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(書評) 野田又夫「思想家の描写と学説の分析- バートランド・ラッセル(著),市井三郎(訳)『西洋哲学史』」

* 出典:『朝日ジャーナル』1961年4月9日号,pp.52-52.
*原著:A History of Western Philosophy, 1945.
*野田又夫氏(のだ・またお:1910~2004.4):京大名誉教授、デカルト研究で著名で、日本バートランド・ラッセル協会設立発起人の一人

 この本が出たのは1946年であり(松下注:英国で出版されたのは1946年であるが、米国では1945年に出版されている。これは、第二次世界大戦のため、ラッセルが1944年まで米国に滞在していたことが影響していると思われる)、市井氏の邦訳が完成してからでも、もう5年になる(松下注:3冊本の下巻が出たのが1956年1月)。私はときどき思いついてはこの本のあちらこちらを読み、結局どの章にも何かなじみができていた。しかし、こんど邦訳が1冊にまとめられた機会にはじめて一気に通読して、いまさらながらいろいろなことを教えられた。

 著者独自の解釈と批評

 まことに面白い著者独自の本だとは、どの章をひらいてみてもすぐわかる。全体として、ギリシャからはじまり中世のキリスト教的世界を経て第2次世界大戦にいたる思想の展開が実に劇的に示されている。まず人物が生き生きとした姿で登場する。最初の哲学者タレスはエジプトにも行ったが、当時そこにはユダヤ人の居留地もあり、故国をバビロニヤに滅ぼされた予言者エレミヤもいた。タレスのような学問好きのイオニア人に対して、エレミヤのような悲憤する予言者は、身ぶるいを感じたことだろう、とラッセルは想像している。

 こんなのも1例だが、いたるところでおやと思わせるような有益な事実が示されており、読者が退屈しそうになると、大笑いの種まで用意してくれているかのようである。各哲学者の主張に対するラッセルの解釈、同感、批評が、すべてきわめてあけすけにのべられて、感心したり時にあきれたりする。たとえば紀元4世紀にキリスト教がやっとローマ帝国に公認された時期に活動した3人の博士、アンブロシウスとヒエロニムスとアウグスチヌスのことをのべたくだりを見よう。まずアンブロシウスは教会の代表者としてローマ皇帝の政治に文句をつけるという、その後中世全体を通ずるローマ教会の伝統をひらいた人物であるが、このアンブロシウスが、あるとき、皇帝の軍隊がギリシャのある町でおこなった大虐殺のことをきいて、皇帝をしかり、おどした手紙がある。ラッセルはこれを引用して、この手紙はもはや教会の権力のことなども全く忘れて純粋な勇気で書かれたものだと注意している。まさにそのとおりであって、われわれは聖者が突然人間として大うつしになったのを感ずるのである。つづいて、聖書のラテン訳をした学者で同時に砂漠における禁欲の行者でもあったヒエロニムスについては、かれに帰依してシリアの荒野へまでついていったローマの貴婦人とその娘とにあてた奇妙な手紙が引かれている。そこにはソロモンの雅歌のエロチシズムが説かれている。最後にいちばん大切な神学者のアウグスチヌスのことになると、これは『告白録』によってわれわれにも親しい人物だが、その歴史哲学をのべた上で、ラッセルは、アウグスチヌスの考えとカール・マルクスの歴史観との対照表をつけている。
 それによると「ヤーヴェ神」という語の代わりに「弁証法的唯物論」をおき、「救世主」という代わりに「マルクス」とおき、「教会」という代わりに「共産党」とおき、以下同様にすれば、アウグスチヌス説はマルクス説になる、というのである。
 私ははじめてこの章をよんだとき、何とも乱暴だと思った。けれどもこんど全体を通読してみてむしろうなずけるような気がする。こういうつながりを見出すことが、通史としてのこの本の任務であるとラッセルは考えているのである。そして、もちろんマルクスには後に1章をもうけてその考えを科学的に吟味してあるのである。
 この本の表題は、くわしくは「古代より現代にいたる政治的社会的諸条件との関連における哲学史」であって、ただの学説史というものでなく、社会と政治との現実をいつもていねいに説明してあり、ことに古代や中世ではこれに意を用いてある。そうした上で、傑出した思想家の人物の描写と学説の分析とがおこなわれているのである。そして政治的社会的条件と哲学思想との関係については、一方が他方を決定するというのでなく、相互に働き合うのだという穏健平凡な見方がとられている。思想史の方法論などを研究する人は、この点が食いたりないと見るかも知れず、現にこういう批評も昔あったように記憶する。しかし、ラッセルはまさにこのことについてもかれの視野における実証をおこなっているのであって、それは、イギリスのロックの政治思想が清教革命後のイギリスの現実から生まれたものでありながら、フランスにうつされると逆に政治と社会を変える力となった、という例である。ラッセルがこの本で見ているのはこういう規模の見方であることを批評家はまず知っておかねばならない。
 ところで、いまこのやり方でふつうの歴史家が哲学史を書くとすると、哲学の学説の叙述そのものについては、かれは文献学的な理解を正確にして、その意味を正しく解釈し伝達するということに終始するであろう。つまり学説の意味の解釈を、客観的におこなうことに力を注ぎ、各学説を自分の立場から全面的に批評することをむしろひかえるであろう。過去の学説の1つ1つが、どういう意味をもつかはのべられるであろうが、それぞれがその歴史家にとって、真か偽かということの判定は、あらわにしないであろう。それをするのは体系的な哲学そのものであって、哲学史ではないと考えられるであろう。

 真偽の判別と率直な批判

 ところがラッセルはちがうのである。文献解釈の努力はもちろんしており、この本をアメリカで書くとき、かれは各思想家の選集でなく、全集を借りあつめるのに苦労したという話がある。しかしかれは解釈にとどまらず、さらに各学説についての自分の立場からの率直な批評を加える。真偽を無遠慮に分けるのであって、たとえはプラトンのここは真だがここは誤りである、というようないい方をする。もっと近い時代の哲学者ベルグソン、デューイといった人に対してはなおさら論戦的である。ラッセルのこの本がひろくよまれているにもかかわらず、歴史の専門家の間では苦情をいわれることが多いのも、個々の点の異論よりも上の根本的な態度のちがいによると思われる。たとえば私の同僚の古代や中世の哲学の研究者たちは、この本のことをよくいわない。しかし、私はこのラッセルの思い切ったやり方にむしろ同感を覚える。哲学について歴史家と体系家との区別は究極的なものでないだろうからであるそしてこんど通読してわかったのだが、ラッセルの哲学説のすべてがこの1巻の中にたたみこまれているかれの論理や数学の考えはプラトン、アリストテレスの章などにあり、認識論はバークリ、ヒュームのところにこめてあり、社会観や政治観はロックやルソーやマルクスの章にすべてくみこんである。当然といえば当然だが、偉い仕事だ。むかしへーゲルが哲学史でしたことを、ラッセルは全く反対の立場からしているのである。
 最後にこの大部のものをひとりで訳出された訳者の労に感謝せねばならないが、ところどころ不備や誤訳があり、ことに古代哲学者の引用では目立っているので、訂正しておいていただきたい。(京大教授,野田又夫)
(A5判,860ページ。1,80O円,昭和36年,みすず書房)