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牧野力「ラッセル・人と作品 - 囚人2917号、姓名 Bertrand Russell」

* 出典:『りいぶる』(全国大学生活協同組合連合会)1964年4月30日号,pp.10-14.
* 牧野力氏(1909-1994)は当時、早稲田大学政経学部教授、ラッセル協会常任理事<


ラッセルの言葉366
 今日(1964年当時)、西欧のみならず、世界的に、人類の知恵・世紀の良心と仰がれているラッセル卿を語る一文に、このような表題(注:囚人2917号)をつけると、奇矯のそしりを受けるかもしれない。しかし、若き世代に知られているラッセル卿は、九十余歳の老躯をも顧みず、核戦争回避や核兵器軍縮の実践運動の先頭に立つ姿である。あるいは、日本の文化勲章に相当し、英国人にとり最高の栄誉である勲功章(オーダー・オブ・メリット)とノーベル文学賞とを1950年(松下注:Order of Merit は1949年)に授与されたことであろう。ところが、彼はイギリス貴族の中でも最も由緒正しい名門の出であるのに、二世紀にまたがって彼の歩いている道は波瀾万丈である。二回も投獄され、両回とも、平和を念願する彼の信念と行動との帰結であった。

 ラッセルを語る時、彼の専門分野である数学・哲学・記号論理学などの学問上の功績にふれるコースと人間社会諸事百般・政治・経済・教育・其他に対する彼の思想を紹介するコースとがあり、また、それら両分野における彼の発想がもつ有機的関係を解明するコースもあろう。
 しかし、人類存続と平和堅持とが一切に優先する今日において、平和主義者ラッセルを中心に語ることは当然であり、恐らく、読者諸君が心中に懐くラッセルの映像にも、焦点が合わされることになろう。もしこれが不当でなければ、この表題も許容してもらえるのであるまいか。

