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A.J.エイヤー(著),西勝忠男(訳)「哲学者バートランド・ラッセル」

* 出典:『思想』(岩波書店)n.675(1980年9月号),pp.61-69.
* 原著: Bertrand Russell as a Philosopher, by A. J. Ayer (a lecture delivered in British Academy on Mar. 8, 1972.)
* アルフレッド・ジュールズ・エイヤー(A. J. Ayer, 1910-1989.6.27):エイヤーが1936年に26歳の時に出版した『言語・真理・論理』は有名。
* 西勝忠男(1931年?~ ):執筆当時、城西大学教授/現在、私立大学非常勤講師

[西勝忠男による解題]

A. J. Ayer の画像  本年(1980年)二月二日をもってラッセル没後十周年を迎えたことになる。余すところ二年で一世紀に達せんとする生涯を,多彩にして精力的な活動で埋めたこの哲学者は,われわれの同時代に生きる者の記憶にいまだ新しいと言わねばなるまい。それにしても,今日の思想状況において,このラッセルについては何が学ばれ,何が語られ得るのであろうか。


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 ここに訳出した論文は、自ら「ラッセル=ハムレット」の介添え役たる「ホレーショ」をもって任じてはいても(A. J. Ayer, Part of My Life, 1977, p.312)、当のラッセルは「現在イギリスの最たる哲学者」と保証したその人、アルフレッド・J.エイヤー卿(左写真)が、没後二周年を経た一九七二年三月八日、ブリティッシュ・アカデミーにて行なった講演である。ここにはみごとな形に要約されたラッセル哲学の解説と批判との、いわば磨き上げられたミニアチェア版がある。

 エイヤーは前年の九月にフォンタナ・モダン・マスターズの一冊として『ラッセル』(邦訳、岩波現代選書)を書き下ろして、わが哲学者についてのより詳細な全体像を描いているのであるから、本論はその焼き直し、ないし抜粋ではないかと見られぬこともない。事実、前著のほぼ四分の一の分量になっている本稿の表現中にはかなり重なる個所が見受けられるのである。しかしながらこのことは、同じ人が同じ題材について論じる眼り、ある程度の重複はやむを得ないことであろうし、また、エイヤー自身の言い方を借りれば、「既に成し得る限り適切かつ明確に表現したものを、書き直す労をとるのは愚かしい」(『ラッセル』はしがき)ことだとも言えるであろう。しかしそれよりも、むしろ容易に察せられることは、一回きりの講演という限られたた時間の中で、恐らくは前著を目にすることの多い聴衆に向って、ラッセル哲学のエッセンスを、できるだけ効果的かつ印象的に説き明かそうとするエイヤーの意図からすれば、話題の選択と表現の仕方に、一層の意を尽くして練り直したに違いない、ということなのである。
の画像  御覧の通りエイヤーは、展望としての第一章(1.ラッセルの哲学的態度)を設けるとともに、終始、ラッセルがなによりも学問全般への広範なる関心と人間的行動とを結びつけようとする意味での、まさしく'哲学者'であったことを強調している。哲学とは本来人間くさい学問であるとすれば、若きラッセルの知的覚醒が、数学を契機としてそれへの傾斜を深めながらも、これに埋没することなく、論理や言語というより広い人間的文脈の中で、この学問の真実を解釈し、変換し、展開し、さらに基本的な諸要素に還元しようとした彼の態度は、哲学への、むしろ古典的とも言える'踏み込み'の一つにほかならぬことを例示するものであろう。
 世界の真実を何と取るかは任意であるとしても、少くともその世界と、それを真実と想定するそのとの係わりは、哲学的関心事の中心に据えておかねばなるまい。そのような係わりの意識を明確な形で持つことこそ哲学と呼び得るものだからである。ラッセルが成し遂げた数理論理学の、哲学的側面といわれるものの基底にはこのような人間的関心があった、とみなされて然るべきであろう。「記述の理論」や「型の理論」におけるような、一見人事とは縁遠い論理構造の中にも、ヒューマンにしてヒューメイン(humane)な感覚からの発想を探り当てることができるように思われる。'名前'や'名指し'、または「クラス=パラドクス」というようなことが、人間行為とは係わりの稀薄なものだとすれば、いったいこれらの概念そのものはどんな意義を持ち得るのであろうか。然るがゆえに、人間経験における、真実ならざる紛らわしき存在物は、分析という論理的方法によって解消されねばならない、とされるのである。

 さて、本講演では先ずラッセル哲学のいわばルーツから始まる。彼が一切の信念の根拠を問わねばならぬとする懐疑論者の立場に起ちながらも、命題の妥当性が推論による論理構成に立脚するものだ、ということを明らかにして行く過程が簡潔に述べられている。すなわち「分析」ないし「還元」の思想であるが、ここでラッセルの言う「分析」がいわゆる「言語分析」ではなくて、広く'事象'についての、いわば「もの」についての、分析を目指したものであったことに留意する必要がある。このような分析観を保持していたからこそ、後の委細を極める言語分析の流行に対する反発となって現われたのだ、と思われるのである。
 同じくケンブリッジ派として分析を標榜しながらも、常識を擁護して形而上学を拒否したムアに対して、ラッセル自身は、「存在論としての形而上学」を希求したことはよく知られている。論理的原子論である。しかしながら本講では、恐らく時間の制約によるものであろうが(まさか論理実証主義者として、形而上学批判の旗手であったエイヤーの面目からではあるまい)、この点については触れられていない。フォンタナ版『ラッセル』での簡明なる記述を御覧いただきたい。

 今日の哲学において最大の関心が寄せられている論点のいくつかは、「記述の理論」などラッセルの論理哲学に触発されて生じた諸問題を巡るものなのである。しかも、ギーチの言うように「アリストテレス以来失われていた論理的洞察の大部分を取り戻した」(P. T. Geach, A History of the Corruptions of Logic, 1968, p.21) のがラッセル(とともにフレーゲ)にほかならぬとすれば、二十世紀前半の思潮を、クワインの讃えるように「ラッセルの時代」(W. V. Quine, 'Remarks for a Memorial Symposium'in Bertrand Russell, ed. by D. F. Pears, 1972)とすることは、独り分析哲学的観点からのみ妥当、などと言い切ってしまえるものではないのである。それゆえにこそ、現代哲学の原点としてのラッセルの論理思想や認識論については、今後もなお、その論理・数学的な装いから来る技術的障壁を越えて、実相への探究が続けられることであろう。エイヤーの後を襲って、オクスフォードのウィカム論理学教授に就任したダメットや、アメリカの少壮哲学者クリプキらの追求する意味論・真理論・存在論における刮目すべき新たな展開も、たといラッセルのそれとは対立的様相を呈していても、実は彼の切り開いた視点と問題意識とを踏まえたものだ、と言い得るのである。
 ともあれ、強烈な個性を貫いて現代を生き抜いた知的巨人、人間ラッセルをスケッチするに当たっては、その論理学や知識論におけるアカデミックな成果を描くのみでは不十分なのであって、その社会生活における理論と実践を措くとすれば、画竜点晴を欠くどころか、重大な欠落を冒すことになろう。ましてや、青春時代にはラッセルのモラル観に深く共鳴して行動しまた今日、ポパーらとともに英国ヒューマニスト連合の一員として活躍するリベラル、エイヤーにおいてをやである。(西勝忠男)

