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ケン・コーツ(著),東宮隆(訳)「バートランド・ラッセルの国際的視野」
ケン・コーツ(編著),日本ラッセル協会(訳)『社会主義ヒューマニズム−バートランド・
ラッセル生誕百年際記念論文集』(理想社,1975年8月刊. 311pp.)pp.267-303.

* Ken Coates (1930〜2010.6.27):ケン・コーツ氏は当時,バートランド・ラッセル平和財団理事。
* 原著: Essays on Socialist Humanism, ed. by Ken Coates. Spokesman, 1972.
* 本論分は,同書の第13章に収録されたもの


 

 「帝国主義」という言葉は,みにくい言葉だが,しかし,あいにく,この言葉を使うようになった動機には,そもそも深く隠されたものがある。その点,'文学的感受性'を働かす動機のように,この言葉を流行らせまいとする言わば暗黙の了解を作りあげてきたものとは,深さも隠されたものも,くらべものにならない。やたらに激しいばかりで通例読まれたことのない急進的左翼の書きものや,時によると,政治家が相手の不正を指弾する際のものの言いかたに,「帝国主義」という言葉は,今も残っている。しかし,先進(?西側諸国の自由な新聞雑誌の丹念に流行を追うジャーナリズムで,この言葉が使われるときは,必ずと言っていいほど,或る種のアイロニー(皮肉)が伴っている。それは,ぶしつけと,あらためて言うまでもないことをまた持ち出した感じとが,妙にまじりあっているではないか,と暗に言っているようである。何と言っても,インドシナ戦争(ベトナム戦争)こそ,世界中の少数になってゆく青年たちに,再び「帝国主義」を口にさせてきたものである。それは,まさにこの戦争が,たとえば「集団虐殺」というような,こんにちでは単に'悪夢'に過ぎないと思われていた言葉を,幾つかほかにも復活させたのと同じである。

 他方,「勢力範囲」という言葉も,現今では,新聞紙上でまったくお目にかからない。ヴィクトリア朝時代のセックスという言葉や,現代の(における)「死」という言葉と同じように,「勢力範囲」ということを人前で口にするのは,単に'不作法'なばかりでなく,じつに'いやな感じのもの'である。「西側」で,ギリシャ将軍団が,北大西洋条約機構参謀幕僚の支持を仰ぎ,戦闘のために国境で待機しているトルコ軍にやさしく見守られながら,なさけ容赦もなく国家を管理し,過去と現在の反対者を等しく葬り去って,自由主義ジャーナリストと共産主義音楽家を近くの獄舎にぶちこめば,東方圏の人は,誰によらず,これはよくないことで,非民主的であり,資本主義圏にしか起こりそうもないことだと,みな口を揃えて言う(松下注:ギリシヤは,1967〜1974年の間, 軍事政権)。また,チェコスロバキアのように,現代人の想像の地理の上では「東側」にある国で,五十万にのぼるソビエトと同盟軍との兵士が,突然プラハに到着し,オタ・シク(Ota Sik)のむしろ用心深い経済改革を骨抜きにして,テレビ番組を社会主義リアリズム向きのものにしようとすれば,西側政治家のほとんどすべては,このようなことは極めて恥ずべき,独裁的,恣意的なことと考え,共産主義者のやりそうな呆れた行為と軌を一にするものだと考える。
 アテネが陥落したときも,プラハが陥落したときも,当局の反応は同じであった。「われわれは北大西洋条約機構(NATO)を強化しなくてはならない。」,と英外務大臣は言った。「われわれはわが同盟の軍事力を強化しなくてはならない。」とグレチュコ(Gretchoko)陸軍元帥も,もちろん言った。しかし,双方が共に口にしたこと以上におもしろかったのは,双方とも口にしなかったことのほうであった。現代世界で信じられないのは,五十万のワルシャワ条約の兵士が,戦線で私語一つ交えず,オーストリアと西独の国境に進駐することができ,しかも,ドブチェク内閣閣僚が,ソビエト軍戦車に政治の府を急襲された際,すっかり狼狽したことである。北大西洋条約機構がこのことを知らされたにしても,(事実,確かな噂では,北大西洋条約機構は,侵入が差し迫っていることを一週間前に予告されていたとのことである。) 北大西洋条約機構は秘密を守った。北大西洋軍は,干渉するどころか,事件からの厳密な距離を保っていた。北大西洋条約機構の「強化」は,マイケル・スチュアート氏(Mr. Michael Stewart)にとってこそ焦眉の急を要する問題であったろうが,ワルシャワなりソフィアなりのいわゆる北大西洋条約機構支持者たちの救援に馳けつけられるだけの能力を増強する問題ではなかった。それは,ちょうど,ワルシャワ条約軍の強化が,ギリシヤやポルトガルの精神的盟友を援助する潜在力を増強しておく問題でなかったのと同じであった。真相はもっと簡単で,もっと野蛮なものである。北大西洋条約機構NATOは「西側」の秩序を保つものであり,ワルシャワ条約は「東側」の秩序を保つものである。共産主義がイタリアに「脅威」を与えるならば,これを解決するのは,北大西洋条約機構の問題である。社会主義組織の民主的形態がポーランドで噴出しそうになれば,そのとき,ワルシャワ条約がその軍隊輸送機の発進を決定するがいい。どの同盟も外的脅威に訴えて,少しでも,内的規律の維持に備えようとする。どれも,'侵略的破壊という神話'が必要だから,したがって,これを作り上げ,その警察活動の不評を少しでも上手にかわそうとする。正真正銘の破壊,正真正銘の脅威は,もちろん厳存する。それは神話を本当らしく見せるためだけに役立つものである。このようにして,「共産主義」も「民主主義」も,共に,いよいよイデオロギー的内容を身につける。もとよりこの場合は,「イデオロギー的」という言葉を,そもそも侮蔑的な意味で使っての話である。どれも,相手と対照的に正反対の若干の理想を掲げ,事実その'実質的化身'であると主張しているが,双方とも,現実には,そもそもからの念願を'国家の都合'という鉄の環でがんじがらめにしてしまっているから,「民主主義」も,蒋介石大総統はもちろんフランコ将軍までも盟友とするし,「共産主義」も,熱心に外交的ゲームをやるばかりか,自分とちがう社会主義的意見を国内的に禁止する点で,自由民主主義国中でもおよそいちばん狭量なものをさえ,遥かにうわまわるほどである。そのほか,基本的な個人の自由に対する干渉も,たとえば検閲のような後向きの慣行を奨励することも,みなそうであって,自分を批判する者を精神病院に閉じこめることなど,お茶の子である。このような冷戦の真の姿が,(東西の)分割線のどちら側にせよ,そこにいる相当数の虚心な人々に,明らかになるまでには,長い時間がかかった。急進的批判者たちが,緊張緩和のために世論に訴える運動をおこし,核戦争による絶滅の危険を最少限にしようと,長年月を費してきたのは,まちがってはいなかったが,しかし,それも,列強の間に若干の'平衡状態を保つ'ことができただけであった,しかも,この平衡状態は,列強の相互関係に繰りかえし出てくる危機に対する列強みずからの反応にもとづくものであり,徹底的な衝突でもおこれぱ恐るべき結果を招くことになるという点に対する列強みずからの評価にもとづくものであることは,まちがいなかった。このような事情から,個々の市民の多少とも有力な集団は,現在世界の権力機構の根元の真の本性について何ほどかのことを認識できるようになった。この認識の芽生えは徐々に拡まってきたが,それと同じように,資本主義であろうと社会主義であろうと先進諸国でできはじめた急進的少数派のあいでは,ともかく,「帝国主義」というような言葉が,新しく通用するようになり,「勢力範囲」の問題が,決定的な意義を持つ問題として認識されるようになった。

 バートランドラッセルの警告も,このような意識を生むのに与って力のあった声の一つであった。「西側では未だかつて無かったことだが」,とラッセルは,このほど書いた。
「じつに多くの人々が(20世紀の)最後の四半分の一世紀を,新たな眼で見ようとしている。長年にわたって,私は,冷戦の破壊性と,この破壊性が人類に及ぼしている脅威に抵抗する努力を重ねてきた。このような抵抗は,冷戦の起源と発展についての徹底的な検討によって強化しなくてはならない。これが私の確信である。西側の我々にとって,事実は,初めのうち,宣伝のために覆い隠されたところがあり,スターリンの暴政のために分かりにくくされたところもあった。同様に,第三世界では,多くの者が,見かけ倒しの独立や経済援助の望みにだまされた。この混乱から出てきたものが,アメリカ合衆国こそ確実に史上でいちばん富裕強力な国家だとする考えかたであった。合衆国の世界各国に対する関係は,どんなに周到な注意を払っても,払い過ぎることのないものである。合衆国の冷戦的経済外交政策には,本質的な一貫性がある。これは,原料と市場を不断に追い,世界人口の大多数に貧困を押しつけ,数十の国でアメリカ資本主義の利益を守り,身を挺してこれに抗議する人々を殺すために,合衆国の軍事力を用いるところから,生まれてくる。侵略とは,たんに帝国主義の一面にとどまるものではない。征服し支配し搾取しようとする決意こそ,帝国主義の本質そのものである。このような侵略は単に不正というだけでは済まない。核時代には,許されぬことでなくてはならない,われわれはすべて,いやでも,莫大な政府宣伝を見たり聞いたりさせられるのだから,今世紀の前後の四分の一世紀は,批判的自主的に分析してみる必要がある。いろいろな問題を解明するため,豊富な学問的書類を借り,搾取や人殺しをしようとする者に対する抵抗を,少しでも実のあるものにするための'地ならし'をするという意味で,根本的でもあれば実質的でもある分析をする必要がある。*1」
 ラッセルは,必ずしも,いつもこのような見解を懐いていたわけではなかった。晩年に至って,ラッセルが,あれほどまで執拗に,地上のいちばん強力な官憲一般に反対して,その厳しい批判と,結果として生じた事実上の孤立に堪えたのは,何故であったか,それを示すことは重要である。ラッセルの晩年は,黙して語らなかったならば(見て見ぬ振りをしていれば),世界中いたるところ,名士として持てはやされていた時期であった。

