バートランド・ラッセルのポータルサイト


小野修「バ-トランド・ラッセルと自由の精神」
 『同志社大学英語英文学研究 』 (同志社大学人文学会) v.68(1997年3月刊)pp219〜238.

* 小野修(1931〜 ):執筆当時,同志社大学教授/現在は名誉教授。


 1.生涯

 Bertrand Russell(1872-1970)は,20世紀の哲学の第一人者といわれてきた。今世紀も終りに近づいた現在,ラッセル死後にラッセルを越える業績を挙げた哲学者はあらわれていない様子から,この人物が20世紀の哲学界を代表するといっても間違いはなかろう。
 ラッセルのおよそ70あまりに及ぶ著作とその生涯の活動の記録を通じて,私たちが20世紀の歴史と思想を学ぶことも可能だという点でも,哲学史を通じて一世紀近くの思想活動をつづけた存在であるこの人物の特質を窺うことができる。A.N.Whitehead との協力によるラッセルの数理哲学上の業績 Principia Mathematica が今日のコンピューター社会とシステム工学の基礎を築いたことはあまり知られていないが,彼の多数の政治学と社会学上の思想的著作が,宗教的狂信やファシズムや共産主義のイデオロギーの政治的欺瞞の打破に向けられたことを始め,社会的因襲や人権抑圧に抗した多くの啓蒙的著作によって社会的影響を与えたことは知られている。ラッセルが1950年のノーベル文学賞の受賞者であったことは知られているが,その受賞の対象となった著作が自由恋愛を唱えた Marriage and Morals (1929) であったことはあまり知られていない。他方,19世紀末のベルリン留学の成果として『ドイツ社会民主主義』(1896)を書き,フェビアン協会の創立期のメンバーとしてLSE(ロンドン大学政治経済学都)の設立に参加して政治学を担当するなどしたあと,自由党あるいは労働党の党員として国会議員選挙に立侯補(落選)するなど改良型の社会主義思想の実践家でもあった。更に,第一次大戦においては反戦運動のために投獄され,第二次大戦では反ファシズムの著作活動のほかBBCの海外放送を行って政府に協力したが,原爆が広島,長崎に投下されると英国議会上院においていちはやく反核演説を行った。ラッセルの反核運動は徹底し,労働党政府の各政策に抗議して自分の所属する労働党の党員証を演壇で引き裂いたり,都心で過激な直接行動を唱道し反核組織CNDや百人委員会を率いて座り込みのデモを指導し逮捕拘留されたりした。すでに90才の半ばという高齢にもかかわらず,ベトナム戦争がたけなわとなると,米軍による戦争犯罪を糾弾する模擬裁判を欧州各地で開催してメデイアの注目を集めた。またその時期設立されたラッセル平和財団を通じで世界各地の抑圧された民族の支援につとめ,各地からの協力要請に精力的に応ずるうち,過労がもとで引いた風邪から肺炎を起こして急死した。98才であった。
 以上は簡潔を期したラッセルの生涯であるが,次のようにわずか4,5行でラッセルを紹介した哲学書(1)もある。
Bertrand Arthur William Russell, third Earl Russell, 1872-1970. Godson of John Stuart Mill, educated at Trinity College, Cambridge. Subsequently taught there and elsewhere: Prolific writer, the propounder of several philosophical theories of lasting significance. Imprisoned for pacifism, and leader of an enlightened campaign against nuclear arms. Married five times.*1(松下注:結婚したのは5回ではなく,4回)
 A.J.エアーは,ラッセルの門下の一人であり,簡略ながら明快な入門書 Russell (Fontana Modern Masters, 1972) の著者である。この五行ばかりの紹介文の中にできる限りの情報を盛り込んだ苦労が読みとれる。−−だが,それにしてもラッセルのこの活動的な生涯を支えた精神は何か。それが判明しないと後の世の者の眼には近寄り難い超人としか映らない。

