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市井三郎(著)『ラッセル』への「まえがき」

* 出典:市井三郎(著)『ラッセル』(講談社,1980年2月刊 7,368,4p 18cm. 人類の知的遺産 n.66/箱入り)
* (故)市井三郎(1922-1989)略歴

 まえがき

市井三郎の肖像写真 バートランド・ラッセル(Bertrand Russell)の肖像写真  バートランド・ラッセルは毀誉褒貶(きよほうへん)のはげしい思想家であった。歴史的変革の時代に、社会通念とはかけはなれた主張をする人々は、多く異端として「毀」と「貶」の対象となり、悲劇的な生涯をたどる。17世紀のスピノザなどを考えてみるがいい。
 だがラッセルには、「誉」と「褒」の対象となる側面もあった。異端的主張が急速に異端でなくなる(急速に受け容れられてゆく)ほどに、歴史的な知的・情的風土が急激な変転をとげうる諸条件をはらんでいた時代、まさに、バートランド・ラッセルは、そのような時代に先触れとなりつづけた思想家であった、とわたしは考える。(右写真:本書口絵より)
 具体的に、どのようにはげしい毀誉褒貶をうけつづけたか、ということは、本書の第I部第1章を読んでいただければすぐわかるはずである。そのように書かざるをえなかった。この双書(「人類の知的遺産」)の企画委員(松下注:市井氏のほかに、貝塚茂樹、加藤周一、都留重人、中村元、森有正)の末席につらなったわたしとして、各巻の内容区別けを、思想・生涯・著作・現代との関連、といったふうにすることを、自分なりに賛成しながら、自分が担当するラッセルの巻を書こうとすると、それらの区別けの意味がほとんどうすれるほどに、ラッセルの場合には思想と時代と生涯とが密接にからみあっていることを、ひどく思い知らされるのであった。


 本書の内容区別け(目次)も、いちおう双書のルールに従がっているが、実質内容の点では、したがって異例ともいえる書き方をしてしまった。まずその点の釈明をしておかねばならない。たとえば第I部「思想」のところにも、「思想と生涯の素描」というのを冒頭においたし、第IV部にも、ラッセル思想の上で重要なヴィトゲンシュタインとの関係、といったテーマをはじめて扱ったりした。いや、もっと極端にいえば、ラッセル「思想」の核心は本書の全体に分散させてしか書けず、彼の「生涯」は「思想」との深い関連なしには書けなかったのである。
 やや観点をかえていえば、ラッセルは百歳に近い生涯のなかで、自分の哲学的主張をいくども変えた人物として評されることが多い。しかしわたしは、彼が思想上の根源姿勢において、いかに一貫していたかという側面を強調するような書き方をした。「2人のラッセル」と称されるほどに、彼の理論哲学上の諸主張と、実践哲学あるいは社会哲学上の諸主張とは別々のものだ、という多くの人々の見方に対しても、あえてわたしはその両者にいかに深いつながりがあるか、という側面を力説するような方針をとった。
 2プラス3は5、といった算数の主張は何を意味するか、というような問題を扱う理論哲学と、愛情で結ばれた男女の関係はいかにあるべきか、といった次元の問題を扱う社会哲学とは、明らかに質を異にしている。だがその両者を、ぎりぎりの線にまでそれぞれ追求したラッセルの内奥には、どのような共通基盤があったのか、という深層心理的な追求をしたことになる。そのような視座をとると、たとえば日本の明治期の福沢諭吉と、イギリスのラッセルとのあいだに、どのように比較思想上の共通性があったか、といったことも少しは指摘しておいた。

の画像  とまれ、わたしのラッセルとの出会いといった個人的な事情も、不思議に洋の東西をへだてて、共通にもった体験・問題意識の共通性ということにつながっている。敗戦直後の時代に、わたしは理学部出身の自然科学者から、哲学者になろうと模索をつづけていた。最初に読んだラッセルの著作は、だから『数理哲学序説』であったりした。だがもっと深い宗教的体験の次元でも、意外にラッセルが身近い存在として感じられたのは、『なぜ私はキリスト教徒ではないか』に接したときであった。
 その論文は本書の第III部で、ほぼ全文を載せておいたから、読者自身どう感じ考えられるかにまかせたい。わたしには若い時代に、キリスト教徒として悩み抜いた10年間がある。そのときの悩みに深く応ずるものがあるゆえに、ラッセルはわたしにとって他の諸点では批判したい点があるにもかかわらず、実に身近な存在なのである。いや、それだけととられれば誤りになる。批判があるということは、身近な存在でないということに直結しない。本気で批判したくなるような存在は、それほどの関心をとらえるだけの偉さをもっている。科学的探求の場合を考えれば、いくどもテストに耐えた理論ほど、より厳しいテスト・批判にさらされつづける。まさにそのことによって、科学的探究というものが成立するのである。科学と哲学とは同じではない。しかしラッセルは、哲学するやり方にも可能なかぎり科学的な探求態度を導入しようとした。その点でもわたしは、基本的に共鳴したのである。
 その辺の事情は、たとえば男女の関係はいかにあるべきか、といった問題になるとケタちがいに厄介になる。真偽の問題でなく価値判断の問題になるから、というだけにつきないのである。偽善に満ちたヴィクトリア王朝風の男女関係観(とその慣行)に、ラッセルは果敢に反逆した。そして反逆的自説を、まさに満身創痍となりつつ実践しつづけた。その姿は本書にしかと書きとめたつもりである。
 わたしは、彼のその反逆には共鳴した。しかしわたしは自分自身の人生体験を通じて、ヴィクトリア風に反対してラッセルが提起した説そのものには、ついに明確な批判をもつにいたっている。にもかかわらず、彼が満身に傷を負いつつ自説を実践しつづけた基本姿勢は愛するのである。
 その種の問題とはまたまるでちがった次元で、晩年のラッセルはみずからの社会哲学に忠実に、政治的実践をもやりつづけた。イギリスやアメリカの政府の、1960年代の対外政策を変えさせようとして、老ラッセルが演出した政治劇の巨大さに、わたしは圧倒されるような迫力を感じざるをえない。90歳をこえてそのような情熱が、いったいどこから出たのか、本書では、その問いにも精いっぱい答えようとしたが、結果は読者の眼にゆだねるしかない。

 ラッセルの生涯にかんする事実的なことで、早稲田大学の牧野力氏をはじめ、わたしの勤務する大学で英文学を専攻する同僚諸氏に若干の教示をえた。また講談社編集部の金子重信氏には終始、お世話をかけた。最後ながら記して謝意を表わしておきたい。  1979年 晩秋 市井三郎