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野村博「ラッセルの初邦訳書における'伏せ字'と思想の自由」
野村著『自由の探求』(世界思想社、1981年刊)pp.119-145.

* 野村博氏(1926〜 )は、(元)仏教大学社会学部教授。京大倫理学科卒。著書に『新訂・ラッセルの社会思想』(法律文化社、1979年)がある。
*ラッセルの著作は、ラッセルが来日した前後(大正時代)に社会思想関係を中心に多数邦訳出版されました。大正デモクラシーという、民主主義の萌芽が見られる時代にあっても、ラッセル思想は当時の日本からすれば「進みすぎており(危険思想であり)」、ラッセルの発言の一部(特に国家や天皇制などをとりあげたところ)には"伏せ字"がもちいられました。本日は、「伏せ字」の問題を扱った野村博氏のイントロ部分だけをご紹介しておきます。残りは、大学図書館でお読みになられるか、ご購読ください。(2002.12.16:松下)

 はじめに

 1920年(大正9年)、北京大学からジョン・デューイ(John Dewey, 1859-1952)の次に哲学を講ずべく招待を受けて訪中したバートランド・ラッセル(Bertrand Russell, 1872-1970)は、その仕事を終えての帰途、創刊して間もない改造社の周旋(しゅうせん)によって12日間を日本で過ごした。この間の経緯については、元『改造』編集長であった横関愛造氏の「日本に来たラッセル卿」という「日本バートランド・ラッセル協会」の『会報』第2号の記事で詳しく述べられている。
 1921年(大正10年)の夏、北京から神戸についたラッセルは、京都では都ホテルにおける京都大学その他の学者27人との懇談会、東京では慶応義塾大学講堂における講演会など、きわめて多忙なスケジュールをこなして、横浜から出港したようである。

 ところで、ラッセルが日本へ招かれたのは、『社会改造の原理』(Principles of Social Reconstruction)の著者としてではなかったかと想像される。というのは、この書の高橋五郎氏による日本語訳が1919年(大正8年)11月に出版されるまでは、ラッセルの著書は邦訳されておらず、したがって、原書でラッセルを読む少数の人々を除いて一般の日本人にとっては、彼について知るところがなかったと考えられるからである
 ラッセルのこの最初の邦訳書は、しかし、男子普通選挙(1925年)を実現させた大正デモクラシー運動が、いわば反対給付的に、普通選挙の担い手となるはずの勤労大衆の思想と行動を強く拘束する治安維持法の制定(1925年)を招き出すような時代背景であっただけに、日の目を見るのがそれほど容易ではなかったと思われる。というのも、事実、この邦訳書には合計5箇所にわたる抹消・伏せ字の部分が存在するからである。なるほど、この訳書の発行は治安維持法が制定される以前ではあるが、しかし、すでに1900年(明治33年)に制定されていた治安警察法が言論・集会・結社に対しても厳格な取り締まりを行なっていたのである。
 いったい、この邦訳書のどんな箇所が読者の目に触れないように伏せられていたのだろうか。この点について検討を加えてみたいと思う。今日からすれば、笑止千万ともいうべきこの問題も、思想の自由の観点からは由々しい大問題であると考えられるからである。
 ・・・以下略