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 バートランド・ラッセルは貴族であった。これはラッセルのマイナスだというふうに,かれを敵にまわした人たちはいつも堅く信じて疑わなかった。ブルジョワ政治家もプロレタリア理論家も,この点を心から許すわけにはいかなかった。ラッセルは四角ばらずに話をするときでも,その自然な言葉はギボンふうで,このため,かれの書いたものは抑制の利いた毒舌の性格を与えられ,これによって,かれは,平和運動でも科学的活動でもなく,実に文学によって,ノーベル賞をえたのであった。ラッセルは,その生来の直観力から,エドワード・グレイ卿(Edward Grey,Viscount Grey of Fallodon 1862-1933:イギリスの政治家。第一次世界大戦開戦時の外務大臣)とか,スタンリー・ボールドウィン(Stanley Baldwin, 1867-1947:イギリスの保守党の政治家,実業家)とか,アンドルー・ボナー・ロー(Andrew Bonar Law,1858-1923:イギリスの政治家。1922年10月23日から1923年5月22日までイギリスの首相)とかいうような人たちを,英国政治発展上の歴史的な場所(地位?)に無意識のうちに位置させたが,それはどう見てもかれらを悦ばすことのできるものではなかった。同時に,ラッセルはいつも筆一本で生活を立ててきたけれども,ラッセルのような家柄など問題ではないとは,とても言い切れない論者が,ほかに幾人もいた。イギリスで,ラッセルが自由について書いた際,かれはよく右翼からはデマ呼ばわり(松下注:デマゴーグ,即ち「扇情政治家」呼ばわりという意味か?)をされ,左翼からは恩着せがましいときめつけられたものだが,これなども,かれの祖父がヴィクトリア女王の首相だったからというに過ぎなかった。ラッセルを持する人々さえこの事実を書きとめている。
「ラッセルは貴族の教育を受けた。かれが通った学校は,隅から隅まで貴族的な社会で,上から数えて一番目か二番目に貴族的な大学の中の,これまた一番目か二番目に貴族的なカレッジである。かれが一度(私はこの録音を何べんも聞いているが),『私はそうしたいとは思いません』と −−もちろん,一種の拒絶の形式としてだが−− 言えば,これを聞いた者は,この言葉から,この貴族の権力と背景が響いてくるような想いをしたものである。『わたしはそうしたいとは思いません』とかれからよく言われていた人々,かれがよく手紙を寄せていた人々,かれらには郵便箱一つあったかどうかさえ分からないのに,この人々は,そう言われたり手紙をもらったりして,いよいよこの貴族に信頼を寄せた。かくてラッセルは,時代の指導的人物の一人として登場したのであった*2」。
 だが,以上をもって傲慢無礼と解するとなると,それはこの人物をまったく誤解することになりかねまい。人間社会を山のてっぺんから見るのは,普通は,自已没却には役立たないかも知れないが,しかし,ほんとうの意味で,ラッセルの才能は,'謙遜'という形をとって出てきており,この点は,かれの自伝の方々に,再三再四,示されている。ベンジャミン・フランクリン(1706-1790:アメリカ合衆国の政治家,外交官,著述家)は,「読者に対して謙遜な行いをせよ,イエスとソクラテスにならえ」と教えた*3。ラッセルには,謙遜な「行い」をする必要はなかった。かれは,教育の上からも出身の上からも,権力者の弱点と貧欲を見ることとなったが,事実,何べんとなくかれが想いおこしているように,風変わりで的外れな祖母は,ホイッグ党員として,かれをしつけ,子供のかれに聖書を与えて,その見返しに聖書の原句を書いたりした。
汝,群衆に従い,悪を為すなかれ
 ラッセルの祖父の邸宅,ペムブルック・ロッジこそ,時のイギリス内閣が会してクリミア戦争の是非に裁断をくだそうとしたところであった。閣僚のうち数人は,とラッセルは自伝に書きとめている,その時,ねむりこけていた。この同じ邸宅で,幼い孤児は兄からユークリッドを学び,祖母からはシェリーやバイロンやミルトンを学んだ。ラッセルの伝記を書いたアラン・ウッド(Alan Wood*4)は,その少年時代を評価するにあたって,ラッセルは祖母から,「人の毛ぎらいする大義名分に対して道徳的勇気を持つことほど立派な徳はない」という見識を学びとったが,幼児期のひとりぼっちの寂しさが昂じて,普通の人間的愛情を切に望む気持ちになったようだとしている。このために,ラッセルが遠慮がちになり,或る程度内気にさえなったことは,まちがいない。
 ラッセルがケンブリッジ大学に入ったとき,この内気さはまだ残っていたが,それはホワイトヘッドの尽力によって薄らいだ。ホワイトヘッドは,ラッセルが奨学資金の資格を得たときの試験委員だったし,ラッセルの並外れた才能を認めた人だった。ラッセルは,この大学で,親しい友を幾人か得た。ロジャー・フライとロウズ・ディキンソンと G. E. ムアだが,このムアの影響で,ラッセルは,指導教授マクタガートから学んだへーゲル学説を捨てることとなった。一八九三年と一八九四年,ラッセルは,数学と哲学で優等試験の第一級を取ったが,しかし,ケンブリッジ大学の及ぼした影響を評価する段になると,ラッセルは,その最大の長所が「知的誠実性」にあったと判断した。かれが哲学で学んだものの大半は,その後,あやまっていることが分かった,とラッセルは考えた。どこまでも持ちこたえたものは,かれの指導教授となった人々が,誤りを進んで認めようとする態度によって,範を垂れた点であった。
 ラッセルは大学を出るとパリの英国大使舘員に就任したが,それは,ラッセルが,フィラデルフィア・クエーカー教徒アリス・ピアソール・スミスと結婚に走ることのないよう,祖母が配慮したからであった。大使館にほんの暫くいてから,かれは外交団を退き,愛人(注:恋人か・愛する人と表現すべきか)と結婚して,一緒にベルリンに向かったが,それはドイツ社会主義運動研究のためであった。かれは,フェビアン協会員となり,妻を無信仰に宗旨がえさせ,帰英して,最初,ロンドン大学経済学部の講師(lecturer)となり,『ドイツ社会民主主義』を処女出版したが,本書は,一九六五年の増刷版の序文の説明によれば,「正統派自由主義者」の見地から書かれたものであった。
 右の政治的散策のあと,ラッセルは,驚くべき労作に着手し,これによって,十年足らずのうちに,その名をとどろかすに至った。かれは,『幾何学の根底(→基礎)』に関してケンブリッジ大学に提出した学位請求論文を出版,一八九八年,へーゲルの影響を最後的に払拭してから,ライプニッツ研究を完成して出版し,『数学の原理』に手を染めることができることとなった。本書で,ラッセルは,実質的に,ペアーノの記号法の助けをかりている。パリの或る哲学会議でペアーノに出あったことが,ラッセルの知的生活の「転機」となった,と後年かれは書いたが,これが,『プリンキピア・マテマティカ』という労作をホワイトヘッドと並んで始めるのに必要な刺激を,かれに与えたものである。この労作は,さらに,別の転機を,ラッセルが「感情的」ないし道徳的な生活と見たものの上で,生むこととなった。一九〇一年春,かれは一時,ホワイトヘッド夫妻のところへ泊りに行った。ホワイトヘッド夫人は心臓を病み,繰りかえし襲ってくる苦しみに劇しく悶えていた。ちょうどラッセルの眼の前で,夫人は,特に恐ろしい発作に襲われ,これがラッセルの内心に,自分がいかにふだんお上品な洗練を誇る自己満足に陥っているか,そのために本来自分に関係のある事柄から超然としていられるかという意識を,かき立てた。
「いきなり大地が足もとでくずれ出したような想いがして,わたしは今までと全く別の世界に入ったような気がした。五分としないうちに,わたしはほぼ次に述べるような想いを経験した。
 人間の魂の孤独には堪えがたいものがある。魂の奥底にしみ通ることのできるのは,宗教的指導者たちの説いているような最も激しい愛しかない。このような動機から出てくるものでなければ,それは有害か,でなくても,せいぜいのところ,無用でしかない。このことから推して,戦争は悪であり・・・力を使うことは非難さるべきであり,人間同士の関係では,一人一人の孤独の核心に触れてこれに語りかけるべきである・・・この五分が過ぎたとき,わたしはまったく別人になっていた。暫くのあいだ,わたしは一種神秘的な光明にとらえられていた」。
 この啓示は,世界に対するラッセルの精神反応をしっかりと掴んで離さなかった。かれは平和主義者となり,帝国主義に反対する身となった。かれの個人的関係は,右の経験の出現によって,今までより深く豊かなものになってゆくように感ぜられたが,社会的態度のほうもまた変わった。
「その時に見たと思ったものは,多少とも,いつもわたしの心に残って,第一次世界大戦に際してはわたしにあのような態度を取らせ,子供たちに興味を懐かせ,小さな不幸に対してはわたしを無関心にさせて,わたしの人間関係すべての上での情的傾向の中心となった」。
 だが,この間と,さらに一九一四年までとのあいだ,かれはやはり自由主義者であり,一九〇七年,下院議員に立侯補の際,大きな反帝国主義的主張を取り上げ,婦人参政権運動を支持したとはいえ,それは自由党のためであった。しかし,ラッセルの反戦思想は,まだ自由主義的であったこの時代に結実したものであり,ホワイトヘッド夫妻の家での衝撃に直接つながるものであった。一九〇二年,かれは,はじめて,エドワード・グレイ卿が,三国脇商の政策の骨組を,まだ最後的な形にはなっていないものだったが,詳しく説明しているところを耳にした*5。かれは,たちどころに反対し,それからもずっとこの反対を続けて,それは明らかに戦争になるものだとした。
 そのときから第一次世界大戦までの歳月のあいだ,哲学者兼数学者としてのラッセルの評判は,絶えず高まっていった。しかし,かれの親類関係が貴族だったところから,かれは,戦争準備をすすめている人々の社会に自由に出入りできたと同時に,かれの独立の判断と懐疑的な気分から,かれを著名な代表者の一人とする体制に対して,いよいよ公然とぶつかってゆくこととなった。

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 かくて,一九一四年,戦争勃発とともに,かれは,間もなく,殆ど世界中のいたるところから悪罵(あくば)を浴びる身となった。家柄も知的高名も特権的地位も,すべてが,当時は,罪科を重くするのに役立ったが,今日では,かえって,このとき受けた罪科のために,尊敬をあつめている。戦争によって,とくに大英帝国では,自由主義の危機が生じた。ラッセルは,自由党政府が新たな暴虐をおかしたことは,その基本的公約を裏切るものだと感じたため,公然たる'社会主義者'となった。かれは,労働党にも,平和主義を掲げる徴兵拒否組合*7にも,民主管理同盟*8にも,ギルド社会主義運動*9にも,加入した。かれをこのような方向に駆り立てた道徳的拘束は,かれが主張しているように,十三年前のホワイトヘッド家での神秘的経験がもとで始まったものと見て差し支えないであろう。もっとも,マルクシストたちもフロイト主義者も共に,やがては,きっと,この過程の分析を,それぞれに示してくれることであろう。疑いの余地のないことは,イギリス当局が,まったくやりきれないような行動に傾いた,とひとたび見きわめるや,ラッセルが,一つの議論をそのぎりぎりの結末まで追求し,痛烈な論理を駆使し,自已の思想を粘り強く支えてゆくための,驚異的な才能のすべてを,この反対運動にぶつけたことである。 の画像
「心の広い,人間味ゆたかな,すべての人々にとって」,とかれは民主管理同盟の初めの頃のパンフレットの一つに書いている,
