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加藤周一氏、2008年12月5日逝去」


 日本の著名な評論家 加藤周一 氏が,2008年12月5日に死亡されました。享年89歳。

 加藤周一氏(1919年9月19日‐2008年12月5日)は,ラッセルの著書の愛読者であり,本ホームページにも下記のエッセイを掲載してあります。また,講談社版「人類の知的遺産」の企画委員の一人であり,このシリーズの第66巻は市井三郎(著)『ラッセル』です。私も学生時代に加藤氏の『羊の歌』を購読し,多少影響を受けました。
 今後も,加藤氏の,ラッセルに関係した事項及び事実について,適宜追記します。(2008.12.06 記)
  1. 加藤周一「文は人なり、または『ラッセル自伝』の事」(『朝日新聞』1976年9月3日夕刊掲載/連載「言葉と人間シリーズ」)

(加藤周一氏の言葉)
・・・。一個の人生の生きるに値するかどうかは、必ずしもその達成した事業の大きさによらない。ラッセルの場合に、それは大きかった。凡人の場合に、それは大きくない。しかし私は、みずからの情熱を裏切らない人生は、たとえ達成したところがどれほど小さくても、生きるに値すると考えるのである




『羊の歌』『続・羊の歌』(岩波新書からの引用)

[(母方の)祖父の家]
 前世紀の末に,佐賀の資産家の一人息子が,明治政府の陸軍の騎兵将校になった。日清戦争に従軍するまえに,家産を投じて,馬二頭と馬丁を貯え,また名妓万龍をあげて新橋に豪遊し,イタリアに遊学しては,ミラノのスカラ座にカルーゾーがヴェルディやプッチーニを唱うのを聞いた。それが私の祖父である。(p.1)
 祖父には女友だちが多かった。その中の一人は,西洋人で,私たちがいるときにも,祖父が電話に起って,フランス語でその婦人と話すこともあった。家族のなかにフランス語を解するものがいなかったから,それが商売の電話であるなどと,いいつくろっていたらしい。・・・。その頃西銀座に祖父はイタリア料理店を経営していた。(「放蕩者の祖父」についての記述が続く)・・・。(p.5)
 祖父は子供たちに対しては,寛大で、金ばなれがよく,いくらか気まぐれで,しかし一種の誠実さを備えていた。子供に対する約束でもそれを気軽に破るということはしなかった。(p.9)
 イタリア料理店には,子供の私にとっての「西洋」があった。・・・。(p.10)

[渋谷金王町]
 埼玉県の地主の次男(加藤周一の父)が、早くから家を出て、浦和の中学校へ通うようになった・・・、それから第一高等学校の寄宿寮に入り、・・・、東京帝国大学の医学部に進み、・・・、大学病院に進み、・・・、大学病院の内科に勤務することになった。・・・。大学病院の内科教室では、医局長になった後に、主任教授が亡くなり、後任の教授の選び方について、医局員の意見と大学当局の意見との間のくいちがいが生じた。医局員側の意見を代表していた医局長は、大学当局の意見が通って後任の教授が決定されたときに、大学を去って、(渋谷区金王町に)開業した。(pp.26-27)
 金王町の家では、私のすぐあとにつづいて、が生まれた。仕事に忙しくなく、付き合いも少なかった夫婦は、2人の子供の教育に熱心であった。一方の子供がいじけることにないように、男女の子供を平等に扱い、けんかは両方の言い分を充分に聞いた後で裁いた。(p.31)
 ・・・。父親は頑固な無神論者(注:母はクリスチャン)であったから、子供の教育と基督教とがかかわり合いもつことを歓迎せず、・・・。(p.33)

[病身]
 私は本を読み、多くの言葉を覚え、それ以上に多くの疑問を持っていた。その疑問をはらすために、相談することのできる相手は、身の廻りでは、父の他いなかった。当然私は父と話し合うことが多く、そのものの考え方から強い影響を受けざるを得なかった。・・・。しかし父と会話する機会が多ければ多いほど、同じ年頃の子供たちとの話しに、私は満足することができなかった。(p.47)

