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N.チョムスキー(著)『知識と自由(ラッセル記念講演)』訳者あとがき
『知識と自由』(川本茂雄・訳:番町書房、1975年5月刊) pp.132-137.

*原著:Problems of Knowledge and Freedom: the Russell lectures, by N. Chomsky (Random House, 1972)
*訳者・川本茂雄氏(かわもと・しげお、1913~1983)。フランス語学、一般言語学専攻。


 本書の著者ノーアム・チョムスキーは、二つの異った相貌のもとに、その名が世に高い。二つの風貌の一つは、卓抜な言語学者としてのそれである。彼の創設した「変形生成文法」(Transformational generative grammar)なる言語学の理論・方法は、しばしば「チョムスキー革命」の名をもって語られる。現下の言語学が変形生成文法一色によって塗りつぶされているといったならば、それは事実を正しく伝えることにはならない。この理論・方法を採択していない学者、学派が存在することは、否定すべくもないからである。しかし、現在、いかなる学派に属するいかなる学者も、なんらかの意味で、チョムスキーの理論を考慮に入れ、これについての態度を決定しなければならないといっても甚だしい過言ではないほどに、変形生成文法は学界において重い存在をなしている。
 今から二十年たらず前、一九五七年に小冊 'Syntactic Structures'(邦訳『文法の構造』研究社刊)が刊行の陽の目を見たとき、著者チョムスキーはまだ三十歳に達していなかった。「刊行の陽の目を見た」という表現を用いたのには、わけがある。チョムスキーこの小冊の刊行の以前、ハーバード大学において数年の研究生活を送り、一九五五年に 'Logical Structure of Linguistic Theory' と題する浩翰な論文を完成していた(そのうちの一章は、ペンシルベニア大学へ提出された学位論文となった)。しかし、これはその厖大な量のゆえに刊行者を発見することができなかったのである。この重要な文献は以後ずっとマイクロ・フィルムないしはゼロックスなどによる複製によって篤学者のあいだで読まれてきたのであるが、執筆後二十年にして、本年(一九七五年)中にようやく公刊の予定と発表されている。
 こうして、チョムスキーの所説がまず世人の目に弘く触れる機会を得たのは 'Syntactic Structure' この刊行によってであった。この書冊は教室での講義用資料に基づくものであった。その公刊は、はじめは世の注視を集めることも大してなかった。やがてチョムスキーの方法、そして理論が注目を惹きはじめると、まず最初には手きびしい反論に遭うこととなり、論戦が展開された。チョムスキーおよびその支持者の側においては、方法の精緻化、理論の深化が不断かつ強力に押し進められた。チョムスキー自身の研鑽の成果としては、一九六五年に彼の見解の一つの総括が 'Aspects of the Theory of Syntax'(邦訳は参考文献『文法理論の諸相』(研究社刊)参照)なる著書として現れた。その後も、彼は自らの所説をさらに展開し、修正し、倦むところを知らない。彼の影響力は、もはやアメリカ国内にとどまらず、ドイツ、フランスをはじめとして弘くヨーロッパに及んでいる。
 チョムスキーのもう一つの風貌は政治評論家としてのそれである。アメリカのベトナム政策に対する痛烈な批判者としての彼の名声は、言語学者としてのそれに優るとも劣らない。否、むしろ、チョムスキーは政治評論家としていっそう幅広い公衆に知られている、といえるであろう。彼の言語学は高度に技術的な面を含んでいて、この学風に正式に入門の手ほどきを受けた者、あるいは自己自身で領得の努力を払った者でなければ、その内容を窺い知ることはきわめて困難である。それは神秘めいたところのいささかもない経験科学であるから、変形生成文法を真に理解しようと望む者にとっては、正面からこれに接近して文献を綿密に熟読してゆけば、理解することは不可能な業とは決していえない。現に、わが国の若い学徒でチョムスキーの学説を逸早く身に着けてさらに進んでそれぞれに自分自身の課題を選び、独自の研究を深めている人々が少くない。しかし、それは言語学を専攻する人たちについて言い得ることであって、言語学徒でない知識人にとっては、ある程度の一応の理解に達することさえ、そう容易な業ではない。したがって、一般には言語学者としてのチョムスキーは名声のみ高く、その実体は近寄り難いものにとどまっているのが実情である。これに反して、政治評論家としてのチョムスキーは、その論ずる主題そのものの性質上、論説が広範な読者層の目にとまるのである。
