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石本新「ラッセルの論理学」
『理想』1962年2月号、pp.30-37.

*(故)石本新(1917〜2005)氏は、当時、東京工業大学助教授。


 
 ラッセルの論理学をラッセルの哲学から切りはなして論ずることは難しい。最近でこそ論理学は哲学と一応快を分ち、論理学独自の非常に技術的な分野に限られることになったのであるが、ラッセルが論理学の研究をはじめた19世紀末にはこのような分離は見られず、論理学者が同時に哲学者であるという従来の伝統が根強く残っていたのである。哲学者であると同時に論理学者であるというラッセルの姿勢はその後も一貫しており、哲学上の論文においても、立論の背後には「数学原理」(Principia Mathematica)を中心とする論理学が必ず前提されているといってよいのである。逆に論理学が哲学によって基礎づけられるのがラッセルの論理学の特徴であり、ラッセルの初期の哲学である実在論を理解することなしには「数学原理」も正当に評価できないのである。
 従って、ラッセルの論理学をラッセルの哲学から切りはなして紹介するということはかなり無理なことである。が、ラッセルの哲学については、他に解説があるはずであるから、ここではなるべく視野を論理学に限って話を進めて行きたいと思う。また、元来が記号論理学であるラッセルの論理学を記号を使わずに解説するのであるから、十分に論じつくせない点もあろう。この点についても御了解願いたいと思う。

 
 まず、ラッセルの論理学、特にホワイトヘッドとの共著である有名な「数学原理」(Principia Mathematica)に集約される論理思想にいたるラッセルの学問的、思想的遍歴を紹介すべきであるが、その前史ともいうべき、ラッセルにいたるまでの論理学史を簡単に述べておきたいと思う。ラッセルが論理学の研究に志したのは19世紀末であるから、西洋論理学発展の跡をそのころまで大ざっばに辿ってみたいと思う。というのは、論理学史はいうまでもなく論理学そのものでさえ十分に消化されていないわが国の現状では、ラッセルの論理学をいきなり紹介することが必ずしも適切であるとは思えないからである。(論理学史の研究は最近欧米で活発になってきているが、日本語で利用できる書物としてはショルツの『西洋論理学史』(1)がある。)

