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堺利彦(抄訳・紹介)「お上品学者ラッセル」
『社会主義』1920年(大正9)11〜12月号所収
(再録)堺利彦全集・第5巻 pp.126-135.

* 堺利彦(さかい・としひこ: 1871-1933):社会主義運動家,著述家(号は枯川)。


1 は し が き


 革命的大混乱の四辻に立って,「ロード・ツー・フリーダム (自由への道)」(注:ラッセルは1918年にRoads to Freedom を出版している。 )はあちらだよと,柔和忍辱のお姿をもって無事平和の大道を衆生に指ざして下さる地蔵尊を,バァトランド・ラッセル(注:当時の表記の一つ)と申す。
 この地蔵尊の熱心な信者が,善男善女の間におびただしいことは,西洋でも東洋でも変りがない。ところがこの地蔵尊先ごろロシヤに参られ,過激派のやり口をご覧あって,きんざんにごきげんを損じ,めっそうもないこと,自由の道は決してあのような方向ではないと,いよいよもって無事平和の大道を説き諭された。それがこのごろ有名なラッセル教授の「労農ロシヤ視察記」である。それの日本訳は『我等』と『解放』との10月号に載っている。
 そこでわたしは,その「視察記」に対する二,三の批評を西洋雑誌から拾い集めて,少しばかりその内容をここに摘録してみる。地蔵尊のお指ざしに間違いはないはずだが,外道の言うことも少しくらい,聞いておいて損にはなるまい。しかし外道の言分はとかく乱暴で,そのままお取りつぎしかねるところもある。その辺には少々さじ加減もあるものとご承知を願う。