 だが、チョムスキーが政治に本格的な関心を寄せたのは、ある意味で意外といってもよいほどに、時期が遅かったのである。この方面の彼の書きものが最初に書物の姿に纏められたのは、一九六九年に刊行された'American Power and the New Mandarines' (邦訳は参考文献『アメリカン・パワーと新官僚』(太陽社刊)参照)であった('Aspects' に遅れること四年、'Syntactic Structure' から数えれば十二年後である)。この本のなかで、チョムスキー自身、次のように書いている、「わたくしのように、一九六五年に至って漸く反戦運動に参加した人間は、誇りや満足を感ずべき理由を持ち合わせない。この反対は、十年ないし十五年遅きに過ぎたのであった」。その十年前といえばジュネーブ協定、南北ベトナム分離(一九五四年)の頃であり、十五年前にはベトナム人民軍がフランス軍にむかって立ち上った、そしてアメリカはフランス軍を支援したこと、また、一九六五年にはアメリカの北ベトナムに対する爆繋が開始されたことを想起していただきたい。
 'American Power and the New Mandarins' で、チョムスキーは批判の鋒先をなにに向けたのであったか。この書物の題名それ自体が、この問いにほぼ答えていると思われる。それは、世界情勢に自己の意志を武力をもって押しつけようとしたアメリカ政府に対する抗議でももちろんあるが、それ以上に、こうした「権力」(Power)に自ら進んで協力した「新しい高級官僚」(New Mandarins)すなわち知識人たちに向って放たれた痛烈な糺弾であったといってよいであろう。政府部内に身を置いた知識人はいうまでもなく、アカデミックな世界にありながら政府の政策を無批判的に受け容れて、これに知識技能を安易に提供した知識人、なかんずく社会科学者に対する告発である。厖大な力を手中にした政府というものは、一般の福祉を標榜しながら、民衆の幸福を視野から見失い、少数者からなるエリートの立場から物を見、決定をくだす強い傾向をもつ。知識人の務めは、まさにこうした悪弊に対して監視を怠らないことにあるべきである。それなのに、知識人が権力の座にある者たちのイデオロギーに無批判に迎合するならば、彼らはそのことによってまず知識人としての良心を失い、自己の職責に違反することとなる。第二に、もう一つ悪いことには、こうして政府の画策に参加した知識人の、いわゆる「科学」は、真に科学の名に値するものであったか、とチョムスキーは激しく問いかける。動物を被験体として樹立された「行動主義」は、果して人間を説明し、人間を制御するに足るほど科学的厳密さを備えているのか。また、刺激と反応という観念に根本的に立脚する行動主義は果たして人間学としての正しい姿であり得るであろうか。チョムスキーはかつて、言語学の説明原理として構造言語学に広く採用されていた心理学者B.F.スキナーの行動主義を拒否したことがあったが、いま再び政治・人間関係における行動主義を基礎とする「科学」に挑戦する(そして、事実、国防長官マクナマラのコンピューターによる作戦は、北ベトナムや民族解放戦線の鉄の意志の前に敗退したではないか)。こうしたアメリカの対外政策に対する知識人の迎合協力の批判から、チョムスキーはアメリカのインドシナ半島における軍事行動の政治的・経済的原因へと探究を進めてゆき、ラオスと北ベトナムを訪ね、一九六九年の 'At War With Asia' が上梓される(さらに後、一九七三年の 'For Rassons of States' と題する国家論へと論議は発展し、一九七四年には中東問題を論じた 'Peace in the Middle East?' が現れる)。
