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沢田允茂「バートランド・ラッセルと論理学」
表紙 発刊のことば 目次  p.1 p.2 p.3 p.4 p.5 p.6 p.7 p.8 p.9 p.10 p.11 p.12 p.13 p.14 p.15 p.16 p.17 p.18 p.19 p.20 p.21 p.22 p.23 p.24 p.25 p.26 p.27 p.28 p.29 p.30 p.31 p.32 p.33 p.34 p.35 p.36 p.37 p.38 p.39 p.40 p.41 p.42 p.43 p.44 p.45 p.46 p.47 p.48 p.49 奥付
(p.21)ですから、論理学が現在のように非常に大きな力を持ってきたこと、あるいは一つのまとまった体系をとるようになった直接の原因は、何かと申しますと、ブールや、その他いろんな数学者兼論理学者によって、発展の道が大体引かれていた線上に、ラッセルがホワイトヘッド(A. N. Whitehead, 1861-1947)との共著によって『数学原理』(1910-1913)を著わしたことによるといえるのです。ラッセルの功績と申しますと、勿論、現在の平和運動も一つの社会的な功績であろうとも思われます。しかしこれはラッセルでなくても、やれたかもしれません。ラッセルが偉かったから影響力をもち得たということですけれども、他の人に出来なかった大きな功績は論理学の体系化であったと言うことが出来ますし、皮肉なようですけれども、ラッセルのそれから後の思想というものは、彼の考え出した哲学の基本的な思考方法の非常にうまくない適用の仕方だったともいえるのではないかと思われます。こういうと、ラッセルはまだ生きておりますので怒るかもしれませんが、しかし、それは決してラッセル自身をけなしているわけではないので、それだけラッセルの関心が広かったために、論理の厳密な思考方法だけを追求していくには余りにも偉大な人物であったというふうに言ってよろしいのではないかと思います。
 さて、ラッセルは、今までのブールなどのような数学の表現方法だけに頼っていたやり方を、もう少し違った式であらわす努力をします。使っている式や記号はブールなどよりなんとなくなじみのないものですが、(次のページに続く)