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塩野谷祐一「(バートランド・ラッセル) 怠惰礼賛(平凡社ライブラリ版解説)」

* 出典:バートランド・ラッセル(著),堀秀彦・柿村峻(共訳)『怠惰への讃歌』(平凡社,2009年8月刊。271pp. 平凡社ライブラリn.676)
* 『季刊家計経済研究』2005年 Autumn 号 掲載のものに加筆したもの
* 原著:In Praise of Idleness, and Other Essays, 1935.
* 塩野谷祐一(しおのや・ゆういち、1932年1月2日~2015.8.25):愛知県豊橋市生まれの経済学者、一橋大学名誉教授(1989~1992 まで学長)、2002年文化功労者。シュンペーター研究の第一人者

目次


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 現代の先進諸国はすでに未曾有の経済的繁栄を達成しており、われわれは何のために豊かさを追求しているのかを改めて問い直し、経済成長の軌道修正を図ることを迫られている。しかし、人々は依然として所得増大のためにあくせくと働くことに明け暮れている。しかも、驚異的な所得の増大にもかかわらず、人々は幸福が増大したとは感じていない。
 バートランド・ラッセル(1872~1970)はイギリスの著名な分析哲学者であるが、同時に経済・社会・政治問題について鋭い発言をする評論家でもあった。本訳書に収められた 「怠惰への讃歌」(1932年)というエッセー(松下注:In Praise of Idleness and Other Essays, 1935 に収録され、書名に採用された主エッセイ)は、成長至上主義がもたらす非人間的な結果を予見し、人々の考え方の転換を説いたものであって、傾聴に値する。
 同じ考え方に属するものとして、同じころ、経済学者のジョン・メイナード・ケインズ(1883~1946)が「われわれの孫たちの経済的可能性」(1930年)というエッセーを書いている。ラッセルとケインズはケンブリツジ大学での友人であり、この種の問題を互いに論じ合ったのかもしれない。当時、ケインズは世界的な経済不況の分析と対策に没頭していたが、このエッセーでは百年先に思いを馳せ、そのころになれば経済問題は解決され閑暇と豊かさの時代が到来するだろうと論じた。これだけならば、たいした議論ではない。 彼が言おうとしたのは、人類にとってまったく新しい閑暇の時代においては、われわれが長い貧乏の時代に教え込まれてきた道徳や習慣や考え方の根本的な変革に迫られるということであった。人間は経済問題を解決した暁に、初めて本当の人間らしい問題に直面するのである。その問題とは、経済的動機に基づく労働の必要から解放されたとき、その自由と余暇を何に向けるのか、賢明に快適に上品に生きるためにはどうしたらいいのか、ということである。
 ラッセルは、現代世界における害悪の多くは「労働を徳とみなす考え方」によるものであり、幸福と繁栄への道は、労働時間を組織的に減らすことであると主張する。たしかに、産業革命以後の技術革新によって、先進諸国では労働生産性は飛躍的に増大し、労働時間も確実に減少した。その結果、人々の生活水準は向上し、人々が飢餓水準をさまようことはなくなった。
 ところが、人々は「労働を徳とみなす価値観」にとらわれたままでいる。所得が'生存を保障'するに足る水準を十分に超えている場合、その余剰は閑暇として人々に広く配分されなければならない。しかし、資本主義制度の下では、余剰は禁欲を通じて貯蓄となり、それが設備投資に向けられ、所得のいっそうの再生産に当てられる。この制度では、余剰としての利潤を生む活動が望ましいものとみなされている。
