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ブライアン・マギー「プロの哲学者vs.アマチュアの哲学者」
『哲学人(てつがくびと)』上巻(日本放送出版協会、2001年3月刊)pp.335-350(=第12章).

*ブライアン・マギー(1930年〜 )は、オックスフォード大学で史学、哲学、政治学を、エール大学で哲学を学ぶ。テレビ・ラジオの哲学解説番組の制作・出演、及び、執筆活動を通して、哲学をわかりやすく紹介している。国会議員も経験。
*訳者:須田朗監訳、近藤隆文訳


*標題は「プロの哲学者vs.アマチュアの哲学者」となっているが、これは「職業哲学者vs.在野の哲学者」とした方が誤解が少ないかも知れない。「プロ」の哲学者とは、大学など(アカデミズムの世界)で哲学の教育研究をしている(教育研究活動により給料を得ている)哲学者のことを言い、アマチュアの哲学者とは、収入を哲学の教育研究以外から得ている(たとえば、アカデミズムの世界に身をおかずに、執筆活動・評論活動等で生計をたてている)在野の哲学者を指すと思われる。そういう意味では、ブライアン・マギーはアマチュア(在野の)哲学者である。B.ラッセルは、大学で教えたこともたびたびあるが、在野にいた期間の方が長いので、(「プロでもありアマでもある」、どちらの限定もつかない)「哲学者」と言うことになる。
*先頭の次の3節を省略してあります。:「文筆と政治という本職のための第3の仕事」「学界の外にあって自由に知的関心を追求する生活」「政治活動の知的根拠として求めた政治哲学」


 ラッセルを読む

 (政治哲学の分野以外で)私が読んだもうひとつの特別な分野は、バートランド・ラッセルの作品群だった。ラッセルは当時の名士であり、政治方面で目立った活動をしていた。哲学への最新の貢献は、『人間の知識−その範囲と限界』(Human Knowledge; its scope and limits, 1948)で、これは少し前の1948年に発表されていた。私が学部生だったころ、彼の名は哲学的な討論の場で絶えず取りざたされたが、その作品は学生の必読書とされてはいなかった。例外は論理学を専攻する者だけであり、したがって、読まれていたとしても、それは一般の哲学に関する著書ではない。ラッセルはオックスフォード哲学を退屈でくだらないと公言し、蔑みをこめて否定したが、それに対してオックスフォード学派のほうは、礼儀を踏まえてラッセルを否定した。この学問におけるラッセルの歴史的意義に異論を唱えることはできなかったものの、彼らはラッセルという人物についてこう語ったのである。その業績は一時代には重要だったが、すでに新たな発展に取って代わられており、彼はそれについてこられなかった。その発展とは、われわれオックスフォード学派の成果である、と。