 さて、西洋における論理学はアリストテレスからはじまるということになっている。アリストテレス以前に論理学が全くなかったというわけではないが、論理学を一応学問としてまとめあげた功績はアリストテレスに帰せられなければなるまい。アリストテレスの論理学は大ざっぱにいえば定言三段論法である。つまり、「すべてのギリシア人は人間である。すべての人間は動物である。従って、すべてのギリシア人は動物である」といった形式の論法の組織的研究である。この例から明らかなように、定言三段論法は2つの前提と一つの帰結からなるわけであるが、前提あるいは帰結として用いてよい文章の形式が極めて制限されていることに注意していただきたい。たとえば、「ソクラテスは人間である。」「この部屋には人がいる。」といった文章は定言三段論法の前提にも帰結にもなり得ないのである。大へん興味深いことであるが、定言三段論法のこういった制約は二千年以上にわたって注意されず19世紀末になってやっと、はっきり理解されるにいたったのである。そして、この事実を発見しないまでも多くの人の注意を喚起したという意味で、ラッセルの貢献は大きいのである。
 このように定言三段論法はアリストテレスによって一応完成されるのであるが、引き続きアリストテレスの弟子テオフラストス(Theophrastos, BC372-BC288頃)とストア派の哲学者によって仮言三段論法の研究が行われ、古代末期のローマの哲学者ボエティウス(Boethius 470-525)によって一つの絶頂に達するのである。仮言三段論法とは「AならばBである。しかるにAである、従ってBである。」というような論法で、A、Bで表される言明の構造は一応問題にしていない。従って、近代論理学でいう言明算が仮言三段論法に当るといってよいが、たとい仮言三段論法が十分発展して言明算になったとしても、「すべての…」「ある…」という量化子が加わらなければまともな論理学は得られないのである。従って西洋古代の論理学の道具たてでは、日常会話にあらわれる推論ですらその全部が定式化されるとは限らないのである。そして、これが実現するにも19世紀の半ば以後まで待たなければならないのである。
 古代が終ると、西洋における論理学の研究は一度衰えるが、12、13世紀になると再び盛んになってくる。そして、スコラ派の哲学者による仮言三段論法の研究を子細に検討すると、真理表、質料、内包というような近代的な概念がすでに見出されていたことがわかる。
 が、中世論理学の黄金時代は長くは続かなかった。それどころか、ルネサンス以降19世紀中葉までは、論理学に最悪の時代であったといってよい。デカルト、スピノザ、ライプニッツ、ホッブス、ロックといった近世初頭をかざる哲学者も、ライプニッツを除けば、論理学に何等直接の貢献をしなかったといってよい。その後の英国経験論、ドイツ観念論の哲学者にしても同様である。が、もし論理学に対する間接の貢献をも考慮しなければならないならば、ニュートン以降19世紀半ばまでに達成された数学の発展は、後に述べるように近代論理学の形成に大きな役割りを演ずることになるのである。しかし、少くともそれ以前の数学の発展段階では、論理学に直接影響を及すということはまずなかったといってよい。
 こういった衰退期を脱し、現在われわれが見るような黄金時代をむかえるにいたった契機を与えた先駆的研究は、2人の英国の数学者ブール(George Boole, 1815-1864)とデ・モーガン(Augustus de Morgan, 1806-1871)によって行われた。が、この2人の仕事は現在集合算と呼ばれているもので、概念の外延に関する系統的な算法に他ならない。そして、数以外の領域においても代数的な手法が可能であることを示したという点では意味があるが、論理学としては極めて不十分であった。
 また、これら2人の英国人とは独立して行われたボヘミアの哲学者兼数学者ボルツァーノ(Bernhard Bolzano, 1781-1848)の独創的な業績も忘れてはならない。特に帰結の意味論的定義というような考えを100年も前に提唱していたことは驚くべきことである。また、「無限の逆理」という名称の著作から想像できるよううに、ボルツァーノは集合論の先駆者でもあった。が、すぐ後に続くパース(Charles Sanders Peirce, 1839-1919)、シュレーダー(Ernst Schroeder)等に直接影響を及したブールやデ・モーガンと異なり、ボルツァーノの論理学は同時代の論理学者にはほとんど影響を与えなかったようである。