 それに対して、労働が価値を持つのは、働くことが良いことであるからではなく、それによってもたらされるはずの閑暇が、本来の人間的な活動を可能にするからであると考えるべきではないか、とラッセルは言う。閑暇は、かつては支配階級や特権階級のみが享受できるものであった。経済発展のおかげで、今やそれは万人に可能なはずである。ラッセルの「怠惰のすすめ」とは、労働時間を減らし、閑暇を遊びと思索に当てることである。彼は言う。「労働の道徳」は「奴隷の道徳」であり、もはや奴隷労働は必要ではない、と。彼の提案は一日四時間労働であった。閑暇をいかに賢明に使うかは文明と教育に依存する。これまでの人類の歴史において、学問や芸術や思想といった人類の遺産とも言うべき文明を生み出したものは、これらのものの創造に従事できる人々の閑暇であった。しかし、閑暇そのものは必ずしも文明を生まない。
 ラッセル自身、名門の貴族の家系に生まれたが、イギリスの世襲的な有閑階級は'狐狩り'のほかに知的な活動を知らないと酷評する。閑暇を知的に使うセンスを養うためには、教育が必要である。学校(school)という言葉の語源はギリシヤ語のスコーレであり、その意朱は閑暇(leisure)である。学校で学ぶということは、労働でなく閑暇を意味する。そして学校は本来、労働のための技術を学ぶところではなく、「閑暇のあり方」を学ぶところである。大学で学ぶことはないと豪語して、金儲けの世界に飛び込んだ若者がいたが、金銭欲以外に人間的生活のセンスを学ぶことを知らなかった'不幸な人間'である。アメリカ式のビジネス・スクールが尊敬を集めているが、「忙しい」と「閑暇」とを結びつけたこの撞着語法はブラック・ユーモアと言えよう。
 それでは、労働すること以外の「人間らしい生活」とは何か。ケインズが提起した問題はこのことであった。ラッセルは「道徳的基準と社会的幸福」(1923年)という別のエッセーにおいて、いっそう体系的な議論をしている。これも上掲のエッセーと同じように、産業社会の前途に警鐘を鳴らし、社会の別のあり方のための道徳的基準を提起したものである。彼はその基準を「」ないし「卓越」と呼び、次の四つの要素を挙げている。(1)本能的幸福、(2)友情、(3)美の鑑賞と創造、(4)知識愛
 第一の「本能的ないし原始的幸福」とは、経済発展の過程において新しい財・サービスが開発され、新しい欲求が満たされていくのとは異なって、原始的な生活において容易に充足された人間の本来的なニーズである。健康な気分、田園や海浜の匂い、時折の静寂と孤独、興奮と静穏、土の上を裸足で歩くときの感覚、総じて言えば、人生に対する喜び--こういったものは、工業化と文明化によって近代人の生活環境から失われてしまった。今日でも、少数の特権階級はこの種の幸福を高価なレジャーによって享受できる。ラッセルはこれを万人に保障することによって、産業化の被害をできるだけ食い止めるべきだと言う。これは、ルソーが文明人の「徳なき名誉、知恵なき理性、幸福なき快楽」の欺瞞をあばき、「未開人」の高貴さを謳い上げたことを想起させる。
 第二の徳として挙げられた「友情や愛情」は、憎悪や羨望とは逆のものである。見知らぬ人々の間にも友情が芽生えるためには、正義が社会を支配していなければならない。正義の制度が行われる限り、社会的弱者といえども、社会的不平等を受け入れることができるだろう。物質的進歩や効率や競争の追求が人々の間に格差を作り出し、これが近代社会における最大の対立の源となっている。ラッセルが「怠惰のすすめ」を提案するのは、とりわけこの種の社会的対立を避けるためである。経済的繁栄の成果は、格差の緩和という形で使うことができるだろう。
 第三の「美の鑑賞と創造」については、多言を要しない。ラッセルは産業化が生活の全領域を覆い、美を破壊し、醜悪なものを生み出していることを強調する。その原因は、産業化が絶えず新しいものを追い求め、「イノベーションを善とする競争的な商業主義」を基礎としていることにある。経済発展は自然を破壊し、その代わりに醜悪な工場とコンクリートの市街を作り上げた。工業化は美の創造とは相容れない。経済と美とは価値基準を異にするからである。芸術がそれ自身の基準を維持し、芸術的創造力を保つためには、社会が生産活動に最高の価値を置くことを止めなければならない。そして、生産をこれ以上重視する必要のない時代がまさに到来したのである。