 論理学の刷新

 哲学者としてのラッセルのキャリアは、ひとつひとつ、順を追って理解していくのがいちばんである。もともとラッセルは数学者としてスタートした。彼の『自伝』に、11歳のときに、兄のフランクから幾何学を教わりはじめた際の興味深い話しが載っている(ラッセルは15歳になるまで、家庭で教育を受けていた)。慣例どおり公理から開始されたのだが、幼いバーティはすぐさまその根拠の証明を求めた。フランクは、これは証明できない、とにかく正しいものとして認めなさいと答えた。ところがバーティは納得しなかった。フランクがいらいらして、この公理を認めないと先へ進めないと告げた。それで結局、バーティは好奇心から、公理を暫定的に受け入れることに同意した。そこから何が導かれるのか知りたかったのである。はたして、そこから導かれたものは「私の人生の一大事であり、初恋のような輝きに彩られていた。世の中にこれほどすばらしいものがあるとは想像だにしなかった…そのときから38歳でアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドとの共著『プリンキピア・マテマティカ』を完成させるまで、数学は私の主な興味の的であり、主な幸福の源であった(2)」。ラッセルがケンブリッジで最初に受けた学位試験は数学だった。子どものころに覚えた当面の留保を、考え直す時がきたわけである。それどころか、その留保が「私のその後の仕事の分野を決定づけた」とも彼は述べている。ラッセルは、数学そのものの基礎について深く(こう言ってよければ、創造的に)頭を悩ませていた。彼が哲学に本当の意味で大きな貢献をしたのも、この分野が最初だった。
 どんな種類の論証もそうだが、あらゆる数学の証明も、どこかからはじめなくてはならない。それには、ひとつ(もしくは複数)の前提だけでなく、手続きに関するひとつ(もしくは複数)の規則も必要である。ところで、この前提と手続きの規則は、論証によって証明することができない。もしそれができるとしたら、その論証は循環論証ということになる。つまり自分が証明すべき事柄を、当然のこととして前提していることになるからである。これはすなわち、あらゆる論証、あらゆる立証、あらゆる論理的証明は、いかに厳密なものでも、前提と手続きの規則を、それが正しいという理由づけを示すことなく、それぞれひとつはかならず想定しなければならないということである。すると誰かがこんなことを言うかもしれない。「それはそうだが、そういう前提や手続きの規則は、まったく任意のものというわけではない。空中からでたらめにつかみとられたものではないのだ。あらゆる真剣な知的活動のなかで、それらは注意深く自己批判をしながら選び抜かれている。確かに、この論証では前提されていることは間違いない。だがもとをたどれば、ほかの、それ以前の論証の結論として到達したものなのであって、その論証のなかでは根拠の確かな推理によって、裏付けを得ているのだ」。けれども、これに対する返答は、つぎのようなものとなる。そうしたほかの、以前の論証にしても、立証されていない前提からはじまったはずで、確証のない手続きの規則を用いたにちがいない。こうして私たちは無限遡行におちいる。おのれの正しさを示すような論証までさかのぼるのは、いつまでたっても不可能である。確かさの一階部分(グラウンドフロア)には、少なくとも論証の階段だけではたどり着くことはできない。ひとつにはこの理由から、経験論の流れを汲む哲学者たちは、真理をめぐる有効な推理は、すべて最終的に直接の観察や経験まで戻らなくてはならないと主張してきた。これは、一連の推理の結論であるからではなく、直接経験されたという理由から真であるとわかるものまで戻らなくてはならないということである。この見解では、現実の記述を意図しても経験までさかのぼれないものは、いわば宙に漂っていることになる。ショーペンハウアー(Arthur Schoupenhauer,1788-1860)も似たようなことを述べている。「究極的に知覚に至らない概念と抽象は、出口にたどり着くことなしに途切れる森のなかの道のようなものだ(3)」。この記述を経験的言明にあてはまるとみなすと、さらに別の疑問が浮上してくる。これは数学にもあてはまるだろうか? ここには、数学も突きつめれば、経験から推論されたとの主張がこめられているのだろうか? もしそうだとすると、その経験とはどんなものか、どんなものでありうるのか、という疑問は、はなはだ解きにくい。逆に、そうした主張がこめられていないとしたら、数学の基礎とはなんなのだろうか? 自己充足する前提も、自己正当化できる手続きの規則も、一連の数学的推理などの、いかなる論証によっても立証できないのだとしたら・・・?
 これが、ラッセルが心血をそそいだ最初の大問題だった。当初ラッセルは耳にしたことがなかったが、彼より一世代前のドイツ人数学者であるフレーゲ(Gottlob Frege, 1848-1925)が、イエナ大学で、長年にわたり人知れず同じ問題に取り組んでいた。青年ラッセルが数年に及ぶ骨の折れる作業によって成し遂げた先駆的発見は、彼にとっては未知だったものの、すでになされていたわけである。独自に研究を進めていたとはいえ、ふたりの人物がたどり着いたのは、本質的に同じ結論だった。すなわち、数学全体は究極的に論理学の基本的原理に帰することができる、というものである。ふたりはともに、まず算術を例にと、これを実際に論証することを試み、最終的には数学全体について論証したいと考えた。実際、ラッセルはそれが目的だと公言している。そこで、もしもこのふたりの着想が正しいとすれば、数学の全体は、純粋に論理学上の前提から段階を踏んでいくことによって、確実に演繹可能な必然の真理体系であると実証されることになる。
 ラッセルはこの理論の基礎を、1903年発表の名著『数学原理』(The Principles of Mathematics)で示した。このときにはすでに、遅まきながらフレーゲを発見していたため、この本のなかではフレーゲに敬意が表されている。それにしても、数学全体が論理学に還元できると宣言するのと、実際に還元してみせることで、そのように還元できることを論証するのは別の話である。ラッセルは後者の計画を、自身の指導教授であったホワイトヘッドと協力し、『プリンキピア・マテマティカ』と呼ばれる大著で実行に移そうとした。ふたりは10年ほど共同で取り組み、分厚い3冊の書物を著している。4冊めも計画されたが、発表されることはなかった。とはいえ、未完ではあるものの、これは画期的な作品であり、時がたつにつれてその影響力を専門的な論理学の分野のみならず、哲学全体に及ぼすこととなる。
 しかもその影響力は一元的なものではなかった。少なくとも19世紀まで、論理学の基礎は、2000年以上前にアリストテレスが残したのとほぼ同じ状態にあったカントの『純粋理性批判』第2版の序文がその証拠である。
「論理学が太古の昔よりこの確実な道を歩んできたのは、アリストテレス以来、一歩も後退を強いられていないという事実から明らかである。もっとも、無用の難解さを削除したり、すでに理解されている教えをより明晰に解説したりすることを改良とみなす場合はそのかぎりでない。が、こうした事柄はこの学問の確実性というより、洗練にかかわるものである。一方、今日に至るまでこの論理学が一歩も前進できず、そのためどう見ても完結した学問体系であることも注目に値する」。
 けれども、数字の全体が論理学の原理から必然的に導かれることを示せるのだとすれば、数学の全体を論理学の一部とみなさなくてはならない。だが、これはつまり、何世紀にもわたってこの学問全体を構成するものとされてきたアリストテレス論理学が、いまやその一部でしかないと暴かれたということである。そう悟ったことがはずみとなって、論理学への関心が国際的に復活し、今日に至るまでつづいている。フレーゲとラッセルが創始した新たな解釈による論理学は、現在、世界中のあらゆる主要大学で活発な研究が進められている