 さて、こういった近代論理学の前史に当る期間が終ると、ラッセルによってしばしば言及されるフレーゲ(Gottlob Frege, 1848-1925)が登場するのである。そして、論理学史上一時期を画した『概念文字』(2)1879年に発表されるのである。この業績はあまりにも群を抜いているために、1879(明治12年)をもって近代論理学誕生の年とする学者もいるくらいである。まず、フレーゲは『概念文字』で二値論理学の概念を明確にとらえ、これを定式化している。二値言明算とは、真と偽の2つの真理値をとる言明に関する算法で、ほとんどあらゆる論理学の基礎になる近代論理学の一部門である。そして、論理学史上はじめて、言明算の公理と推論法則がはっきりと与えられたのである。言明算の研究は、同じころパースによっても手がけられていたのだが(3)、フレーゲは『概念文字』から判断する限り、全く独力で、言明算の近代的定式化に成功したのであった。また、後に述語論理と呼ばれるようになった量化子を含む論理学を展開し、第2の著作『算術の基礎』(4)で企てられる算術の論理学的導出の基礎を築いたのである。しかしながら、フレーゲのこういった業績は、論理学の研究にとりかかった当時のラッセルには知られず、ラッセルがフレーゲの論理学に接するのはようやく1901年(ラッセル29歳)のことである。そして、ラッセルが親しんでいたのは、いまから考えれば近代論理学発達史上傍流ともいうべきパース、シュレーダー等のブールの系統を引く研究であった。
 が、それだけではなかった。最初のベルリン滞在を契機としてその機会を与えられたドイツの数学者の業績、特にワイトッラソメル、ヤーシトラース、デデキント、カントルの仕事との接触もラッセルの論理学の発展に大きな影響を与えたのでる。当時の英国では知られていなかった解析学の厳密な展開と集合論を知ったことは、ラッセルの論理学に消すことのできない印しを刻み込んだといってよい。それどころか、『数学原理』そのものでさえ、ある意味でこれらドイツ数学者の業績の敷えん精密化であるといってよいのである。
の画像  さらに1897年に発表された(ラッセル25歳の時の)『幾何学の基礎』(An Essay on the Foundations of Geometry)にいろいろの影響を及ぼした当時活発に研究されていた幾何学基礎論に関する各国の学者の研究も忘れてはなるまい。
 しかしながら、以上述べたような何れかといえばラッセルの論理学の技術的側面への影響とは別に、あるいはその背後に、哲学者としてのラッセルが身をさらさなければならなかったいろいろの哲学上の潮流のあったことに、注意しなければならない。その第1は、その当時の英国のアカデミー哲学を風靡していたドイツ観念論の影響である。具体的にいうならば、ブラッドリー(Francis Herbert Bradley, 1846-1924)、ボーズンキット(Bernard Bosanquet, 1848-1923)を中心とするカント、ヘーゲル主義の影響である。事実、1898年、ムーア(George Edward Moore, 1873-1958)とともに、こういった傾向に叛旗を翻すまでのラッセルは、全くドイツ観念論のとりこであったといってよい。
 観念論から実在論への移行からさらに2年後に、ラッセルの論理学、いなラッセルの全思想に決定的な転機をもたらした大きな事件が起きたのである。すなわち、1900年7月パリで開催された国際哲学会に出席し、イタリアの数学者兼論理学者ペアノ(Giuseppe Peano, 1858-1932)と邂逅したことである。
 そして、このとき以後はじめて、ラッセル独自の論理学がはじまるといってよいのである。従って、1900年以前のラッセルの論理学はいわば前史ともいうべきであろう。また、観念論から実在論への移行が1900年以前に行われたということも興味深いことである。とういうのは、この移行がその後のラッセルの論理学の展開によく適合していたからである。つまり、ラッセルはまず論理学を発展させてからそれに都合のよい哲学を考え出したのでなく、まさにその逆であったわけである。いってみれば、哲学上の見解が論理学に影響を及ぼしたというかっこうなのである。しかし、『数学原理』以後の時期になるとラッセルの論理学が逆にラッセルの哲学に影響するようになる。しかし、この問題は後の節で取り扱うべき問題である。

