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市井三郎「バートランド・ラッセル-核時代のモラル」

* 出典:『朝日ジャーナル』1963.08.04,pp.94-98( = 現代人シリーズ n.5)
* 市井三郎(1922~1989)は、当時成蹊大学教授、哲学者。
* 市井三郎「ラッセルの価値観」(1970年)

 わが国で「近代的」な考え方だとされていることども--たとえば、男女は法的に平等に扱われねばならず、人間性を抑圧することなく素朴に幸福と感じられることを増進するのが善であり、宗教その他の禁忌によって性(セックス)をタブー化すべきではなく、結婚制度を神格化して離婚や再婚それ自体を非難するのは間違いであり、そのようなタブーや神格化をうわべのたてまえとしては固執しながら、裏ではかくれてたてまえの禁ずる欲望にふけるというような慣行はいっさい排除すべきであり、そのような慣行が権威主義的に教育の実際にはびこることが、人間の古代に獲得されたもろもろの悪しき情熱を永続させることになり、ひいては侵略戦争とか植民地化といった国際的な抑圧諸形態までを生じさせる一因となるのだから、たてまえ・ほんねの二重分裂や偽善、またいっさいの権威主義を排除しようといった考え--は「西欧にあっても近代というよりは、二〇世紀の現代にいたってようやく社会的に流通するようになった考え方である。
 さらに西欧とくにイギリスでは、とっくの昔に社会慣行になっていた、とふつう(わが国では)信じられている民主主義なるものも、国内の政治制度としてはようやく前世紀終りころに労働者階級にまで選挙権がひろげられ(それも男性だけで、イギリス女性が参政権を得たのはよりおくれて一九一九年)はしたが、国際的な民主主義となると、政府の外交政策が権力政治的な性格を強固にもちつづけたのは周知のとおりであり、そればかりではなく一般人民のものの見方も、自国内の民主主義的慣行を外部にまでひろげて考えることはおよそ縁遠かったのである。
 その一般人民の考え方に変化が起り始めたのも、過去数十年のことにすぎない。まさにバートランド・ラッセルは、イギリスで今世紀の数十年のあいだに、一般の人々の考え方や慣行に以上のような変化を起させるために、最大のたたかいをたたかってきた人物だ、といえるだろう
 しかも、社会慣行の変化がどこまで達成されたかということは、はばひろく奥ゆきの深い問題であり、その変革へのたたかいは際限のない幾世代にもわたる努力を要するものだ。だから一人の人間が九〇歳にもなって、生理的にそのようなたたかいのエネルギーを失い、過去にかちとった成果だけを懐旧するようになったとしても、その当人を責めることはまずできないだろう。

 九〇歳をこえて活動

 ところがラッセルは、九〇歳をこえた現在なお、日本の新聞までを次々ににぎわすほどに、その活動をやめないのである。人類の絶滅戦争という、現代にのしかかった重苦しい可能性に対して、かれが果敢にたたかっているということだけが、かれをして「現代人」たらしめているのではない。はじめに列挙したような考え方がたんなるたてまえ、あるいは先駆者の思想として提唱されたのは、かれよりも以前にさかのぼるわけだが、それが現実に人々の日常行動をも律する慣行となり始めたのが、やっと現代においてであり、その慣行化--たんなる思想の提唱とは大はばに違うこと--にラッセルが果した役割が多大であるゆえに、かれがすぐれて「現代人」であるといえるのだ。
 そればかりではない。専門的な学者としてのラッセルの業績は、過去二、三十年のあいだに明らかになってきた欧米哲学界の激しい変貌を、まさにひき起した要因の一つであった。現代文明は、人工頭脳とかオートメーションによって、良くも悪くも特徴づけることができるだろうが、そのような技術を可能にした学問的な諸要因をさかのぼってゆくと、その一つとして今世紀初めになされたラッセルらの記号論理学(という新しい論理学の体系化)の業績にゆきつかざるをえない。専門的学者としてのそのような仕事に加えて、それが間接に生み出したオートメ的文明--人工衛星や大陸間弾道ミサイルもその結果だ--のもつ意義や危険について、一般の人々を啓蒙する在野の思想家としても、ラッセルは活動してきたのである。
 六〇歳のときに、かれは自分自身の死亡記事を風刺的に書いたことがある。九〇歳で一九六二年に死ぬというふれこみになっているが、その一文を「ラッセルは逝ける時代の最後の生存者だった」という言葉で結んだものだ。ただ過去の時代の生残りとして死ぬはずの一九六二年には、現実のかれはキューバの危機にさいして、フルシチョフとケネディにいち早く長文の電報をうって、暴発を避けさせるというもっとも現代的な--もっとも現代に必要な、という意味での--活動にうちこんでいたのである。