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 1.ラッセルの哲学的態度

 哲学者とは'万有の'学問と人間行為のあるべき方向とを結びつけて考える者だ,という通念をほぼ完全な形で満足させた現代の哲学者は,バートランド・ラッセルを措いてほかにはありません。わが国(英国)にはそう多くではありませんが,公生活上活発な役割を果たしている哲学者たちはおりましても,自然科学ならびに社会科学における関心の広さや,哲学そのものに対して成し遂げた貢献度において,ラッセルに比肩し得るほどの者は見当たらないのであります。彼自身は,まことに十分な理由あってのことなのですが,数学的論理学に関して,その哲学上,技術上の両側面から成し遂げた業績に最大の価値を付与いたしましたが,しかしそれと並んで知識論,心の哲学,科学哲学,及び存在論という形での形而上学に向けた彼の関心にも,等しく価値が認められて然るべきであります。これらの領域のすべてにおいて,ラッセルの業績は,今世紀初頭から今日に至るまで,現代人に極めて大きな影響を与えております。英語圏に限りますと,彼の教え子ルートウィヒ・ウィトゲンシュタインについては例外と申しても差支えないでありましょうが,哲学特有の諸問題に関する検討を促進したばかりでなく,哲学の在り方を具体化するほどに,かくも多大な業績を仕上げた人は今世紀においては存在しないのであります。
 『自叙伝』に述べられているように,ラッセルが哲学に関心を懐くに至ったのは,数学上の真理が信じるに足るものだ,との十分な理由を見いだしたい,という願望に基づくのであります。兄がユークリッド幾何学の手ほどきをしてくれた十一歳の時に,早くも彼は,その諸公理を調べてみもしないで信じなければならぬことに異議を唱えたのです。結局のところ彼は,それらの公理を(一時的に)受け入れることに同意はいたしましたが,それはただ,そうしなければ先へは進めないのだ,と兄が請け合ったからにすぎず,幾何学の諸命題は,いやいやそれどころか,数学の他のいかなる分野の命題であっても,なんらかの正当な理由づけをする必要がある,という信念を持ち続けたのでした。しばらくの間ではありますが,数学上の諸命題は経験からの一般化であって,この一般化に合致する数多くのしかも多様な観察によって帰納的に正当化されるのだ,とするジョン・スチュアート・ミルの見方に引き付けられましたが,しかしこのことは,彼の手放したくなかった信念,つまり,数学上の諸命題は必然的に真なるものだ,という信念と衝突したのであります。形式論理学の命題が持つ必然性は相対的には問題のないものだと考えた彼は,むしろ数学が,論理学から導出可能なことを示すことによって,数学の正当化を試みようと思い立ちました。この企てはゴトロープ・フレーゲが先鞭をつけたものですが,そのためにはまず第一に,数学の基本的諸概念の,純粋な論理用語による定義法を発見すること,第二に,数学の諸命題がそれから演繹可能であるほど十分に豊かな論理体系を仕上げること,この二つが必要とされるのであります。これらのうち最初の課題については,とりわけ彼が三十歳を過ぎたばかりの一九〇三年に刊行された『数学の諸原理』(The Principles of Mathematics)によって成し遂げられましたし,第二の課題は,アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの援助を得て,一九一〇年から一九一三年の間に刊行された,不滅の金字塔たる『プリンキピア・マテマティカ』(Principia Mathematica)全三巻によって完成されました。
 ラッセルとホワイトヘッドが企てた数学の論理学への還元はどの程度まで成功したか,という問いについてはここでは立ち入らないことにいたします。数学と論理学とは連接している,ということについては論議の余地のないほどに明白なことでありますが,この連接は,数学に論理学が付け加わるとみなされるべきか,それとも,論理学に数学が付け加わるとみるべきかということは,集合論にどんな身分をあてがうか,によってすっかり違ったものになってまいります。私がここで強調したいことは,数学上の諸命題には正当な理由付けが必要だとするラッセルの信念と,その数学上の命題を,どう見ても別の領域に属するとしか思われない諸命題へと還元することによって正当化を図る彼の方法,この両者が相俟って哲学に対する彼の態度全体を際立たせている,ということであります。彼は,われわれの受け入れている信念のすべてが問われねばならぬ,とみなす意味では一貫せる懐疑論者であります。つまり彼は,'哲学の仕事'というのはこのような疑念の解決を図ることだと思っていましたので,私が次に述べる理由から,これらの疑念を解決するに最もよい方法は,疑念をはらむ諸命題を,それほどには疑わしくない命題へと還元することだと考えたのであります。
 大低の場合,ラッセルはある種の'命題'についてはその真偽のほどは疑わしいと考えましたが,その理由としては,それらの命題がある型を持つ存在物(entity)を指示(refer to)してはいても,それが果たして存在するのかどうか定かではないからだ,ということでした。彼は,任意の命題が妥当だと認めることは,たんに'自らの経験'に照らしてみるなどというようなものではなくて,'なんらかの推論形式の所産'だと信じていたのですが,結論で指示されている存在物が,既に前提に示されていた存在物と同種のものだ,という意味で,依然として同レベルで行なわれる推論と,異なるレベルヘと移り進む推論とを区別することが肝要だと考えました。この第二の型の推論がよりリスクの高い推論であることは,結論に導入された付加的存在物が事実上は存在しない可能性があるからなのです。ラッセル自身,数をクラス[集合]へと還元するもくろみに関係づけて,この点を次のように明確に立証しています。
等しい個数〔元〕から成る二つの'集まり〔集合〕'は共通ななにものかを持っているように思われる。このなにものかはその集まりの'基数'であるとされている。しかし,'基数'が'集まり'から推論はされても,'集まり'によって構成されない限り,その存在は,この場限りの形而上学的要請として見るのでなければ,疑わしいままにととまるほかはない。そこで,与えられた集まりの基数を,すべての等しい個数から成る集まりのクラス,と定義することによってこのような形而上学的要請の必要がなくなり,ひいては数理哲学から不必要な疑念が取り除けるのである(*1)。
 ラッセルは「科学哲学上の最高の格率」と呼ばれるものの適用として次のものを挙げています。いわく,「可能な場合にはいつでも,論理的構成物が'推論上の存在物'と置き換えられるべきである」(*2)。対象とは,彼の言うところによれば,'論理的構成物'(logical constructions)なのであり,また,時に好んで述べられるように,'論理的仮構物'(logical fictions 論理的虚構)なのであります。というのは,論理的構成物ないし仮構物(論理的虚構)が現われるような命題は,その構成物が指示内容としてはもはや現われぬような形の命題へと分析可能だからであります。ですから,ラッセルが'クラス'を論理的仮構物として扱う根拠というのは,クラスを指示する命題は,クラスを,ではなくて命題関数を指示する命題によって,申し分なく置き換えることができるからだ,ということなのであります。'点'や'瞬間'が論理的仮構物(論理的虚構)だということは,それらに関する諸要件が,適切に順序づけられた一群の'量'ないし'事件'によって,等しく満足されるからです。また,'自我'が論理的仮構物だという意味は,それが'伝記'(biography)を構成する'事件'(event)と別個のものではないからなのです。この場合,ラッセルの'格率'を採る効果というのは,異なる状態といえども同じ自我に帰せられるべきものであって,共通関係を有するようななにかまた別の存在物,つまり精神的実体というようなものには目を向けないようにさせ,むしろ異なる状態相互が有する,なにか特殊な関係に注意を引くような原理に気付かせる,ということであります。
 今挙げた例は,ラッセルが'対象'というものを論理的仮構物として語ってはいても,それが空想的ものであるとか,非存在であるとかいうことを意味させようとはしていないことを示しています。プラトンやソクラテスが'論理的仮構物'だと述べることは,彼らをテセウス〔ギリシャ神話で立憲政府を樹立して,アッティカ諸国をアテネに統一したとされる英雄〕やヘラクレス〔ギリシャ神話上の怪力の英雄〕のような'架空の存在物'と同類と見ることではありません。同様に,ラッセルが物理対象(physical objects)は論理的構成物だとみなしていた時期でも,物理対象は,ゴルゴン〔頭髪が蛇で見る人を石に化したとされる三人姉妹の一人〕は実在しないという形で実在しない,などと述べようとしていたのではあませんでした。彼の言いたいことはむしろ,物理対象は分析に応じるものだということでした。つまり,物理対象が分析される時には他のなにものかに解消してしまうのであります。それどころか論理的仮構物が存在するということは,それを構成する諸要素が存在するがゆえにのみ存在するにすぎません。ラッセルが述べているように,論理的仮構物は世界を構成する究極的な内容を成すものではないのであります。
 このことは,'究極的存在'をどのように決めるべきかという問いを提起いたします。ラッセルは二つの基準を採って,いくぶん遠まわしながら,それらが同じ結果に結びつくような形で処理しました。最初の基準は,私が既に示したように認識論的なものであります。つまり,基本的な存在物とはその存在が最も確実であり得るようなものです。後に見るように,ラッセルはこの基準を大まかに解釈しました。つまりこの基準は,彼の見方によると,人が現に持っている感情やイメージや感覚印象といったような,最も動かしがたい所与[データ]を包含するばかりでなく,人が記憶しているこの種の所与,他人に伝えられる所与,さらに,彼がセンシビリア(sensibilia)という名前をつけている単に'可能的な感覚印象'までも,包含することを認めてしまいます。彼がこのように大まかに考える理由は,この基準が価値あるものを構成する可能性と少しも矛盾するものではない,ということなのです。つまり,彼の要請する存在は,基本的なものとして与えられる存在物と異なる次元のものではない,ということが彼の釈明理由なのであります,それにしても,察せられるように,彼も結局この基礎では狭すぎることに気付いております。彼が終局的に到達した世界像によると,その主要な要素は,少なくとも率直な意味における'動かし難い所与'という次元のものでさえなくて,直接には観察できそうにもないような'事件'(event)だとされるのですが,そこではわれわれの信念の基礎はリスクの高い推論過程上に置かれることになるのであります。
 第二の基準論理的なものであります。この基準によると,基本的な存在物とはクラスに対置されるものとしての'個物'であること,この'個物'なるものはラッセルの言う論理的固有名(logically proper name)によって表示可能であること,という両方の意味において'単純なものであること'が必要とされるのであります。この第二の条件がどのようにはたらくかを説明するためには,ラッセルの記述の理論に関していくらか述べねばならなくなってまいります。

