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ブライアン・マギー「ラッセルと知り合う」
『哲学人(てつがくびと)上巻(日本放送出版協会、
2001年3月刊)pp.335-350(=第12章).

*B.マギー(Bryan Magee, 1930〜 )は、オックスフォード大学で史学、哲学、政治学を、エール大学で哲学を学ぶ。テレビ・ラジオの哲学解説番組の制作・出演、及び、執筆活動を通して、哲学をわかりやすく紹介している。国会議員も経験。
*訳者:須田朗監訳、近藤隆文訳
*B.マギーのこの文章は、かなり公平かつ客観的な視点で書かれている。ただし、一時期、ソ連に対する予防戦争をラッセルが唱えたと言われかねない発言をしたという指摘は否定できないと思われるが、「ラッセルは政治理論上の問題と実践上の問題を混同した・区別できなかった」という指摘は、(誤解を与えそうな発言をした一部の時期を除いて)当たっているとは思えない。また、筆者がビーコン・ヒル・スクール(実験学校)の意義をまったく認めていないのは、理解不足であるように思われる。


 民放番組の編集者としてラッセルにアプローチする

 たいていの人がひとりの天才とも知りあわずに人生を終えるなか、ふたりの天才と知りあえたことを私はたいへんな幸運と考えている。1959年(=著者29歳)、私はATVの番組制作者として生計をたてていた。ATVというのは、イギリスで民間のテレビ放送が開始された1955年に創立された民放テレヒ局のひとつである。当時の私はまだ画面には登場せず、編集という肩書きで、特別番組やドキュメンタリー番組のテーマや出演者を考え、必要な材料を集めてプロデューサーに渡す仕事をしていた。プロデューサーがテーマについてさほど知らなくても、その素材の一式があれば番組をつくれるようにするわけである。年が押しつまってきたころ、それまで30分番組しかつくったことのなかった私は、初めて一時間のドキュメンタリーを任された。私はこの番組で、迫りくる地球の人口過剰を訴えることにした。また、この長さの番組では内容とテンポに変化をつけることが肝要に思われたので、強烈でめずらしいフィルムを大量に集め、図やグラフを使って統計値をたくみに動かす方法を考案し、さらに、ふたつのスタジオ・インタビューを盛りこむことに決めた。私が選んだ出演者は、当時のイギリスで最も著名だった生物学者のジュリアン・ハクスリー、そしてバートランド・ラッセルだった。
 12月のある日、私は北ウェールズにあるラッセルの自宅に電話をかけた。すると本人が電話に出たので、私は少しばかり意外に思った。話をはじめた当初より、ラッセルがこのプロジェクトに興味を覚えたのは明らかだったが、はっきり返事をする前に私も局もまじめなものをつくるつもりなのか確認したいとのことだった。当時、いわゆる教養のある人たちは民放テレビに深い疑いを抱いていた。というより、たいがいの人は見なかった。いまとなってはばからしく思えるが、確かに中流階級と上流階級の大半はBBCを見て、労働者階級の人々はたいてい民放を見ていたのである。ラッセルは結局つぎのような意味のことを言ったと思う(実際にどう言ったかは覚えていない)。「引き受ける前に、きみと会って直接この件について話をしたい」。私が了承すると、彼は87歳の身に冬場のロンドンヘの遠出はこたえるので、ウェールズまでご足労ねがえないだろうかと言った。私はこれも承知し、1959年のクリスマスから1960年の元日にかけての週に、列車で北ウェールズに向かい、ペンリンダイドライスにある自宅にラッセルを訪ねることになった。

