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バートランド・ラッセル『西洋哲学史』(3分冊版)下巻への訳者(市井三郎)あとがき

* 出典:バートランド・ラッセル(著),市井三郎(訳)『西洋哲学史-古代より現代にいたる政治的・社会的諸条件との関連における哲学史』(3分冊版: みすず書房,1954年12月~1956年1月)
* 原著:A History of Western Philosophy, 1945.
* (故)市井三郎氏略歴

* (上中下3分冊版)上巻あとがき (3分冊版)中巻あとがき

(上中下3分冊版)下巻への訳者あとがき(1955年4月20日)

 この下巻で、B. Russell, A History of Western Philosophy, の全訳は終った。

 一、固有名詞など原著にできるだけ近いカナ書きとしたのは前巻までと同じだが、例えば国名など慣用に従い、また普通「イギリス」という場合、スコットランドや北アイルランドまで含めた意味で用いるために、そのような合併がおこなわれる以前、あるいは以後でも特に合併前の地域を指している場合には、「イングランド」という名をそのまま用いたりした
 二、註の扱いも前巻までと同じだが、訳註はやはり相当な数(340)を本文中に挿入する必要を感じた。
 三、本巻を校正しながら改めて痛感したが、漢字の用い方には訳者自身少なからず不満である。やはり一貫して略字と容易な当て字の使用をもつと大はばに断行すべきであった。重ねて寛容をお願いしたい。
 四、本巻の索引も、やはり本巻に出てくる場合だけのものであるから、その点注意されたい。原著者の「まえがき」にあるように、1人の著者が西洋哲学の歴史全体をまとめる意義は、部分的な集中的研究では見失われがちな長期間にわたる思想の関連、というものを考え出すことにあるわけで、例えばプラグマティズムについて索引を引かれる場合にも、この下巻だけでなく、上巻から引いてみられることを希望する。ラッセルは時代を越えて、あらゆる箇所で関連ある思想を縦横に対照しているからである