 さて、今日のラッセルの萌芽は幼き日のラッセルに見出せる。その意味で、先づ、大学卒業までの彼について、点描粗述したい。

 1872年5月18日、彼は、英国史上著名な人物であるジョン・ラッセル卿の孫として誕生した。彼は幼くして、インフルエンザにかかった母親と姉と死別し、其後一年余りで父とも死別した。兄フランクと彼とが生き残った時、彼はまだ4才にもなっていなかった(右写真:4歳頃のラッセル)。しかし、母親の残した手紙によれば、生れた当時のラッセルは、「とても肥って…眼が青く離れていて、あまりアゴがありません。…とても元気で…こんなに筋骨たくましい子供は珍らしいそうです。…」という姿であった。ここに、あの長命と精力、そして近影の示す風貌とがあらわれている。彼は兄と共に、祖父母の膝下で育てられた。祖父ジョンは、ヴィクトリア女王(時代)の首相を勤め、「国士は、人民の公僕たるべし」と主張する自由主義者であった。祖母は、「群衆のなす悪事に追随せず、正義にそむく王候の企図を粉砕する」精神をもって孫を育てた。そして、急進的な自由主義と、この古風な清教徒主義との家庭にはドイツ婦人やスイス婦人が孫の家庭教師に雇われていた。彼は英語をおぼえると同時にドイツ語をおぼえて行った。
 今日のラッセルに見られる「自ら省みて直ければ(正しければ)、千万人といえどもわれ行かん」という、あのたくましさやしんの強さも祖母の躾けの当然の結果と思われる。また、想像力と思索力とに溢れた彼は、五才の時、地球が円いと教えられて、信ずることができず、地面に穴を堀って、本当にオーストラリアに出られるかどうか、たしかめようとしたそうである。この話から、真理を追求し、確証を求めてやまない情熱を内に抱く少年の姿が読みとれよう。11才の時、兄フランクからユークリッドの幾何学を教えてもらった。その時、幾何学の出発点がそれ自体は証明されえず、だだ信用する以外にない諸公理である、ということを知り、失望し、兄を困らせた。そして、ユークリッド諸公理の検討をしたい気持ちを抱いた。これは後年、ケンブリッジ大学の卒業論文のテーマ(松下注:学部の卒論ではなく、修士論文のテーマ)となって展開したし、数学の基礎について11歳のバートランド少年の頭に浮かんだこの疑問は、この日以来、あの数学の古典的著述とも称すべき『プリンキピア・マテマテイカ』の完成に至るまで、ラッセルの生活を支配することになった。ここに一つ面白い話がある。彼が掛け算表(九九の表)を初めて覚える時に、泣くほど苦労した事、初め代数がひどく嫌いであった事、大学で数学を専攻する頃、計算問題や問題解答の点で、彼は必ずしも第一人者でなく、ラッセルより正解者がいた事などである。これは(愚鈍な筆者には、親近感を抱かせるところであるが)論理学者として大成するラッセルが相手の発言内容を理解し、ただ受け入れるということよりも、常に、彼自身の内側から湧き出る気持に根ざして確証しながら積み重ねて行かないと気のすまないというような頭の働き方の現われであるまいか。そして、自分自身の思考法から納得しない限り、妥協せず、前進しないという性格を示すところではないだろうか。
 少年時代の孤独な生活体験は彼の知的な発達を助長し、抽象的思索の面で最高の境地に達しながら、普通の人間についての理解の点ではいささか遅れていたようであった。大学受験のため、家庭における勉強を総仕上げする意味で、受験学習指導を目的とする「速成塾」に入り、一般には6年もかかって覚える古典的知識を1年半で終了し、ケンブリッジ入学者のための奨学金を獲得した。ドイツ、フランス、イタリアなどの数学者や哲学者の著書を原語で読みこなす実力を養う機会を与えた彼の家庭教育は、むしろ、月並みな学校勉学よりも、彼の大成に有効であった。彼の父方と母方との祖父母たちは、独・仏・伊語を流暢にあやつって、外国の貴顕(貴賓)をもてなすという風であった。
 1890年10月、彼は18才でケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに入学した。数学と自然科学とではケンブリッジの方がオックスフォード大学より進んでいたし、彼は数学の専攻を希望していた。三年間は数学を、最後の一年で哲学を勉強した。この時期に、後世名を為す非凡な学生たちと交際した。気の合ったグループのメンバーと、土曜日の晩に各自の部室に陣どって深夜まで議論し、翌朝、朝食を共にし、終日うちそろって散歩し、議論にふけった。
 彼は最早祖母たちの膝下で暮す少年ではなかった。ケンブリッジでも一番頭のよい人々が彼の話に耳を聴けるのに気づいて嬉しかった。こういう学生同士の議論で彼は直ぐ頭角をあらわした。そして、新たなる成長の世界へと入って行った。彼は大学を卒業すると、恋愛問題もからんで、パリの英大使館の名誉アタッシェになり、渡仏したが、1894年12月、22才で、5才年長のアリスとロンドンで結婚した。
 著書60余冊、掲載論文無数、というラッセルは、関心の多様さと性格の複雑さとでは凡俗を超えている。彼は、「頭が悪くなって数学ができなくなると哲学をはじめ、今度はまた頭が悪くなって哲学もだめになると、歴史に手をつけた」と言っている。11才から38才までの間、最大の関心が数学の基礎問題で、65才ごろから以後はこの分野の仕事を続行するのに見切りをつけた。しかし、この彼の'言い方'にはふくみがある。彼は数学と哲学とに基本的な関心を抱きながらも、結婚の翌年ベルリンに妻と赴いた時、経済学を勉強し、また、彼の最初の著書は政治に関するもの(『ドイツ社会民主主義論』German Social Democracy, 1896)であった。従って、作品年表的でなしに、題目中心に話を進めよう。