 日常言語の真の論理構造を明らかにする分析手法

 おそらくラッセルにとって、つぎのように自問して、新しい論理学の技法を日常的な言語による言明に適用するのは自然なステップだったのだろう。「かくかくしかじかと言うとき、われわれは正確には何を言っているのか?」。たとえば、フランスには国王がいないのに「フランス国王は禿げている」と言うとき、私たちは正確には何を言っているのか? 何かを言っているだろうか? この例は瑣末なものだが、ここにはごく一般的なかたちの経験的言明にかかわる深刻な問題がある。医療研究者から原子物理学者に至るまで、あらゆる分野の科学者が、まだ存在を確信できないもの、あるかもしれないものについて語ることができたらいいのにと考えているのだ。かりに私の考える解答が、「フランスには国王などいないのだから、その発言には意昧がない」というものだとしたら、あなたはきっとこう反論するだろう。「でも、いいですか、'スウェーデン国王は禿げている'という言明は偽ですよね。だとすると、この言明は少なくとも意味はもつはずです。それともあなたは、スウェーデンに国王がいるかどうかを知らないうちは(知らない人は大勢いるにちがいない)、その言明は理解できない、つまり意味をもたないと言うのですか? どう考えてもそれはナンセンスです。実際は、誰もがその言明を完璧に理解できる。スウェーデンに国王がいると知っているかどうかは関係ありません」。しかしだからといって、「フランス国王は禿げている」という言明が意味をもつと認めれば、新たなジレンマに直面することになる。それは真なのか、それとも偽なのか? フランスに国王がいないとしたら、フランス国王は禿げていると言うことがどうして真でありうるのか、わからない。かといって、どうして偽と言えるのかがすぐにわかるわけでもない。これは、事実に関する、意味をもつ言明には、真でも偽でもないものがありうると考えざるをえないということだろうか? そんな譲歩をしてやっかいな状況を招きたくはない。かいつまんで解説しよう。
 1905年発表の論文「指示について」(On Denoting)で、ラッセルは「かくかくしかじかは何々」という形式のあらゆる言明に関するあの有名な分析を行なっているが、ここで彼は、こうした言明の隠れた論理構造はつぎのように表現できると結論づけている。「フランス国王という性質をそれだけがもっていて、禿げてもいる何者かが存在する(松下注:[#1]現在フランス国王として君臨している「もの(x)」が1つ存在する。[#2]そして「そのもの(x)は禿げている。→aであるもの(x)が一つだけ存在する。そしてそのもの(x)はbである。)。このように表現すれば、フランスに国王がいない場合、その最初の([#1]の)言明は偽であることが暴かれる。ラッセルの分析によって、最初は明晰とはとても言えなかった普通の表現形式の真の論理構造が明らかになり、それによって私たちは、以前はできなかった真偽の確定が可能な立場に身を置くことになるわけである。(参考:「フランス国王は禿げというのは・・・?」
 人々は世界に関する間違いのない言明を定式化しようとこれまで試みてきたが、そうした試みにとって、この新種の分析は歴史上、大きな意義をもっていた。私たちの考えを明晰にしてその正当性を立証する試みに、まったく新たな展望を切り開いたのである。これを端緒とする発展が、20世紀の大半を通じて英語圏の哲学を支配してきた。その発展とは言明の分析であり、不明瞭な論理構造や文中に含まれる不明瞭な意昧の相違を浮かびあがらせることを目的としている。その意味で、バートランド・ラッセルは現代の分析哲学の創始者と言えるだろう。かりにラッセルが提出した哲学の積極的な主張がすべて退けられ、忘れ去られたとしても、彼が依然として哲学史上の重要人物であるのはこの理由による。だが、彼の継承者の多くと比べた場合、ラッセルに関してはふたつの点を肝に銘じておかなくてはならない。まず(第1に)、ラッセルは分析そのものを目的とみなしてはいなかった。彼はそれを手段として提唱した。私たちの言明が本当に意味することや、それを受け入れたときに強いられることを明確にする方法として提唱したのである。こうすれば、私たちは自分の行動に対する自覚を強め、それを受け人れるなり拒絶するなりできるからだ。この方法が、重要な言明やわかりにくい言明に用いた場合にのみ価値をもち、そのねらいが常に世界についての、現実についての、物のあり方についての理解を明晰にすることであるのは、ラッセルにとって当然のことだった。言明の真偽が問題になる場合にかぎり、この厳密な技法を適用する価値はあるのであって、言明の重要性は分析プロセス自身のうちにあるわけではない。もっとも、その活動全体が循環論証におちいってしまう場合は別であるが。私たちが分析の対象にしているからといって、その言明が重要になることはありえない。その言明は重要であるという理由があって初めて、分析することができるのだ。重要性は、分析によって明らかにされることはあっても、分析から派生することはない。分析という活動は、その活動の外に目的がなければ意義はないのである。