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 最後に、第四の「知識のあり方」もまた危機にある。たしかに、産業革命以来、科学技術は飛躍的な発展を遂げ、経済成長の原動力となった。しかし、基礎科学や純粋科学よりも、応用科学における成果を重視する実用主義の考え方は、核兵器や環境破壊を含む非人間的な帰結をもたらしたばかりでなく、科学自身の潜在可能性を圧殺している。そして、人間と社会を対象とする人文科学や社会科学はまったく軽視されている。人文・社会科学は、科学技術が奉仕すべき人間的目的のあり方と、そのための社会的仕組みを論ずる学問である。

 以上のような論点を通じて、ラッセルは、現代産業社会の制度や慣行や思考は「卓越したもの」を破壊してきたと言う。「卓越」が生き残るためには、われわれは'功利と進歩に狂奔'することを止め、代わりにもっと「怠惰と正義」を重視しなければならないと言う。一八世紀半ばにイギリスで産業革命が起こり、'利己心'を原動力とする産業社会が世界を席捲し始めたときから、こうしたものの根底にある啓蒙主義・功利主義・合理主義の思想に対して、多元的な人間価値を強調するロマン主義の立場から批判が絶えず繰り返されてきた。ラッセルやケインズの議論がそれと違うのは、経済発展を頭から否定するのでなく、経済発展が豊かさという点で一応の成果を挙げた段階においては、経済活動の目標として「人間らしい生き方の選択」があってしかるべきだと言うのである。
 さて、「怠惰」を「ゆとり」という言葉で置き換えてみれば、'怠惰礼讃'はさほど異様ではない。成長至上主義への反省から、人間的生き方を問うことは、望ましい社会像を描く上できわめて重要な公共的討議のテーマである。

 日本の国にかかわるいくつかの応用問題を取り上げてみよう。第一に、いわゆる「ゆとり教育」がもたらしたとされる「学力低下」を前にして、直ちに朝令暮改が行われたのは滑稽である。「学力低下」を指摘する人々は、有用な知識という実用主義の基準に立っており、授業時間が減れば学習内容が減るという平凡な議論しかしていない。他方、「ゆとり教育」の推進者は、それを論破するだけの確固とした「卓越」と「怠惰」の哲学を持っていない。経済問題が解決されたという有史以来の事態にありながら、何のための知識か、何を教えるべきかを問うことがない。
 私は、「ゆとり教育」とは学習時間の問題ではなく、専門教育に対して教養教育に重点を置くものと考える。教養教育は、昔の大学の文学部の教科目であった「哲・史・文」(すなわち、哲学・歴史・文学)をいう。「哲・史・文」の最大のメリットは、断片的な専門知識の切り売りをするのではなく、「理性・感情・意志」を持った生身の人間が倫理・歴史・文芸の中でとらえられていることである。小学、中学、高校においても、「哲・史・文」に相当する初歩の知識は十分に考えられる。
 第二に、「少子化」は、一般に言われているように、女性の社会参加によって結婚や出産が阻害されたからであるというよりも、人間的な本能的幸福すら許容しない労働至上主義の結果である。女性の社会参加は、経済発展の成果として人権の拡張を意味する。社会がこの成果を享受するためには、それを制度の中に定着させなければならない。両性が働くのであれば、むしろ社会全体として労働時間の短縮が可能になり、両性にとって「ゆとり」ある生活が可能になるはずではないか。ところが、経済的繁栄の下で可能になった女性の社会参加が伝統的な労働道徳と結びついた結果、閑暇はもちろんのこと、出産さえ社会から奪われてしまったのである。
 第三に、いわゆる「フリーターやニート」と呼ばれる若者の増加を批判的に問題視する風潮がある。会社に就職するのを当たり前のこととするのでなく、自分に相応しい仕事を見出そうとする若者が増えている。彼らを就業意欲がないといって批判することは、ラッセル的「怠惰」を求める新しいタイプの人間を再び産業社会の道徳によって断罪することに他ならない。「百年に一度と言われる世界的大不況」の中で、意図せざる不完全・非正規労働が生じているのは事実である。失業と貧困の増大はたしかに重大事である。しかし、不況による失業の事実とフリーターの理念とを混同してはならない。不況下の首切りの事態は、未曾有の経済的繁栄にもかかわらず、経済成長の果実をゆとりと閑暇という形で定着させてこなかった。経済システムの非先見性があらわになったものではないか。
 技術進歩によって労働生産性が二倍になったとすると、労働時間を半分に減らすことができるはずである。その半分の時間でかなり快適な生活ができるにもかかわらず、働くことを'正常'とみなす社会では、需要が増えない限り、過剰な労働は失業とみなされてしまい、社会は再び不必要な仕事を作り出さなければならなくなるのだ
 第四に、最も悲惨な問題に注目しなければならないのは残念である。それは「過労死」である。ラッセルは牧歌的なテーマの取り上げ方をしているが、産業社会を極限まで押し進めるならば、その果てには絶望の世界があることを鋭く予見したのではないか。この国では、経済発展の成果を閑暇という形で刈り入れるどころか、'働き過ぎ'によって死を招くようなことが日常的に起こっているのだ。労働を美徳とする'えせ道徳の帰結'が、過労による病死や自殺であった。われわれは華やいだ「怠惰への讃歌」の代わりに、なお「過労への挽歌」を歌い続けなけれぼならないのだろうか。(しおのやゆういち/経済哲学)