2.自由への意思

 ラッセルの行動力の源泉は'自由への強い意志'であった。これは彼の著作に自由という言葉の入った題名が数多くつけられていることからもわかる。しかし,自由をひんぱんに口にするが一向に自由への活動は行わない人々とラッセルが異なる点は,彼が自由を求める行動を幅広く起こしたことである。ラッセルは'言行一致の人物'であって,選挙目当てに平和と民主主義を唱えるばかりの徒輩とはその起点において違っている。
 自由はその概念が多岐にわたるものである。
 自由とは拘束のない状態という通俗的な概念規定は同意反復で殆ど意味をなさない。自由をむしろ'歴史的な概念'として,自由権の進展に従って考えてみると,人権の内容としての意味があらわれる。即ち,第一に信仰の自由,第二に不当に身柄を拘束されない自由,第三に言論等の表現の自由,第四に集会結社の自由,そうして当然の事として参政権,生存権,移住,職業選択の自由等,基本的人権の規定にかかわる諸権利は自由の権利として −−日本国憲法にも明記されてもいて−− 国際的に見てその自由の権利が,人権や性別を越えてすべての人々に行きわたるべき法的権利として承認されている総体を意味している。その自由の権利がごく一部しか実現していない国々や地域があることは事実であるが,あるべき自由の第一義的な領域は「政治的自由」にあるということができる。政治体制のあり方の選択如何によって,信仰の自由が存在しないところでは,他の自由の権利はきわめて侵害しやすくなっているからである。つまり,政治的自由というのは人民の意志が政治に反映されていてはじめて成り立つものであり,「旧」ソ連東欧に代表される共産圏では「信仰をしない自由」を憲法に明示することによって宗教的弾圧が行われたことは記憶に新しい。政治的指導部が何を信仰し何を信仰しないかを定めるのは専制的体制にありがちなことであるが,政治的な虚偽の信念体系を人民の心に植えつけて宗教にかわるべきものとし,'尊崇の対象を共産党執行部に向けさせる努力をしたことは半世紀ばかりは成功した。しかし一党独裁という政治的自由の不在の状況では執行部は批判勢力を欠いて限りなく硬直化し,腐敗し,幹部は堕落し,国家機能は麻痺してしまう。ソ連・東欧はこのようにしてなるべくして崩壊したのだが,この政治的自由の課題はラッセルが20代から関心を持ちつづけた社会主義と自由の課題であり,この関連で彼の書いた著作は多い。ラッセルは友人でもあった Haro1d Laski (1890-1950)とは異なって決して共産主義にもソ連にも幻惑されることはなかった。ラスキはその極端な左傾によって英国の知識人を少なからず迷路にさそい込んだが本人の純情さが起因であっただけに,ラスキ自身はスターリンに与した「罪」に気付かないうちに死んだ。ラッセルは1920年にモスコーを視察し,レーニンにも会って,この人物の残酷さの正体を見破っている。この視察のあとに発表された Theory and Practice of Bolshevism, 1920 (松下注:正しくは,The Practice and Theory of Bolshevism)は,反共の宣伝文書まがいのものとして長く扱われたが,共産政権の実体を簡明に白日のもとに曝す名著として認められる迄に半世紀以上を必要とした。


その3
3.幼児期の不運

 ラッセルは名付け親がJ.S.Mill(1806-1873)であったことは,前出のA.J.エアーの短い紹介文にも出ているが,J.S.ミルの自由論 On Liberty は大衆社会における個人の自由を論じた先駆的著作であった。ミルは, free thinker であったラッセルの両親の親しい仲間で,バートランド・ラッセルの名付け親 Godfather となった翌年に死去しているので,ラッセル自身は憶えていない。バートランドは幼児期に母がジフテリアで死亡し,間もなく父も若死にしたので,両親の愛を知らずに育った。身寄りのないラッセルをひきとって養育したのは祖母で,ヴィクトリア女王の宰相を二度つとめたジョン・ラッセル卿の未亡人であった。
 親の愛を知らずに幼児期を送ったという事実はラッセルの人格形成に決定的な影響を残すことになった。即ち,生きんとするひと一倍強い意志があらわれて,親のない悲嘆に打ち克とうとし,その為に心のよりどころとなる信念を懸命に求めるようになった。ラッセルは祖母の長老派の信仰ではなく,兄フランクの手ほどきしてくれた幾何学の研究に真理の代償物としての光明を見出した。ラッセルが刊行した最初の学術書が Foundation of Geometry (1897)であったことは象徴的な出来事である。(松下注:ラッセルが1896年に出した最初の著書 German Social Democracy は、小野氏だけでなく、ラッセルも「学術書」とは考えていなかっだろうが,日本の学界のレベルから考えれば,ラッセルが24歳の時に出したこの German Social Democracy は明らかに「学術書」であろう。) 彼は宗教のかわりに,数学への道を歩んだのだった。これは自由思想家 'freethinker' としての両親の意志を継いだと言えるだろう。'freethinker' とは信仰上は不可知論者 'agnostic'の別の意であったから,ラッセルが科学と哲学の道に進むためには適切な立場だったといえる。また 'freethinker' は因襲にとらわれないという意味でもあり,ラッセルはそういう自分をこの世に送ってくれた両親の恩に酬いるために両親の遺稿集 The Amberley Papers (1937) を刊行している。
 J. S. ミルが人妻であるテイラー夫人と交際し,夫の死後,彼女と結婚し,ヴィクトリア時代の町の雀たちの噂を気にしてフランスに移り住み,大衆社会の私権侵害に不服を唱えたのに対し,バートランド・ラッセルは五回結婚した(前出エアー紹介文/松下注:4回の間違い)だけでなく,オットリン・モレルやコレット・オニールや T. S. エリオットの最初の妻をはじめ数々の女性との浮名を流しながら一向に悪びれる様子もなかった。ラッセルは執筆作業がもとで最初の妻と別れたあと半世紀後に再会している(松下注:「執筆作業がもとで(離婚)というのは単純な言い方すぎるとともに意味が伝わりにくい。離婚の原因で一番大きいのはラッセルのアリスに対する愛情がなくなったことであるが,それは,アリスの性格の中のいやな側面,アリスの母に対する不満,ラッセルは子供がほしいという気持ちが大変強かったがアリスが子供を産めない体であったこと,他に好きな女性ができたことなど,様々な理由が重なったものである。)。二度目の妻ドーラ・ブラックは再婚したが,生涯ラッセルに対する愛情を心の中に抱き続けたと伝記 The Tamarisk Tree (1975)の中で書いている。*2 婦人解放運動家であったドーラ・ブラックはスコットランド貴族の家柄で,ラッセルと訪ソのあと結婚し,翌年北京大学に招かれたラッセルと共に中国に渡り,ラッセルとの間に男児を設け友人の作家 Joseph Conrad の名前をもらって Conrad と名付けている。伝記の中で,Dora が親ソ派でラッセルが親中国派で二人の意見が衝突したのが離婚の理由というラッセルの説を Dora は断固否定している(松下注:ドラにとって,そのことは離婚の理由にならなくてもラッセルにとっては離婚の理由の一つであったのであろう。ただし,ラッセルにとっても離婚の最大の理由は,ドラが別の男性との間に二人の子供をつくったことであると思われる。ラッセルは自由恋愛論者であるが,結婚という形態を維持するためには,別の異性の子供をつくらないという原則があったが,ドラはそのように考えなかった。)。ラッセルは五度目(松下注:四度目)の妻 Edith とはじめて平和な家庭を持つことができたと告白している。