「この戦争は,一つの衝撃であった,と同時に一つの挑戦であった。それは,さまざまな希望を打ちくだき,生涯の確信まで根こそぎにしかねないものであった。現在ヨーロッパ一円におこっていることの恐ろしさには,何とも言いようのないものがあり,人々は,各種の手段によって−− 中には,当世でも許されているささやかな人道的行為によって,負傷者の看護にあたり,少しでも苦痛を取り除いてくれるものを用意したり,あるいは,取り残された外国人のために収容所を見つけたりしているものがあるかと思えば,中にはまた,この戦いが終わったとき,ヨーロッパは再生の姿を示すであろうという希望を懐き,中には,自分のたまたま所属する国民の正義に対する燃えるような確信に屈して,実状を知ることを避けようとするものもある。しかし,このようなことに気を取られていると,もっと大きな'人道性'(?)という,戦争の出てきたもとの感情と戦う気持ちが,おおい隠される危険がある。
 よりよい世界が出現するべきならば,ヨーロッパが虐殺と狂乱の繰りかえしをせずに済むようにすべきならば,こんにちまでのところ諸国民の関係の上で'力'の代わりに'理性'と'法'を置くことを不可能にしてきたいろいろな原因を,普通人の望みと憂いとを失わずに,知り,認めることが,必要である。おそらく現在,不偏不党の理性に対する訴えなど,殆ど共感をよばないかも知れないし,大多数の人々にとっては,時宜を失した,非愛国的なものと映るかも知れない。しかし,戦争にも平和にも準備が必要である。平時に,敵となる可能性のあるものを破壊する計画を立てることが,正しいことならば,戦時に,味方となる可能性のあるものを保護するための計画を立てることが,どうしてまちがいであろうか。戦争は,何も,戦争以外のすべての義務を廃するものではないし,勝利より高い目標と,敵軍殲滅より高貴な理想があるとすることも,非愛国的ではない・・・どの国民の場合にも,男たちは進んで死地に就き,女たちは甘んじて餓え,我が家の荒廃をまのあたりに見る。このような犠牲を招くのは,何も単なる'利己的な目的'だけからと限ったわけではない。どの国民も,自分は神聖な大義名分を守っているものと信じている。'英雄的献身的行為'のはかり知れない力が,盲目と恐怖の悲劇を通して,'殺し合い'をやっているのである。この外ならぬ同じ力は,もっと明晰な洞察と,もっと静謐な判断によって,'殺し合いのため'でなく,'人類のため'に利用できないものではない。しかし,これは,相互の理解と尊敬によって,はじめて起こることであって,不信と貧欲の党派的言いがかりによって生ずるものではない*10」。
 かれは,次いで,時代の毒々しく狂信的な愛国的騒音のただ中で,各交戦国の役割を,国民ごとに,冷静に分析し,官製の宣伝が,どこでも,半面の真理と利己主義と一般に流布している嘘に充ち満ちていることを,証明しようとする。同盟政策は,いたるところで,大きな不幸を生むものだ,とかれは主張している。

恐怖が全世界に君臨していればこそ,同盟方式などが出てきたのであって,それは,平和を保証するものと信ぜられているが,しかし,こんにちでは世界的不幸の原因であることの明らかとなったものである。ロシアを恐れる気持ちが日英同盟となり,ドイツとオーストリアの同盟となった。フランスとのながい関税戦争を支援する必要から,イタリアはオーストリアと同盟を結ぶ気になったが,それも,そうしなければ,オーストリアがその瞬間をとらえてイタリアを攻撃してきはしまいかとの'恐れ'からであった。ドイツを恐れる気持ちから,フランスとイギリスは,ロシアと不自然な同盟に入る気になった。このような全世界の恐怖によって,少なくとも一つの大変動が生じたが,それは,避けることの望ましい大変動のどれとくらべても遥かにこれを凌駕するほど大きなものである。誰が今回の戦争で技術的に勝利をおさめても,関係国民すべては,勝者も敗者も等しく,成年男子の大部分を失い,賃労働階級の生活に何がしかの幸福をもたらすことのできる経済的備蓄のすべてと,芸術および平時の創造的思想を生む余暇のすべてを,失わなくてはならない。われわれのうち誰一人として,結果がどうなろうと,生きているあいだに,戦前のような幸福と福祉と文明の水準に,立ち戻ることのできるものはない。
 文明が存続すべきものならば,ヨーロッパは,この恐怖の世界的君臨とその結果としての'相互虐殺'とに対する対策を見つけなくてはならない。対策の一つの道は,文明諸国民が,戦争の恐怖と狂乱を実感し,攻撃をしかけても何の得にもならないことを,事実上はっきりとさせるような,形のものになることである。このためには,排他的同盟を避けることが必要であろうし,平和連盟とでも言うべきものを作って,紛争がおこった場合には,調停の労をとるべきであり,一方は調停を受け入れたが,他方が拒んだという場合には,武装予備隊全員を調停受け入れ側支援に投ずるが,双方の側とも調停を拒んだときは,連盟が,どちらであろうと侵略者であることの明らかな側に対して,その重圧をかけるべきである。十分な数の国民がこのような連盟に加入することとなれば,かれらは侵略戦争をはっきり失敗に帰せしめることができるであろうし,それによってまた,確実に戦争を停止させることができるであろう」。
 国際連盟に対するこの処方に,かれは,今一つの処方を加えている。
秘密外交はやめなくてはならない。われわれが現在やっている方法の目立った点で,ともすれば平和に対する意志をくじきがもなもの,ほかの国民の同意を待たずに変更されかねないもの,すべてのうち,最大のものは,秘密外交である。突如として訪れる危機よりもむしろ固定した政策が問題の場合には,下院と国中の人が事前に何から何まで知るまでは,どんな債権債務関係も,賭の借金のような実質的支払義務を伴わぬものも,設けるべきではない。この原則が守られないかぎり,民主政治などと言ってみたところで,それは茶番であり,'見せかけ'である。国民的利益でも人間的利益でも,秘密によって助長されるものはない。あるとすれば,それはただ,役所的派閥だけであり,かれらは,このようにして,恐るべき責任を課する政策を何の邪魔も入らずに遂行し,政策の正体がわかったら呪うにきまっている人々の支持をも,失わずにやってゆくことができるのである*11」。
 以上の気持ちは,自由なもので,しかもそれが,じつに自由な言葉に託されている。それは,たとえばロバート・ブラッチフォードとか,H.M.ハインドマンのような,イギリス人政治評論家の「社会主義」とも,カール・カウツキーの「マルキシズム」とも,ややはっきりとし過ぎるほどの対照をなす言葉である。レーニンが,ラッセルの同志たるイギリス人 E.D.モレルを評価する際,この問題を表現しているように,
「マルキシズム信奉者らしい言葉は,現今では,マルキシズムの絶対的否認をおおいかくすカヴァーとなった。マルクシストであるためには,第二インターナショナルの指導者たちの'マルキシズム信奉者らしい'偽善を暴露しなくてはならない……これこそイギリスから引き出されるべき結論である。それと言うのが,イギリスでは,マルキシズム信奉者らしい言葉を使わずにマルキシズム信奉者らしい本質が打ち出されているからである*12」。
 だが,以上の言葉には,無視できない難点が含まれていた。それは,イギリス平和運動の内部に存在する幾つかの矛盾した見通しから生ずるものであった。この矛盾は,むかしは,個々の平和主義的党派にはあらわれてはいなかった。むしろ平和主義的弁護に見られる或る種の精神分裂にこそ,これが出ていた。A.J.P.テーラーも言っているように,
「バートランド・ラッセルは顕著な一例である。『三国協商の外交政策』の最後の一章は,外交政策の急進的原理を規定した。併合はすべきではない。戦時捕獲権は放棄せよ。世界的仲裁手続きをとれ。同盟,申し合せは,すべきではない。『われわれは相手から攻撃を受けたとき以外は戦争に加わらない』。これに添えられている脚注には,『大国連盟とも言うべきものが結成され,どこに侵略がおこっても,これを撃退することができなければ・・・その場合には,われわれは,進んで戦争に参加してでもその裁定を強行することがある』。この矛盾には驚くべきものがあるように見えるが,しかし,ウッドロウ・ウィルソン自身も,ほぼ同様のことをやっている。かれが,ベルサイユ条約の性格を変えようとして,国際連盟規約を動きのとれぬものにしたときが,それである。国際連盟の擁護者は誰でも,二つの行きかたと闘っていた。かれらの著書は世界中の政治家の悪事を述べ立てておきながら,次いで,最後の短い一章で,ほかならぬその政治家たちが,ひとたび国際連盟の如きものさえ設立されれば,いつまでも立派にやってゆけるであろうと,あたまから決めてかかっているのである*13」。
 どっちつかずなこの見方をもっと完全に理解するためには,今少しくこの議論を追ってみることが必要である。一九一七年,ラッセルは『政治理想』を書いたが,第一章は,かれがグラスゴウの公開講演で述べるつもりでいたものであり,この講演は,炭鉱夫指導者ロバート・スマイリーが座長をつとめる予定のものであった。それの行われる日程の組まれる直前,政府は,ラッセルに,「禁止区域」に入ることを禁じた。グラスゴウはその一つだった。「これらの区域には海岸に近いありとあらゆるものが含まれていたので」,と後年かれは書いている,「この命令は,スパイがドイツ潜水艦に合図を送ることのできないようにするためのものであった。しかしながら,陸軍省は,ご丁寧にも,貴下をドイツ人側スパイと疑っていたわけではない」と述べた。同省は,ただ,産業従事者の不満をかき立てて戦争を止めさせようとするものとして,わたしをとがめているだけだと言った」。 スマイリーは,禁止になった講演を,その場に集まった多勢の人々に読んで聞かせ,自分はそのようなことをわざわざやった罪で告訴されるにきまっていると,すっかり覚悟していた。かれは逃亡した。「政府は」,とラッセルは後に書いている,「石炭に頼り過ぎていた」。次いで出てくるこの小さな書物の第五章には,国民感情についてのラッセルの見方とその範囲ならびに限界についての評価が,じつにはっきりと要約されている。
北アイルランド人は一個の国民と言えるであろうか。アイルランド統一党員は然りと言い,アイルランド自治論者は否と言う。このような場合,一個の集団を国民と呼ぶべきか否かは,党派問題である。ドイツ人ならば,ロシア系ポーランド人は一個の国民だが,プロシャ系ポーランド人はと言うと,それは,プロシャの一部だと言うであろう。教授連は,かねで雇われては,問題の或る集団が一個の国民であるか否かを,かれらが御用をつとめている人たちの望み通りに,人種とか言語とか歴史の論証をかりて,証明する。このような論争はすべて避けるべきだとすれば,われわれは,何を措いてもまず,国民のなんらかの定義を見つけ出す努力をしなくてはならない。
