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村上啓夫「バートランド・ラッセル小伝」(1929年)

* 出典:バートランド・ラッセル(著),村上啓夫(訳)『社会改造の原理』(『コール、ラッセル、ケルゼン』(春秋社1929年5月刊/世界大思想全集v.45)所収
* 原著:Principles of Social Reconstruction, 1916.
* 村上啓夫(むらかみ・ひろお、1899-1969):翻訳家

 バートランド・ラッセルは、1872年5月18日、英国モンマース州に生れた。彼の組父ロード・ジョン・ラッセルは、有名な政治家で、前後2回に亙つて、英国首相の栄職を務めた人であり、父は子爵であった。ラッセルはケンブリッチ大学の出身で、其処で数学と哲学とを専攻した。卒業後はケンブリッチ大学のフェローとなり、次いで同大学トリニティ・カレッヂの講師となった。彼の最初の著作『ドイツ社会民主主義』が発表されたのは1896年、まだ25歳の時であった。彼が以前から如何に社会問題の研究に深い興味を持っていたかは、これによっても知ることができる。しかし彼の最初の専門は数学であった。数学に関する彼の著作中最も有名なものは、1910年から1913年に亙つて、ホワイトヘッドと協力の下に公刊された『数学原理』(Principia Mathematica)3巻である。
 これよりさき、既に彼は1900年に『ライプニッツの哲学』を書き、また1901年には「数学と純正哲学者」と題する論文をアメリカのインターナショナル・マンスリー誌上に発表した。この一文は、彼の主張する数学と論理学との一致を論じた点に於いて、また数理的論理学の発展の上に将来の新哲学的論理筆を予測した点に於いて、極めて重要な意味をもっている。1902年、彼は「自由人の尊崇」を書き、翌年「独立評論」(Independent Review)誌上に発表した。これは自由及び自由人の意義を説いたもので、思想家としての彼の存在を始めて一般的ならしめたものである。その後、欧州大戦に至るまで、彼にはなお優れた哲学的著作が少くなかったが、要するにラッセルの名を一躍世界的ならしめたものは、欧州戦乱後に於ける彼の社会思想家としての活動である。彼の鋭利な批評眼は、当時全欧を席捲した愛国的好戦熱の渦中にあって、よく国際的資本主義戦争の正体を看破し、飽くまで非戦論を絶叫して屈しなかった。当時の彼の熱烈な諸論文は、1915年に出版された論集『戦時に於ける正義』(Justice in War TIme)の中に収められている。1916年にには、社会思想家ラッセルの主著ともいうべき『社会改造の原理』が公けにされ、1917年には『政治の理想』が発表された。
 ラッセルは、それらの言論行動のために英国政府の厳しい弾圧を受け、ケンブリッチ大学の数学教授の椅子を追われたばかりでなく、1916年9月には、以後官憲の許可なしに禁止区域に出入することを禁ずという命令を受けとった。その後彼に対する官憲の圧迫は益々峻烈を加え、遂に一パンフレット事件のために彼は捕えられて投獄されるに至った。1918年4月のことである。『社会改造の原理』に次ぐ名著『自由への道』は、この入獄の前日に脱稿されたものであり、また『数理哲学概論』は、獄中に於ける述作だといわれている。
 出獄後、彼の社会思想家としての位置は、却って益々高まり、それ以来、彼は世界的評論家として知らるるに至った。その後彼は、英国労働代表の一行に加わって、親しくソビエト・ロシアを視察して帰り、その詳細な視察記を公にした。また数年前、北京大学に招聘され、約1年間滞在したが、その帰途日本を訪うて、わが国思想界にセンセーションを起したことは、記憶に新なところである。英国へ帰国後は、下院議員として、未来の自由社会建設のために雄飛せんとしている。(松下注:落選した。)