 表題の意味を生かして、平和主義者ラッセルについて語ると、彼の平和活動は第一次世界大戦当時にさかのぼる。第一次大戦当時、第二次大戦中、第二次大戦後、昨今と分けられよう。何故かと言えば、彼の平和論には一貫性がないと批判する人もあり、この理由がどこから来るかにもふれなければならないからである。(極く最近では、キューバ事件で、彼が単独にフルシチョフと連絡した点をとり上げて、英国労働党は彼を '赤' として弾劾する動きさえ見せた。かかる誤解が一般的にも存在するからである。)
 第一次大戦当時、有名な経済学者ケインズらは、良心的徴兵拒否者として、戦争反対をとなえていたが、内地勤務(大蔵省詰め)という形の免除資格をえていた。ラッセルのように世間から白眼視され、投獄される程ではなかった。ラッセルは、彼に内面的な影響を与える問題として、戦争を受けとめ、絶望感に襲われたが、やがて敢然と積極的反戦運動へと立ち上った。「全身全霊を傾けて」という彼自身の言葉通りの活動だった。「徴兵反対同盟」の委員会のメンバーとして、抗議パンフレットの執筆もやり、1916年6月には、その執筆論文のことで、起訴され有罪と決まり、罰金百ポンドを科せられた。これは、彼が母校から講師の職を解任されるという精神的打撃を招いた。しかし、平和運動をつづけられたし、その間に行った一連の講演をまとめて、同年、『社会再建の原理』(The Principles of Social Reconstruction)を出版した。翌年、労働組合員に行なう講演をまとめて、『政治理想』(Political Ideals)なる一書が刊行されたが、英国では、1962年に初めて出版された。(この本は、約半世紀たった今でも出版する意義を失わず、国有国営や国家社会主義(ステイト・ソシァリズム)の功罪・明暗を論じている点で示唆的である。) 当時彼は、バス代に事欠く程、財政的に困っていた由。彼を遂に投獄に追いやった原因は、徴兵反対同盟の週刊誌「ザ・トリビューナル」に掲載した巻頭論文であった。米軍に関する論評が、厄介者扱いされていたラッセルに緘口令をしく手段に利用された観がある。6カ月間第2部禁錮と宣告され、囚人2917号と番号づけられた。1918年年5月のことであった。
 獄中で彼は『数理哲学序説』(Introduction to Mathematical Philosophy)の執筆に専念した。T.S.エリオットが兄フランク・ラッセルとマッカーシーと獄中訪問を行い、彼らは看守の監視下で楽しく談笑した。ここで、ラッセルの囚人観を附記したい。「この囚人連中が平均よりも悪人であるとは私には思えない。唯、顔つきから判断すると、意志の点ではどうも普通人よりも劣るようである。」 彼の人間の衝動に関する所見、教育論に照らすと参考になろう。1917年の末頃になると、戦争終結後の平和的建設準備へと思いをめぐらせていた。
 第一次大戦で反戦に挺身した彼も、第二次大戦の時、ヒットラーに征服されるよりも、戦争する方がよい、と言った。戦後から今日までの平和活動も勿論、最近は、ラッセル平和財団を設立し、(「世界」昭39年3月号所載)、平和運動の強化を計っている。ところが、彼は戦争論で、戦争の種別を分類し、その性格から、責められない戦争(入植開発をめぐる戦争)、正当視される主義(プリンシプル)のための戦争、大抵不当のことが多い自衛戦争、否認さるべき威信保持策上のため行う戦争の区分をしたり、世界政府のための武力行使を容認したりするので、徹底した平和主義者を刺激する。前述の第一次大戦と第二次大戦との態度の差と共に、彼の平和主義が首尾一貫しないという論拠にされている。
 第一次大戦当時、彼は客観的倫理価値の存在を信ぜず、論理のなしうる限界を強調し、また、純粋に道徳的なあるいは純粋に合理的な理由にもとづいて戦争を否認することはできなかかったという事情や功利主義的な議論のすすめ方の癖などを考え合せると、唯、否定と肯定との対比だけをとりあげないで、何かほかの発想法の拠点から、この対比の底を洗う必要があろう。
 第二次大戦を肯定したのは、ヒットラーの全体主義が人間信頼に反する事実を示し、これを撲滅しようと念願したからである。第一次大戦反応した心情は、『政治理想』の中で語っている言葉の意味からもくみとれよう。
 「今迄悪いと思っていたことは、矢張り悪いことだったのが判った。今迄の政治的交渉や取引は、全然別な考え方に基く'政治理想'に立脚しない限り、人類の苦悩・惨事の源となって来た悪因縁を断つことはできない。」だから、従前通りの考えで行う政治の破綻としての戦争の愚劣さを是以上続行させたくないという気持になる。誤った理想、愚劣な考え方がもたらす生き方の悲惨から、人間を救いたい願いが反戦となった。
 打倒ヒットラー戦の肯定は、ナチズムが人間をスポイルする生き方であり、人間不信を助成するものであると考え、全体主義から人類を救うという願いから出た。『民主主義とは何か』の論文中に強調されているが、精神的自由、民主主義、人間肯定、個性尊重などは全体主義否定につながり、第二次大戦肯定の言葉に変る(松下注:ラッセルはヒットラーなどの全体主義に対する戦いを是認しているのであり、第二次世界大戦全体を肯定しているわけではない。)。両大戦にとったラッセルの態度の対照的なのは、両戦争の性格の差に反応する姿、現われの差であって、反応の原動力は一貫した人間肯定と個性尊重の精神である。それらをめぐって、目的と手段、論理の立て方に、ラッセルの個性的な面が強調されて、末端において、ハッキリした差が目立ち、あるいは、酷評の対象、材料を提供するのであろう。しかし、核心は不動である。
 専門分野の研究において、ラッセルの業績のあとを遡ってゆくと、自説を頑強に固執して老化・硬化するよりも、虚心坦壊に非を悟ると、いさぎよく自説を捨て、異質的要素を吸収し、体系の拡充を計る面があると聞く。「相反相成」が事物生成の相に見られ、拡充の姿に異質的なものが認められる以上、末端の対比、矛盾のみに着目するのもおかしい。
 第二次大戦後から今日までの彼の平和達成の努力を凝視すれば、前述の矛盾指摘の酷評も弱められるのではあるまいか。核戦争、特に原子エネルギーの兵器利用に関する彼の発言は、1923年出版『原子入門』以来のもので、むしろ、予言的性格を常びている。従って、その関心も深く、広島・長崎被爆以後、1950年以降に出版されたラッセルの新たに書き下ろされた著書は、核兵器問題を中心に、国際政治、科学、社会、人類の歩むべき道としての世界政府について論ぜられている。
 『人類に未来があるか』(Has Man a Future? 1962年、理想社)は、人類の歩むべき道の理念と時局的施策との両面から書かれた平和探求の書である。英米軍事協定にもり込まれた '次善教義'(事前協議?) の限界と危険性とにふれ、英国のNATO離脱と安保条約を観る一観点である。
 キューバ事件は、全世界を核戦争の脅威のどん底に追い込んだ。ラッセルは関係国元首と不眠不休の打電連絡を行ない、危機の局面打開を計った。その事件の経過や往復した電文が公開された。(『武器なき勝利』理想社,1963年)彼は、平和を念願する世界の人々に、刻々展開する事態の真相を伝えようと、新聞や放送への公表を試みたが、殆んど果されなかった。商業新聞と御用新聞とに疎外される実状を公表する必要があった。善意の人々を誤報誤導から守る必要を痛感したラッセルは、前述のラッセル平和財団設立を計画したのであろう。政治色、政党色に染まらぬ厳正中立、真正の情報を世界に弘布する国際的放送機関をもちたいという企図である。
 平和運動が社会党と共産党とに独占されようとして、分裂するわが国の事情に、如何なる論拠があるか不明であるが、少くとも、ラッセルはこれに同調しないように思われる。筆者には、その是非を論ずる能力も資格もないが、世界のどこかで生起する重大事態について、着色されない生のままの実情が一日も早く世界中の人々に知れ渡るのは望ましい。その意味で、ラッセル平和財団の健全な成長を待望する。1964年も、フランスの投じた中共承認の一石から、世界も多事多難の年を迎えた。ラッセルの非暴力非服従運動も激しさを増すことであろう。

