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 野田又夫「A.ウッド(著),碧海純一(訳)『バートランド・ラッセル−情熱の懐疑家』について」
 『みずず』(みすず書房)1963年4月号掲載


* 原著:Bertrand Russell; a passionate sceptic, by Alan Wood./邦訳:みすず書房及び木鐸社刊)
* (故)野田又夫氏(1910〜2004)は当時,京都大学教授

 バートランド.ラッセルは,最近では,原水爆戦防止の平和運動の先頭を切っている九十歳の老哲学者として広く知られている。またわれわれの世代で英語を学んだ者は,ラッセルの文明論や社会論のどれかに語学の教室で接していると思う。ともかくもおそろしく頭の切れる,面白い爺さんだというのが彼の文章のどこからでも受ける印象である。しかしながらわれわれの間の哲学愛好者,哲学の専門的研究者は,ラッセルを一個の思想家として受け入れることがまれであっと思われる。初期のラッセルの論理学や数学の徹底的な分析と後期の文明論や社会論を,全体として正面から受けとめてそこから学ぶということは,むしろ敗戦後にはじまったことのように思われる。これは人の気質や好み,また哲学から何を期待するかという点での考え方の相違にもよるが,また多分に無知のせいでもある。少なくとも私にはそう思われる。こんど訳出されたウッドの(によるラッセルの)伝記は,われわれの無知をはらいのけるのに大変役に立つと思う。

 ラッセルの処女作は,二十歳すぎにベルリンに行ったおりの見聞をもとにした,ドイツ社会民主主義についての評論であったことが,この伝記に出ている。そのベルリンで彼は,二種類の本を一生の中に書こうと考えたという。一は最も抽象的な論理や数学からはじめて具体的なものに向かう研究であり,他(もう一つ)は最も具体的な社会や歴史からはじめて一般的抽象的原理にさかのぼる研究である。このとき彼はまだへーゲルの綜合的見方をすて去らずにいたから,上の両方向はつながると予想したのであろう。しかしそののち,第一の方向の研究によってへーゲルを脱却し,心ならずも,論理的形而上学を砕いてしまう。一九〇〇年から十年間の彼の仕事は数学者の禁欲の生ともいうべきものであって,考えの上でも,生活の上でもこういう思い切ったやり方は,異例のものだった(似た例で私の思いつくのは,デカルトの若いときのやり方だけである)。

 こうして学間的分析と世界観的綜合とは全く次元がちがうものになったが,第一次世界戦のときラッセルには一種の思想的転向があった。あるところで彼のいう言葉によれば,戦争のために若い人々が無惨に死に行くのを見て,もはや数学的世界にとどまれない(安住できない)と感じたという。人類に対する連帯感,人類の運命に対する悲劇感が彼を深く打ったらしい。そしてラッセルは,みずから当然と考えたことを必ず実行する人であって,このとき世間に抗して平和運動をやり,「徴兵をさまたげ,アメリカを誹謗した」せいで下獄(入獄)するのである。ラッセルみずからは,自叙伝的事実とのみ見ているこの転向は,今世紀の思想史に映していえば,生や実存の哲学への転向ということに並行している。あるイギリスの哲学者は,「実存とか悲劇的運命の感得とかいうことは,われわれイギリス人は,哲学として語らずに実行している」といった。私はこれをすべてのイギリスの哲学者について認めるわけにはゆかないが,ラッセルについては承認できる。

 その後のラッセルの生活や仕事について,この本ののべるところにもう触れないでおこう。アラン・ウッドは別に,「ラッセルの哲学の発展」という一書を書くつもりで(その企てはウッドの早逝により果たされなかった)、まず伝記を書いたのだが,もちろんラッセルの哲学の急所には一々触れている。それにこの伝記は何とも面白い本である。昭和三十二年の夏,私はこの本を読んで愉快で笑いのとまらなぬ頁が多かった。ちょうどマックス・ブラック教授が京都のセミナーに見えていて,すぐ読みたいと言われた。ブラックさんの読後感は「どうも面白すぎる」といいうことで,「笑いがとまらぬといった私に対するたしなめの意味もあったらしい。そのあとで哲学者の人物評に及んだおり,ある人の考えをラッセルに近いといったら,ブラックのいわく,「あれはとてもラッセルと並べられる人物ではない。何しろラッセルにはあんな自惚れ(self-conceit)はないのだからね。」
 ラッセルの論理や数理の仕事と同じく,彼(ラッセル)の多彩な人生批評にも,まっすぐな単純な筋が一本つらぬいているのである。