4.意志の自由

 自由の概念の中で宗教上の自由の意味を担っているのが,宿命にたいする'意志の自由'の概念である。宿命,もしくは神の摂理と人間の意志の自由との対立は,古来からの神学論争の中心的課題であった。ラッセルは認識論上きわめて David Hume (1711-1776)に近い経験論の立場にいると自ら認めており,そのことは不可知論者である立場が裏書きしている。しかし,Immanuel Kant(1724-1804) のように倫理的心情から神への信仰を表明したりはしなかった。彼は若い時分,つまりケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジ入学時に哲学科の5年先輩で若手指導教員だった J. M. McTaggrt (Studies in the Hegelian Dialectic の著者) の強い影響を受けて一時へーゲル主義に傾いたことを自伝の中で認めている。ラッセルがヘーゲル哲学に惹きつけられたのは多分にその壮大な体系性とダイナミックな弁証法にあったのだが,このことはラッセルを合理主義者として徹底させるのに役立ったと思われる。ラッセルがヒュームやカントの哲学より更に徹底して明晰性を備えた哲学を完成させることができたのは,内容を欠いた命題によって構築される純枠に抽象的な概念の体系を数学と論理学との合体によって創造したからである。これは G. W. F. Hege1〈1770-1831) の『精神現象学』 Phanomenologie des Geistes, 1807が提起する精神の働きへの重要な着目であり,ヒュームやカントの理論を更に一歩進めたものであった。
 ラッセルは'神の存在'に関しては不可知論であったが,観念論と唯物論との関連においては,自己の立場をそのどちらでもない中立一元論 'neutral monism' とし,要は記述の方法であるとしたことは先駆的な解明策であった。つまり,脳障害の現象は精神医学的な概念で記述できるのと同様に,脳外科的に物質的な要素のみに限って記述するという二通りの方法があるという考え方である。これはコンピューターの発達を促した計測科学が,へ一ゲルの精神現象学を完全に利用可能な技術レベルにまで把捉するに至った状況をあらわしている。それを可能ならしめたのがラッセルが記号論理学で開発した基本的なコンセプトであった。勿論, Henri Bergson(1859-1941)の指摘する直観の能力に匹敵する迅速性をコンピューターが獲得する迄に至っていない場合もあるにせよ,コンピューターは精神の代用物たろうとする途を着実に歩んでいるのであり,その始源はすべての現象を数式表記したいと願う少年ラッセルがやがてチャレンジすることになる記述の方式の解明であった。