 さて、ラッセルの予言者的な面に話題を転じよう。彼自身、自分を(が)予言者とみなされるのを喜ばないことは明白である。しかし、彼が自ら考究した問題についての結論は、概して的中して、後でその正しさが事実となって立証されたことも少くない。そして、例外なく発言当時は白眼視されている。その予言者的な面は、彼が事物の関係を的確に把握し、その論理関係をつきとめるのに敏なることにあるのかとも思う。スターリン存命中に、雪解けへの可能性をハッキリと述べ、西欧人に沈着と知恵ある態度をとるようにと説いている。政治の面だけでなく、経済学の面でも、また然り。1935年出版『怠惰礼讃』(邦訳:角川書店)の中に述べられる物の見方は、ケインズ経済学に先行している。(ラッセルは1895年、ベルリンで、『資本論』全三巻を周到を極めた研究により読破し、マルクスの功績を認めながらも、その論理的な誤謬を詳細に指摘しているそうである。ラッセル自身も社会主義者であり、『共産党宣言』を、「ほとんど比類ない文学的価値をもち、・・・、歴史洞察の点で、古今の政治文献中最高のものであると私は信ずる」とまで賞賛しているが、マルクスの憎悪の哲学と論理的誤りを犯す考え方とを批判している。彼の反スターリン的発言も徹底していて、何らの妥協も見せなかった。だから、「イギリスの食人種的イデオロギスト」とコミンフォルム・ジャーナルに酷評された。しかし、フルシチョフに対しては正反対である。キューバ事件当時、世界中で唯一人の正気な指導者と公言し、フルシチョフを米軍の実力に後退した臆病者と視る西欧の見解をたしなめている。しかし、彼が今日フルシチョフあるいは周恩来に味方する理由は、共産主義に同調する故でなく、中ソの方が米英よりも平和堅持の努力を払う事実を重視するからであり、今一番大切なのは、共産主義と資本主義との功罪論ではなく、人類の存続と核戦争回避とが一切に優先するからであると、彼は明言している。
 最後に蛇足ながら、ラッセルに関する入門書的記事を記して、拙稿を終る。

