バートランド・ラッセルのポータルサイト


碧海純一「著作を通じて見たラッセルのプロフィール」
『理想』1962年2月号、pp.38-44.

*碧海純一氏は当時東大法学部教授



 1.ラッセルの文体

 著作家としてのラッセルの最大の魅力は何といってもそのきびきびした、明快な文体であろう。かれの一切の虚飾を棄てた、単綴的(たんてつてき/端的)な文章はほぼ口語体に近いものといってよく、読む者にほとんど抵抗を感じさせることなく、著者の意図を最も端的に伝える、かれの画期的な大著『プリンキピア・マテマティカ』(A.N.ホワイトヘッドとの共著)は大変な苦吟・推敲を重ねた労作だったらしいが、この種の特にテクニカルなものは別として、ラッセルの原稿は大抵一気呵成にでき上がったもののようである。そうでなければ、約65年間(かれの最初の主著『ドイツ社会民主主義論』は1896年に刊行された)の著作生活のあいだに2000万に及ぶといわれる著述を世に問うことはできなかったであろう。この2000万語(words)という数字はすぐれたラッセル伝の著者である故アラン・ウッドの推計によるものであるが、これを全部普通の書物の形になおして考えるとおそらく数百冊になるであろう。勿論、この厖大な著書・論文・エッセイなどの中には重複やくりかえしも多く、また、今日から見ればあきらかにあやまっている見解(たとえば、1930年代に、来るべき第二次世界大戦の様相についてかれが試みた予測などがその好例である)や相互に矛盾した発言なども少なからず含まれている。
 こう書くと、いかにもラッセルが不注意な濫作家で、杜撰なものしか書かないようにしか聞こえるかもしれないが、事実はかならずしもそうではない(もっとも、中期以後からが、どちらかと言えば不用意な著者であり、それだけに、論敵から見れば攻撃材料の多い相手だということはいえそうである)。ここでは作品の実質的内容の問題は一応別として、プローズ・ライターとしてのラッセルだけをとりあげるならば、私はかれが、決して文体に無関心な著者ではないことを明言できると思う。ラッセル初期のエッセイのうちで最もひろく人口に膾炙しているものは、1901年ころに書かれた「自由人の信仰」(The Free Man's Worship)であるが、一編の散文詩のようなこの美しいエッセイがなみならぬ彫琢の産物であることは多少とも英語を解する者には一見してあきらかであろう。論より証拠、その一節をつぎに引用する。

But the beauty of tragedy does but make visible a quality which, in more or less obvious shapes, is present always and everywhere in life. In the spectacle of death, in the endurance of intolerable pain, and in the irrevocableness of a vanished past, there is a sacredness, an overpowering awe, a feeling of the vastness, the depth, the inexhaustible mystery of existence, in which, as by some strange marriage of pain, the sufferer is bound to the world by bonds of sorrow. In these moments of insight, we lose all eagerness of temporary desire, all struggling and striving for petty ends, all care for the little trivial things that, to a superficial view make up the common life of day by day; we see, surounding the narrow raft illumined by the flickering light of human comradeship, the dark ocean on whose rolling waves we toss for a brief hour ; from the great night without, a chill blast breaks in upon our refuge ; all the loneliness of humanity amid hostile forces is concentrated upon the individual soul, which must struggle alone, with what of courage it can command, against the whole weight of a universe that cares nothing for its hopes and fears ...

 ウォーター・ペイターの「文芸復興論」などを思わせるこのきわめて音楽的なパラグラフを注意深く分析すると、強音節と弱音節との配分、フレージングなどについて周到な配慮のあとがうかがわれるばかりでなく、嫌味のない範囲内で頭韻の工夫まで凝らされていることにわれわれは気づく。