 初めての自宅への訪問で知ったラッセルの素顔

 申しあわせたとおり、私は朝食後まもない時間帯に到着した。ラッセルの身体つきを見ての第一印象は、実に小さいというものだった。ポパー(K. Popper)も背丈は似たり寄ったりだったが、彼の場合はがっしりしていて身のこなしが力強くゆったりしているという印象も同時に与えたのに対し、ラッセルは鳥のようにか弱く、華奢(きゃしゃ)で活発で、機敏だった。身体の動きと頭の回転の速さは、あの年齢にすれば尋常でなかった
 妻(=エディス)は流感で床についており、おもてなしできなくて申しわけなく思っているとラッセルは説明した。そして、いろいろと世話を焼いてくれたのだが、その気の遣いようは、きっと奥さんの不在を埋めあわせしたいのだろうと、こちらが誤解するほどだった。コートを脱がせてくれ、それをどこにどうやって掛けようかと気をもみ、私を居間に案内して、ソファの座り心地がよくなるよう気を配り、クッションをふっくらさせる。そのうち私も気づいたのだが、彼にはヴィクトリア女王時代の上品な作法が身についていて、客人が誰であろうと名士並みのもてなしをするのが常だったのである(マギーは当時、29歳の若者!)私たちは例のテレビ番組について心ゆくまで話しあい、やがて彼は出演を承諾してくれた。仕事の話が片づくと、彼は私のことを尋ね、熱心な哲学の研究家だとわかると、会話はまた一段と活気づいた
 ラッセルは長時間にわたって、オックスフォードやイェール(Yale Univ.)で私が直接対面したことのある哲学者たちについて質問した。彼も噂は耳にしたことがあるが、面識はない人々についてである。つづいて私が、親しい仕事仲間として彼がよく知っている哲学者たち、とくにウィトゲンシュタイン、ホワイトヘッド、ムーアについて尋ねた。すると、刃物のように鋭い、たいていは辛辣だが愛情もこもっていて、一貫しておもしろいコメントが彼の口をついて出てきた(洞察力のある発言、傑作な逸話などである)。どんなことでもおもしろく話して、相手を思いきり笑わせてやろうとする連中がいるが、ラッセルはそうではなかった。ふだんから、誇張のない描写を喜劇的アイロニーとして使って話すので、結果的にほとんどの発言が情報に富むと同時におもしろいものとなるのである。話を聞いていてこれほど楽しい人物はいないように思う。私の経験から言って、ラッセルのように完壁にバランスのとれた無駄のない見事な文章で自分の考えを語ることができる人はほかにいない。その文章を書き記せば、気品があって徴密な構成の、ほぼ修正する余地のない散文ができあがったことだろう。実を言えば、私はのちに彼の著作でいくつも同じ文章に出くわしたし、もちろん同じ主張や逸話もたくさん見つかった。だが、たいていの人には、とっておきの話を同じ言葉でくり返すという欠点があるものだし、どのみち、これは彼の会話の一部について言えることにすぎない。私が語ったさまざまな事柄に対して、彼はけっして出来あいのものではありえない反応をしたが、そうした返事も、例によって節度のある、明瞭で破綻のない文章をなしていた。彼はこのことをいくぶん鼻にかけていて、書簡にしろ出版物にしろ、もう何十年も口述筆記でしか書いていないと私に言った。「第一次世界大戦からこのかた、署名するとき以外、ペンを使ったことはない」のだと。実際のところ、確かに彼は少々鼻にかけていたけれども、その様子は無防備で愛らしく、まるで愛矯のある利発な子どもが褒めてもらおうとしているようだった。
 私たちの意見は多くの基本的な事柄について一致していたウィトゲンシュタインの前期哲学は天才の一所産だが、後期哲学は高度に洗練された知的戯れであること。現在の哲学の正統派は、分析を哲学の唯一無二の役割として扱うというひどい誤りを犯しているが、これは哲学の道具を哲学そのものとして扱うことであるということ。そして、それは哲学ばかりかその道具まで誤用することにほかならず、もっとよい使い方をすればその道具も計り知れない力をもてるだろうということ。哲学の主な務めは、いまも昔と変わらず、世界を、あるいは世界に関する経験を理解しようという試みであること。これまでのところ、この試みの歴史には際立った成功例が2、3あるが、そのひとつは科学なので、科学は正しく実践される哲学とはとりわけ重要な関係をもたねばならないし、真摯な哲学者なら科学に対して真摯な関心を抱かずにはいられないはずだ、ということなどである。またラッセルによれば、彼が哲学者になったのは間違いで、科学者になればよかったと思うことがよくあるとのことだった。