(A)巨人ラッセルに何らかの意識を感ずる若きエネルギーの持ち主で英文に自信のある方は、Human Knowledge; its scope and limits(London, Allen & Unwin, 1948)や My Philosophical Development(London; Allen & Unwin, 1959)
 国際政治面では、Has Man a Future? から順次、関心度の高い著作に深入りされては如何。彼の言いまわし方の特色とか前置詞の使いかたなどへの注意は、意味論や記号論理学を彼が説いているだけに、概念内容とその表象の癖という点で面白い材料を提供してくれそうである。
(B)多忙なのに多読する方には、ラッセル著作集15冊(みすず書房)や戦後著作の一部(理想社)がある。
(C)ラッセルの人柄と業績とを要領よくその中心をつかみたい方には、次のものがある。
 イ)『自伝的回想』(ラッセル著作集・第1巻)
 ロ)『バートランド・ラッセル-情熱の懐擬家-』(アラン・ウッド著、碧海純一訳、みすず書房刊)
 ハ)『ラッセル』(碧海純一著、勁草書房)

 (ロ)は一読をすすめたい好著で、筆者もこの一文をものする上で恩恵に与ったことを明記しておく。巨人すぎて、ラッセルの人と作品の紹介研究は必要であるのに、誰も尻込みして、余りない。作品中心で、ハ)は恰好である。多作なラッセルの著作リストは、重要なものだけでも編纂に骨が折れる。だから完備したものはない。Penguinシリーズのポケット版の一部に出ている四十冊の著作表で、一応、用が足りよう。後は自分でつくるより外ない。(了)