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 II.記述の理論と型の理論

 ラッセルが定式化した「記述の理論」(theory of description)を巡る諸問題は,名前の'意味'は名前の'表示'(denote)対象と同定されるべきだ,とする彼の想定と結びついています。'記号'は名前なりやいなやという問いは,そういうわけで,'記号の表わす対象'は果たして存在するやいなや,という問いと繋がっているのであります。『数学諸原理』を刊行したいわゆるプラトニズム時代のラッセルは,'対象'を規定するに当たっては殊に大まかでした。名前を挙げて言うことのできるようなものはなんであれ'項'(term)である,と彼は申しました。つまり,いかなる'項'でも'命題の論理的主語'になり得るし,また,命題の論理的主語になり得るものは何であれ'名指し得るもの'だ、というのであります。ですから、'名指し可能な対象の範囲'は、特定の場所と時間に現存するような事物には限られないことになります。その範囲はあらゆる種類の抽象的存在物、たとえば、'ペガサス'〔ギリシャ神話で翼があり天を駆ける馬〕や'現在のフランス国王'のような存在しないもの、'丸い四角形'とか'最大の素数'といった論理的に不可能な対象にまで及びます。そのようなものは時空の中に存在し得ないでありましょう。しかし、それらを有意義な形で言及し得るという事実こそは、それらが'何らかの存在形式'を持っていることを意味するのだ、とされたのであります。ラッセルは間もなくこの立場には満足できなくなりました。この立場は、「最も抽象的な研究においてさえ保持されねばならぬ実在感覚の欠如(*3)と呼ばれるものを露呈しているばかりでなく、対処すべくもないような難事をも惹起したのであります。たとえば、「『ウェィヴァリ』の著者」(the author of Waverley)というような表示句(denoting phrase)が'名前'として機能するとし、また、名前の意味は名前の表示対象と同定されるとしますと、スコットは『ウエイヴァリ』の著者だと述べる意味は、「スコットはスコットだ」というだけのことになってしまいます。しかし、ラッセルの指摘するように、「ジョージ四世が知りたがっていたこと」は、スコットが『ウェィヴァリ』の著者ではなかろうかということであって、同一律(A=A「スコットはスコット」)に興味を示していたわけでないことは明らかなのであります。さらにまた、「現在のフランス国王」(the present King of France)という句が項を表示するとし、しかも排中律が成立するとしますと、「現在のフランス国王は禿頭である」と「現在のフランス国王は禿頭ではない」、という二つの命題のうちいずれか一つは真でなければならない、ということになります。しかるに、'禿頭であるものすべて'と、'禿頭でないものすべて'とを数え挙げねばならないとしますと、「現在のフランス国王」はいずれ」(どちらの)のリストにも見当たらぬことになりましょう(松下注:フランスは、現在、王制をとっていない。したがってフランス王は実在しない)。ラッセルは「総合を愛するへーゲル主義者たちならば、おそらく、国王はかつらを着けているのだ、と結論することだろう」といかにも彼らしい意見(冗談)を述べております。この見方によりますと、「現在のフランス国王」などという人物は存在しない、と述べることでさえも面倒なことになってしまいます。というのは、現在のフランス国王というこの項がなんらかの存在形式を持たねば、なんのためにその項の存在を否定するのか納得が行かないように思われるからであります。この問題は、ラッセルの言によれば、「非存在物はいかにして命題の主語になり得るのか(*4)ということであります。
 これらの困難は絡み合っています。それらはすべて、次の二つの想定が結合すること(想定)によって生じてくるのです。すなわち、第一に、「現在のフランス国王」や「『ウェィヴアリ』の著者」のような'表示句'は'名前'として機能する、ということ(想定)であり、そして第二に、'名前'は、それが表示するなんらかの対象がなければ意味を持たない、ということ(想定)であります。それゆえラッセルは、このような困難に対処するためには、これらの想定のうちの少くとも一つを放棄せねばならぬわけでありまして、最初の想定を放棄することに決めたのであります。「記述の理論」の狙いとするところは、確定記述または不確定記述として分類可能な表示句なる表現は、実は意味を持つためになにものかを表示するには及ばないのだから、名前としての用途はない、ということを示そうとするものであります。もっと正確に申しますと、ラッセルは、この種の表現はそれだけを切り離して取り上げたのではなんの意味も持たない、という結論に達していましたから、彼の述べんとする主旨は、この種の表現は、この表現を含んでいる文の意味に寄与せんがために、なにものかを表示する必要はないのだ、ということなのであります。ラッセルはこのような表現の特徴を「不完全記号」(incomplete symbols)と呼びましたが、その意味するところは、これらの表現はなにものかを表示する必要がないばかりでなく、'分析に応じ得るもの'でもある、ということなのです。かくして「記述の理論」の志向するところは、'記述句'がこれら二条件を満足するのを示すことであります。
 これを成し遂げる方法はいとも簡単なものであります。その方法が拠り所にしている想定は、ある述語がある主語に帰属するとか、二つ以上の主語がなんらかの関係にある、とか言われたりするようなすべての場合において、つまり、主語の存在の単なる肯定や否定を除くすべての場合において、記述することは'その記述に応ずる対象の存在'をひそかに主張することになるのだ、ということであります。そこで、このひそかなる主張をありのままに示して見せる、ということがその手順にほかならぬことになります。「記述句を消去すること」、つまり「記述句を不完全記号として表現すること」は、記述句を'存在言明'(existential statement)として展開すること、しかもこれら存在言明は、あるものが、言い替えれば確定記述句の場合においてはまさに一つのものが、その記述中に含まれている特性(property)を有するのだ、との主張として解釈すること、というこの手順によって達成されるのであります。かくして、この理論を『プリンキピア・マテマティカ』で説明されている最も簡明な形で示しますと、「スコットは『ウェイヴァリ』の著者である」というような文は、「xは『ウェイヴァリ』を書いたのだが、yに関する限りは、yが『ウェイヴァリ』を書いたとすればyはxと一致し、しかもxはスコットと一致する、というようなxが一つ(→ただ一つ)存在する」(三浦俊彦『ラッセルのパラドクス』での説明の方が分かり易い)へと展開されるのです。同様に、「現在のフランス国王は禿頭である」は、「xはいまフランスを統治しているのだが、yに関する限りは、yがいまフランスを統治しているとすればyはxと一致し、しかもxは禿頭である、というようなxが一つ(→ただ一つ)存在する」となります。、非存在物がいかにしで命題の主語となり得るのかという問いは、主語の形を変えることによってうまく回避できるわけであります。この表示句はこの場合、偽となるような存在言明へと変換されております。
