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バートランド・ラッセル『宗教は必要か(増補版)』への訳者(大竹勝)解説(ラッセルとその思想)

* 出典:バートランド・ラッセル(著),大竹勝(訳)『宗教は必要か』(荒地出版社,1959年2月 201pp. / 同社刊・増補改訂版,1968年4月 245pp.)
* 原著:Why I am not a Christian, and Other Essays on Religion and Related Subjects, 1957, by Bertrand Russell
* (故)大竹勝氏略歴


<訳書増補版への解説> 大竹勝「バートランド・ラッセルとその思想」

 

 『バートランド・ラッセル』の自叙伝,第1巻 (The Autobiography of B. Russell, v.1: 1872-1914)がロンドンで出版され,日本にも送られてきた。1967年5月末のことである。だいたい3巻におさまるもののようで,他の2巻は存命中の人々とも関係があるので,死後の出版に回されるのではないかとのうわさもあるが,この3巻を読了して,初めてラッセルの人間像が明らかにされるであろう。
 しかし,われわれは常に現在の時点である種の(ママ)にせまられる。幸いにしてアラン・ウッドの伝記『バートランド・ラッセル-情熱的懐疑者』(Bertrand Russell, a passionate sceptic, by Alan Wood, 1957)と,もっと簡潔なものでアプ・トゥ・デイトなハーバート・ゴットシャルクの『バートランド・ラッセル』(Berand Russell, by Herbert Gottschalk, 1965)を手にしているわれわれは,さらに『自叙伝』第1巻を読んでみて,ラッセル自身の『記憶による肖像』(Portraits from Memory and Other Essays, 1956)が,かなり明確に,彼の自伝制作の素描であったことに思いあたるのである。
 この『自叙伝』第1巻を読了してわれわれが思いを新たにするのは,彼が祖母との交渉において,ケンブリッジ大学入学以後,ことに最初の妻アリスとの結婚において,はなはだしく意見の相異による苦杯をなめさせられたということである。またこの本を宗教的な観点から見て興味深いことは,彼が16歳の頃したためた宗教的思索の日記が初めて一般読者に発表されたこと(原典pp.47-55)と,親友ホワイトヘッド教授の夫人が心臓病で死に瀕したとき,ラッセルが知った神秘的体験(p.146)の記述とである。われわれはまた,彼が今日の自由無碍な国際人としての活躍からは想像もつかないほど,少年の頃には,はにかみやであったことに注目させられる。また早く両親を失って,祖父母の手でスパルタ式に教育されたラッセルが,彼自身とは対蹠的に,美男で,頑建で,がむしゃらな兄を持っていたということを知るのである。ケンブリッジ時代の交友関係の描写から,われわれは,彼自身が偉大な知識人であったばかりでなく,彼の友人には,後に国際的な活躍をした偉大な人物が幾名かいたことを知るのである。また,われわれは『数学原理』(Principia Mathematica, 3 vols., 1910-1913)の大著が,彼の畢生の大作であり,その精神的,肉体的な犠牲が,どんなに大きなものであったかを発見するのである。
 この『自叙伝』の率直な描写は,ルソーの『懺悔録』以来と言われているが,彼の最初の妻との生活,またオットリン・モレル夫人(Lady Ottoline Morrell)との交渉など,まことにルソー以上にフランクな描写が随所に出てくることをわれわれは感ずるのである。彼の筆致がどれほど躍如としたものであるかを紹介するために,モレル夫人との交渉を取り上げてみよう。あとで,T.S.エリオット,ウィリアム・バトラー・イェイツおよびオルダス・ハックスレーなどとも交友のあった貴婦人を,彼は次のように表現している――「オットリンはたいへん背が高く,どこか馬みたいな感じのする細長い顔をしていたが,髪は極めてきれいで,マーマレイドの色に似た特異な色をしていた。」(右肖像画出典:R. Clark's B. Russell and His World, 1981)

 彼女はラッセルの幼なじみの友人であった。彼は,彼女に初めて会った頃の2つの思い出が,いずれも恥しいものであったことを述懐している。第1は,オットリンと同席して,初めてアイスクリームを食べたラッセルが,その舌ざわりの冷たさにこわくなって,泣いたことである。第2の出来事は,さらに恥しいものであったと言っている。彼女の家を訪れた時,彼は馬車から降りるときすべって,おちんちんを打ったという。家族のものは,彼を1日に2度温かい湯に入れて,そこを大切になでてくれたので,生まれてからこのかた,そこを無視するように教育されてきた彼にとっては,なぜ大人がそんなにあそこを大切にするのか不思議でならなかったと,哲学者的な感想を記述している。極めておおらかな性格であったオットリンは,彼とアリスとの結婚がしだいに円滑さを欠き,彼が数年の禁欲生活を余儀なくされていた頃の緊張をほぐしてくれ,彼の欠点であった,彼女のいわゆる「しかつめらしさ」を直してくれた恩人でもあった

 

 『自叙伝』の中から宗教論に関する部分を取り上げる前に,ラッセルが人生の生きがいとして上げた3つの点に触れておく必要があると思う。

単純ではあるが圧倒的に強烈な3つの情熱がわたしの生活を支配した――愛に憧れる心,知識の探求,人類の受難に対するおさえがたい同情とがそれである。これらの情熱は,大風のように,ここ,かしこへとわたしを吹きまくり,定めのないコースをたどり,苦悩の深海を越えて,絶望の淵にまで達した
ことであった。