 (『ニューヨーク・コール』掲載のもの
 2 世間並みのブルジョア自由主義

 我々はラッセルの視察記に対して甚大な失望を感ぜざるをえない。この大哲学者こそはかの世界最初のプロレタリヤ革命に対して,定めて公平な,寛大な,聡明な解釈をしてくれるだろうと思っていたのに,意外にも,実に許し難い誤謬の判断をして,やはり世間並みのブルジュア自由主義の情けない立場を示している。
 彼はまずこう言っている。ソヴィエット政府はロシヤ人民の大多数の意志に反し,わずかに六〇万の共産主義者によって絶対専制を行なっていると。これはずいぶん久しく言い古された批評で今更弁解するがものもない(ママ)。反革命派が幾度も幾度も,外国から豊富な軍需品の供給を受けて過激派にブッつかり,そしていつでもさんざんに撃退されたのは何を意味するか。六〇万の共産主義者だけで,コルチャックとデニキンと,ユデニッチと,チェコ・スローヴァクと,連合諸国とを撃退したのだと考えられるか。ソヴィエット共和国が,内外の敵に対して勝利を得たのは,すなわちロシヤ国民大多数の勝利ではないか。
 ラッセルは農民の共産主義者には一人も出会わなかったと言うが,シベリヤとウクライナの農民はコルチャックとデニキンの没落を助けたではないか。ロシヤ農民が過激派のために投票することを好むにせよ,好まないにせよ,彼らはしばしば過激派のために喜んで死んでいるではないか。
 ラッセルによれば,共産党の政治には「プロレタリヤ(労働者)」よりも「ヂクテートルシップ(専制)」の方が多いという。彼は過激派が苛酷な訓練をもって労働者に臨むと批難している。しかし労働者にとっては,過激主義は苛酷の訓練よりもモットよいものであったに相違ない。現に彼らは,ユデニッチと食物とを捨てて,ソヴィエット政治と飢餓とを取ったではないか。
 ラッセルはまたあの視察記の中に,重要な件々を見落としている。たとえば小児に対する衛生および給養の注意,強制教育の実施,多数の新しい学校の開設など,あの混雑中によくもあれだけできたと思われる,保護事業や教化事業に対して,ラッセルは一言も言っていない。
 さらに重大なことがある。過激派が資本制度を破壊したという大功労に対して,ラッセルは一言の賛辞をも呈していない。ロシヤの共産主義者がことごとく殺されても,ふたたびあの国に資本制度の復活する気づかいはない。資本制度はロシヤにおいて永久に滅びている。しかるに平生,美と自由の理想に対する資本制度の害悪を最も強烈に力説したラッセルが,それに対して一言の賛辞もないのは何事であるか。彼のロシヤ視察記は,ちょうどフランス大革命を批評しながら,封建制度の廃絶を語らないのと同じものである。
 ラッセルはまたこんなことを言っている。「スマイリーとレーニンとの差異,もしくはチャーチルとコルチャックとの差異のはなはだしいことをみると,スマイリーとチャーチルとの間にはむしろ大切なる類似がある」と。彼はこの時,すでに全く平生の世界主義を捨てて狭隘な国民主義に陥っている。しかし見よ,その越えがたき国民的差別にもかかわらず,チャーチルとコルチャックとは,親密な提携をしたではないか。そして過激派は,スマイリーのロシヤ干渉反対運動に感謝して赤旗勲章まで贈与したではないか。そしてまた,コルチャックが過激派政府のコミサール(大臣)になるとか,チャーチルがスマイリーと一緒に内閣のいすにすわるとかいうことは,とても想像ができないではないか。
 ラッセルはまた言う。過激派は内においては貴族的であり,外においては武断的であると。政府内の重要な地位が多く元の筋肉労働者によってしめられ,才能と忠誠とが唯一の就職資格であるという状態を「貴族的」だとすれば,ずいぶん妙な貴族的制度である。また連合国側から仕掛けられた二年間の戦争で,まだ自分の国内の敵を追払わねばならぬという状態が,はたして「武断的」というものであろうか。外国の帝国主義者に対して,革命を擁護するのが「武断的」というものであるならば,ロシヤの労働者と農民とは喜んでこの責を受けるであろう。
 ラッセルはまた言う。過激派は芸術に対して大功を上げたというものがあるが,実はただ従来のものを保存しているにすぎないと。しかしあの動乱の間に芸術が興隆しないのは当たり前ではないか。それを責めようとするのがよくよく無理である。むしろ,あの動乱の間に従来のものが保存されたことを推奨すべきではないか。
 ラッセルはまた,イギリス労働党がロシヤ干渉に反対したことをはなはだしく過大視している。いかにも,労働党は立派な決議をいくつもしたに相違ない。しかし英国政府はやはりアーチャンゼルに大兵を送り,またデニキンやコルチックにできるだけの援助を与えたではないか。そしてその干渉と援助が失敗したのは,労働党の厚意によるのではなく,ただロシヤ赤軍の勇敢な働きによるのではないか。労働党がかように無力なことを見ると,英国には平和の革命(注:暴力を伴わない革命)が行なわれるというラッセル説に対して,レーニンが頭からそれをはねつけたのも無理でないと思われる。英国の労働党が平和の手段でロシヤ干渉政策をすら防止することができないのに,その同じ手段で,どうして社会組織の根本的変化を成し遂げることができようか。

                 
 (『ソヴィエット・ロシア』掲載のもの
 3 太陽にすらも黒点がある

 ラッセルは現時の最大人物の一人である。高遠なる大哲学者である。高等数学の革命者である。それのみならず,彼は戦時中,その戦争の惨毒をもたらした社会組織に対し,痛烈な反抗の叫びをあげて,自由と真理とのために牢獄に投ぜられることを辞しなかった。
 彼の偉大と勇敢とは明らかにこれを認めよ。しかしそれがために眩惑されてはならぬ。太陽にすらも黒点がある。彼はその名著『自由への道』の中においても,国家主義の起源と性質とについて考察をあやまっている。・・・。(注:「・・・」は省略を示していると思われる。)彼には毎度,自分のあまり知らないことについて論議する癖がある。
 しからばこの(ロシヤ語を少しも知らない)大人物が労農ロシヤに僅々五週間の旅行をして,ヘマな観察をして帰って来たのも,別段驚くには足りない。
 ラッセルは言っている。わたしは代議政体の新形式の興味ある実験を見るべく,ロシヤに行くのだと思っていたと。それがすでに間違っている。彼は,イギリスのギルドメンの穏かな空想と,ロシヤの過激派の現実の戦いとを混同している。彼は新案代議政体の,面白い模範的実験室を見物するつもりであった。しかるに行ってみると,猛烈な階級闘争の形相が赤裸々に露出されていた。それが彼の温和な性情を痛ましめた。彼がレーニンと語った時,レーニンはけだしこう感じたであろう。英国の貴族ジョン・ラッセル卿の孫たるこの人は今,自分一人の気むつかしい好みに適合するような労働者革命をたずねているのだと。
 レーニンは現にこう言っている。「階級闘争は労働者独裁によって直ちに消滅するものではない。ただそれが新形体を取るのみである。この過渡期はなお闘争の時代である。死につつある資本主義と,成長しつつある共産主義との闘争である。換言すれば,すでに撃破されてはいるが,まだ滅亡してはいない資本主義と,すでに生まれてはいるが,まだきわめて弱い共産主義との闘争である。」 ラッセルがもしよくこの事態を理解したならば,ロシヤの現状からして共産主義に批判を加えることは差し控えたはずである。


