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ラッセルから谷川徹三への返事
『世界』1960年1月号 所収

* 谷川徹三からラッセルへの手紙
* (故)谷川徹三氏(TANIKAWA tetsuzo 1895〜1989):京大哲学科卒。哲学者、美術評論家、日本バートランド・ラッセル協会2代目会長。法政大学総長も務める。
* 再録:谷川徹三著『こころと形』(岩波書店,1975年刊)

 私に宛てた谷川教授の手紙は、たいへん興味のあるもので、それをお書きになったことに対し、私は氏に感謝しています。大部分の点で、著しく私は氏と見解が一致しています 。
 私は、フルシチョフ氏の軍備撤廃の提案によって、また、概して自由主義的な見解がロシアにおいても他の所においても、いま一般に勢力を占めていることによって、深く鼓舞されました。共産主義と他の体制との共存こそ、人類に唯一つの希望をさし出すものであると、私は確信しています。なぜ或る人が他の人に対して支配的にならねばいけないのか、私にはわかりません。キリスト教とイスラム教とは、共存してゆくことを悟って、今日では、そのいずれも世界を覆うものになろうなどとは期待していません。これこそ、東と西との見解対立についての、人々の考え方を支配すべき範型(パターン)だと私は考えます。私の気づいたところでは、谷川教授は、非共産主義的社会主義について言及されていません。氏は、われわれの中の多くの者が、現在の共産主義に対して見つけるのと同じ異議を、なぜ西欧の社会主義に対しては見つけないのか、その点を見落しておられるようです。私の場合には、共産主義政権において−−多くの過去の政権におけると同様に−−私が最も好まないのは、権力の集中と個人的自由の欠如とであります。私はこの問題にやがて戻って論じるつもりですが、ここではしばらく、私が谷川教授と一致する他の点について述べたいと思います。(写真出典:R. Clark's The Life of B. Russell, 1975)

『武器なき勝利』原著 Unarmed Victory の表紙画像  氏と同じく私も、(諸国家よりも上位にたつ)世界的権威(World Authority)の設立ということが、現代の技術によって必至のものにされた、と考えます。諸国民間の関係における法には、個人の関係における法と、全く同じ(存在)理由があります。個人的殺人者はできる限り警察によって処罰されますし、現在殺人者が少いということは、警察が個人より強力であるという事実のおかげです。諸国民の間の平和が確保されるべきなら、それはただ、抵抗しがたい国際的権力を背後にもった、国際法の確立によってのみできましょう。しかし、国際法は、国内法と同じく、他人に対する理不尽な加害だけを犯罪と見なすように気をつけねばなりません。事実それは、自由主義の諸国家が個人に対して禁止しているような行為が、諸国民によって犯されることだけを禁じなければなりません。人類が、何かこのような国際的政府の制度を採用するようになるか、それとも、おそかれ早かれ人類の絶滅に導く恐れのある、現在の国際的無政府状態を長びかせるか、それは私にはわかりません。フルシチョフ氏の提案は、国際的無政府状態を終らせる方向への一歩ではありますが、しかし私は、彼がこの方向へ、私にはそこまでゆく必要があると思われるところまで進むかどうか、という点で、心配せずにはいられない疑いをもっています。
 フルシチョフ氏とアイゼンハワー氏とは、諸国民の間の論争が話し合いによって解決されるべきであり、戦争や戦争の脅威によってであってはならぬ、ということに同意しました。もしも、この見解が優位を占めるならば、それは徐々に、国際的な権威を創り出すようになるかも知れません。しかし、いままでのところ、まだ有力に主張されたのを見たことのない、一つの極めて重大な一段階があります。それは、その必要な話し合いは、ただ直接に利害関係のある当事国の間だけで行われてはならず、正しい妥協を示唆することを役目とする中立国の参加を含まねばならない、ということであります。戦争に代えるに話し合いをもってするということが、世界政府に向かっての一歩となるのは、ただ、この一段階の進歩が行われたときのみであります。

 中国に対する合衆国の態度を非難する点で、私は谷川教授と完全に一致します。蒋介石の無力な政権ではなくて、共産主義中国こそ国際連合において中国を代表すべきだ、ということは、全く明白なことです。しかし私は、果して谷川教授が、チベットにおける中国の残忍な行為や、ハンガリア及び東ドイツにおけるロシアの残忍な行為を、私と同様に非難なさるかどうか、確信がありません。すべて大国は、これまでに大きな罪悪を犯しました。われわれは、万事が改善されてゆくであろうと希望しなければなりませんが、しかし、相互に責めあうことが有益な目的に役立つだろうとは思いません。ここまでは、谷川教授と私とは、同意見です。