[駒場]
 私は、昔父が住んだ旧制第一高等学校の本郷の寮を知らない。私が三年間住んだのは、学校が駒場に移って一年後、戦後に東京大学の教養学部が使ってきた建物である。・・・。第一高等学校は、ながくその「自治寮」制度を誇りとしていた。小数の例外を除いて、一般には学生の通学を認めず、すべての学生が寮に住んで共同生活をするのを原則とし、寮の共同生活は、寮生がみずから定めた規則に従う。・・・。(p.116)
 しかし「自治」の原則と個人尊重の風習が、学生の心のなかで「人間平等」の観念とむすびついていたわけではないだろうと思う。むしろ逆に、誇張された「選良」の意識があり、大衆には許されない特権が自分たちだけは許されているという漠然とした考えがあった。(p.117)

[戯画]
 駒場の高等学校(一高)は、寄宿寮にその古い習慣を維持しようとしていたばかりでなく、教場でもその「伝統」に忠実であった。学生は一年の授業の三分の一以上を休んではならないとされていたが、出欠をとる教師は、一人の学生が欠席した仲間の代わりに返事をするのを−−私たちはそれを「代返」とよんでいた−−黙認していた。教場に出るのも出ないのも、学生の自由であり、教師の側が学生の顔色をうかがうということもなかった。みずから教える値打ちのあると思うことを教えて、そのための予備知識は学生が何とか工夫して備えるだろうということをたてまえとしていた。物理学の教師は、学生が数学にどの程度慣れているかとうことを考慮しなかった。ドイツ語の講師は、三ヶ月初歩の文法を説明すると、ただちに古典の訳読をはじめた。・・・。(p.126)
 ・・・。古来の「淳風美俗」に従い、日常生活では、親しい一人の女さえも知らなかった。女については、わいせつな妄想を抱くと同時に、他方では途方もない憧れを抱いていた。そのどちらも、現実の女の前では−−たとえ喫茶店の娘のまえでさえも、全く役に立たなかった。・・・。(p.136)
 私と妹とは、九月半ばに私の学校がはじまるまで、追分(軽井沢)の家に暮らしていた。 ・・・。私と妹は、恋人たちのように寄り添いながら、人気のない野原に秋草の咲き乱れるのをみ、澄み切った空気のなかで、浅間(山)の肌が、実に微妙な色調のあらゆる変化を示すのを見た。・・・。もし私がこの世の中でひとりでないとすれば、それは妹がいるからだ、と私はその時に思った。私は高原のすべてを愛していたが、それ以上に、妹を愛していたのだ。(pp.146-147)

[仏文研究室]
 本郷の大学(東大本郷キャンパス)で、私は医学部の講義ばかりでなく、文学部の講義も聴いていた。学校で英・独語を習い、独習していくらか仏語を読めるようになっていたけれども、私はまず一般学生のための仏語の講義に出席した。(p.178)

[内科教室]
 東大附属病院の内科教室は、私に実験科学への興味をよびさました。私が無給の副手として内科教室に入ったときに、教室の医者の数は、新たに加わった私の同期生も含めて、名目上は、五十人を越えていたろう。しかしその多くは、卒業と同時に軍医として召集されていたから、実際には二十人ばかりが、医局 −と病院の医者の部屋をよんでいた− に残っていたにすぎない。教授・助教授・講師・外来医長が一人ずつ、助手が四、五人、のこりが副手であった。将来必要があれば、市内の病院で働き、暮らせるだけの稼ぎはできるだろう、と私は考えていたが、定まった計画をもっていたわけではない。戦の見通しがたたなかったから、将来の計画のたえようもなかった。家産はすでに傾いていたが、さしあたり稼がなくても、暮らしてゆくことはできた。(pp.200-201)