その5
5.初婚

 宿命に対する自由意志の存在と擁護を強調したラッセルの代表的著作は A Free Man's Worship であり,これは1902年に書かれ翌年 Independent Review 誌に発表された。ラッセルが30代になった年であり,ケムブリッジでの静かな生活に亀裂が走り,ラッセルが'回心'ともいえる経験をした時期であった。
 ラッセルとアリスとの結婚生活は六年目になっていた。アメリカ人でクエイカー教徒であったアリスにはじめて出会ったのは1889年,まだ17才だったラッセルは五才年上のアリスに想いを寄せたが,当初アリスはラッセルを子供扱いし,ラッセルの求婚を本気でとり合わなかった。
 ラッセルの祖母はアリスとの結婚には反対で,ラッセル家の血筋には精神障害児が生まれる可能性があるとまで警告した。事実ラッセルの祖父も叔母もその病気であった。祖母はラッセルの決心が揺がないのを見て,二人をひき離すため,ラッセルを知り合いのパリ駐在大使の私設秘書官としてパリに送った。しかし,ラッセルは父親の遺産を受け継いだのをきっかけに,数ケ月で勤めをやめて1894年アリスと緒婚した。
 1900年,南アフリカでボーア戦争が起り,ラッセルは当初,国枠的な気分で政府側を支援していたが,やがてある時期,全く別の理由から突如'回心'に似た経験をして,一挙に現住民側に同情する様になった。「帝国主義者だった私は人類愛にめざめ,実力行使に恐怖を抱くようになった。」とラッセルは書いている。「アリスは私の'心変り'に戸惑いそれを不快に思い,皆といる席で冗談めかして,こんな子供が生まれたらどうしようかしらと言った」(3),と後にオットリン・モレル宛の手紙 (2 May 1911) に書いている。アリスはそのときのラッセルの心の中をのぞくことができなかった。ラッセルは当時数理哲学上の先輩で共同作業者でもあったトリニテイ・カレジのフェロ一の A. N. Whitehead (1861-1947) 夫妻とメイトランド教授(法制史家)の邸をかりて同じ屋根の下に暮らしていた(松下注:The Analsis of Mind であったか,メイトランド教授の蔵書のなかの1冊を古本屋で購入し,早稲田大学教育学部のラッセル文庫に寄贈してある。)。ホワイトヘッドは変人で'濫費家'であったのでつねに払いきれないほどの借金に追いたてられていた。ホワイトヘッドは数学の専任教員で学生の指導にも忙しく,二人の共同作業では執筆担当をラッセルが行った。ホワイトヘッド夫人は,夫は多忙の上,借金の負担で発狂するおそれがあると大袈裟に伝えたこともあり,ラッセルはホワイトヘッドの借金の肩代りをした。ホワイトヘッド教授はこの時期ラッセルが夫人を通して数年間にわたりかなりの額にのぼる借金をかわりに返済していたことに全く気付かなかった。しかも夫人とラッセルとの関係を知るものは誰もいなかった。後年ラッセルは女友達のオットリン・モレルにはほとんど何事もかくさずに伝えたが,このことについては語っていない。ラッセルの伝記の著作 Ronald Clark はオットリンヘの手紙からラッセルがその当時アリスには秘密で,ある女性に心を寄せていたことを読みとることができるが,それが,ホワイトヘッド夫人 Eve1yn Whitehead であったと推測できると書いている。(Clark,p.88)*4
 このホワイトヘッド夫人(右写真)心臓病の発作におそわれたとき,居合わせたラッセルが胸をしめつけられるような衝撃を受け一瞬にして世界を見る自分の観方に変化が生じたことを次のように晩年の回想記に書いているが,ラッセルの a sudden 'conversion' (モレル宛の手紙)の,実際の背景はこのようなことであった。
の画像 There had been time in the 'nineties when, under the influence of the Sidney Webbs, I had been more or less of an Imperialist and, at first, a supporter of the Boer War.
But early in 1901 I had an experience not unlike what religious people call 'conversion'. I became suddenly and vividly aware of the loneliness in which most people live, and passionately desirous of finding ways of diminishing this tragic isolation.
In the course of a few minutes I changed my mind about the Boer War, about harshness in education and in the criminal law, and about combativeness in private relations. I expressed the outcome of this experience in 'The Free Man's Worship'.*5