 国民とは,言語の類縁関係や共通の歴史的起源などから定義されるべきものではない。これらの物が一個の国民を作り上げる助けとなることは非常に多いにしてもである。スイスは一個の国民である。人種も宗教も言語も各種各様になっているにもかかわらずである。イングランドとスコットランドは今日では一個の国民を形成している。チャールズ一世と国会とが争った内乱のときはそうでなかったにしてもである。このことは,クロムウェルが,この闘争たけなわのとき,自分は,スコットランド人の所有地に属するくらいならば,むしろ王党員の所有地に属したいと述べた言葉に示されている。大英帝国は,一個の'国民'となる前から一個の'国家'であった。他方,ドイツは,一個の国家となる前から一個の国民であった。一個の国民を構成するものは,感情であり,同一集団ないし同一の群れに属しているとする本能である。この本能は,'羊の群れ'とか,羊でなくても何かほかの'群居性動物の集団'を構成する,本能の延長である。これにちかい感情は,もっと穏やかで広やかな形の家族感情に似ている。ヨーロッパ大陸に行ったあとイギリスに戻ってくると,われわれは,ふだんのやりかたに親しみのあるものを感じて,イギリス人は全体に立派だが,外国人のうちには腹黒いことを考えているものが多いというふうに,簡単に信じがちなものである。
 このような気持ちがあるために,'一個の国民'は,簡単に,'一個の国家'になることができる。国民的政府の命令に何も言わずに従うことは,概して,困難ではない。われわれはそれがわれらの政府だというふうに感じ,その布告も,われわれが政治の衝にあたったときとだいたい似たり寄ったりのものだというふうに感ずるものである。'一個の国民'の各成員を動かしているのは,共通の目的についての本能的な,通例は無意識の,意識である。これは,戦争ないし戦争の危険のあるとき,特に生き生きとしたものになる。このようなとき,自国の政府の命令に頑強に低抗する者の感ずる内心の蔦藤は,たまたま外国政府の権力下で,命令に低抗したときに感ずるものとは,まったく違うものである・・・
 '国民感情'は一個の事実であるから,いろいろな制度は,これを勘定に入れるべきである。無視すると,それは,強くなって争いのもととなる。略奪的なものでないかぎり,勝手気ままにさせれば,それは,初めて無害にすることのできるものである。しかし,それは,本来,よい感情でも立派な感情でもない。共感に限界を設けて人類の一部だけにこれを限る気持ちには,理性的なものは一つもないし,望ましいものも一つもない。多種多様な風習と慣習と伝統は,全体として,よい物である。それらによって,さまざまな国民がさまざまなタイプの優れたものを生み出すことができるからである。しかし,国民感情には,いつも,外国人に対する敵意の要素が,潜在ないし顕在している。われわれの知っている国民感情は,敵性を持つ外的圧力のまったくなかった国民には,存在しえなかったものである。
 集団感情もまた,狭い,有害なことの多い道徳を,作り上げる。人々は,自分たちの集団の利益に役立つものを,善と同じに見るようになり,これに不利に働くものを,悪と同じに見るようになる。よしんば,それが,全体としての人類のためになるものであってもである。このような集団道徳は,戦時下には,非常に目につくものであり,人々の普通の考えの中では,あたりまえのことと考えられている。殆どすべてのイギリス人は,ドイツの敗北が世界のために望ましいと見ているけれども,それにもかかわらず,大半の人々は,ドイツ人が祖国のために戦っていることを尊敬している。それは,ドイツ人が,自分の行動は集団の道徳より高い道徳を導きの糸とすべきだと考えていることが,ついぞかれらには想い泛ばない(うかばない)からである。
 人が自国民の利益を考えるのに忙しく,他国民のことが考えられないのは,概して,当然である。人の行動は,自分の属する国民のほうに,より多く影響を及ぼすものだからである。しかし,戦時とか,ほかの国民にも自国民にも等しく重要なすべての問題では,人は全世界の福祉を斟酌すべきであり,自集団や自国民の利益ないし利益と考えられるものによって,その眼を限られていてはならない。国民感情が存在するかぎり,どの国民も,国内問題に関して自治を守るということが,非常に重要である。政治が力と暴政によってしか行えなくなるのは,国民が政治を'敵意のまなざし'で見るときであり,政治が相いれない国民のものになっていると感じたとき,かれらの眼はそうなるものである。この原則が難問にぶつかるのは,さまざまな国民の各成員がバルカン諸国の幾つかの地方のように,同一地域に隣り合って生活する場合である。何かの地理的理由から,たとえばスエズ運河地帯やパナマ運河地帯のように,国際的重要性の大きな場所に関しても,難問はおこってくる。このような場合,住民の純粋に地方的な欲求は,もっと大きな利害の前に譲歩しなければならないかも知れない。しかし,一般に,ともかく文明杜会にあてはめて考えたかぎりでは,諸国民の境界は,国家の境界と一致すべきだとする原則には,殆どまったく例外はない。
 しかしながら,この原則は,国家間の関係がいかに規整されるべきかの問題を,決定するものではないし,相手国同士の利害の衝突がいかに決定されるべきかの問題をも決定するものではない。目下のところ,あらゆる大国は絶対主権を主張しているが,それは国内問題に関してばかりでなく,対外行動に関してまでそうである。絶対主権に対するこの主張から,大国は,ほかの大国の同じような主張と衝突をきたす。このような衝突は現在のところ,戦争か外交によって決定するのほかなく,外交は,本質的には,戦争の脅威にほかならない。国家の絶対主権に対する主張に正当な理由がないのは,個人の同じような主張の場合と同じである。絶対主権に対する主張は,事実上,すべての対外問題が純粋に力によって規整されるべきだとする主張であり,二つの国民ないし国民集団が同一の問題に関心をいだいているとき,決定は,そのうちのいずれが強者か,あるいは強者と信ぜられているかによって,行われるべきだとする主張である。これは,原始的無政府状態,ホッブズが人類の原始状態だと主張した「万人の万人に対する戦い」でしかない。
 世界の平和,ないし,国際法に従って国際問題を決定するにあたっての平和は,諸国家が対外関係に関する絶対主権を進んで手放し,このような問題の決定を,なんらか国際的な政治機関の手に進んで委ねたとき,はじめてえられるであろう*15
 国際的当局の必要を認める議論は,ラッセルにとっては,その経験から出てきたものである。
「最近までわたしは世界中の誰もまず教えることのできない新しい一つの科学(学問)を,教えるのに忙しかった。この科学でのわたし自身の業績は,主として,或るドイツ人と或るイタリア人の業績に基礎を置くものであった。生徒(→学生)は文明世界のいたるところからやってきた。フランス,ドイツ,オーストリア,ロシア,ギリシャ,日本,中国,インド,アメリカである。われわれは一人として,国民的な壁を意識しなかった。われわれは文明の辺境植民者であり,未知の世界の処女林に新たな道を開きつつあるものと感じていた。すべてのものが共通の課題に協力し,このような仕事のために,諸国民の政治的敵意など取るに足らぬ,かりそめの,空しいものとおもわれた。
 しかし,深遠な科学の空気のやや希薄な雰囲気だけが,文明の進歩にとって国際協力が重要となる場であるわけではない。われわれの経済問題すべても,労働権確保の問題すべても,国の内外の人々の自由の希望のすべても,国際的友好感情が生まれうるかいなかによって,左右されるものである。
 憎悪と嫌疑と恐怖が人々相互の気持ちを支配しているかぎり,そのかぎり,われわれは,暴力と野蛮の圧政から逃れるわけにいかない。人々は,万人が一致している人類共通の利益に気づくようにならなくてはならない。諸国民を分かれ分かれにしている仮定の利益であってはならない。さまざまな国民同士の風習や慣習や伝統の違いを抹殺することは,必要でもなく望ましいことでもない。これらの違いがあればこそ,どの国民も,世界の文明全体に独特の寄与ができるのである*16」。
 現代世界の政治経済が,いまだに,この夢を,執えどころのない夢に終わらせているからと言って,だから,それは,'非合理なうぬぼれ'に過ぎないということにはならない。同じ関心は何べんとなく出てくる。著名なソビエトの遺伝学者ジョーレス・メドウェーデフの最近書いたものにも,殆ど同じ発言が見られる。ただし,かれが,その言わば祖先であるイギリス人ラッセルの関連業績を読むことができなかったことは疑いの余地のありえないことである。ラッセルの感情を,レーニンは健全だとしたが,しかし,レーニンの後継者たちは,イギリス政府がおもてにあらわしたのと同じような嫌悪の情でしかこれを見ることができなかった。それは,ラッセルの感情が,疑いもなく,「分裂的」で,「不満をかぎ立てるのに向いて」いるからだと言うのである。
 科学が事実上国際的になったとすれば,技術もそうなっているし,帝国主義の経済組織もそうなっている。国際的社会機構は,いろいろな型の隠された利害によって複雑に寸断され,このあぶない断層をおこした組織こそ,諸国の政府に'目先の利益'を追わせているばかりでなく,これをどこまでも追求する気にならせてきたものであり,各国政府の理想主義的批判者たちに,これに代わるべき幾つかの道で,あまりにも明らかに自己敗北的であることの示されたことの多かったものを,それでもなおりっぱな道だと思う気にさせてきたものである。
 戦争直後の時代に,ラッセルは,これらの問題の幾つかと取り組むようになった。ロシア革命を,かれは,歓迎し,熱狂的な論文でこれを歓迎したために,投獄までされたが(松下注:原注7にも同様のことが書かれている。ロシア革命を論文で熱狂的に支持したために,ラッセルは投獄されたというよりは,同盟国のアメリカ合衆国の軍隊によるイギリス人労働者のスト弾圧を非難したことが原因というほうがより適切であると思われる。),この革命以後,かれは新生ソビエト同盟を,イギリス労働党代表団と共に訪問し,その結果幻滅を味わった*18。かれは旅を続け,足をのばして中国を訪問(松下注:一度英国に帰国した後に中国を訪問している),北京大学で講演し,中国共産党創設者・陳独秀と討論した。第一次世界大戦に対する平和主義と社会主義の反対の最大の難点でありながら気づかれていなかったのは,かれらの周囲の状況に押しつけられて出来た眼が,略奪者のほかならぬ腹の中に据えられてしまっていることであった。事態は,腐敗堕落の犠牲者たちの地の利をえた場所からは,違って見えた。複数の帝国主義があって,一つ一つが自分のために精力的な弁護を行ったとすれば,それに従属するどの国民にも,やはりこれに似た支配感情が見られた。このときの中国の旅によって,ラッセルは,新しい見通しを与えられたが,それは著書『中国の問題』に述べられ,いかにも先見の明を誇っているかのごとくである。
