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岩松繁俊(著)『平和への告発-バートランド・ラッセルとナガサキ』への「まえがき」

* 出典:岩松繁俊(著)『平和への告発-バートランド・ラッセルとナガサキ』(精文館, 1971年7月25日刊 13+248pp. 19cm. * 岩松繁俊氏略歴

 まえがき(1971.7.25)

 1970年2月2日午後8時、バートランド・ラッセルは、ウェールズのプラス・ペンリンにある自宅でなくなりました。昨冬、イギリスで流行したインフルエンザのために、97年8か月と15日という、長い、そして充実した、たぐい稀な生涯を閉じたのです。(右写真:プラス・ペンリンの自宅の玄関/(故)牧野力教授のアルバムより:1972年8月12日撮影)
 イギリスでインフルエンザが流行している、と知ったとき、わたしは秘書役をつとめているクリストファ・ファーレーに、流感がはやっているということですが、みなさんお元気ですか、とわたしの懸念をつたえたのですが、ビールスは、非情にも世界中のきわめて多数のひとびとのねがいや希望をふみにじり、ラッセルの生命をうばってしまったのです。
 訃報は、突然に、わたしの耳に達しました。東京のある新聞社から、長崎大学で仕事をしているわたしのところへ、長距離電話で知らされました。まだラッセルが死ぬはずはない、とかねて信じつづけてきましたので、その訃報を完全には信じかねました。しかし、いろいろの報道機関が、ラッセルがなくなったので、ラッセルと関係があったあなたにおたずねしたいのです、と電話をかけてくるにおよんでは、この訃報を虚偽だとはねつけることもできなくなりました。
 たしかに、ラッセルは、あの日の夜に、なくなったのでしょう。しかし、わたしのこころのなかには、ラッセルは生きつづけています。わたしのなかで、わたしのラッセルは生きています。
 わたしのなかで生きているラッセル、それは、たしかに、あのたぐい稀な「人類の良心」であり、「英知」であり、「勇気」であり、「人間性」そのものであったラッセルのごく一部分にすぎないでしょう。わたしはそれをよく知っています。しかし、たとえそれがどんなに一小部分にすぎなかろうとも、それはラッセルであることにまちがいありません。忘れられたり、ゆがめられたり、誤解されたりするよりは、たとえどんなに小さくとも、ラッセルそのひとを生かしつづけてゆくことには、はかり知れない意義があるはずです。

 1968年の夏、わたしは、ラッセルの反戦・平和のための思想と行動を、『20世紀の良心』(理論社刊)と題する1冊の書物にまとめて、発表しました。この書物のなかで、わたしは、1962年から1968年はじめまでのあいだにラッセルが発表した声明、メッセージ、あるいはアピール、さらには、それ以外の実践活動を綿密にとりあげ、それらを通して、反戦・平和活動家としてのラッセルの思想を詳細にあとづけ、浮き彫りにすることを、こころみました。そのとき以後、ラッセルがなくなるまでの2年問に、ラッセルの思想には何らの変更もありませんでした。したがって、基本的には何も付加する必要がありません。具体的補足はべつとして、ラッセルの反戦・平和思想にかんするかぎり、拙者『20世紀の良心』に、書くべきことのすべてを書きとどめたという気持は、いまもすこしもかわりません。
 ところで、まえのこの著書は、いまのべたように、ラッセルが全世界にむかって公表した声明やメッセージなどを中心に、ラッセルの反戦・平和の思想と行動を浮き彫りにしたもので、いわば、「公的な側面からみたラッセル像」を、ねらいとしたわけです。いま、わたしが、世におくりだそうとしている本書は、ラッセルがわたしにおくってくれた私的な書簡を中心に、かれの反戦・平和にかんする不屈で決断的で雄大な闘志と行為、ならびに、謙虚で誠実で几帳面な人柄と行為を浮き彫りにしようとしたものです。いわば、「私的な側面からみたラッセル像」が、そのねらいだということができるでありましょう。
 ラッセルは、非常な高齢にもかかわらず、そして、全世界的な名声と尊敬とにもかかわらず、真剣な手紙には、だれからのものであっても、かならず、すぐに返事をだしました。これは、簡単なことのようで、じつはたいへんなことです。とくに、わが国では、有名人ともなれば、無名のひとからの手紙には返事をださないのが当りまえ、ということになっています。ラッセルほどの尊敬をかちえていないひと、ラッセルほどの高齢にもなっていないひとがそうなのですから、ラッセルの人格が、どんなに清潔で誠実であるか、どんなに純粋で謙虚であるか、理解していただけるとおもいます。かれの謙虚さは、名声を鼻にかけるような、うすっぺらなものではありませんでした。