 現実の哲学的理解を求めたラッセル

 ここから、ラッセルに関して銘記しなくてはならない第2の点が導かれる。彼は分析のみで構成されるとする哲学観を理解できず、まじめな人物がどうしてそんな見解を抱けるのかわからなかったのである晩年のラッセルは、哲学の目的とは従来考えられてきたとおり、私たち自身を含めた現実の本質を理解するることだと信じていた。この理解に貢献できる知の分野は多岐にわたる。科学、歴史、諸言語による文学、心理学など、数多くの分野があるだろう。だからこそラッセルは、そのような多くのテーマにおのずと関心をもったのであり、自然体の、気取りのない博識家であったのだ。実を言うと、生涯の大半は、科学者になればよかったとの思いから逃れられずにいた。アインシュタインの研究によって現実についての理解がどれだけ拡大されたかを知り、自分の実績に物足りなさを感じたのである。とはいえ、ラッセルなら科学者になるのもわけなかったろうが(現代物理学に造詣が深く、数学の知識はどんな物理学者と比べても遜色なかった)、その選択をしなかったという事実に変わりはない。それは、彼が本当に求めていたものが、結局、哲学的な理解であったからだと思う。科学者になっても、遅かれ早かれ数学に関して行なったのと同じ計画を、つまり理論的基礎の発見と立証の試みを、科学に関して開始したことだろう。偉大な科学哲学者にはなったかもしれない。だが、アインシュタインのような業績を成し遂げられたかどうかは疑問である。
 科学がみずから現実の根本的性質について特定の見解を確立することはないし、それは不可能である。このことをラッセルは、はっきりと理解していた(今日でもこれを理解できない人は少なくない)。科学か行なうのは(これは人類が遂げた最大級の知的かつ文化的業績なのだが)、扱うことのできるものすべてを根源的なレベルの説明に還元することである。たとえば物理学は、それが扱う現象を、エネルギー、光、質料、速度、温度、重力などに関する恒等式に還元する。だが、それ以上のことはしてくれない。その根源的なレベルの説明について、基本的な疑問をぶつけられると、科学者は答えに窮する。これは科学者や科学の側に落ち度があるからではない。科学者も科学もできることはしている。「では、厳密にはエネルギーとはなんであるのか教えてもらえますか? それからあなたが始終用いている数学の基礎とはなんなのでしょうか?」と訊かれて、物理学者が答えられなくてもそれで面目を失うことはない。こうした質問は物理学者の領分ではないのである。ここで物理学者は哲学者に一任する。科学は、私たちが究極的な説明を求めるものの正体を理解するのに無類の貢献をするけれども、科学自体はその究極的な説明なりえない。科学は現象を説明するが、その際に使われる用語は説明されないからである。
 多くの現役の科学者は、科学がひとつの究極的な説明を示唆しているのはわかりきったことだととらえている。それは、彼らによると、唯物論的な説明である。けれども現実全体に関する唯物論的見解は一種の形而上学であって、科学理論ではない。それを科学的に証明あるいは反証できる可能性はまったくないのである。実際、多くの科学者がその見解を抱いていても、だからといってそれが科学理論であるということにはならない。その見解を(疑いなく)多くの経済学者が抱いていても経済理論とは言えないのと同じである。科学は、たがいに相容れない多様な形而上学的諸見解と両立できるのだ。きわめて先駆的な20世紀の科学者のなかには、アインシュタイン自身もそうだったように、神を信じていた者がいる。量子力学の創始者であるシュレディンガーは、仏教に魅せられていた。個人にとって、科学の主張を全面的に受け入れることと、非唯物論的な信念を抱くことに矛盾はないし、そうしたことはこれまでもよくあったことである。逆のことを信じ込んでいる人も依然として数多いが、ようやくこの認識が広まりつつあるようである。こうした実情を見てラッセルは、個人の科学的業績をどれだけ積み上げても、だからといって究極的な理解のレベルに到達するとはかぎらないと判断した。それがきっと、彼が哲学者でありつづけた理由なのだろう。ラッセルは哲学者としての半生を費やして、認識される現実に関する究極的な哲学的説明は、科学哲学と論理学の哲学によるものであるとの見解に、満足しなかった。科学でも論理学でもそれぞれに失敗したのである。
 1931年、ゲーデルがあの有名な証明「不完全性定理」を発表した。一貫性のある形式的体系においては、その体系外の基準を参照しなければ真偽が定まらない命題は、明確に述べることができない、というものである。これは、すべてに関する説明どころか、わずかなことに関しても明晰で完璧な説明を確立するという希望に致死の一撃を浴びせた。たとえ、ラッセルとホワイトヘッドが数学のすべてを論理学の原理に還元することに成功したとしても、その論理学の原理を立証するものは、依然としてその体系の外側に残されたことだろう。それに、実はゲーデルが定理を発表するずっと前から、ラッセルとホワイトヘッドヘッドには、自分たちが目的を遂げられなかったことがわかっていたのである。とはいえ、あらゆる偉大な哲学は、欠点のある、一個の虚説だが、多くのことも教えてくれる。このことは確かに、『プリンキピア・マティマティカ』に収められた仕事にあてはまる。自然言語の分析に適用した場合は、なおさらである。

