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バートランド・ラッセル(著),寮佐吉(訳)『原子のABC』への訳者・序

* 出典:バートランド・ラッセル(著),寮佐吉(訳)『原子のABC』(新光社,1925年9月 3+6+205p. 19cm.)
* 原著:The ABC of Atoms, London; Kegan Paul, 1923. 175 p. 20 cm.)
* * 寮佐吉氏(1891~1945)略歴
* 祖父の書斎/科学ライター寮佐吉<

 訳者序(1924年9月3日)

ラッセルの The ABC of Atoms の表紙画像  本書は1924年(松下注:1923年のまちがい)英国ロンドンで発行せられたバートランド・ラッセル氏の『原子のABC』を全訳したものである。原著者ラッセル氏は誰も知る如く、英国の哲学者であり数学家であり思想家であって、哲学・数学及び社会学に関する幾多の重要なる著書を出して令名嘖々(さくさく)たるものがある。その中でも、『社会改造の原理』『神秘と論理』『自由への道』『数理哲学序論』『科学の将来』『心の分析』等が特に著名である。先年雑誌『改造』に椽大(てんだい)の筆を揮ったことは世人の記憶になお新たなる所であろう。
 ラッセル氏は本書に序文を書いていない。それは序文を必要としない程、『原子のABC』なる書名が内容を明瞭に示しているからであろう。雑誌「スペクテーター(Spectator)」は、本書を評して次のように激賞している。
『原子のABC』は、専門的の物理学の知識を有しないでいて、しかもその最近の発達を知りたいと願っている読者のために書かれた通俗書の中の白眉であって、この上もなく感服すべきものである。ラッセル氏は数学嫌いの人々を怖気だたせる恐ろしい方程式を導入しないで、原子論の主要なる諸点の梗概を甚だ明瞭に説いている。要するに本書は甚だ平易であり、簡潔であり、斬新にして完全であるから、誰人も必読すべきものであることは多言を要しない。
 本書は単なる科学者の原子の解説ではなくて、一代の哲学者の頭脳をプリズムとして分析せられた美しい七色の虹であって、原子は生命あるものの如く取扱われていて、私共は知らす識らず科学の神秘境へ誘引せられるのである。
 ラッセル氏は本書の終に於て、『世界は「合理的」にできているか、或は「非合理的」にできているか。」の大問題を提出してしかも解答を与えていない。この一点を見ても、本書が如何に人間味に富んでいるかが分るであろう

 附録として、ラッセル氏は、ボール(松下注:ニールス・ボーのこと)の水素スペクトルに関する理論を初等数学を用いて説いている。原子の一般常識を得んとする人々はこの附録を敬遠しても差し支えなかろう。ラッセル氏が附録とした真意も恐らくそうであろう。

 ラッセル氏は、本書の第5章「水素原子の可能なる状態」中に、「私共の目下の問題については、アインシュタインと相対性理論は力学の最後を飾る王冠であって、新力学の濫觴(らんしょう)ではないことを了解せねばならない。アインシュタィンの研究は莫大なる哲学的及び理論的の重要さをもっているが、それが実際の物理学に導入する変化は、私共が光速にさほど劣らない程の速度を取扱はない中は、実に甚だ小なるものである。これに反して、原子の力学では、それは単に私共の理論を変じしめるばかりでなく、変化は屡々非連続的であり、且つ可能であるべき筈の運動の大部分は実際に於いては不可能であるという結論を導いて、実際に行われていることに関する私共の見解を一変せしめるものである。」と述べている。本書の最後の2章の標題中に見えている「新物理学」というふ文字はこの意味に於けるもので、端的に言えば「量子論(松下注:量子力学)のことであるから、一言注意して置く。
 大正13年(1924)9月3日 訳者