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「好色貴族,B.ラッセル」
『(ザ・ワルチン・スペシャル1)世界の人物・愛と性』
(井上篤夫・訳/集英社,1974年7月刊)pp.366-371.

* ベストセラーをねらった通俗書の(人物)描写はあまり信頼できない。『(ザ・ワルチン・スペシャル)世界の人物・愛と性』v.1 のなかの,ラッセルにおける「恋愛と結婚」に関する記述は,誤った記述はほぼないが,誤解を与えそうな表現がいくつかある。多数の女性と恋愛したラッセルも,書き方によっては「好色な人間」となったり,「自分の気持ちに正直(純粋)な人間」となったりする。ラッセルは非常に多面的な人間であり,ラッセルにおける「恋愛と結婚」も,ラッセルの生い立ち(孤独感),人間観,恋愛観,世界観など,ラッセル思想や人間性全体の中に位置づけてとらえる必要があり,一般常識にあまりとらわれないほうがよいだろう。
 ラッセルとオットリンとの恋愛については,『オットリン・モレルー破天荒な生涯』が必読文献だが,700ページ以上もあるためあまり読まれないと思われる。次の抜き書きを是非参考にしていただきたい。
 抜き書き


好色貴族:B.ラッセル(1872.5.18〜1970.2.2)

 ●名声
 イギリスの哲学者,数学者,平和運動家のバートランド・ラッセルは,アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドとの共著による古典的名著『数学原理』(1910〜1913)によって,その学問的名声を築いた。ラッセルには他に,もっと一般向けの著作が数多くある。たとえば,『結婚と道徳』(1929),『西欧哲学史』(1945),そして彼の『自伝』(1967〜1969)

 ●人物
 ラッセルは,ヴォルテール同様,その時代の「笑う哲学者」だった。きびきびとした活動的な体の上には,サー・ジョン・テニエルの「気狂い帽子屋」を思わせる,いたずらっぽい妖精のような顔が乗っていた。彼の人柄を際立たせていたものは,人を人とも思わぬウイットと,人を惹きつける魅力だった。さらに,これもまたヴォルテールに似て,ラッセルは大変な熱血漢で,社会政策に対して怒りを見せる彼の姿は,ニュース写真で見ると,「復讐の天使」とでもいったふうだった。彼は生涯を通じて,セックス,教育,宗教から女性の権利,政治,核兵器に至るまで,あらゆるものについて,因習的な考え方を攻撃し続けた。イギリスでも最も古い家柄に生まれ,厳格な長老教会派の祖母に育てられたラッセルは,自分の「罪」をひどく気に病む,内気で神経過敏な子供だった。早熟で恵まれた頭脳の持ち主だった彼は,18歳の時,宗教を捨て,「何かを知ることができるかどうか」を探るために数学に足を踏み入れ,一生それを追求した。平和主義者として大胆な発言を続けた彼は,危険人物として1918年に投獄されたこともあったが,第2次大戦では同盟国側を支持した。ラッセルは,1950年にノーベル文学賞を受ける以前から,熱烈な大衆の支持を受けていた。彼がベトナム戦争,ジョン・F.ケネディ暗殺,核実験等に対してとった論争的な態度は,それをますます確固たるものにした。80代も後半になって,ラッセルは抗議デモと座りこみ闘争を指揮し,再び投獄された。