 さて前巻の「あとがき」では、社会的哲学史としての本書の方法を、訳者の見地から要約しておいた。ここでは別の角度から、本書の特徴について私見を述べたい。哲学者の選択やとり扱いについては、もちろんラッセルの個性が出ているわけだが、ドイツ観念論に対するこの程度の選択は、イギリス経験論者の間では新奇でもなんでもないのであって、カントやへーゲルなどに割かれたページ数から云えば、むしろラッセルはそれほど「正統性」から逸脱しているとはいえないのである。訳者が強調したい点は、別のことにある。つまりラッセルがわが国の哲学界から見てことのほか個性的である点は、各哲人に割かれたページ数の半分近くが、それぞれの哲人に対する批判に費されていることなのである。小説の個人的な上手下手とは別に、例えば18世紀の小説より今世紀の小説が「進歩」している、あるいはしなければならない、というような議論には承服しないひとびとがおびただしくいてもいいであろう。しかしながら、科学が進歩するようには文学は進歩しない、というのと同じような意味で、哲学も進歩しない、あるいはしなくていい、と考えているひとびとも多くいるのではなかろうか? 小説は芸術制作の1種類であって、哲学は1つの学問である、というわかりきった相違は意識しながら、学問であれば単なる好悪を越えて妥当性の検討がなされねばならず、その検討がなされれば進歩がなされねばならない、というこれまたわかりきった結論が、事大主義や権威主義の前にボカされてきてはいないだろうか? ラッセルは本書を通じて、そのような権威主義に対する反逆をめざましく展開しているのだ。
 しかしラッセルは、いうまでもなく哲学の異なれる2部分、というものに然るべき考慮を払っている。非個人的な議論によって妥当性の検討がなされ得る部分と、そうでない価値感に関する部分とである。後者に関する限り、他人への批判は、みずからの価値感を「文学的に」説得すること以外にないのであって、ラッセルは例えばニーチェ哲学の批判を、仏陀対ニ一チェの架空会見記を創作することによってしか、果し得なかったわけだ。
 右のようなラッセルの批判に、読者の方々が同意されるか否か、ということはまた別の問題になろう。訳者であるわたし自身、原著者と重要な点で意見を異にすることは若干ある。しかしそのような個々の相違よりも、哲学に対する以上のような基本的姿勢こそ、わが国の読者の方々に他山の石として頂きたいことなのである。ラッセルの描く哲人はみな活きている(残念ながらベルクソンの章は例外となろう)。ライプニッツの迎合的な俗人根性を皮肉る行文に、わたしはそのような人間的洞察を可能にしたラッセル自身の闘いの歴史を感じざるを得なかった。ライプニッッのこびへつらった王侯や権力、それと闘かって投獄も辞さなかったラッセル、思想家としてのそのような経歴が、さまざまな哲人を活写させたのであり、そのような熱情をテコとしつつ、可能な限り感情を混じえない批判に向かう姿に、わたしは敬意を表したい。
 その批判の内容に封して、わたしがさらに意見を述べることはここでは控えたいが、前巻からお約束した原著者のマルクシズム観についてだけ、若干ぜい言をつけ加えておこうと思う。確かにラッセルは、一見すればひどく矛盾しているようなコトバを、マルクス主義に関連して述べている。例えばルソーの「社会契約論」を評して、次のような行文がある。「この著作に述べられた哲学の多くは、へーゲルによつてプロシャの専制政治を擁護するのに利用され得たのである。実践におけるその著作の最初の結実は、ロベスピエールの支配であった。またロシアとドイツ(ことに後者)の独裁制は、部分的にはルソーの教えの帰結である。」(pp.1770178、傍点訳者、以下同じ。)さらに次のようなコトバもある。「大ざつぱないい方だが、アリストテレスにいたるまでのギリシャ哲學は都市国家に適した心性を表現していて、ストア主義は国際的専制政治に適当するものであり、…デカルト以来の、あるいはとにかくロック以降の哲学は、中産商人階級の諸偏見を具現する傾きを持ち、マルクス主義とファシズムは、近代の産業国家に適した諸哲学であるといってもよいであろう。」(p.261-262)このような行文は、まるでラッセルが、マルクス主義とファシズムの哲学とを同一視しているかのような印象を与えるのである。しかし他の箇所で彼は、それらとは正反対に次のようなことをいう。「近代ヨーロッパとアメリカとは、政治的、イデオロギー的に3つの陣営にわかれてしまった。現在もまだ、できる限りロックあるいはベンサムに従ってはいるが、産業組織の諸必要にさまざまに異なる程度で適応している自由主義者たちがいるし、またロシアでは政府を牛耳り、他のさまざまな国においてもますます勢力を伸長させる可能性のあるマルクス主義者たちがいる。これら2党派の意見は、哲学的には非常に異なっているわけではなく、両方とも合理主義的であり、また両方ともその意図において科学的であり経験的である。…政治的にナチスやファシスト党によって代表されるところの、近代的見解の第3の党派は、哲学的に見れば他の2つが相互に異なっている以上に、それら2つとははるかに根本的に異なっている。それは反合理的であり、反科学的な党派である。」(pp.265-266)
 このような調子でラッセルは、いたるところで左右両派から誤解される種をみずからまいている。アメリカの進歩的哲学者J.サマヴィルが、本原書刊行直後に公開状でラッセルに指摘したように、確かにラッセルはこの点で不用意なコトバ使いを多くしている。本書の哲学史の見方が唯物史観から重要な真理を学んでいる、ということを明らかに認めた直後に、当の唯物史観に批判を向けるというようなことは、帰依的態度でマルクス主義に対するひとびとの神経を刺激するであろう。しかしどのような思想に対しても、この点で賛成でこの点では承服できない、ということを明言し得る習性を持つひとびとには、ラッセルの態度は了解し得るものなのである

 わたしはこれ以上、弁護的なコトバは差し控えよう。すでに述べた通り、個々の意見についてではなくて、基本的な姿勢についてだけ、ラッセルを語ろうと考えたからである。かつてラッセルが予防戦争を唱えた、などという完全に事実を倒錯させたようなデマが、わが国ではかなり流布されていることを最近改めて知ったわたしは、マスコミの発達した現代の困難を感じるとともに、ささやかながらこの訳書が、多少なりともその困難を減ずる方向に役立つことを願って結びとしたい。

 過ぐる年餘の間、直接間接にこの訳業の開始、進行を励まされた知友の方々に、心より謝意を感じつつ。
 1955年12月31日 市井三郎