだ彼の社会活動をあわせて考慮してみれば、その思想と生活は、まさに現代の百年に近い歴史とともに成長してきたものであることに気づくはずである。
 その理論的研究は、大まかにいえば、観念論から論理学へ、そして論理学から科学への方向をたどった。後半生の科学的関心の増大とともに、論理主義の形式的堅固さは、いくらか柔軟なひろがりをもつようになる。自然や人間の現実的諸問題への接近とともに、『外部世界はいかにして知られうるか』の用語を借用するならば、「かたいデータ」の「かたさ」の度合は、いくらかは減少したともいえよう。長期間の研究生活のうちには、その後の論理実証主義や分析哲学の発展によって克服された理論もある。後期の著作では、同じ問題がいくたびか重複して論じられたり、その考えかたに大幅な修正が加えられていることもある。この点をとらえて、その理論が終始一貫していないと咎める人もないではないが、一世紀近い研究生活を通じて不変の一貫性ということは、はたして研究者としての美徳なのであろうか。それとも、非生産的な硬直性のあらわれなのであろうか。その途中で失われたものや残されたものを回顧しながら、ラッセルは、自分の哲学の方向を、次のように要約している。
「いまなお私は、真理とは事実との関係において成り立つものであり、事実とは一般に非人間的なものと考えている。宇宙的に見るならば、人間は重要ならざるものであり、いまここの歪みなしに宇宙を公平に眺めわたせる存在者ならば――そういう者があるとして――おそらくは人間のことは一巻の終わりに近い脚注で述べるだけであろうと、いまなお私は考えている。しかしながら私は、いまでは、人間の領域をそのあるべき場所から追放しようとは望まない。知性が感性にまさり、プラトンのイデア界のみが実在界への道を開くとは感じない。かつては、感性とその上に築かれた思想とは、感性を離脱した思想によってしか逃れでることのできぬ牢獄であると考えたものである。いまではもう、そうとは感じない。感性とその上に築かれた思想とは、牢獄の格子ではなくて、窓であると考える。われわれは、完全にとはいえないにしても、ライプニッツのモナド(単子)のように世界を映すことができるのであって、可能なかぎり像を歪めぬ鏡となることこそ哲学者の義務だと考える。と同時に、われらの本性のために避けることのできぬ歪みを確認することも哲学者の義務である。そうした歪みのうちもっとも基本的なことは、ここといまの視点から世界を眺め、有神論者ならば神に帰するであろう広大な公平さで眺めてはいないということである。われわれは、それほどの公平さには到達できないとしても、その方向に何がしかのところまで旅することはできよう。そして、目標への道案内をすることこそ、哲学者の至高の義務である」(『私の哲学の発展』(My Philosophical Development, 1959))