ラッセル英単語・熟語1500
 恋愛に憧れる心は恍惚の瞬間を求め,人生の淋しさを慰め,それを通して,聖者や詩人が想像するヴィジョンの片鱗を見るのである。彼は4人の妻と,結婚にまで至らなかったモレル夫人を加えて少なくとも5人の女性を深く知った。もっとも96歳の長い人生にとっては,それも特に珍しいことではないかもしれないが,今日まで彼は自由恋愛の持論をまげていない。この『自叙伝』には4番目の妻イーディスにささげる詩が自筆から転写されている。知識に関しては,ピタゴラスが流転するものを超える数の力を獲得したことにあやかって,ラッセルも数理哲学に専念した。また彼は人間の孤独と貧困と苦痛とに対して戦い,ことに平和と核戦争については超人的な努力を続けていることは衆知のとおりである。
 ラッセルは'思春期'について,関心がセックスと宗教と数学の3つに分かれていたことを上げ,感情の生活と知性の生活について,自分の近親者たちから本当のことを知られないように懸命の努力をしたことを語っている。彼の祖父はイギリス教会に属していたのだが,祖母は長老教会員であって,晩年に至ってしだいにユニテリアン教会に変わっていった。ラッセルは15歳の頃までユニテリアンに属していたが,正統派のキリスト教義に対して組織的な検討を試みることにした。そのために彼は近親者たちを悲しませることを恐れ,また自分が神を愛することをやめねばならない場合がおこったら,どんなにか不幸になるであろうと考えた。彼は真面目に探求した。まず断念しなければならなかったのは自由意志であった。17歳にして彼は物質の運動は力学の法則によるものであって,意志は物体に影響を与えることはできないとの確信を持つに至った。彼はこの記録をギリシア文字を用いて,英語でしたためた。彼は肉体を一種の機械と考えたが,意識は否定できない与件であるから,純粋な唯物主義はありえないというデカルトに近い理論に到達した。しかし,18歳の時,ケンブリッジ大学に入学する少し前に,彼はミルの『自叙伝』のなかで,ミルの父が「誰がわたしを造ったか」という質問には解答できないという見解を述べているのを発見した。これによって彼は第一原因(神)を放棄せざるをえなくなった。彼はミルの経済学と論理学を熟読し,詳細なノートをとった。彼はまたトマス・力ーライルを読んでみたが,そのセンティメンタルな議論には耳をかさまかった。ラッセルは,エドワード・ギボンを読み,ジョナサン・スウィフトの『ガリヴァー旅行記』を読み,人間の正義感について考えさせられた。
 日記のなかから,ほんの2,3の例を上げて要約することにしよう――
(1888年4月18日)
 人間は死ぬものであって,自由意志にとぼしいという理論を認めるとするならば,正と偽との観念はどうして形成することができようか。これとほとんど同じことになるが,宿命というような不条理な教義を言い出すなら,良心はどうなるのかという人が多い。そのような人にとって良心とは神が直接に人間に植えつけたものだということになる。わたしの考えでは,われわれの良心は,先ず進化によるものであって,もちろん自己保存の本能を形成するのであろう。例えば原始道徳の例証として十戒を取り上げよう。その中の多くのものは,種の保存に最も適する共同社会の平穏な生活を助成する。それで最悪の犯罪とみなされ,最大の悔恨が感じられているのが殺人である。そしてそれは種の直接の破壊と感じられている。また,われわれの知っているとおり,ユダヤ人のなかでは,子沢山であることは神の恩恵に浴していると考えられており,他方子供のないことは神に呪われていると考えられている。またローマ人の間では未亡人は嫌われているようだ。どうしてこんな思想を持つようになったのであろうか。これはひたすらにこのような憐憫や嫌悪の対象が新しい人間を生成させないからである。人間が分別よくなったとき,そのような思想がどのように生成発展するかは容易に理解することができる。と言うのは,もし殺人や自殺がある種族のなかで珍しくないならば,そのような種族は滅びるであろうし,そのような行為を憎悪する種族は大きい特点を持つことになるであろうから……

 (1888年6月3日)

 わたしが承認することのできた原理やドグマがどんなに少ないかということは驚くべきことである。1つずつ,わたしはかつて信頼していた信仰が疑惑の谷にすべり込んでいくのを感じる。例えば真理を持つことは善いことであると,わたしは片時も疑わなかった。しかし,真理の探求がこの日記にしるしているような疑惑と不確実さとをもたらしたのであって,それに反して,もしわたしが教えられるままに今の教育を認め,満足していたのなら,わたしは気楽なことであっただろう。真理の追求は,わたしの古い信仰の大部分を粉砕し,そうしないでいたら無難であったであろうに,おそらくとよばれるほどのことをわたしに行なわせることになったのである。どう考えても,それがわたしをより幸福にしたとは思えない。もちろんそれは,わたしにもっと深い性格を与え,軽薄さをあなどり,冷笑に耐えさせたが,同時にそれはわたしから明朗さを失わせ,親友を作ることをますます困難にし,特に近親者との自由な交りを阻害し,近親者たちから自分の一番深い思想を全然隠すことになり,何か運悪くそれを表に出すことがあると,さっそく笑いの種にされて,相手に悪気はなかったにしても,わたしは苦々しい思いをした。このように,わたし個人の場合には真理の探究の結果は善いどころかむしろ悪くなった。しかしわたしが真理として認めている真理が,実は真理ではないのだと言われるかもしれないし,もし本当の真理を得たら,それによってわたしはもっと幸福になれるだろうと言われるかもしれないが,これは極めて疑問のある命題だ。それだから,わたしは真理の純粋な利益については大きな疑惑を持っている。確かに生物学の真理は人の人間観を低めることにたり,それは当然に苦痛なことだ。さらに真理は旧友を失わせ,新しい友人を作らせなくするが,これも悪だ。人は真理探究のこうした一連の事柄を殉教とみなすべきかもしれない。
 このように,彼は少年の頃から宗教を社会の生成発展と結びつけて考えたり,真理の探求が自分にもたらすところの思いがけない結果を見守ったのであった。

