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市井三郎「ラッセルと日本」
『週刊アンポ』(小田実・編集発行)n.8(1970.02.23)p.66.

*『週刊アンポ』の「アンポ」は、「日米安全保障条約」のことです。

 

 バートランド・ラッセルがこのほど逝去した。たまたまぼくは、かれの本をいく冊か邦訳した人間であり、かれのものの考え方や生き方の基本姿勢について、有る程度わかる気がしている。ここでは、かれの反戦運動の態度が、われわれの日本人のそれとくらべて、どこがちがっていたかということを考えてみたい。
 スターリン(1879-1953.03.05の統治下において、基本的人権(と、西欧側で呼ばれるもの)が、大はばに抑圧されたことは周知である。1940年代の終わりころ、つまりスターリン晩年に、ラッセルは次のような意味の言葉をたしかに公表した。(注:スターリンによって約1,000万人〜2,000万人が政治犯としてシベリアの強制収容所に送られ、死亡したといわれているが不詳)
「スターリンのソ連によって征服されるくらいなら、そのソ連と、原爆戦争をやる方がまだましだ」(松下注:スターリンは、1953年3月5日に死亡/確かこれはアメリカの新聞社のインタビューで述べたことだったような気がする。したがって、ラッセルが正確にどのようにいったのか不詳。また、公表を予定しない私的な手紙においてもそれに似たことを書いている。/右イラスト出典:B. Russell's Nightmares of Eminent Persons, 1954)
 この言葉は、いわゆるスターリニズムへの嫌悪をレトリカル(修辞的)に表明した言葉だったのだが、ジャーナリズムの上では、「ラッセル、予防戦争を主張す」などと、騒ぎ立てられたものだ。そのようにとられても仕方がない言葉を公表した以上、その種の曲解にかれはムキになって弁明しようとはしなかった。当時の冷戦の雰囲気のなかで、1950年に、ラッセルにノーベル文学賞などが授与された事実は、ノーベル賞にも「政治的配慮」が入ることを皮肉にも証拠だてた出来事だった、と今では明瞭にいうことができよう。
 だが、B.ラッセルは、あくまでも背骨の強い経験主義者であった。1950年代のはじめに、太平洋上でアメリカが行った水素爆弾の実験結果(松下注:1954年3月1日、ビキニ水爆実験)を知ると、かれは決然たる行動を開始した。「ラッセル=アインシュタイン声明」(右写真:「声明」を記者発表中のラッセル、1955.07.09)とか「パグウォッシュ会議」といった名で知られているように、核兵器廃棄運動を国際的に始めたのである。(松下注:ラッセルは、1945年11月28日、原子爆弾及び核戦争の危険性について、英国上院で演説を行っている。)
 しかもラッセルがこの時期以降に公言した言葉を、ぼくは重視したいのだ。イギリス国民に対して、かれは次のような意味の説得をくりかえし行ったのである。
「イギリスが核兵器を廃棄することによって、たとえソ連に征服されるようなことが起こったとしても、イギリス国民が核戦争によってすべて抹殺されるよりはましである。人民はたとえ他民族に征服されるとしても、いつかはその征服をはねのけることができるのだから・・・」と。
 

 イギリスの若い世代は、ラッセルのこの知的誠実性に感応した。ひるがえって、日本は、どういう事態なのであろうか。日本では、非武装中立の声はラッセルより早く起こっている。核兵器廃棄運動も、ヒロシマ・ナガサキより早く起こったのは確認しておいていい。
 だが、日本のいわゆる革新系知識人は、ラッセルほどの知的徹底性を示したであろうか。本質洞察とかによって、「社会主義諸国は平和勢力である」と規定し、当の社会主義諸国のあいだに、武力が行使される現実(ハンガリー事件)にろうばいしたのではなかったか。そのとき、なお何らかのリンクによって、「社会主義国」相互の武力行使を正当化した人々も、十数年後の(ソ連軍による)チェコ(侵入)事件にさいしては、多くの態度を改めざるをえなかったのではないか。
 人間は神ではない。だから誤りは、もちろんさけることはできないのだ。しかし人間が、自己の誤りに気づいたときにとる態度によって、その人間の真骨頂が明らかになるのではなかろうか。アフリカではビアフラが陥落し、何百万の黒人が餓死に迫られていることをわれわれも知っているはずだ。ベトナムの死闘のことはいわずもがな。>そのように生死をかけて闘っている人間が、この地上にまだいく千万もいることを知っていながら、何であれ戦争なんかはゴメンだ、というに近い論理(と心情)だけで、事に処しうるのであろうか。

 

 厭戦心情をもすくい上げて反戦運動へ集結する、といわれるような主張に反対しているのではない。本気で普遍的な反戦をとなえるのであれば、自国が軍事的征服にさらされたときにも、戦争よりは征服されることをえらぶ、という徹底した論理的帰結を公言する用意があるのか、という基本姿勢を問うのである。
 ラッセルの死にさいして、ラッセルに美言を呈することはやさしい。だがラッセルの生き方−百歳に近い老年にいたるまで、かれが貫徹した生き方−がわれわれに深いところで問いかけてくるものを、各自の内奥でかみしめることこそが、かれの死に対するもっとも人間的な弔いであろう。
 ぼくはラッセルのあらゆる意見に、ただ追従しようとするような心境からは遠い人間である。だが、かれの知的誠実性には、文句なく脱帽する。アルジェリア解放の闘士であった黒人F.ファノンも、いま生きておれば、同様のことばでラッセルに哀悼をささげるだろうと思う。(了)