 ひとたびこの手順が了解されますと、「'ある'これこれの」(a so-and-so)〔不確定記述〕や「'その'これこれの」(the so-and-so)〔確定記述〕という形式をはっきりした形で持っている句に対してばかりでなく、なんらかの'内包'を伴ういかなる主格記号にも適用可能なことが分かってきます。記号の'内包'は記号から取り除かれて、命題関数に変換されるのであります。つまり、ある対象が命題関数を満たすことが分かりますと、最初の関数は新手の述語によってさらに拡大される形で同様に処理されます。このような過程が続けられることによって、遂にはこれらすべての述語の主語が、存在記号によってどれと特定しない形で指示されているか、いかなる内包をも持たぬ記号によって名指されているか、のいずれかであれば、その目的は達せられていることになるわけであります。したがって、名前の満たされる関数だけが純粋な指示関数だ、ということになるのであります。ラッセルは、この理論のより平易な解説では、「スコット」のような普通の固有名は実際には名前だ、と考えているかのように書くことがありましが、しかし私の見るところでは、正当なことなのですが、彼はそのような固有名はなんらかの内包を有しているのだとみなしますから、そのような固有名は'含蓄的記述'だ、というのがより一貫した彼の見方なのであります。'通常の固有名'は、通常の記述と同様に、指示するつもりの対象が存在しなくても、有意義に用いることができます。また言い替えれば、有意義な用い方をすれば表示しようとする対象の存在が保証される、ということがラッセルの言う'論理的固有名たることの必要条件'なのであります。ラッセルの見方によれば、この条件を満たす唯一の記号が現在の感覚的または内省的データを指示する記号なのですから、この点で彼が、論理的、認識論的両基準の融合によって、'究極の存在'を決定するに至った、というわけであります。
 「記述の理論」は当初、たいへんな好意をもって迎えられましたが、近頃では、'確定記述句'の実際の用法に対する正確な説明になっていない、という反論に出くわしています。たとえば、確定記述句というものは、指示しようとする対象の存在を、ひそかに主張するものとしてよりは、むしろそれを、前もって仮定する(presuppose)ものとして理解するのが正しいのであって、それゆえ、指示対象のない場合、記述句が表現に一役買っているような命題は、偽なるものではなくて、真理値の欠けたものと言うべきだ、という提唱が〔ストローソン教授によって〕なされているのであります。さらにまた、記述句を用いて対象の把握が意図される文は、しばしばそのままではラッセルの処理法に順応しないことにも注目されています。「その赤ん坊は泣いている」(The baby is crying)とか「そのやかんは沸騰している」(The kettle is boiling)とか言われる時には、この世界にただ一人の赤ん坊やただ一つの'やかん'しかないのだ、ということを意味させようとしているわけではありません。指示対象は本来脈絡によって正確に示されるものでなければなりません。しかるに、この種の文中に、問題の対象を独自な形で満たすような述語が挿入されることになりますと、この目的にかなういくつかの異なった述語があり得る、という事実だけを採ってみても、「分析の到達結果としての命題」と、「分析が開始された文の表現する命題」とが論理的に等しいものであり得るのかどうか、まことに疑わしいことになるのであります。
 「記述の理論」の志向するところが文の正確な翻訳を施すことにあるといたしますと、この反論は致命的なものになるでありましょう。しかし実際のところ、ラッセル自身これに関してなにも明らかにしていませんが、この理論は「翻訳規則」をではなくて、「言い換えの技術」を提供するものなのであります。その方法は、固有名を用いることによって知らず知らずのうちに含まれてしまっていたり、脈絡のうちに埋もれたままになっていたりするような情報を明らかな形にして示すことであります。この理論の出発点になっている想定、つまり、名前の意味はその名前の表示対象と同定されるべきだ、とする、そのこと自体は確かに誤りであります。しかし奇妙なことに、この誤りはこの理論の価値を無効にするどころか、かえって有効なものにしているのです。と申しますのは、ラッセルは、通常名前とみなされている記号が満たさないような〔対象と同定されるべきだとする〕条件を名前に負わせる結果として、普通使用される名前はさほど必要なものではない、という、おそらくは正しい結論に達しているからであります。'単称名辞'のなす働きのすべては、全く一般的な述語が等しくなし得る、というこのテーゼは、実際、論争の余地を残すものではありますが、いずれにしましても、名前が通常果たしている二つの機能、すなわち、対象表示のそれと述語連結のそれ、とを区別することが肝要なのであります。「記述の理論」では、純粋な指示記号(demonstrative sign)によって果たされる指示(reference)の働きと、'量変項'による述語連結の働き、これら二つの機能は切り離して考えられています。純粋な指示記号は、必要とあれば、述語の中にはめ込むことができますから、量変項を用いることだけが主語、述語の区別を示し続けることになります。そこでもし、言われているように(*5)、変項そのものは結合子と置き換え得るといたしますと、主語と述語、というこの昔からの区別は消え去るわけであります。その代わりに存続するはずのものといえば、指示記号と記述記号の区別だけになるのであります。
 主語と述語との区別は、一面において、実体と属性との区別に対応しますから、実体は共存する性質(compresent quality)群として表わし得る、という結論に達したともいえる「記述の理論」とは完全に一致することになります。この〔実体=性質群〕理論は後期における二冊の著書、すなわち、一九四〇年刊行の『意味と真理の探究』(An Inquiry into Meaning and Truth)と、七十六歳の一九四八年に出された『人間の知識-その範囲と限界』(Human Knowledge: its scope and limits)において展開されました。その興味ある特徴は、彼の論理哲学が彼の知識論と結びつく点をあらためてはっきり示していることであります。'実体'を消去することは、「記述の理論」と軌を一にしているとはいえ、この理論の求めるところではありません。ラッセルは、いわゆるぎりぎりの特殊(bare particular)とされるものを、特定しない形で量変項に指示させることで満足していた、と言えるかもしれません。このぎりぎりの特殊というのは、実際上ロックで言われる'実体'のことでありまして、ラッセルの分析はこれを目指して少しずつ対象を削減していったのであります。もし彼が、このような特殊の、その性質への還元へとさらに一歩進めた、と言えるとすれば、それはロックが、「なにものかではあるが、それが何であるかは分からない」、としてしか記述し得なかったもの、そのようなものは認めまい、としたバークリと彼とが同じ考えであったからであります。ここでも彼は、不必要な存在物を省くように努めたのですが、それは節減を好むからではなくて、むしろ存在しないものを要請する危険を避けたいとするがためでありました。
 「記述の理論」の持つ歴史上の重要な効果は、文の文法形式と、ラッセルの言う論理形式とは別個のものだ、という区別を一般に広めたことであります。この区別はまるきり明らかだということではありません。というのは、、論理形式なる概念そのものが全く明らかというわけではないからであります。ラッセルには、事実には論理形式なるものがあって、文はそれを模写するのだ、と考える傾向がありました。すちわち、直説法の文の文法彩式を支える論理形式は、そのまま、その文が表現するものを検証するような、現実的、可能的な事実の持つ論理形式と同定されるのだ、というのであります。しかしながら、このことは本末転倒であるように思われます。なぜならば、事実の論理形式を決めるのに、その事実を述べるために用いられる文の文法形式によらないで、他にどんな手段があり得るのか、理解に苦しむからであります。それは、どの文形式が文の情報を最も明快に伝えるかということを、他の根拠によって決定する問題にしてしまうのであります。にもかかわらず、文法形式と論理形式とを区別することは、文法上の見せかけがわれわれを誤らせるような危険に注意を引く、という利益を生むことが分かるのであります。「存在する」(exist)という語が文法上の述語であるからといって、'存在'は文法上の主語による表示物の持つ一特性だ、などと想定してはなりません。また、「知る」(know)は能動の動詞だということから、知ることは心的作用(mental act)だ、と考えるような誤りに陥ってはならないのです。一般に明らかな点は、表面的には同じ構造を持っているような文であっても,極めて多様な形に変換可能なものだ,ということであります。