 

 この『自叙伝』の中の,もう1つの宗教的な記述は,1901年2月26日の夜,ラッセルの親友ホワイトヘッドの妻(右写真参照)の心臓病が急に悪化したときのラッセルの体験である。ホワイトヘッドは妻に献身的な愛を捧げたばかりでなく,彼女に依頼(依存)するところが大きかったので,彼女が死ぬようなことになれば,彼の研究の持続もあぶなかった。彼女は心臓が悪く,時々激しい苦痛におそわれていたのだが,その日はラッセル夫妻は友人のギルバート・マリー(Gilbert Murray, 1866-1957)のギリシア語からの英訳『ヒポリトス』(ユーリピディス原作)の一部を朗読してもらい,その詩を心から鑑賞して帰宅すると,当時同居していたホワイトヘッド夫人の病状の悪化を知って驚かされた。彼女は苦痛のために正常な人々の世界から遮断されてしまったようであった。彼は人間の霊魂が他の人々から孤立しなければならない淋しさをひしひしと感じた。
 アリスとの結婚以来,ラッセルは感情生活の静けさを獲得し,人生の深い問題のすべてを忘れ,機知に富んだ皮肉さで得意であったのである。ラッセルは急に大地が足もとからぐらつくような思いがした。それから,5分間以内に彼は次のような反省を行なったのである。人間の霊魂の孤独は耐え難いことであり,宗教の師祖が説いた最高の強烈な愛によってのみ耐えることができるのであって,この愛の動機からほとばしるもの以外は有害で,精々無益なものであるとの決論に達したのである。それゆえに戦争は間違っており,公立中学教育(松下注:ここではもちろん英国のパブリック・スクールでの教育のこと)は鼻持ちならず,暴力は非難され,人間関係において各自は孤独中核に達し,それに語りかけるべきであることに思い至った。
 ホワイトヘッドの3歳になる末の男の子が部屋にいた。それまで,お互いは相手の存在を気にとめていなかったが,子供が彼女の苦痛の最中にむずがらないようにする必要があった。ラッセルは彼の手をひいて部屋を出た。子供はラッセルにすなおについて来た。その日から1918年の第1次大戦によるこの青年の死に至るまで,2人は親友となった。
 この5分間の経験のあとで,ラッセルはすっかり別人になった。彼は一種の神秘的な啓示を体験したのである。彼は路上の人々の奥深い思想に触れえたような気がした。もちろんそれは錯覚であったかもしれないが,それ以来彼は,友人や知己に対してはるかに親密感を増し,帝国主義者であった彼は,5分間の体験を通して,アフリカで問題となっていたボア人に味方し,平和主義者と化したのである永年,正確さと分析のみに専心していた彼は,美についても半ば神秘的な感じを持つようになり,子供に強い興味を持ち,人間生活を耐えられるものとする哲学を見いだそうと,仏陀のように深淵な希望をもつに至ったのである。彼は不思議な興奮にとらえられ,強烈な苦痛に耐え,それを知恵への関門としたのである。当時彼が体得したと想像した神秘的洞察力は大部分色あせたけれども,あの瞬間彼に見えたと思ったところのヴィジョンはいつまでも彼の心に残って,それが第1次大戦中の彼の態度を決定させ,子供に対する興味を持たせ,些細な不幸に驚かず,人間関係における温かい態度を維持させるに至ったのである。彼の有名な『自由人の信仰』(著者注:A Free Man's Worhship, 1923/松下注:1902年に執筆され,Independent Review 誌 の1903年12月号に初めて発表されている。左記の著者注で1923年とあるが,Thomas Bird Mosher 社から小冊子で1923年に出版されているので,その出版年をここでは書いておられると思われる。)が書かれたのは,アリスとの関係が円滑さを欠いて,孤独な生活をしていた頃の作であった(松下注:1901年の秋,突如として,もはやアリスを愛していないことに気付き,その事実をアリスにかくしておけず告白)。散文のリズムを駆使することは,当時彼の唯一の楽しみであった。
 ついでに,ラッセルのホワイトヘッドについての感想を記しておくことも無益ではあるまい。共著の大作『プリンキピア・マテマティカ』を書いた数年間,ホワイトヘッドとラッセルの関係は困難で,しかも複雑なものであった。ホワイトヘッドの外見は,静かで,合理的で,分別がよさそうであったが,彼をよく知っている者にとって,それは表面だけのものであった。彼は自制力の強い人にありがちな,異常なまでに強い衝動の持主であった。夫人と結婚するまで,彼はカトリック教徒になる決心をしていたのであるが,彼女との恋愛によって,最後に断念したほどであった。彼は自分の収入が十分でないという考えに異常なまで執着した。そしてそれに対処した彼の態度は正常ではなかった。自分の収入が足らないことを確認するために彼は無鉄砲な買い物をした。彼はひっきりなしに自分を責めては独りごとをつぶやき,夫人と召使いたちを驚かせた。また数日家人と口をきかないこともあった。夫人は彼がいつ気が狂うかと心配した。しかしラッセルは今日ふりかえってみて,その心配はむしろ夫人のメロドラマティクな性格から出たものだと考えている。しかし危険が全然なかった訳ではなく,ラッセルは夫人に協力して彼の安泰を確保することに努めた。とにかく,ホワイトヘッドの研究に対する努力はすさまじいもので,彼の自制力は超人的であった。ケンブリッジの商人からは,ホワイトヘッドヘ多額の請求書が幾通も送られてきたが,家には支払う金が少しもないことで夫人はしばしば悩んだ。そのつど,ラッセルはこっそり夫人に金を提供したのであるが,親友に対するこのような態度を心苦しく思っていた。ラッセルはこの点については,1952年まで公表したことはなかった。ホワイトヘッドは,1947年に死んだのである。
 ラッセルのケンブリッジにおける生活で,哲学の上で彼に直接関係のあった人は,G.E.ムーア(注:George Edward Moore,G.E. Moore,1873年11月4日-1958年10月24日)であった。ムーアは彼より2歳若かったけれども(松下注:ムーアは1873年生まれで,ラッセルより1歳年下),ラッセルをへーゲルから独自の立場に立ちなおらせたのは,ほかならぬムーアであった。1949年にラッセルはメリット勲章をジョージ6世から授与されたが,その時国王は「聞くところによれば,あなたはなかなか冒険的な生活をされたようだが,皆がそのような生活をしたら困ることになるだろうね」と語られたのに対し,ラッセルは「そうです,ウインザー公のように」と喉まで出て来た答えをおし殺したという。後にムーアが同じ叙勲のとき,ラッセルに言及したところ,国王は「あの,妙な顔をした人のことね」と答えられただけであったという。
 しかし今度の『自叙伝』のケンブリッジの章における出色の描写といえば,親友でもあり,ラッセルの法律上の顧問を買って出たクロムプトン・デイヴィス(Crompton Davis:右写真最上段左)に関する所であろう。アイルランド人で,後にインド政庁と外交交渉を行なったこの法律家は,生まれながらの自由人であった。暗いケンブリッジ大学の階段を,詩人ブレークの「タイガー,タイガー」の詩を朗読しながら登って行くこの青年に,当時ブレークに親しんだこともなかったラッセルは驚異の目をみはった。クロムプトンは,公私上下の別なく,丁重な言葉で,無雑作な服装をして,万人に対した。後年,彼がステッキを持ち,帽子を後頭部にかぶって,ロンドンの賑やかな街路を横ぎるときには,自動車も人も立ち止まって彼が通り過ぎるのを待ったという。公園の巡査は,彼に丁重な言葉で話しかけられて困惑したという。彼は気どった服装が嫌いで,ズボンの折目などは滅多に立っていなかったという。弟のシオドールが溺死したとき,ラッセルはクロムプトンの精神的な打撃を案じて,そばから離れなかったという。個性の強い2人の親友の長い交わりが,この『自叙伝』の中で躍如として描き出されていることを再び指摘しておきたい。