「世界中の資本は,少数の国民の手中に集中しているため,かれらは,それによって,ほかのすべての国民から富を奪えるわけだが,このような集中が,恒久平和確立の制度としては,貧しいほうの国民を完全に隷属させることによるほかないものであることは,明らかである。けっきょく,中国には,産業利潤を外国人の手中に委ねるべき理由はないはずである。目下のところ,ロシアは,兵糧攻めから,上手に,外国資本に屈服させられているが,ロシアも,時節さえ到来すれば,金融の世界帝国に向かって新たな反旗をひるがえすであろう。したがって,シンジケートがワシントンに出来たからと言って,その結果として,安定した世界組織が確立されるとは,わたしには思えない。それどころか,アジアが完全にわれわれの経済組織を同化しつくしたとき,マルキシズム信奉者的な階級闘争が,アジアと西側との戦いという形でおこり,アメリカは資本主義の立役者として,ロシアはアジアと社会主義のチャンピオンとして,これに加わると見ていいであろう。このような戦いでは,アジアは,自由のために戦うであろうが,しかし,おそらくは時すでに遅く,こんにちアジアを人類にとって貴重なものとさせている独特な文明を保持するのには間に合うまい。じっさい,その戦いは,たぶん,ひどいもので,どんな文明も生き残ることはできないであろう・・・。
 世界の現実の政治は,大資本家の手中に握られている。例外は,世間の熱心な関心をかき立てる問題に関する場合だけである。もとより,アジア人をアメリカと英自治領から締め出した事実は,民衆の圧力によるもので,大資本の利益に反するものである。しかし,これほど民衆感情をかき立てている問題は,そう多くはなく,この種の問題のうちでも,資本家の利益に副うよう誤り伝えるというわけにいかぬほど,はっきりしたものは,はんの二,三に過ぎない。アジア人移民のような場合でも,資本主義制度こそは,賃労働者の反社会的利害を生ぜしめ,これを偏狭にさせているものである。現行制度は,各人の個人的利害を,或る重大な点で,全体の利益に反するものにさせている。しかも,個人にあてはまることは,国民にもあてはまる。現行経済組織のもとでは,一国民の利害は,めったに世界全般の利害と同じになることはなく,あっても偶然に過ぎない。国際平和は,なるほど,現在制度のもとでも,えられるかも知れないが,しかし,それは,強者が結び合って弱者を搾取することによってに過ぎない。このような結びつきは,ワシントンの結果として,今企てられつつあるが,しかし,そんなことをしても,それは,弱者諸国民が現に受けている'無けなしの自由'を,ながい眼で見て,減少させることしかできない。現在制度の本質的な弊害は,社会主義者が再三にわたって指摘しているように,生産が,利潤のためで,用途のためでない点にある。人か会社か国民が,財を生産するのは,'消費するため'でなく'売るため'である。だから,競争と搾取と,国内問題および国際関係双方の上での一切の弊害が,出てくるのである。中国の貿易を資本主義的方法によって発展させるということは,取りもなおさず,中国人の主な消費物でもある輸出物の価格が,かれらにとって,騰貴することであり,外国製品に対する新たな需要を人為的に刺激することは,中国を,これらの製品を供給する国々の為すがままに委ねることとなり,現在の充ち足りた想いを無くさせて,純粋に物質的な目的を大わらわで追いかけさせることになる。社会主義社会では,生産は,消費者の需要を代表する役所と同じ役所が規整することとなり,競争的売買ということ全体が無くなるであろう。そのときまで,平和をえるのに,搾取に対する隷属によってすることは,可能であり,或る程度の自由をえるのに,絶えざる戦争によってすることも,可能だが,しかし,平和と自由双方をえることは,可能ではない。現在のアメリカの政策の成功によって,一時,平和はえられるかも知れないが,しかし,たとえば中国人のような弱いほうの国民のための自由は,決してえられないであろう。双方ともえられるのは,国際(的)社会主義を措いてほかにはない。資本主義の圧迫によって反抗的態度が刺激されるから,平和だけでもえられるようになるのは,国際社会主義が全世界に確立されたときのことである*19」。
 ところで,国際連盟はすでに出来あがっていた。これが,国民主義的帝国主義的陰謀についての反戦批評家たちに満足を与えていたいのは明らかだが,新ソビエト政府から,「泥棒どもの台所」という性格描写を受けたことは,多少もっともなふしがある。A.J.P.テイラーが,この間の過程を,'あと知恵'ではあるが,要約したことは,それはそれなりに,充分正当な理由のあることである。反戦運動の平和主義こそ,かえって,反戦運動の破滅のもととなったものである。一九二四年までに,ラッセルは,再びロンドンにかえり,J.B.S.ホールデーンの楽天主義的な科学ユートピア『ダイダロス』に答えて,有名な講演『イカロス』を行った。これは何よりも事態の隠された真相を明らかにしてくれるものである。心情の優しさが生理的原因しだいのものだということが,発見できるならば,とかれは論じている,そのとき,生理学者の秘密結杜は,
「世界の支配者すべてを,一定の日に,誘拐し,血液中に,なんらかの物質で,飲めばかれらの心を同胞想いの心で濫れさせてくれるものを注入し,それによって,至福千年を将来できるであろう。突如として,ポアンカレ氏は,ルール地方の炭坑夫のため,よかれと祈り,カーゾン卿も,インドの国民主義者のため,よかれと祈り,スマッツ氏も,かつてのドイツ領南西アフリカの土着民のためよかれと祈り,アメリカ政府も,その政治的捕虜とエリス島の犠牲者のためよかれと祈ることであろう。しかし,残念なことに,生理学者たちも,まず,自分自身,'惚れ薬'を服用してからでなければ,この課題を企てることができないであろう。でなければ,かれらは,軍事的残虐性を新兵に注入し,それによって,肩書や財産をかちとるほうがいいと思うようになるであろう。かくて,われわれは,古くからのジレンマに逆戻りということになる。世界を救うことができるものは,心の優しさを措いてほかになく,心の優しさをおこす術を仮にわれわれが心得たにしても,われわれの心がすでに優しくなっていなければ,心の優しさは生まれない・・・一つの集団による世界支配の可能性にこそ,唯一つの真の希望があるようにおもわれる,と合衆国は言う,これこそ,秩序ある経済的政治的世界統治の漸次的形成に通ずるものである。しかし,おそらく,ローマ帝国から何も生まれてこなかった点から見て,われわれの文明の崩壊も,この道のほうを,けっきょくは,選ぶのであろう*20
 このジレンマに対する回答として,今一つ別のものが,同時に行われていた。それは,毛沢東が念入りに系統立てて述べたものであったが,かれも,北京のラッセル討論会に出席していたし,この火の出来事について手紙を二通,蔡和森に寄せていた。
長沙での講演で,ラッセルは・・・共産主義(→社会主義)を支持はする,が,しかし,労働者と農民の独裁には反対するという,立場をとりました。かれは,教育という方法を用いて,地主階級の意識を変えるべきだと申し,このようにすれば,自由を制限することも,戦争や血なまぐさい革命に訴えることも必要ではないであろうと申しました・・・ラッセルの見地に対するわたしの異論は,数言を費やすだけで述べることができます。「これは理論としてはまことに結構だけれども,実行上むつかしい」ということであります・・・教育に必要なのは,(1)かね,(2)人,(3)道具,であります。こんにちの世界で,'かね'は,完全に,資本家か資本家の奴隷の掌中に握られております。こんにちの世界では,学校と新聞雑誌という,二つのいちばん重要な教育機関が,完全に資本主義に左右されております。要するに,こんにちの世界の教育は,資本主義的教育であります。わたしたちが資本主義を児童に教えれば,これらの児童は児童で,成人のあかつき,資本主義を,二代目の児童たちに教えるでありましょう。'教育'は,このようにして,いつまでも資本家の掌中に握られたままであります。次に,資本家には,資本家を保護し,プロレタリアにハンディキャップをつける法律を,通過させるための「議会」があります。かれらには,これらの法律を適用し,そこに含まれる有利な立場と禁令を強行するための,政府があります。かれらには,資本家の福利を護り,プロレタリアの要求をおさえるための「軍隊」と「警察」があります。かれらには,その富の流通の上での「倉庫」として役立つべき「銀行」があります。かれらには,「工場」もあって,これが,商品の生産を独占する道具となります。かくて,共産主義者が政治権力を奪取しなければ,この世界のどこにも身を安らえるところを見つけることはできないでありましょう。このような状態で,どうやって教育の責任を持つことができましょうか。かくて,資本家は,どこまでも教育を管理し,その資本主義を口をきわめて賞めちぎり,プロレタリアの共産主義的宣伝に改宗する者の数は,日ごとに減るばかりでありましょう。したがって,教育という方法は実行不可能と,わたしは信じます・・・わたしが今述べたことは,議論の第一を構成するものであります。第二の議論は,精神習慣の原理と人間の歴史についての観察にもとづくもので,資本家が共産主義に'改宗'することは絶対にありえないという意見を,わたしが持っている点であります・・・教育の力を用いてかれらを変えようと望むとしますと,そのとき,二つの教育機関−学校と新聞雑誌−の全体とまでは言わなくても,せめてその重要な一部でも,管理するわけにいかない以上,たとえ口があり,宣伝手段として学校と新聞を一つか二つ持ったにしても・・・これだけでは,とても,資本主義の支持者の気持ちの持ちかたをいささかでも変えるのに足るものとはなりません。それならば,どうやれば,かれらが悔い改め,善に向かうことを,望めるでありましょうか。
 心理的な観点からみた話は,このくらいにしておきましょう・・・歴史的な観点からすれば,史上のどんな専制君主も,帝国主義者も,軍国主義者も,みずから進んで歴史の舞台から去るときは,かならず,民衆に打ち倒されたときだということが,わかります。ナポレオン一世が皇帝を宣して失墜すると,ナポレオン三世が出てきました。衰世凱が失墜すると,残念なことに,段祺瑞(だん・きずい)が出てきました・・・。心理的見地と歴史的見地と双方にもとづいて,以上にわたしの述べたことから,資本主義は,教育の領域で少しばかりのか細い努力をしたくらいでは,打倒できないことがわかります。以上が議論の第二です。まだ第三の議論が残っております。これは何より確実に非常に重要な議論でありますが,じつは重要などという言葉では言い足りないほどであります。わたしたちが平和の手段を用いて共産主義の目標を達成しようとすれば,究極的にこれに到達できるのはいつのことでありましょうか。一世紀かかるとしてみましょう。それはプロレタリアートの不断の呻きに充ちた一世紀となるでありましょう。このような事態に直面して,わたしたちはどんな立場をとることになるでありましょうか。プロレタリアートはブルジョアジーにくらべれば,その数は何倍にもなります。プロレタリアートが人類の三分の二を構成するものとすれば,そのとき,地球上の十五億にのぼる住民のうち十億(この数字はもっと高くなるかも知れません)は,プロレタリアであり,かれらは,この世紀のあいだ,残り三分の一の資本家によって,容赦なく'搾取'を受けることになるでありましょう。わたしたちはどうしてこれに堪えることができましょうか。その上,プロレタリアートが既に気づいていることは,自分たちもまた富を所有すべきだという事実であり,自分たちの悩みが不必要なものだという事実である以上,プロレタリアは不満であり,かくて共産主義に対する一つの要求が出てきておりますし,それは既に一個の事実となっております。この事実はわたしたちの前に立ちはだかり,わたしたちはこれを消すことができません。わたしたちがこれに気づいたとき,わたしたちは行動したいと望みます。ですからこそ,わたしに言わせれば,あらゆる国の急進的共産主義者はもとよりのこと,ロシア革命も,日ごとに,強力となり,多数の人を引きつけ,緊密な組織を持つものとなるでありましょう。これは当然の結果であります。以上が議論の第三であります・・・。以上のほか,無政府主義についてのわたしの疑問に関する要点が,もう一つあります。わたしの議論は,社会のあるところ必ず権力と組織がないわけにいかないということに関するものだけにとどまりません。ただ,わたしとしては,このような形式の社会の確立とその究極的達成の途上に横たわる難点を,幾つかあげるだけにとどめたいと思います・・・。今述べたすべての理由から,絶対的な自由主義と無政府主義と民主主義に関するわたしの現在の見地は,これらの物が理論上はりっぱでありますが,実際上,実行不能だということであります……*21」。
