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N.チョムスキー(著)『知識と自由(ラッセル記念講演)』pt.2 より
『知識と自由』(川本茂雄・訳:番町書房、1975年5月刊) pp.132-137.

*原著:Problems of Knowledge and Freedom: the Russell lectures, by N. Chomsky (Random House, 1972)
*訳者・川本茂雄氏(かわもと・しげお、1913〜1983)。フランス語学、一般言語学専攻。
* チョムスキーは序文の最後に「彼(ラッセルの)哲学的信条と政治的信条とのあいだの連関」について、第1講の最後と第2講の最初で述べるといっているが、以下は、後者にあたる。
* 川本茂雄は言語学者であり、語学は大変できるひとであろうが、意味がよくとれない部分が多く、不適切だと思われる訳が散見される(川本氏は日本語のセンスが余りないのであろうか?。
*(参考)ラッセル(著)『武器なき勝利』(牧野力・解題)


『武器なき勝利』英語版の表紙画像  この論議を終了するに当って、最後の一例、一九六二年のミサイル危機(キューバ危機)を引照しよう(キューバ危機に関するラッセルの見解及び行動は、ラッセルの『武器なき勝利』を参照)フルシチョフ(首相)は、言語に絶する無謀な処置をとって、おそらく攻撃兵器におけるアメリカの相当な優位に反発して、秘密裡にミサイルをキューバに設置した。アメリカ政府の対応は、きわめて注目すべきものであった。この危機を回顧してロバート・ケネデイ(Robert Francis Kennedy, 1925-1968:第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディの実弟で、同政権の司法長官)は言っている。アメリカの対応を決定することに参与した十四人の人々は、
頭脳明敏な、有能な、献身的な人々であって、そのすべてが合衆国に対して最大の愛情を抱いていた、− おそらく、こうした情勢のもとで集め得る最も頭脳明敏な種類の集団であった。もし彼らのうち六人が合衆国大統領であったならば、世界は爆破されてしまったかもしれない、とわたくしは考える。
これら十四人の人々は、ミサイルをキューバから撤去し、危機を終了させようというフルシチョフの申し出に公式に対応することを拒絶した。この申し出には、アメリカのミサイルがトルコとイタリーから撤去されるという要求が抱き合わせ(交換条件)になっていたからである(トルコのミサイルは、旧式のものであり、撤去が大統領によって既に命令されていた)。ソーレンセンの回想によれば、大統領は・・・ミサイル危機(=キューバ危機)のあいだ、戦争の確率は三分の一ないし二分の一と信じていた。それでも十四人の頭脳明敏で有能な人々が、アメリカだけが仮想敵国の国境にミサイルを保持する権力を有するという原則を擁護するために、核戦争の高い確率を受け容れる心構えであった。アダム・ヤーモリンスキーは、当時国防長官の特別補佐官であったが、語っている、−
国家安全保障会議の実行委員は、時間の少くとも九〇パーセントを、部隊、爆撃機、軍艦のいずれを用いるべきかという研究に費した。真向からの外交交渉によってミサイルの撤去を求めるという可能性は国務省の内部では多少の注意を与えられたけれども、大統領によっては考慮されることがほぼなかったようである
 危機の真只中にあっては、非合理な決定がなされることは予期することができる(しかしながら、こうしたことを考えると、心安んじてはいられない)。だが、もっと冷静になってからの時点での、それに対する反応を考えてみよ。わたくしは、多くの論評家は歴史家トマス.A.ベイリーと意見を同じくすることと考える(注:チョムスキーは違う意見であることに注意)。すなわち、ミサイル危機は「ケネディの最もすばらしい刻限(とき)」であって、このとき「彼は冷静さと巧みさをもって核については臆病者としての手をうち(?)、そのことによってピッグス湾の汚点を大いに拭い去った」、というのである。シカゴ大学国際関係委員長モートン.A.カプラン教授は同意して次のように言う、−
