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N.チョムスキー(著)『知識と自由(ラッセル記念講演)』序文
『知識と自由』(川本茂雄訳:番町書房、1975年5月刊) pp.1-6.

*原著:Problems of Knowledge and Freedom: the Russell lectures, by N. Chomsky (Random House, 1972)


 バートランド・ラッセルはかつてこう書いた。自由教育の任務は、「支配以外のもろもろの事物についての(それぞれにふさわしい)価値の感覚を与えること、自由な共同社会の賢明な市民を創り出すことに助力すること、個人の創造性の自由と市民性の結合を通じて、人々をして人生に光輝を、すなわち、いくたりかの少数者が、'人生(人間)が実現し得ること' を示したあの光輝を、与えること得せしめること」(注:Power; a new social analysis, 1938, p.305)である、と。人生が個人の創造性と自由のための闘争とにおいて実現し得る光輝を、現世紀において示した少数者のうちにあって、バートランド・ラッセルは栄光の地位を占めている。彼の生涯と功業とを顧ると、ラッセル自身の言葉を引用したい気持ちを、いかにしても抑えることができない
「その生涯が自分自身にとっても、友人たちにとっても、世界にとっても、みのりゆたかである人々は、希望によって励まされ、歓びによって支えられる。彼らは、存在し得べき事物を、それらが存在にまでもたらされ得る方途を、想像のうちに見る。個人としての交りにおいては、彼らは自分が受けている愛情や尊敬を失うことはないかとの憂慮に心を煩わすことなく、愛情と尊敬とを惜しみなく与えることにたずさわり、酬いは彼らが求めることなくおのずから到るのである。事にあたっては、競争者への嫉みにつきまとわれることがなく、なされるべき現実の事柄に関心を寄せる。政治においては、自分の属する階級や国の不正な特権を防衛することに時間と熱情を費さず、世界を全体としていっそう幸福に、いっそう残酷なことが少く、競合する貪欲心のあいだの相克がいっそう少く、生長が圧制によって矮小化され妨げられることのなかった人々でいっそう満ちたものにすることを目標とする。」(注:Proposed Roads to Freedom. N. Y., Henry Holt, 1919, pp.186-187. 松下注:英国版初版は1918年に出版されており、1919年版(第2版)には、1919年1月に書かれた新しい序文が収録されている。)

