バートランド・ラッセルのポータルサイト

バートランド・ラッセル『西洋哲学史』まえがき

* 出典:バートランド・ラッセル『西洋哲学史-古代より現代にいたる政治的・社会的諸条件との関連における哲学史』(みすず書房,1961年1月,831+xxxiipp./改版:1969年10月,831+xxxiipp.)
* 原著:A History of Western Philosophy, 1945

原著者(ラッセル)まえがき


Preface by Bertrand Russell

 もし本書が,みずからに値する厳しい叱責以上の非難から逃れるべきだとすれば,ここでひとこと,お詫びと釈明とをしておく必要があろう。お詫びは,さまざまな学派や個々の哲学者に関する専門家に対して,申し述べるべきであろう。おそらくライプニッツは例外となろうが,わたしが本書でとり扱う哲学者のすべてについて,それぞれわたしより,よりよく知っている方々がおられるのだ。〔訳注:ライプニッツについては,原著者ラッセルは1900年に,非常に優れた研究書を公刊しているのである。〕しかしながら,広範な分野を包括する書物も書かれねばならないとすれば,しょせんわれわれは不死ではないのだから,そのような大著をものするひとは,そのどの一部分についても,一哲人あるいは短かい一時期に専念して研究するひとよりも,少ない時間しかさけないことが不可避となる。学者的厳しさがどうしても曲げられぬ,といったようなひとびとは,次のように結論することでもあろう。すなわち,広範な分野を包括するような書物はぜんぜん書いてはいけないとか,あるいはどうしても書くというのなら,多数の著者がそれぞれ専門の論文を書いて,それを集めたものにしなければならない,といった結論である。しかしながら,多数の著者が協同作業をする場合には,何物かが失われてしまうものだ。もし歴史の運動に統一といったものが存在するとすれば,また先行するものと後行するものとの間に近密な関係が存在するものだとすれば,それを主張するためには,先行する時代と後行する時代とを唯1人の人間の頭で総合する,ということが必要になってくる。ルソー研究家は,ルソーがプラトンやプルタルコスのスパルタとどのような関連をもっていたか,という点を正当に評価するのを困難に感じるだろうし,またスパルタの歴史家は,予言者のようにホッブスやフィヒテやレーニンを予感する,といったことはできないであろう。このような関係を考え出すことが,本書の目的の1つであり,これは,広範な調査のみが成就しうる目的なのである。(右イラスト:1985年3月31日,松下宅で開催された第55回「ラッセルを読む会」の案内状から)
 多数の哲学史が書かれてはきたが,わたしの知る限りでは,そのいずれも,わたしが目指す通りの目的をもっているとはいえない。哲学者は,結果であるとともに原因である。すなわち哲学者は,その社会的環境やその時代の政治,制度の結果であり,また(もし哲学者が幸運に恵まれれば)後世の政治や制度を形成してゆく諸信念の原因となる。たいていの哲学史では,哲学者のおのおのは真空地帯に立ち現われる。哲学者の意見というものは,たかだか先行する哲学者の意見と関連づけられる以外は,まったく他のものと無関係に述べられてゆく。それに反してわたしは,真実の許す限り,それぞれの哲学者を次のようなものとして呈示する努力をした。すなわち,各人の環境の所産として,また各人の属する社会というものに,アイマイに拡散した形態で共通している思想や感情が,そのひとの中に集中し結晶したのだというような人間として,哲学者を呈示しようと努めたのである。
[(上記の松下試訳) 多くの哲学史が執筆され存在しているが,私の知る限り,そのいずれも,私が自分に課した目的をもっているとは言えない。哲学者は,結果であるとともに原因である。すなわち哲学者は,彼らが生きた時代の社会的環境及び政治や制度の結果であり,また(もし哲学者が幸運に恵まれれば)後世の政治や制度を形成してゆく諸信念の原因となる。大部分の哲学史においては,個々の哲学者は,真空地帯に現われる。各哲学者の意見は,せいぜい先行する哲学者の意見と関連づけられる以外は,まったく他のもの(社会環境その他)と無関係に著者によって述べられてゆく。それに反して,私は,真実の許す限り,各哲学者を彼らが置かれた環境の所産として提示するように試みた。また各人の属する社会というものに,アイマイに拡散した形態で共通している思想や感情が集中し結晶したところの人間として,哲学者を呈示しようと努めた(のである)。]