[八月十五日]
 ・・・私はその時が来るのを長い間のぞんでいた。しかしまさかそのときがこようとは信じていなかった。すべての美しいものを踏みにじった軍靴、すべての理性を愚弄した権力、すべての自由を圧殺した軍国主義は、突然、悪夢のように消え、崩れ去ってしまった、とそのときの私は思った。これから私は生きはじめるだろう、もし生きるよろこびがあるとすれば、こらからそれを知るだろう。私は歌いだしたかった。・・・。(p.219)


★『 羊の歌−わが回想』から

[信条]
 一九四五年九月、私は再び本郷の病院の二等病室に住んでいた。昼間は患者を診て、夜は研究室で顕微鏡を覗き、深夜に病院が寝静まってからは、内外の文芸家の著作を手当たり次第に読んでいた。(p.1)
 ・・・。焼け跡の東京には、見せかけの代わりに、真実があり、とりつくろった体裁の代わりに、生地のままの人間の欲望が−−食欲も、物欲も、性欲も、むきだしで、無遠慮に、すさまじく渦をまいていた。政府は、「一億総ざんげ」という言葉を思いついて宣伝していたが、誰もざんげをしていなかったり、またその必要も感じていたわけではない。・・。(p.3)
 ・・・。「戦後の虚脱状態」という文句も使われていた。しかし私が乗合(バス)の窓から眺めた東京の市民の表情は「虚脱状態」で途方に暮れているどころか、むしろ不屈の生活力に溢れていた。「虚脱」していたのは、戦争を賛美した言論界の指導者たちであったかもしれないが、闇屋でも、闇米でもうけていた農家の人々でもなかったろう。・・・。(p.3)
 電車のなかには、また、人の良さそうな沢山の顔があり、週末には、子供連れの父親や、夫婦もいた。彼らはそれぞれの家庭で、よい父やよい夫であったにちがいない。そのことと、その同じ人間が、昨日までは中国の大陸で人を殺していたであろうことが、どうして折り合うのか。日本人の人柄が変ったのか、それとも変ったのは、さしあたりの状況にすぎず、同じような条件が与えられれば、また同じ行為をくり返されるのだろうということか。・・・。(p.4)

[広島]
 ・・・。そのとき私は,東京帝国大学の医学部と米国の軍医団が共同で広島へ送った「原子爆弾影響合同調査団」に、日本側から参加していた。・・・。(p.15)

[京都の庭]
 その女(ひと)のために私はしばしば京都へ行った。私は彼女を愛していると思っていた。あるいは愛していると思うことと、愛していることとは、つまるところ同じことだと思っていた。・・・。(彼女の)若くして死んだ夫は、仏教学者で、唯識論に凝っていたらしいが、彼女自身は仏教に興味をもっているのでもなかった。子供が一人あって、近所の小学校へ通っていた。(pp.34-35.)
 ・・・。私はまた同時に、私自身の生涯を、母の死を境として、その前後に分けて考えるようにのなったのである。・・・。私は無条件の信頼と愛情のあり得た世界から、そういうものの二度とあり得ないだろうもう一つの世界へ自分が移ったことをはっきりと感じた。(p.41)

[第二の出発]
 ・・・。広島では、たしかに、米国人の医者と英語で話していた。しかしそれは日本語の世界のなかで、たまたま私が自分の考えを英語に訳していたにすぎず、周囲の世界の全体が、英語を媒介として、構成されていたのではない。私は旅客機のなかで、私はすでに、もしすべての考えを外国語で表現するほかはないとすれば、そのことは私の考えの内容にも影響をあたえずにはいないだろう、と感じはじめていた。・・・。(p.46)

[中世]
 ・・・。言葉については、まえにも触れた。日常生活の上ではほとんど言葉の不自由を感じないようになった後、私はその言葉と日本語との相違を、いよいよ鋭く意識するようになった。その相違は根本的なもので、その言葉を話しながら暮らすということは、日本語の世界とは微妙に異なる別の精神的秩序のなかへ、次第に深入りしてゆくことを、意味するほかないように思われた。その深入りの可能性は、しばしば私を戦慄させた(p.80)