(1)ショルツ『西洋論理学史』(山下正男訳、理想社)
(2)Frege, G., Begriffsschrift, eine der arithmetischen nachgebildete Formelsprache des reinen Denkens, 1879.
(3)Peirce, C. S., On the alebra of logic. In: American Journal of Mathematics, v.3(1880)
(4)Frege, G., Die Grundlagen der Arithmetik, eine logisch-mathematishce Untersuchungen ueber der Begriff der Zahl, 1884.


 
 1900年に開催された国際哲学会でラッセルに強い感銘を与えたのは、ペアノとその一派の論理学者の明晰な議論であった。そして、すでに同じような問題意識をもっていたにもかかわらずペアノの業績を知らなかったラッセルはたちまちペアノの論理学のとりこになるのである。ラッセルがペアノに会ったのが1900年7月であるが、驚くべき短時日の間にラッセルはペアノの論理学をマスターする。そして、その年の9月にはペアノ式記号で書かれた論文を完成し、ペアノが主宰していた『数学評論』(Rivista di Mathematica)誌に発表するのである。また、後に『数学諸原理』(The Principles of Mathematics)となって世に現われた書物の最初の原稿をその年のうちに書き上げてしまうという多産振りを発揮するのであった。いってみれば、ラッセルの論理学はペアノ式手法という翼を得て、空高く飛び上ったのである。ラッセル自身も最近回想しているように、まさに知的蜜月の時代であった。
 この時期におけるラッセルの業績は、さきに述べた論文「関係の論理」(1)にはじまり、その哲学的敷えんともいうべき『数学の諸原理』に終るといってよい。この著述においてラッセルが企てたことは、一言にしていえば、数学、特に算術を論理学に還元することであった。従って、算術を論理学に還元するとはいかなることであるかということを説明しておかなければならない。
の画像  たとえば、「2に3を加えると5になる。」ということが算術でいわれる。このように定式化すると、2とか3とか5とかいうは、独立に存在しているある対象であるという印象をうける。事実、ペアノはこのような考えにもとづき、若干の公理から算術が論理的に導出できることを示したのである。
 ところが、このような考えでは算術を使ってものを'数えるという操作'を説明することができない。たとえば、「2つのリンゴに3つのリンゴを加えると5つのリンゴになる」という言明が形式主義的なペアノの算術で取り扱い得るであろうか。もちろんできない。というのは、「リンゴ」という言葉がペアノの算術には現われてこないからである。従って、算術を意味のない記号の変形とみなす形式主義の立場に立たない限り、算術の外へ出なければならないことになる。つまり、何等かの高次の理論が要求されるのである。そして、ラッセルが「関係の論理」と『数学諸原理』で企てたことともまさにこのことなのである。が、その説明に入る前に若干の予備的な解説が必要であると思われる。
 まず、集合の概念から説明しよう。たとえば、「東京都民の集合」は数はかなり多いが、ともかく有限の集合である。同様にして、「この机の上にある3つの書物からなる集合」は、3つのメンバーからなる有限集合である。ところが、「すべての自然数の集合」のように有限でない集合もある、このような無限集合が1つの対象として存在するかどうかは疑問であるが、この段階ではラッセル自身も『数学の諸原理』で想定したように、(無限集合が1つの対象として)一応存在するという、かなり極端な実在論、あるいはプラトン主義を仮に認めて話しを進めようと思う。
 さて、有限集合の場合はそのメンバーを1つづつ数えあげることによって定義することができる。ところが、無限集合になると、このような方法で定義することができない。無限集合でなくても、「東京都民の集合」のように事実上無限に近い集合の場合も同様で、そのメンバーを1つづつ枚挙することは事実上不可能であるといってよい。こういった場合に便利なのは、述語によって集合を定義する方法である。たとえば、「赤いものの集合」は、「赤い」という述語を満足するものの集合として定義される。同じように、「東京都民の集合」「東京都民」という述語によって定義されるのである。
 次に、1、2、3、…という自然数は、述語の述語、すなわち集合の集合として定義されうるということに注目しよう。たとえば、2という数はメンバーが2つある集合の集合として定義される。すると、「「ここにリンゴが2つある」という言明は、「ここにあるリンゴ」という述語を満足するメンバーを2つもつ集合は、集合2のメンバーである」というようにいい換えられる。同様にして、3という数は、メンバーを3つもつ集合の集合として定義される。たとえば、三重奏団は3という集合の集合に属しているのである。他の自然数についても、また無限の基数についても、定義は同様である。
 このように考えると、「2つのリンゴに3つのリンゴを加えると5つのリンゴになる」という言明は、リンゴからなるある集合が集合2に属し、これと重なり合わない別のリンゴからなる集合が集合3に属しているならば、両者を併せた集合は、集合5に属している。」という言明になる。一寸考えると、メンバーを2つもつ集合の集合として2を定義するときに、2という数がすでに前提されているような印象を与える。しかしながら、メンバーを2つもつ集合とは、「互いに異なるものAとBが存在し、その集合のメンバーはAかBかいずれかである。」と定義されるから、2が予想されていると考える必要はない。
 このようにして、算術の言明が論理学に還元できることがわかった。ただし、いま述べたような定義、概念構成ができるように、論理学を十分拡張しておかなければならない。いうまでもなく、アリストテレスの定言三段論法、ストア学派の仮言三段論法の範囲内では、このような定義や概念構成は不可能である。
 そして、こういった論理学の拡張という仕事をラッセルは、『数学諸原理』で試みたのである。が、『数学諸原理』は、記号論理学の現在の水準に照らして合わせると必ずしも完全なものとはいえない。論理記号がほとんど用いられていないこともその一つの原因となっていると思われる。事実、さっき述べたラッセルの新しい哲学上の立場となった実在論によって論理学が基礎づけられているために、『数学諸原理』は、論理学の書物であるというよりは、哲学の書物であるといった方が適切であるかも知れない。
 ではいかなる実在論が『数学諸原理』の背後にあったかというと、大ざっぱにいえば、ラッセル自身も認めているように、ボルツアーノに発し、ブレンターノ(Franz Brentano, 1838-1917)、フッサール(Edmund Husserl, 1859-1938)、マイノング(Alexius Meinong, 1853-1938)等のいわゆる独墺字派に近い立場であって、いろいろの対象がある意味で無条件で存在するという考え方である。つまり、あらゆる有限無限の集合はいうに及ばず、「黄金の山」というような現実に存在しているいかなる対象をも指示していないような記述でさえ、あるプラトン的な対象を指示しているという極端な立場に立っていのである。。こういった考え方は当時してはそれほど突飛なものではなく、マッハ(Erunst Mach, 1838-1916)やアヴェナリウス(Richard Avenarius, 1843-1896)の思惟経済説に代表される唯名論的考え方の方が何れかというと異端なのであった。いってみれば、論理学や数学の法則は、われわれが勝手に考え出すのでなく、すでに存在するものを発見するのであるというのがラッセルの当時の見解であったわけである。
 念のため、『数学諸原理』の内容を記しておこう。数学において定義されないもの、数、量、順序、無限と連続、空間・物質と運動、となっているが、フレーゲの論理学と階型理論に関する解説が附録となっており、『数学原理』(Principia Mathematica)にいたる次の発展段階への前ぶれとなっている。
 また、現在行われているように、算術は算術として、解析学は解析学として、別個に展開するのではなく、論理学と数学を一挙に展開しようという、非常に大がかりな発想が『数学諸原理』を一貫していたのである。いってみれば、世界には唯一の正しい論理学しかなく、そういった論理学が得られるならば、それによって世界を知り得るはずであるという大前提が、当時のラッセルの論理学を支配していたのである。つまり、『数学諸原理』の時代におけるラッセルの論理学は、プラトン主義的な存在論そのものであるといってよい