 

 われわれは『記憶による肖像』が『自叙伝』の素描であったことを指摘したが,彼の思想的な遍歴についても『わたしの哲学的発展』(My Philosophical Development, 1959)があることもここで指摘しておきたい。ラッセルはこのはしがきで,アラン・ウッドの伝記に言及し,その本が,まだ彼の思想の半ばで書かれているために,この著述を行なったことが記されている。
 とまれ,『自叙伝』第1巻の出版によって,われわれは,ラッセルが彼の生涯における3つの大きな情熱によって行動したことを明らかにしたことは,注目すべき点であって,再びそれを認識することは徒労ではあるまい――愛に憧れる心,知識の探究,人類の受難に対するおさえがたい同情がそれである。そして今,われわれが彼の宗教を論ずるにあたっても,この3つの情熱が,そこに働いていることを忘れてはならない。
 そこでわれわれは『わたしはなぜキリスト教徒でないか』(Why I am not a Christian, 1927)を中心にラッセルの宗教論を試みることになるが,大げさに言えば,1世紀近くも前に生まれたラッセルの宗教論をするにあたって,彼がどんな時代に生まれたのかという点に言及しておくべきであろう。イギリスの人類学者ジェフリー・ゴーラ(Jeoffrey Gorer, 1905--)は,その名著『マルキ・ド・サド-その生涯と思想』(The Life and Ideas of Marquis de Sade, 1934)の中で,次のように言っている。
「今日では,19世紀の中葉まで,あらゆる思想の分野に対して,宗教がその(それらの思想の)首を絞めあげていた実状を想像することは困難である。今では,大抵の国々で宗教はひどく守勢であり,'度量が大きく'丁重で,つつましいから,ダーウィンがあらゆる教会の説教壇から攻撃され,へーゲルが異端者として公然と非難された時代に,われわれの頭を振り向けることは,ほとんど不可能である。合衆国のバイブル地帯やアイルランドやスペインでの同様な行為が,今では最も敬虔な教会の信者たちからさえも,苦笑され,慨嘆されている有様である…・・・」(マルキ・ド・サド』p.100,大竹訳,荒地出版社,1966年刊)
 このような雰囲気のなかで,こうした歴史的な事実を,16~18歳の頃,深刻に感じながらラッセルは前述のとおり克明にギリシア文字で書いた英文日記をつけ,ミルやギボンやスウィフトの考えにヒントを得て,神の存在に疑惑を持ちながら成長したのである。引用されたゴーラの一節に似た感想を,ラッセル自身は『記憶による肖像』の冒頭で述べているし,もっと詳細には「トマス・ペイン」の稿で述べているが,それはやがて本論にはいってから述べることにしよう。
 また,彼の孤独な少年時代の教育において,彼は宗教的薫陶を受けることに欠けていたのではないかという世間の憶測もあるが,決してそうではなかった。という事実は,彼の祖母との生活をラッセルの伝記の中でたどってみれば,おのずからわかることである
 むしろ,問題は,彼の性格が極めて自恃の精神に富んだ,旺盛なものであるため,いわゆる宗教的雰囲気にとぼしく,およそ,「神にすがる」とか,「救われた者の法悦」とかいう言葉とは,縁遠いものであることである。また父の代からの民主主義的な生活態度によって育まれた彼が,性格的に,描かれたイエスに対して示した不満も,そのへんから生ずるのであって,『わたしはなぜキリスト教徒でないか』(以下『なぜキリスト教徒でないか』と略す/松下注:邦訳書のタイトルは,『宗教は必要か』)の花火のように華々しく,時として奇矯なまでに激しい風刺と皮肉もそこから生じて来るのである。ラッセルの学説は何回か変わったが,彼の手法は変わらなかったと言われている。彼の宗教論もその懐疑論の性質上,個人の価値が重要なものになったり,はなはだ頼りないものになりはしたが,最近の『武器なき勝利』(Unarmed Victory, 1963)に至る一連の平和運動に関する著作に見られるとおり,「オッカムの剃刀」こそは彼が最後のよりどころとして,終始不動のものとして守ったものであり,そこから彼の科学的な人生観,懐疑論も組み立てられているのであって,齢90の坂を越えた彼がいまだに若々しさを失わないのも,その燃え上がる情熱と信念とによるのである。まさに知識の探究と人間の受難を見すごすことのできない性格のたまものである。
 彼が宗教,ことにキリスト教に対してぶちまけたエッセイの数々は,なるほど,神学者たちやT.S.エリオットのような詩人が考えるように,外部からの否定的な観察にすぎないのかもしれない。しかし,前述の1901年2月,ホワイトヘッド夫人の心臓病悪化に際しての神秘的経験はまさしく内部からの経験であって,ラッセルがそのような経験にとぼしい人物であるとはもはや言えなくなったと考えるべきであろう。彼の哲学史,ことに政治思想に関連しての宗教の観察によれば,教会は大事な時に強権の味方になりがちな傾向を持ち,今日教会が独自の使命のように言いふらしている幾つかの問題は,実は科学の進歩によってしだいにほぐれてきたものであり,やがて科学の知性によって解消されていくべきものであるという彼の持論は一貫している。この大筋は,『なぜキリスト教徒でないか』に集められた初期のエッセイの時代から,『宗教から科学へ』(Religion and Science, 1935 荒地出版社刊)を経て,最近のワイアットとの対談『バートランド・ラッセル本心を語る』(B. Russell Speaks His Mind, 1961)の第2章にまで及んでいるのである。

 

 1876年,父の死によって,バートランド・ラッセルは,兄のフランクと共に孤児となり,祖父母によって,ロンドンの南方,サリー州,リッチモンドにあるヴィクトリア女王より賜わった「ペンブローク・ロッジ(Pembroke Lodge)」に引き取られた。1878年祖父の死後,2人は専ら祖母のもとで教育された。女王のもとで2回も首相をつとめた祖父の妻であったこの祖母は,スコットランドの長老教会に属する一門の出で,最後まで,ピューリタンの峻厳な一面を持った婦人であって,ラッセルの少年時代の生活は質実剛健なものであった。
 家族と召使いは毎朝8時,祈祷のために集合した。召使いは8名もいたが,食事は簡素なもので,子供たちにはお客用のアップル・タルトは与えられなかった。酒や煙草は禁じられていて,ブドウ酒はお客にだけふるまわれた。1年を通して彼は,冷水浴をさせられ,朝食前の半時間,彼はピアノの練習をさせられた。数学と哲学とがおもな学問であったが,彼は道徳の内容を含まない数学を好むようになった。他の子供たちと同様,彼は台所で女中の目をかすめては好きなものを得た。たいていの子供が,砂糖の塊をぬすむのに反して,ラッセルは塩の塊が好きであったと『自叙伝』には記されている。
 祖母は新教のスコットランド人らしく,有用でたくましい生活をモットーとした。神に対して個人的な責任を持つという新教の思想が彼女の信念であった。今日でもラッセルは,12歳の時,祖母に与えられたバイブルを持っているが「汝悪を成さんがため,群集に従うなかれ」と記された祖母のテクストが,今日,大事な行動を取るとき,なおも教訓となっているとのことである。
 70歳を越えて,彼女は三位一体の教義にがまんできず,ユニテリアン教会に転じた。祖母は,老齢においてなお,この最も知的に自由な宗教に転じた訳ではあったが,政治思想においてはさらに急進的で,アイルランドの自治政策に賛成で,その過激な愛国運動に関係しているとみなされていた国会議員たちとも交友があったといわれている。
 そこで,われわれは『なぜキリスト教徒でないか』をテクストとして,彼の宗教論をたどってみることにしたいと思う。――
「18歳のある日,わたしはジョン・スチュアート・ミルの自叙伝を読んだのです。ところが,その中で,わたしは次の文章を発見しました。「わたしの父は,'誰がわたしを造ったか'という問題は答えられない,ということをわたしに教えた。なぜならば,その問題は,たちどころに,「誰が神を造ったか」という,さらにもう1つの問題を暗示するからである。」 その極めて簡単な文章が,今でもそう思うのですが,第1原因による証明法の誤謬をわたしに明示したのであります。もしあらゆるものが原因を持たねばならないとするならば,そのときは,神にも原因がなければなりません。もし原因なしに何かが存在することができるとするならば,神と同じように,「世界」であってもよいことになりましょう。そうなると,その議論には,なんの妥当さもありえないことになります。それは,まったく例のインド人の意見と同じであります。それによりますと,世界は1匹の象の上にあり,その象は1匹の亀の上にあるというのです。ところで『亀はどうなんですか』と聞かれたとき,そのインド人は,'話題を変えられたらどんなものでしょう'と言ったということです」
 