 哲学から左翼的政治思想、そして哲学に回帰したラッセルの執筆活動

 30歳代後半までは、数学と論理学に夢中だったこともあって、ラッセルは40歳を迎えた年にようやく、最初の哲学書を発表した。(松下注:ラッセルは1900年にThe Philosophy of Leibnizを出版している。これはライプニッツ研究史上重要な著作であり、そのことはマギーも知っていると思われるがどうしたことだろう。この本はライプニッツの論理思想について述べているので、哲学書と考えなかったのだろうか?) それは『哲学の諸問題』(The Problems of Philsophy, 1912)という小品で、1912年に「家庭大学叢書」(松下注:これはシリーズ名)から、一般向けの人門書として刊行されたものである。私の意見では、これはある特殊な点において、一般書の模範であると言える。初心者にとってわかりやすいと同時に、新しい思想も含まれているので、専門家にとっても興味深く重要なのである。だが、『哲学における科学的方法を適用すべき一分野としての、外界の知識』(Our Knowledge of the External World as a Field for Scientific Method in Philosophy, 1914)という示唆に冨む題名で、1914年に出版された次作こそ、私にとってはいまでも最も魅力的なラッセルの哲学書である。ラッセルは次々に書物を著し(なかでも、1921年の『心の分析』(The Analysis of Mind,が興味深い)、やがてその精力は長期にわたって、哲学から左翼的社会・政治思想の普及にそそがれることとなった。彼はこの時期にも執筆をつづけたが、こちらの著書は改革連動的なジャーナリズムにすぎなかった。多大な影響力があり、優秀な青年たちの人格形成に寄与はしたが、当然のことながら、こうした書物に対する興味は長続きしない。知の経歴の後半になると、ラッセルは哲学に復帰し、3冊の傑作を生み出した。1940年の『意味と真理の探究』(An Inquiry into Meaning and Truth)、1948年の『人間の知識−その範囲と限界』(Human Knowledge; its scope and limits)、そして1959年の『私の哲学の発展』(My Philosophical Development)である。
 