 「この世界を去っていくなんて,とても耐えられん。」 そういい残すと,彼は97歳で,安らかな眠りについた。

 ●性生活
 ラッセルによると,彼は15歳の時,「年中勃起して困っていた。」し,「マスターべーションの習慣がついてきた。」と書いている。
 20歳の時,その習慣は突然やんだ。恋をしたからだった。恋人のアリス・ピアーソル・スミス(松下注:右の写真は,アリスとバーティー,1894年当時)は,フィラデルフィアの有名なクエーカー教徒で,社会主義の一家に生まれ,ラッセルより5つ年上だった。ラッセルは,彼女と結婚しようと心に誓い,プロポーズから4か月後に初めてキスをした。ラッセルの祖母はこの組み合わせに猛反対し,アリスのことを「人さらい」だとか「腹黒い女」だとか呼んだり,双方の家系の狂気の血筋について,彼の耳に恐ろしい話を吹きこんだりした。
 2人は,将来何回ぐらいセックスをするだろうかということを心の中で考えていたが,1894年(ラッセル22歳)に結婚するまでは,お互いに未経験のままだった。
 新婚旅行で,セックスする時に持ちあがった問題は,「まるっきり喜劇を思わせた。」とラッセルは語っている。「でも,すぐにそれは解決した。」
 セックスは,女性に対する神の遺恨だというような古い教育を受けてきたアリスは,肉体的な欲望は少ないほうが良いのだと信じていた。だがラッセルにとっては,そんな問題など論じ合う必要性がなかった。
 2人とも自由な恋愛にオーラル・セックスはつきものだと思っていたが,どちらも実行はしなかった。最初の5年間は,2人の生活は幸福で健全そのものだった。
 しかし,1901年頃,ラッセルは,共同研究者アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの才気溢れる夫人,イヴリン・ホワイトヘッド(松下注:右側の写真)と恋に落ちてしまった。この関係は,肉体的には何もなかったが,ラッセルに「目覚め」をもたらし,彼は,ものの感じ方や見方についてのいろいろな点で,神秘的ともいえるほどの「心変わり」(注:「心変わり」という表現はあまり適切でない。「回心」とでも言ったほうがよいだろうか)をとげたのだった。
 1人で自転車に乗っていたある日突然,彼は自分がもはやアリスを愛していないことに気づき,時を移さずそのことをアリスに告げた。彼は書いている。
 彼女につらくあたるつもりはなかった。だが,当時私は,親密な間柄にある者には,真実を語らなければならないと信じていた(これまでの経験によると,疑問の余地があるかもしれない。)」
 それから9年の間,ラッセルとアリスは見せかけの夫婦生活を続けた。しかし,寝室は別々に置かれ,2人とも不幸のどん底にあった。ラッセルは語る。「1年に2回ほど,彼女の悲しみをやわらげることができるのではないかと期待して,彼女を抱いてみた。けれど,もはや彼女には何の魅力も感じられず,その行為も徒労に終わった。」
 彼が最初,試しに浮気してみた相手の中には,アイヴィー・プリシャス嬢という若い女性秘書もいた。
 1910年,ラッセルは自由党員 M. P. フィリップ・モレル(注:このような表記は誤解を与える。M. P. は 名前のイニシャルではなく,Member of Parliament 下院議員の略)の妻,レディ・オットライン・モレルと出会う(松下注:この時初めて会ったのではなく,ラッセルが幼少の時からの知り合い。)。彼はレディ・オットラインを描写して,「かなり背が高く,馬みたいに長くて細い顔立ちで,とてもきれいな髪をしていた。」と語っている。
 オットラインには夫と別れる気もなかったし,困らせたくもなかったので,2人は人目を忍んで逢引を続けた。2人にそうした分別があったという点は,フィリップも評価していた。ラッセルはその春,アリスと別れ,1950年になるまで会うことはなかったし,再会した時には,2人は「仲の良い知人」になっていた。