 ラッセルはこのように第1原因による証明法の誤謬を早くから発見していたのであるが,さらに性格的にキリストの人柄について批判的である。
「わたしの考えでは,キリストの道徳的性格には1つの'重大な欠点'があります。それは彼が地獄を信じていたということです。真に深く人間味のある人ならば,永遠の罰というものを信じることはできないという気がいたします。福音書に描かれているキリストは,確かに永遠の罰を信じていたし,彼の説教に耳を傾けようとしない人々に対して報復的な憤激の反復されているのを発見するのであります――これは説教者には珍しくない態度ではありますが,たしかに至高の立派さからは,多少おちるのであります。たとえば,ソクラテスにはそのような態度は見られません。彼が自分の意見に耳を傾けようとしない人々に対しても,極めて愛想がよく思いやりがあるのがわかります。そしてわたしの考えでは,憤慨の線にそうより,その線にそっていくことが,聖人にははるかにふさわしいものであります・・・
 福音書の中で,キリストがこう言っているのを発見なさるでしょう。『なんじら蛇どもよ,さそりのともがらよ,いかにして地獄の呪いをのがるべけんや』 それは彼の説教を好まなかった人々に向かって言われたのです。それは実際,わたしの考えでは最善の語調とは言えません。……もちろん,聖霊に対する罪については,よく知られているテクストがあります――『聖霊にさからいて語るものは,この世においても,来世においても許されざるべし』 そのテクストは,世の中に言いつくされないほどの惨めさを引き起こしました。というのは,種々雑多な人々が聖霊に対する罪を犯したと想像し,この世においても来世においても許されないだろうと考えたからです……「イチジクについてどんなことが起こったかは,ご記憶のことと存じます。『彼(イエス)飢えたまう。路の傍なるひともとのイチジクの樹を見て,そのもとに至りたまいしに,葉の外になにも見いださず。まだイチジクの季節にあらざればなり。これに向かいて『今よりのち,いつまでも汝の果を食うものあらざるべし』と言いたまう……」 そしてペテロが彼に言うには「主よ,汝の呪いし,イチジクのたちどころに枯るるを見たまえ」
 これは極めて奇妙な話です。なぜならば,それはイチジクのみのる季節ではなかったのであって,樹を呪うことは,実際できないからです……
 