 同様な効果を発揮するのは、同じくラッセルの「型(かた/タイプ)の理論」(theory of types)であります。この理論はクラス〔集合〕理論における二律背反に対処するために案出されたものですが、この二律背反は『プリンキビア・マテマティカ』の進捗を長期にわたって妨げたのであります。二偉背反が生じるのは、クラスというものについて、それはそれ自身の成員であるのかないのか、の述定(predicate)に際してであります。一見したところでは、次のことは正しいように思えるかもしれません。たとえば、数えることのできる事物のクラスそれ自身は数えることのできるものですが、それに対して、人間のクラスそれ自身は人間ではない、と申しましても不合理なことには思われません。このようにして二つのクラスのクラス、つまり、それ自身の成員であるクラスのクラスと、それ自身の成員でないクラスのクラスとが得られるように思われます。しかしながら、この第二のクラスのクラスに関して、それはそれ自身の成員であるのかないのか、を問うとしますと、それはそれ自身の成員である、とすると〔定義によって〕成員でないということになり、また、それ自身の成員でない、とすると〔やはり定義によって〕成員だということになる、という矛盾した答が得られるのであります。
 このパラドクス〔逆理〕に対するラッセルの解決というのは、命題関数の持つ意味は、その関数を満たす候補たる対象について、その値域(range)〔範囲〕が指定されることによって初めて明確に述べられるのだ、という原理を拠り所にしています。このことから、これら候補はその関数自身によって定義されるようなものを有意味な形で含めることはできない、ということになります。その結果、命題関数は、したがってこれに相応する命題は、階層をなして配列される、というわけであります。最低レベルには個物の上だけを動く〔値域をとる〕関数、次いで第一階の関数の上を動く関数、さらに第二階の関数の上を動く関数、等々となります。この体系に含まれる分岐理論についてはここでは立ち入りませんが、その中心思想が複雑になるわけではありません。同じ階(order)の関数を満たす候補たる諸対象は、一つの型(type)を構成すると言われますが、その規則というのは、ある一つの型を持つ対象に関して真だとか偽だとか述べ得ることは、別の型を持つ対象に関して述べても有意味ではあり得ない、ということであります。したがって、それ自身の成員でないクラスのクラスについて、それがそれ自身の成員であるのかないのかを述べることは、真でも偽でもなくて、無意味なことになるのであります。
 ラッセルはこの原理を他の'論理的二律背反'や、'嘘つきのパラドクス'のような意味論的二律背反の解決にも適用しています。嘘つきのパラドクスというのは、それ自身偽とされているような命題について述べようとすると、それを真とすれば偽となり、偽とすれば真となる、という結果を招くものであります。「型の理論」は、真または偽と述定されるような命題は、そう述定する命題よりは低次の階のものでなければならない、と規定することによってこのパラドクスを解消してしまいます。したがって、命題はそれ自身についての真、偽を有意味な形では述定し得ない、ということになります。
 しかし、「型の理論」はその目的を達成しているとはいえ、厳格すぎるのではないか、ということが言われます。ラッセルを悩ませた困難の一つは、数学上、任意の論理的型を有する対象から成るクラスの、そのすべてに関する命題表現をしなければならぬ場合がある、ということであります。それはともかくとしましても、次のような障害が生じてきます。すなわち、分枝理論によると、一定の対象が満たし得る関数はそのすべてが同じ型でなくてもかまわないし、さらに、異なる型を持つ一組の関数については、それぞれが同一対象によって満たされる、とする主張にはなんの異存もないのに、これらの関数全体を満たす特性をその対象に帰属させようとすると、この理論に背くことになる、ということであります。なぜかといえば、この理論によると、そのような全体について云々することは有意味ではあり得ないからであります。ラッセルはこの難局を切り抜けるのに、いわゆる「還元公理」(Axiom of Reducibility)なるものを想定いたしました。彼は、二つの関数は同一対象によって満たされる時に形式的には等値だと述べ、また、任意の関数集合には言及しない関数を'述語的'(predicative)と呼びました。こうして、還元公理というのは、与えられた対象Aを基項(argument)〔対象 a を関数 f(a) で表わしたときの a のこと〕とみなし得るような任意の関数 F に関していえば、この関数の基項中に、形式的には F と等値であるような、Aをも有するなんらかの述語的関数が存在する、というものであります。なるほど、これによって難局を切り抜けてはいるのですが、果たしてこの還元公理は論理的真理であるのか、という問いに答えてはいないのであります。
 「型の理論」は厳格すぎると考えられるより単純な理由は、'型'の異なる対象に関しても、それなりに有意義な形で語り得ると思われる場合は極めて多い、ということであります。たとえば、対象を異なるレベルで数え得るにしましても、だからといって数的表現は、その所属する型の異なるクラスに適用されるにしたがって異なる意味を持つ、とは考えられないのであります。ラッセルの答えるには、そのような場合の表現は異なる意味を持つのだ、というのであります。型の異なる対象に適用可能と思われるような表現を、彼は系統的に多義(systematically ambiguous)なる表現と呼んでいます。その多義は系統的な形になっているから、われわれの目には留まらない、ということなのです。ともあれ実のところ、もし「型の理論」がなかったとしたら、われわれには、これらの場合が多義である、などと言い出す理由もなかったことでありましょう。
 このような難点を考え合わせた論理学者の多くは、むしろ「型の理論」を捨てて、この理論が切り抜けようとしたパラドクスを、別の仕方で処理できないものか、と思案しています。たとえばクラス=パラドクスは、これを問題視しないことによって避けることができる、とみなす人たちがいます。つまり彼らは、それ自身の成員でないようなクラスのクラスなどは存在しないと主張するのです。しかし、論理学内部におけるその身分はどうあろうとも、「型の理論」は、既に述べたように、極めて強大な副次的影響を与えたのであります。文法や語彙の点からすれば全く申し分のないような文が、にもかかわらず無意味であり得る、という見方に力を貸すことによって、この理論は、論理実証主義者たちを勇気づけて、形而上学に攻撃を加えさせましたし、さらにまた、ライル教授の言う'カテゴリー間違い'(category mistake)を冒す可能性のあることに対しても、哲学者たちを敏感にさせたのであります。'カテゴリー間違い'というのは、対象や事件や過程、または何であってもかまいませんが、そのようなものに対して、その型に合わないような諸特性を帰属させることによって生じるものであります。あたかも、潜性的性質(disposition)を出来事と混同したり、課題を業績と、クラスをその成員と混同するというように。私の見るところでは、哲学的難問の、'カテゴリー間違い'に起因する範囲が誇張される傾向はありますが、しかしこのことは、この概念が当てはまる事例での、この概念のもたらす豊かな結果を否定することにはならないのであります。