 自分自身の文体についてのラッセルの考えは、『自伝的回想』(Portraits from Memory and Other Essays, 1956: わが国では、中村秀吉の邦訳がみすず書房刊「バートランド・ラッセル著作集」第一巻として出版されている)の中に収められた「私はいかに書くか」と題する随筆に示されている(中村訳、p.223〜)。それによると、ラッセルは21歳のころ(1893年ごろ)までジョン・スチュアート・ミルの文章に心酔して、かれのスタイルを模倣しようとしたが、その後はもうひとつの別な理想−すなわち、できるだけ少ないことばで、明晰に述べうるすべてのことを言いあらわすという理想で、おそらく数学の訓練からかれが得たもののために志を変えるようになったという。「あることを曖昧  でなくいういちばん短い書き方をみつけようとして、何時間も時間を過したもので、この目的のためには美的な卓越性のためのすべての試みを、喜んで捨てようとした」(中村訳、p.223による)とかれは述懐している。
 このエッセイのおわりのところで、ラッセルは明快な散文を書くための3つの格率を提示している。「第1に、短語でよい時に長い語を絶対に使うな。第2に、非常に多くの限定をもつ命題を作りたい場合には、その限定のあるものを別々の文章にせよ。第3に、文章の始まりにおいて、結末と矛盾するような期待を読者にいだかせるな。」(中村訳、p.226による) 一見しただけでは到底常人には解すべからざる物々しい言いまわしをしないと学者の体面にかかわると思っているような著者たちには、煎じて呑ませたい格言である。ラッセルの文章がモノシレビック(注:monosyllabic:単音節を使う)であることは上述のとおりだが、これについてかれ自身は「私は一語いくらという割で原稿料をもらっているから、なるべく短いことばを使うのだ」(ウッドによる)と言っている、これは勿論冗談であろう。
 文体の問題に関連して、もうひとつ興味ふかいのは、一般的・抽象的な命題を例証するときのラッセルのやりかたである。たとえば、『西洋哲学史』の中のへーゲルの弁証法についての説明(原文p.759−この本には、市井三郎氏のすぐれた邦訳があるがいま手許にないので、原文によった)は「実在は叔父さんである」という一見ばかばかしい例ではじまっている。こういうばあい、ドイツの学者なら、さしずめギリシャ・ローマあたりの古典から事例をもとめたりして蘊蓄を領けるところであろうが、ラッセルはイギリス人らしくむしろ卑近な、ときにはトリヴィアルな例を平気で使う。イギリス人に言わせれば、こういうときに必要以上に「学のある」例を用いるのはヤボ(vulgar)だと言うであろう−粗野で下品なのも「ヴァルガー」だが、必要以上に体裁をつくろうこともまた「ヴァルガー」なのである。こんなところにも、イギリス人とドイツ人とのちがいがよくあらわれている。もうひとつ例を引いておこう。私の哲学の発展』(My Philosophical Development, 1959)のおわりのところで、ラッセルは現代イギリス哲学界に大きな勢力をもつ「日常言語派」を批判しているが、その中で、記号論理学における存在量化記号(existential quantifier)の使用を攻撃するウォーノック(C. F. Warnock)の説に対して反論を展開するために、メダカやマスやスズキやサケに関する他愛ないおとぎばなしをはじめる(同書第18章のII「論理と存在論」参照−この本も野田又夫教授の名訳でみすず書房から刊行されている)。この一見子供だましのような寓話が、実は、論敵ウォーノックの説の痛いところをまことにうまく衝いているのだから心憎い。