6.ある告白

 ラッセルはアリスに真実を打ちあけることができなかった。純真で献身的なアリスは事実を知れば自殺しかねなかったし,執筆で多忙なラッセルも自已嫌悪と無信仰がもとで心の休まるところもなく気が狂うか,自殺するかの瀬戸際にあった。ある日の午後,自転車に乗ってケンブリッジの郊外の寂しい野辺に出たラッセルは大空のもとで「自分はもはやアリスを愛していない」と自覚し,にわかに寂蓼を感じたと言う。このときの天涯孤独の感覚こそが,「自由人の信仰」を支える悲痛なヒロイズムのモチーフとなっている。
 ラッセルの心変りをその様子から察知したアリスはラッセルに真実をうちあける様に求めて拒絶された。二人の関係は冷却し,ラッセルが講義の為出張しがちなのでアリスはしばらくスイスに保養に行った。次に二人が再会したときラッセルは,アリスに対する自分の愛情が冷えきってしまったことを打ち明けたので,アリスはひと晩声をあげて泣き,隣室でその声を聞きながらラッセルは机についたままかまわず仕事を続けた。*6
 この時期,ラッセルは,アリスとの生活を懸命に建て直そうとして,住居をロンドンのチェルシーに一時移したりもしていたがうまく行かなかった。ラッセルはアリスとの間に子供をもうけることを考えて,それが遣伝的には15%,飲酒の結果は50%の確率で障害児であることを敢て覚悟すべきかと悩み,アリスは夫の冷えきった愛情を嘆いて四六時中涙にくれている有様であった(松下注:結局,アリスは子供が産めない体 stone woman であることが判明)。こうした状況にもかかわらず,ラッセルは「数学原理」の原稿を着実に進めつつあった。
 (1日)十時間以上にわたる持続的作業の結果,精魂つき果てたラッセルが夜中に家を出てケンブリッジの静まり返った郊外をひとり散歩する様子を本人が書き残している。今鉄道自殺をすれば,人類は重要な学問上の発見の機会を失うだろうから,本が完成するまで待とう −−ラッセルは自分自身を分析できる数学者であったから,窮地に追い込まれて我を忘れるというところはなかった。彼は机にもどるとにわかに日頃の十倍の気力のみなぎるのを感じ理論の展開に没頭した。この時期,彼に残された唯一の慰めは散文詩風の文体で『自由人の信仰』を書き綴ることであったと晩年の自伝(p.153)の中で告白している。この短篇がラッセルの書いた散文の中で最も有名なものとなった理由は,その叙情的な文体であり,東洋的な諦感の中に秘めたヒロイズムであろう。
Brief and powerless is Man's life; on him and all his race the slow, sure doom falls pitiless and dark. Blind to good and evil, reckless of destruction, omnipotent matter rolls on its relentless way; for Man, condemned today to lose his dearest, tomorrow himself to pass through the gate of darkness, it remains only to cherish, ere yet the blow falls, the lofty thoughts that ennoble his little day; disdaining the coward terrors of the slave of Fate, to worship at the shrine that his own hands have built; undismayed by the empire of chance, to preserve a mind free from the wanton tyranny that rules his outward life; proudly defiant of the irresistible forces that tolerate, for a moment, his knowledge and his condemnation, to sustain alone, a weary but unyielding At1as, the world that his own idea1s have fashioned despite the tramp1ing march of unconscious power.*7
 このような文体が支えている若さとエネルギーに満ちた健気な姿勢は限界状況におかれた人間が絶対者,つまり神か悪魔の仕業に対して行う低抗の決意表明であり,年配者には面映ゆいものであろう。ラッセルが30才の頃のこの作品に対して(年をとってから)はじらいを見せるのはその為であろう。書いた本人がいわば fiction として逆境の自分自身を抽象的次元に昇華させて,殉教者か鎖につながれた神話的人物になぞらえて士気を鼓舞するのは,文芸を本業とする同時代人のある人々からは許しがたい欺瞞的行為と映ったかもしれない。*8
 しかし,ラッセルは20世紀の「ファウスト博士」を地で行くべき人間でもあり,そのような批判に耐えた。D. H. Lawrence (1885-1930)がラッセルに宛てた誹謗に満ちた手紙は,ラッセルに一度は自殺を考えさせた。ラッセルがそれを実行しなかった理由のひとつは,ラッセルが自伝的な回想 Portraits from Memory で書いているように,ロレンスが自分を財産の相続人に指名するように求めていた為であると考えられる。『自由人の信仰』をどのように受けとめるかは読者がきめることである。文芸の領域には遊びの余地があり,この余地は善悪を越えた美の尺度が評価基準となっている。美を基準とすれば『ファウスト博士』の原作者 Chistopher Marlowe (1564-90) がどのような悪魔的な秘密をそのならず者の生活を通じて垣間見たかを知る必要はなかろう。

 『自由人の信仰』を副産物としたラッセルのこの時期の主著は数学上のものであり,抽象的な世界に属するものであったのだが,そこですらこの時期のラッセルのいわば自堕落な生活態度が The Principles of Mathematics の完成原稿の出来ばえに露呈していることにホワイトヘッドが気付いていたという。「見てくれの簡潔さと格好よさの為に,著作本来の目的までが台無しにされている」 云々のホワイトヘッドからの批判の言葉の重みをラッセルは全身で感じたに違いない。結局この本を土台に書き直されたのが Prinipia Mathematica となる。「あなたが自由に生きるという意味は,単に自分勝手に生きることなのですか」というオットリン・モレルの言葉とともに,ラッセルは自由な生き方には「社会的な責任」が伴うことを思い知らされたのであった。