 そのためには,まったくの社会史であるような諸章を,ところどころに挿入する必要があった。ヘレニズムの時代について若干知ることなしに,ストア学派やエピクロス学派を理解しようとしたり,5世紀から13世紀にいたる教会の成長をぜんぜん諒解せずに,スコラ学派を理解するようなことは誰にもできない。したがってわたしは,哲学思想にもっとも大きい影響があったとわたしの考える主要な歴史の外郭の諸部分を,簡単に述べることとした。そしてその歴史が若干の読者にとってよく知られてはいないと考えられる場合,例えば中世の初期といった時代の場合には,かなり詳細に歴史叙述をやった。しかしそのような諸章では,当時あるいは次後の哲学にほとんどあるいはまったく関連をもたないように思える事柄は,えしゃくせずに省略することとした。
 本書のような書物にあっては,選択の問題は非常に難しいものとなる。詳細に述べなければ,それは不毛で無味乾燥なものとなり,詳細に述べてゆくと,たまらないほど長たらしいものとなる危険がある。わたくしは,自分にきわめて重要だと思える哲学者のみを扱い,彼らに関連して,根本的な重要さをもつとはいえなくても,例解的あるいは描写を活き活きとさせるような意味で価値のある詳細だけを付加することにして,1つの妥協を求めたのである。
 哲学は,それがおこなわれた最古の時代から,単なる諸学派が関心を示す事柄ではなく,またひとにぎりの学者たちが論争しあう事柄でもなかった。哲学は,社会生活の統合的な一部だったのであり,そのようなものとしての哲学を,わたしは考察しようと努めたのである。

 もし本書になんらかの長所があるとすれば,それはこの観点からひき出されたものであろう。本書が成立するにいたったのは,アルバート・C.バーンズ博士のおかげである。すなわち本書は,もともとペンシルヴェニアのバーンズ財団(Barnes Foundation)における講義として企画され,また一部は実際に講義されたものなのである。
 1932年以降におけるわたしの大部分の仕事がそうであるように,本書においてもわたしは,調査研究やその他多くの点において,妻パトリシア・ラッセルに大きい援助を受けた。
 


A FEW words of apology and explanation are called for if this book is to escape even more severe censure than it doubtless deserves.
Apology is due to the specialists on various schools and individual philosophers. With the possible exception of Leibniz, every philosopher of whom I treat is better known to some others than to me. If, however, books covering a wide field are to be written at all, it is inevitable, since we are not immortal, that those who write such books should spend less time on any one part than can be spent by a man who concentrates on a single author or a brief period. Some, whose scholarly austerity is unbending, will conclude that books covering a wide field should not be written at all, or, if written, should consist of monographs by a multitude of authors. There is, however, something lost when many authors co-operate. If there is any unity in the movement of history, if there is any intimate relation between what goes before and what comes later, it is necessary, for setting this forth, that earlier and later periods should be synthesized in a single mind. The student of Rousseau may have difficulty in doing justice to his connection with the Sparta of Plato and Plutarch; the historian of Sparta may not be prophetically conscious of Hobbes and Fichte and Lenin. To bring out such relations is one of the purposes of this book, and it is a purpose which only a wide survey can fulfil.
There are many histories of philosophy, but none of them, so far as I know, has quite the purpose that I have set myself. Philosophers are both effects and causes: effects of their social circumstances and of the politics and institutions of their time; causes (if they are fortunate) of beliefs which mould the politics and institutions of later ages. In most histories of philosophy, each philosopher appears as in a vacuum; his opinions are set forth unrelated except, at most, to those of earlier philosophers. I have tried, on the contrary, to exhibit each philosopher, as far as truth permits, as an outcome of his milieu, a man in whom were crystallized and concentrated thoughts and feelings which, in a vague and diffused form, were common to the community of which he was a part.
This has required the insertion of certain chapters of purely social history. No one can understand the Stoics and Epicureans without some knowledge of the Hellenistic age, or the scholastics without a modicum of understanding of the growth of the Church from the fifth to the thirteenth centuries. I have therefore set forth briefly those parts of the main historical outlines that seemed to me to have had most influence on philosophical thought, and I have done this with most fullness where the history may be expected to be unfamiliar to some readers- for example, in regard to the early Middle Ages.  But in these historical chapters I have rigidly excluded whatever seemed to have little or no bearing on contemporary or subsequent philosophy.
The problem of selection, in such a book as the present, is very difficult. Without detail, a book becomes jejune and uninteresting; with detail, it is in danger of becoming intolerably lengthy. I have sought a compromise, by treating only those philosophers who seem to me to have considerable importance, and mentioning, in connection with them, such details as, even if not of fundamental importance, have value on account of some illustrative or vivifying quality.
Philosophy, from the earliest times, has been not merely an affair of the schools, or of disputation between a handful of learned men. It has been an integral part of the life of the community, and as such I have tried to consider it. If there is any merit in this book, it is from this point of view that it is derived.

This book owes its existence to Dr Albert C. Barnes, having been originally designed and partly delivered as lectures at the Barnes Foundation in Pennsylvania.
As in most of my work during the years since 1932, I have been greatly assisted in research and in many other ways by my wife, Patricia Russell.

の画像
enlarge(拡大する!)