 (『ソヴィエット・ロシア』掲載のもの
 4 いかなる革命もお気に召すまい

 まずここにラッセル氏自身の言葉を引用せしめよ。
「党の教義を真摯に信じている共産党員は私有財産が総ての害悪の根本だと確信している。彼は,共産国家の建設維持のために必要と見えることなら,どんな辛辣な手段でもビクともせずに敢行するほどに,それを確信している。彼は他人を寛容しないとおりに自分自身をも寛容しない。彼は一日一六時間働き,土曜の半日の休みをも棒に振る。彼は必要な仕事となれば,どんな困難な,もしくは危険な仕事−たとえばコルチャックやデニキンが遺棄した,腐った死骸を取片づけるような事−であろうと,自ら進んでその局に当たる。彼は権力の地位にあろうとも,生活資料管理の職に立とうとも,禁欲的生活を営んでいる。彼は個人的の目的を追わず,ただ新しい社会組織の創造を目ざしている。しかし彼をして禁欲的ならしめるその同じ動機が,また彼をして冷酷とならしめる。マルクスは,共産主義が必然的に出現する宿縁を持つことを教えたが,これはロシヤ人の性格の中にある東洋的特徴にピッタリと符合し,そして初期のマホメット信者に似たような心的状態を現出している。」(だいたい,大山郁夫氏の訳文による)
 この記述は明らかに,自分の理解せぬ新宗教に出くわした人の感銘を示している。そしてこの不思議な熱誠の発露をロシヤ的,東洋的として,国民性的に説明したところに注意すべきである。さらにそれをマホメット信者に持っていったところが奇抜である。(以下削除)(注:検閲により削除されたらしい。以下同様。)
 ラッセル氏は英国人の「親切と寛容」が「1688年の革命(注:「名誉革命」)以来ずっとイギリス生活の基調となっている信仰」だと言っている。しかしラッセル氏も自ら認めているとおり,その「親切と寛容」は他の国民や隷属人種に対しては適用されていない。のみならず,英国内でも,少数の上流社会以外にはやっばり適用されていない。英国の実生活は決して知識階級の間における温和な討論のようなものでない。英国の実生活にはずいぶん強い憎悪もあり,ずいぶん烈しい腕力ざたもある。お上品なラッセル氏は,自分を全く国人から切り離して,イギリス生活を誤表(ママ)しているが,実際のイギリス生活は「親切と寛容」 からずいぶん遠い,粗野剛健な調子を持っている。
 (この間削除)ラッセル氏にとっては,恐らくいかなる革命もお気に召ざぬであろう。
 平生から上品な人々とばかり交わり,相互の間に大した利害の衝突もなくて,上品な事ばかりやっている人が,たちまちにして問題にブッつかっている平民の間に投げこまれたとしたらドゥだろう。そしてその平民らは問題の解決に一生懸命になって,そのやり口の乱暴な事などには頓着しないとしたならドゥだろう。ラッセル氏の場合はまさにそれである。シルレル(注:シラー)の言葉にこういうのがある。