 哲学から政治・社会に至るまでを語りあう

 当時の哲学界でラッセルと個人的に最も親しかった知人は、A.J.エイヤーだった。ラッセルはエイヤーのことを友情と誠意をこめて語ったが、頭がよくて理解が速いと思う一方で、有益な独創性はないと考えていることが明らかになった。ラッセルはエイヤーという人間が好きで、相当に物議をかもす問題に関しても間違った意見は言わない人物とみなし、すばらしい対話者、論客、批評家、教師であると評していたけれども、独自の重要な思想をもってはいないと見ていたのである。ポパーのことは、わずかに顔をあわせただけなので、独創的な人物とみなしてはいたが、彼が高く評価する『開かれた社会とその論敵』の著者として知っているにすぎなかった。ラッセルは科学哲学に関するポパーの著作を(その時まで)読んだことがなく、ポパーのことを政治哲学から離れた広い文脈でとらえたこともなかった。初の英語版が刊行されてまもなかった『科学的発見の論理』について、私が話した際にはっきりしたのだが、ポパーは反証可能性を検証可能性という意味の基準の代案として唱えているのだという一般的な誤解を、ラッセルも鵜呑みにしていた。これは、エイヤーの『言語・真理・論理』など、数多くの書物に含まれている解釈である。この話題が終わりにさしかかったころ、ラッセルは、きみに刺激されてポパーの科学哲学を読んでみたくなったよと言ったが、はたして読んだのかどうか私は知らない。
 数時間後、会話は依然として自然に湧き出ていたけれども、ここで声がかかって、私たちは昼食の席に向かった。用意をしたのはラッセル家に仕える夫婦だったが、私はその姿を見かけなかった。キッチン・テーブルの上で私たちを待ち受けていたのは、ディケンズの小説に出てくるような大きさの熱いボイルド・ハム湯気の立つ2皿の野菜料理、そして栓を抜いた赤ワインのボトルだった。ラッセルは私の肩に手を置いて木製の椅子にしっかり座らせると、大げさな身振りでハムを切り分けにかかったが、そのあいだも会話は途切れることなくつづけられた。彼と料理は私の右側に位置しているのに、ラッセルは左側から給仕する(まずハムを、つづいてふたつの野菜料理を順々に)と言って譲らず、おかげで何度も私の椅子の背後を踊るように動きまわることになった。身体が丈夫な29歳の青年だった私は、座ったまま87歳の老人にこれほど丁重なもてなしを受けて困惑した。白状すると、私たちの相対的な地位について考えたことも、その気持ちには関係していた。哲学上、歴史的に重要な、世界に名をはせる、ノーベル文学賞に輝いた人物が、自分の孫くらいの年齢の赤の他人に、ここまでまめまめしく世話をするのはおかしい、と思われたのである。少なくとも手伝うべきじゃないか、と私は思った。そこでラッセルの野菜料理を運ぼうとしたのだが、厳しく叱責されてしまった。それはホストの仕事だと言うのである。
の画像  「では、せめてワインをつがせてください」と、私はボトルに手を伸ばした。「いやいや、とんでもない」。彼はきっぱりと言い、私の手が届く前にボトルをつかみとった。「是が非でもホストがやらねばならないことがひとつあるとしたら、それはワインをつぐことだ」と言ってワインをそそいだ。
 ここで私のなかに怒りがこみあげてきた。この人はまるで気がきかない。自分の振る舞いが私を困惑させるだけだと気がついていいはずだ。形ばかりじゃなくて、本当に私の気持ちを思いやれば、こんなことはしないだろう。そんな意味のことを口に出すと、彼はうろたえることもなく、こう答えた。「わかってる、わかってる。年の差はきわめて不合理な効果をもつことがある。私も17歳のとき、グラッドストンとふたりきりでディナーをいただいたことがあるが……(注:ラッセルの著書によれば、これは芸術家らしい誇張であるようだ。実際には、ディナーの終わりにご婦人方が退席し、17歳のラッセルがひとり、ポートワインを飲むグラッドストンと残されたのである。/松下注:後に出版された『ラッセル自叙伝』にはマギーが言うように書かれている。)
 昼食のあいだに会話の方向が転じて、私が労働党の有力な議員候補であるという話になった。するとラッセルが新たに活気づいて政治・社会状況について話しはじめ、居間に引き返してから、午後いっぱいその話題はつづき、午後6時まで私たちは飽きることもなく8時間以上も活発に語りあった。この間にラッセルについて、その著書からはわからないことがいろいろと明らかになった。たとえば、彼は英語、フランス語、ドイツ語による創作文学に造詣が深く、その3つの言語の詩をたくさん引用することができた。音楽には暗かったが(これが何より悔やまれる、とラッセルは言った)、知的活動の主要分野で彼が専門家並みの該博な知識をもたないものなどないように見受けられた。世界史上の重要人物の知りあいも非常に多かった。子どものころ、イギリスの首相を務めた祖父の家で育った彼は(3歳のときには両親とも他界していた)、ふだんから国際的な名士に会うことに慣れていたし、成人してからは当人が著名となったため、この習慣がつづくこととなった。そうした有名人たちをラッセルは自然に知りあいとして引きあいに出したが、ひけらかすつもりがあったのではなく(その必要はまずなかった)、話しているうちに彼らのことがふと思い出されたからだった。例を挙げると、私がマルクス主義理論の救いようのない過ちと思われるものに触れたとき、彼はこう言った。「私もまさにその点をレーニンに指摘したのだが、わかってもらえなかった」。コンラッドに言及すれば、コンラッドがラッセルの息子のひとり(=コンラッド・ラッセル)の名づけ親で、長男・次男とも彼にちなんだ名前がつけられていることが明かされる、といった具合である。彼はどうやら、その長い生涯のあいだに「あらゆる人」と、それもごく自然に出会ってきたようだった。