 哲学者が自著について本を書くのは新しいことではなかった。最も知られている例は、いまでもニーチェの『この人を見よ』だろうが、その最良の例は私の知るかぎり、ラッセルの『私の哲学の発展』である。読む前の私は軽い作品だろうと、予想していた。大衆向きを意図した、老人の回想録(出版された年、ラッセルは87歳だった)なのだろう、と。ところがこの本はそんなものではない。稠密な構成と凝った文体の、哲学を真剣学ぶ者を対象とした内容のある書物で、あのラッセルの伝説的な明晰さも備えており、しかも読者が知らない可能性があろうと、歩み寄ることはしない。まるでラッセルが三歩下がって生涯の仕事をあらためて、はっきり見渡したかのような作品で、仕事を正確に要約するだけでなく、その発展の経緯をわかりやすくたどり、類まれな洞察力をもって解説している。60年を超える並みたいていでない熟考の成果がおさめられ、知的滋養もたっぷり詰め込まれている。さらに、著作が特別な権威であるという利点もある。これこれの本で伝えようとした主眼は p であるとか、あのように言ったときの真意は q であるとラッセルが言えば、それはほかの誰かが言う場合とわけが違うし、普通ならそれで問題をめぐる議論に決着がつくはずである。この本は過小評価されているが、いすれ今よりはるかに尊重されるようになるのではないだろうか
 それにひきかえ、1946年(松下注:英国は1946年だが、米国では1945年出版)に出版されたラッセルの『西洋哲学史』(A History of Western Philsophy)は、過大評価されている。スペースにかぎりがあるとはいえ、どの重要な哲学者の活動についても説明は充分ではない。扱い方も全編を通じて、軽薄とは言わないまでも浅薄である。たとえば、無数にちりばめられた皮肉はおもしろいが、その対象にとっては不当なもので、この類のことは日常会話では楽しめるけれども、初心者向きの哲学書にはふさわしくない。この本のどこでもラッセルは思想に取り組むことがなく、知性の面でも感情の面でも、しかるべき真剣さで思想を論じてさえいない。あれだけの才能があるにもかかわらず、ラッセルはカントを、ひいてはカントの著作から発展した哲学の伝統全体をまったく理解できずにいる。ショーペンハウアーの章は、ラッセルがこの哲学者の主著を一度も読んでいないことと矛盾しない。確かに、この本は、歴史と哲学の該博な知識がある人物にしか書けなかっただろうが、所詮は寄せ集めである。(松下注:『西洋哲学史』は、ラッセルの主著の一つにあげる論者もいれば、マギーのように酷評する人もいて、評価のわかれる本である。この本は、米国においてラッセルが経済的困窮状態にある時に、バーンズ博士に救われ、バーンズ財団における一般向けの公開講座で話されたものを本にしたものである。いわゆる専門家向けの、書き下ろしの哲学史ではない。しかし、古代から現代までをカバーする哲学史で一級の哲学者が書いた哲学史はラッセルのこの本しかないのではないか)
 ラッセル自身、『西洋哲学史』の成功には面食らった。この本は軽い気持ちで書いたもので、執筆中も、よもやこれが重要な著作であるとは思いもしなかった。金(松下注:生活費)目あての愚作(←どういう英語の訳だろうか?)、生涯教育の授業用に書きためたノートの山を転用する手だてと見ていたのである。一時期、ラッセルは合衆国に滞在中、第二次世界大戦のためにイギリスに帰ることができず、アメリカの大学で職を得ることもかなわないことがあった。彼の発表した性行動に関する見解を根拠に、現地の裁判所から、青年の教育に不適格と判断されたためである。生活費を稼ぐ必要に迫られ、ラッセルはやむなくフィラデルフィア(松下注:バーンズ財団)で生涯教育に携わった。その成果が『西洋哲学史』として残っているわけである。私見では、そもそも生涯教育の授業用に構想されたということから、この本に関するたいていのことは説明がつく。知的浅薄さ、あるいは徹底した堅苦しさの回避。楽しませようという断固たる決意。哲学とそれを生み出す政治・社会状況を関連づける、という公言された計画(これは実現していないし、それが可能だったとも思えない)。キリスト教哲学に割り振られたひどく不釣りあいなスペース(この本のためにノートをまとめたときの社会状況に関係があるのではないかと思う)。世界中でベストセラーとなったこと。堅苦しさがなく、そして、娯楽性と明晰さ備えているために、哲学的な問題を真剣に受け止める覚悟のできていない数十万という読者には気に入られるのだろう。また、一部の人にとっては仲介本として機能し、哲学に引きこむ効果をもつのかも知れない。その一方で、哲学は頭を悩ませるに値しないと思いこんでしまう人も同じくらいいるかもしれないし、この本を読んだのだから哲学はわかったと錯覚を抱く人もいるだろう。長所について考慮しても、この本にはそれほど読む価値はない。