2.ラッセルのウィット

 ラッセルのウィットは、かれの若いころの親友だったジョージ・バーナード・ショーの毒舌とともに、今日ではほとんど伝説的なものになっている。この G.B.ショーについて、ラッセルはその実は内気で神経質な性質を指摘し、かれの破壊的なウィットが実は,敵側の嘲笑を予期してこれに対する防御として身についてきたもの一ではないかといっているが(前出『自伝的回想』中村訳、p.83)、同じことはラッセル本人についてもある程度言えるのではあるまいか。現に、アラン・ウッドはそういう解釈をとっている。ラッセルのウィットは全く無尽蔵というほかなく、かれのポピュラーな著作のみならず、専門的な書物にもところきらわず横溢して読者をたのしませてくれる。いわゆるラッセリアン・ウィットの真髄に接したいという人々には、何でもよいからかれの書いたものを読んでごらんなさい、というのが最良の忠告なのだが、そう言うだけでは無責任な気もするので、ここで若干の例を紹介しておこう。もっとも、ウィットというものはさりげなく出てくるところが面白いので、これがウィットでございますと開き直られるとその持ち味の大半は雲散霧消してしまうことをことわっておかねばならない。(右イラスト出典:B. Russell's The Good Citizen's Alphabet, 1953)
 『自伝的回想』の中に収められた小品「年をとる秘訣」(How to grow old/中村訳p.56以下)のはじめのところで、ラッセルは長生きの秘訣を伝受する。「私の第一の忠告は諸君の祖先を注意深く選びたまえということだ。私の親は二人とも若死したが、祖先の方は大変うまく選んだ。なるほど母方の祖父は六十七才の血気盛りで夭折したが、他の三人の祖父母はみんな八十すぎまで生きた。遠い祖先のうちで高齢に達せずして死んだ人を、私はただ一人しか見出すことがでぎず、その彼も今日では稀な病気で、つまり首を切られて死んだのである。ギポンの友人だった曽祖母は九十二才まで生き、息を引きとる日まで子供や孫たちの恐怖だった。……」(中村訳による)
 先年物故したイギリスの著名な哲学者・評論家(かれは日本式の「文化人」的存在だったらしい)ジョード(C. E. M. Joad)に対してラッセルはあまり高い評価を加えていなかった。というのは、(ウッドによれば)ジョードが常習的剽窃家であって、ラッセルの理論をしばしば無断で自説と称して発表したからであった。あるとき、ラッセルはジョードの書いた本の巻頭を飾るべき推賞の辞を求められたが、辞退して日く、「謙遜の気持があればそんなものは到底書けないよ」(Modesty forbids)−−コメントをつけ加えるのはヤボだが、ジョードの本をほめることは、結局、自画自讃になる、という意であろう。(ウッド著『バートランド・ラッセル−情熱の懐疑家』p.200参照)

 『西洋哲学史』の中で、ラッセルは、アンリ・ベルクソンの直観主義を皮肉って、つぎのように言う。「ベルクソンによればこの二つのもの『本能と知性』とはつねになんらかの程度共在するものだが、大体において知性は人間の不幸の根源であり、それに対し、本能はその最上のすがたにおいてはアリ、ミツバチ、およびベルクソンに見られる。」(原文p.821)
 『私の哲学的発展』の中の「認識論」と題する章(第十一章)で、かれは動物心理の研究、特に行動主義の見地からの研究が、認識論上の諸問題に大きな示唆を与えるのではないかと考えたことをのべている。「こう見当をつけたので、私は動物心理学の文献を沢山よむようになった。ところが、いささか愉快なことには、この分野には、片やアメリカのソーンダイク、片やドイツのケーラーをそれぞれ中心人物とする二つの学派があることがわかった。どうも私には、動物というものはその行動を観察する人間の抱懐する哲学の正しさを証明するようなしかたでつねに行動するもののように思えた。私のこの破壊的な発見はもっとひろい範囲でもあてはまる。十七世紀には動物はみんなどう猛であったが、「十八世紀には」ルソーの影響で動物たちは「高貴なる野蛮人」の信仰の模範となりはじめた。これはピーコックが「サー・オラン・オートン(Sir Oran Hau-ton)で風刺しているところである。ヴィクトリア女王の治世中、猿たちはいずれも有徳のほまれ高き一夫一婦主義者だったが、淳風美俗地をはらった今世紀の二十年代ともなると、猿族の道義もいたく頽廃するに至った。しかし、私が関心をもったのは動物行動のこの側面ではなかった。私の興味をひいたのは動物がいかにして学習するかという点についての観察だった。アメリカの学者の観察対象となる動物たちはめくら滅法に走りまわって、まぐれ、まぐれあたりで問題の解決に行きあたるが、ドイツの学者の観察する動物たちは頭を掻いて沈思黙考し、やがておもむろにかれらの内なる意識から解決に想到するもののようである。」〔原文p.129)
 1951年に、アメリカのノースウェスタン大学の P.A.シルプの編集で、『バートランド・ラッセルの哲学』と題する浩瀚な論文集が出版された。この書物では、アルバート・アインシュタイン、ハンス・ライヘンバッハ、G.E.ムーア、アーネスト・ネーゲルをはじめ、多くの著名な学者がそれぞれの分野から、ラッセルの思想を紹介・論評し、そのひとつひとつに対して、ラッセル自身が巻末で簡単に答えている。そのうち、自分の認識論についてアインシュタインが加えた「全体としては好意的な」批判に対して、ラッセルは感謝しつつ、「紙面(スペース)と時間(タイム)が許せば、というより、時空(スペース・タイム)が許せば」もっとくわしい回答を書くところなのだが、とむすんでいる。
 ここにあげたのは、ラッセルのウィットのうち、特に私の記憶にのこったいくつかの事例であって、全く九牛の一毛にすぎない。ラッセルの書いたものは、どんなまじめな内容のものでも、大体こんな調子だと思ってさしつかえなかろう。試みに、かれの『西洋哲学史』や『アンポピュラー・エッセイズ』(注:市井三郎(訳)『反俗評論集』)をひもとかれんことを読者におすすめする。