  世の中は狭いが,頭の中は広い。
  いろいろな思想が雑居するのは容易だが,
  実物はすぐお互いにブッつかりあう。

 だからラッセル氏は,こう考えるべきはずであった。実行的社会主義が今ロシヤに生まれつつある。それは肉体生活の粗剛と溌剌とを持っている。それは断じてばかなまねを寛容しないと。
 ラッセル氏はまた過激派が選挙に際して反対党に種々の不便を与えることを指摘している。しかしイギリスでも戦時中には,外敵に対して己を維持する必要上,いわゆる「デモクラシーの擁護規定」をいくらも廃棄したではないか。ソヴィエット政府は,外敵および反革命派と関係を持つ疑いのある政党に対しては,新聞の自由を奪ったに相違ない。しかしあらゆる純粋の労働者に対しては,言論集会の自由が憲法によって保障されてある。
 最後にラッセル氏は大いにゴルキー(注:ゴーリキ)と共鳴したらしく書いている。そして「彼は今死に瀕してる。そして多分,ロシヤの知的および芸術的生活もまた死に瀕しているのであろう」と言っている。
 しかるにゴルキーは最近に著述をして,小ブルジョア精神と革命との関係を論じている。我々はラッセル氏ほどの人物を小ブルジョアと呼ぶことを好まないが,しかしゴルキーの本の中にはいかにもラッセル氏を小人物に見せる個所がいくらもある。それによればラッセル氏は,上品な人々と楽な談論をすることばかりに興味を持って,熱烈なる創造の呼吸,社会変革の大爆発には興味を持たない小人物である。