 ラッセルによる最後の本格的な哲学書は、自分の作品全般を振り返った『私の哲学の発展』の前の、『人間の知識−その範囲と限界』である。私の考えでは、これは生涯にわたる経験論的世界観の確かな根拠の探究のなかで、最終的にたどり着いた立場の総括を意図したものである。しかも、その探究が失敗に終わったことがこの本では認識されている。書名が何を喚起させるか意識しているのかはわからないが、それはカントを連想させずにはおかない。人生の大半を通じてカント哲学を退け、ヒュームが到達した地点から哲学的探究を前進させようと試みた末に、不本意ながらラッセルは結局、カントは正しかったことを認めざるをえないと感じるのである。もっとも、その告白のなかで挙げられるのはカントの名ではなく、カントの最も基本的な学説にすぎないのは見逃せないが。世界に関する知識を獲得する試みは、ア・プリオリでないが経験からは導けないある種の「因果法則」か「要請」を適用しないかぎり不可能であると、ラッセルは認める(これは本人の言葉である)。これを適用して初めて、世界の体系は一貫して、経験に基づく原理のみにしたがって築くことができるのだ、と。この本の最後のパラグラフをラッセルは次のよう言葉ではじめている。「しかし、われわれの要請が、このように、いわば経験論的 "香り" のある枠組みにおさまるとしても、その要請に関するわれわれの知識が、われわれの知るかぎり、経験を根拠とすることなどありえないのは否定できない(もっとも、その要請の実証可能な結果はすべて経験によって確認されるようなものだろうが)。この意味で、知識論としての経験論はやはり不充分であると認めざるをえない…」(松下注:「不十分」とはいっているが、経験論はダメだとは言っていない。)
 カントの死後150年になろうという時期に、半世紀以上も自分のために独創的な思索を重ね、カント的を退けてきた天才的な経験論哲学者がこの結論に行き着いたのだった。そんな悲劇が起きたのも、ラッセルが到達するまでに生涯の大半を要し、心ならずも認めた、まさにその地点が、カントの出発点だったためである。青年期にカントを受け入れてさえいれば、ラッセルは終着点となった地点から哲学者としてのキャリアをスタートできたことだろう。記号論理学の分野で、独自の、非常に創造的な思索に励んだ数年間を、すでにフレーゲが成し遂げていた研究に捧げたように、ラッセルは哲学でも偉大なキャリアのすべてを費やして、経験論にはカントが示した理由による根本的な欠点があるとの結論にたどり着いた。何より皮肉なのは、カント自身がこの洞察を直接学んだ哲学者がヒュームであったことである。
 こうした不幸は、知の歴史を顧みるとある程度、説明がつくように思う。これまで、カントの哲学がイギリスで一般に認められたことは一度もない。19世紀後半にケンブリッジの哲学を支配したドイツ観念論は、へーゲル哲学であってカント哲学ではないし、マクタガートなど、同大学の著名な人々は、新ヘーゲル派という、妥当な名称で呼ばれている。ラッセルとムーアは、その伝統のなかで教育を受けたのである。私たちはつい忘れがちだが、ラッセルが最初に発表した著作は、新ヘーゲル主義風のものだった。ラッセルとムーアが知的環境に反抗し、カントを吸収しないまま、へ一ゲルと新へ一ゲル主義を拒絶したという負の事実は、きわめて重要である(松下注:ラッセルの最初の著書、ただし出版は遅れて2冊目は、An Essay on the Foundations of Geometry, 1897 であり、カントの幾何学をテーマにしている。)。彼らはドイツ観念論を知りつくしたとみなしたが、実は一度としてカントをみずからの血肉としたことがなかった。彼らがドイツ観念論を退けた際の批判は、ヘーゲル哲学にはあてはまったものの、本質的にカントに対しては適当でなかった。つまり、この一連のプロセスを通じて、カントは無用なものといっしょに捨てられた貴重品だったわけである。このため青年ラッセルは、カントを読めばわかることを学ばずじまいで、カントの出発点に到達するのに生涯にわたる独自の思索が必要となった。こうした理由から、私はラッセルの本のどれかが将来的に哲学の学生にとって、必読の書となるとは思わない。記号論理学の先駆的研究にしても、当然のことながら、その後の成果によって押しのけられている。