 「レディ・オットラインは,私をピューリタンの位置からだいぶ引きずり下ろした。」と,ラッセルは書いている。だが,彼女が思っているのは自分1人でないということが,彼の嘆きの種だった。2人は喧嘩も激しくしたが,1916年までは恋人同士でいた。その後も,1938年に彼女が死ぬまで,親友として交際が続いた。
 ラッセルは,「ピューリタン」であることをきっぱりやめた。1910年以降,3回結婚しているが,かなりの高齢になるまで,彼は妻1人という生活には戻らなかった。彼の私生活は,本格的な情事,秘密の逢引,綱渡り的な恋愛,といったかなり混乱したものだった。そんな事熊は結局起こらなかったにしろ破滅的なスキャンダルの危険が常につきまとっていた。(松下注:ラッセルにはドンファン的な要素は全然なかったので,このへんの記述は誤解を与えるかもしれない。)
 良心がうずいたラッセルは,オットラインや他の恋人たちにあてた手紙の中で,他の女性とはめを外してしまったことを告白している。それより驚かされるのは,恋人たちの大半が,彼の浮気癖(松下注:自由恋愛論者の場合は,"浮気"ということばはあたらないだろう。/恋人のオットリン(←オットライン)やコレットも同様に自由恋愛論者であったことに注意)を大目に見て,お互いにうまくいっていたことだ。1914年に,初めてアメリカで講演旅行を行った時,目の届くところに可愛い女性がいれば必ず反応するという,ラッセルの本性がその全貌を現した。彼は,シカゴの外科医の娘,ヘレン・ダドリーと親しくなり,彼女をイギリスに招いた。「愛しい人よ」と,彼はオットラインに書き送っている。「このことで,きみへの愛が少しでも減るなんて考えないでおくれ。」
 ところが,現実にヘレンがやってくると,彼は,全く何の興味も彼女に感じなかった。(松下注:ラッセルの『自叙伝』のなかに,その頃は平和運動に全精力をささげており,ヘレンに対する愛情も相対的に少なくなっていた,との記述がある。)その頃には,彼はアイリーン・クーパー・ウィリスという,才気溢れる美女とつき合い始めていた。だが,アイリーンはスキャンダルを恐れ,彼は注目を受けることを嫌った。彼女など愛するのではなかったと,彼はオットラインに語っている。
 1916年,ラッセルは,レディ・コンスタンス・マリソンという,21歳のとび色の髪の女優と知り合う。芸名を,コレット・オニールと名乗っていた。彼女はマイルズ・マリソンという役者と結婚していたが,お互いに "オープン" に振舞うということで同意ができており,ラッセルは,2人と一緒によく休日を過ごしたりしながら,1920年まで,彼女との恋愛を続けていた。それから30年の間に,2人の関係は3度再燃した。コレットは,彼の誕生日がくると,いつもバラを贈った。しかし,彼のコレットヘの愛情は,「決してきみに対する感情に影を落とすものではない。」と,ラッセルはオットラインに書き送っている。
 ラッセルは子供が欲しくてたまらなかった。1919年に,彼はドーラ・ブラックという婦人参政権論者の女性と知り合った。彼女も,結婚や一夫一婦制という足枷なしに,子供が欲しいと思っていた1人だった。コレットとまだ恋仲にあり,定期的に胸の思いをオットラインにぶちまけるという身でありながら,彼は北京大学で教鞭をとるために中国に渡り,ドーラも一緒に連れていった。(松下注:結局は,ラッセルはその頃,オットリンを最も愛していたのであるが,オットリンの愛情を独占できないために,他の女性に,オットリンから得られないものを得ようとしたのだと思われる。)
 2人が1921年の8月にイギリスに戻ってきた時,ドーラは妊娠8か月だった。「予防措置など,最初から何も使わなかった」とラッセルはいう。「軽い浮気(松下注:結婚外の恋愛といった方が正確か?)は認める」ということで同意し,出産を1か月後にひかえて2人は結婚した。
 2人目の子供が生まれた後,ラッセル夫妻はビーコン・ヒル・スクールという,実験的な学校を創設した。そこでは自由主義的な理念に基づいて,職員同士の自由恋愛が奨励され,ラッセルも,若い女教師たちと何度かセックスを楽しんだ。