 ラッセルの書簡は、全世界からよせられる1週間に1,000通という多数にのぼる手紙に目を通して懇切に返事を書くという、謙虚誠実で多忙な行為のなかからうまれてくるものであるために、おおむね、短い文章で綴られています。したがって、どういう問題をどのような背景のなかでとりあげているのか、ということを、補足的に説明する必要があります。また、往復書簡という形式をとっていますので、わたしの手紙がどういう内容のものであるかがわからなければ、ラッセルの手紙だけでは、事情がじゅうぶんには理解してもらえないばあいが多いでしょう。これらの理由から、ラッセルのそれぞれの手紙には、わたしの手紙の内容や背景について説明する解説文を付加しました。ラッセルの手紙は、時間の順序に配列し、それに番号をつけました。ごらんのように、あとになるほど、手紙の数は減少しています。これは、ひとつには、バートランド・ラッセル平和財団の活動が軌道にのって、若い理事がラッセルにかわって連絡を担当するようになったこと、もうひとつは、ラッセルが次第に齢をかさねて、「年齢の重荷」が無理をゆるさなくなったこと、のふたつの理由によるのです。しかし、ラッセルの手紙が減少しても、その平和財団の活動はすこしも減少せず、また、平和財団とわたしとのあいだの連絡はすこしも疎遠とはなりませんでした。これらの事情をしめすために、わたしは、ラッセルの手紙のほかに、平和財団理事の手紙を付加しました。
 ここには、3つの例外をのぞいて、すべて私的な書状のみをおさめました。理事からの手紙および3つの例外=公的な発表物をふくめて、全部で、127通あります。しかし、これは、今日(1971年5月1日)までに、わたしがうけとった郵便物のすべてではありません。ここには収録したかった手紙、解説文のなかで紹介したにとどまる手紙、資料のみが封入されていて書状がはいっていなかった郵便物が、ほかに、103通あります。したがって、1971年5月1日現在までに、イギリスからおくられてきた郵便物230通のなかから、ここでは127通を選択して収録したわけです。時間的には、1970年4月1日のファーレーの手紙までをおさめました。
 他方、わたしが、ラッセルや理事に発送した郵便物は、1971年5月1日現在で、226通あります。このなかには、資料のみで、書状を封入していない郵便物も、何十通か、ふくまれています。書状をおさめた封書に、資料が同封されているばあいには、書簡本文のつぎに、「同封物」として、その資料のタイトルをしめしました。そして、それらは、すべて、ラッセルの思想と行動を知るうえで、重要なものばかりですが、なかでも、とりわけ重要で、全文を紹介すべきだ、とおもうものは、そのタイトルのつぎに、その全訳を掲載しました。
 また、書状に、「別便で……をおくりました」とあるばあいには、なるべく、その書状のつぎに、「別便」として、その資料のタイトルをしめしました。
 まえにのべましたように、ここには、ラッセルからの手紙と同時に、財団の理事や事務局員からの手紙も、おさめました。ラッセルからの手紙については、おくり主の名前を特記する必要がないので、記録しませんでしたが、ラッセル以外のひとからの手紙については、発信日のつぎに、名前を記しました。したがって、発信人の記載のない手紙は、すべて、ラッセルのものです。発信場所については、記載しませんでした。ラッセルからの手紙のばあい、その発信地は、ほとんど、ウェールズであり、他のひとからのばあいは、ほとんどロンドン、ごく少数がノッテインガムなどです。

 前著『20世紀の良心』には、ラッセル自身がすすんで序文をよせてくれました。しかし、本書には、いうまでもなく、序文がありません。序文をよせるべきラッセルそのひとは、もうこの世界に存在しません。破滅の脅威がますます切迫の度をくわえるこの人類世界において、「人類の良心」を失った損失は、じつにはかり知れないものがあるといわなければなりません。それは、ただ序文がないという些細な問題では、すまされない、人類全体にとって深刻重大な問題です。(右写真:本書p.237より)
 しかし、ラッセルは、その生涯の最後にいたるまで、訴えつづけ、書きつづけ、たたかいつづけてきたそのすべての行為のなかに、その思想と英知と勇気と誠実と、総じて、もっとも人間らしい生命を、表現しつくしてきました。ラッセルは、これらのなかに、生きつづけています。この小著が、もっとも人間らしい生命を、ほとんど1世紀もの長いあいだ燃焼しつくしてきた、たぐい稀なひと、ラッセルを、記憶し、追想し、そしてたたかいの指標、行動の原理とするのに、いささかなりとも役立つことをひたすら念願いたします。

 おわりに、この小著が成立するのにお世話になったかたがたへ、感謝の言葉をささげたいとおもいます。本文をひもとかれるとおわかりのように、本書の対象であるラッセルとの書簡の往復が、はじめに成立し、そして内容ゆたかに持続されつづけることができたのには、じつにたくさんのかたがたの蔭に日向にのご協力がありました。いま、ここでいちいちお名前をあげることをしませんが、核兵器の廃絶、安保の廃棄、沖縄問題の完全な解決、ヴェトナムその他、A.A.LA諸国にたいする帝国主義侵略反対、政治、教育、経済、大衆の生活・権利などの各局面におけるわが国のますます反動化し、軍国主義化する状況への抵抗のためにたたかう長崎および全国の多数のかたがたの大小さまざまのはげましがなければ、わたしのラッセルとの連帯と文通も、これほど頻繁かつ緊密におこなわれたかどうかわからない、とおもわれます。
 本書のような、最近の流行に逆行する地味な書物の出版を、こころよく引うけてくださった精文館の下川禮次郎氏にたいして、そして松村仁氏に、深く感謝の意をあらわしたいとおもいます。
 1971年6月1日 岩松繁俊