 人生はいかに生きられるべきかについて、以上の文言が書かれた時(1918年)には、ラッセルはすでに哲学と論理学への記念碑的な貢献によって近代思想の流れ変えてしまっており、彼としては、正しいもの、必要なものとして受け容れ難かっ戦争に決然と反対して、誹謗と投獄とに直面していた。思索と探究においてばかりでなく、世界をいっそう幸福で、いっそう残酷なことの少いものにするための不断不屈の努力においても、(ラッセル1970年死亡までの)創造的業績の半世紀が、まだ将来に属していた。ラッセルの知性上の業績は、探究心の所有者には歓びであるが、自由な共同社会の市民たることを希望する人々に励ましを与えつづけるであろうものは、エーリッヒ・フロムが明敏にも彼の「自分自身の人生におけるプロメテウス的役割(注:"Prophets and Priests" In: A. J. Ayer et al., Bertrand Russell; philosopher of the century, ed. by R. Schoenman (Boston; Little, Brown & Co., 1968, p.72)の刷新持続と呼んだ点である。
 ラッセルがこうした努力の間に耐え忍んだ恐喝、愚弄と罵詈、恥ずべき言論抑圧と歪曲、国家の犯罪的暴力の弁護者による雑言を、ここに改めて総覧する必要はない。世界中の見識ある人々が抱く深甚な尊敬の念がこれを償って余りあったことを、ひたすらに望むのみである。
 わたくしは二つの小さな例だけを誌しておこう。ある友人、若いアジアの学者が、ほんの幾月か前に沖縄の一小島を訪れて、ある農夫の家に足をとどめた。この農夫は、国土を軍事的支配から解放しようとする闘争- この運動はキリスト教と、濃厚な常民的傾向をもつ伝統的信仰との不思議な融合である- の指導者となった人である。壁の上には、日本語で次のような文句が書かれている張り書が目についた。「どちらの道が正道か。どちらが正しいのか。孔子の、仏陀の、イエス・キリスト、ガンディー、バートランド・ラッセルの道か。あるいはアレクサンダー大王、ジンギス・カン、ヒットラー、ムッソリー二、ナポレオン、東條秀樹、ジョンソン大統領の道か」
 第二の事例。ハインツ・ブラント(Heinz Brandt)は、東ドイツの牢獄から釈放されると、バートランド・ラッセルを訪ねに行った。ドイツ民主共和国から贈られた平和章(勲章)を返還してまでラッセルが抗議したことが、彼の釈放に至らせたのであった。ブラントが書いているところによると、彼が辞し去ったとき、ラッセルは扉(玄関ドア)のところに立って、「感動的な、限りなく人間味のこもった仕草でわれわれのほうに〔手を振っていたが〕、ひじょうに淋しげに、ひじょうに年老いて見えた」(注:Heinz Brandt, The Search for a Third Way. Garden City, N.Y., Doubleday & Co., 1970, p.305.)。ブラントは大概の人よりもラッセルに感謝すべき個人的な理由をもっているわけであるが、彼の感謝の念とは、理性・自由・正義を重んずる人々、「われわれが捜めなければならない世界」についてのラッセルのビジョンに魅せられる人々のすべてが共に頒つものである。それは、
創造的精神が生きている世界、人生がわれわれの所有するものを保持したり、他人の所有するものを奪い取ったりしようとする欲望(所有欲)よりむしろ、建設しようとする衝動(創造欲)を基盤とする、歓喜と希望とに充ちた冒険であるところの世界である。愛情が自由に振舞い、愛が支配本能から洗い浄められており、残忍と嫉妬が、幸福と人生を作り上げ、それを精神的楽しみで満たすすべての本能の伸び伸びとした発展とによって消散されてしまった世界でなければならない。(注:Proposed Roads to Freedom, p.212.)
 ラッセルは世界を解釈することばかりでなく、それを変革することをも捜めた。世界を変革することこそ「真の課題」であるというマルクスの忠告に、彼は同意したことであろう、とわたくしは想像する。世界を解釈し、あるいは変革することにおける彼の業績を評量したり、記録しようと試みたりさえ、わたくしは敢て企てようとは思わない。わたくしの世代を含めて、幾世代かの人々にとって、ラッセルは、彼が提出した問題、彼が旗頭となった運動によって、彼の洞察と未完のままに残した仕事によって、霊感を与える人物であった。本書に収めた講演において、わたくしはラッセルが世界を解釈し変革する努力において取組んだ問題のうちのいくつかを考察したい。話題の選択は、わたくしの興味の反映である。他の人ならば、ラッセルの仕事の違った面を強調することを選ぶであろうが、それもまた等しく正しいことであろう。
 わたくしは主として、ラッセルの知識の諸問題への長年にわたる探究の、一九四〇年代の著作における、最終的総集(総括)と、第一次大戦の頃と生涯の最晩年における行動によっても表明された、彼の社会的・政治的思想とを考察したい。
 ラッセルの並外れて多岐にわたる研究は、全体として眺めてみると、緊切な人間関心の対象となる問題すべてに実質上触れているが、それらを貫き通す一本の糸があるのであろうか。特に、彼の哲学的信条と政治的信条とのあいだに連関があるのであろうか。一人の人間の努力は、このように分かれた領域において、一つの共通の源泉から発するのでなければならない、そもそも緊密に連関しているのでなければならないということは、決して明白なことではない。しかしながら、人間の知識の条件と人間の自由の条件とを発見しようとしたラッセルの尽力のうちに、いくつかの共通要素をあるいは看取し得るかもしれない。一つの接触点を、わたくしは第一講の最終段落と第二講の冒頭部分で手短かに論議しよう。それは、ラッセルが大いなる豊かさと減少することのない望みを蔵する伝統のうちに身を置いて定式化して示す、人間の内有的性質と創造的潜在能力についての「人間主義的把握」である。