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 III.知識論

 先に述べたことですが、ラッセルが究極存在決定に用いた基準の一つには知識への近づきやすさ、ということがあります。彼は、その存在や特性について、われわれのほぼ確信できるような存在物が基本的なものだと考え、これら存在物を、英国経験論の古典的伝統に従って、内的及び外的感覚の直接的な所与と同定いたしました。一九一二年出版の著書『哲学の諸問題』(The Problems of Philosophy)での彼は、「感覚によって直接に知られるもの」(*6)を示すために「感覚所与」(sense-data)という名辞を用いましたが、この感覚所与については、一方で物理対象と区別するとともに、他方では諸感覚や、感覚所与をその対象として有するような感覚上の存在、つまり彼の言う心的作用(mental act)とも区別するように心がけました。心的作用の対象そのものは心の中にあるはずだ、とする理由は審らか(つまびらか)でないのだから、感覚所与感覚されることとは独立な存在だ、とするのは論理的に不可能なことではない、と結論しました。にもかかわらず彼が、感覚所与は感覚されることと独立に存在するものではない、と考えていたとすれば、それは彼が、感覚所与は因果的には知覚者の身体状態に依存する、とみなしていたがためであります。感覚所与は私的存在物だとすることは経験論的根拠にも基づいています。このことは、ともかくも感覚所与は、因果的には知覚者の身体状態に依存するのだ、とする想定から出てくるように思われますが、しかし少くとも視覚上の所与に関していえば、ラッセルはさらに次のような論証を行なっています。すなわち、視野(perspective)における相違- 彼はこれを、二人の観察者は同時に同じ空間上の位置を占め得ないという事実から生じる、と仮定します- は、観察者それぞれの感覚する感覚所与の性質上の同一などおよそあり得ないものにするのだ、というのであります。
 一九二一年に出版された『心の分析』(The Analysis of Mind)でのラッセルは、'心的作用'が存在するとの信念を放棄しています。このことは、一つには彼が、このような作用を行なうとされる'自我'というものが実は論理的仮構物なのだと信じるに至ったこと、またもう一つには、'心的作用'というようなものは経験的に探知できるようなものではない、と決着をつけてしまったことによるのであります。以前構想していたような感覚の存在ということは、彼にはもはや考えられないことでしたから、感覚の対象の存在という観念もまた取り除かねばならず、その限りにおいて、感覚所与という信念をも放棄したのであります。しかしながら、一九五九年に出された著書『私の哲学の発展』(My Philosophical Development)では、感覚所与を「断固として放棄した」(*7)と語ってはおりましても、彼の見方はこの言葉が示すほど急激に変わってはおりません。彼は「感覚所与」なる名辞こそ用いることはやめたものの、知覚対象(percepts)については語り続けたのでありまして、この知覚表象に対しては、感覚作用との相関関係という特性を除いて、感覚所与に帰属させたと同じ諸特性を帰属させております。
 いずれにしても、主として彼の興味をひいた問題は、感覚所与または知覚表象と、それを経験する人びととの関係の仕方ではなくて、感覚所与とわれわれが知覚すると考えられいる物理対象との関係の仕方、ということでした。しかもこの問題に関しては、彼は終始一貫、物理対象は端的に知覚されるものではないのだ、という見方を採っていました。ここでもまた彼は幻覚からの論証として知られているものに依存することによって、古典的経験論の伝統に従っています。『哲学の諸問題』での彼は、物理対象に関する諸現象は条件が異なれば変わるものだ、という事実に主として注意を集めて、この事実を、いかなる物理現象も当の対象の真実の特性とは同定し得ないことを示すものだ、と解釈しました。しかし後年の著述では、これらの現象が、因果的には環境や神経系統の特質に依存するものであることを一層重視いたしました。したがって彼は、光の通過には時間を要するという事実は、われわれが太陽のような対象を見るとき、太陽の現にあるがままの状態を見ているのではなくて、せいぜい、太陽が数分前にあった状態を見ているにすぎぬことを示しているのだ、とよく言ったものでした。しかし彼は、主たる論拠を次第に深化させて行きました。彼は、われわれが物理対象に帰属させている大きさや形、色というような知覚可能な諸特性は、一つにはわれわれの神経系統の状態のゆえに、そうであるように思えるのだから、対象は、'共通感覚'(common sense)によって考えられるような、文字どおりの仕方でこれらの特性を所有する、と信じる正当な根拠はないのだ、と考えました。もし共通感覚的態度が素朴実在論によって、つまり、われわれは物理対象を、実際あるがまま、端的に知覚するのだ、とする理論によって示されるとすれば、共通感覚は科学と背馳(はいち)することになる、というのがラッセルの意見なのであります。しかし共通感覚と科学との論争になれば、科学が勝利を収めるに違いない、と考えていました。『意味と真理の探究』には、アインシュタインに大きな感銘を与えた次のような定式化が述べられています。
素朴実在論は物理学に結びつくが、しかも物理学は正しいものだとすれば、素朴実在論が誤りであることを証明する。それゆえ、素朴実在論は正しいとすると誤りだということになる。それゆえ素朴実在論は誤りなのである」(*8)
 前述のような論証が、果たして、物理対象とは対照をなすものとしての感覚所与ないし知覚表象を、われわれは端的に知覚するのだ、ということを立証することになるのかどうかは疑わしいことであります。カーテンが異なる観察者にとって、または、同じ観察者でも条件が異なれば、異なる色に見えるという事実は、ある特定の色をそのカーテンの真実の色として、ある程度任意に選び取れることを示してはいますが、しかしそのことが、見られているものがカーテンではなくてなにか他のものだ、という結論を保証するとも思われないのであります。また、遙かね星から来る光がわれわれの所へ達するのに何年もかかるという事実は、われわれは現在の物理対象としての星を見るのだ、とする素朴な想定を反駁しますが、さりとて、星ではないなんらかの現在の対象を見るのだ、とするに十分な証明になるとも思われません。因果的論証となりますと、実際さらに強力なものになってきます。観察者に及ぼす効果に、言及することなく適切に定義可能な対象にとっては、内在的な特性というものがそのものの必要条件をなす、としますと、物理対象には本来色はないのだと述べることは、たとい、物理対象には「本当に」色はないと主張する権利があるのか、という議論の余地を残すにしましても、正しいことに思われます。それにしても、物理対象に帰属されるような色は、なにか他のものの、つまり感覚所与や知覚表象の、持つ特性だ、ということにはどう見てもなりません。もし、そのような結論をラッセルの論証から引き出そうとすれば、さらに次の二つのことを想定しなければならなくなります。すなわち第一に、物理対象が実際とは懸け離れた仕方で知覚されるときには、端的に知覚したものだ、と言い得るなにものかが存在し、しかもそのものは、その物理対象だけが持っていると思われる諸特性を本当に持っているのだ、とすることであり、そして第二に、この意味においてわれわれが端的に知覚したものは、物理対象についての知覚作用(perception)なるものが真実とされようが惑わしとされようが、とにかく同じものなのだ、とすることであります。ラッセルはこれらの想定を当然のこととして是認していますが、それらは一般に自明であるとは考えられません。それどころか、ほとんどの現代哲学者はこれらの想定を否認しているのであります。
 私自身の見解では、他の所(*9)で論じているのですが、ラッセルのような立場は別の方法によってもっと満足な形に達し得られる、ということであります。その第一段階は、通常知覚判断はその基礎となっている証拠を超えるところに意味があるのだ、ということを認めることです。たとえば、私の前にある対象はテーブルだ、と私が同定するときには、私は、私の現在の視覚経験の内容物によっては認可されないような、多くの特性をその対象に帰属させている、のであります。第二段階は、証拠を超えることなく、証拠を査定する機能だけを持つ命題が定式化され得る可能性を想定することです。私はそのような命題を経験命題(experiencial proposition)と呼び、通常の知覚判断は経験命題が真でなければ真ではあり得ない、という意味で、経験命題は知覚にとって基本的重要性を持つものだ、と主張しているのであります。しかしラッセル後期の見解とは一致しておりまして、経験命題中に現われる対象については、性質が内在する特殊〔個物〕としてよりはむしろ、性質の複合として考えております。また、さらに重要な点は、対象は私的存在物ではない、ということであります。物理対象も人も、まだ導入されていないこの原初的レベルでは、これら感覚上の諸要素が公的か私的か、物理的か心的か、というような問いを提起いたしましても、それは意味のないことなのであります。
 ラッセルの出発点としてここまでは認容するとしましても、次に考察せねばならぬ問題は、彼の言うように原初的所与(primitive data)とは「物理対象と呼べるような、他のなにものかの存在を示す記号」(*10)なのかどうか、ということであります。『哲学の諸問題』で彼が与えた答では、原初的所与は記号と考えてよいか という、決定的ではないまでも、正当な理由があるのだ、ということでした。その理由というのは、物理対象を感覚所与の外的原因として要請することは、他のいかなる仮説もかなわないような形で感覚所与の特質を説き明かす、というのであります。ラッセルは当時、物理対象の本質的諸特性に関する事柄が発見できるとは考えませんでしたが、物理対象は感覚所与の順序に対応するような形で時空的に順序づけられている、との推論は妥当だと考えていました。
 物理対象を観察されざる原因として要請することは、可能な場合にはいつでも論理構成物が推論上の存在物と置き換乏られるべきだ、とするラッセルの格率とは相容れないものですから、一九一四年出版の著書『外部世界の知識-哲学における科学的方法の場としての』(Our knowledge of the External World as a Field for Scientific Method in Philosophy)や一九一四年と一九一五年に書かれて、論文集『神秘主義と論理』(Mysticism and Logic)に収められた二つの論文〔The Relation of Sense-data to Physics, 1914 及び The Ultimate Constituents of Matter, 1915〕においては、彼は物理対象を論理的構成物として示そうと努めたのであります。このために導人されたものが「センシビリア」でありまして、センシビリアとは「感覚所与と同様の形而上学的かつ物理学的身分」(*11)を有するものである、との説明が付されています。私は間違いだと考えているのですが、異なる観察者によって経験されるような感覚所与間には空間関係はあり得ないという理由で、感覚所与は私的空問内にその所在がなければならぬ、と想定するラッセルは、同じことがセンシビリアにっいてパースペクテイヴも当てはまる、としています。そこで彼は、「視野」なる語に技術的な意味を与えて、感覚所与であろうとセンシビリアであろうと、二つの特殊〔個物〕は、それらが同時に同じ私的空間に生起するとき、しかもそのときに隈って同じ視野に所属する、と述べ得るのだとしました。
 ラッセルがこれらの材料を用いて展開したこの理論には、ライプニッツの単子論と若干の親近性があります。彼は各視野を「視野空間」(perspective space)と呼ばれるものにおける点として扱いますが、三次元視野についての三次元配列である祝野空間そのものは、六次元空間ということになります。視野空間内にその所在を有する物理対象は、現実的でかつ可能的な諸現象のクラスと同定されます。諸現象の区分法を例示するために、ラッセルは異なる視野に登場するペニー鋼貨例を用いています。銅貨についての諸現象が厳密に同じ形状を有するような視野はすべて集められ、大きさの順に従って一直線上に置かれます。このようにして多くの異なる系列が得られますが、そのおのおのにおいて、「(いわば)銅貨が目のすぐ近くにあるので、それ以上近づけると見えなくなる」(*12)ような点で限界に達します。ところで、その銅貨を「超えて」続く視野が直線をなすように、これら系列のすべてが延長されると仮定しますと、すべての直線の出合う視野が「その銅貨の存在する場所」(*13)として定義できることになるわけであります。