 こうして二つの役割においてチョムスキーの声望は高まっていった。あるいは言語学者として、あるいは政治評論家として、あるいは両者を兼ねて、国の内外の大学へ講演に招待されるに至ったのも当然である。一九六七年にカリフォルニア大学でベックマン講演を行ったときには、言語学の新しい発展を中心とし、人間の精神と言語との関係を過去・現在・未来の学問研究に照らして論じた(その講演は、'Language and Mind' の題名で一書に纏められたが、拙訳が近日中に河出書房新社から刊行される予定である)。イギリスにおいては一九六九年オックスフォード大学でジョン・ロック講演、ロンドン大学でシャーマン記念講演が行われ、一九七一年には本書に収められた二つの講演がケンブリッジ大学においてバートランド・ラッセル記念講演として行われたのであった。ここではチョムスキーの二つの相貌がいっしょに収められることになった
 ケンブリッジ大学での一回目の講演の様子をダニエル・ヤージン(Daniel Yergin)はニューヨーク・タイムズ・マガジン誌(一九七二年十二月三日号)で、次のように伝えている。「朝日ジャーナル」(一九七三年三月十六日号)掲載同記事の拙訳から引用する、-
イギリスのケンブリッジ大学における第一回の年次バートランド・ラッセル記念講演は真摯な催しとして企画されたことは明らかであるが、はなはだ近代的な講堂には、びっくりさせるようなカーニバル風の気分がただよっていた。学生たちは一時間前から姿を現わしはじめ、講堂はすでに満員となり、座席と、人間のからだでいっぱいに詰った通路とが、区別がつかないほどであった。しかし聴衆のガヤガヤが突然静まって、その夕べの講演者が演壇へ歩みよった。それはアメリカ人で、中年ではあるが、地味ながら若々しい風貌をして、アメリカの中西部のどこかの銀行の貸付担当の若手部長然と見えた。
 講堂が立錐の余地もなく満たされたのは、講演者チョムスキーの名声が然らしめたのであろうことには疑いがない。しかし、この二回の連続講演が、チョムスキーの二つの面を、それぞれに一回の講演において採り上げ、しかも、変形生成文法の予備的知識をもたなくとも、それが示唆する人間精神への接近を、かなり理解しやすい表現と例証とによって展開するものだったからでもあったろう。
 これらの二回にわたる講演(講義)は、ケンブリッジ大学がバートランド・ラッセルを追慕して設けた年次記念講演の第一回を飾るものであったが、チョムスキーこそその機会に、きわめてふさわしい講演者であった。ラッセルもチョムスキーもともに、一方において人間の認識能力についてそれぞれの専門の視角から考察を深めており、他方において人間社会の不正や暴力に対して明白な告発を行ってきた人物である。
 「第一講 世界の解釈について」において、チョムスキーは、ラッセルの合理主義、経験論の「風趣」を保持している合理主義を論じ、講演の後半に至って、彼自身の言語学的研究から具体的な例を引照して、経験科学を踏まえて人間精神の規則性と創造性、限界と自由をいっそう厳密に論証しようとする。知識についてのラッセルの「示唆的な、しかし彼が強調するとおり示唆的の域を出ない」理論を、いっそう精密化し、生得的な精神の原理の存在を論証しようと試みる。そして、「精神の原理は、人間の創造性の視野をも、限界をも提供する。そのような原理がなくては、科学的理解と創造的行為とは可能ではなかろう」というラッセルの見解へ立戻り、「創造的な性格、規則の体系のうちにあっての自由な創造」こそ、「人間の真の光栄」と考える。
 ここから「第二講 世界の変革について」へと諭議は展開されてゆく。 'American Power and the New Mandarins' において自由主義的知識人(リベラル)の過誤をすでに糺弾したチョムスキーは、ラッセルは教育と社会組織について絶対自由主義的な傾向(リバーテリアン)をもっていたと指摘し、「権威の古くからの束縛」から離れて、「創造的衝動の解放を達成するような自由な人々の世界」をラッセル卿とともどもに希求する。そして、この視点から、チョムスキーはベトナム問題をめぐってアメリ力の政治・社会を仮借することのない批判に曝し、その立ち直りを要望する。それは容易には実現し難い願望であろう。だが、チョムスキーは、「新たな希望に充ちて、眼には朝の光をたたえて、新しい、いっそう若い世界が立ち現れるであろう」というラッセルのビジョンを引用して結びのことばとする。
 しかし、これは、あるいは希望の心情的表白であって、未来に対する安易な楽観主義ではないだろうか。この点こそ、フランスのキャンゼーヌ・リテレール誌がインタビュー形式でチョムスキーに向かって発した問いである(一九七二年十二月一日~十五日号)。それへの答えは、次のとおりである(前記の「朝日ジャーナル」に、このインタビュー記事も拙訳によって掲載されている)。