 しかし,毛沢東の手紙はついにラッセルの注意を引くに至らなかった。ラッセル自身の希望は,産業民主主義と労働者の(による)イギリス管理とに向かっての運動が,権力を蚕食,ついに社会主義への平和な移行の草分げとなるに足るものとなってくれればというところにあったが,それは,一九二六年のゼネ・ストで,痛ましく,そっけなく,打ち砕かれてしまった。かれは,依然として社会主義を擁護し,平和を説き,性道徳の基準の少しでも寛容になり,自由意志教育の行われるようにと戦いながら,哲学上の仕事を続けた。帝国主義と勢力範囲との理論的諸問題についてのかれの関心は,両世界大戦間を通じて,たとえばインド同盟のための仕事のような直接の実際的課題に圧倒されるようになり,漸次,かれの当面の政治的公約は変化していった。


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 一九三〇年に姶まる十年間,ラッセルは依然,平和主義者であった(松下注:ラッセルは,何度も(理論上の)「平和'主義者'」であったことはない,と主張している。しかし,核兵器が使用され,米ソが保有するようになった以降は,名実ともに「平和主義者」となっている)。もっとも,この見解を懐くにあたって,どういう条件と限界の枠内でしたかを,かれは繰りかえし主張してはいた。当時を回顧して,かれは書いている,
「わたしが第一次世界大戦に反対したのは,それが無用だったからであり,金銭と権力の亡者どもの張り合いの問題に過ぎなかったからである。この戦争のあとの荒廃から,ヒトラーが出現した。わたしは,もう一度世界大戦をするための準備など,是認する気にはなれない。わたしはヒトラーを生んだ状態を避けることに努めてきた。数百万の人々の生命を犠牲にしてでもヒトラーは打ち破らなくてはならないとするような行きかたは,これを避けようと努めた。これがもうだめだということが明らかになったとき,わたしは,まったく気が重かったが,干戈(注:かんか/たてとほこ→武器)に訴えることが必要だろうと悟ったのである*22」。
の画像  初期のドイツ・ファシズムを非難してから,かれは,その発展のあとを,恐怖をもって語り,ヒトラーの占領に'非暴力の手段'で対抗できる消極的抵抗の原理を,念を入れて打ち立てようとしている。同時に,かれは,世界政府を主張し続けた。一九三六年,かれは,『平和への道は果たしてどれか』(Which Way to Peace?)を公刊したが,本書は,この種の議論の輪郭を描いたものであった。後年,かれは,これらの議論があやまっていると感ずるようになり,これを否認した。かれとしては,依然として,消極的抵抗が,立憲的秩序をそなえた官憲当局と戦う有力な武器でありうるし,世界政府こそ必要な目標だ,と確信していたにしてもである。戦争が勃発したとき,かれは,合衆国にあり,その進み具合についてのニュースを読んで,悲歎にくれた。数年にわたる集中的な哲学研究によって,『西洋哲学史』,『意味と真理の探究』が生まれ,『人間の知識,その範囲と限界』の基礎が置かれたが,これらを完成するや,一九四四年,かれは,イギリスに帰り,程なく,新たな一つの世界を迎えた。古くからの帝国主義の闘争は,まだ至極健在であったが,ソビエト同盟が台頭して第二の列強となることが明らかとなりかけていたとき,日本の広島と長崎,両都市が,核兵器によって破壊されたことは,未来の戦争が次々行われそうな恐れに対して,否,その強い見込みに対して,恐るべき大きさを加えるものであった。'大量破壊'は,今や諸国民全体をも抹殺しかねぬ規模で,十分考えうるものとなった。
 ラッセルは,この新たな軍事技術の及ぼす影響を,たちどころに見てとり,じじつ,核分裂兵器の経験にもとづいて,水素爆弾の発展まで予言した。しかし,はじめのうちは,長いあいだ,A.J.P.テイラーの描いたジレンマにとらえられていた。国際連合は動き出したけれども,古い国際連盟のときにくらべて,統一ある世界政府の方向には,殆ど前進は見られなかった。勢力均衡は,不安な釣り合いを保ちながら,国家間のすべての関係を,厳しいほど単純化した形式で支配し続けたが,このような形式は,世界が見たところ明らかに区画された二つの陣営に,イデオロギー的に分かれたため,完全にひと目でわかるものとなった。同時に,スターリニズムの恐るべき経験は,ソビエト・ブロックが明らかにいちばん偏狭なものであるだけでなく,いちばん略奪的なものでもあることを,示すもののごとくであった。だから,ラッセルが,戦争状態の終結直後,上院で核兵器競争の危険を説いたとき,かれは,合衆国をおよそ潜在的な世界機関のいちばん有望な先駆国と見る気持ちに傾いていたバルック・プラン(注:Baruch Plan:アメリカ代表 の Bernard Mannes Baruch が提案した国際機関による原子力産業の独占的 国際管理は,一九四七年,この判断を確証するかのごとく見え,二,三年のあいだ,かれは,倦まず弛まず(うまずたゆまず)これを支持し,スターリンに強制してでもこれを受諾させようとした。しかし,冷戦の発展とともに,マッカーシズムの襲来から,アメリカの政治機構についてのかれの昔からの疑いが,また急速にあたまを持ち上げ,最初の水素爆弾の試爆が行われないうちに,はやくも,かれは,合衆国の政策にいよいよ強く反対するようになっていった。かれは,バルック・プラン失敗の責任の幾分を西側列強に着せたが,それは,西側列強が,国際連合組織を急速にくつがえして,自分たちのヘゲモニーの手先に使ってきたからであった。
国際連合組織が公明正大な国際団体にふさわしいものだということを,西側が真に認めていたら,スターリンもバルク提案に応じたかも知れなかった。武器競争がその後に出てきたため,わたしの恐れは事実となり,わたしもまた,これが頂点に達して衝突となることのないようにしなくてはならぬと,心を決した*23」。
の画像  一九五四年の終わりに,かれは,「人間の危機」について有名な放送を行った。これがアインシュタインの支持を受け,ほかの幾人かの科学者も,その警告に賛意を表するに至って,サイラス・イートンのノヴァ・スコチアで催された第一回パグウォシュ会議として知られるもののアピールが始まった。これは,科学者を地球各地から呼び集め,核の危険に関する共通のフォーラムを開かせようとする,'開妬者的な試み'であり,それが政府のイニシアティヴによるものでなかったという事実によって,得をした。「パグウォシュ運動」は,その仕事を続けており,この運動の趣旨を文書にした折には,一九七二年秋にいちばん新しい会合を召集する予定になっていた。一九五八年までに,ラッセルは,この問題についての科学者以外の人々の関心を喚起し,核兵器撤廃運動を始められるよう尽力していた。かれは,この運動の初代会長であった。かれが,ニュー・ステイツマン紙に寄せた公開書簡は,N.S.フルシチョフとフォスター・ダレスの回答を受け,この異例の往復書簡は,核兵器撤廃に関する多くの小冊子と単行本の嚆矢(こうし/昔,中国で戦いを始めるときに敵陣に向かってかぶら矢を射たところから物事の始まり)として公刊された*24。二年以内に,CND(核兵器撤廃運動)の合法的努力によって,当時在野だったイギリス労働党も,単独核兵器撤廃政策に転向したが,しかし,同党領袖は,この決定をくつがえすのに躍気となり,その後の政策会議で労働組合大量票の異常な操作を行うことにより,けっきょく,これは可能となった。立憲的な政治機構が説得による変更を受け入れにくくなっていた周囲の情況を見て,ラッセルは,'百人委員会'(Committee of 100)を結成,核戦争反対の直接行動をとろうとした。この団体は,最初,ラッセルが二人の青年クリストファー・ファーレーとレイフ・シェーンマン(松下注:Ralph Schoenman ラルフ・シェーンマン)の支持を得て始めたものであり,かれらは,後に,ラッセルの片腕として,バートランド・ラッセル平和財団を設立した人たちであったが,この百人委員会は,国防省の外のトラファルガー・スクェアと,核装置(?)および空軍基地と,ホウリー・ロッホ潜水艦基地とに,一連の坐りこみデモをかけた。一九六一年,ラッセルは,生まれて二度目の刑務所入りをし,四度目の妻エディス・フィンチも行を共にしたが,かの女は,夫の運動すべてに対して,たとえそれがどんなに苦労の多いものでも,積極的に加わった。ラッセルはブリクストン刑務所に収容されるにあたって,支持者たちにメッセージを残したが,これを見ると,核反対運動が,この頃までに,政治当局と,いかにはっきり喰い違いを来していたかが,よくわかる。
「大切な同僚諸君とともに,わたしは暫く口を閉ざされることになります−−ひょっとすると,永遠にかも知れません。何しろ,大虐殺がいつ起こるか,それは誰にも分からないからであります。
 東側と西側の人々は,頑迷な政府が威信を求め,汚職官吏が自己の地位を守るのに汲々としているのに気づかず,ただおとなしく政策に従っていますが,これらの政策がついに核戦争にいたるものであることは殆ど確実であります。二つの側が,おのおのりっぱな大義名分を代表するものと公言しております。これは妄想であります−−ケネデイとフルシチョフも,アデナウアーとド・ゴールも,マクミランとゲイッケルも,その追求している共通の狙いは,人間生活の終焉であります。
 諸君も,諸君の家族も,諸君の友人も諸君の祖国も,畜生にひとしいがしかし権力だけは絶大な少数の者たちの共通の決定によって,絶滅されることとなります。これらの者たちを満足させるため,個人的愛情のすべてと,国民的希望のすべてと,芸術と知識と思想の上で達成されてきたものすべてと,今後達成されるべきすべてのものは,永遠に抹殺されることとなるでありましょう。
 生あるものが一人も残らず破滅してしまったわれらの惑星は,数え切れぬこれらの幾時代を,あてもなく太陽の周囲をめぐり,喜びと愛と,時として姿をあらわす知恵と,人間生活に価値を与えてきた美を生み出す力とに,救われる日は二度と来ないでありましよう。