の画像  私が出会った誰よりも忘れがたい人

 自分の話し相手が、パブリック・スクールや大学で習った多くの人々と顔見知りだったとわかり、私は興味をそそられた。現代史が新たに生気を帯び、私にも個人的な接点があるように感じられたのだ。トロツキーやアインシュタイン、T.S.エリオットについてどう思うかと尋ねると、ラッセルは実際に彼らのことをよく知っていたため、個人的な交流に基づく、ときに驚くほど詳しい答えが返ってきた。たとえば、ラッセルはハーヴァードでT.S.エリオットに哲学を教えたことがあり、詩人はのちにイングランドのラッセル宅に住みこんだことがある。ラッセルは話してくれなかったが、私があとで知ったところによると、エリオット夫妻がラッセルと同居していた時分、彼はエリオットの妻と関係をもったらしい。過去80余年の歴史がさまざまに彼の私生活を通過していったように思われた。そうなったのは、おそらく、いくつもの要因がまたとない仕方で重なったからだろう。ラッセルがイギリスでも数少ないきわめて有力な政治家の家系に生まれたとき、この国は帝国主義の絶頂にあり、世界に広がり、人類の四分の一を支配する帝国を形成していた。こうした事情から、一個人が享受しうるあらゆる恩恵が彼に与えられたのである。とくに、祖父が首相であったため、世界中の政府首脳が彼らの家を訪れたが、ラッセルはそれを当たり前のこととして受け止めていた同時に若きラッセルは、生まれながらにして世界でも一流の、それも政治とは関係のない活動分野の能力を有していた。かくしてラッセルは、3つの国際的な世界で最高レベルの活躍をすることとなったのである。政界、社交界、そして知の世界で
 ヴィクトリア女王が逝去されたのはラッセルが29歳の年なので、彼は文字どおりヴィクトリア女王時代のイギリス人だったことになる。もっと細かく言うなら、成人してからの最初の10年間が1890年代と重なったので、彼は世紀末のイギリス人でもあった。作法や話し方を他人にあわせて変えるような人間ではなかったため、彼の人となりはまさに19世紀の貴族そのままだった(何しろ彼は伯爵だったのである。もっとも、その多才ぶりに比べると、この事実は取るに足らないもので、ほとんど見過ごされがちだったが)。民主主義、現代的な政党、労働組合勢力、マス・メディアなどの時代にあって、成功と名声を手中におさめはしたが、ラッセルは別世界からやってきた生き物だった。さしずめ、本来の国籍を捨てずに帰化先の国で頂点にのぼりつめた移住者といったところか。それだけでも大いに尊敬するに値すると、私には感じられた。
の画像  ラッセルの時代的な特徴を実によく表していたものに、その話し方がある。ラッセルの'o'は、口を前方に大きく開き、口内に囲いこむのではなく、外に向かって発せられた。'civilization'(文明)という単語の場合は、最初の3つの'i'の発音がどれも同じで、'ee'に似ていた。また、彼は誰かの家族を指して「一門」(his people)と、誰かの親しい友人グループを「一派」(his set)と呼んだ。ヴィクトリア朝の小説の粗削りなこうした言葉も、ラッセルが口にすると生き生きと響いた。実際の声音は、甲高くて鼻にかかっていたけれども、いつも力強くてはっきりしていた。当時はよく、そのしゃべり方が真似されたものである。それもラッセルの声帯模写に加えて、典型的な哲学者像を表すためにも使われたので、出来の悪い物真似でも意図するところはすぐにわかった。