キューバのミサイル危機の対処は、ジョン.F.ケネディの輝ける刻限であった。あの危機の対処について彼を口ぎたなく批評する人々は、頭も心も検診してもらう必要がある。
殊に、国内政治がケネディの決断に一役を演じたという人に対し、カプランは批判する(彼自身、これはおそらく実情であったと認めるのであるが)−
疑いもなくケネディは選挙を頭に浮かべていた。彼は政治家であった、彼には政権掌握の問題があった、動機は常に複雑であった。
 ミサイル危機に言及して、ロナルド・スティールは、実際に起ったことは「われわれの生存の継続の糸はどんなにか細いか」を示すものである、と全く正しく指摘している。そのような結論は、わたくしが先程引用した言明(これらは、わたくしの信ずるところでは、広範な真面目な意見を典型的に示すものである)によって代表されるような、その後の反応を考察すると、強化される。同じ年、ジュネーブ休戦協定の侵犯を惹き起こした米国中央情報局(CIA)後援のラオス軍が敗退して、(おそらく中国が)介入したという嘘偽の風評を生み出した後、ケネディ政権は東南アジアで核兵器を使用することをも考慮したかもしれない、と実際に論ぜられたことがある。
 そのような例は、ラッセルの核戦争の脅威についての憂慮が、合理的な人間の憂慮であったことを立証するのに足りる。
 その脅威は、もちろん、存続している。「ニクソン・ドクトリン」が核の閾値(核使用の閾値?)を低める傾きをもつという、強力な議論を立てることができる。ベトナムでは、ニクソン大統領は「敵」に(対し)降服以外の選択を提案していない。彼ら(ベトコンや北ベトナム)が南ベトナムを解放しようとの(ニクソンの観点からは、(敵が)南ベトナムを征服しようとの)闘争を継続することを選ぶならば、これに対する応答は大量報復となり、戦術核兵器を含むかもしれず、その結末は予言し難い。バートランド・ラッセルが晩年を献げた二つの問題− 核戦争の防止とベトナムの残虐の終息− は、究極のところ、これから(=1971年)先、唯一つの問題となるかもしれない。
 西側の先進工業社会がある型の絶対自由主義の(を?)社会主義へ根本的に変換することについてのラッセルの希望は、彼が第一次大戦の間にこれらの事柄について八面六臂と筆を振った当時と同じくらい、依然として実現からは遥かに遠い。われわれの脳裏につきまとってきたのは革命の問題ではなく、(人類の)存続の問題である。最近年においては、国家がその威信と優位とを保持するために全面的破壊の危険を冒すとき、圧政の犠牲者たちの、そして人類そのものの、存続の問題である。こうなるのは当然であり、必然である。ラッセルが、その晩年に、軍備競争を逆転させ、西側がその戦略的論理を東南アジアにおいて最後の結論にまで追求することを防止することに精力を投入したのは、疑いもなく、正当な根拠に立つものである。アジア、東ヨーロッパ、その他において、強大国の劫略(ごうりゃく)に抵抗し、彼らがもたらす(人類の)存続(生存)への脅威に抵抗すること、これらは最も緊急な、最も促迫的な責務である。それにしても、幸運にも西側の先進社会に住んでいる人々が、われわれの世界は「そこでは創造的精神が生き、人生がわれわれが所有しているものを維持し、あるいは、他人の所有するものを掴みとろうとする欲望よりも、むしろ建設しようとする衝動に基盤を置く、希望と歓喜に充ちた冒険である世界」に変換され得るという希望を忘れ、もしくは棄てることがあったならば、そのことは悲劇的となろう。われわれが求めるべき世界についてのラッセルのビジョンを、わたくしは既に引用した。これらの評言をその結論にまで辿ることによって、わたくしは講演を閉じよう、−
差し当っては、われわれが生存している世界は、他の目的をもっている。しかし、それはみずからの燃えさかる情念の火に焼きつくされ、消え去るであろう。そして、その灰から、新たな希望に充ち、眼には朝の光をたたえ、新しい、いっそう若い世界が立ち現れるであろう。