3.ラッセルの哲学の基調

 いままでは、文体とかウィットとか、どちらかといえば外面的なことがらについてのべてきたが、ここで、著作を通じてうかがえるラッセルの人格・思想の内面の問題に少しふれてみょう。小著『ラッセル』(勁草書房刊、1961年7月)において、私はかれの全思想をつらぬく基本的な特徴として知的な率直さ経験主義(特にかれのいわゆる各個撃破的態度(ピースミル)、および合理主義(勿論、18世紀的な「理性万能主義」とはちがった、経験主義と両立する形での)の3つをあげた。いまここで、この3つの点についてくりかえしてのべへることはしないが、このうち特に第2の点との関連において、各個撃破的・分析的方法がラッセル哲学の中でどういう位置を占めるか、ということを少し検討してみたいと思う。
 市井三郎氏は、私の小著に対する短い好意的な書評の中で、つぎのような問題を提起された。(「週刊読書人」1961年10月9日号)。「分析哲学的な各個撃破の方法現実の社会における激しい実践的意欲と背反することが多いのだが、方法論の問題として、この両者がラッセルにおいて合体しえていた秘密を、それ自体一つの問題として論及してほしかった。・・・」 日本におけるラッセルの最もよき理解者・翻訳者のひとりである市井氏のこの疑問に正面から答えることは私にはできそうもない。ラッセルの比類ない分析力はある程度生まれつきのものと思われるし、かれの青年時代の数学的訓練が分析的傾向を一層つよめたところへ、第一次大戦の大きなショック(これはかれにとって、一種の traumatic experience だったといえよう)の結果、社会変革へのはげしい情熱が生じ、その結果この2つのもの(すなわち、分析的方法と実践的意欲)がむすびついたのだ、というのはおそらく誰でも考えつく解答であろうが、勿諭、市井氏はこんな月並みな答えを求めておられるのではなかろう。
 私は、市井氏の論点を少しはなれて、ラッセルにおいて、ピースミール的・分析的方法が、つねに哲学の最も古く、最も新らしい課題、すなわち、この世界を理解すること、と緊密にむすびついていることを指摘したい。つまりかれのばあいには、(ある種の現代分析哲学者のばあいとちがって)分析はあくまで世界理解という大目的のためのひとつの手段として自覚的に用いられているのであり、ラッセルの哲学は、その基調において、むしろ、ギリシヤ以来の哲学の正統の流れに属すると見るべきであろう、というのが私の言いたい点である。特に、宇宙の神秘、人間の神秘、社会の神秘に対する素朴とも言うべき驚異と畏敬の念がかれの哲学の原動力であることを洞見するならば、われわれはソクラテス以前のギリシヤ哲学の精神の復活をラッセルにおいて見ることになろう。
 ギリシヤ人の考えに和して、哲学を驚異の子と解するならば、、ラッセルはあきらかに生まれながらの哲学者であり、幼少年期の非哲学的環境にもかかわらず、哲学者となった人物である、と言えよう。リヒャルト・ヴァーグナーはマイヤーベーアを酷評して、「まちがって作曲家になった銀行家」だときめつけたが、歴代の哲学者がすべて哲学を生涯の道としてえらぶべくしてえらんだ人々だったかというと、かならずしもそうではなく、なかには政治家や広告業者になったほうが向いていたのではないかと思われるような顔ぶれもないではない。しかし「ラッセルの伝記や自伝的作品を読むと、かれが哲学者以外にはなりようのないタイプの人間でおることがある程度言えそうに思える。生れたばかりの嬰児ba  バートランドが好奇心にみちた眼ざしで首上げてあたりを見回した、というウッドの記述には何とも信をおきかねるが、11歳にして兄のフランクからユークリッド幾何学の手ほどきを受けたとき、未証明の公理をうけ入れることを頑強に拒否したという事実はこのことを例証する。18歳でケンブリッジに入学して、マクタガートやホワイトヘッドの指導を受けるようになってはじめて、この好奇心の権化のような少年は水を得た魚のように周囲にとけこむことができたが、それまでの祖母ラッセル卿夫人の膝下での幼少年時代は、物質的・社会的にはめぐまれていたかも知れないが、哲学のための環境という点ではむしろ逆境というべきものではなかったろうか。バートランド少年が「精神とは何ぞや」(What is mind?)と問えば、ラッセル家のひとびとは「心配御無用」(Never mind!)と答え、「物質とは何ぞや」(What is matter)とたずねれば「そんなことはどうでもよい」(What matter?)と応ずる、というようなありさまだったと、後年のラッセルは茶化しているが、その実、イギリス有数の名門の家庭の反哲学的雰囲気には憤懣やるかたなかったにちがいない。
 ラッセルの彪大な著作を渉猟する者はこの幼児のような旺盛に好奇心をもった巨人のおそるべき知的貪欲と消化力とに半ば荘然自失せざるをえない。近代科学のとどまるところを知らない細分化・専門化は、ギリシヤ的乃至18世紀的な、あらゆる分野に通暁する哲人のイメージを無残にたたきこわしてしまった。私にはラッセルの哲学史上の位置づけをすることは到底できないが、かれがそのきわめてテクニカルな、しばしば一見職人的な外見にもかかわらず、古典的な伝統に立つ「哲学者」のおそらく最後のひとりであることだけは言えるのではあるまいかとひそかに考える。ラッセルは、もう30年も前に、たわむれに自分のための弔詞(1937年)を書き、1962年に満90歳でこの世を去ると断言したが、今年はいよいよその年である。私は、この予言が的中せず、かれがあと何年も天寿にめぐまれて活躍することを心から願ってやまないが、ここにかれの self-obituary から数節をひいてこの小稿を閉じることにしよう。