 前述の「自由人の信仰」は,1903年に「インディペンデント・レビュー」誌に掲載したもので,後に『神秘主義と論理』(Mysticism and Logic and Other Essays, 1918)の中に集録されたものであるが,1965年の夏,オハイオ・ステイト大学に近い古本屋で『なぜキリスト教徒でないか』のアメリカ版を発見し,このエッセイがそれに集録されているのを知り,結果的には,荒地出版社の『宗教は必要か』と同じ編集となっていたことに驚いた。
 1927年,当時アメリカで流行していた「リッル・ブルー・ブック」(little blue book)双書677(E.ホールドマン=ジュールズ編集)には,ラッセル自身によるこのエッセイに対する貴重な感想が巻頭にかかげてあるので重要な点を抄録すれば(『宗教は必要か』p.132参照)次のとおりである。
「根本的には,宇宙における人間についての,わたしの見解は今も同じである……しかし,もし今日わたしが書いているのだとしたら,多少,修正したいと思う2つの点がある。これらのうち,第1は唯物論に関するものであって,第2は善悪の概念の範囲に関するものである….
 唯物論に関して言えば,このエッセイに表現された見解は大体において唯物主義的なものとみなされることであろう。しかし形而上学的に言えば,わたしは決して物質の実在を信じているのではない。わたしは,物質というものを日常の目的にとって便利な,しかも物理法則の大体の記述のための論理的講成であるとみなしているにすぎない。普通考えられているところでは,物質は持続し,力を及ぼすはずになっているが,相対性原理の物理学によれば,終局的に存在するのは,過ぎ行く出来事の世界であって,これはある法則によって共存し,相互に継続するのである。恒久的な物量というものがあるのではなく,「力」と呼ばれるような実体があるのでもない。この理由からして,物質を持続するとみなすことは,個人的な精神が持続するとみなすのと同様,想像的な誤謬である……
 わたしが,このエッセイを書いた当時,わたしは善とか悪とかがいわゆる『客観的』なものであると信じていた。すなわち,ある人があることを,その結果においてだけでなく,それ自身において,善だと判断し,その一方他の人が,それ自身において悪だと判断したならば,2人のうちどちらかが間違っていなければならないと信じていたためである。今や,わたしは善と悪とは,いわゆる『主観的』なものであると信じている。しかしこのことの実際に及ぼす影響は,想像されるほどには違ってこない……」
 この「自由人の信仰」は前述のとおり,彼が妻と離れ,孤独のなかで散文のリズムに唯一のよろこびを感じていた頃の作品で,ラッセルの宗教論のなかでは,珍しく詩的ですらあるほどに格調の高いものであって,彼の若い時代の1つの記念碑である(松下注:1902年の冬,ラッセルとアリスはクリスマスをイタリアの I Tatti にある Bernard Berenson の家で過ごしたが,ラッセルはそこで A Free man's worship の大部分を執筆している。したがって,「彼が妻と離れ,孤独の中で・・・」というのは大竹氏の誤解)
「外部から見れば,人間の生命は,自然の力に比較したら小さなものである。奴隷は,『時間』『宿命』『死』を礼拝するように運命づけられている。なぜなら,それらのものは,彼が自分自身の内に見出すなによりも,もっと偉大であり,彼の思想のすべては,それらのものが滅してしまう代物だからである。しかし,それらのものが偉大であるとしても,それらのものについての考え方が偉大であり,それらのものの非情の壮観を感ずるということは,もっと偉大である。そして,そのような思想は,われわれを自由人にさせるのである。われわれは,もはや必然の前に,東洋風の服従によって頭をさげることをしないで,われわれはそれを吸収し,それをわれわれ自身の一部分にするのである。個人的な幸福のための努力を放棄し,一時的な欲望に対する熱意のすべてを追放し,永遠なものに対する情熱に燃えること――これが解放であり,これが自由人の信仰である。そしてこの解放は宿命について瞑想することによって行なわれる。なぜならば,宿命そのものは,時の浄火によって清められねばならぬようなものを何も残さない精神によって征服されるからである。・・・