 次いでラッセルは、感覚所与ないしセンシビリアがそこで(津)現われる場所と、そこから現われる場所とを区別しました。感覚所与ないしセンシビリアがそこで現われる場所は事物の存在する場所であり、感覚所与はその事物の一要素なのです。また、感覚所与ないしセンシビリアがそこから現われる場所は視野でかって、感覚所与はその視野に所属しているのです。彼はこの区別によって「ここ」(here)を定義して、「われわれの私的世界が占めている視野空間内の場所」、つまり、視野空間内での「その一部にはわれわれの頭がある」(*14)場所だ、とするとともに、また、事物がそこから知覚されるさまざまな距離を識別し、対象における変化と、環境ないし観察者の状態における変化とを区別するための手段にもしているのであります。
 この理論はたいへん巧妙なものではありますが、循環論という点で欠けているように思われます。その難点は、物理対象がその諸現象から構成されるはずだとしても、物理対象そのものを用いて諸現象を取りまとめるわけにはいかない、ということであります。ラッセルが用いた例では、銅貨の異なる諸現象は、まず純粋に諸現象の性質に基づいて結びつけられねばなりません。しかし、異なる銅貨でもたいへん類似して見えることがありますし、また、背景がよく似ていても異なって知覚されることもありますから、これらセンシビリアだけを結びつけて、同じ銅貨に属すると確信できる唯一の仕方は、センシビリアをより広範な脈絡の中に位置づけることしかないのであります。そこで、センシビリアの生起する視野に隣接する視野が考慮に入れられなければなりません。しかしながら、感覚所与と対照した場合のセンシビリアだけを含む視野というのは、実際には知覚されるものではない、という困難に直面してしまいます。しかも、構成しようとする視野空間を先ずもって想定することなくして、知覚されざる二つの視野が隣接する、と決める手だてはなにもないように思われるのであります。
 もう一つの重大な難点は、収斂系列(しゅうれん・けいれつ)の諸要素を順序づけるラッセルの方法がその目的にそぐわない、ということであります。彼は、対象の見かけの大きさは距離によって連続的に変わり、また、その見かけの形状はその対象を見る角度によって変わるものだという想定に頼っていました。しかし、恒常性の原理を考慮すると、この想定は心理学的には間違っています。見かけの形状や大きさが生理学的に決定されるとすれば、この想定は支持されるかもしれませんが、こうすることは再び、物理対象が構成される前に物理対象に持ち込む、ということになるのであります。
 これらの難点の主な源は、私の見るところでは、知覚上の諸要素の所在が私的空間にある、とするラッセルの間違った想定にあります。この想定がなければ、多くの視野を複雑な形で順序づける必要などはなくなります。私が他の所で論じたように(*15)、ラッセルのセンシビリアに相当するものを手に入れるためには、センシビリアの起源である感覚場を越えるような時空関係が案出されさえすればよいのであります。普通、類似の知覚表象は類似の知覚経路の交点で捉えられるというのが事実なのですから、この交点において私の言う標準化された知覚表象(standardized percepts)像なるものの存在を要請することができます。次に、そのような知覚表象の所在を、実際上立ち入れぬような地点であっても、帰納的な仕方で突き止めて行くことができます。このようにして、共通感覚による物理世界の概略が得られ、さまざまな相関関係過程によって、さらに明確な形に表現することができるのであります。しかしこの方法では、物理対象をセンシビリアからの論理的構成物として示そうとするラッセルの目標に達し得ないことは確かであります。物理対象を指示する命題を、知覚表象だけを指示する命題へと翻訳することは不可能なのであります。しかしながら、共通感覚に基づく物理世界存在の信念が、知覚表象の基本体系に関する理論として構成されること、しかも、この体系が、高次な存在物を全く導入することなっく、経験命題に現われる所与の理論的な基礎をなすものであること、については示し得るのであります。そしてこれが実現可能な限度である、と私は信じております。
 ラッセルは一九二一年刊行の著書『心の分析』では、ほぼ完全に還元主義の主張を貫きました。主としてウィリアム・ジェイムズに従った彼は、心も物質もともに、そのもの自体は心的でも物的でもないような原初的諸要素からの論理的構成物だと主張したのであります。心と物質というように異なるものになるのは、表象や感情のような諸要素が心の構造の成分になる、という事実によるとともに、また、異なる因果法則の作用にもよるのだ、というのであります。それゆえ、同じ知覚表象が、物理法則に従って結合されると物理対象を構成するし、心理法則に従って結合されると心の構成に資する、というわけであります。知覚表象の心的側面から見ますと、これらの要素は、とりわけラッセルの言う「記憶による因果関係」(mnemic causation)、つまり、経験所与が後続の記憶表象を生みだすという一種の遠隔作用なるもの、に係わっています。後には不満を覚えるに至りましたが、当時の彼の見解、つまり因果関係はまさに一定不変なる連鎖だ、とする見方からしますと、そのような遠隔作用には理論的な異論はなにもないのでありますが、『人間の知識』で採られた原理、つまり、因果の鎖をなす諸事象は時空的に連続だ、とする原理とは不整合になってしまうために、彼にはそのような作用が存在するとは考えられなくなったのであります。彼はずっと、心は論理的構成物だ、とする見方を崩しませんでしたが、同じ心の構成要素となるはずの、異なる要素間に成り立つべき諸関係については、どこにも厳密な説明をしておりません。しかるに、一九五八年刊行の論文集『自伝的回想』(Portraits from Memory)に述べられているように、「事件というものが心的なものとなるか物質的なものとなるかは、なんらかの内在的な性質によるのではなくて、ただ因果関係のみによるのである」(*16)と主張し続けたのであります。しかしながら注目すべきことは、まず第一に、以上の考えは表象や感情が本来心的なものだとする彼の初期見解とは整合しませんし、また第二に、心的事件を物理的事件と同化する彼の最終的な理由というのが、それらはともに同じ要素から構成されるということではなくて、むしろ、心的事件と呼ばれるものは脳の物理的状態と同定可能だ、ということなのであります。
 このことは、彼が後期の著作において、物理対象は論理的構成物だとする見解を放棄して、物理対象は推論上の存在物だ、とする初期の見方に転じたことと符合いたします。一九二七年出版の著書『物質の分析』(The Analysis of Matter)には、彼が依然として、物理対象と知覚表象群との同定を望んでいることを示す文章がありますが、しかしそれ以上にしばしば考えられていることが、科学的に確立されるはずの帰結から見て、物理空間と知覚空間との間にはなんらか構造上の対応関係がある、と推論するのは正しいとしても、物理対象の内在的諸特性や、物理空間に関する端的な知見についてはなにも知り得ないのだ、としていることであります。彼が知覚の因果理論から引き出したもう一つの結論は、われわれの知覚するものはすべてわれわれ自身の頭の内部にある、ということなのです。このことは実際、極めて逆説的なことに思われますが、ラッセルの策する知覚空間と物理空間との区別を受け入れますと、当然のことだといえます。というのは、その区別によれば、知覚表象の物理的所在と、知覚表象の直接的な物理的原因の所在との同定は十分合理的な決定だ、ということになるからであります。その難点はむしろ、その基底になっている知覚空間と物理空間との区別は受け人れ難い、ということであります。さらにラッセルが、知覚表象と、知覚表象を生ぜしめるとみなされている脳内の事件との同定を進めるのはいかなる理由によるのか、ということも明確ではないのであります。
 物理対象は知覚表象の外的原因として推論によってのみ知られ、その結果として物理対象の内在的諸特性についてもいくらかは知ることができるのだ、という見解は『人間の知識』その他後期の諸著作においてかなり一貫した形で保持されております。この種の理論に伴う明白な難点は、そのような外的対象がともかくも存在するのだ、とする推論がどのように正当化できるか、ということであります。それどころか、観察不能な存在物を要請する権利があるとすれば、それは、その存在物を取り入れた仮説が、経験的にテスト可能な帰結を有する限りにおいてなのですが、これら観察不能な対象の所在は観察不能な空間にあるとみなされますと、さらに深刻な問題が生み出されてくるように思われます。観察不能な空間の存在を信じるどのような正当化があり得るのか、審らか(つまびらか)でないばかりでなく、そのようなものについての概念は、到底、理解可能だとは思われないのであります。
 さらに、ラッセルが頼りとする知覚の困果理論(causal theory of perception)そのものは、物理対象の所在が知覚空間内にあると決めてかかっているようだ、という反論があります。つまり、私の前にあるテーブルを私が見るということは、そのテーブルから私の目まで光線が通過することだ、という説明がなされるとしますと、そこにはまさに、そのテーブルは私が見る時そこにあるのだ、という想定があるわけです。なるほど、物理対象が本当にある場所と、あるように見える場所とが区別されることはありますが、そのように区別する推定そのものは、あるように見える所に対象があるのだ、とする想定に基づいているのであります。遠隔対象の所在を突き止める精巧な方法こそ検証可能な結果に結びつき得るのだ、ということは、われわれの周辺にある事物の物理的位置と、標準化された知覚表象の観察上の位置とが等しい、とみなすことによって始めたがゆえにすぎないのであります。
 このことは素朴実在論へと追い返されることを意味しているのではありません。物理空間と知覚空間とを区別するラッセルの考え方は認められないとしましても、物理対象が本当に所有しているのは物理学者の帰属させる構造上の諸特性しかないのだ、とみなしても差し支えはないのであります。まして、知覚表象は知覚者にとって私的なものだ、とみなすことをためらうには及びません。物理世界に対する共通感覚的概念を、感覚上の性質に関する理論体系として展開すれば、物理世界構築の諾要素を体系化することができるのであります。知覚表象と対置される物理対象なるものは、知覚表象から抽出されながらも、因果的には知覚表象に対して責任を負わされております。物理対象に帰属されるような、わりあい恒常的な知覚上の性質は、物理対象についての、観察者が異なれば変わってくるような印象や、観察者に由来するような印象とは際立った対照をなすものであります。さらに一層精巧化されたレベルになりますと、共通感覚的な物理対象と、知覚の因果過程が拠り所としている科学的枠組とを置き換えることができます。このようにして私は、ラッセルの知覚上の諸理論〔知覚表象の私性や知覚作用の因果性など〕を一つに結び合わせてみることが真理に結びつくのではないか、と考えるものであります。

