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森毅「流れる炎に Peace と Love を(バートランド・ラッセル)」

* 出典:森毅(著)『異説数学者列伝』(蒼樹書房,1973年5月刊)pp.219-226.
* 森毅(もり・つよし,1928~2010):京大名誉教授(数学専攻)/1950年、東大理学部卒。



 ヴィクトリア女王(時代の)の首相ラッセル伯の孫、自由主義的大貴族の家にラッセルは生まれた。幼時に父母は死に、ユニテリアンの祖母とドイツ女の家庭教師によって育てられた。ヴィクトリア女王から拝領の邸宅から外へ出たのは、15歳で塾に通い出してからで、そこには、もういっぱしの遊び人のフィッツジェラルドがいた。(松下注:説明なしに唐突にフィッツジェラルドが出てくると、ラッセルをモデルにした人物が登場する、D. H. ロレンスの『息子と恋人』のなかのフィッツジェラルドと勘違いする危険性がある。ここではそうではなく、ラッセルの『自叙伝』に出てくるアメリカ育ちの「遊び人」のエドワード・フィッツジェラルドのことを指していると思われる。)
 18歳でケンブリッジに入ってからは、予約された知的エリートの道を歩む。11歳年長のホワイトヘッドは、少年時代から知りあっており、数学上の指導者でもあった。ケンブリッジの「知的秘密結社」の使徒団に20歳から加わり、ケインズやストレイチーやトレヴェリアンなどの年上(松下注:年下の間違い。ラッセルが長生きをしたための勘違いか。/ちなみに、J. M. Keyns, 1883-1946; G. Lyton Strachey, 1880-1932)の友人を持つようにもなる。
 このころにまた、17歳のときからの女友達、クエイカーのアメリカ娘だった5歳年上のアリスと恋愛してもいる。祖母は彼を引きはなそうと、パリのイギリス大使館員にするのだが、結婚にふみきる。22歳のときだった。しかし間もなく、この結婚の失敗を悟る。
 その翌年になって、『幾何学の基礎』(1897年)でケンブリッジのフェローになり、ベルリンに遊学しているが、研究主題はドイツの社会民主主義で、ベーベルやリープクネヒトの兄の方(ローザと殺された弟の方はまだ子ども)とつき合ってもいる。それで、彼の最初の講義はロンドン大学で翌年やった『ドイツ社会民主主義』で、これが彼の著作の最初となる。
 19世紀のイギリス「純粋数学」の伝統の1つには、数学の初等的部分の基礎づけがあり、ブールの時代にはおそらくそれは大衆教育の視点とつながりが深かったが、そのケンブリッジ風・知的洗練とでもいったものがホワイトヘッドだった。それは、カントールやグラスマンの影響もあって、20世紀初頭の〈数学の危機〉へ接触しはじめていた。
 1900年、パリの国際哲学会に28歳のラッセルと39歳のホワイトヘッドも参加する。これから10年後に『数学原理』の第1巻が発刊されるまでが、この2人の数理論理に心身を捧げた時代である。ラッセルとアリスとは、実質的には夫婦関係をほとんど失っていたし、ホワイトヘッド夫人はさかんに夫の発狂を心配していた。このなかでラッセルは、30歳のときに有名な「ラッセルの逆理」を提起し、6年後のタィプの理論でそのいちおうの収拾に成功する。
 1900年のイギリスはまたボア戦争のさなかで、この翌年にラッセルは、戦争支持から戦争反対へと政治的回心を行なっており、35歳のときには婦人参政権論者として下院に立候補したが、演説会に鼠を放たれて惨敗している。数理論理に一区切りついたころからは平和主義者のモレルのサロンに近づく。
 「回心」が29歳のときなら、「回春」は39歳のときで、パリ大学へ講義に行く途中のロンドンで、モレル夫人のオトリーン(オットリン・モレル)と恋愛関係に入り、アリスとは別居するようになる。さらに第1次大戦が始まると行動的な反戦主義者たちと交わり、マレソン夫人のコレッティとの最初の情事の晩、ツェッペリンの燃える炎を窓ごしに見た。その後ラッセルは、ケインズの媒酌した犬の結婚式でマンスフィールドからオットリーンの悪口を聞かされて、心を安んじたりもしている。
 このころラッセルはすでに43歳だが、翌年には徴兵反対運動のためケンブリッジを追われ、46歳のときには投獄される。もっとも兄の力ぞえで、牢獄といっても絨毯のある差額特別室で、室代を請求に来た刑務所長に「滞納するとどうなりますか」と聞いたのはこのときである。この特別室で『数理哲学入門』(1919年)は書かれたのだ。コレッティはもちろん、まだ少しは続いていたオットリーンも面会に来たものだが、彼女はかわいそうに間もなく発狂してしまう。(松下注:これは森氏のひどい勘違い。発狂したのは、シカゴの著名な婦人家医の娘 Helen Dudley。ちなみに、Ottoline は1938年に死亡したが、ラッセルは、1911年~1938年の間に約2,000通の手紙をオットリーン宛書いている。)
 戦後、入獄中の嫉妬からこじれ気味だったコレッティにかわって、ラッセルには新しい恋人ドラ(Dora Black)ができる。1920年に、48歳のラッセルは、新しいロシア(松下注:「革命直後のロシア」という意味)を訪問する。ドラがあとを追い、結局はすれ違うのだが、この結果(松下注:ロシア見聞の結果)ラッセルはレーニン嫌いになり、ドラはレーニンのファンになる。
 その年に北京大学によばれるときにラッセルのつけた条件は「妻」の「ミス」ドラを同伴することだった。