(1)Russell, B., Sur la logique de relation avec des applications a la theorie des seire, In: Rivista di Mathematica,v.7(1901)

 
 さて、観念論から実在論への移行前ぶれとしてはじまり、ペアノとの邂逅を経て、『数学諸原理』で終るラッセルの知的蜜月も、以外にはやく破綻を来すことになる。
 が、その前にフレーゲの業績との接触について述べておかなければならない。フレーゲはこのころまでに『算術の基本法則』の第一巻(1)を完成し、それこそドイツ的徹底さをもって算術の論理学への還元というプログラムを着々と実行に移しつつあったのであるが、ラッセルがフレーゲのこういった業績を知るにいたったのは、『数学諸原理』の最初の原稿の完成(1900年12月末)以後であった。そして、翌1901年から1902年にかけて、フレーゲの研究が行われ、その結果は『数学諸原理』の附録としてまとめられている。また、フレーゲの論理学の哲学的前提がやはりプラトン主義的実在論であるということも興味深いことである。
 さて、知的密月の時期に次いで起った知的悲哀の時期は、ラッセルの名を冠して呼ばれている有名な二律背反(アンティノミー)の発見を契機としてはじまったことになっている。もちろんこういった二律背反は、ラッセルがはじめて発見したのではない。「わたくしは嘘をついている。」ということは本当か嘘かというクーリート(クレタ人)の虚言者と呼ばれる二律背反にはじまり、ブラリ・フォルティーの最大の順序数に関する二律背反にいたるまで、いろいろのアンティノミーがすでに知られていた。しかし、何といってもラッッセルの二律背反が構造も簡単で、階型理論への手引にもなるという点ですぐれている
 さきに述べたように、'述語を与えることによって1つの集合が定まる'。従って、「自分自身に属していない。」という述語によって1つの集合が定まるはずである。この集合をとしよう。問題はAがAに属しているかどうかということである仮に属しているとすれば、仮定によりAは自分自身をメンバーとして含んでいない集合の集合であるから、AはAに属していない。すなわち、AはAのメンバーであるという前提からその否定が導き出されたのである。次に、AはAに属していないと仮定しよう。すると、AはAを定義している述語を満足しているから、AはAのメンバーでなければならない。そして、再び仮定が否定されたのである。すなわち、二律背反である。そして、これがラッセルのアンティノミーなのである。
 この二律背反は『数学諸原理』の基礎を危くするだけでなく、1903年その第2巻がでたフレーゲの『算術の基本法則』をも根底からくつがえすものであった。ライフワークであった『算術の基本法則』を完成した直後1902年にラッセルからこの知らせを受けたフレーゲがいかに失望落胆したかということは近代論理学史上有名なエピソードである
 が、ラッセルはひるまなかった。そして、考案されたのが有名な階型理論である。階型理論をくわしく説明する余裕はないが、要するにあるものを定義するのに用いられたものの全体のなかには定義される当のものはあってはならない、ということである。たとえば、ラッセルの二律背反の原因となった「それ自身をメンバーとして含まない。」という集合の集合のなかに当の集合がメンバーとしてはいっているかどうかという問題は、階型理論によれば問題自体が誤って定式化されていて、無意味であるということになる。同様にしてある集合がそれ自身をメンバーとして含むという言明も無意味であるということ示すされる。
 このように考えるとあらゆるものが階型にわかれ、「すべての・・・」、あるいは「ある…」という量化子の及ぶ範囲は特定の階型に属しているものに限られることになるのである。
 さて、こういった階型理論によってラッセルの二律背反のみならず従来知られている二律背反のすべてを回避することに成功したラッセルは、この理論の成果を1905年から1908年にかけて発表された一連の論文(2)(3)で世に問うとともに、ラッセルにとって師に当るホワイトヘッドの協力を得て、有名な大冊『数学原理』(Principia Mathematica)にとりかかるのである。