 いまでも私の心の耳には彼の声が聞こえる。その声が語るのは、この最初の対面でラッセルが口にしたことで、議論や主張や見解の全体を要約した一文である場合が多い。「宗教教育はとにかく有害だが、それは子どもたちに根拠のない事柄を信じなさいと教えるものであるからだ」「アナイアリン・ベヴァン(イギリス労働党左派の指導者)は、人類の生存より自分が外務大臣になることのほうが大事だと考えている」といった文である。これまで会ったなかでいちばん頭がよいと思うのは誰かと尋ねたとき、ラッセルは躊躇せずに答えた。「ケインズ」と。「あなたより頭がよいと本心から思ったのですか?」と訊くと、やはり躊躇なく言った。「ああ。ケインズと議論をするたびに、これは自殺行為だという気がしたものだよ」。意外な答えです、きっと「アインシュタイン」とおっしゃるだろうと予想していましたので、と言うと、アインシュタインが発揮しているのはケインズのような純粋な知性ではなく、むしろ偉大な創造芸術家の才能に類似したものと答えた。アインシュタインの業績は、知力というより想像力の深みに由来していたわけである。いままでに会ったなかでいちばんの傑物は誰ですかと尋ねたときには、ラッセルも返答を考えるのにそれまでより長い時間を要した。結局、彼が出した答えはレーニンだった。理由をただすと、レーニンは際立った知能に行動派としての天才的な能力を組みあわせることで、個人としての類まれな水準と有能さを獲得していたからだと答えた。そして、彼のように世界史のたどる道をすっかり変えてしまった人物は過去にごくわずかしかいない、と。だが、道徳面はまるで褒められたものではない、ともラッセルは言い添えた。レーニンはみずからが招いている破滅や苦難の壮大さを自慢しているも同然で、ラッセルを相手に笑いながら(レーニンは)その話をしたのだという。
 初めてラッセルに会った日ほど印象深い対話の一日を、私はいまだに経験したことがない。『リーダーズ・ダイジェスト』誌は数十年にわたって「私が出会った誰よりも忘れがたい人」という記事を毎号連載していたが、ラッセルはいまでも、私が出会った誰よりも忘れがたい人なのである。
 その最初の日以降、私たちは主としてロンドンのハスカー・ストリートにあるラッセル宅で何度か顔をあわせた。彼はよく私をお茶に招いてくれたのだが(またしてもヴィクトリア朝式の作法で)、これは、晩は疲れてしまって早めに床につかなくてはならないとの理由からだった。ラッセルのバイタリティについては、彼の精神力もさることながら、私はむしろその体力に驚きを禁じえなかった。ある主張をしている最中に本を引用したくなると、彼はいきなり椅子から立ちあがって書棚まで跳ねるように歩いていき、つま先立ちになって高い棚から本を下ろすと、すばやくソファをまわって椅子に引き返してくる。一連の動きは流れるようで、淀みない会話のなかには、努力の片鱗もうかがえず、口ごもることさえない。ラッセルの軽快な足取りと流麗な身のこなしから、私はいつも「踊る」という言葉を連想した。きっと、知力と自分の話の内容に対する絶えざる熱意がその原動力だったのだろう。

