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沢田允茂「バートランド・ラッセルと論理学」
表紙 発刊のことば 目次  p.1 p.2 p.3 p.4 p.5 p.6 p.7 p.8 p.9 p.10 p.11 p.12 p.13 p.14 p.15 p.16 p.17 p.18 p.19 p.20 p.21 p.22 p.23 p.24 p.25 p.26 p.27 p.28 p.29 p.30 p.31 p.32 p.33 p.34 p.35 p.36 p.37 p.38 p.39 p.40 p.41 p.42 p.43 p.44 p.45 p.46 p.47 p.48 p.49 奥付
(p.3)その前に、すでに古代のアリストテレス(Aristoteles, 384-322 B. C.)以来の論理学があったということはいうまでもありません。有名なカント(I. Kant, 1724-1804)の表現に「論理学はアリストテレス以来進歩もしないけれど、後退もしなかった」とありますが、非常に偉いカントが言った為に、多くの人には、もう論理学は出来上がってしまった学問であるというような印象を、今世紀の初めまで持ちつづけてきましたし、また人によっては現在でもなおそういうことを信じている人もあるかとも思います。しかし事実はそうではなかったわけであります。
 そんなわけで、最初にアリストテレスの論理学とは一体どんな性格を持っているのか、そして、それは、西洋の、従って我々も影響を受けている、物の考え方にどんな影響を与えているのかという点から問題を説き起こしてみたいと思います。アリストテレスの論理学というのは、私達がしゃべる或いは書くところの言明とか陳述−或いは命題ともよんでいます(つまり文で表現すれば、主語と述語から成っているわけですが)のなかの主語の概念と述語の概念といったものを取り出して、これ等の間の含み含まれる関係を中心にして出来上がっております。例えば「人間は動物である」という時には、すべて人間と呼ばれるものを含む(そういうものをクラスと呼んでいますが)、(次ページに続く)