 次にいよいよ『数学原理』の解説にはいるべきであるが、その前にラッセルの論理学において本流であるとはいえないが見逃すことのできない「記述の理論」について述べておかなければならない。すでに述べたように、「黄金の山」とか「現在のフランス国王」といった現実に存在しない対象を指示していると思われる記述もある意味でプラトン主義的実体を指示しているのだというマイノング式の想定が、『数学諸原理』においてはそのまま踏襲されていたのであるが、ラッセルは、1905年に発表された論文、「指示について」(4)でこういったイデア的実体が必ずしも存在する必要がないことを見事に示したのである。ラッセルは記述が一般に何らかの文脈のなかに現れてくることに注目する。たとえば、「『戦争と平和』の著者」はロシア人である。」というように、'記述はつねにある文脈のなかで用いられる'のである。一寸考えると「戦争と平和の著者」という実体が「ロシア人である。」という述語を満足しているようにみえる。が、ラッセルはこの言明を「「戦争と平和の著者」と「ロシア人である」という2つの述語を満足するものが存在し、「戦争と平和の著者」という述語を満足するものはすべて上記のものに等しい。」と解釈するのである。すると、この言明は真になるが、「「現在のフランスの国王」は人間である。という言明は偽になる。」 しかし、「現在のフランスの国王」という実体を想定する必要は全くない
 不必要な実体を排除するこのような手続きをラッセルは「オッカムの力ミソリ」と呼んでいる。「記述の理論」という「オッカムの力ミソリ」によってプラトン主義的実体がラッセルの存在論からかなり姿を消すが、他の多くの実在論的対象はそのまま『数学原理』に持ち込まれるのである。

(1)Frege, G., Grundgesetze der Arithmetik, begriffschriftlich abgeleitet, Bd.1(1893)
(2)Russell, B., On some difficulties in the theory of transfinite numbers and order types. In: Proceedings of London Mathematical Society, ser. v.4(1907)
(3)Russell, B., Mathematical logic as based on the theory of types. In: American Journal of Mathematics, v.30(1908)
(4)Russell, B., On denoting. In: Mind, n.s., v. 14(1905)


 
 1910年にその第1巻(1)が出版されたラッセルのいわば主著である『数学原理』(Principia Mathematica)にいまやたどりついた。『数学原理』はまず第1に階型理論にもとづく論理学と数学の展開を目指している。いいかえれば、『数学諸原理』その他の論文ではスケッチの程度に止っていた発想が当時としては非常に厳密にとらえられ、算術のみならず全数学の論理学への還元という大きなプログラムが実行に移されるのである。もちろん、ラッセルがそれに成功したかどうかということについては幾多の疑問がある。たとえば、高い階型の述語をより低い階型の述語で置きかえることを許す還元性の公理をめぐるいろいろの問題、また『数学原理』のメタ言語に算術が幾分でも前提されているのではないかといったさまざまの疑問が起きるのである。
 が、それはともかくとして、ラッセルがいま(=1962年)でも放棄していないと思われる数学の論理学への還元という主張は『数学原理』において曲りなりにも実現したといってよいのである。
 同時に、大体、実数論までの古典数学が記号論理学の範囲内で定式化し得るという、フレーゲによってはじめられた実験が、『数学原理』において一応完了するのである。こういうと数学的直観は論理学にはしばられないと抗議される向きもあろうが、ここでいっているのは、すでに出来上った数学を論理学のわく内で展開できるということに過ぎないのである。
 なお参考までに『数学原理』の主な内容を次に記しておく(2)。論理的階型の理論、不完全記号、記号論理学、基数の算術、関係数の算術、数列、整列集合、測定、等。