 現実的な問題を理論上の問題であるかのように扱う

 一度、ハスカー・ストリートを訪れた際にラッセルをとがめたことがある。将来の核戦争の脅威から人類を解放するため、ソビエト連邦への核爆弾投下を唱えたからだ。そんなことを言った覚えはないと彼は答えた。話が誤って伝えられてしまったのだと。彼が提唱したのは、ソ連が核兵器を開発する前に西側諸国が核の独占状態を利用して開発の断念を強要すべきだということだった。確かに、この要求の受け入れをソ連に強いるものがあるとすれば、それは受け入れない場合の核攻撃の脅威ということになるが、ソ連には応じるよりほかに選択肢がないのだから、核攻撃が実施されることはないだろう。ところが、この提案は、ラッセルがソ連への爆弾投下を唱道しているとの評判を招いてしまったのである。これはまったくの中傷だというのがラッセルの言い分だった。そこで私はつぎに会ったときに、ラッセルがソ連爆撃を唱えている原典の写しを見せてみた。彼が取り乱すのを見たのは、このときをおいてほかにない。そんなことを口走ったとはすっかり忘れていたと彼は言い、こうした忘却がほぼ間違いなくフロイト的であることを認めたが、その発言をしたのは、つい口をすべらせてしまったこの一度きりのはずで、これ以外ではいつも主張しているとおりのことを言ったのであり、それが熟慮したうえでの見解なのだと力説した。だが残念ながら、これも事実ではないようである。ラッセルは、2、3年のあいだに何度もソ連爆撃を唱えている。(松下注:『ラッセル自叙伝』第3巻掲載のラッセルによる弁明)
の画像  これは、やがてラッセルに関する私の最大の留保事項となったものを示す例である。彼は概念や言葉や思想を扱っていたが、それらが言語によらない現実の見地から見た際に何を意味するのかはほとんど理解していなかった。人間的な問題に直面すると、その間題についての正しい感じ方ではなく、正しい考え方を探し、その結果として問題も解決も生身の人間と彼らへの影響という見地からではなく、観念という見地から眺めるきらいがあった。このため、愚かなことを信じたり提案したりすることがめずらしくなかった(愚かな、というのは、生活の実相や、人々の実情や、人々に行なわせたり続行させたりすることが実際に可能な事柄とは接点がない、という意味である)。この事実がとりわけ顕著になったのは、一方的な核非武装をめざして公に活動していた晩年のことだった(私の出会った唯一のソ連への核爆弾投下唱道者が、一方的な核非武装の最も著名な公の主唱者であるのは、私にはさもありなんと思われた)。これを根拠に、ラッセルは年をとってもうろくしたと言う者が大勢いたが、実を言えば、その愚かさに年齢は少しも関係がなかった。彼はずっとそんな調子だったのである。第一次世界大戦中には、イギリス国教会が兵器工場の株主であることを理由に戦争を支持した上院(貴族院)の主教たちを非難した。みずから創設して2大戦の合間に経営していたビーコン・ヒルというおかしな学校については、のちに「理論に目がくらんでいた」と述べている。こと実践上の問題となると、もとからばかげた言動をしがちで、それも常に同じ基本的理由からだった。彼は実践上の問題を理論上の問題であるかのように扱ったのである。というより、区別がつかなかったのだろう。違いがあるのがわからなかったと言ってもいい(本人にとっても、ほかの誰にとっても、彼が議会政治に参加しなかったのは幸いだった。家族はそれを期待し、本人も初老を迎えるまではそうすべきだと思って、2、3回議員に立候補してはいるが)。実のところ、ある分野の天才である人物が、ほかの分野でここまで能力に欠けているという事情は、わりあい簡単に説明がつく。ラッセルには理論上の問題を解決する才能しかなく(きっと、ひとつにはそれが理由で)、どんな問題も理論上のものとみなす傾向があった。問題が本当に理論上のものであれば見事な手腕を発揮するが、理論上ではなく、公私の生活上の問題である場合は、大きな間違いを犯してしまう。しかも、実践的な知性が欠けていたため、経験から学ぶことはなかったに等しい。だから年をとっても、青年のころと変わらず愚かだったのである(だが、悪化はしなかった)。