 翌年には帰途に日本にも寄っている。日本人で気に入ったのは伊藤野枝だけだったという。日本の新聞は中国滞在中に「ラッセル死亡」の誤報を流していたので、「死者は記者会見に応じられない」とラッセルは答え、カメラのフラッシュに怒って記者を追いまわしたが、これはドラの流産を心配したのである。このあと、アリスと正式に離婚して、ドラと結婚している。
 人生50にしてはじめて妻子を持つ身になった(松下注:再婚なので、正確には、「はじめて子供を持つ・・・」とすべき)ラッセルは、下院に2度落選し、文筆家として書きまくる。もっとも彼自身が書いた「死亡記事」では業績は数学だけで、「古くさい合理主義的浅薄さを機智ある文体で欺瞞している作家」と自己規定する。これは案外に本音で、あの膨大な著作よりは、その実生活をもって〈思想〉を語るといった「思想家」だったのではなかろうか。(松下注:自分が死んだら、新聞はこのように書くかもしれない、と面白がって書いているのであり、そのまま受け取るべきではないと思われる。)『数学原理』の時代にケンブリッジでラッセルの弟子になった人たちは、哲学者のウィトゲンシュタインはもちろんだが、詩人のエリオットにしても、数学者ではウィナーにしても、ずいぶんとラッセルの影響を受けたようなことを言うが、彼という人間そのものの〈文化〉のようなものに影響されたのではないだろうか。そういえば、逆理やタイプの理論にしても、「数学」というより〈文化〉として歴史に意味を持ったようにも思う。
 五十代後半からは教育づいて、ドラと一緒に自由主義的な実験学校を試みるのだが、この学校の歴史は、ラッセルとドラの〈家庭〉と〈教育〉についての自由主義的理念の、現実における崩壊の歴史でもある。『自由と組織』(1934年)執筆のさいの秘書パトリシアと恋愛し、ドラの告訴、離婚、3度目の結婚となるのだが、ドラの生んだ4人の子のうち2人は、ラッセルを父とはしていなかった。64歳のころである。(松下注:この辺の書き方は誤解を与えやすい。正確なところは、『ラッセル自叙伝』をお読みになっていただきたい。)
 第2次大戦の前年、ラッセルとパトリシアは嬰児を連れて渡米してシカゴ大学へ(右写真「1938年渡米時のラッセルとパトリシアとの間の子供コンラッド」出典:R. Clark's B. Russell and His World, 1981)、やがて呼びよせた先妻の子2人を大学へ通わせながらカリフォルニア大学に留まる。ところがニューヨーク大学への転任が「道徳家」たちの反対でこじれ、路頭に迷いかけ、のちに『西洋哲学史』(1945年)となる講義をバーンズ財団ですることで息をつく。このバーンズというのは、「彼を熱愛した妻と彼の熱愛した犬と暮らしている」という相当な人物で、コルビジェが彼の画廊の見学を希望したとき日時を指定し、都合がつかないコルビジェが別の日時を希望する手紙を出したら、封を切らないまま、クソタレと表に書かれて返送されてきたという。(松下注:封を切らないで、どうしてそのようなことが書いてあるとわかったのだろうか?) もちろんラッセルとうまくいくはずもなく、解職の、訴訟のと、ドタバタが続く。このころ旧知のアインシュタインを訪ね、ゲーデルとも会っているが、当然ながら(ゲーデルとは)調子は合わなかったようだ。(松下注:ここも、自分が批判されたから気が合わない、といった誤解を与えそうな書き方となっている。)
 こうしてアメリカも住みにくく、72歳になってケンブリッジに復帰することになる。弟子のウィトゲンシュタインを含めて多くの反対者もあったというが、1944年、アメリカ軍のノルマンディー上陸にさきがけて、ラッセル一家は大西洋をわたることになる。
 戦後は労働党政府と癒着して、上院議員としてすっかり体制派と思われ、文化勲賞やノーベル文学賞を貰っている。ところが80歳になって、別居していたパトリシアと離婚してアメリカの作家のエディスと4度目の結婚、最初の短篇小説集『郊外の悪魔』(1953年)を出したころから、最後の活動が始まる。おりしも世界は冷戦の時代である。いままで80年間哲学者として暮らしてきたから、これからの80年問は小説家として暮らす、と言っていたのに。
 1954年、ビキニ環礁の水爆実験に原水爆禁止のアピール、1955年にパグウォシュ会議(松下注:1955年はラッセル=アインシュタイン声明が出された年であり、第1回パグウォシュ会議がカナダで開催されたのは1957年のこと)、1957年にはフルシチョフとアイゼンハウアーに公開状、これは1962年のキューバ危機でフルシチョフとケネディに電報を打ったのと同じスタイルだが、圧巻は1961年の非合法直接行動である。百人委員会を結成して委員長となり、国防省にデモ坐りこみで逮捕、10月はトラファルガー広場の市民不服従運動の大集会、12月は核兵器基地にデモ、ラッセルはときに87歳だった。
 90代はヴェトナム反戦である。1963年にラッセル平和財団を設立、1965年のアメリカ帝国主義弾劾、1967年のサルトルなどとのヴェトナム法廷へと続く。この時期のラッセルについては、1世紀間の世界中の知識人が登場人物である『自伝』全3巻(1967-1969)の執筆のほかは、すべてヴェトナムだった。(松下注:ヴェトナムの比重は大きかったが、ヴェトナムだけでなく、世界中の、戦争と平和の問題で重要なものには、発言)。1970年、96歳(満97歳、数えで98歳のまちがい)で死亡、中近東危機にあたっての声明が絶筆であった。しかしそれからも何度か、ヴェトナムの娘たちはB52(アメリカの爆撃機)の燃える炎を眺めねばならなかった。