 因習にいどむ知性

 結論をさきに書いた形になったが、かれの長い生涯を簡単にふりかえっておこう。
 一八七二年に名門の貴族の家に生れ、ケンブリッジ大学で数学と哲学を専攻し、しばらくヨーロッパ大陸を訪れたりして、『ドイツ社会民主主義論』という処女著作を書いたが、世紀末から母校で記号論理学の体系化の仕事に約一〇年にわたって没頭した。当時のかれはすでに、「大衆のあいだで人気のない主義主張を貫徹しようとする道徳的な勇気こそ、最高の徳である」という信念をもつようになっていたが、当時の数学者「大衆」には、記号論理学はまだまったく「人気」がなかったのである。
 一九〇七年には、こんどは一般に「人気」のなかった婦人参政権運動を支持して下院に立候補し、みごとに落選したりしている。さらに第一次大戦とともに、「全身全霊をこめて」反戦運動に参加し、その言論活動から罰金や禁固刑に処せられたばかりか、ケンブリッジ大学関係者たちのあいだでも激しい不人気、非難のまととなり、禁固刑を受ける前に母校講師の職から追放されてしまう。そのようにして、かれの長い在野的自由職業家の経歴が始る。
 一九二〇年には、労働党使節団の一員として革命後まもなしのソ連を訪れ、同じ年に、辛亥革命後の中国にもかなりの期間滞在した。中国についてはそこでのイギリス帝国主義を痛論する一方、中国人に対する共感にあふれた著作をしたが、ソ連についてはその実際が社会主義の倫理的理念に背反しているという批判の書をかき、そのことから多くの社会主義者の親友たちを離反させてしまう。知性人としての真理に対する愛と、政治上の連帯の必要とをどのように調和させるべきか、という問題をつねに切実に感じながら、ラッセルはこの場合にもみられるように、結果としてほとんどいつも、みずから正しいと思うことはそれがどれほど不人気を招くことであろうと、あくまで直言するという知的勇気のほうに傾くのだった。
 一九二二年と翌年との二回にわたって、保守党の牙城であった選挙区から労働党候補として立ったが、二度とも落選した。これ以後、ふたたび職業的政治家になろうとはしなかったが、党派的性格の強烈なかれには、そのことはむしろ「現代」にとって幸運なことだったろう。不合理と考えられる社会的通念や正統説へのたたかいは、そのことによってより強まったとみられるからである。当時も強固につづいていたビクトリアふうな偽善の諸形態--正統的信仰や結婚、教育などの諸分野における偶像に、かくして次々に矢は放たれてゆく。
 一九二七年、二度目の夫人とともに実験寄宿学校の経営を開始。しかし児童の欲望をいっさい抑圧しないという方針は、一般の無理解から札つきの子どもたちばかりを預けられる結果を招き、その子どもが学校へ放火することなどもあって負債は山のようにかさむ一方、夫人からは離婚訴訟がおこされ、自由恋愛に近い異端説を実践もしたかれは、「背徳漢」として因習的ジャーナリズムの好餌となった。キリスト教倫理やその宗教的形骸に対するかれの果敢な攻撃が、その事件と結びつけて歪曲され、一九三五年ころには、社会通念や旧慣行にいどむかれのたたかいは、もっとも激しい反撃にあっていた。
 その反撃は海をこえてひろがっていた。右のような年々のあいだにもなされた専門的哲学の業績によって、一九三八年以降、アメリカの諸大学に訪問講義者として招かれはしたが、一九四〇年にニューヨーク市立大学がかれを専任教授として招いたとき、学界の教会筋から猛烈な妨害運動が起されたのである。その理由はかれが「宗教と道徳に反対する宣伝家として広く知られ、とくに姦通を弁護する人物」だということにあった。
 ニューヨーク最高裁判所にまで持込まれたその排斥運動は、裁判所がラッセルの「不道徳かつ淫乱な教説」のゆえに任命とり消しを判決したことで凱歌をあげた。伝統や因習とのたたかいはなまなかのことではなく、そのとき一時的にかれの財政的危機を救ってくれたバーンズ財団も、一九四三年に突然、かれを解雇する始末だった。翌年、長らくかれを追放していた母校がかれを呼びもどすことに決め、戦時下の困難をおかして家族とともに祖国へ帰った。
 第二次大戦後のこと、とくに戦争と平和をめぐるラッセルの言動については、若干くわしく論じておかねばならない。それにしても、ノーベル文学賞がかれに与えられた一九五〇年に、イギリスの文化勲章にも当る勲功章をも授与されたときのエピソードはおもしろい。
 「かつて国王の監獄の囚人であり、その言動が国王を教主にいただくイギリス国教会のひんしゅくを買った」ラッセルに、最高の名誉を授与する当の国王ジョージ六世はたずねたそうだ。「貴下は非常に波らんに富む一生を送ってこられたようだが、すべての人間が貴下のように生きようとしたら、世の中はうまくゆかないじゃありませんか」と。「そのとおりです--陛下の兄君ウィンザー公(離婚した婦人と結婚しようとして王位をすてた人物)が体験なさったように」とラッセルはあやうく答えかけたが、「郵便配達人はひとの家をいちいちノックしてまわりますね。しかし万人が他人のドアをノックして歩いたらこまるはずです」と返したという。