わたしは今グラムシの一文を考えています。そこで彼は理性の悲観主義と意志の楽天主義について語っています。
 世界をそれが現実にあるまま眺めるとき、悲観主義に、大儒主義(シニシズム)にさえ、容易に引きずられていってしまいます。変るものは少ないのだ、人類は滅亡するであろうと、理知的には証明することができます。
 他面、変化の真実起りそうな兆候が見えています。個人的・社会的解放のために、社会的存在のいっそう自由な、いっそう尊厳な、いっそう栄誉ある形式の構成のために、人間のエネルギーは活用されることができます。問題のすべては、各人に自己の知性をこの新しい社会のために捧げる心構えができているか否かを知ることです。このことは、少なくとも部分的には、われわれの力の及ぶことであり、若干の度合いの楽天主義は正当な根拠をもっています。いずれにせよ、行動においては、われわれは意志の楽天主義に特権を与えなければなりません。すべてのエネルギーが、ラッセルが著書の中で輪郭を描いた高尚な目標に捧げられるべきです。
 われわれはすでに「創造性」、「自由」という観念のうちに、本書所収の二つの講演の、いわば通奏低音のごときものを捜し求めた。この点に関して、チョムスキーの言語学と政治観とがどのようにかかわり合っているのか、もう少し尋ねてみよう。
 ラッセルについて、チョムスキーはその研究・述作が並外れて多岐にわたっていることに言及して、本書の序において、「それらを貫き通す玉の糸があるのであろうか。特に、彼の哲学的信条と政治的信条とのあいだに連関があるのであろうか」、と問うている。同じような問いは、チョムスキー自身に向って発せられたことが一度ならずある。例えばニュー・レフト・レビュー誌第五七号(一九六九年)に掲載されたインタビュー記事 'Linguistics and Politics' では、次のように質問が発せられている (Noam Chomsky, Geist und Sprache, Surkamp Verlag: Frankfurt am Main, 1970 に収録されたドイツ語訳による)、-
あなたは言語学的著述において「自由」、「自発性」、「創造性」、「改新」などの概念を用いておられます。そのことは、あなたの政治的態度となんらか関連しているのですか、それとも偶然なのですか。
これに対するチョムスキーの回答の一部は、こうである、-
少しばかり、その両方です。それらの概念は言語研究のあいだに浮かびあがってきたのであって、それらが支持するテーゼは、政治とは全く独立に適正か不適正か、正しいか、誤りかがきまるという限りにおいて、偶然です。この意味では無関係です。同様に、わたくしの考えるところでは、マルクス主義的-アナーキズム的展望は、言語学がそれについてなんと言うにせよ、それにはいささかも拘ることなく、正当なものです。しかし、それにしても、わたくし個人としては、一定の関連が存在すると信じています。わたくしはこう言いたいと思うのです、各人の政治的観念、社会的観念はともに、人間の本性と人間の諸必要とについてのなんらかの把握に究極的には根ざすのである、と。もっとも重性(重要?)な人間の性能は、創造的な自己表現に対する、われわれの生命と思考とのあらゆる諸相の制限に対する、性能と欲望とである、という感想をわたくしは抱いているのです。この性能の殊更に決定的な実現は、自由な道具としての創造的言語使用です。人間の本質と人間の諸必要についてこのように考えるならば、個々の人間のもっとも自由で、もっとも完全な発展が、各個人の諸可能性に、いずれの方向にであれ、許容されるような社会組織の形式、個人が自己の自由と創意との最大可能な活動余地をもつという意味で全的に人間であることが許される社会組織の形式を、構想することを試みることになります。
 ところで、「自由」「創造性」は、しかしながら、チョムスキーにおいては、無規定なものではない。言語についていえば、言語能力を成り立たしめる人間に普遍的な資質、規則が人間という種(しゅ)に生得的に賦与されているのである。だからこそ、人間の小児はすべていずれかの言語を習得することができ、人種の差にかかわらず、小児が生育する環境に行われる言語の規則を体得する(これに反して、動物はいずれの人間言語をも獲得し得ない)。実に人間言語の特質は、規則-人間言語の普遍的規則と各言語の個別的規則-に支配されながら、自由な創造に役立つということにある。