[冬の旅]
 ・・・。わたしはヴィーンに一週間いた。・・・。しかしいつまでもそこにいることはできなかった。それで再び西停車場へ戻り、パリ行きの「オリエント・エキスプレス」に乗った。駅まで送って来た彼女は、何もいわず、大きく潤んだ眼をみひらいて、車の窓の下に立っていた。列車が静かにすべり出したときに、彼女は身をひるがえして、反対の方向へ歩み去り、一度も立ち止まらず、一度もふり返らなかった。窓から乗り出してその後姿を見送ったときに、私ははじめて、私が彼女を愛しているということに気がついた。・・・。(p.119)

[海峡の彼方]
 それは風の強い夕暮れであった。私は今でも、波頭の白い海の彼方に、'薔薇色に染まる'ドヴァーの'白い崖'をはじめて見た瞬間を、忘れることができない。・・・。20年以上もその歴史と文化について聞き、読み、想像していたが、みずからその土を踏むことがあろうとは信じられもしなかった国・・・。(p.131)
 ・・・。私に英文学のたのしみを教えたのは、東京の中学校ではなくて、スエズの戦乱の後にカイロで自殺したカナダの外交官ハーバート・ノーマン氏であった。「近代国家としての日本の成立」や「忘れられた思想家・安藤昌益」の著書によって知られているこの歴史家は、日本で生まれて日本語を読み、英国で教育を受けてラテン語を読み、ローマ市に詳しく、広く英文学にも通じていた。・・・。(p.133)

[外からみた日本]
 ・・・。しかし私は荷物を神戸に残したままその足ですぐに京都へ出かけた。子供が病気で、神戸まで迎えに行くことができなかったのだと、私を待っていた女(ひと)はいった。私はなんのために帰ってきたのかを説明して、そのまま別れる他ないのだとくり返し、彼女はなかなかそれを信じようとしなかった。「そんなことってあるかしら。こんなに待っていたのに。」 そのとき私は同じことをくり返す私自身を憎んでいた。私は自分が一人の人間の生活を精神的に破壊しようとしていることを感じた。「あなたは馬鹿ね、また同じことになるでしょうに・・・。」 そうにちがいなかったろうが、将来「また同じことになる」かならぬかは、私のとって全く問題ではなかった。「不満な点があるのなら、いってくれ」と彼女はいった。そういうことではない。私はながく彼女を愛していると思っていたが、ひとりの女に本当に夢中になったときに、彼女と私との間の関係がそれとはちがうものであったと気がついたのである。「不満な点などはひとつもない。欠点があったとすれば、それはたしかに私の側にありすぎるほどあっただけだ」と私はいい、事実そう思っていた。・・・。それは完全に自己中心的な状態である。しかしそういう状態が成立すると同時に、私はそういう自分自身を第三者のように眺めてもいた。・・・。(p.168)
 
[審議未了]
 ・・・。しかし、もの心ついてからこの方、何の因果で、私は、日本国民でありながら、日本政府の政策に反対でありつづけたのか。すでに1941年、私は東條内閣の戦争に賛成できなかった。当時の閣僚の一人が、再び起って、新しい軍事同盟(日米安全保障条約)を結ぼうとしたとき、その政策にも賛成できなかった。おそらく私は、生まれつきの性質が険しく叛骨の抑え難いものがあったから反対したのではなかったろう。羊の年に生まれた私は、みずから顧みるのに、その性情の温和なること羊の如く、話をするのにさえ大声叱咤を好まない。・・・。道義的立場から憂国の至情がやみ難かったというのでもない。そもそも道義上の問題については、どういう絶対的な答えも私にはなかた。政治上の問題についてはなおさらである。・・・。言論の自由がなかったときに、私はだまっていた。言論の自由があったときに、私は自分の意見を喋った。生命をかけて政治運動にとびこむほど、政治上の道義を信じたことはない。しかし立身出世、わが身の栄華栄耀(えいがえいよう or えいようえいが)いうことの値打ちは、それ以上に信じなかったというころにすぎない。・・・。(p.215)