 ラッセルを読む楽しさ

 こうしたことにもかかわらず、ラッセルを読むのは楽しいし、と同時に得るところもある。まず第1に、彼の作品は実におもしろく、それに匹敵する哲学者はごくわずかしかいない(古代ギリシア・ローマ以降では、ショーペンハウアーとニーチェぐらいのものだろう)。主題がどんなにやっかいだろうと関係なく、ラッセルの書くものはいつも明晰で、ときにそれは驚異的なほどだが、この明晰さは自分を殺すことで得られるものではない。それどころか、その散文には、かならず鋭い個性がある。何について書こうと、そこで述べていることを考察するに際しての、より広範な背景も伝えられるので、その著作の至るところに完全な世界観が存在する。ラッセルの文章は常に洗練されていて粋なうえに、たいていおもしろい(おもしろい哲学は大いに歓迎されるはずだ)。とにかく彼の書くもののほとんどが楽しいのである。深刻なテーマについて書くことを志す者なら、語られる内容の専門性や難解さにかかわらず、軽妙に処理する方法を、何かしらラッセルに学ぶことができるだろう。
 第2にラッセルは、経験論に基づく研究を成し遂げようとしたきわめて才能のある哲学者の、20世紀における代表例である。ロック、バークリ、ヒューム、ミル、そしてアメリカのプラグマティストたちの偉業を後ろ盾として、ラッセルは苦心しつつ、勇敢に次々と本を書きあげていく。まず、ある方法で目的を追究するが、結局この試みは容認できない立場や矛盾に導かれるとの結論を余儀なくされると、そのたびに別の方法で行なってみる。その結果、次の本、もしくは、続く何冊かの本では方針を変更するのである。自らの見解から生じた問題を認めてそれに立ち向かうラッセルの知的誠実さは、称讃に値する。実際、ラッセルとともにこうした道筋をたどるのは、哲学に関心のある者には教育上ためになる経験であるし、楽しいだけになおさら身につきやすい。当然、どの本も望みどおりの発見にはたどり着かない探求であり、したがって批判に耐えられる立場の声明ではなく、たいていの場合は、著者自身があとになっても堅持したいと願うような立場を表明するものでさえなかった。だが、その作品群全体が、さまざまな点で哲学的探求の理想的な実行方法を、そして経験論の何が擁護できないのかを具体的かつ詳細に示す実例なので、結局のところ、アングロ・サクソン文化圏の経験論の伝統のなかで育った者にとって肝心なのは、経験論を捨て去らなくてはならない理由を知ることなのである。
 第3に、ラッセルは、これまでのところ、最も影響力のある20世紀の哲学者である。彼は分析哲学を創始した。ほとんど知名度のなかったフレーゲの作品を「発見」し、国際的にその情報を広めて関心を喚起した。ウィトゲンシュタインを哲学に引き込んだのはラッセルの著作だった。若きウィトゲンシュタインは、ケンブリッジに移って、ラッセルのもとで学ぶために、マンチェスター大学での航空工学の研究を放棄したのである。すでに述べたように、ラッセルはウイーン学団の知的創始者であり、学団のメンバーはほかの誰よりもラッセルが正しい道筋をつけてくれたのだとみなしていた。学団一才能に恵まれたルドルフ・カルナップは、合理的な思考を可能にする人工言語、自然言語に特有の論理的不純物がない人工言語の構築という課題に取り組んだが、彼はその際、ラッセルが生み出した可能性を実現し、ラッセルの要求を満たすのだと自認していた。クワインは、プロとしての経歴をカルナップの研究を想像力豊かに広げることでスターとし、終生カルナップとラッセルを崇敬した。カール・ポパーは、母国語のドイツ語による執筆をやめて英語で書き始めるという難題に挑むにあたり、ラッセルの文体に範を仰いだ。A.J.エイヤーはラッセルを英雄と崇め、彼の散文スタイルばかりか、ライフスタイルをも意識的に模倣した。このように、ラッセルは彼につづく英話圏のきわめて重要な哲学者たちに、さまざまな直接的な影響を与えたのである。
 第4として、ラッセルは時代を代表する人物のひとりでもあった。18世紀のフランスのヴォルテールと同じく、ラッセルその人が、彼の暮らした社会を理解するのに欠かせないのである。首相の孫として伯爵の位を相続したラッセルは、幼いころからその社会のなかで特権的な地位にあり、日頃からあらゆる分野の名士や社交界の人々に会っていた。彼は一連の急進的でリベラルな社会的姿勢の主唱者となったが、その代表例は、第一次世界大戦に対する反戦連動、性的寛容という信条、そして検閲廃止論だろう。こうした姿勢は、1960年代にようやく認められ、老境にあったラッセルは過激な若者たちのヒーローとなった。だが、それまで数10年にわたって派手な宜伝沽動をしてきたラッセルは、しばしば時代のはるか先をいっていたため、同時代の人々のショックばかりか嫌悪感を招くほどだった。確かにラッセルは利用できるあらゆる手を使って宣伝をくり広げた。並みはずれて幅広い交際範囲のなかで、数多い知人の有力者たちを絶えずけしかける。講義や講演をする。書物や論文を執筆する。まずはラジオで、のちにはテレビで放送する。選挙への出馬。学校の設立。似たような考え方をする人たちの作品に注目を集める。こうしたことはすべて、はた目に揺るぎない自信だけでなく、情熱と様式、そしてあの見事な明晰さ、さらには涸れることのないユーモアに支えられていた。20世紀最後の3分の1におけるイギリスの自由主義社会の特徴となる生き方を予見することにかけて、彼は最高の予言者にして、最高の表現者だった。未来の歴史家が、バートランド・ラッセルを熟知せずにその時代を理解できるとは考えにくい



(1)Bryan Magee, Modern British Philosophy, p.88.
(2)Bertrand Russell, The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, p.36
(3)Arthur Schoupenhauer, The World as Will and Representation, v.2, p.82.