その7
7.精神の自由

 ラッセルとホワイトヘッドとの共同作業としての Principia Mathematica は,その第一巻が1910年に刊行され,第二巻が1912年,第三巻が1913年に出て完成した。その次の年,ラッセルはボストンに招かれ,ハーバード大学のローウェル記念講演を行った。このときの基礎となった原稿は,イタリア旅行から帰ったばかりのラッセルが,報告をまとめる締切りを控えながら何ひとつ着想が浮かばずに悩みつづけ,遂に口述筆記に頼るしかないほどの時間的切迫に追いつめられたときの産物であった。ラッセルは速記者が約束の時間に彼の仕事部屋に姿を見せた瞬間に口述すべき全容が鮮明に心に浮かんだという。それから三日間,ラッセルは速記者が記述しうる最大の速度で口述し,こうして Our Knowledge of the External World for Scientific Method in Philosoophy, 1914 が誕生した。
 ラッセルが短期間に規模の大きな仕事を完成させる能力は,彼が自ら告白しているように,自分の深層心理(あるいは無意識の領域)に困難な課題を与えておいて,本人は解放された気持で放置する。彼が次にその作業にとりくむときには,無意識の世界で完成していた宿題の答えが意識上に送られてくるという。*10
 ときには精神を自由に放置しておくことが,精神を活性化させる秘訣であることをラッセルは教えている。作業能率を最大限に挙げる為に必要な精神集中 concentration *11 のためのエネルギーは意識の領域の re1axation を通じて作られるとも見られる。
 精神の自由を保つ他の実生活上の要素として金銭上の問題がある。ラッセルは遺産を相続したあとすぐ勤めをやめて研究作業に没頭したが,ホワイトヘッドをはじめ数多くの研究者たちに財政的な支援を借しまなかったし。匿名で支援したことも少なくなかった。ラッセルの後輩にあたる L. J. J. Wittgentein (1889-1951) はオーストリアの貴族であったが素朴な人類愛の精神から莫大な遣産を放棄したというエピソードはこの論理学者の生涯にみられる隠者的な風貌の秘密を物語っているが,ラッセル自身ものちに伯爵家の遺産相続を放棄している。その為,70才代になって幼児をかかえて家庭のために収入の道を図らねばならなかったという。釈尊の例をあげるまでもなく,高い身分と莫大な遺産は住々にして,鬱病(うつびょう)の原因となる。'俗人'は生涯目的としてきたものがかなえられた時点で生活の精神性が失われたことに気付くものである。ディオゲネス Diogenes (412? - ?323B.C.) が酒樽を住居としたのは,精神の自由は奢侈(しゃし)の排除にこそ求めうるとする象徴的な実践の例であった。

 8.信念の自由

 『自由人の信仰』において,宿命と自由意志を対立概念とし,宿命にたいする自由意志の勝ち目のない悲愴な戦いを,闘う意味のあるものとして強調してみせたラッセルは,1917年(松下注:実際に書店に出回ったのは1918年のため,出版年も1918年にすべき)に Mysticsim and Logic と題したエッセイ集にこの『自由人の信仰』を加えた時点で,自分の立場が少し変ったことを序文に明らかにしている。*12 しかし,精神的な危機を乗り切るための生活信条としては保持しつづけているとつけ加えている。この年は第一次大戦が終ろうとする年であった。ラッセルがこの考えをどのように展開させたのかは関心を唆るところである。
 『自由人の信仰』においては,神や霊の存在の否定の仕方がさほど徹底したものではなく、むしろ,有限な生命をもった小さな,しかし思考する存在である人間が宇宙の進展の中で自覚を持ちながら生存する意志の尊さが確認されており,運命に抗する個人のイメージは,マキャヴェリやパスカルの論理を想起させるものがある。
 しかし,第一次大戦中の反戦運動と獄中での半年,更にその後の婦人解放運動や反共や反ファシズムの論者としての活動を通じて,ラッセルは精神的に鍛えられた結果,『自由人の信仰』の悲愴な雰囲気を伝える文体は消え去って,かわりにきわめて卒直な文体があらわれるこの卒直さはラッセルが本来持っていたものであって,主観性や情感を排し直裁に本質に迫る力強い文体を支えることになる。
 1958年から1959年にかけて,ニューヨークの Philosophical Library から名著シリーズ Books of Lasting Va1ue 中にサルトルやアインシュタインなどと並んでラッセルのエッセイ集が四冊出版された。その一冊である Understanding History の中の 'The Value of Free Thought' は freethinker の生き方を伝える一方,ラッセルの存在論が率直に語られている注目すべきエッセイである。*13
 このエッセイでは宗教上の信念の形をとった政治的狂信 fanaticism に左右されずに正しい科学的思考による批判に従って生きることが freethinker であることが説かれている。その論理展開の途中で,神の概念や神の存在の有無,さらに死後の世界と霊についての論及が行われる。ラッセルは人類史をふり返り,人類が神を創造したあと,為政者は知識人同様次第に神を信じなくなってきたが,教会を通じて人民を支配する為には神の信仰が人民には必要だと考えてきたとする。*14 ラッセルは,神の概念は伝統的に人格神的な要素を有しており,人間の運命に神が関心を示していると信じられてきたが,これを迷妄であるとする。ラッセルの宇宙観は科学的なものであり,絶対者としての神を想定していない。この点でユダヤ教会から異端として破門されたスピノザ B. Spinoza (1632-1677) の神即自然の立場からも遠く離れているのがラッセルの立場である。旧約時代のユダヤ人の大半は神の存在は信じるが死後の世界は信じてなかったとラッセルは指摘し,この二つの見解は別個に存立しているという。*15
 ラッセル自身は,信心深い祖母に育てられたが,キリスト教信仰は受け容れな(くて,最後)の審判も天使も悪魔も従って天国も地獄も人間の想像物でしかないとする。(松下注:左記の(  )内は脱字)当然彼は原罪も信じていない。では霊魂 soul は存在するのか? と彼は問う。この問いにたいしてラッセルは,中立一元論の立場から,肉体がなくなるとき精神の活動も止むから,死後も魂が生きているとは考え難い。我々も死んだあと,思考や感覚の働きがあるのかためして見るとよいと冗談のようなことも言っている。ラッセル自身はこの点では原始仏教の思想に近いといえる。神もなく,死後の世界もなく,ひたすら空の宇宙が詠まれているのが般若心経である。ラッセルは仏教がのちに精霊信仰をとり入れたことを勿論知っているが,神道については戦時に軍国体制に利用された神道についてしか知らない。
 ラッセルの偉大さは宗教心を持つことそれ自体は人間に自然な情念の成り行きだとして敢て咎め立てをしないことである。これは信仰が心の安らぎを与えるのなら宗教もそれなりの価値があるという Wil1iam James (1842-1910) のプラグマテイズム的な考え方に近いとも見える。しかし,筆者はラッセルの立場は歴然と不可知論 agnostic であり超経験領域についての言及は控えており,その点では,まさに孔子が論語の中で短く言明した態度,「怪力乱神ヲ論ゼズ」−−に近いと言えると考えている。
 この 'The Value of Free Thought' と題された小論文の結語の部分には悲愴感はない。文章は明晰な知性の照射を受けて輝いている。これが『自由人の信仰』に承服しなかった人々の非難に応えて彼が半世紀後に自らの立場として鮮明に打ち出した freethinker *16 の生き方であった。