 こうして、人間は普遍的な言語(性)能(linguistic faculty)を生得的に備えてこの世に生まれ、日本語・中国語・アラビア語・英語(方言差の問題などはしばらく問わないこととして)などの個別的な自然言語が行われている言語社会において成育し、言語(性)能に基づいてこれらの個別言語の規則を体得し、個別言語について言語能力(linguistic competence)を獲得する。そして、この言語能力を活動せしむることによって、実際の場合に際してその場にふさわしい発話を生み出すことができる。その発話は自分がかつて口にしたことのない新しい発話であり、他人がかつて口にするのを聞いたことのない発話であり得、また、そうあるのが言語運用(linguistic performance)の創造的、改新的本質を示すものなのである(この点については 'Cartesian Liguistics'(邦訳は参考文献『デカルト派言語学』(テック刊)参照)の第一章に当るべき部分を参照していきたい)。
 個別言語は一見すると種々様々であって、そこにはどれほどの普遍性が含まれているのか、推量することさえ困難に思われるかもしれない。しかし、チョムスキーによれば、それらの外見的・表面的な多様性にもかかわらず、その深底には人間言語の普遍質が宿されていて、それだからこそ人間言語が可能なのである。われわれは、言語の根底的な普遍性と表面的多様性とについて、ここではこれ以上には論じないこととするが、一転して人間社会の組織についても、同種の普遍性と多様性を考えるこことが可能なのであろうか、それを考えるべきであろうか、を問うことができよう。これに対するチョムスキーの回答は、同じインタビューにおいて、次のとおりである、-
言語学者として、わたくしは……英語や日本語が一つの根本範型のきわめて僅かな変異であること、また、この範型に悖る(もとる)、しかし実際にはどこにも存在しない、その他の言語体系を想像することができるという事実に興味をもちます。ところで、言語学者としてこういう研究を遂行することができるのは、われわれが抽象の階梯を登ってゆき、そこから可能な諸体系の多数を見渡して、現存する人間の諸言語体系がこのクラス(訳者注、根本範型のこと)に収まるか否かを問うことができるからです。そして、わたくしの信ずるところでは、現存の諸言語は可能な諸体系のはなはだ小部分に収まるということを定立することになりましょう。倫理的ないしは社会的諸体系についての真剣な探究は、これに似たことを行うことでしょう。それは、諸社会体系のどのようなものが考え得るかを問うことでしょう。その上で、どの種のものが歴史において事実、実現されてきたか、それらが経済的・文化的発展の特定の瞬間において与えられた可能性に関連して、どのようにして発生したかを問うことでしょう。この点に達した上では、次の疑問は、人間が到達した諸社会体系の系列は長大なものか短小なものか、それはどのような活動余地と可能性とをもつものか、人間が到達し得ないような特定の社会体系が存在するのか否かです。このような探究については、われわれは現実には着手していないのです。
 「知識と自由」に係りのあるチョムスキーの考え方について、訳者は、以上にその関連事項の輪郭を描いてみた。最後に、チョムスキー自身の自伝的資料を素描しておこう。わたくしは、さきに、チョムスキーの政治的関心は比較的遅くなって、言語研究の進展に遅れて喚起されたと誌した。そして、チョムスキー自身もそう言っている。だが別の意味では、チョムスキーの政治的・社会的関心は言語への興味と同じくらい早く目醒めたのであった。
 エイブラム・ノーアム・チョムスキー(Avram Noam Chomsky)は一九二八年、ペンシルベニア州、フィラデルフィアに生れた。父はロシアから移住してきたユダヤ人で、ヘブライ語学者であった。その家風には、自由な知的論議を尚び奨励するところがあった。ノーアムは十歳の頃すでにフィラデルフィアから列車でニューヨークヘ出て、本屋を一日じゅう読みまわるのを好んだという。同じ頃、父の編纂した中世ヘブライ語文法の原稿の校正を手伝い、いわば傍道から史的言語学に触れたのであった。他方、彼の少年期に進展していたスペインの内戦は彼の興味を惹き、彼が書いた最初の政治的文章は「バルセローナの陥落」についてであった。十四歳の頃、社会改革に興味をもつ急進的思想の人々を多数知るようになった。また、「パレスチナのユダヤ国家を拒否して、社会主義の基盤に立つアラブ-ユダヤの協力を提唱するところのユダヤ系のある組織に興味を寄せた」