    
 (『リベレーター』掲載のもの
 5 人道主義のブルジョア学者

 バァトランド・ラッセルは過激派首領等の粗野剛健に傷心してロシヤから戻って来た。そして「親切と寛容が世界いっさいの教義に優る」という確信に隠れてしまった。
 過激主義に対するラッセルの反動の真意義はこれだと思う。彼がメンシュビキのおきまりのプロパガンダをまるのみにしたその態度には,いかにも欺されやすい,お人よし学者のふうが見える。
 ラッセルはニイチェが痛烈に罵倒した三事に対する,最も忠誠な代表者である。三事とは何ぞ。いわく,形而上哲学の「真実世界」の信仰。いわく,デモクラシーに対する無差別の渇仰。いわく,キリスト教のかすなる温和の倫理。そこで要するに,ラッセルが英米の理想家仲間に警告するところはこれである。いわく,過激派は「哲学的」でない。彼らはデモクラチックでない。彼らは温柔でない。彼らは極端に科学的理論を信じている。彼らは効果をあげるために用捨するところがない。要するに彼らはニイチェの自由精神主義者で,キリスト教の聖者でない。彼らに警戒せよ。
 現にラッセルがレーニンその他過激派首領の性格を記述したところは,ほとんど全くニイチェの「新しい貴族」に似ている。すなわち左のごとし。(このところ前章劈頭の引用文に同じ)
 そしてラッセルは実にこの理由によって「過激派が長く権力を握るならその共産主義は衰退し,彼らはますます他のアジア的政府(たとえばインド政府)のごとき者に似るであろう」と言うことを我々に信ぜしめようとするのである。
 しかるに我々のうち,これを信ぜんと欲する者がすこぶる多い。我々もまた実に温柔理想化の毒を被っているものである。我々はすでに久しく「善」と呼ぶものの無効果を見るに慣れている。したがって効果のあるものをすべて「悪」と目するに躊躇しない。それでもし過激派が,自己の理論の真実のために,土曜日の休み,睡眠,安逸,生命,自由などの諸事から,例の「親切と寛容」の理想に至るまでも,いっさいの事物を賭することを喜んでしなかったならば,ラッセルは必ず本能的に,彼らが世界の救い主となりうることの希望を見いだしたであろう.しかしながら,過去の救い主たちがどうなったかと理解する者にあっては,その時もはや何らの希望を持たぬであろう。
 (この間削除)譲り渡す最後の遺言なのである。
 労働者は恐らくラッセルに対してこういう批評をするであろう。彼は元来支配階級の一員として生まれている。そして職業上からは,その階級の学者,弁護者の一員である。ただ彼はデモクラシーの偽者に対し少しばかり神経過敏であったがために,労働階級の学説を抽象的に受け入れるだけの知力的大胆さを持っていたのである。だから我々は,彼が自分の階級から脱出して,具体的の急場に立って堂々と名乗りあげる者とは,初めから予期していなかった。彼は頭の中に何を持っていようとも,胸の中に労働者のインテレストを持っていなかった。それがすなわち,彼がロシヤから失望して戻って来た理由である。現に彼と一緒に行った,交通労働組合のロバート・ウィリアムスは,「従来におけるわたしのあらゆる希望と予期とは,労農ロシヤの事物に対する現実の接触によって,十二分に確証された」と言っているではないか。
 この批評はいかにもよく事実に適合している。これに反対することは容易でない。ただしラッセルも,過激派が資本制度のない産業組織に成功したことは認めている。そして「もしロシヤが平和を持つことを許されるなら,驚くべき産業発達が起こって,米国の競争者となるかも知れぬ」と言っている。試みに思え。ロシヤの産業が米国の競争者となるほどに発達して,そしてその間に売買のむだがなく,ストライキやロックアウトのむだもなく,全社会の産業機関がただ生産,生産,生産と,そればかりを目的として働くことになり,しかもその産出物がことごとく労働階級の手に入るとしたらドゥであろう。それはすなわち労働者が「自由への道」に進む第一歩がすでに実際に踏み出された証拠である。この根本の事実においてラッセルとウィリアムスがまさに一致しているとすれば,二人の異なるところはただ各自の利害(対立せる二階級の利害)であることが明瞭となる。ラッセル氏は「自ら共産主義者であると信じ」てロシヤに行き,そして自分が人道主義のブルジョア学者であったことを発見したわけである。
 しかし,識力の高邁な人,もしくは反抗的感情の強烈な人にあっては,自分の経済的および社会的地位から抽象して革命闘争の進路を科学的に考察し,人生究極の希望の存する方面に,自己の個人的努力を用いることもまた可能である。その実例はすでにおりおり現出している。ただ我々は,ラッセルの場合において,その稀な奇跡が起こることを希望するほど,お人よしの軽信者ではなかったのである。
 ラッセルはレーニンを好まなかった。レーニンの高笑いの中には恐ろしいすごみがあることを感じた。思うにレーニンはラッセルの柔しい情緒に対して何らの食物を与えなかったのであろう。レーニンがその歴史観の中から,およぴその「自由への道」に達する計画の中から,全く倫理的神聖を除外したところが,すなわちラッセルにとって「恐ろしいすごみ」であったに相違ない。
 レーニンがマルクス説を信奉するのと,ラッセルがキリスト教的デモクラシーに帰依するのと,熱心の程度において何らの相違はない。むしろレーニンの方に融通がついている。レーニンははとんど明白なプラグマチストである。ラッセルは有名な「絶対真理」の主張者である。しかるにデモクラシー流の考え方は確立した伝来思想であるので,それに固執することは自由主義と目される。これに反し,マルクス流の考え方は新奇であるので,その考え方に忠誠な科学的冷静は,かえって狂信と見なされる。そこがラッセルとして,レーニンに独特な革命的天才を認めることのできなかったゆえんである。
 しかるにゴルキーに対しては,ラッセルはあふるる心情をもってひざまずきうる神殿をそこに見出した。ゴルキーは元来,(この間削除)彼は現実的強圧の下に共産主義を承認したが,元来は温和なデモクラチックな社会主義を望んでいた。それに彼はラッセルと会った時,「ほとんど死に瀕して意気阻喪して」いた。要するに彼は十字架上のアイデアリスト(理想家)であった。そこでラッセル,はその病床に月桂冠を捧げることができたのである。
 (ただしゴルキーはその時,ラッセルに対していくばくも話をしなかったことに注意すべきである。したがって「意気阻喪」というのはただその外観からの判断である。彼は九年イタリーに居た時から 「ほとんど死に瀕して」いた。そして最近に彼が書いた,ロシヤ支配階級の京れな残存に対する燃ゆるがごとき宜言書は,豪も「意気阻喪」を告示していない。なお彼は,ラッセルと別れてから数日の後,ペトログラード・ソヴィエットの一員に選挙されている。)


堺生言。以上はみな抄訳であり摘録であるが,大意はほぼ尽くされていると思う。『ソヴィエット・ロシヤ』の分は,赤松克暦君の全訳が『解放』に載ると聞いている。