 われわれが入獄するのは,このことを防止したいがためであります*25」。

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 世界史上のこの時期全体と,自分自身の平和に対する努力とをふりかえって,ラッセルは,甚だしく破壊的な結論をくだすこととなった。
「一九四〇年代後半と五〇年代前半に,わたしは,スターリンの独裁の恐怖を痛感し,その結果,冷戦の簡単な解決はありそうもないと信ずるようになった。わたしは,後には,スターリンが,無情は無情だが,非常に保守的だったと思うようになった。わたしも,西側のおおかたの人々と同じように,かれの暴政は拡張論的なものと,あたまから定めてかかっていたが,その後の証拠から明らかになったことは,西側こそ,'東欧'を第二次世界大戦の戦利品の一部としてかれ(スターリン)に与えた張本人であり,かれと西側とのあいだで合意したことは,大部分,かれが守ったということであった。スターリンの死後,わたしは,世界中の人々が,核兵器に寄り添って生きることの愚かさと危険を,わかるようになってほしいと,心から望んだ。世界制覇をねらう国々がひと目でそれとわかるものならば,おそらく中立諸国も,理性の声を国際問題に導き入れることができるであろう。それは希望にもならぬ希望であった。わたしが中立国の力を過大に評価していたからである。ただ減多にないこととして,朝鮮の場合のネールのように,'中立国'が冷戦に対する圧力に辛うじて価値ある重味を加えたこともあった。中立国は,わたしが人間の生き残ることをイデオロギーより重要と考えているという理由から,わたしの見方を具現しようとし続けた。しかし,新たな危険が前面に出てきた。世界帝国の野望を懐いているのはもはやロシアではなく,この野望は今や合衆国に移ってしまったことが,明らかとなった。
 ベトナム戦争の起源と情況に対するわたしの調査が示しているように,合衆国は軍事的冒険に乗り出し,これが,いよいよ,世界最大の脅威としての'ロシアとの戦争'に,取って代わるものとなりつつあった。アメリカの反共主義の狂信ぶりは,市場および原料に対するその不断の追求と相俟って,およそ本気で中立を守ろうとするものが,アメリカとロシアを世界にとって同等に危険だと見ることを,不可能にした。アメリカの軍事的,経済的,冷戦的政策が,本質的に一本になったものであることは,ベトナム戦争のさもしさと残酷さから,いよいよ明らかになっていった。西側の人々にとって,このことは,何よりもそうと認めにくい点であり,再びわたしは,過ぐる十年間のわたしの見解を受け入れるようになってきていた人々の沈黙ないし抵抗を,経験することとなった。しかしながら,第三世界には,非常に注目すべき,われわれに対する支持があった。残虐な行いは,何一つ挑戦を受けずに,済むわけがなかった*26」。
 この再評価の鍵をなす一つの要素は,キューバ危機が演じたものであったが,この危機は,大英帝国の核反対運動の力が一般人のあいだで頂点に達したときに起こった。ケネディ大統領が,キューバに据えつけられつつあったソビエト製ミサイルは撤去しなくてはならない,と主張した際,「赤になるくらいなら死んだほうがましだ」というスローガンに含まれた意味全体が,世界中の人々にひしとこたえた。二,三日のあいだ,先進諸国の全的破壊は,避けがたいもののように見えた。ラッセルは,大わらわになって,フルシチョフとケネディのあいだを取りなそうとした。かれは,この危機の結果として生じたものを,つぎのように要約している。
「全体的核戦争を避けるという見地からみたとき,キューバ危機のクラィマックスは,フルシチョフが,ロシアの艦船に命じて,アメリカの封鎖艦隊との衝突を回避させたときにあった。この瞬間から,明らかとなったことは,合衆国政府でなく,ソビエト政府のほうが,人類の生き残ることをもって,キューバに望みの政府を戴かせるべきか否かの問題より重要と見ているということであった。この瞬間まで,アメリカの政策とロシアの政策のあいだに,選ぶべきものはあまりなかった。しかし,フルシチョフが,全体的核戦争を回避しようとする決意のこの何よりの証拠を示したとき,ソビエト社会主義共和国連邦のほうが,二つの競争国のうちでは理性的な側となった。しかしながら,アメリカ側の見地からすれば,議論はまだ,ロシア側艦船の撤退後もしばらくは,緊迫していた。ロシア人は,キューバに核基地を建設しつつあり,核兵器を輸入しつつあった。ロシア人は,同時に,キューバに輸入しつつある武器が,まったく'防衛のため'のものだ,と言っていた。これは,合衆国側からは,ごまかしと見られ,だからロシアを信じて協定など結んではならぬという理由とされた。アメリカの核準備すべては防衛のためのものだと言われた。 たとえば,ハンソン・ボールドウィンは,十一月七日付のニューヨーク・タイムズ紙上で,言っている。
「合衆国の主張で,同盟国も賛成している点は,いつも,その海外基地がひとえに共産主義の侵略的拡張主義に対応して設立されたものだという点であった」。
 これに対する逆襲として,ロシアがキューバに設立しつつあった基地も,合衆国の侵略的拡張主義に対応して設立されたものだと,言えないこともなかった。しかし,合衆国に根づよい見方として,共産党のすべての武器は侵略のためのものであり,反共の武器はすべて防衛のためのものだというのがある。「ごまかし」については,ロシア人のほうから自分たちのやっていることを隠そうとするような試みは,一度も見られなかった。かれらの核装置のうちには,幹線道路にちかいものも幾つかあり,すべて,アメリカの飛行機から丸見えであった。ロシア人は,自分たちが核準備としてやってきたことを,すべて取り払うことに同意し,進んでこの撤去を国際連合の検閲によって保証してもらおうとした。フィデル・カストロは,ウ・タント(国連事務総長)とのかなりの論議の末,国際連合の検閲を受け入れることを発表した。しかし,かれは,同じような検閲が,フロリダとジョージアにある合衆国の侵入キャンプでも行われるのが至極当然だとした。
 キューバの偵察機が,ワシントンの上空は論外としても,フロリダとジョージァの上空を飛んだならば,アメリカの反応はどうなるであろうか。合衆国はさらに,東キューバのグァンタナモに軍事基地を持ち,キューバ政府の希望に直接反したことをやっている。何万というアメリカ軍が,この基地でキューバの土を踏んでいる。カストロは,この外国基地の廃止をさらに今一つの条件として要求し,国際連合にこの問題を持ち出そうとした
 かりにイースト・アングリアに,敵性を持つソビエト軍事基地が維持され,国民と政府の希望に反したことをやっているとして,しかし,これが経済的ないし軍事的に干渉を受けることでもあれば,即時,核攻撃を加えるぞという脅威によって保持されているとしたら,イギリス人は,これについてどう感ずるであろうか*27」。
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 だが,この決定的な例に見られたソビエト政府の和解的感受性の大きさも,残念なことには,合衆国の非妥協的態度を示す一例に過ぎぬものとなった。ベトナムの危機が次第に大きくなっていったことは,一九六三年に入るとすぐラッセルの注意を引き,一九六四年十一月,かれはクリストファー・ファーレーをハノイに派遣して,事態について報告させた。ラッセルがベトナムの出来事を仔細に調べれば調べるほど,ますます確信を懐くようになっていったことは,ベトムナ人の主張が正しいということであり,合衆国の政策が弁護の余地のないものであるばかりか,その残虐性の上でかって例のないものだということでもあった。かれは,一連の演説とパンフレットと書簡によって,ベトナムの弁護を始め,一九六五年までには,戦争犯罪裁判(国際戦争犯罪法廷)を設立することを決意していたが,これは後に,ジャンーポール・サルトルとウラジミール・デディエとラウレント・シュワルツ(ローレンツ・シュワルツ)の司会のもとに,開催された。同裁判の下ごしらえとしての徹底的な仕事は,多数の研究委員会と広汎な調査を必要とするものであったが,かれの意図がはっきりするにつれて遭遇することとなった異常な中傷運動によって,こみいったものとなっていった。同裁判(法廷)は,イギリスで開くことを禁ぜられ,次いでフランスでも禁止となった。ジャーナリストたちは,ラッセルの老衰についての思惑で,紙面を賑わした。かれは,以前の秘書レイフ・シェーンマンの単なる代弁者として行動しているとして非難された。もっとも,事実を言えば,まさしくこの裁判の複雑な問題の処理に関連してこそ,かれは,その愛弟子が,疑いもなく精力的で創造的でこそあるが,いかにも衝動的なのに,我慢がならなくなり出したのである。西側の新聞雑誌が同裁判に殆どなんの思いやりも示さず,だいたいにおいて用心深く,同裁判の発表したベトナムでの残虐行為の詳細な文書を載せることを控えたとすれば,ソピユト当局も,それにくらべて,それほど思いやりがあったとは言えなかった。
 ロシアと東欧の新聞雑誌の大半は,同裁判の仕事に,沈黙のカーテンを引いていた。それにもかかわらず,どういうふうにしてか,殆どあらゆるヨーロッパの国々とほかならぬ合衆国の多数の青年に話は通じ,地下低抗運動が出来はじめた。もとより,同裁判は,事態の真相を告げようとする試みの一つのはしりに過ぎなかった。この漸次的変化の決定的要因は,何と言ってもベトナム人みずからがかつてなかったような模範を示したことにあった。ラッセルは,ロンドンで開かれた同裁判の第一回にあたって,次のように述べた。それは政府が同裁判の仕事に対する禁令を課する以前のことであった。
「わたしはこの仕事を反省してみると,わたしの一生のいろいろな出来事を思わないわけにいかない。それはわたしが数人の犯罪を見てきたからであり,数々の希望を懐いてきたからである。わたしはドレフェス事件を切り抜け,コンゴ地方でレオポルド王のおかした犯罪の調査に関係した経験がある。わたしは数多くの戦争を想いおこすことができる。多くの不正が,この数十年のあいだに記録され,しかもそれに対して何事もなされなかった。わたし自身の経験では,この度の事態とそっくりくらべうる事態は,発見することができない。わたしは,これほどまで苦しめられながら,しかもなお,かれらを苦しめた人間の欠点を持たない国民を,想い出すことができない。わたしは,およそ衝突で,物力の懸隔がこれほどまで大きいものを,ほかに知らない(注:米国とベトナムとでは軍事力の差が非常に大きいこと)。わたしは,これほどまで忍耐強い民族を覚えてないし(記憶しておらず),これほどまで抑えても抑え切れぬ抵抗精神を持った国民を覚えてない。
 わたしは,ベトナム人民に対するわたしの讃嘆と熱情の深さを,隠したいとおもわない。わたしは,自分がこのような気持ちを懐いているからこそ,かれらに対してなされたことを裁くべき義務を放棄するわけにいかない。われわれに委ねられているのは,断固たる調査から顔を出してくる事柄の真相を明らかにして,この真相を語ることである*28」。