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 IV.モラルと政治

の画像  ラッセルはその生涯に七十一冊の本とパンフレットを刊行しましたが、そのうちのほぼ二十冊ばかりがアカデミックな'哲学'の著作として分類するにふさわしいものであります。残りの書物は自伝、伝紀、紀行、教育、宗教、歴史、科学啓蒙書、及び二冊の短編小説集に至るまで、まことに広範にわたっていますが、そのうちの最大綱目は、社会問題と政治に関する著作から成っています。これらの著述に見られることは、彼を知るだれの目にも明らかなように、ラッセルが極めて強固な道徳上の確信を懐いていたということであります。しかし彼は倫理学説についてさほど大きな関心を持ってはいませんでした。一九一〇年頃に書いて『哲学論文集』(Philosophical Essays)に収録された『倫理学初歩』(The Element of Ethics)という初期論文を別にしますと、この主題に対する彼の主要な貢献は著書『人間社会の倫理学と政治学』(Human Society in Ethics and Politics)に見いだされます。この本は一九五四年まで刊行されませんでしたが、倫理学の部分は主として一九四五~四六年に書かれたものであります。
 ラッセルが初期論文で採っていた立場は、一九〇三年に『倫理学原理』(Principia Ethica)を著わした友人 G.E.ムアにそのほとんどすべてを負っていました。ムアと同様に彼は、'善'とは定義不可能な非自然的性質(non-natural quality)であって、その存在は直覚(intuition)〔直観〕によって発見可能だと考え、また、客観的に正しい行動とは、行為者に開かれたすべての行動のうちで、悪に対する善の、最大限に好ましく最小限に好ましからざる比率に結びつくという意味で、最良の帰結をもたらすようなものであり、また、人のなすべき行動は、最良の帰結をもたらし得る可能性の最大なるべきものだと考えました。ムアと異なる唯一の点は、自由意志のはたらきは道徳的責任の起源を成すものであって、決定論と齟齬しないばかりでなく、むしろ決定論を積極的に求めるものだ、との主張にあります。彼は、道徳的な熟慮が人びとの行為に対して力を及ぼし得るとすれば、それは意志が原因となっているからにほかならないのだ、と論じました。ラッセルの自由意志観がロックのそれと類似する点は、われわれは現に意志している以外のことを意志し得るかとか、それはどのような意味においてなのか、というような問いには関与しない、ということであります。彼はロックと同様に、われわれの行動は、たといどんなことを惹き起こそうとも、因果的にはわれわれの選択によるはずのものだ、ということで十分だと考えています。『人間社会の倫理学と政治学』でのラッセルは、自由意志については同じ見方を採り、人は最良の帰結をもたらすような行動をなすべきだ、という考えを持ち続けましたが、その他のことについては、ムアを捨ててヒュームを採っています。彼はまだ、正義や善を直観によって知り得るとする説には論理的欠陥はない、と考えていましたが、人びとの直観は矛盾し合うものであるから、倫理学的論争は単なる「対抗説の衝突」(*17)にすぎぬものになってしまう、と異議を唱えました。さらに彼は、内在的価値が付与されがちなものはすべて、願望され享楽されるようなものだという事実の示すところは、善とは結局「願望または快楽、またはその両者によって」(*18)定義可能なものではないか、と思いついたのであります。
 この方針に沿って彼が提案した定義は、「出来事が『善』であるのは願望充足の時である」(*19)ということでした。しかしながら別の文では、「'是'(ゼ)に結びつくような結果は『善』として定義され、非に結びつくような結果は『悪』として定義される」(*20)と述べています。これらの定義を調停するには、'是'(ゼ)に結びつくような結果は願望を充足させると考えられるような結果だ、と想定すればよいわけであります。しかしこれでは、あることを'善'とよぶことは、私がそれを'是'とする、とだけ述べることなのか、それとも、それは世間一般に'是'とされているものだ、と述べることなのか、はっきりしませんし、また、私自身の'是'とすることがまさに問題だとしますと、これでは、私自身の願望充足のためなのか、それとも世間一般の願望充足のためなのか、もはっきりしないのであります。ラッセルはこれらの可能性をはっきりとは区別しませんでしたが、概していえば、あるものを善と呼ぶことによって、私自身それを'是'とするのだということを、その善なる存在が世間一般の願望を充足させる、またはさせるだろう、という理由で私が言明している、ないしはまさに表現している、と考えていたように思われます。そうだとすると、正しい行動とは、入手可能な証拠に基づいて、その状況で可能であるような他の諸行動よりも、この意味でのより良い結果を生みだしそうな行動だ、ということになります。
 これはもうほとんど功利主義といってもよいものですが、主たる相違は、ラッセルが、すべての願望は快楽のためにある、と想定する誤りに陥らなかったということであります。それゆえに彼は、すべての充足形態はそれだけで同等の価値あるものだとする彼の原理を捨てることなく、「ある種の快楽は本来他の快楽よりも好ましく思われる」(*21)と是認することができたのでした。しかしながらこの点では、彼の理論とその適用との間に若千の齟齬がありました。実際上彼には、残酷さによって生みだされる満足や不満ということを離れて、残酷さは本来の悪だ、とみなす傾向がありましたし、また、正義、自由、及び真理追求に対しては独自の価値を付与したのであります。
 ラッセルが'自由'というものに与えた意義は、その政治上の諸著述に明確に示されています。彼の政治への係わりは次第に実践的なものになりましたが、政治理論には強い関心を持っていました。彼自身が貴族でありましたので、貴族的政治形態に対する申し開きができるとすれば、それは富や余暇の享受が少数者にとってのみ可能な物質条件の社会であっからだ、と考えたのであります。また彼は、ほとんどすべての人がかなり高い生活水準を享受できる経済社会では、正義の原理が民主主義を支えるものだと考えました。民主主義は良い政府を保証するものではないけれども、ある種の悪なるもの、つまり、無能な政府や公正でない政府の恒久的な権力保有、という主要な悪を阻止するのだ、と述べています。ラッセルは一貫して権力の集中排除を支持して、現代国家における権力の拡大強化に嫌悪を示し、不信の念を懐いていました。このことは、著書『ボルシェヴィズムの理論と実践』(The Practice and Theory of Bolshevism)に述べられているように、ソビエト共産主義に対する彼の敵意を示す理由の一つでしたが、この本は彼が一九一九年(注:1920年の間違い)に早々とロシアを訪ねた成果でありました。晩年にはソビエト連邦に対してやや同情的になったかのようにみえますが、それは彼が、アメリカ政府の政策が平和に対するより大きな脅威となっている、と確信していたからにほかなりません。
 ラッセルが国家権力の増大よりは減少を望んでいたことは、並みの社会主義者たちとは区別される特色であります。しかしながら彼は、私有財産の所有及び使用に対しては規制を望んでいたこと、相続財産の正当性を認めなかったこと、さらに大企業や土地の私的所有に反対したこと、においては彼らと一致していました。一九一六年に出版された『社会改造の諸原理』(Principles of Social Reconstruction)や一九一八年の『自由への道』(Roads to Freedom)というような著書では、彼は無政府主義に対して多少の同感を示していましたが、自分ではギルド社会主義を支持すると宜言しました。これは、生産者による産業統制と、選挙民を基礎として選出された労働組合総同盟及び消費者議会から成る二院制の設立を定め、主権体として活動する二院の連合委員会をそなえた社会的・政治的組織であります。ラッセルはこれに次のような独創的な提案を加えています。すなわち、「働くかいなかに拘らず、すべての者に対して、必要を満たすに十分な、最小限度の収入が確保されねばならない」(*22>こと、育児の費用は、その両親が結婚するしないに拘らず、「身体的、精神的に満遍なく子供に健全な影響を与えている」(*23)ことが知られているならば、公共団体によって全額支給されるべきこと、また、「母としての育児のために賃所得を放棄する婦人は、子供がなければ受けたであろうできる限りのものを国家から受け取るべきである」(*24)こと、であります。しかし彼は、これに対してどんな措置を講ずればよいか、については論じていないのであります。
 後年の政治上の著述での彼は、国家権力の抑制手段を引き続き求めてはいますが、国家の内部機構の問題よりは、国家間の諸間題についてより多くの関心を懐いていました。ナショナリズムを「現代の最も危険な悪徳」(*25)とみなした彼は、核兵器の使用は結局、人類がかつて経験したいかなる惨禍よりも、はるかに恐るべき結果をもたらす第三次世界大戦勃発に結びつくのだ、と考えました。しかもそのような災害の持続的脅威に対抗し得る唯一の保証として認めたものが、軍備を独占する世界政府の設立だったのです。そのような政府は国際的な同意によって構成される方がよいことは明らかなのですが、ラッセルは、「ある一民族または民族グループのすぐれた力によって」(*26)もたらされる可能性の方が大きい、と考えたのであります。改革は平和的に行なわれることが彼の論証にとって必須の条件でありましたから、彼が一方的非武装を唱導したのはこの理由によるものでした。問題点は、世界政府が国際的同意によってもたらされることはないのと同様に、一方的非武装はこのような形で平和的にもたらされはしないであろう、ということであります。人はただ、ラッセルがこの問題の討議に打ち込んだ情熱と、彼の懐く人間性への関心とに、感服せざるを得ないのであります。しかし彼がこの問題を扱うにあたっては、世界的核戦争の可能性を過大評価しているとともに、それに応じて、力のバランスを維持しようとする伝統的政策の長所を過小評価している、と思われるのであります。
 政治的・社会的諸問題に関するラッセルの著述は、知識論や論理哲学に対する彼の貢献ほど深遠なものではありませんが、それらの著述は慈悲深く見識ある人の道徳上の見地を表わしており、彼の全著作の特質たる明晰さに加えて、優雅と機智という類い稀なる筆致を持っております。彼の文体は、彼が喜んで比較したヴォルテールの響きとともに、彼が哲学上最も大きな親近性を持つヒュームの響きをも伝えているのであります。ヒュームと同様に彼は、特に後年の著述では煩瑣なことには無頓着でいることができました。『プリンキピア・マテマティカ』に注いだ辛苦の歳月の後では、些細な問題には我慢できなくなっていたのです。一九五〇年代のイギリスに流行した言語哲学に対して示された彼の敵意は、一つにはその取り上げ方の細かさに対する反発であり、また一つには、哲学は自然科学には無関心であってもやっていける、とする想定には承服できなかったがためでありました。哲学的批判が思弁への足かせを強化しようとする時代になっても、彼の強靱な力の源は、その思考における不断の前進と多産性とにありました。彼はまさしく兎のような人であって、亀のような人ではなかったのです。しかるに、その兎が競走に負けるというような寓話は、およそあり得ないことなのであります。

[注]
(1) Mysticism and Logic, p.156.
(2) ibid., p.155.
(3) Introduction to Mathematical Philosophy, p.165.
(4) 'On Denoting', Logic and Knowledge, p.48.
(5) W.V. Quine, 'Variables Explaind Away', Slectied Logical Papers を参照
(6) The Problems of Philosophy, p.12.
(7) My Philosophical Development, p.245.
(8) An Inquiry into Meaning and Truth, p.126.
(9) The Origins of Pragmatism, pp.303-321 及び 'Has Austin refuted the sense-datum theory? in Metaphysics and Common Sense を参照
(10) The Problems of Philosophy, p.20.
(11) Mysticism and Logic, p.148.
(12) Ibid., p.162.
(13) Ibid., p.162.
(14) Our Knowledge of the External World, p.92.
(15) The Origins of Pragmatism, pp.239-241, 322-323 及び Russell and Moore, p.65 を参照
(16) Portraits from Memory, p.152.
(17) Human Society in Ethics and Politics, p.131.
(18) Ibid., p.113.
(19) Ibid., p.55.
(20) Ibid., p.116.
(21) Ibid., p.117.
(22) Roads to Freedom, p.119.
(23) Principles of Social Reconstruction, p.185.
(24) Ibid., p.184.
(25) Education and the Social Order, p.138.
(26) New Hopes for a Changing World, p.77.