注:
01. A. J. Ayer, 'Russell:The Theory of Description, Names and Reality', in Philosophy Through Its Past, ed. by Ted Honerich (Penguin Books, 1984), p.467.
02. Dora Russell, The Tamarisk Tree;An Autobiography, New York, 1975
03 Ronald W. Clark, The Life of Bertrand Russell, New York, 1976, p.86.
04 心臓発作で苦しむ彼女を見てラッセルは「回心」した。皮肉にも Evelyn は夫よりも長生きした。1947年に Whitehead 教授が亡くなったあと,Evelyn はラッセルが夫にあてた手紙,彼女にあてた手紙をどちらもすべて焼却した。Clark,前掲,p.88-89 ならびにラッセルの Autobiography (1967, p.153).
05 Bertrand Russell, Portraits from Memory and Other Essays, (London, 1956) p.35.
06 Clark, pp.60-93: ここではラッセルの日記が参照されている。
07 Bertrand Russell, A Free Man's Worship (1902), (London, 1976) pp.18-19.
08 ラッセルは T. S. E1iot のハーバード大学での学生時代の指導教授であり,渡英後の Eliot にとってあらゆる意味でのパトロンであったが Eliot は護教的心情を曲げなかった。エリオット夫妻とラッセルとの関係については次の伝記を参照。Peter Ackroyd, T. S.Eliot, (Glasgow, 1984) (武谷紀久雄訳『T. S. エリオット』,みすず書房)。
09 この著作は全体としてのまとまりがよく,イギリス哲学の伝統を踏まえた読みやすい認識論上の専門書である。通常は Our Knowledge of the External World と省略され,邦駅もある。『外部世界はいかにして知られるか』石本新(訳)(中央公論社,1971年刊/世界の名著第58巻)。
10 この工夫をラッセルはその The Conquest of Happiness の中で明らかにして,仕事の達成の秘訣として推貰している。
11 ラッセルはホワイトヘッドの驚くべきき精神集中についても語っている。
His capacity for concentration on work was quite extraordinary. One hot summer's day, when I was staying with him at Grantchester, our friend Crompton Davies arrived and I took him into the garden to say how-do-you-do to his host. Whitehead was sitting writing mathematics. Davies and I stood in front of him at a distance of no more than a yard and watched him covering page after page with symbols. He never saw us, and after a time we went away with a feeling of awe. (Portraits from Memory, op. cit., pp. 95-96)
12 '...the position advocated in 'A Free Man's Worship' is not quite identical with that which I hold now: I feel less convinced that I did then of the objectivity of good and evil.' とラッセルは,1917年刊の序文で書いている。題名についた定冠詞 The は不定冠詞の A に変り,主張の押しつけがましさが感じられないように気を配っている。−−前出 A Free Man's Worship and Other Essays, 1976.
13 ニューヨークのこのシリーズは手に入れにくいが,このエッセイは日本では教科書用に単独で刊行されている。Bertrand Russell, The Value of Free Thought, ed. with an Introduction & Commented by Kimiyoshi Yura, 開文社,1963年.
14 この立場は Thomas Ho (1588-1679) に似ているが,ラッセル自身は教会を必要な政治組織とは見ていない。
15 あるキリスト教の一宗派にもこの考え方が見られる。筆者の手許にある「聖書」と題のつけられた小冊子は創世記からの引用を並べて死後の世界のないことを伝えている。
16 ラッセルは,ニューヨークの哲学叢書(前出)の一冊 The Will to Doubt (1958) の中で free thinker の定義づけを試みている。
... a man is a 'free thinker' if he is not a Christian or a Mussulmun (Moslem?) or a Buddhist or a Shintoist or a member of any of the other bodies of men who accept some inherited orthodoxy. The freethinker's universe may seem bleak and cold to those who have been accustomed to the comfortable indoor warmth of the Christian cosmology. But to those who have grown accustormed to it, it has its own sublimity, and confers its own joys. In learning to think free]y we have learnt to thrust fear out of our thoughts. and this lesson, once learnt, brings a kind of peace which is impossible to the slave of hesitant and uncenain credulity. (p.17)