(1)第2巻は、1912年、第3巻は1913年に出版された。
(2)『数学原理』の解説書としては、ラッセル自ら著した Introduction to Mathematical Philosophy(『数理哲学序説』(平野智治訳、岩波文庫)がよい。やや専門的な批判として、
Goedel, K., Russell's Mathematical Logic in the Philosophy of B. Russell, ed. by P. A. Schilpp(1946)(松下注:1944年のまちがい)


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 予定されていた第4巻が結局未完成に終わったとはいえ、『数学原理』の上梓によってラッセルの論理学はその技術的、形式的側面に関する限り一応完結する。が、ラッセルの哲学は、ラッセルの論理学を超えて前進する
 まず、ウイットゲンシュタインの影響の下に集合とそれを定義する述語を同一視しようという見解が『数学原理』の第2版(1927年刊)で採択されている。つまり、集合という実在論的実体について語ることをできれば避けようという「オッカムのカミソリ」の1つの適用である。このように、ラッセルの論理学は大ざっぱにいえぱ、実在論から唯名論へと漸次移行していったのである。そして、プラトン主義的概念実在論から中性一元論を経てヒューム的経験論へ移行したラッセルの哲学ともよくマッチしているのである。事実、最近では「数学の論理的導出」にしても普通の数学が得られれば十分で、論理学の存在論的基礎づけなどはそれほど問題ではないという、公理主義に近い立場がとられているほどである。要するに、ラッセル自身もいっているように、ピタゴラス主義からの漸次的後退が論理学といわず認識論といわず、ラッセルの一貰した傾向なのである。が、純然たる操作主義にまで後退したかというと、そうではなく、実在に対する確信は依然と根強く残っている

 以上述べたように、ラッセルの論理学はラッセルの哲学からは切りはなして考えることはできない。しかし、論理学の技術的側面に限っても、ラッセルの貢献は決して小さなものではない。その後、公理的集合論、クワインの論理学等(2)必ずしも階型理論にもとづかない論理学の体系が相次いで提唱されてきたのであるが、何れもある意味で『数学原理』に対する批判であるとともに、古典数学の導出という『数学原理』と同じ目標を追求しており、その点で『数学原理』を模範としているのである。
 たしかに、論理学の現在の水準からみると『数学原理』は十分厳密であるとはいえない。また、フレーゲ=ラッセル式の算術のモデルが唯一の算術のモデルなのではない。が、『数学原理』に集約される論理学者としてのラッセルの業績は極めて高く評価されるべきである。
 さらに、現代哲学において重要な潮流となっている論理実証主義からトマス主義についたる、ともかく論理学を重視しようという動きに半世紀以上も影響を与え続け、現在見られるが如き論理学の黄金時代を招来するのに与って力があったという点で、ラッセルの論理学上の貢献は不滅である。

(1)『数学原理』の第2巻は1925年に出版された。(松下注:1927年のまちがい。第1巻は1925に、第2巻及び第3巻は1927年に出版された。)本文は初版と変わらないが、長い序文によってここで述べたような改良が提唱されている。
(2)『数学原理』と概ね同じところまで、古典数学を展開した書物としては、Rosser B., Logic for Mathematician, 1953 がある。


