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バートランド・ラッセルのポータルサイト


ハワード・グリーンフェルド(著)、藤野邦夫(訳)
『悪魔と呼ばれたコレクター--バーンズ・コレクションを
つくった男の肖像
』 小学館,1998年6月刊 385 pp.

* 原著:The Devil and Dr. Barnes; portrait of an American art collector, by Howard S. Greenfeld, 1987.)
* Howard Greefeld, 1928 -: 作家、オリオン・プレス社創設者
* 藤野邦夫(1935〜):早稲田大学フランス文学科卒、翻訳家?。

 各章にはタイトルがつけられていないが、本書の18章と19章(pp.255-295)に40ページに渡って、B.ラッセルとA.C.バーンズとの関係が、詳細に記述されている。ラッセルとバーンズとの関係は、有名な「バートランド・ラッセル事件」をきっかけとしたものであり、ラッセルはバーンズ財団に雇われることによって経済的困窮状態から抜け出すことができた。その意味では、バーンズは恩人であるが、本書のタイトルにあるように、バーンズは奇人・変人であり、バーンズとの関係がこじれ、1年で解雇されることになる。

(参考1)鶴見俊輔「バートランド・ラッセル事件」
(参考2)鵜飼信成「ラッセルの思い出(バートランド・ラッセル事件)」
(参考3)日高一輝「恋愛と結婚と離婚の自由論−−B.ラッセル事件」

[著作権の関係で、全文は掲載せず、以下引用します。/読書会メンバー用コンテンツ(全文:要パスワード)


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・1940年2月下旬、B.ラッセルがニューヨーク市立大学の哲学教授に任命されたことが公表された。かれは当時カリフォルニア大学に在籍中であった。(松下注:ロサンゼルス校で哲学の客員教授をしていた。)市立大学はリベラルな教育方針で知られた施設であり、ラッセルの任期は、翌年の2月から18ケ月間であった。・・・。反応は直接的で暴力的であった。その皮切りとなったのは、3月1日にニューヨークのいくつかの新聞に発表された、アメリカ聖公会のウィリアム・T.マニング主教の公開状だった。マニングはアメリカに移住したイギリス人で、長い間、ラッセルと彼の思想の敵対者だった。マニングは公開状のなかで、ラッセルと新しい地位を提供した高等教育局を告発し、哲学者を公衆道徳のかく乱者として非難した。・・・。
・・・・反対陣営の多くは、目標を確認するため、関連もなく、婚前交渉や婚外交渉、裸体、マスターベーションに関する哲学者の著作を引用した。ラッセルは、学生、アカデミックな共同体のメンバー、すぐれた知識人(なかにはアインシュタイン、トマス・マン、ホワイトヘッド、ハクスレー)からなる熱烈な支持者をもっていたが、反ラッセル派の勢いがはげしすぎたので、高等教育局は3月7日に、問題の全体を次回の3月18日の会議で再検討すると発表した。この発表どおり、保守派とリベラル派の圧力が強まった。しかし、夜までもつれこんだ長い大荒れの議論のすえ、教育局が注目の任命とりけしを否決したとき、保守派は失望した。
・しかし、ラッセルの勝利は長く続かなかった。その翌日、(N.Y.)ブルックリンの住民で、学究的な世界とは何の関係もない、ただの納税者としか認定できないミセス・ジーン・ケイが、ニューヨーク州最高裁判所に請願書をだしたからである。それは、高等教育局に、ラッセルの任命を撤回させようとする請願書であった。彼女の主な論拠は、哲学者の教育が不道徳であり、「ニューヨーク市立大学に在籍する学生の健康、公徳心、幸福な生活に対する脅威になるだろう」というものであった。公判にさきだつ3月27日に、彼女の主張を聞いたのは、N.Y.最高裁判所のジョン・E.マクギーハンだった。そして、この裁判官は、3月30日に、ミセス・ケイに有利な裁定をくだしたのである。・・・。
・・・・彼は、自伝に次のように書いている。「私は合衆国中でタブーになった。・・・。ここに来て、突然、生活費を稼ぐ全ての手立てを失った。イギリスから金銭を得ることは法的に不可能だったし、ことに、私にたよっている3人の子供たちを抱えて、非常に困難な状況に陥った。多数のリベラルな精神を持つ教授たちは抗議したが、彼らは私が伯爵なので、先祖伝来の財産を持ち、裕福にちがいないと考えた。役にたってくれたのは、ただひとり、バーンズ博士だけだった。・・・。彼は私に、財団で5年間の講義をさせる約束をしてくれたのである。(続きは、図書館で読まれるか、購読してください。