 あらゆる絆のうちで最も強い,共通の宿命の絆によって同胞と結合された自由人は,新しい視野が常に自分と共にあって,あらゆる日常の仕事に愛の光をそそぐことを発見する。人間の一生は夜を徹して長い路を行くようなもので,目に見えない敵にとりまかれ,疲労と苦悩に悩まされながら,小数の者しか到達できず,なにびとも長くそこにとどまることのできない目的地に向けて進むのである。人々が進んで行くにつれ,ひとりずつ,われわれの同志は,全能の死の暗黙の命令にとらえられ,われわれの視野から消えていく。われわれが同志を助けることのできるのは,ほんのつかの間で,そのあいだに,彼らの幸福か不幸はきまるのである。彼らの行くてに陽光をそそぎ,彼らの悲しみを,同情の慰めによって軽くし,不断の愛情の純粋な悦びを与え,衰える勇気を力づけ,絶望の時に信念をつぎこむことが,われわれの生涯でありたいものである。・・・
 人間の一生は短く,無力である。彼と,すべての人類のうえに,ゆるやかではあるが確実な宿命が無惨に暗く落ちてくる。善悪に盲目で,破壊には無頓着に,全能の物質は,その残酷な道を回転して行く。今日は最愛のものを失うように運命づけられ,明日はわが身も暗黒の扉を通らねばならない人間にとっては,いまだ打撃がふりかかってこないうちに,彼の短い一生を高邁なものにするところの高雅な思想をいだき,宿命の奴隷の臆病な恐怖を潔しとしないで,自分の手で築いた殿堂で礼拝し,偶然性の帝国に恐れることなく,外部の世界を支配する気まぐれな専制から解放された精神を維持し,人間の知識と非難とを,しばらくの間,認容する不可抗力に誇らかに挑戦して,疲労はしているが,不屈のアトラスのように,非情の力の乱暴な行進にもかかわらず,彼自身の理想が築きあげた世界を独力で支えることが,これからの仕事として残っているのみである」
 今日,われわれは『自叙伝』によって,「今日は最愛のものを失うように運命づけられ,明日はわが身も暗黒の扉を通らねばならない人間にとっては云々」の一節が,リズムに酔った修辞学的な名文だけのものではなくて,クエーカー信者として,また婦人参政権主張者として,さらに彼の若い頃の配偶者として立派な夫人であったアリスに対する愛惜の念をこめたものであるような気がしてくるのである。
 かくしてラッセルは,悲劇的な,しかも勇敢な人間主義を提唱する。われわれは,ここで,『幸福論』(The Conquest of Happiness, 1930)の終わりから2番目の章を忘れることができない。幸福がかちとらるべきものである限り,ひたむきな努力は必要である。しかし,それがすべてではなく,諦観も必要となる。ラッセルは諦めには2つあって,1つは絶望の諦めであり,他は不撓不屈の希望に起因するという。諦観とは,最後の結果は宿命にゆだねるとしても,最善の努力をなすことであると彼は言う。さらに彼は,諦観とほ,われわれについての真実に直面することであると言う。彼は努力と諦観との中庸を望むというが,彼の言うところを東洋的に表現しなおすなら,努力が諦めとなり,諦めが努力となる境地を開拓することであろう。ここで,この解説の初めのところで約束しておいたトマス・ペインのことに触れておくことにしよう。ラッセルば,この時代に先んじて生まれ,同時代の人々に理解されず,悲劇的に淋しく死んでいったペインを取り上げて言う。
「公共事業――1775年の彼の奴隷制度反対に参加した当初から,彼の死亡の日まで,彼は徹頭徹尾,自分の政党と反対党とを問わず,あらゆる形式の残酷さに抗議した。当時イギリス政府は苛酷な寡頭政治であって,極貧階級の生活水準を低下させる手段として,議会を利用していた。ペインはこのいまわしさの唯一の改善策として政治的な改革を提唱したが,そのため命からがら逃亡しなければならなかった。フランスにあっては,不必要な流血に反対したため,彼は投獄され,すんでのことで殺されるところであった。アメリカにおいては,奴隷制度に反対し,独立宣言の原則を支持したため,彼が政府の支持を最も必要とした時には,政府によって見離された。もし彼が主張し,今日多くの人々が信じているように,真の宗教は『正義を行ない,仁慈を愛し,同胞を幸福にすることである』ならば,彼の反対者たちのなかには,彼に劣らず宗教的な人とみなされる資格を持つ者はひとりもなかったのである。……今日では,イギリス教会の大主教でもいだくような意見であった。・・・。圧迫された者たちへのこれらのチャンピオンのすべてにとって,彼は勇気,人間味,誠実の模範をかかげた。公共の問題が,からまってくると,彼は個人的な慎重さを忘れた。そのような場合の例にもれず,世界は彼が利己主義を持たなかったために,彼を罰したのである…」
 『なぜキリスト教徒でないか』のペインの1章は,1934年に発表されたものであるが,この宿命の革命家に対するラッセルの態度は,理解と共感にみちた名編であって,おそらく本国やアメリカで経験した彼の苦い体験から,情熱的に描き出されたものであった。