 泥にまみれる実行力

 さて、いま少しラッセルの内奥にたち入って考えてみよう。かつてかれはこう語ったことがある。「生涯を通じて、私は熱狂的な群衆に加わる者が体験するあの巨大な人間集団に帰一する気持を味わってみたいとあこがれてきた。この憧憬がきわめて強く、そのために私が自己欺瞞におちいることもまれではなかった。私はあるときは自由主義者を、またあるときは社会主義者を、また平和主義者を気どってみた。しかしけっきょく、私は本当の意味では、けっしてこうした主義者にはなりきれなかったのである。いつも懐疑的な知性が、こともあろうに一番黙っていてほしいときに、私の耳に疑問をささやくのだった。・・・クエーカー派〔の絶対平和主義者〕に対しては、歴史上の戦争のなかには正当な根拠をもつものも少なくないといい、社会主義者に対しては、私は国家の専制を忌みきらうのだと告げるのが、私のくせだった
 これは、党派性によって自由な知性の行使をくもらせることに反逆するかれの一面を、よくあらわした言葉である。しかしそれは一面にすぎない。えてしてそのような知性人は、鋭い分析や風刺をやってみせはするが、やっかいな社会実践にのり出して泥にまみれるようなことは、利口に避けるものだ。しかしラッセルはちがっていた。かれをしてちがわしめた他の一面は、なんであったのだろうか? かれ自身の表現を使えば、それは一九〇一年にかれが、「宗教的な人々が回心と呼ぶものに似た体験をした」ことにあった(右マンガ出典:梅太郎作「ラッセル思想紹介マンガ」より)。すでにふれたように、既成宗教の非人間的教条に反逆していたかれのその「回心」とは科学的な世界把握と素朴な側隠の情との奇妙な結合だった。「何百万年もの期問にわたって世界を完全に仕上げるだけの全知全能を与えられたものが〔もしあるとすれば〕、キュー・クラックス・クラン(アメリカ合衆国の秘密結社で排外や人種差別の組織)やファシスト党のようなくだらないものしかつくり出せない、と諸君は考えますか」といった直裁な形で、人格神や宇宙の目的を否定していたラッセルに、次のような覚醒がこつぜんとわいてきたそうだ。
 この広大な宇宙のちりのような一かけらにすぎない地球に、無意味にも住みつくわい小な人間ひとりひとりが、なんという宇宙的孤独にとりかこまれていることか、人間同胞はまさにその孤独を共通の紐帯として、連帯的ないたわりをもちあうべきではないか、という覚醒だった。それを「こつぜんとしかも身近に感得し、その悲劇的な孤立を少しでもやわらげる方途をなんとかして見出したい」という情熱にかられたという。その「回心」の最初のはげしいあらわれが、第一次大戦における反戦運動だったのである。