 彼が,学校やアメリカでの講演旅行で火遊びをしている間に,ドーラはアメリカのジャーナリスト,グリフイン・バリーと関係を結び,2人の子供を産んだ。ラッセルの自由恋愛理論を実践(松下注:ラッセルの自由恋愛論には,夫以外の他人の子どもを生んでもよいという考え方は含まれておらず,「夫婦以外の子どもは生まない」という歯止めがあった。)したわけだが,彼はこの場合に限って,明らかに腹を立てた。それどころか,結婚の時の約束の中には,「彼女が私以外の男の子供を産むようなことがあったなら,離婚する。」ということがうたってあった。2人の結婚生活は耐え難いほどこじれたものとなり,1935年に幕を閉じた。
 ラッセルは,一緒に寝るまではどんな女も知ることはできないと感じていた。『結婚と道徳』の中で,彼は試験結婚とオープン・マリッジの両方を推奨している。1929年当時においては,はなはだしく過激な意見だった。
 またラッセルは,1人の女に7,8年以上,肉体的な興味を抱き続けることはできないと考えていた。ドーラは彼の子供をもう1人欲しがった。だが,彼にとっては,それは「不可能」なことだった。
 21歳のジョーン・フォールウェルとの情事は象徴的なものだった。ラッセルは彼女に告げている。ただ1つ私が恐れているのは,きみが私をセックス的にだめな人間だと思うんじゃないか,ということなんだ,何しろ私は若くないから…けれど何とかする方法はあると思う。」
 後年になってジョーンはこういっている。
 「私は彼と食事をし,3回目に(一緒に)寝た。…3年以上その関係が続いた。でも夜のほうはうまくいっていたとはいえず,私は彼のことをあきらめた。」
 性欲は抑えのきかぬほどすぐに高まってしまうラッセルだったが,肝心のものが立たないことで苦しめられていたのは確かだった。
 1930年には,子供たちの家庭教師をしていた若い女性,パトリシア・ピーター・スペンス(松下注:オックスフォード大学の学生)とつき合い出し,この関係は長く続く。彼はピーターと結婚しようと心に決め,1936年にそれを果たした。翌年,男の子が生まれた。
 一家は戦時下をアメリカで送ったが,その地で,ピーターはしだいに不幸になっていった。ラッセルの娘は,当時の気まずい家庭の様子を回想してこういっている。
 「偉人と結婚するのはつまらないことだということを,彼女も悟っていました。父の情熱は冷めて,優しい好意に代わり,ロマンティックな若い女性にはとても満足できないような,ささやかな愛情しか示さなくなったのです。」
 1946年頃,もはや70代に達したラッセルは,あるケンブリッジの講師の若妻とつき合い始めた。その関係は3年続いた。コレットが彼に会ったのは1949年が最後だったが,彼女は辛らつな調子の手紙をラッセルに送っている。
 「今では私にもすべてがはっきりわかったわ。私たちの長いおつき合いも,これで寂しい幕切れになりそうね。…私はこれまで(あなたの生活に)3回引きずりこまれて,3回ともほっぽり出されたのよ。」(松下注:コレットは,ラッセルと恋愛関係に陥ってから1年後に,別に恋人を作っており,ラッセルは反戦運動の廉で入獄中,嫉妬に苦しんだ。どっちもどっち? → 『ラッセル自叙伝』第2巻第1章参照)
 ピーターは,1952年にラッセルと離婚した。その年の終わりに,ラッセルは古くからの友人だった,教師で作家のアメリ力人女性,エディス・フィンチ(松下注:写真右)と結婚している。ラッセルの '異常に強い性衝動' もようやくおさまりを見せ,彼は最後にきて,落ち着いた結婚生活を営むことができた。そして彼の最後の誕生日,コレットからの赤いバラが届いた。

 ●思想

愛のような,寛大で開放的な感情をコントロールするぐらいなら,嫉妬のような,拘束的で敵意に満ちた感情をコントロールするほうがよい。今までの道徳観が誤っているのは,自己規制を要求するという点ではなくて,それを間違ったところで要求するという点にあるのである。

「聖書の中で神が『身を焼かれるより結婚したほうがまし』といっているのは,地獄の責め苦が,いかに,どれほど恐ろしいものであるかを,われわれみんなに看取させるのが目的に違いない。」