 一九四五年、チョムスキーはフィラデルフィアのセントラル高校を卒業し、ペンシルベニア大学へ入学した。将来の方針はまだ決定せず、アラブ-ユダヤ協力のために尽くそうとイスラエルヘ移住することを考えたりした。たまたま両親の紹介で同大学の卓越した言語学者ゼリッグ・ハリス(Zellig Harris)を知ることとなった。ハリスもまた急進的思想の持ち主であって、チョムスキーはたちまちその方面でハリスに共鳴した。彼はハリスの大著 'Methods in Structural Linguistics' の校正を手助けすることになり、彼が後に攻撃の対象とすることになる「構造言語学」に接し、言語学を正規に学ぶこととなった。当時チョムスキーは数学と論理学を学んでいたので、その方法を言語の研究へ適用することを考えた。後に、構造言語学の限界に気づき、「変形生成文法」を着想したとき、彼の数学的知識が大いに役立つことになる。チョムスキーが文法における論理性を重視して、デカルト派言語学に属すると自認し、言語の創造性に着眼し、ドイツの碩学ヴィルヘルム・フオン・フンボルトに賛同して、言語の「生成力」を採り上げたとき、彼がこれらの先駆者を超出して有力な言語学を構想し得たのには、新しい論理学と数学との知識を身につけていたことが大いにあずかって力あった。言語学における「変形」という観念については、師のハリスもそれを着想し、師弟のあいだで稔り多い意見の交換が続けられたのであったが、チョムスキーは一九五一年~一九五五年、ハーバード大学において研究を続けるうちに独自の理論と方法とを発見したのであった。その後の彼の業蹟については、すでに略述したとおりである。
 一九五五年、チョムスキーはマサチューセッツ工科大学に職を得、現在言語学担当の教授の位置にある。
 ちなみに、チョムスキーは一九六六年の夏、東京言語研究所の招待により同研究所主催の理論言語学国際セミナーの講師として来日し、講義に討論にエネルギッシュに活躍した。また、べ平連(松下注:ベトナムに平和を市民連合)などの平和運動家とも進んで連絡をとったようである。彼はすでに国費が戦争目的に使用されることに反対して税金不納運動に参加しており、その翌年十月にはノーマン・メーラーやスポック博士らとともに首都ワシントンで反戦デモに参加した。一方、一九六八年度秋学期のマサチューセッツ工科大学での講義に基く 'Deep Structure, Surface Structure, and Semantic Interpretation' は、東京言語研究所長服部四郎博士の還暦祝賀論文集 Roman Jakobson and Shigeo Kawamoto (eds.) Studies in General and Oriental Linguistics Presented to Shiro Hattori on the Occasion of His Sixtieth Birthday Tokyo, TEC Co. Ltd., 1970 に寄稿されて、"Aspects of the Theory of Syntax" 以後のチョムスキー理論の新たな進展の発端を画することになった。それ以後の動向については、なかんずく Noam Chomsky, Studies on Semantics in Generative Grammar, The Hague; Mouton, 1972 と注29の論文とを参照されたい。
 なお、チョムスキーの変形生成文法の概略については John Lyons, Chomsky London; Fontana/Collins, 1970(邦訳『チョムスキー』新潮社刊)が好個の案内書である。次の本は、簡約な解説を付して、チョムスキーの編作からの抜粋が収められていて便利である。J. P. B. Allen and Paul Van Buren (eds.) Chomsky: Selected Readings London; Oxford University Press, 1971. ただし両書ともに、ほぼ 'Aspects of the Theory of Syntax' の段階にとどまっていて、それ以後の展開については、ごくわずか触れられているにすぎない。・・・。(以下略)