 しかし、ここで、多かれ少かれ、意見を異にする問題に触れることになります。私が教条的なイデオロギーを拒否するのは、谷川氏のいっているようなフロイド流の理由からではありません。恐らく最も重要と思われる例として、私がマルクス主義を拒否していることを考えて下さい。氏は、私のこの拒否の理由を、一八九六年−−およそ私が失望しなければならないような共産主義政権が存在する遙か以前に−−著した『ドイツ社会民主主義』(German Social Democracy, 1896)に関する本の中に見出すでしょう。それから、キリスト教に関しては、私が神と不死との信仰を拒否する理由は、私の発見できる限り、なんら感情的な根拠によるものではありませんあれこれの教条的体系を拒否する純粋に知的な理由に加えて、いかなる信仰体系にせよ、それを強制することに反対する、社会的主張があります。政治的権威が、これとか、あれとか、何か特定の信仰体系を民衆に信じさせることを肝要だと考えるや否や、それは思想の自由に干渉し、検閲を通じて、「危険思想」を生ずると思われるものを、何であれ抑圧しはじめます。キリスト教の教条主義はヨーロッパを数世紀にわたって暗黒の中にとじこめました。そして、私は、共産主義の教条主義が、共産主義の勢力を占める所ではどこでも、やはり同じような結果を生むのではないか、と心配に思うのです。私は、このような議論を、『権力』(Power,1938)という私の著書で展開しておきました。
日本語訳の『自由と組織』の表紙画像  私は共産主義哲学に対して、いかなる政治問題よりももっと深いところに達し、旦つ、人間生活の目的の概念にかかわりをもつところの、一つの異議を抱いています。十分な飼料を与えられた羊の一群は、幸福な生活をおくるかも知れません。そして理論的には、人間の奴隷の共同体もまた同様かも知れません。しかし、羊の群れは、自分の絶滅後にも生き残る永遠の価値に、なんら寄与することがありません。また、人間奴隷の一族は、たとえ存在することはできたにせよ、やはり(人類の)偉大な功績にほとんど寄与することがないでしょう。羊は、朝から晩まで、眼を下に向けて草を見て過ごします。人間は、上を仰いで星を見ることもできます。生まれて、喰べて、そして死んでゆく、それだけが人間の達成できるすべてではありません。帝政ロシアでは、その中にたくさんの不幸がありましたが、しかし、また、非常に偉大な人々をも含んでいたのです。(革命後の)ソヴェト・ロシアでは、科学の場合を除き、卓越した個人は非常に少ないように見えます。そして私は、マルクスの著作においても、その追随者の著作においても、人間を野獣よりすぐれたものとするものについての、十分な認識をおよそ見出せないのです。このような、偉大な個人についての談義は、すべて、幸福な少数者の馬鹿らしい空想だといわれるかも知れません。喰べるものが十分にない人々にとっては、十分な食物が保証されることが、一切の他の考慮を負かす重みをもっています。したがって、われわれは美術や文学には冷淡であるべきで、このような喜びはただ少数の人々のためだけのものだ、という人があるかも知れません。私には、この考えを受け入れることはできません。私は、よい世界では、このような喜びは少数の人々のためのみのものでなく、また、すべての人が最上のものを楽しむことができるような、そういう社会組織がまだ案出されていないからといって、その最上のものを侮蔑すべきではない、と思います。このことが、私の考えでは、共産主義の見解に対する、私の最も深い異議であります。

 しかし、結論として私は、あらん限りの強調をもって、もう一度次ぎのことを申しあげたいと思います。すなわち、イデオロギーの上の意見の対立は武力による衝突になんの理由も提供しないということ、−−また、もう少しの寛大さと、もう少しの良識とをもってすれば、ウォール・ストリートとクレムリンとは、共に生きてゆくのに、(かつての)メッカとローマ以上の困難はもっていないはずだということ、であります。信条の相違が人間的な共感の障碍となってはなりません。われわれはすべて一つの種(しゅ)であって、われらの種が存続できるということは、ただ、憎しみの衝動を静めることによってのみできます。私は、フルシチョフ氏もまたこの意見だと考えて,うれしい気がいたしますし、この理由から、私は、彼の最近のいろいろな声明を、衷心から歓迎いたします。