(あとがき)
 最近別のところで指摘したことであるが(1)、いかなる哲学にも必ず何らかの偏りがみられる。いうまでもなく、哲学は、科学 −個別科学といった方がよいかも知れないが− そのものではあり得ない。個別科学の成果をふまえながらも、それ(科学)を超えて何らかの発言をしようというのが哲学なのである。いってみれば、哲学とはヴィジョンに他ならないのである。そして、提唱者が比較的興味をもっていることがときとして強調され過ぎるために生じる偏りが、いかなる哲学の体系にも見出されるのである。
 このように考えると、現代のアカデミー哲学の面白い分類ができそうである。まず、ポパーなどのいう(松下注:ポパーが批判している)歴史主義、あるいは全体論的な立場(2)をとる経済学や政治学に焦点を合せた哲学の体系がある。イデオロギーの哲学ともいうべきこういった哲学は、あらゆる現象を政治的イデオギーの立場から割り切って終うのである。そして、この派の哲学者達が拠り所としている19世紀の哲学や経済学がカバーできないような問題に出合うと、いろいろの小細工をほどこして、困難から逃れようとする。が、経済学、形式論理学といった領域では一時的な弥縫策ではどうにもならないところまできており、この派の哲学者達も一部の頑強な教条主義的信奉者を除いては、近代経済学、近代論理学等を含む、広い意味での近代理論の軍門に事実上降りつつあるといってよい。
 次に、大ざっぱにいって文学に指向しつつあると目される哲学の一派がある。実存主義がそのよい例であるが、要するに人間的なものの理解を哲学の主要な任務にしようという考え方である。いうまでもなく、人間的なものは極めて具体的である。特定の個人がどう悩み、どう喜ぶかということは、灰色の理論をもてあそぶ科学では到底理解できないことである。つまり、文学者と同じような具体的なもの、個別的なものへの愛着が、この派の哲学者達の出発点なのである。そして、科学の取り扱い得ない、生き生きとした現実に身をまかせて、哲学的思索にふけろうとするわけである。従って、イデオロギー的な哲学と異り、こういった文学的哲学は、近代科学の成果を一応無視することができるのである。あるいは、文学的哲学は、科学の成果と原理的には矛盾しないといった方がよいかも知れない。
 以上述べたような全体論的哲学と文学的人間中心的哲学のほかに、もう一つの哲学が存在する。大ざっぱにいえば、科学哲学という名称の下に総括される、いわば科学に偏った哲学で、近代科学、特に自然科学の成果を率直に認めて、その基礎の上に哲学の体系を建設しようという考え方である。そして、ラッセルがそのよき先達であり、またこういった立場をもっとも尖鋭に主張したのが論理実証主義であったことはすでに述べたことである。
 が、ここではさらに進んでこういった科学的哲学が直面している若干の困難を指摘して、科学哲学の行く手が必ずしも坦々とした大道ではないことを示したいと思う。
 さて、科学哲学はいうまでもなく科学に偏っている、が、一般に科学といっても極めて多くの部門にわたり、いかなる科学に依拠しているかということによって科学哲学がさらに分類されるはずである。もちろん、科学といってもいかなる科学でも哲学の基礎になり得るというわけではなく、多少なりとも基礎的な性格をもつ科学でなければならない。たとえば、理論物理学と生物学、さらに科学そのものではないかも知れないが、科学に言語を供給している論理学と数学などが科学哲学の依拠すべき科学といえるであろう。
 従って、物理学に立脚した科学哲学、生物学に立脚した科学哲学が考えられるとともに、論理学と数学の上に立つ科学哲学もあり得るはずである。そして、ラッセルの哲学や論理実証主義がまさにそのような哲学なのである。大ざっぱにいえば、科学をその言語によって基礎づけようというのがこの派の主張なのである。言語主義も決して偏っていないとはいえないのである。もともと言語やそれにもとづく論理学は現実そのものではない。いってみれば、われわれがそれによって現実を把握する形式なのである。従って、言語を重んじる哲学はどうしても形式主義的になりがちである。すでに述べたように、『数学原理』にしても古典解析学の形式的再構成ではあっても、絶えず進歩して止まらない解析学そのものではない。こういった形式偏重は『数学原理』に限らず、ラッセルの哲学上の論文一般に論理実証主義者の発言についてもいえることである。そして、歴史的なものの見方がないとか、形式的に過ぎるというような非難が繰り返されてきたのである。
 わたしはこういった論難がことごとく的外れだとは思わない。確かに指摘されたような偏りがラッセルの哲学や論理実証主義には見出されよう。が、多くの科学がますます数学的手法に頼るようになりつつあるということを考慮すると、科学をその形式的側面に重点をおいて基礎づけるということが、それほど一人よがりの独断であるとは思えないのである、理論物理学はいうに及ばず社会科学の諸分野にまで浸透してきた数学化、形式化という傾向は、一応事実として認めなければならない。そして、この流れをそれからあまり離れることなしに受け上めるのが論理実証主義であることも疑問の余地がなかろう。もっとも近年、論理実証主義に近い一部の哲学者がこういった任務を放棄してしまったようであるが、ラッセルがはじめ、ウィーン時代の論理実証主義達によって引き継がれたこの仕事をこれからも続けようという動きがなくなってしまったわけではない。こういう意味での論理実証主義的な科学哲学をその成立当初から現在にいたるまで指導してきたラッセルの功績は極めて大きいのである。

(1)拙稿(石本)「多元主義の時代」 『論争』1962年2月号所収
(2)ポパー『歴史主義の貧困』(久野収、市井三郎訳、中央公論者)