 弔詞(1937年、ラッセル撰)
 第三代ラッセル伯爵(かれ自身はバートランド・ラッセルと称するほうを好んだ)の逝去−享年90歳−によって、遠い過去とのつながりがひとつ消えた。かれの祖父、ジョン・ラッセル卿は、ヴィクトリア時代に宰相の印綬をおびた人物であるが、ナポレオンを流謫の地エルバ島におとずれたことがあった。(中略)かれの生涯はまことに数奇をきわめたものであったが、それにもかかわらず、そこには19世紀初頭のアリストクラティックな反逆者たちを彷佛させる一種の時代錯誤的な一貰性がみとめられる。かれの諸原理はたしかに奇妙な原理ではあったが、それはそれなりにかれの行動を律していたのである、かれの私生活には、その著述の欠点であるところの人の悪さが全然見られず、かれは愉快な話し相手であり、また人間に対する愛情をももちあわせていた。かれは多くの友人にめぐまれたが、その大部分はかれに先立って他界してしまった。しかし、かれとともに長生きした友人たちの眼に映じたラッセルは、非常な高齢にいたっても、人生のたのしみを満喫している人のようであった。晩年のかれが、政治的には、王政復古後のミルトンがそうだったように、全く孤立無援であったことを考えると、あきらかに、これは主としてかれの衰えを知らぬ健康のせいだったようである、かれはすでに死んだ時代の最後の生存者であった。(注:右イラスト出典:B Russell's The Good Citizen's Alphabet, 1953)