 ソビエトがこのイニシアティヴに対して無関心であったのは,世界の平和運動を独占しようとする気持ちより深い何かに基づくものであることは,明らかであった。ラッセルが東欧に抑留されている者の政治的権利のために絶えず調停の労を惜しまなかったことと,ポーランドとほかならぬソビエト連邦で差別的待遇を受けているユダヤ人を弁護してきたことと,民主的人道主義的な価値を休む間もなく擁護してきことは,ロシア人と東欧人のあいだにも反響をよびつつあった,チェコ侵入が一九六八年に開姶された際,まったく自然におもえたのは,チェコの知識人がラッセルに支援を訴えたことであり,同じくまったく自然と見えたのは,かれが,かれらを防衛するために幾週間にもわたる不堯の活動をしたことであった。これらの出来事についてのかれの多くの言葉は,かれのあたまがどんなふうに働いていたかを,明らかにしてくれるものである。遺憾なのは,かれがこの問題に関する書物の構想を立てることがついにできなかったことで,今少し長生きしていてくれたらばと惜しまれる。


 

 まだ諸国民は一つにまとまっていない。富める者は貧しい者から略奪し続けているばかりでなく,世界が立ちあがって再び自制せよとの要求に応ずることができなければ,今や金持ち自身も貧しい者も共に破滅することとなりかねない。こんにち,われわれは,ラッセルが二,三〇年前に何べんも警告したように,水素爆弾だけが世界の破滅に通ずる唯一つの道でないことを,知ることができる。資源の分取り,清らかなもの,人間の満足,ほかの人々の存在,ひょっとすれば生命そのものの生き残る能力まで,犠牲にしての,富の追求の狂態,ずらりと並んだこれらの無秩序すべては,「エコロジー問題」というレッテルを貼られているが,それが解決されないうちに,われわれに襲いかかるぞと,今や,執拗に語りかけている。ラッセルが,個人の自由を是認すると同時に,世界が一つになることを求めたのは,確かにまちがいではなかった。かれが帝国の終焉を求め,一人の人間が他の人間を支配することの無くなることを求めたのも,確かにまちがいではなかった。誰も,このような論点に含まれている問題に寄せられたかれの解答のすべてが正しかったと主張しようとはしないであろう。それらの解答は,本論が主張しているように,往々にして試験的なものであり,時には矛盾していることもある。明らかとおもわれるのは,ラッセルが,多くの正しい疑問を発したということであり,かれのような規模で自由に働く想像力にして始めて,明日の解答を出すことができそうだということである。大かたの人々が,自分の狭い共同体を,あるいは自分の国家を,その憧憬の自然な境界と見,その行動能力の疑いのない限界と見たのに対して,ラッセルは,国境を越えたところに,ビジネスマンたちがふたまたで立つ辺境を越えたところに,まなこを放って,一つの世界共同体を夢みようとした。かれは,社会主義と民主主義と個性の自由な伸長を,一つに結ぶ可能性を,おぼろげでこそあったけれども,見ていた。かれに従うわれわれが,どのような方式を作り出そうと,それによって,一個の貴族のこのような挑戦,このような心からの願い,このような希望に,応ずることのできるものでなければ,われらの仲間にとって適切なものとはならないであろう。かれは,貴族の時代が終わりを告げたあとに生き残った一個の貴族であり,人間の時代の始まる以前に,とは言え,そう遠くなさそうな以前に,生きた一個の人間であった。


原注
(1)デビッド・ホロウィッツ(著)『封じ込めと革命』(David Horowitz, Containment and Revolution, Anthony Blond, 1967)p.7(=序文)
(2)レイモンド・ウィリアムズ『政治における知的なもの』(Raymond Williams, The Intellectual in Politics, Spokesman, no.3, 1970, p.5.
(3)フランクリン(Franklin)の自伝的十戒は,ロレンスから『アメリカ文学に関する小論集』(D. H. Lawrence, Essays on American Literature)で,情け容赦もなく茶化されたものだが,この特殊な戒律の場合,ほかのどの場合以上に,その茶化しがよく利いている。しかし,一つの意味で,フランクリンは,ロレンスが傲岸の化身と見たものを,事実上,真の謙遜と理解した点で正しかった。ロレンスは主知主義を軽蔑していたから,そのために,かれには,独特に俗的な事柄に執するところがあって,時にこれが,ありふれた感情は鈍感だと取らせ,常識は愚かさだと思わせるのである。知的謙遜は,かれには理解できなかった。なぜと言って,知的謙遜には,普通「謙遜」と見られるあの目もあてられぬような状態とちがって,勇気と非妥協的態度と節操の真の構成要素が伴うものだからである。時によっては,フランクリンも暗に言っているように,それは公然たる反抗さえ要求することがある。
(4)アラン・ウッド『情熱の懐疑家−B.ラッセル』(Allan Wood, Bertrand Russell, the Passionate Sceptic. Unwin Books, 1957)
(5)『ラッセル自叙伝』第一巻 Autobiography, v.1 (George Allen & Unwin, 1967)p.146.
(6)これは,ウェッブ夫人が設立した「係数会」(コー・エフィシェンツ)と呼ばれる,入会条件のやかましい討論サークルでおこった。同サークルの初期の頃についての話は,ウェルズの『自伝の試み』(H. G. Wells, Experiment in Autobiography(Cape, 1934)p.761 et seq. 参照
(7)徴兵拒否組合が設立されたのは,良心的参戦拒否に組織を与えるためであり,その主唱者には,クリフォード・アレン(Clifford Allen)とフェンナー・ブロックウェイ(Fenner Brockway)がまじっていた。早くも一九一五年,それは,間断なく政府の襲撃を受けることとなり,徴兵が持ちこまれるや,それは一大キャンペーンを繰りひろげたため,多くの逮捕者を出した。機関紙『ザ・トリビュナル』(The Tribunal)は,ラッセルが編集したが,それは前編集者が投獄されたためであった。ラッセル自身,この仕事に対する報復として,一九一六年,ケンブリッジ大学講師の職を解かれ,一九一八年には,ボルシェヴィキを支持して合衆国軍隊のスト破り活動を攻撃する論文を発表したかどで,拘禁された。
(8)民主管理同盟(UDC)は,モレル(E. D. Morrell)の手で設立され,秘密外交に反対して,外交政策の民主的管理のための運動をおこそうとするものであった。イギリス内閣は,すでに参戦を決めていたが,閣僚の中にさえ事前にこれを知らなかったものもあった。国民に対する指令など何もしなかったことはもちろんであった。UDC事件は,ラッセルの手で一連の小冊子に述べられ,後に『戦時下の正義』(Justice in Wartime)と題して公刊された。
(9)ギルド社会主義運動は,労働者の管理体制下に,産業民主主義を確立するための組織であった。それは多数の労働組合で有力となったが,いちばん有名な主唱者は,コール(G. D. H. Cole)であった。ラッセルの『自由への道』(Roads to Freedom, 1918)は,この見方を述べた古典である。
(10)『戦争−恐怖の生み落したもの』(War; the Offspring of Fear) ,スタンスキー『左翼と戦争』(The Left and the War. New York, OUP, 1969, pp.103-104.)に再録
(11)前掲書 pp.112-113.
(12)レーニン『著作集』第21巻 V. I. Lenin, Collected Worksv.21, Moscow, FLPH, p.265.
(13)テイラー『危険人物−外交政策に関する意見の相違』(A. J. P. Taylor, The Trouble Maker; Dissent over Foreign Policy, Hamish Hamilton, 1958. pp.132-135.
(14)ロバート・スマイリー『わたしの労働生活』(Robert Smillie, My Life for Labour, Mills and Boon, n.d., pp.234-237 参照)
(15)『政治理想』(Political Ideals. N. Y., Simon & Schuster, pp.78-82.)
(16)前掲書pp.78-82.
(17)『メドヴェーデフ関係文書』(The Medvedev Papers, MacMilla, 1971)
(18)『ボルシェヴィズムの実際と理論』(The Practice and Theory of Blishevism. Allen & Unwin, 1920)を見よ。この代表団についてと,そこでのラッセルの役割については,アレクサンダー・バーケマン『ボルシエヴィキの神話』(The Bolshevik Myth. Hutchinson, 1925, pp.133 cf seq.)および,エマ・ゴールドマン『わたしの生活』第二巻(Emma Goldman, Living My Life, v.2, Knopf, 1931, pp.794-795)に,おもしろい話が幾つも載っている。
(19)『中国の間題』(The Problem of China. Allen & Unwin, pp.182-184.)
(20)『イカロス』(Icarus, Routledge & Kegan Paul, 1924, pp.61064.)
(21)シュラム『毛沢東の政治思想』(Stuart R. Schram, The Political Thought of Mao Tse-Tung. Penguin Books, 1969, pp.276-278)
(22)『九〇歳代に入って−バートランド・ラッセル讃』(Into the 10th Decade; Tribute to Bertrand Russell Bertrand Russell Peace Foundation, 1962, p.16.)
(23)前掲書 p.17.
(24)『ラッセルとフルシチョフとダレスの重要書簡』(The Vital Letters of Russell, Khruschev, Dulles. MacGiggon & Kee, 1958. なお,『常識と核戦争』(Common Sense and Nuclear Warfare, by B. Russell. Alle & Unwin, 1958.)と『行動か死か』(Act or Perish. Committee of 100, 1960)を見よ
(25)『ラッセル自伝』第三巻
(26)前掲書 pp.171-172.
(27)『武器なき勝利』(Unarmed Victory, Penguin Books, 1963, pp.53-55.)
(28)前掲書 p.216.