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(訃報)「湯川秀樹博士死去:日本初のノーベル賞;
中間子論を創造;がんを押して核廃絶を訴え」
『毎日新聞』1981年9月9日第1面

*毎日新聞「余録」より(1981.9.9)

 中間子論の提唱などで、原子核・素粒子物理学の発展に大きな功績をあげ、昭和二十四年にわが国初のノーベル物理学賞を受け、核兵器反対の国際的平和運動にも積極的に取り組んだ理論物理学者で京大・阪大名誉教授の湯川秀樹博士が、八日午後二時、肺炎に心不全を併発して、京都市左京区下鴨泉川町六の五の自宅で死去した。七十四歳。湯川家では同夜、仮通夜を行ったが、告別式などは未定。喪主は妻スミさん。(2,3,22,23面に関連記事)


 湯川博士は、一週間ほど前から風邪をこじらせて寝ていた。八日午前九時ごろには四十度以上の高熱を出したため、昭和五十年夏、湯川博士の前立腺がんの手術をした京都第二赤十字病院の古沢太郎副院長や主治医の竹上貞之医師が懸命の手当を続けたが、スミ夫人など家族にみとられ、死去した。

 湯川氏は、明治四十年一月二十三日、京大教授(地理学)(故)小川琢治氏の三男として東京に生まれ、京都市立京極小、京都府立一中を経て、旧制第三高等学校に入学。同じノーベル物理学賞を受けた(故)朝永振一郎博士は京都一中で一年上、三高・京大では同期。
 大正十五年、京都帝大理学部入学、朝永氏らとともに量子力学を学び、同大卒業後、大阪帝大助教授などを経て、昭和十四年に京都帝大理学部教授、同二十八年八月から京都大学基礎物理学研究所長を併任、同四十五年三月に定年退職、名誉教授となった。
 この間、同二十三年九月から米国プリンストン高級科学研究所客員教授、二十四年コロンビア大学客員教授として渡米、アインシュタイン(米)、オッペンハイマー(同)、ボーア(デンマーク)、ディラック(英)、パウリ(スイス)ら世界的物理学者と親交を深めた。
 中間子論と非局所場の理論を研究。昭和十年、原子核を構成する陽子と中性子の間に働く力の本質を説明するため、「中間子」とうい新概念を発表、世界の物理学界で大きな評価を得た。また同十二年から十三年にかけて坂田昌一、武谷三男、小林稔各氏と協力して三論文を発表、同理論を発展させた。これら一連の業績で同二十四年二月、日本人として初のノーベル賞(物理学)を受けた
 さらに素粒子論にとって最も基本的な素粒子自体の構造と運動法則を開明する理論の根本的変革を意図する「非局所場」の概念を提唱し、同二十五年、論文を発表した。この概念をさらに発展させた「素領域」理論を昭和四十二年の国際会議で発表した。
 また、核時代に生きる科学者として世界平和アピール七人委員会、パグウォッシュ会議の中心的存在となり、核軍縮を訴えた。
 昭和五十年夏、前立腺がん手術をした後は自宅で療養、京大基礎物理学研究所で欧文の学術誌「理論物理学の進歩」の編集に当たっていた。五十五年暮れには毎日新聞の新年対談で、渡辺格慶應大学教授と「生命操作時代」に警告するなど、気力を見せていた。
 さらに今年六月七日、湯川博士の病気などのため、十五年間も途絶えていた「第四回科学者京都会議」を招集、日本の代表的な「頭脳」とともに、「(核)兵器による人類の危機はつのる一方。今こそ核廃絶を」と世界に訴え、最後まで平和を求め続けていた。

 昭和十五年五月帝国学士院恩賜賞、十六年十二月野間学術賞、十八年四月文化勲章、五十二年に勲一等旭日大綬章を受けた。
 昭和二十一年六月、帝国学士院会員に選ばれた他、米国、ソ連科学アカデミー会員に選ばれている。
 著書は、「量子力学序説」「湯川秀樹自選集」(全5巻)などがある。
 兄に(故)小川芳樹東大工学部教授、貝塚茂樹京大名誉教授、弟に小川環樹京大名誉教授がおり、学者兄弟として知られているが、本人は昭和七年に医学者の(故)湯川玄洋の養子となった。