 

 宗教について,ウッドロー・ワイアット(Woodrow Wyatt)とラッセルとのテレビ・インタヴュー(後に『ラッセル本心を語る』の第2章となる)の最後の質問は次のとおりである。
「あなたとわたしが死ぬとき,お互いは完全に吹き消されてしまうとお考えになりますか」
 ラッセルはこれに答えて
「それは確かにそうですとも。そうでないという理由はわたしにはわかりません。肉体が崩壊することをわたしは知っています。それに,わたしの考えでは,肉体が崩壊した時,精神が存続すると想像すべき理由は1つもありません。」
 これは完全に科学者の答えである。しかし,われわれは,すでに彼がそのことに対してどのような諦観を持っているかは,「自由人の信仰」から引用した最後の部分で,十分に彼の意味するところを知ることができるのである。
 1965年の初夏,わたしはハーヴァード大学に近いある本屋で,ラッセルの『懐疑する意志』(The Will to Doubt, 1958)と題する小さな本を求めた。宿舎に帰って扉を見ると,それは哲学双書出版社(Philosophical Library Inc.)が3冊の本から取って編集した抜粋集であることがわかった。8編は『無為の奨め』(In Praise of Idleness and Other Essays, 1935)から取ったものであり,4編は『懐疑的論文』(Sceptical Essays, 1928)から取ったもので,そのうち3編は,再び『国民をして考えさせよ』(Let the People Think, 1961)に集録されたものであった。時代的には両世界大戦の中間の頃で,ファシズムに対してラッセルが驚告した頃の作品集である。わたしは,これらの作品を熟読することが,宗教論を直接に読む前の準備としては適当なものと思う。さらに,版権の交渉に手おくれがあって,全訳完了の後で日の目を見なかった拙訳『人類には未来があるか』(Has Man a Future? 1961)の1節を引用して,ラッセルの比較的最近の予言者的風貌を想像してみよう。
「このいくらか暗鬱な1章(軍備縮少)をしめくくって見るならば,われわれは,憎しみ,破壊兵器に費やされる時と金と知的能力,お互いに何をしているのかという恐怖,人間がこれまでに獲得したすべてのものの最後という,日ごと,時間ごとに差し迫っている危険――こういったものを認識しなければならない。それは宿命の宣告ではない。それは何か自然の条件というものによって課せられたものではないのだ。それは人間の精神からほとばしり出る悪であって,昔ながらの残酷さや迷信に根ざしたもので,遠い時代の未開人の群れにふさわしいものではあろうけれども,われわれの時代では,まず幸福を破壊するものである。この地獄を天国に変えるには,ただ1つのことが必要である。それはソ連側も西ヨーロッパ側も,ともに,お互いに憎しみあい,恐れあうことをやめることであり,一緒に働く意志さえあれば,享有できる共通の幸福があることを認識すべきであるということである。悪が存在するのは,われわれの心の内にであって,むしろそれがむしり取られねばならないのも,われわれの心の内からである。」
 それからもう7年の歳月が流れて,米ソの関係が好転したと思っている間に,中国とソ連,中国とアメリカとの関係は新しい緊張を見せ,アラブ連邦とイスラエル,アメリカとヴェトナムの情勢はますます複雑化し,緊迫していく傾向にあり,当時のラッセルの精神は今日なお傾聴に値するものであることに変わりはない。彼は言う。
「わたしは,暗澹たる時期(1961年7月)にペンを取っており,わたしの書いたものが出版されるまで,人類が生きながらえるか,また,出版されても,読めるまで生存できるかどうかわからない。しかしまだ希望は可能であって,希望が可能であるかぎり,絶望することは卑怯者のすることである」
 「ラッセル裁判」をはじめ,彼についての最近のニューズによれば,やや病身のラッセルが,周囲に集まるいろいろな人々について,その人が共産党であろうとなかろうと,無政府主義者であろうと,外部の付度にはいっさいおかまいなく,あらゆる機会をとらえて平和問題についての自分の所信を披瀝している姿が伝えられている。ラッセルの貴族主義と民主主義はここに渾然として,彼独特の毅然たる個性にまで生成発展したのである。ラッセルこそは懐疑者のごとく思索し,信者のごとく行動する近代人の典型である