Synopsis: Bertrand Russell and the Crisis fo His Mind, by Osama ONO.

Bertrand Russell(1872-1970) atracted the world's attention several times in his later life. On one occasion in particular,in the wake of the Cuban Crisis in 1962, when the world was frozen stiff from the likely approach of a nuclear warfare waged between the USA and the Soviet Union, Russe]1 sent a telegram to J. F. Kennedy and K. Khrushchev, pleading for a peaceful so]ution in the name of mankind. This produced almost a soothing effect to the red hot tension of the leaders in the confronting camps.
These memories are stil1 fresh for the older generation, as the incident then reminded them of the disasters of Hiroshima and Nagasaki and that such catastrophes could be repeated again.
Russell was awarded the Nobel Prize for Litereature in 1950. He was somewhat bewildered when informed of his nomination learning that category chosen for him was Literature and the book in question was Marriage and Morals (1929). This book had once enraged traditional minded women in New York City who forced the city authorities to cancel the inviation of Russell to the City University's Professorship.
Russell cou]d have been a winner of Nobel Prize in Mathematics together with his co-auther, A.N.Whitehead (1861-1947), for their milestone work PRINCIPIA MATHEMATICA (1903-lO), had it been known then that present computer-civilization was to be built upon their work which combined Mathematics with Logics.
It was in these years that the masterpiece was being prepared by Russell. Russell himself was almost at a verge of the nervous breakdown and was even thinking about committing suicide. Russell's most widely read essay, 'The Free Man's Worship'(1902), was a bi-product of the PRlNCIPIA MATHEMATlCA in preparation. At that time Russe]1 was writing an experimental work of mathematica] philosophy which would later be published under the title of Principles of Mathematics (1903). This book became the preparatoroy foundation for the advanced and authentic two-volume work with A. N. Whitehead, PRINCIPIA MATHEMATICA. These twin products, Free Man's Worship and Principles, were doomed for harsh criticism soon after their publication.
Whitehead, Professor of Mathematics and Russell's teacher during his undergraduate days in Cambridge, noticed, upon receiving the first copy of the Principles, conspicuous signs of unkindness between the lines. He repremanded Russell with regret that the book failed in bringing comprehensible style to gain the understanding from readership on account of the excessive brevity of explanations contained in its pages.
Whitehead was keen enough to be aware of something developing in Russell's mind which warped latter's normal style. Whitehead was totally unaware, however, of the affair that was going on between his wife and Russell. Russell was then torn apart between his desperate effort to respond physically his innocent and docile Quaker wife Alys's desire to bring her husband back and his intellectual urge to devote himself to the titanic mission he had set himself in mathematical philosophy. Russell was impotent for a long period of time due to the overwork and the strain of concentrating. He found himself unable to live any longer with Alys, who kept on wailing all night while Russell was writing the Principles in the next room.
This is the situation under which he picked up his pen sometimes to scribble down what surfaced to his morbid nerves.
'The Free Man's Worshi', thus written, was widely read once published and was seriously disputed and severely criticized to the dismay of the author, who eventually changed the article 'The' of the title into 'A' in his collection of esseys, Mysticism and Logic (1917) to tell the readers that his idea had changed.
In this prose-style essay, by talking about Man's vain effort to overcome the fate of the universe, he secretly confessed to his own struggle for liberty in a difficult situation anticipating no help to come to his aid.
Some would find in the Russell who wrote this poetic essay, a Dr Faustus, an infidel, a devilish hypocrite and pseud -hero. But the real Russell would slip through their hand like sand running through grasping fingers. The Freeman essay is only a block of ice fallen into the sea from a gigantic iceburg in the size of an island. Bertrand Russell was the author of more than 2000 papers and articles and a hundred books covering extensive fie]ds of science and humanity, whose record as the leading spokesman of the 20th century has not been beaten yet.