 二つの大戦を体験して

 すでに引用したように、ラッセルの立場は絶対平和主義ではない。第一次大戦が「威信」のために支配者によってなされる戦争にすぎないために、かれは投獄を賭して反対したのだった。第二次大戦前には、ナチスの暴逆に対する見通しを誤ったことから、ミュンヘン会談までかれは非戦論を唱えていた。ファシズムの現実を前にして大戦を支持するにいたってから、同会談「いらい生起した事柄にかんがみれば、それ以前の段階でドイツに敵対していたほうが、世界のためによかったと思われる」と公に自己の誤りを認めるのだった。
 しかし、原爆が日本に投下されたことは、かれにとって大きいショックとなった。まもなく水素爆弾の誕生を正しく予見したラッセルは、きたるべき戦争を避けうる唯一の方途は、世界政府を樹立してそれに軍事力を独占させることだと主張し始めた。この期間におけるラッセルの考え方には、独立にアメリカで活動したアインシュタインのそれと、驚くほどの一致がある。不幸にもソ連には、スターリンの独裁的支配がつづいた。そのソ連が原水爆をもつ前に、西側の圧倒的武力優位によってソ連を強制することさえあえてして、世界政府樹立の方向を受諾させねばならない、というのがそのころの考えだった。ラッセルが「矛防戦争論者にまでなり下がった」というひぼうが飛んだのは、このころの言論に対する誤解や誤報からである。いずれにせよ一九五〇年前後まで、かれが力を通じての平和を説いたことに問違いはない。かつての左翼の友人までが、かれを「変節」のゆえに糾弾するのだった。

 群衆を活ける大衆に…

 しかし一九五四年、ラッセルの態度には重大な変化が起った。ビキニにおける水爆実験の詳報を読んで、その破壊力の想像に絶することを知ったあとで、ここ数年とくにわが国にもよく報道されるラッセルが出現するにいたったのだ。ジャーナリスティックな表現を使えば、「ソ連に征服されるよりは原子戦争のほうがましだ」という境地から、「絶滅戦争よりは一時的にソ連に征服されることもあえて甘受する」という核武装廃棄の主張に飛躍したのである。このようなキャッチフレーズの形にすると、津波のような誤解をひき起すものだ。共産世界を悪魔視し、西欧的自由を守るためには死をも賭すべきだという十字軍精神は、いうまでもなく、これ以後のラッセルを猛烈にたたいてきた。三度も四度も「変節」した「背徳漢」「虚無主義者」という非難は、わが国にも火の手が上がっている。(松下注:一例として、福田恒存「現代の悪魔-B.ラッセルの反核運動について」)
 しかしながら、経験的に諸状況の変化に対応してものを考えるラッセルの主張には、時間的に推移や変化があることは確かだが^、そこに「変節」があるとみることは当らない。
 スターリンの死(一九五三年)以後にソビエトの基本動向に漸次的変化が見出せること、またビキニでの水爆実験がたんなる推測をこえて示すにいたった歴史的意義--つまり戦争という手段がいかなる目的に向けられたものであろうと、それが原水爆戦であるかぎり、手段としての意味を失い、人類抹殺の可能性をはらむこと--をみてとったラッセルは、朝令暮改のそしりを覚悟のうえで、全面的平和主義の立場を決断したのである。(松下注:ラッセルは、理念的な「××主義者」ではないが、ここでは、「実質的な」平和主義者になった、ということをいっている。)
 「共産主義社会と、非共産主義社会とはならんで生きてゆけるし、さもなければ共死である。それ以外の可能性はない」、したがって、「両陣営が政策の道具として戦争の脅迫を用いることを同時に放棄するように」訴え始めたのである。
 一九五五年に、かれは死の直前のアインシュタインをはじめ、湯川秀樹、ポーリング、キュリー、インフェルトなど、共産・非共産の両陣営にまたがる科学者の署名をえて、その趣旨を全世界に声明したことは、まだ読者の記憶に残っているであろう。しかしながら、全面的平和主義といっても、それは、進歩のための日常的なたたかいをやめることなのでは、もうとうない。
 その後ラッセルが委員長となって組織した「百人委員会」が、党派をこえたはばひろい連帯を実現させながら、非暴力の大衆運動をいくどもくりかえしていることが、如実に、それを証明している。一昨年初め、老体をおして国防省前にすわりこみをおこない、いくどめかの逮捕をうけたニュースは、はからずも、かれが西洋のガンジーたるかのごとき印象をさえ与えた。
 そのような大衆運動を組織するにいたったかれの思想は、すでにスターリン時代に書かれた次の一文にうかがうことができよう。
 「いまかりに、精神をおおう霧を除去する薬品が発見されたと仮定し、その薬を服用したのがスターリンとトルーマンの二人だけだと想定してみよう。・・・おそらくその二人は、ある中立地域で会合して握手をかわし、ともに酒をくみあいながらいいあうだろう。『ところで、ねえきみ、きみという人はこのわたしよりひどく悪漢だ、というわけじゃまったくありませんな』と。そこで二人は、ものの半時間もたつうちには、おたがいの国の利害が一般に衝突していると思われているすべての問題について、平等な立場にたつ解決を見出すであろう。二人ははればれとして帰国する。ところが、スターリンはモロトフに暗殺されてしまい、トルーマンはマッカーシー上院議員からてきめんに弾劾を受ける、という次第になるだろう。そのあとは、おのおのの国はもとの愚行にもどってしまうわけだ。この寓話でわたしが例証したいのは・・・われわれの悶着がたんに政府の行動によって癒すことができない、ということだ。必要なのは、ふつうの人々のふつうのものの考え方に変化が起ることである。・・・自己の利益を公正に評価する、ということ以上に必要なものは何もない、とわたしは信じている。このような見解を支持する熱意を喚起することが、とてもむずかしいものであるのは百も承知である。かりに貴方が、群衆にむかって次のようにいったとしよう。『みなさんがAなる方策をとれば、みなさんの半分は苦しみながら死に、残り半分はサンタンたる生活に追いやられるでしょう。それに反してBなる方策をとる場合には、みなさんのすべてが繁栄することになるのです』と。そしてこの根拠になって、貴方が一大政治運動をやり始めたと仮定しよう。・・・クソ真面目なモラリストたちは立ち上がって、次のようにいい出すだろう。『はばかりながら貴公の意図は低級である。物質的繁栄よりも重要なものが存在するのだ。偉大なる国民は、高貴な大義によって苦難が招来される場合には、その苦難の前に畏怖すべきであろうか? われらの祖父がわが国を偉大ならしめたのは、そのように低級な利己追求によってであろうか?・・・われわれは英雄のように生きるのだ。そして運命がそのように意志するとあれば、われわれは英雄のように死のうではないか』と。このようにしてひき起された群衆ヒステリーの前には、貴方はまったく無力である自分を見出すだろう。(傍点引用者)