 中傷や孤独に耐えながらも正しい道を進む

 その一方で、ラッセルの類まれな勇気をたたえないわけにはいかない。戦争と防衛政策に反対したために、彼は2度投獄されている。最初は6か月、2度めはわずか1週間であったものの89歳のときだった。こうした出来事や問題はともかくとしても、1960年代に社会的態度としての自由主義革命を経験した私たちは、現在であれば普通のリベラルな考え方とされる見解を1960代以前に唱えた者がどんな非難を浴びせられたのかを、残念ながら忘れがちであるラッセルは数十年にわたる不遇を堪え忍んだ。中傷を招いた姿勢のなかに、今日の基準に照らせば極端なものなどほとんどない。ラッセルは神への信仰を否定し、子どもに無理やり宗教教義を吹きこむことに反対し、姦通はかならずしも結婚生活の破綻にはつながらないと信じていた。おたがいに対してしかるべき思いやりさえもっていれば、独身の者どうしが性的関係を結ぶのはどこも間違っていないとみなし、同性愛を解禁すべきだと考えていた。従来の教育は強制と処罰に頼りすぎであり、その結果として、通常は批判的探究や創造性が妨げられているが、本来、教育はそうした方面の能力を伸ばすべきであると主張した。このような見解をもっていたため、ラッセルは敵対する多くの人々から、乱交や不倫、性的倒錯、道徳観を欠く放任式子育ての唱道者であると目された。1940年に物議をかもした事件(バートランド・ラッセル事件)では、ニューヨークの裁判官から、(ラッセルが)こうした意見を抱いているという理由で、未成年を教える資格はないとの判決を下され、第二次世界大戦中の疎開先である合衆国では大学の職に就くことができなくなった。原告側の弁護士、ジョーゼフ・ゴールドスタインは、ラッセルをこう評した。「猥褻、みだら、肉欲的、好色、色情的、扇情的、不敬、狭量、不誠実、道徳心がない
 ラッセルはさらに、共産主義ソ連の忌まわしい真実を語ったために左翼的見解を抱く人たちからも同じような扱いを受けている。左派のご多分に洩れず、彼も1917年の十月革命の報を歓迎したが、大半の人とは違って、その様子を自分の目で確かめたいと思い、現地を訪れた。そこで彼はすっかり幻滅してしまう。帰国したラッセルは一冊の本を書き、1920年に発表した。『ボルシェヴィズムの実践と理論』(邦訳『ロシア共産主義』みすず書房刊/原著:Practice and Theory of Bolshevism)と題されたその本で彼は、レーニンの革命はあらゆる基本的自由を破壊する社会を生み出しつつあり、科学や芸術においてもそれは例外ではない、と主張した。左翼の人たちはこれに憤慨した。ラッセルは数年後にこう書いている。ソ連は見たところ「ひとつの巨大な牢獄で、その看守は残酷な偏屈者だった。友人たちがそうした人々を解放者として称賛し、彼らのつくる体制を楽園とみなすのを見て、私は当惑し、疑問に思った。おかしいのは友人たちなのか、それとも私のほうなのかと」。こうした友人たちの多くは、なかにはごく親しかった者もいたというのに、ラッセルとの交際をいっさい絶ってしまった。彼はそのリベラルな社会的態度によって因習的な保守派の反感を買い、と同時にソ連の共産主義体制の真実を執拗に語りつづけたために進歩派と言われる人々からも激しい敵意を燃やされたわけである。こうした立場に関して、彼への賛同を表明した者はごくわずかだった。もっとも、やがてそこには当時のきわめて鋭敏な精神の持ち主であるオーウェルやカミュといった人々も加わり、やはりかつての友人や同僚による虚偽の発言や追放処分、中傷に苦しむことになったのだが。こうした人たちのなかでも、ラッセルは最も国際的に名を知られていたばかりか、何年も先んじた第一人者であったため、孤立していた期間も最も長い。しかし、道徳は言うに及ばず、その後の成り行きと時間によって、彼が正しかったことは完全に証明されている。ラッセルが聖書から引用したのは私の知るかぎり一度きりだが、「汝、多数にしたがって悪事を働くことなかれ」というその格言を、彼は終生、守りつづけた。愚かな発言はしたかもしれない。だが、政治、哲学、その他の活動のいずれにおいても、友人やプロの同僚たちの大半がやっているからといって、はやりのナンセンスに同調することはなかった。恥知らずにも多くの左翼人が共産主義に関して長年行なっていたように、重大な誤りだと知っていることを援助したり支援したりすることもなかった。一部の人たちとは異なり、ラッセルは結局のところ、少なくとも公的生活に関しては、道徳的に見て立派な人物だった−もっとも、晩年に向かうにつれ、政治上の論点や駆け引きに関して私は彼に大きな違和感を覚えたものだが。