 がんとの闘いをいったんは乗り越えながら、七十四歳の生涯を閉じた湯川秀樹博士。わが国初のノーベル賞に輝くこの科学者は、専門の原子核物理学の研究だけでなく、核兵器廃絶を訴える平和運動、東洋思想に根ざした独自の学問論の展開、創造性の開発研究などにも大きな足跡を残した。その多彩な活動が日本人に与えた知的刺激は、はかり知れない。
 湯川博士の業績でまず挙げなければならないのは、ノーベル賞の対象になった中間子論の創造だ。原子物理学の新世界を開拓したこの研究は昭和九年、阪大講師時代に生まれ、翌十年の日本数学物理学会誌(英文)に「素粒子の相互作用についてI」という表題で発表された。
 当時、物理学の分野では量子力学が完成、量子電磁力学(場の量子論)もハイゼンベルク、パウリの論文で骨組みが出来上がっていた。また電子と陽子のほかに、中性子という素粒子が存在し、陽子と共に原子核を構成することが知られたばかりだった。しかし、原子核の「挙動」には理解できない点が多く、特に原子核の中をどんな力が支配しているかは全くナゾに包まれていた。
 中間子論は、このナゾを「中間子」(湯川博士は初め「重量子」と呼んだ)という新量子の導入によって解き明かそうとしたもので、昭和十年の第一論文は次のように述べている。
「素粒子の相互作用は、単位電荷と固有質量を持ち、ボーズ統計に従う仮説的な重量子で記述される。」
 ひらたく言えば、原子核の中で陽子や中性子は、中間子という「仲介役」をキャッチボールのように交換することによって結びついている、という理論である。
 この業績で湯川博士は昭和十五年に学士院恩賜賞、十八年には三十七歳の若さで文化勲章を受けたが、世間一般がその名を胸に焼き付けたのは、やはり二十四年のノーベル賞受賞だろう。
 中間子論はその後、坂田氏らによる二中間子論(十七年)、武谷氏を中心とする核力グループの研究などにより大きく発展。実験面でも、パウエル(英)らの二中間子の発見(二十二年)、カリフォルニア大学におげる人工中間子の発生(二十三年)などが相次いで、理論の裏付けが得られた。しかし、このころ湯川博士自身は中間子論から離れ、より大きなテーマに取り組んでいた。素粒子を「広がりのある物体」として捕らえる新理論の建設である。
 現在の理論は素粒子を大きさも形もない「点」として捕らえているが、これは基本的な困難を伴っている。素粒子の属性である質量や電荷を「点」の中に押し込むため、物理学がしばしば無限大になる(発散の困難)。また、いまでは数百種類も見つかっている素粒子の多様性を「点」から引き出すこともできない(内部自由度の困難)。にもかかわらず、世界の科学者が「点モデル」から抜け出せないでいるのは、相対性理論のカベがあるからだ。時間と空間の関係を束縛する相対性理論では、違?った場所の時間の同時性といったものがややこしく、「広がった物体」の理論を相対論と整合させることは不可能と思えたのである
 だが、この難題、海のものとも山のものともわからない模索の世界に、湯川博士はすうっと入って行った。戦時中の研究会で、湯川博士はよく黒板にマルを書いたが、このマルは相対性理論との衝突を示していた。この「湯川のマル」をなんとかやめさせようとして、朝永振一郎博士が「くり込み理論」を完成した、という挿話は有名である。
 湯川博士の新研究は昭和二十五年一月のフィジカル・レビュー誌に「非局所場の理論」として発表された。米コロンビア大学客員教授時代にまとめた論文で、非局所とは局所、つまり「点」には非ず、という意味である。
 非局所場の研究は、四十一年には素領域理論へと飛躍した。これは、空間に「素領域」という最小単位を考えるもので、その結果、これまで微分方程式で表していたものは、差分方程式になる。また素領域は超相対目的な「小宇宙」であり、その中に物質が詰まった状態が素粒子である、と考える

 社会的な活動で一番大きいのは、核兵器禁止を中心とする平和運動だろう。湯川博士は同じ原子物理学者として「科学者の社会的責任」を強く感じた一人だった。ラッセル=アインシュタイン宣言に基づくパグウオッシュ会議には初めから参加した。(以下コピー不鮮明で見えず。)(論説委員、****?)