 啓蒙された利己心

 かれはわざと軽やかに書いている。そのような「群衆ヒステリー」に、生涯くりかえし襲われつづけてきたラッセルが、当の群衆を活ける大衆に変えようと決意したとき、かれは素朴な語り口とユーモアさえまじえた戯画化とを選んだのだ。「自己の利益を公正に評価する、ということ以上に必要なものはなにもない」というかれの信念は示唆的である。それをまた、「啓蒙された利己心」とも呼ぶかれは、宗教的訴えを背後にもつガンジーとはちがって、その「利己心」を非暴力大衆運動の根幹にすえる。「啓蒙された利己心」こそ、現代の道徳であり理想であるというラッセルは、西欧合理主義の一つの極地をひらいたといっていい。
 「百人委員会」は、イギリスの一方的核武装廃棄の運動だけをやっているのではない。とく最近わが国の新聞につづけて報道されたニュースは、かれの起した大衆運動が、市民生活の民主化をめざして国際的連帯をもつにいたったことを示している。
 七月上旬にギリシャ国王夫妻がイギリスを訪問したが、ギリシヤでは戦前のわが国のような抑圧がおこなわれており、その国王夫妻がイギリス女王の公式夕食会に招かれた晩、百人委員会は先導をつとめてバッキンガム宮殿にデモをかけた。ラッセルは宮殿に到着して、「ギリシャでは千人以上の政治犯が悲惨な状態で拘禁されている。ギリシャ王室がこんどの訪英で、その耐えがたい支配を正当化しようとするのは間違いだ。政治犯の釈放と公正な選挙とを、女王からギリシヤ国玉にすすめてもらいたい」と、きびしい書簡を提出したという。
 最近、わが国にもその翻訳が出たアランウッドのすぐれたラッセル伝は、ラッセルの哲学思想を評してこう書いている。「科学が、よかれ悪しかれ、ほとんど無限の力を与えるとともに、今まで善悪のはっきりしたけじめをつけるものと思われてた。在来の信仰への信頼を破壊してしまった時代のディレンマに、かれは正確に焦点をあわせたのである」と。
 わたしは、この批評を出色のものと思う。わたしが冒頭にあげた「近代的」な考えは、それ自体、旧思想や旧慣行の悪をへらすだけで、自己完結的な答えなのではい。現代は、はじめて「近代」思想が試練に立った時代なのだ。それは新たな諸問題を次々に生んでいる。その現代をもたらすのに苦闘したラッセルが老体をひっさげて責任をとりつづけている姿に、わたしは感動する。